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波多三河守親公はなぜ、唐津焼を始めたのか? ①戦国時代の茶器需要

波多三河守親公はなぜ、唐津焼を始めたのか? ①戦国時代の茶器需要

■発掘調査された岸岳古窯跡

 波多氏の居城であった岸岳城の周辺に、古い窯跡がいくつも残されており、それらは岸岳古窯跡群と総称されています。

 たとえば、旧北波多村には、皿屋窯、皿屋上窯、帆柱窯、飯洞上・下窯などの5窯、そして、旧相知町には、道納屋窯、平松窯、大谷窯などの3窯がそれぞれ確認されています。

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(※ 村上伸之、「肥前陶磁の源流」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第94集、2002年3月、p.444、図をクリックすると、拡大します)

 『岸岳古窯跡群IV-統括報告書―』(2018年3月)によると、それらは、波多氏が朝鮮半島から陶工を招聘して、築いたものだといわれています。諸説ありますが、その始まりは、1580年代から90年代だと考えられています(※ 『岸岳古窯跡群IV-統括報告書―』、p.9)。

 窯の形式は、朝鮮系の連房式登り窯(焼成室(房)を斜面に複数連ねた窯)で、一般に割竹式と呼ばれるものです。外形は、竹を二つに割って伏せたような形状で、内形は、竹の節に当たるところが隔壁になり、天井も下部から上部まで連房した蒲鉾形です。ここで製造された陶器は古唐津と呼ばれています。

 古唐津の陶器を生産した古窯址は、現在、百数十ヵ所、確認されていますが、岸岳の飯洞甕下窯のように良好な状態で保存されているのは他にありません。

 まず、飯洞甕下窯の全景をご紹介しましょう。

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(※ 前掲、口絵1。図をクリックすると、拡大します)

 これは、全長19m、幅2mの階段式の連房登り窯です。窯壁の部分を補強した痕跡がみられ、通焔孔(炎や熱風を通すための通路)にも、適当な大きさに水成岩を割り、粘土で付着させています。窯の高さは非常に低く、平均1.2m前後だと推定されています。

 岸岳古唐津窯の中では唯一、窯の上部構造である、隔壁が残存しており、肥前の登窯の構造を研究する上で、特に重要な遺跡です。この形式の窯では、窯詰め(焼成のために窯の中へ配置する作業)、焚き方などをこれまでの窯よりも、能率化することができます。それは、焼成時の上昇温度の均一化が得られるからだといわれています。

 飯洞甕上窯は、岸岳山麓の檜林の中にあり、そのすぐ下を渓流が流れています。また、北方約50mには、飯洞甕下窯があり、二つとも丘陵の西斜面に位置しています。

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(※ 前掲、口絵5。図をクリックすると、拡大します)

 発掘作業をする人々の姿が、撮影されています。

 この窯から出土した製品は全て陶器で、碗、皿、小杯、甕、等々でした。釉薬は、青唐津と呼ばれる土灰釉(雑木を燃やした天然の灰を原料とする釉薬)が主で、皿、碗、袋物等に広く用いられていました。透明釉(焼成後に光沢のある透明なガラス層を形成し、下絵の模様や土の色を活かす釉薬)は、碗や皿類に一部使用されていますが、丸皿はほぼ全て土灰釉でした。鉄絵や彫文装飾のものもありますが、その数は極少でした。
(※ https://www.sashoren.ne.jp/kitahata/karatuyaki_hp/1handoukameuekama/handokameuekama.htm

 その隣にあるのが、帆柱窯です。大字稗田字帆柱の国有林地内に所在し、等高線にほぼ直行して南東向きの斜面に築かれています。朝鮮の陶工たちが、築造した初期登り窯技術を、知る上で、非常に重要な遺跡です。

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(※ 前掲、口絵4。図をクリックすると、拡大します)

 窯は約21度の急勾配の斜面に作られています。その西側には、山地面を加工した段がみられ、窯壁から約50㎝離れて、柱穴と思われるピットが検出されました。焼成室の規模は、幅奥行とも約2.1mで、奥壁は高さ約15㎝で、温座の巣(磁器を焼成する登り窯で、室間の熱を冷まさずに炎を導く装置)となっています。
(※ https://www.sashoren.ne.jp/kitahata/karatuyaki_hp/5hobasirakama/hobasirakama.htm)

