■「書院の茶」から、「草庵の茶」へ
肥前国松浦郡の岸岳城の城主・波多親公は、秀吉の朝鮮出兵以前に、朝鮮人陶工を呼びよせ、陶器生産を始めていました。岸岳城下で、朝鮮式の登り窯を築造させ、朝鮮の生産方式をそのまま導入して、陶器を作らせていたのです。
岸岳古窯跡群からは、多数の陶器類が出土しました。それらはいずれも、胎土は日本のものを使いながら、高麗物といえる焼物でした。釉薬が施されており、たとえ日常雑器にすぎないものでも、茶陶に見立てることができる風格が備わっていました。
当時、茶人たちは、朝鮮伝来の高麗茶碗を茶席で賞玩するようになっていました。高麗茶碗には、唐物にはない質朴な味わいがあったからです。唐物を好ましく思わない茶人たちが、高麗物の素朴さ、質素な佇まいに価値を見出していたのです。高麗茶碗こそ、茶の湯を象徴する価値があるという見方、美意識などが茶人たちの間で浸透しつつありました。
室町時代に、足利将軍家や武家、公家の間で流行していたのが、「書院の茶」といわれる茶の湯のスタイルです。書院造の座敷で、高価な唐物(中国製の茶道具)を飾り、別室で点てた茶を客人に提供するという様式です。豪華さと格式を重んじるのが特徴で、武将たちが政治利用したのは、この種の茶会でした。
一方、それとは対極の、「草庵の茶」という茶の湯のスタイルが立ち上がっていました。侘び茶の祖とされる村田珠光(1423-1502)が、提唱したものです。こちらは、質朴さや不完全さの中に、精神的な豊かさを求めようとするのが特徴です。高価な唐物にこだわらず、日常的な茶器を使って、心からのもてなしをすることに価値を置きました。
中国から伝来した喫茶文化は、「書院の茶」から、時代を経て、質素を旨とする「草案の茶」へと移行していきました。茶の湯の潮流が変化していく過程で、使われる茶道具にも変化が見られました。茶器に対する嗜好性に変化が生じていたのです。
草庵の茶の原型となった逸話が残されています。
■草庵の茶の原型
室町時代に制作された「お伽草子」に、『おようの尼絵巻』があります。老僧が、「おようの尼」という名の老婆の仲介で、若い女性との一夜をもちかけられ、期待していました。ところが、ようやく女性が現れ、夜が明けて顔を見ると、その老婆本人だったという滑稽譚です。この絵巻は、サントリー美術館に所蔵されています。
この絵巻の導入部で、「おようの尼」が老僧の庵を訪ねてくるシーンがあります。老僧の庵には、風炉や釜、茶碗、茶入などの茶道具が一式置かれており、日常的に茶を嗜んでいたことがわかります。
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(※ 室町時代、 サントリー美術館蔵、図をクリックすると、拡大します)
室町時代の僧侶の間では、茶を飲むことは日常の楽しみであり、また来客をもてなす重要な作法でもありました。このシーンは、老僧が世俗から離れて過ごす日常の一端が示されています。
神津朝夫氏は、絵巻に描かれた茶道具について、「ここに描かれた道具はどれも粗末なものであって、書院会所の喫茶とは無縁であり、のちの茶の湯とはつながるものだった」と記し、「その茶道具は部屋から見える場所に置かれ、法師はその「そばへ立ち寄り」茶をたてている」と書いています(※ 神津朝夫、『茶の湯の歴史』pp.136-137.)。
粗末な茶道具を使い、客から見える場所で、茶を点てているのです。高価な唐物の茶道具を使い、別室で点てた茶を客人に提供するという、「書院の茶」とは明らかに異なっています。
ここに草庵の茶の原型があるといえます。
実際、浄土宗の僧侶・珠光は、応仁・文明の乱(1467-1477)の後、京都から生地の奈良に戻り、遁世生活を送っていました。草庵に来訪者があれば、茶を点てて、もてなしていたといいます。その時、使っていたのは、蓋の割れた陶製の風炉釜、継ぎのある茶碗、竹の茶入れ、竹柄杓でした。
この村田珠光の精神を受け継いだのが、堺の豪商であり、連歌師の武野紹鴎 (1502-1555)でした。珠光のわび茶をより簡素化し、洗練させたといわれています。そして、千利休 (1522-1591)は、武野紹鴎の「わび」の精神を極限にまで追求し、極小の茶室「待庵」を創作して、草庵の茶を完成させました。
■「待庵」と古唐津
「待庵」とは、天正十(1582年)の山崎の戦いの際、羽柴秀吉の陣中に、千利休によって建てられた二畳隅炉の茶室のことです。その後、解体して、仏教寺院・妙喜庵に移築されました(Wikipedia)。
茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建っています。内部の写真をご紹介しましょう。
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(※ https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/3221、図をクリックすると、拡大します)
茶席は二畳です。次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが、四畳半大という極めて狭い空間です。南東隅に、にじり口を開け、にじり口から見た正面に、床が設けられています。室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさ(細かく切った稲藁)の見える草庵風になっています。この荒壁には仕上げ塗りが施されておらず、当時の民家でよくみられる様式だったといいます(※ Wikipedia)。
「待庵」の内部を見ると、全般に黒ずんでおり、藁すさの見える荒壁には、寂寥感を感じさせられます。軸が掛けられているとはいえ、飾り気がなく、寂寞とした侘びの世界が創出されています。
村田珠光が、来訪者にお茶を点てたというのは、おそらく、このような雰囲気の空間だったのでしょう。「待庵」は、まさに「草庵の茶」を象徴する茶室でした。
茶人たちが「草庵の茶」を提唱し始めて以来、高価な唐物茶器よりも、安価で素朴な味わいのある高麗茶碗、あるいは、和物茶碗の需要が高まっていきました。
波多親公が岸岳城下で、高麗風の陶器製造に携わっていたのは、1580年代から1593年頃までの約10数年間でした。ちょうど千利休の最盛期に当たります。「草庵の茶」が提唱され、庶民までが茶の湯を嗜むようになっていた時代でした。
権威付け、あるいは、格付けのための茶の湯ではなく、もてなしの一つであり、来訪者との心の交流のためでもありました。権威を誇示し、権力をちらつかせて、政治利用していた茶の湯から、瞑想し、心を解き放つ場としての茶の湯へと、潮流が大きく変わりつつあった頃でした。
そんな折、波多親公が製造させていた焼物は、和物でありながら、高麗茶碗風であり、「草庵の茶」に似つかわしいものでした。それらは、波多氏以降の焼物と区別するため、古唐津と呼ばれています。
古唐津の逸品が残されています。松浦系道園窯で造られた無地の茶碗です。
■松浦系道園窯で発掘された茶碗
波多親公が築造させた「岸岳系窯跡群」の中に、松浦系道園窯があります。絵唐津で知られる窯跡ですが、そこから出土した古唐津の焼物の中に、無地の茶碗があります。
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(※ https://serpent-rhythm.com/items/15793、図をクリックすると、拡大します)
この茶碗は、1590〜1600年代に焼成されたとされています。波多氏が改易されたのが文禄三(1594)年ですから、ひょっとしたら、波多親公が、まだ城内を采配していた頃に仕上がった焼物かもしれません。
素朴で、重厚感のある茶碗です。やや斜めに傾いた上部に、黒い模様のようなものが見え、興趣を添えています。長石の混じる灰釉が下の方までかかっており、奥深い風情があります。形といい、色合いといい、質感といい、力強く印象的な茶碗です。
この茶碗には、朝鮮で使用されていた日用雑器そのままの趣が見受けられます。岸岳城下で製造されたからといって、デザインや文様などに、日本的な作為が加えられることもなかったようです。朝鮮人陶工が、故国で作っていたのと同じ方法で、焼成した茶碗だということがわかります。
■武将からの注文で製造された高麗茶碗
当時、武将の中には、高麗茶碗を輸入するだけでなく、好みを反映させた茶碗を、朝鮮で作らせていたようです。
日本からの注文によって、朝鮮で焼かれたとされる、割高台茶碗をご紹介しましょう。
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(※ 高さ9.1㎝ 口径14.3~10.4㎝ 高台径7.6~7.5㎝、李朝時代/16世紀、本間美術館所蔵、図をクリックすると、拡大します)
