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幕末・明治期の万博③:ナポレオン三世はなぜ、1855年パリ万博の開催を決意したのか(1)

幕末・明治期の万博③:ナポレオン三世はなぜ、1855年パリ万博の開催を決意したのか(1)

 万博は、政治、経済、文化、外交、最先端技術などが複雑に絡み合って、社会を変貌させるだけでなく、一種のスペクタクルとしても機能します。1851年のロンドン万博がそうでしたし、1855年のパリ万博もそうでした。

 そこで今回は、なぜナポレオン三世が、1855年パリ万博の開催を決意したのか、諸状況を踏まえて、考えていきたいと思います。

■フランスに先駆けて万博開催に挑んだイギリス
 フランスでは産業振興のため、産業博覧会が1798年から1849年にかけて計11回、パリで開催されていました。商品経済が活性化するにつれ、産業振興の重要性が認識されるようになっていたからでした。

 1830年代になると、国内を対象にした産業博覧会から、国際規模に拡大してはどうかという提案がでてくるようになりました。フランスでもちょうど産業革命が進み始めていた頃でした。商品経済がある程度、発達してくると、競争力のある商品を開発し、市場規模を拡大し、更なる発展をめざそうとするのは当然の成り行きでした。

 ところが、市場を国際規模に拡大することには国内の商業者層が反対しました。彼らが拠り所にしていたのはあくまでも国内市場だったのです。政府による保護主義の下、これまで通りの市場規模を望みました。リスクを被る可能性のあることは避け、国内の産業博覧会以上のものは望まなかったのです。

 そうこうしているうちに、イギリスがフランスに先駆けて、万国博覧会を開催してしまいました。開催場所はロンドンのハイドパーク、開催期間は1851年5月1日から10月15日まででした。

 参加国は34カ国で、一日の平均入場者数は約4万3,000人、会期中の延べ入場者数は約603万9000人でした。これは当時のイギリス総人口の約1/3、ロンドンの人口の3倍にも当たるものでした(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1851.html)。

 第1回ロンドン万博の動員力の凄さには驚かざるをえません。しかも、これは有料入場者だけをカウントした人数でした。なぜ、これほど多くの人々がお金を払ってまで万博会場を訪れたのでしょうか。

 おそらく、いち早く産業革命を達成し、産業化が進行していたイギリスで開催されたこその結果だったのでしょうが、果たして、実際はどうなのか。見ていくことにしましょう。

■第1回ロンドン万博、入場者動員のためのインフラ

 ロンドン万博では、19世紀の半ばに、5か月間とはいえ、604万人もの入場者を会場に動員することができました。このことからは、少なくとも、万博の開催を知る手段を持ち、会場まで移動できる手段を持った人々がそれほど多数いたということが示されています。しかも、それらの手段を利用するには、ある程度の時間とお金に余裕がなければ、不可能です。

 したがって、ロンドン万博の動員力の背景には、まず、同一情報を同時期に不特定多数に発信できるメディが存在し、人々の情報入手手段として日常的に活用されていたことが示されています。

 もちろん、万博開催の情報を知ったとしても、交通手段がなければ、これだけ多数の人々が会場まで移動することはできません。それが可能だったということは、つまり、当時のロンドンでは、すでにメディアが発達して日常的に利用され、交通網が整備されて日常的に利用されていたことがわかります。

 実際、イギリスでは当時、絵入り週刊誌が刊行されており、人々はそれを読み、世の中の出来事を知っていました。

 たとえば、『イラストレイテド・ロンドンニュース』(The Illustrated London News)は、1842年に発刊された週刊誌ですが、イラストの入ったニュースを提供しており、人々はこれを読んで社会情勢を把握していました。

 1842年5月14日付の記事を撮影した写真があります。発刊当時の記事ですが、内容に関係する図が細密に描かれています。ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Illustrated_London_News_-_front_page_-_first_edition.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 記事の中に挿絵が取り入れられているので、わかりやすく情報が伝えられています。文字情報にイラストが添えられており、幅広い読者層をめざした伝達様式になっています。

 一方、多数を動員するには交通網の整備も不可欠です。いち早く産業革命を経ていたイギリスでは、産業化が進むに伴い、物資を輸送する必要から、水路、陸路とも交通網が整備されました。さらに、19世紀半ばには鉄道が発達し、人々の鉄道利用が進んでいたのです。ロンドン万博の開催当時、イギリスでは鉄道が発達し、人々の移動が楽になっていました。

