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カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ③:カイユボットの交友関係と第1回印象派展 

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ③:カイユボットの交友関係と第1回印象派展 

■カイユボットの交友関係

 カイユボットは画家になりたての頃、同窓だったジャン・ベローや、ミロメニル通りの近くに住んでいたアンリ・ルアール(Henri Rouart,1833 – 1912)と交流していました。ルアールはカイユボットより15歳も年長でしたが、近所に住んでいたので、親交を深めていたのでしょう。

 一方、ルアールは、ドガ(Edgar Degas, 1834 – 1917)とはリセのクラスメートでした。リセを卒業すると、ルアールはエコール・ポリテクニークに進んでエンジニアとして働き、実業家になりましたが、ドガはエコール・デ・ボザールに進み、画家としてキャリアを築いています。進路は違っても、二人は生涯の友人でした。

 ドガがルアールを描いた作品があります。

●《工場の前のルアール》(Henri Rouart in Front of His Factory)

 経営する工場を背後に佇むルアールの上半身が描かれている作品です。

(油彩、カンヴァス、65×50㎝、1875年、カーネギー美術館蔵)

 まず、目に入るのがルアールの横顔です。シルクハットを被って、顎髭をたくわえ、いかにも実業家然としています。この時、ルアールは41歳、脂の乗った年齢です。なにか難題でも抱え込んでいたのでしょうか、一点を見つめ、身じろぎもせずに佇んでいる姿が印象的です。深刻な表情が気になります。

 工場につづく背後の道路、その脇の木立はすべて、黒褐色の濃淡で描かれています。手前から三分の二までの画面が暗い色調で覆われているのです。空さえもどんよりと曇り、まるでルアールの心情を反映させているかのようです。

 暗い画面の上部を横断するように、工場が描かれています。白い壁、赤い屋根の上に、淡いベージュ色の高い煙突がそびえるように立っています。画面が暗いだけに、工場の明るさが際立って見えます。その近代的な明るさが、産業化の象徴のように感じられます。

 稼働している工場は明るく描かれ、それ以外は暗い色調でまとめられています。画面の大部分を暗く描き、工場だけを明るく描いた色構成が、明暗のコントラストを強め、ルアールの苦悩を強調しているように思えます。そこにドガのこの作品に込めた表現意図が感じられるのです。ルアールの実業家としての一側面を、色彩の面からドガは見事に描ききったといえるでしょう。

 一方、ルアールの立ち姿は、画面右寄りにどっしりとした縦のラインを示し、重みを与えています。黒いシルクハットに平行して、淡いベージュの煙突が描かれ、縦のラインとなって画面上部に達しています。この二つのラインが、明暗のコントラストを保ちながら、画面を縦方向に安定させていることがわかります。

 さらに、道路にはパース線がいくつも引かれ、工場までの遠近感がしっかりと表現されています。これらのパース線は、手前から工場までの空間を、斜めのラインで整理し、暗い道路周辺の曖昧さを排除しています。

 パース線が到達している工場は、画面を横方向で安定させています。縦、横、斜めのラインで、画面全体を構造化し、調和をもたらしていることがわかります。ドガは、画面の色構成によってコントラストを強め、メッセージ性を高める一方、幾何学的な構図で、画面を構造的に安定させていたのです。

 この作品は、画面が幾何学的に構造化されており、産業化時代に重視された科学性が強調されているように思えます。さらに、顕著な明暗のコントラストは、産業化が格差を拡大していくことを示唆しているようにも感じられます。

 第二帝政時代、産業化の推進が奨励されていました。実業家は、時代を牽引する人々であり、近代性、先進性の象徴でもありました。その実業家であるルアールを、ドガは、彼の近代的な工場を背景に、幾何学的な構成で描きました。

 ドガはこの作品で、産業化のエッセンスを描こうとしていたのではないかと思います。

 一方、ルアールの暗い表情からは、財力があり、一見、華やかに見えるブルジョワジーにも、実業家ならではの苦悩と焦慮感があることが示唆されています。産業化を急いでいた時代だからこそ、見出されたテーマであり、問題点でした。ドガはそのエッセンスを、色彩と絶妙な画面構成によって、見事に描き切ったといえます。