 この窯跡からは、陶器や陶片、窯道具などが、コンテナ約3箱分出土しました。製品としては、碗・皿・片口・瓶・甕・鉢などがあり、窯道具としてはトチン・ハマ(焼成の際に、器の変形を少なくするために下に敷く、素焼きの台)が出土しています。

■出土した焼物

 岸岳古窯跡から、さまざまな焼物が出土しました。

 たとえば、皿類があります。

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(※ 前掲、口絵7。図をクリックすると、拡大します)

 そして、碗類があります。

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(※ 前掲、口絵8。図をクリックすると、拡大します)

 さらに、小杯、瓶類があります。

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(※ 前掲、口絵9。図をクリックすると、拡大します)

 さきほどご紹介した飯洞甕下窯では、鉄絵装飾の初期製品が焼かれていました。

 鉄絵の技法とは、鉄分を含んだ顔料(鬼板、鉄砂など)を筆に含ませ、素焼き前、または直接、胎土(土器や陶磁器の本体を形づくる材料となる土)に、草花や動物、器物などを描く技法を指します。その上から、灰釉(植物の灰を主原料とした天然釉薬)や長石釉が掛けられ、焼成されることで、黒褐色や飴色の文様が半透明の釉薬の下に現れます。
(※ https://kusaomi-yomoyama.seesaa.net/article/201010article_3.html

 また、発掘調査の結果、飯洞甕上窯には、焼成室間の段差が無く、割竹形の登窯で最も古い形態の一つであることが、確認されています。

 この窯では、緑透色の土灰釉と透明釉が、多用されていました。これらは、その後、唐津焼諸窯の主流となる釉薬ですが、この窯の構造とも相まって、特色のある焼物が作られていました。

 発掘調査された古窯群や、出土した多数の焼物などから、窯の構造はもちろんのこと、使用された釉薬など、陶器生産に関わる全てが、朝鮮の影響を大きく受けていることが明らかになったのです。

■波多親公が、陶器生産を始めた時代背景

 長年にわたる岸岳古窯発掘調査によって、肥前の陶器生産の基盤は、李朝の生産技術を基盤としていたことが確認されました。波多親公は、朝鮮の材料や技術や生産様式をそっくりそのまま導入して陶器生産を始めていたのです。

 こうして日本の陶器製造に、新たな地平が切り開かれました。

 岸岳城跡周辺から発掘された陶器類には、それまでの日本の陶器には見られない味わい深さがありました。とくに茶器や水指などの茶道具は、色合いやデザイン、形状がバラエティに富み、独特の奥深さが滲み出ていました。朝鮮の製造システムを導入することによって、観賞に耐えるものが次々と製造されていたのです。

 波多氏が陶器製造を始めたのが、1580年代から1590年代にかけての期間だと考えられています。まさに戦国時代の真っただ中で、その頃、武将たちの間で茶の湯が流行していました。

 それは、織田信長や豊臣秀吉などのトップリーダーが、政治的手段として、茶の湯を利用していたからでした。もちろん、殺伐とした社会状況下で、茶の湯は武将たちの精神的な癒やしにもなっていました。

●茶の湯の政治利用

 そもそも、茶を嗜む喫茶文化は、鎌倉時代に、禅宗と共に、日本に流入してきました。南北朝時代になると、守護大名たちが競って、茶会を催すようになり、茶の湯は、いつしか、武家社会の饗応の一種となっていったのです。

 室町時代には、将軍の御成(外出)が、主従関係を示す武家儀礼として機能し始めます。それに合わせ、室礼(建具や調度品を配置して、茶席を作る)が重視されるようになりました。その結果、武将は、茶の湯を開催して権力を見せつけるだけではなく、茶道具そのものに政治的な意味を持たせるようになりました。

 論考褒章として、家臣に茶器を授与するようになったのです。

 大名は競って、唐物(中国製)、とりわけ「名物」と呼ばれる茶道具を集めるようになりました。唐物、あるいは、高額で希少性のある茶器が高く価値づけられるようになっていきました。

 たとえば、足利将軍に由来する茶器が市場に流出すると、「名物」茶器として認識され、名物を鑑賞する茶会が開かれるようになります。このような「名物」飾りを行う茶の湯は、大名茶湯と呼ばれていました(※ Wikipedia)。