 そもそも蒸気機関による鉄道が世界ではじめて開発されたのはイギリスでした。もちろん、旅客輸送を運営したのもイギリスが初めてです。その後、車両など設備全般の改良を繰り返し、1840年代には特に鉄道輸送が飛躍的に発展していました。ロンドン万博が開催される頃には、主要都市を結ぶ鉄道網がすでに形成されていたのです。
 
 国内ばかりではありませんでした。海外に多数、植民地を持つイギリスは、定期蒸気船航路で、南北アメリカ、アジア、アフリカを結び付ける輸送網を敷いていました。輸送、運輸の面では、当時、ロンドンは文字通り世界の中心として君臨していたのです。

 こうしてみてくると、圧倒的な工業力を誇り、海外に多数の植民地を持っていたイギリスが、フランスよりも一足先に、産業博覧会の国際化を実現させたのは当然のことだったのかもしれません。

 それでは、初めてのロンドン万博はいったい、誰の発案だったのでしょうか。

■ロンドン万博は誰の発案なのか?

 第1回ロンドン万博を中心となって推進していたのは、ヴィクトリア女王の夫であり王立技芸協会会長のアルバート公(Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, 1819 – 1861)でした。そのアルバート公に進言したのが、当時ロンドンの公文書館で館長補佐をしていたコール(H. Cole)でした。

 彼は、1849年にパリで開かれた産業博覧会を参観に出かけました。その際、フランスが万国博覧会を開催しようとして果たせなかったことを聞き及びました。長年にわたる博覧会の経験を積み、市場規模を拡大する必要があることもわかっていながら、商業者たちの反対にあって、フランス政府が計画を断念していたことを把握していたのです。

 この時、コールはおそらく、フランスが産業博覧会を国際化できない理由も把握していたのでしょう。フランスの商業者たちが国際化に反対したのは、イギリスからの製品流入を恐れたからでした。

 保護貿易の立場から反対され、フランス政府は市場拡大のチャンスを諦めざるをえなかったのです。そうだとすれば、工業化が進んでいるイギリスは、相当有利な立場にいるといえます。

 そのような情報に接したコールは、イギリスこそ、国際的な産業博覧会を開催すべきだと判断したに違いありません。

 帰国すると早々、コールは諸事情を説明したうえで、予定していた国内博覧会を国際博覧会に拡大してはどうかとアルバート公に進言したのです。

 もちろん、アルバート公はこれを受け入れました。

 ロンドンのハイドパークを会場にすることも決まりました。会場の場所は決まりましたが、建物をどうするか、建築案で難航しました。開催1年前にはコンペを行い、245もの案が出たにもかかわらず、決定的なものが出なかったのです。

 そんな中、庭園技師で、数々の温室を設計したことのあるパクストン(J. Paxton)の会場建築案が、王立委員会に持ち込まれました。これが1850年7月6日のIllustrated London Newsに掲載されて、話題を呼び、世論の大きな賛同を得ました。その結果、彼の設計案が採用されることになったという経緯があります。

 パクストンが提示したのは、画期的な建物案でした。

■水晶宮(クリスタル・パレス)

 ロンドンのハイドパークに建てられた会場は、その外見から、やがて、クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれるようになりました。実際、この建物自体が第1回ロンドン万博最大の訴求力のある展示物でした。

 果たしてどのような建物なのか、水晶宮の内部をスケッチした画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/008r.html、図をクリックすると、拡大します)

 太陽の光が、ガラスの天井越しに、巨大な樹木に射し込んでいます。樹木の手前にある噴水からは水が流れ落ち、自然と一体化した美しさが表現されています。周辺一帯には数多くの像が設置されており、庭園師ならではの発想が見事です。自然と最先端技術を組み合わせ、華麗で優雅な建築物を生み出したのです。

 この水晶宮は、長さ約563m、幅約124mの建物で、わずか10カ月で完成させたといわれています。鉄とガラスを素材に使い、当時の最新技術で、クリスタルのように見える会場を建造したのです。工期を抑えるために、工場で製造された部品を現地で組み立てるプレハブ工法が採用されました。