■画家としてのルアール

 実業家ルアールは、画家としても活動しており、1868年から1872年まではサロン・ド・パリに出品していました。ドガに誘われ、1874年の「第1回印象派展」には11点も出展しています。

 どのような作品があるのか気になって、出品目録を見ると、確かに、No.148からNo.158まで作品11点が、アーティスト名ルアール(Henri Rouart)で出品されていました。(* https://en.wikipedia.org/wiki/First_Impressionist_Exhibition

 ところが、作品の詳細は記載されておらず、タイトル名と画家名が書かれているだけです。仕方なく、タイトル名を手掛かりにネットで調べてみました。出品した11作品中、唯一、ルアールの作品画像を入手できたのが、《Forêt》でした。

 それでは、作品を見てみましょう。

●《森》(Forêt)

 繊細なタッチの風景画です。一見して、印象派よりも古い時代の作品のように見えます。


(油彩、カンヴァス、59.5×73.2㎝、制作年不明、所蔵先不明)

 木の幹や枝葉、下草の描き方にアカデミズムの画法を見ることができます。いつ制作された作品なのかわかりませんが、少なくとも、印象派の画家たちの影響を受ける前の作品だと考えられます。

 木々の間から漏れる陽光が幹や枝をくっきりと照らし出し、葉を輝かせています。細部まで丁寧に描かれており、森のひそやかな息遣いが伝わってきます。下草には、木々の影が伸び、森の中の、光と影が織りなす調和のある美しさが捉えられています。光と影に着目して画面構成をしているところに、印象派との親和性が感じられます。

 ルアールは、この第1回印象派展だけではなく、その後も、印象派展には何度か出品しています。実業家でありながら、ルアールは画家としても活動していましたが、展覧会に出品しても受賞するわけでもなく、画家として評価されたということもありませんでした。

■パトロンとしての役割

 当時、絵を売って画家として生計を立てていくのは至難の業でした。貧困にあえぐ画家たちがなんと多数いたことか。実業家のルアールは、やがて、画家というよりはむしろ、パトロンの役割を担わされるようになっていきます。とくに印象派展に出品した画家たちの作品を購入することによって、彼らの生活を金銭的に支援するようになっていたのです。

 実は、ルアールの父親もカイユボットの父親と同様、軍服を製造販売する裕福な事業家でした。軍と結びついたブルジョワ階級でした。だからこそ、高級住宅地であるミロメニル通りに居を構えることができ、その財力に任せて、売れない画家たちの作品を購入することができたのです。

 ルアールが1912年に亡くなった後、印象派の画家たちの絵画が285点、それ以前の画家たちの作品77点が収集されていたことがわかりました(※ Wikipedia)。彼が購入していたのは、もっぱら印象派の画家たちの作品でした。

 さて、カイユボットは、近所に住んでいるという理由でルアールと付き合うようになりましたが、やがて、ルアールを通して知り合ったエドガー・ドガ(Edgar Degas,1834 – 1917)やジュゼッペ・デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis, 1846 – 1884)などとも親交を深めていくようになります。

 ドガやジュゼッペ・デ・ニッティスらと交流するようになってから、カイユボットも印象派の画家たちとの交流が増えました。そのせいか、次第にアカデミズムとは距離を置くようになっていました。ところが、第1回印象派展には、ドガから誘われながらも、出品しませんでした。

 第1回印象派展は1874年に開催されています。1874年といえば、カイユボットの父親が亡くなった年でした。ひょっとしたら、展覧会への出品どころではなかったのかもしれません。

 そう思って、父親の亡くなった日を調べてみると、1874年12月24日でした(※ http://caillebotte.net/family/)。第1回印象派展の開催が1874年4月15日から5月15日ですから、カイユボットが出品しなかったことと、父親の死とは関係がなかったことがわかります。