やや大振りの磁器質風の茶碗です。
高台を四方に断ち割り、胴は楕円形に歪ませ、腰には箆(へら状の工具を用いて表面を削り、磨き、文様を描く技法)が施されています。
このようなデザインの茶碗が、武将たちに好まれていたといいます。敢えて高台(茶碗の底にある足)を四方に断ち割ったところ、そして、へりを楕円形に歪ませたところに、この茶碗の造形に強いこだわりが感じられます。
この茶碗は、初代庄内藩主の酒井忠勝(1594-1647)が所持し、のちに本間家が拝領したといわれています(※ 文化遺産オンライン)。
武将の嗜好性が反映された茶碗です。
■高麗由来の茶碗にみられる共通点と相違点
古唐津の無地茶碗も、高麗茶碗も、ほぼ同時期の高麗由来の茶碗です。二つを見比べてみると、古唐津と高麗茶碗はいずれも、飾らない、素朴な味わいがあるという点でとてもよく似ていることがわかります。
もちろん、違いもあります。
両者の違いといえば、古唐津の方は粗削りで、無骨な力強さがあるのに反し、武将の注文で作られた高麗茶碗には、洗練された温かみと斬新な意匠性が感じられることです。
武将が好み、敢えて高麗で造らせたといわれる茶碗の意匠には、高麗茶碗が本来、備えている質朴さと力強さに、洗練された滑らかさが加わっていました。さり気なく、角の取れた滑らかさが加味されていたのです。その滑らかさの中に、戦国時代を経て、江戸時代を生きた武将の秘かな願いが込められているように思えます。
一方、高麗茶碗の仕様をそっくり引き継いだ古唐津には、朝鮮の日用雑器にすぎない素朴さ、頑丈さの中に、逞しい生命力が感じられます。
武将が朝鮮に注文を出して作らせた割高台茶碗といい、岸岳古窯跡から発掘された古唐津といい、高麗由来の茶碗には、総じて、素朴さや無骨さ、釉薬がもたらす変化を受け入れる鷹揚さが見られました。ここに、侘茶を嗜む茶人たちから賞玩された、高麗茶碗の真髄があるような気がします。
■高麗茶碗
高麗茶碗は、16世紀半ば頃から、日本の茶道で用いられるようになりました。記録に残る最も古いものは、天文六(1537)年の十四屋宗伍( ?-1552 )の茶会で披露された「高ライ茶碗」で、これは、『松屋会記』(1533-1650期間の茶会記、3巻)に記載されています。(※ Wikipedia)
わざわざ高麗茶碗を披露するための茶会が開催されたこともありました。
堺の豪商であり、茶人でもあった山上宗二(1544-1590)は、永禄八(1565)年五月七日に、高麗茶碗を披露するための茶会を開いています。客として招待したのは、千利休、草部屋道設、武野宋瓦、今井宗久でした。
錚々たるメンバーですが、この頃になると、高麗茶碗が茶人の間に浸透していたことがわかります。道具組みは、鶴瓶の水指、茶桶の建水、高麗茶碗でした。この高麗茶碗について、堺の商人であり茶人の今井宗久(1520-1593)は、「土薬面白くみごと也」と評しています(※ 中村修也、『戦国茶の湯倶楽部』、大修館書店、2013年、p.65)。
宗久は、釉薬が茶碗に味わい深い風情を添えていることを讃えているのです。これまで茶会でありがたがられるのは、唐物でしたが、この頃、高麗茶碗の妙味を茶人たちが理解し、賞玩するようになっていたことがわかります。
天正年間(1573-1592)になると、茶の湯はさらに浸透し、高麗茶碗は一定の地位を獲得するようになっていました。
高麗茶碗の輸入が増え、国内でも和物茶器が増産されるようになりました。増えた茶の湯人口に対応した現象だと考えらます。唐物よりは安価で、和物よりも妙味があり、茶席での鑑賞にも耐えるということで、高麗茶碗が重宝されるようになったのかもしれません。
茶人ばかりか、武将もまた、茶会で高麗茶碗を使うようになっていました。有名なのは豊臣秀吉です。
たとえば、豊臣秀吉は、三木の付城で茶会を開催したことがあります。兵糧攻めのため、三木城の周囲に多数の付城を築造したのですが、そのうちの一つで、茶会を開催していたのです。天正六(1578)年十月十五日のことでした。
今井宗久(1520-1593)は、その茶会に参加しており、「紹鷗之平カウライ茶碗」が披露されたと記しています(※ 矢部良明、『茶人 豊臣秀吉』、角川ソフィア文庫、2025年、p.22)。
紹鷗が所持していたはずの高麗茶碗が、その茶席で披露されていたというのです。
