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篠原愛「サンクチュアリ」展に見るセクシュアリティ

篠原愛「サンクチュアリ」展に見るセクシュアリティ

■篠原愛「サンクチュアリ」展の開催
 ギャラリーモモ両国で、篠原愛「サンクチュアリ」展が開催されました。期間は2017年3月11日から4月8日までです。

 実は、個展開催の案内ハガキを受け取ったときから、ぜひ、実物を見てみたいと思っていました。ハガキに掲載された作品が妙に気になっていたのです。ぜひとも見たいと思っていながら、なかなか時間の都合をつけられず、ようやく訪れることができたのが、終了日の前日、4月7日でした。

 気になっていた絵は、画廊に入ってすぐ左の壁面に展示されていました。実物を見ると、あらためて、この絵の得体の知れなさに戸惑います。ハガキと違って実物はサイズが大きいだけに、ことさら、異空間に迷い込んだような、不安な気持ちにさせられてしまうのです。

 会場で展示されていた作品にはどれも、私がこれまで見たことのない、独特の光景が描出されていました。描写力が抜きんでて巧みで、強い訴求力があります。それなのに、なぜか、素直に作品世界に入っていくことができない・・・、もどかしさを感じてしまいます。

 いったい、なぜなのか。まずは作品を見ていくことにしましょう。

■月魚
 ハガキに掲載されていた作品のタイトルは、「月魚」です。

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(油彩、綿布、パネル、50.0×72.7㎝、2016年。クリックすると、図が拡大されます。)

 この絵でまず目につくのは、白い大きな魚と横顔を見せた少女の裸体です。それらのモチーフを包み込むように、蓮の葉と花が配置されています。無数の蓮の葉が穴の開いた状態で、画面の下方一帯を覆い尽くし、画面の左右には、鮮やかなピンク色の蓮の花が大小取り混ぜ5輪、描かれています。

 モチーフの取り合わせがなんとも奇妙です。さらにいえば、モチーフの取り合わせが奇妙なら、それらを捉える構図もまた奇妙です。作者はこのモチーフと構図に、どのようなメッセージを込めようとしていたのでしょうか。

 それでは、このモチーフと構図にフォーカスし、見てみることにしましょう。

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(クリックすると、図が拡大されます。)
 
 大きな魚の腹部の辺りに、少女の横顔が見えます。両手を直角に曲げ、頭部を守る防御の姿勢を取っています。一方の手は魚のヒレを掴み、まるで大きな魚に抵抗しているかのようです。そして、もう一方の手の指先は赤く染まっています。抗ったときに噴き出た血液なのでしょう。少女の頭上には、魚の引きちぎれたヒレが垂れており、その一部もまた赤くなっています。

 さらに、この魚は大きく口を開け、近くを泳いでいる小さな魚にいまにも食いつこうとしています。よく見ると、小さな魚の腹部からは血が流れ落ちていますし、骨だけになった部分もあります。すでに食いちぎられた後なのでしょう。深海魚のように獰猛な、この魚の表情が不気味です。

 再度、この絵の全体画面に戻ってみると、大きな魚は引きちぎられたヒレで、少女の頭を抑えつけています。そのまま視線を移動させていくと、裸体の少女が魚と溶け合っているのがわかります。少女は背後から抱きかかえられるような姿勢で、魚と合体しているのです。
 
 少女の肌は透き通るように白く、ピンクがかった美しい色が純心と無垢を表しているようです。ところが、その肌に、腕といわず、腿といわず、脛といわず、無残にも魚の鱗が生えてきています。それだけではありません。一方の足先からはすでに尾ヒレが出ています。魚に襲われた少女が少しずつ、魚の一部になり始めているのがわかります。

 少女は諦めきったような、悲しげな表情で、一点を見つめています。まるでレイプされた後の放心状態のようにも見えます。私が案内ハガキで見て、この絵に気になるものを感じたのはおそらく、この点でしょう。篠原氏は、卓越した精緻なタッチで、アブノーマルなセクシュアリティを描いていたのです。

■サンクチュアリ
 さて、この個展のタイトルは「サンクチュアリ」ですが、同名の作品が広い壁面に展示されていました。

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(油彩、綿布、パネル、97×260.6㎝、2016年。クリックすると、図が拡大されます。)