 それでは、なぜ、カイユボットは出品しなかったのでしょうか。

 ドガから誘われてすぐ、出品するほど、カイユボットはまだ深く、印象派にコミットしていなかったのかもしれません。あるいは、サロンへの思いを捨てられなかったのかもしれませんし、第1回印象派展が評価の付けられない展覧会だったからかもしれません。いずれにしろ、カイユボットはドガやルアールから誘われても、出品しませんでした。

 それでは、第1回印象派展は、どのような経緯で開催されることになったのでしょうか。

 実は、開催当初、この展覧会は、「印象派展」という名称ではありませんでした。「画家、彫刻家、版画家等の協会」による「第一回展覧会」というタイトルだったのです。その後、「印象派展」と呼ばれるようになりますので、ここでは、「第1回印象派展」とさせていただきます。

 なぜ、「印象派展」と呼ばれるようになったのかについても触れながら、「第一回印象派展」を振り返ってみたいと思います。

■第1回印象派展

 第1回印象派展は、1874年4月15日から5月15日まで開催されました。のちに印象派と呼ばれる画家たちによる最初のグループ展でした。主なメンバーは、クロード・モネ、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、ベルト・モリゾでした。

 元々、モネはサロンとは別に、画家たちが自費で展覧会を開催したいと考えていました。制限なく自由に、作品発表の場を設けたいという気持ちからでした。その考えに賛同する画家たちを組織化して会費を徴収し、芸術家の共同組合のようなものを設立しようとしていたのです。

 やがて、作品発表の場が限定されているのを嫌った画家たちが、モネの計画を受け入れるようになりましたが、組織化には難航しました。誰も経験がなかったからです。そんな中、ピサロは、当時、会員になっていた「歴史画家、風俗画家、彫刻家、版画家、建築家、素描家の協会」を参考に、基本的なプランを提案しました。

 ピサロの提案に基づき、株式、月々の賦払金、会社の定款、出資規定などを定めた株式会社が設立されました。会社名は、「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」です。設立認可は1873年12月27日で、ルノワールがその管理者になりました(※ ジョン・リウォルド著、三浦篤他訳、『印象派の歴史 下』、角川文庫、2019年、pp.19-23)。

 開催されたのはカピュシーヌ大通り35番地で、かつて写真家のナダール(本名=Félix Tournachon, 1820-1910)がアトリエとして使っていた場所でした。


(※ Wikipedia)

 入場料は1フランで、期間中の来場者数は3500人でした。この展覧会のカタログの写真がありましたので、ご紹介しましょう。


(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Premi%C3%A8re_exposition_des_peintres_impressionnistes

 「画家、彫刻家、版画家等の協会」が発行したカタログの表紙です。「第一回 展覧会」と大きく表題が書かれ、その下に、「1874」と発行年、「カピュシーヌ大通り35番地」と開催場所が書かれています。表紙のどこにも「印象派」という文字がありませんが、それは、当時はまだ印象派と命名されていなかったからでした。このカタログは0.5フランで販売されていました。

 モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)が出品した作品の中に、このカピュシーヌ大通りを描いた作品がありましたので、ご紹介しましょう。

●《カピュシーヌ大通り》(Boulevard des Capucines)

 モネはカピュシーヌ大通りを題材に、何点か制作していますが、これは第1回印象派展に出品された9点のうちの一つです。


(油彩、カンヴァス、60×80㎝、1873年、プーシキン美術館蔵)

 街路樹がそびえ、その下を大勢の人々が行き交う様子が俯瞰して描かれています。木々も建物も人々も粗いタッチで描かれており、一見、稚拙に見えますが、陽光の射し込む方向をしっかりと捉え、光の当たる部分と影になる部分が、色彩を微妙に使い分けて表現されています。だからこそ、情緒豊かな空間が表現されているようにも思えます。