紹鷗とは、武野紹鷗(1502-1555)のことで、侘び茶の中興の祖といわれた人物です。宗久にとっては師匠であり、義理の父親でもありました。だからこそ、秀吉の茶会で披露された高麗茶碗が、紹鴎が所持していたものだとすぐにわかったのでしょう。
紹鷗が所持していたはずの高麗茶碗を、なぜ、秀吉が手に入れていたのかはわかりません。ただ、三木合戦中の茶会で披露されたことは、秀吉が、高麗茶碗を高く評価していたことを意味します。
そもそも高麗茶碗は、李氏朝鮮時代に日常雑器として作られた焼物でした。紹鴎ら茶人によって、その不完全さや粗野な作風に、侘びの美が見出され、侘び茶の道具として見立てられたにすぎません。
それが、やがて天下人になろうとする秀吉が開催した茶会で披露されたのです。
■武野紹鷗が所持していた高麗茶碗
三木の付城で披露されたものと同じかどうかはわかりませんが、武野紹鷗が所持していたとされる高麗茶碗があります。ご紹介しましょう。
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(※ 高7.8㎝、口径16.3㎝、高台径5.7㎝、朝鮮王朝時代、石水博物館蔵、図をクリックすると、拡大します)
これは、「紅葉山」という銘の入った井戸茶碗です。武野紹鴎が所持していたと伝えられ、高麗茶碗がもたらされ始めた頃の作と考えられています。施釉時に付いた陶工の指痕や、「かいらぎ」(陶磁器の表面に釉薬が溶けきらず、縮れて粒状に残った、独特の模様)が文様となっており、独特の風情が感じられます。
侘び、寂びを感じとる美意識がなければ、この茶碗の良さを十分に理解できないでしょう。陶工の指痕が残っていたり、溶けきらなかった釉薬が縮れて粒状になって残っていたり、いってみれば、製陶の不完全さがこの茶碗に興趣を添えているのです。
侘びの精神がこの茶碗に凝縮されており、そのエッセンスが全体から滲み出ているように思えます。この茶碗を見ていると、武野紹鴎が大切に所持していた理由がよくわかるような気がしてきます。
■紹鴎が目指した「茶の湯」
紹鷗の茶の湯は、今井宗久、津田宗及、千利休に影響を与え、彼らによって侘び茶が継承されました。
紹鷗は、目指している茶の湯の境地について、「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」という言葉を残したと伝えられています。
(※ https://www.omotesenke.jp/list2/list2-3/list2-3-3/)
これは連歌師であった、室町時代の心敬(1406-1475)の言葉から引いたもので、「華やかさや生気を捨て、寒々とした枯れ木のような質素さと厳しさを追求せよ」ということを意味しています。
侘び茶の精神を象徴する言葉であり、武野紹鷗から千利休へと引き継がれていった侘びの世界に美を見出すことのできる感性を表しています。
利休はこの二人を、侘びの世界の先人として、「術は紹鷗、道は珠光より」と説き、武野紹鷗(1502-1555)と村田珠光(1423-1502)の茶の湯の境地を高く評価していました。
侘びの精神を茶の湯に取り入れたのが村田珠光だとすれば、その精神を組み入れた作法を編み出したのが武野紹鷗だと、利休が認識していたことがわかります。
和歌であれ、連歌であれ、彼らは、欠落を表す言葉の中に、美を見出していました。不足すること、欠落していることの中には、想像力を豊かに刺激するものがあり、躍動感を覚えさせてくれます。
そして、想像力が羽ばたいているときは、いっとき、生きている現実世界から離れることができます。それを茶の湯の境地に転じたところに、侘びの世界があるといえるのでしょう。それは、戦場で生と死に対峙し武士、あるいは、生活苦に苛まれる庶民の気持ちを強く捉えたにちがいありません。
室町時代の後期になると、喫茶文化は庶民の間にまで普及しましたが、時代状況を考えると、当然のように思えます。そして、その庶民を対象にした茶器が、安価な高麗茶碗や和物茶碗だったのです。
公家や武士らが行う茶会では、依然として、高価な「唐物」(中国製の茶器)、「名物」(由緒ある由来の茶器)が重んじられていました。とはいえ、侘びの美意識が広がっていくにつれ、武士の間でも、高麗茶碗への需要、和物への関心が高まっていきました。
振り返ってみれば、高価な唐物を尊ぶ風潮を嫌った村田珠光が提唱したのが、侘び茶の始まりでした。次いで、武野紹鷗が、高麗茶碗に新たな光を当てて、侘び茶を発展させました。そして、利休は、侘び茶の理念を追求し、楽焼と呼ばれるようになる和物を創って、侘び茶の様式を完成させました。