 こちらもまた異様な光景です。3人の少女が木に身を寄せ、腰を下ろしています。彼女たちを取り囲むように、白いウミヘビが枝に巻き付き、とぐろを巻いています。いまにも少女に襲いかかろうとしているウミヘビもいます。

 中央部分に焦点を当てて見ることにしましょう。

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(クリックすると、図が拡大されます。)

 3人のうち中央に位置する少女は、白いヘビの胴体や頭部に埋もれ、ほとんど顔しか見えません。その少女を、獰猛な表情のウミヘビが羽交い絞めにしてるようにみえます。さらに、少女の頭上からは別のウミヘビが襲い掛かろうとしています。いずれも口周辺に生えたヒゲは硬くて鋭利、そして、背ビレは先が尖っており、襲撃のための武器のようにも見えます。このようなウミヘビからは、当然のことながら、凶暴なイメージを抱かざるをえません。

 ところが、そのようなウミヘビに囲まれていながら、3人の少女の誰一人として、その表情に恐怖心は見られません。もちろん、悲壮感もありません。もっとも危険な位置にいる少女でさえ、むしろ、あどけない表情を見せています。ですから、少女と獰猛なウミヘビとが不思議なほど和気あいあいと、親交を温めているように見えるのです。

 描かれた光景が喚起するイメージと、メインモチーフの表情とがリンクしていないのです。おそらくその点に、私は違和感を覚えたのでしょう。そこで、この絵を読み解くカギは何かと思いを巡らせているうち、ふと、記憶の底から、「白蛇伝」が浮かび上がってきました。

 ひょっとしたら、この絵は「白蛇伝」をベースにして描かれたものではないでしょうか。そう思って、あらためてこの絵を見ると、大きな白いヘビが自由に泳ぎ回っています。その傍らで、少女たちは安心しきった表情で、のんびりと大きな木にもたれかかったり、腰かけたりしています。そして、足元にはピンクの花が満開です。

 このように別の視点で見てくると、次第に、この絵は「白蛇伝」をベースにしたものだと思えてきました。そうだとすれば、少女は白いヘビの化身なのです。そして、おそらく、この画面で描かれた光景は、ヘビの化身(少女)が好きな男性(ヒト)の命をよみがえらせるため、命の花を届けようとして嵐に巻き込まれ、海に落ちてしまったときのシーンなのでしょう。

「白蛇伝」は中国の民間説話で、1958年には東映動画がアニメ映画として製作しました。現在、DVDで見ることができます。

 少女と白いウミヘビ、そして、満開のピンクの花というモチーフは一見、取り合わせに違和感があるように見えますが、これが中国の民間説話を踏まえて制作されたとするなら、納得できます。ただ、その場合もなぜ、3人の少女が描かれているのかを説明することはできません。

 もちろん、3人の少女を描いたのは、ただ単純に、絵の構造上、必要だっただけなのかもしれません。ヘビを描くためには横長の構図が必要で、それには少女を3人、描かなければ絵としての強度が保てなかったのでしょう。

 この絵と中国の民間説話と関連づけて解釈すれば、愛のためなら、どんな犠牲もいとわないというメッセージが込められているといえます。これは、時空を超えてヒトが共有できる一つのセクシュアリティです。

■森の中
 一連の展示作品の中で、もっとも危なげがないと思ったのが、「森の中」という作品でした。

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(油彩、綿布、パネル、91×116.7㎝、2016年。クリックすると、図が拡大されます。)

 この絵もやはり、違和感を完全にぬぐいきることはできませんが、異形の要素がこれまで見てきた作品よりは少なく、一般的な観客からは受け入れられやすいでしょう。とはいえ、この絵にも篠原氏はさり気なく、気になる仕掛けを施しています。

 それは、魚の体から立ち上る白い液体のようなものです。そこだけが混じりけのない白で描かれているので、いっそう目立ちます。そのために、この絵もまた、安易な解釈が妨げられ、依然として気になる箇所は残りますが、絵としてはむしろ、メルヘンの世界のようなやわらぎがあります。