 すぐ近くのビルのバルコニーからは男性が二人、身を乗り出して通りを眺めており、この通りの賑わいがよくわかります。

 この大通りの35番地で、第1回印象派展が開催されました。30名の画家たちが作品を165点、出品しました。

■開催に至る経緯

 第1回印象派展に参加した画家たちは、当時、学んだ画塾に基づき、いくつかのグループを形成していました。

 たとえば、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマンなどは、シャルル・シュイスの開いた画塾のアカデミー・シュイスで学んだ仲間たちでした。

 また、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなどは、シャルル・グレールの画塾で学んだ同窓でした。

 このように別々の画塾で学んだ画家たちを繋いだのが、モネでした。

 相互に交流するようになった画家たちはやがて、モンマルトルのバティニョール街(現、クリシー街)にあったカフェ・ゲルボア(Café Guerbois)に集まり、絵画について議論をするようになりました(※ Wikipedia)。

 その流れとは別に、マネは、落選展に出品した《草上の昼食》(1863年)が大きな物議をかもした後、1864年にバティニョール通り34番地の家に引っ越してきました。その頃から、彼もカフェ・ゲルボワに通うようになっていました。

 サロン・ド・パリに出品した《オランピア》(1865年)が再び、大きなスキャンダルになると、マネの周辺に、若い芸術家や文学者たちが多数集うようになりました。いつしか、マネのアトリエや、マネの通うカフェ・ゲルボアが、芸術家たちのたまり場になっていったのです。

 バティニョールのマネのアトリエに集った画家や文学者の姿を描いた作品があります。


(油彩、カンヴァス、204×273㎝、1870年、オルセー美術館蔵)

 これは、ラトゥール(Henri Jean Théodore Fantin-Latour, 1836 – 1904)が1870年に描いた作品で、タイトル名も《バティニョールのアトリエ》です。カンヴァスに向かって筆を執っているマネを中心に、ルノワール、モネ、バジール、ゾラなどが描かれています。画家や作家が集って芸術論を交わし、絵画を語り、文学を論じていた様子がうかがい知れます。

 活発な芸術談義が行われていたのは、なにもマネのアトリエに集まったバティニョール派の画家たちだけではありませんでした。さまざまな芸術家グループ、画家グループもまた、カフェ・ゲルボアに集って芸術論、絵画論を交わし、芸術行政を批判しては、自分たちの作品発表の場を模索していたのです。

■展覧会の開催と出品資格をめぐる論議

 普仏戦争後の1873年に、恐慌が起こり、それまでバティニョール派の画家をはじめ、後に「印象派」と呼ばれる画家たちを支援していた画商デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831- 1922)が、一時的にその支援を打ち切らざるをえなくなりました。バティニョール派やカフェ・ゲルボアに集っていた画家たちは、作品を販売する手がかりを失ってしまったのです(※ Wikipedia)。

 彼らは半ば必然的に、モネを中心に組織を作り、グループ主催の展覧会の開催を考え始めました。開催の大枠はほぼ固まってきたのですが、出品資格をめぐって論争が起こりました。多くの画家が、展覧会への参加はグループメンバーだけにした方がいいという意見でしたが、ドガは、グループの展覧会には、サロンで受賞経験のある画家たちも招待すべきだと主張したのです(※ 前掲)。

 ドガは、とくにマネを中心にしたグループの作品が、サロンの潮流から大きく逸脱していると認識していました。実際、マネの作品がスキャンダラスだとして世間を騒がせたことはまだ人々の記憶に新しい出来事でした。

 ドガは、グループメンバーだけに出品資格を限定すると、自分たちの作品までも民衆から非難されかねないと懸念していたのでしょう。実際、サロンに出品するような画家を交えておかなければ、せっかくの展覧会が、前衛的なものだと受け止められる可能性があったのです。

 それは、ドガにしてみれば、画家生命を脅かしかねない危険性を孕むことになります。だからこそ、サロン受賞経験者を招待するという体にするしかなかったのです。

 結局、ドガの提案はグループメンバーに受け入れられました。それは、参加資格を広げれば、一人当たりの出費が安くなるという経済的な理由からでした。こうして、サロンを無視することなく、不要な摩擦を避けて、展覧会が開催されることになったのです。