■利休の好みに沿って創り出された楽焼
千利休は、天正二(1574)年に、今井宗久や津田宗及と共に、織田信長の茶頭になりました。茶頭とは、戦国時代から江戸時代に、将軍や大名に仕え、茶事全般(道具管理、お茶を点てる等)を司った茶人を指します。
織田信長の茶頭として、利休は、茶会における茶道具の管理、お茶を点てる、茶会を進行する、等々の茶会全般の諸事を担当していました。戦国時代はとくに、茶の湯が政治利用されていましたから、政治的な演出が重要視されました。茶道具に対するこだわりや、茶会を進行させる力量などが問われたのです。
茶頭として日々、研鑽する中で、利休の茶道具に対する審美眼は研ぎ澄まされ、茶の湯の世界に対する認識は深められていきました。自身の嗜好に合う茶碗を創り出したいと思ったのでしょう。
利休は、侘びの世界を表現する茶碗の開発に挑みました。
天正八(1580)年、利休は、京の瓦師であった長次郎に「ハタ(縁の部分)ノ反リタル茶碗」や「ゆがミ茶碗」を作らせ、茶会で使ったのです(※ Wikipedia)。
利休の構想を受け入れ、新たな趣の茶碗を創ったのが、長次郎(生没年不詳)でした。
祖先は、「あめや」(阿米也)という中国からの渡来人で、装飾瓦を制作していた工人だと伝えられています。その長次郎に命じて、利休は、侘び茶のための茶道具を開発させてのです。それが、「楽茶碗」という斬新なスタイルの茶碗でした。(※ https://www.omotesenke.jp/)
楽茶碗は、轆轤を使わず、手捏ね(両手で土を立ち上げ形作る技法)で成形し、ヘラで削って形を整え、仕上げをします。手捏ねによる自然な成形、ヘラによる究極の造形、といった二つの工程を通して、製造するのです。
手捏ねによる自然美に、美意識に基づく修正を加えて、究極の形に仕上げます。利休の求めるわび茶にふさわしい茶碗は、このようにして創り出されました。
『松屋会記』(安土桃山・江戸初期の茶会記。3巻)によると、奈良の中坊源吾の朝会で、「宗易形ノ茶ワン」という記述があり、これが、「樂茶碗(長次郎茶碗)」の初見だと考えられています。
(※ https://www.310plus.com/sadou-beginners-guide-post/sen-soueki-rikyu-timeline-1)
長次郎は、天正年間(1573-1591)に、千利休の好みに合わせ、「宗易形」といわれる茶碗を創りました。その後、長次郎が造る茶碗は、「今焼」、「聚楽焼」と呼ばれ、楽焼と呼ばれるようになるのは、利休が秀吉に仕えた後、楽家が二代目の常慶福になってからです。
(※ https://www.kitayamakaikan.jp/exhibition/past/2010/pdf/exhibition_20101009.pdf)
長次郎は、「黒」と「赤」の楽茶碗を創りました。
■長次郎の赤楽茶碗、黒楽茶碗
千利休の構想に従って、長次郎は、赤楽茶碗、黒楽茶碗を開発しました。
楽焼の技術は、16〜17世紀の明時代の後期に、中国南部(福建省付近)で生産された緑・黄・紫の鉛釉が特徴的な「華南三彩」の系譜を引くとされています。長次郎(阿米也)がその技術を持っていたからですが、彼は、低火度釉の施釉陶器である交趾焼の技法も持っていたころから、福建省あたりの出身と考えられています。
交趾焼(こうちやき)とは、中国南部(後に福建省と判明)で焼かれ、ベトナム経由の貿易船(交趾船)で、江戸時代の日本に渡来した色鮮やかな低火度鉛釉陶器を指します。主に、摂氏1200℃以下の比較的低い温度で溶融する釉薬を使って作られた陶器で、黄、緑、紫などの色釉と、「一珍盛り」(釉薬をスポイトや筒に入れ、絞り出しながら線や模様を描く陶芸の装飾技法)による立体的な線描が特徴だとされ、茶席で重宝されました(※ https://www.yamanaka-gato.com/page/46)。
福建省で行われていた製造技術を使って、長次郎は、楽茶碗を開発しました。これには、赤楽・黒楽の二種類があり、いずれも半筒型を基本としています。まずは、赤楽茶碗(無一物)を見てみましょう。
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(※ 口径11.2 高8.5 高台高0.7 同径5.0、文化遺産オンライン、図をクリックすると拡大します)