 使われたガラスの数は30万枚で、内部は赤、青、白、黄色で塗り分けられています。外部は白またはストーンカラー(灰色または青灰色)が使われ、縁は青で飾られました。まさに水晶のような輝きを見せる建物でした(* 前掲URL)。

 水晶宮の外観、正面を描いた図があります。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/005r.html、図をクリックすると、拡大します)

 鉄とガラスでできたこの建物からは、優雅さと荘厳さ、そして、高い技術力と繊細なデザイン力が滲み出ており、入場者たちの心に強烈な印象を残しました。

 水晶宮はまさに工業力によって、社会が大変貌を遂げる時代を象徴していました。

■ナポレオン三世にとっての第1回ロンドン万博の衝撃
 
 ナポレオン三世は、第1回ロンドン万博に衝撃を受けました。ひょっとしたら、衝撃というより、先を越されたという思いの方が強かったかもしれません。1854年に開催予定だった産業博覧会を急遽、中止し、パリ万博の開催を決定しました。

 さらに、ロンドン万博の終了から半年しか経っていない1852年3月、急遽、大統領令を発令し、「公式の式典、民間の祭典や軍事祭典にも使える建物を、ロンドンのクリスタル・パレスに倣って、シャンゼリゼのクール・カレに建設することを決定する」と布告したのです。1851年12月のクーデタからわずか4か月を経たばかりで、ルイ・ナポレオンはまだナポレオン三世になっていませんでした。(* 鹿島茂、前掲、p.122.)。

 それなのに、早くも、万博会場について宣言しているのです。

 万博会場として建造された建物は、産業宮殿(palais de l’industrie)と名付けられました。正面玄関を描いたスケッチ画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/061r.html、図をクリックすると、拡大します)

 ナポレオン三世が勢い込んで建造したわりには平凡な外観です。見比べてみて、改めて、ロンドン万博の水晶宮が画期的な建物であったことがわかります。

 1853年3月の勅令で、この会場を使用できる規模を万国博覧会にまで拡大し、さらに6月にも勅令を発し、産業博覧会、美術博覧会も開催できるようにすると宣言しました。

 美術博覧会にも拡大した理由として、ナポレオン三世は次のように述べています。

 「産業の発達は美術、工芸の発達と密接に結びついている。(中略)フランスの産業の多くが美術、工芸に負っている以上、次回の万国博覧会で美術、工芸にしかるべき場所を与えることは、まさにフランスの義務である」(* 鹿島茂、前掲、pp.123-124.)

 このようなプロセスをみてくると、ナポレオン三世が1855年開催のパリ万博に大きく肩入れをし、フランスならではの価値を創出しようとしていることがわかります。

 なにもフランスばかりではありません。アメリカまた、ロンドン万博を参考にしながらも、ニューヨーク万博に独自の価値を創出しようとしている様子が見受けられます。

■1853年のニューヨーク万博

 実は、アメリカの実業者たちもまた、第1回ロンドン万博に感銘を受けていました。是非ともアメリカでも開催すべきだとし、1853年にニューヨーク万博(1853年7月14日~1854年11月1日)を開催しました。さすが実業家たちだけあってフランスよりも早く、開催を決定し、実行に移していたのです。

 水晶宮の印象がよほど強かったのでしょう、ニューヨーク万博会場の建物は、水晶宮を模倣して、鉄とガラスで作られました。

 ニューヨークのブライアント公園に設営された建物のスケッチ画を見ると、水晶宮を模倣したとはいいながら、建物の外観は全く異なっています。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/056r.html、図をクリックすると、拡大します)

 この建物は、カーステンセン(G. J. B. Carstensen)がデザインを考案し、ニューヨークの建築家であるギルデマイスター(C. Gildemeister)が設計しました。カーステンセンは、コペンハーゲンにある人魚像で有名なチボリ公園のデザイナーです。彼は、「階級に関係なく、皆が楽しめる場所を」と願って、国王から土地を借り受け、チボリ公園を造ったそうです。

 確かに、見比べてみると、ニューヨーク万博の会場は、水晶宮というよりも、どちらかといえば、このチボリ公園の方に似ているような気がします。チボリ公園の写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TivoliGlassHall.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 この建物には親しみやすく、まるで絵本の世界のような牧歌的な雰囲気があります。カーステンセンをデザイナーに選んだことから、アメリカの実業家たちがニューヨーク万博の会場を、誰もが参加でき、楽しめる空間にしたいと考えていたことがわかります。

