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「小山田二郎展」:アダムとイブ

「小山田二郎展」:アダムとイブ

■小山田二郎の「アダムとイブ」(水彩)
「生誕100年小山田二郎展」の会場で「アダムとイブ」(水彩、1956年制作)を見て、驚きました。これが、アダムとイブなのか・・・、という驚愕です。唖然とし、思わず、タイトルを見返したほどでした。

おそらく、闇を示しているのでしょう、暗いモスグリーンをベースとした背景に、馬のように見えるし、鳥にも見える得体のしれない頭部を持つヒトが二人立っています(立っているのだから、ヒトでしょう、という認識です)。手足、胴体は細く、ほとんど骨と皮だけのように見えます。

こちら →FullSizeRender (2)

カタログを撮影したのですが、うまく撮れませんでした。

二人は向き合い、両手を握り合っています。水彩なので色が滲み、全般に曖昧模糊としています。そこで、小山田二郎は肩から腕、腕から手にかけての骨を白ではっきりと描いています。まるで骨の標本のような二人が両手を握り合っているのです。左上の木から蛇が二人を見下ろし、右下の木の幹に巻きついた蛇も舌をだして二人に絡もうとしています。地面には青く着彩されたリンゴが落ちており、モチーフの道具立てからみれば、まさにアダムとイブなのです。

彼はなぜ、アダムとイブをこのような絵柄で描いたのでしょうか。

■モチーフとしての「アダムとイブ」
「アダムとイブ」はこれまで、聖書に出てくる重要な物語としてさまざまに描かれてきました。

たとえば、こんな作品があります。

こちら →
http://www.emimatsui.com/arthistory/north/img/cranach05.jpg

これは1533年に制作されたルーカス・クラナッハという宮廷画家の作品です。

アダムとイブを扱った多くの作品では、蛇、リンゴ(果実)、アダム、イブなどの典型的なモチーフを使って絵を構成し、聖書の中の物語を再現しています。中にはクラナッハの絵のように獰猛な動物が配されて、楽園を追われた二人が今後、地上で多難な生活を強いられることが示唆されているものもあります。

クラナッハの絵ではアダムとイブは肩を寄せ合っていますが、二人が手を取り合っている構図もよく見られます。いずれもその手にはリンゴ(知恵の果実)が握られており、知恵を出し合って困難を乗り切っていこうとするアダムとイブの姿勢を見ることができます。

小山田二郎の「アダムとイブ」もこれらのモチーフを使っているのですが、なにか本質的な部分で異なっているように思えるのです。たとえば、リンゴは彼らの手にはなく、地面に落ちています。二人は両手を握り合っていますから、リンゴを握る余裕がなかったのでしょうが、リンゴよりもむしろ二人の協同こそが重要だと言おうとしているかのように思えます。

小山田二郎は、アダムとイブが向き合って、両手を握り合っているという構図にしました。しかも、背丈と顔の大きさこそアダムとイブとで多少の差をつけていますが、身体はほぼ同じぐらい細く描いています。ですから、二人はほぼ対等の関係に見えます。また、二人は両手を握り合っていますが、彼はそれを肩から腕、腕から手のラインの骨格だけを白ではっきりと浮き彫りにする恰好で描いています。身体性を限りなく希薄化しているように見えます。

彼らは相手を直視し、なにかを言い合っているように見えます。イブは眼を見据え、口を大きく開けていますが、アダムの眼はやや垂れ下がって描かれ、口もそれほど大きく開けていません。ですから、イブが一方的に何かをまくしたてているように見えます。小山田二郎はこれまでの絵のように、アダムがイブを庇護する、あるいは、イブがアダムに嬌態を示すといったような描き方をしていないのです。ここに男女の関係についての彼の認識が示されているのかもしれません。

■小山田二郎の「アダムとイブ」(油彩)
今回の展覧会で展示されていませんでしたが、実は小山田二郎は1956年に油彩でも「アダムをイブ」(162×112㎝)を制作しています。この絵は水彩の「アダムとイブ」と違って、身体部分はよりリアルに描かれています。

こちら →http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=173603&edaban=1

この絵は、二人の間に樹木を配し、アダムとイブは向き合う恰好で描かれています。蛇は見当たらないのですが、アダムが真っ赤なリンゴを手にしています。そして、アダムの腰には葉っぱではなく布が巻き付けられており、イブも布のようなもので前を覆っています。楽園を追われたばかりの二人ですが、すでに羞恥心はあったようです。文明の痕跡をさりげなく描かき込んでいるのです。

二人の姿勢を見ると、向き合っているように見えるのですが、顔がどこを向いているのかわからないので、落ち着きません。そもそもこれが顔といえるのかどうか、判断がつかないのです。首の上に載せられているのでおそらく顔でしょう、という程度の認識です。顔に必須の眼鼻口が描かれていませんから、どちらを向いているのかわかりませんし、二人の関係を示唆するメッセージが見つからないのです。

人体の中で顔や頭部が示す要素を彼が敢えて否定していたのだとすれば、リアルに描かれた身体に注目すべきなのかもしれません。

アダムの上半身やふくらはぎにはしっかりと筋肉が描きこまれ、頑健な身体であることが示されています。イブもまた、胸と腹部が肉付きよく描かれ、「産む性」としての役割が強調されています。

■油彩と水彩の「アダムとイブ」が示すもの
小山田二郎はなぜ1956年に、「アダムとイブ」を油彩と水彩で二作品も制作したのでしょうか。いずれの作品も1956年制作としか記されていないので、どちらが先に描かれたのかわからないのですが、小山田二郎にとってはなんらかの必然性があったことは確かでしょう。

あらためて油彩で描かれた作品を見ると、アダムにしてもイブにしても身体性が強調されて描かれているのが印象に残ります。そして、知恵の果実とされるリンゴはアダムが持っており、イブの身体には「産む性」としての要素が刻印されています。二人は手を握り合っているわけではなく、寄り添っているわけでもなく、ただ、向き合って立っているだけです。何らかの関係があるというよりはただの性の対象として存在しているように描かれています。さらに、顔や頭部を示す部位からは意味が読み取れませんから、二人の関係から精神性がすっぽりと否定されているように見えます。

一方、水彩で描かれた作品を見ると、身体性は限りなく希薄化されており、精神性が強調されています。イブの口は大きく開けて描かれ、アダムも口を開けています。つまり、言葉でのやり取りが二人の間にはあることが示唆されています。ここでは知恵の実であるリンゴは地上に落ちており、二人は両手を握り合っています。言葉という知性の道具を駆使して二人が協同すれば、楽園を追われたからといって生きていけないわけがないとでもいっているように思えます。

水彩で描かれた「アダムとイブ」の方に、私は好ましい印象を抱きました。水彩という方法がこれほど柔らかく、深く、そして洗練された表現が可能なのか・・・、新しい発見をしたような気がします。白を巧みに配した色使いといい、斬新な構図といい、小山田二郎の繊細さが随所に活きているように思えます。

表現の巧みさはもちろんのこと、この絵に込められたメッセージが素晴らしいと思いました。この絵のモチーフは聖書由来のものですから当然、古いのですが、実に新しい男女関係を示唆しているのです。楽園を追われた二人ですが、知性を携え、協同すれば、どのような苦難も乗り越えられるというポジティブなメッセージがこの絵でしっかりと謳い上げられているのです。(2015/2/14 香取淳子)

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