 それでは、この絵のメインモチーフにフォーカスしてみましょう。

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(クリックすると、図が拡大されます。)

 魚の剥製のようなものをマントのように羽織ったヒト、背を向けていますが、おそらく男性なのでしょう。少女のごく近くに顔を寄せ、互いに目を見つめあっています。ですから、少年と少女が巨大な木々の根元に潜み、愛を交わしているように見えます。

 一見、違和感のある、魚の剥製のマントは、着用している男性の属する部族の表象なのかもしれません。だとすれば、この絵はトーテミズムを踏まえて、制作されているといえます。この絵にさほど違和感を持たなかったのは、トーテミズムについては多少、馴染みがあるからでしょう。

 もっとも、よく見ると、少女の表情にはちょっとした違和感を覚えます。近寄る少年(?)に対し、少女は目を見張り、やや驚いたような表情を見せているのです。この表情の持つ意味を重視すれば、二人の姿勢から受け取った印象と至近距離で見た少女の表情が与える印象とは明らかな乖離があるといえます。

 ひょっとしたら、この絵はトーテミズムの禁を犯そうとしているシーンを描いたものなのかもしれません。だとすれば、この絵もまた、時空を超えたセクシュアリティのタブーに踏み込んだものといえます。

■篠原愛「サンクチュアリ」展にみるセクシュアリティ 
 今回、展示作品の中から、「月魚」、「サンクチュアリ」「森の中」を紹介してきました。「月魚」では、少女と魚との一体化、「サンクチュアリ」では、ヘビの化身としての少女、そして、「森の中」ではトーテムとしての魚と少女の愛(?)が描かれています。

 展示作品はみな2016年に制作されたものでしたが、会場の奥にただ一つ、2009年から2011年にかけて制作された作品が展示されていました。

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(油彩、キャンバス、162×130㎝、2009-2011年。クリックすると、図が拡大されます。)

 タイトルは「女のコは何でできている?」という作品です。これを見ると、篠原氏の緻密な画法はずいぶん以前から確立されていたこと、女性の在り方についてしっかりとした問題意識を持たれていたこと、などがわかります。

 その延長線上で、今回、展示された一連の作品が生み出されたのでしょう。以前の作品と比べると、今回の作品は、人類史の文脈に比重を置いて、セクシュアリティを描こうとされているように思いました。

 そういえば、「月魚」を紹介する際、 書き忘れていたことがあります。それは、穴の開いた蓮の葉と華麗に開いた蓮の花についての解釈です。これらは一見、たいした意味があるわけでもない背景に過ぎないように思えますが、実はこの絵を考える際、看過できないモチーフとして挙げておく必要があるでしょう。

 「月魚」では、穴の開いた無数の蓮の葉と、華麗に花開いた蓮の花がサブモチーフとして描かれています。背景もそれにふさわしく、黒い濁った褐色の泥水です。蓮の花は泥の中で育つといわれますから、これらのサブモチーフと背景はリンクしています。

 そこで、この絵のメインモチーフ(大きな魚と少女)を振り返ってみると、大きな魚は少女を襲い、そして、小さな魚も食い殺しています。殺生を繰り返し、生きてきたのです。罪深い穢れた存在だといっていいでしょう。その大きな魚と小さな魚、そして、少女を包み込むものが、背景としての濁った泥水であり、穴の開いた蓮の葉、美しく花開いた蓮の花でした。ここに宗教性が感じられます。

 この絵を見ていると、セクシュアリティは暴力行為と結び付いたものである一方、生の根源であり、宗教的源泉でもあることが示唆されているように思います。

 「サンクチュアリ」展では、今回取り上げなかった作品を含め、いずれの作品にも、現代社会ではアブノーマルと位置付けられるセクシュアリティが含まれていました。そのせいか、見ていて、どこかしら違和感があり、それが契機となって、絵に含まれている意味を読み解きたいという衝動に駆られてしまいました。

 考えてみれば、そもそも「サンクチュアリ」(Sanctuary)という言葉自体、アブノーマル、あるいは反社会的行為と無縁ではありません。そういう点で、とても刺激的で、興味深い個展でした。(2017/4/12 香取淳子)

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