 興味深いことに、この建物はデザインこそ牧歌的ですが、資材は第1回ロンドン万博の水晶宮を模倣し、鉄とガラスで建造されています。アメリカの実業家たちが水晶宮から模倣したものはデザインではなく、建築資材であり、その工法だったのです。彼らは水晶宮に次世代の技術を見、工法を見、未来に向けた技術の可能性を見出だしていたのです。

 まさに、水晶宮は次世代技術の塊でした。

 実際、イギリスはこの水晶宮によって、圧倒的な技術力を世界に見せつけることができました。そして、技術の力によって、夢をかなえられることを来場者に強く印象づけたのです。

 水晶宮を会場とした第1回ロンドン万博は、技術の時代の幕開けを象徴していましたが、入場者数で比較しても、第1回ロンドン万博が初期の他の万博を圧倒していました。

 たとえば、1853年にニューヨークで開催された万博の入場者数は115万人でした。そして、1855年のパリ万博は516万2000人です。いずれも1851年ロンドン万博の入場者数を超えることはできませんでした。

 それほどロンドン万博の印象は強烈で、人々の参加意欲を強く喚起する魅力があったことがわかります。

■産業化の進行と万国博覧会

 ナポレオン三世が、このロンドン万博の成功に嫉妬に近い感情を抱いたとしても不思議はありません。もちろん、先を越されたという思いも強かったでしょう。そもそも万国博覧会委を最初に構想していたのはフランスでした。

 1789年以来、11回も国内で産業博覧会を開催した経験もあります。そのような経験を踏まえ、産業博覧会の国際化が提案されてこともありました。ところが、先ほどもいいましたように、商業者層から強く反対され、実現しませんでした。

 実は、ルイ=ナポレオンが大統領に就任した直後に開催された1949年の産業博覧会で、フランス産業博覧会の国際化はほぼ実現しそうになっていたのです。

 最後に開催された 1849 年の産業博覧会は、会期が 6 カ月にもおよび、出展総数は4532 点、アルジェリアをはじめとする海外植民地からも参加しており、準万国博といえるほどの規模に達していました。もはや国内向けの産業博覧会とはいえないほどの広がりをみせていたのです。

 実際、1849 年の博覧会開催に際しては、「万国博覧会」とするという提案もなされていました。ところが、保護貿易に固執する商工業者や地方行政府に反対され、この提案は潰されました。フランスの工業化のレベルが、いち早く産業革命を経験していたイギリスには劣っていたからでした。

 市場を奪われるのではないかという恐怖感が、反対の動きに結集され、その結果、フランスが最初の万国博覧会開催国となるチャンスが失われました。

 そもそも、産業博覧会の開催趣旨が、イギリス工業製品の流入を避け、自国の産業振興を図るというものでした。あくまでも保護主義的な目的で開催されていたのです。実際、フランス国内とその植民地を対象にしている限り、不安はありませんが、イギリスなど工業先進国まで含めてしまうと、工業化レベルの低い国内産業は崩壊しかねなかったのです。商業者たちが反対したのも無理はありませんでした。

 一方、イギリスは産業こそ著しく発展していましたが、産業博覧会のような大規模展示会はありませんでした。せいぜい、民間による小規模な発明展などで商品展示が行われていたにすぎなかったのです。

 当時、イギリスは18世紀末から始まった産業革命によって、農業中心の社会体制から工場中心の体制へと移行しつつありました。世界の工場として、イギリスは繁栄を極めていましたが、第1回ロンドン万博を開催することで、イギリスはその圧倒的な工業力を世界に認知させることになりました。

 実際にロンドン万博を開催して初めてわかったことでした。産業化が進み、商品経済が盛んになっていたからこそ、海外市場の拡大に向けた万国博覧会の開催が必要だったのです。
 
 最初に万博の開催を構想していたのはフランスでしたが、それを実行に移したのはイギリスでした。ハードパワーを駆使して各地を占領してきたイギリスが、ロンドン万博を開催することによって、初めて、ソフトパワーの威力を強く感じたのではないかという気がします。
(2024/5/31 香取淳子)

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