 興味深いことに、マネはこの第1回印象派展に出品しませんでした。どういうわけか、出品した画家のリストの中にマネの名前はありませんでした。展覧会への影響を恐れたのかどうかわかりませんが、結局、マネは出品しなかったのです。

 こうしてみてくると、カイユボットが、ドガから出品を誘われながらも、それを断った理由がわかるような気がします。

 それでは、「第1回印象派展」はどのような評価を受けていたのでしょうか。

■第1回印象派展の評価

 評論家のルイ・ルロワ(Louis Leroy, 1812-1885)は、風刺新聞『ル・シャリヴァリ(Le Charivari)』(英語版)紙に、軽蔑と悪意をこめて、第1回印象派展を、「印象主義の展覧会」と評しました。モネの作品タイトル、《印象、日の出》(Impression, soleil levant)をもじって命名したものでした(* https://arthive.com/publications/1812~Pictorial_Louis_Leroys_scathing_review_of_the_First_Exhibition_of_the_Impressionists)。

 以来、アカデミズムに対抗して展覧会を開催した画家グループは、「印象派」と呼ばれるようになります。

 モネの《印象、日の出》はいったい、どのような作品だったのでしょうか、見てみることにしましょう。

●《印象、日の出》(Impression, soleil levant)

 モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)は、第1回印象派展に9点の作品を出品していました。その中の1点が、《印象、日の出》です。32歳の時、故郷ル・アーブルの港の朝の景色を描いたものです。

 これは、モネが、幼少期を過ごしたル・アーブルの町に、妻と息子とともに滞在した時、描かれた作品です(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Impression,_soleil_levant)。


(油彩、カンヴァス、48×63㎝、1872年、マルモッタン、モネ美術館蔵)

 青みがかったグレーを基調に、港湾風景が描かれています。淡い色調の中で、空と海の境界も判然とせず、すべてが混然一体となった中、手前のボートと画面中ほどの太陽が、存在感を放っています。

 漠然とした曖昧で取り止めのない情景が、粗いタッチで描かれています。微妙な色使いや色調、柔らかなタッチには、イギリスの風景画家ターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 – 1851)の作品の影響がうかがえるといえなくもありませんが、ターナーほどのシャープさはなく、鮮烈さもありません。アカデミズムの技法を無視した作品でした。

 すべてが曖昧模糊としており、作品というよりも着想段階のイメージのように見えます。ルイ・ルロワがいうように、港を見て得た印象を描いているように見えるのです。アカデミズムの絵を見慣れた評論家や観客には理解しがたい作品だったのでしょう。

 この作品は、ルイ・ルロワから「印象主義」のレッテルを貼られました。これが、やがて、この展覧会に出品していた画家たちを指す言葉として定着し、アカデミズムから逸れた画家たちを指す「印象派」の命名由来となったのです。

■玉石混交?

 著名な批評家たちのほとんどがこの展覧会に対し沈黙していたといわれています。そんな中、好意的な展覧会評を書いた批評家もいました。

 たとえば、アルマン・シルヴェストル(Armand Silvestre, 1837-1901)です。彼は、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガなどの作品を賞賛し、あるいは、評価を保留しながらも、総じて、「この展覧会は見るに値する」と言っています。それでも、「サロンに入選したこともない誰にでも門戸を開放するのはよくない」と苦言を呈していました(※ ジョン・リウォルド著、三浦篤他訳、『印象派の歴史 下』、角川文庫、2019年、p.48-49)。

 中には才能を感じさせる作品もあったとはいえ、展示作品のレベルはまさに玉石混交だったと批判しているのです。この上は、展覧会としての水準を高める必要があるとし、せめて、出品資格をサロン入選者に限定すべきではないかと、シルヴェストルは述べていました。

 作品を鑑賞したくて来るのではなく、好奇心から来場する者が多く、作品を見て嘲笑する人もいれば、爆笑する人もいたといいます。サロンを訪れる人々の態度とは明らかに異なっていたのです(※ 前掲、p.47)。