低火度の赤楽釉をかけた楽茶碗です。素地や釉調から、天正年間後期の作と考えられています。これは、長次郎の赤楽茶碗の代表作であり、茶道史上、陶磁史上、桃山時代における重要な焼物とされています。大名茶人として名を馳せた、松平不昧公(1751-1818)が所持しており、中興名物としても有名です(※ 文化遺産オンライン)。
ちなみに、中興名物とは、江戸時代初期に茶人の小堀遠州が、唐物(中国製)中心の「名物」の価値観を見直し、国焼(日本製)や高麗物(朝鮮製)から見立てた優れた茶道具の総称です。
さて、長次郎の茶碗の中でも,赤楽の「無一物」と黒楽の「大黒」は,利休好みの茶碗の典型だといわれています。いずれも同じ発想で作られており、これらの形状にこそ,利休の構想が象徴されているといえます。
それでは、黒楽茶碗を見てみましょう。
代表作の「大黒」は、どっしりとした安定感のある半筒形をしており、高台(底の足部分)が低く、赤楽の「無一物」と同様、丸みを帯びたフォルムが力強さを感じさせます。まさに利休好みの形状です。
その形状にさらに変化を加えたのが、「俊寛」です。
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(※ 高7.9㎝、径11.3㎝、高台径4.8㎝、三井記念美術館蔵、図をクリックすると拡大します)
手捏による腰の張った半筒形の茶碗です。ふっくらとした丸味のある形状が印象的です。口縁を内に抱え込み、胴の中ほどをわずかに絞り、腰は強く曲げ、高台脇にかけて、面取り風の箆削りを施しています。
見込みは広く(抹茶碗や皿の内側の底面が広く設計されている)、中央に茶溜り(茶碗の内側の底にある、丸いくぼみ)を浅く作り、周辺も箆で削り込んで、薄造りにしています。
黒釉(鉄分を多く含み、黒色に発色する陶磁器の釉薬)は、高台(容器の底にある、台状の脚部分)の内まで掛けられており、艶のないしっとりとした釉調(釉薬による質感や表情、色合い)を醸成しています(※ 文化遺産オンライン)。
柔らかみのある端正な姿に、黒釉がよく調和し、落ち着いた佇まいを示しています。長次郎の黒楽茶碗の中でも傑作といえるものです。
■下剋上時代の古唐津生産、そして、楽焼の開発
利休は、侘び茶の精神に沿って、茶碗をデザインし、長次郎に作らせました。福建省出身とされる長次郎は、華南三彩の技法、あるいは、交趾焼の技法を身につけていました。それらの技術を踏まえ、利休の意向に沿って仕上げたのが、後に楽焼と呼ばれるようになる茶碗です。
長次郎の茶碗の特色は、装飾性や個性的な表現をできるかぎり排除し、重厚で深い存在感が表出するよう工夫されていました。その独創的な造形には、千利休の侘びの思想が濃厚に反映されていました。華美を排し、質朴を尊び、侘びを慈しむ、禅の流れを汲むものでした。
利休が長次郎に造らせた楽焼は、いずれも力強さと優雅さを兼ね備えた逸品でした。そして、二つの色合いの楽茶碗のうち、利休はとくに、黒の茶碗を好んだといわれています(※ https://www.omotesenke.jp/)。
そもそも利休は、呂宋壺(フィリピンのルソン島を経由して中国南部から日本へ輸入された陶器の茶壺)や、高麗茶碗などの輸入品を茶道具に使っていました。いずれも産地では日用雑器扱いの大量生産品でした。当時、茶会の主流であった、精緻で、端正な中国製の天目茶碗ではなく、侘びた風情のある持つ茶道具を、利休は好み、ついには、和物の楽焼を開発してしまいました。
利休は、いってみれば、茶の湯の下剋上を果たしていたのです。
一方、波多親公は、独自に、朝鮮から陶工を呼び寄せ、後に、古唐津と呼ばれる焼物を製造させました。高麗由来の陶器で、朝鮮では日用雑器でした。波多親公は、陶器生産の領域で、茶の湯の下刻上を支えたといえるでしょう。
時は戦国時代、まさに下剋上の世の中でした。利休の最盛期であり、侘び茶が庶民層にまで浸透していました。朝鮮由来の日用雑器や和物を茶碗に見立て、草庵を茶室に行う、侘び茶を浸透させることによって、利休は、武家や公家の手から庶民の手に、茶の湯を開放したのです。
単なる権力闘争ではなく、これまでの価値観や体系を根本から破壊し、新しい価値観と秩序、世界観を形作る文化変容が静かに広がっていました。その一端を担ったのが、波多親公でした。(2026/4/10 香取淳子)