 第1回印象派展に出品した画家のリストを見ると、展覧会の開催に尽力したモネ(9点出品)やルノワール(7点出品)、ドガ(10点出品)、ピサロ(5点出品)、ルアール(11点出品)などの名前が見られます(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Premi%C3%A8re_exposition_des_peintres_impressionnistes)。

 総入場者数は3,500人で、同じ頃に開催されたサロンの入場者数は40万人でした。初回なので周知されていなかったからかもしれませんが、サロンの入場者数に比べ、圧倒的に少なかったのです。

 ドガは、第1回印象派展の開催に際し、グループメンバーだけではなく、サロンの入賞経験者も招待すべきたと主張していました。その意見が通り、仲間内だけの展覧会にとどまらずにすみましたが、結果はサロンとは大きくかけ離れて少ない入場者数でした(※ 前掲)。 一般に知られていなかったというだけではなく、批評家たちから好評価を得られなったことも、来場者数の少なかったことの一因でした。

■「展覧会」事業としての結果はどうだったのか?

 展覧会に対する評価は、4週間以上に及んだ会期中の入場者数の推移に如実に反映されていました。初日は175人だったのが、最終日には54人にまで減っていました。中には2人しかいなかった日もあったそうですから、好奇心に駆られて訪れてはみたものの、好評価することができず、入場者数は次第に減っていったと考えられます。

 展覧会終了後、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir ,1841 – 1919)が、会計係であったオーギュスト・オッタン(Auguste-Louis-Marie Jenks Ottin、1811 – 1890)の協力を得て、収支報告書を作成したところ、総支出は9,272フランで、収入は10,221フランでした。収入の内訳は、入場料、カタログ販売、作品販売手数料、寄付金等です(※ 前掲、p.56)。

 かろうじて黒字にはなりましたが、大多数の画家の作品は売れず、年会費60フラン分を回収できませんでした。この展覧会は、当初の目論見とは違って、作品の販売チャネルにはならなかったのです。作品の発表機会の少ない画家にとって、重要な機能が果たされませんでした。

 この展覧会は、画家たちが共同出資した会社によって開催されており、作品の売却代金の10%を手数料として納めることが合意されていました。展覧会終了後の財務報告では、360フランが手数料収入として記録されており、その内訳は、シスレーが100フラン、モネが20フラン、ルノワールが18フラン、ピサロが13フラン、その他の画家からの手数料でした。ちなみに、展覧会開催に尽力したドガの作品はどういうわけか、全く売れていません。

 今では著名な作品も、当時は評価されていなかったのです。せっかく発表の場を自分たちの手で創設したというのに、批評家からも観客からも好評価を得られず、新しい息吹を人々の心に吹き込むことはできませんでした。

 もっとも、画家たちによって私的に運営される展覧会が開催されたことの意義はありました。一つは、画家自身が市場と向き合い、その厳しさを実感できる契機となったことであり、もう一つは、アカデミズム以外の様々なジャンルの絵画が、人々の目に触れるチャンスを作ったことでした。

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 二度、三度と繰り返し展覧会を開催するうちに、やがて、批評家の見方が変わり、人々の目が彼らの作品に向けられる時がくるでしょう。1874年、画家たちは重要な一歩を歩みはじめました。画家たちは、サロンや画商頼みの待ちの姿勢から、攻めの姿勢へと気持ちを変化させたのです。

 産業革命後の経済状況は激変しており、社会の各層でその対応が迫られていました。対応を誤れば、そのまま歴史の底に埋もれてしまいます。第二帝政時代、全権力を握ったナポレオン三世は、産業化を促進するため、次々と改革を進めました。

 諸改革の一つである新会社法は、商業活動を活性化するために制定されました。1867年7月24日のことでした。その6年後、画家たちは自身の手で会社を設立し、安定した作品発表の場を求めて展覧会を開催したのです。

 こうしてみてくると、第1回印象派展は画家たちにとって、新時代への対応策だったといえるでしょう。(2024/10/28 香取淳子)

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