 茶の湯を政治的に利用したのが、織田信長です。

 まず、室町将軍に所縁のある東山御物を中心に、「名物狩り」といわれる、茶道具の蒐集を行いました。これには、東山御物を蒐集することで、足利将軍家の権威を自らに投影しようとする、信長の目的があったと考えられています。

 信長は、収集した御物を誇示するために、茶会を開き、褒美としてそれら名物を、功績のあった配下の武将に与えました。「名物」茶道具は、一国一城に匹敵すると位置づけ、論功行賞に用いたのです。(※ 竹本千鶴、『織豊期の茶会と政治』、思文閣出版、2006年、pp.23-24)。

 茶の湯は、武家社会を生き抜く外交手段として、あるいは、戦争に明け暮れる日々の癒しと安寧を求める場として、さらには、一種の教養として、武士にとっては必須アイテムになっていったのです。

 波多氏が陶器製造を開始したのは、ちょうど戦国時代の真っただ中でした。

 秀吉が、三木城に籠った別所長治を兵糧攻めにした天正八(1580)年から、天正十七(1589)年の小田原征伐、天正十八(1890)年の奥羽再仕置きに至る期間に相当します。秀吉による天下統一がまだ達成されておらず、全国各地で戦国大名たちが群雄割拠しており、殺伐とした社会状況でした。

 戦国時代、武将にとって茶の湯は、ますます必要不可欠な文化になっていきました。質のいい茶器の需要が高まっていたのです。

 当時は、戦場でも茶の湯が開催されていました。

■秀吉、三木の付城で、初陣茶会

 三木合戦とは、天正六(1578)年三月から、天正八(1580)年一月十七日までの一年十ヶ月にわたる戦いを指します。秀吉を主将とする織田信長勢と、毛利輝元を後ろ盾とする三木城主別所長治勢とが、三木城を戦場に激しい戦いを繰り広げました。

 興味深いことに、秀吉はこの時、三木城を取り巻く付城の一つで、初陣茶会を開いているのです。

 三木城は難攻不落の城でした。苦戦した秀吉は、三木と明石浦魚住との間の通路を塞ぎ、兵糧の搬入を遮断しました。三木城の食糧不足が深刻になった段階で、秀吉は三木城に攻勢をかけたのです。別所長治は、城兵の助命を条件に降伏せざるをえず、秀吉の降伏勧告を受け入れました。天正八(1580)年一月十八日、別所一族は自害し、三木城を明け渡しました。

 勝因となったのが、付城戦術でした。

 付城とは、相手の数倍の数の兵で城を囲み、水や食料、その他の備蓄、軍需物資などの枯渇を図る戦術です。相手方の正確な状況判断を困難にさせることによって、絶望感を与え、士気の低下を誘発する効果があります。

 三木合戦の場合、秀吉は、周囲に付城をいくつも築造することによって、兵糧攻めを行いました。

 付城は、三木城の周囲を東西約6km、南北約5kmの範囲に、約40城が存在していたとみられます。三木市が遺跡として把握しているものは28城あり、そのうち明確に付城遺構として現存しているものは21城を数えます(※ 三木市ホームページ)

 三木合戦のさ中、天正六(1578)年十月十五日に、秀吉は茶会を開催しました。この戦場の茶会には、堺を代表する豪商であり茶人であった津田宗久が参加していました。宗久は、手水の間に、「四十石」の茶壷が置かれていたことを記しています。

■唐物茶壷

 「四十石」といえば、天正(1573-92)年間で高名な真壷の一つでした。その頃、「3日月」、「松島」、「八重桜」、「四十石」、「松花」などが名だたる茶壷でした。ところが、「3日月」と「松島」は、信長の手元にあったので、本能寺の変の際に焼失し、「八重桜」は、近江国の坂本城で、明智秀満の死と共に消滅しました。足利義政が所有していた茶壷のうち、三品がなくなってしまったのです。以来、「四十石」が天下一の壺と称されており、「松花」と共に秀吉の手元にありました。
(※ https://turuta.jp/story/archives/9757)

 「八重桜」については、次のような言い伝えもあります。

 明智秀満は、本能寺の変では先陣を切って攻め入り、計画通りに信長を倒しました。こののち光秀から別働隊を与えられ、山崎の戦いには加わらずに信長の本拠地だった安土城に入ります。

 ところが、光秀敗死の報告が入ったため、秀満は安土城を捨てて坂本城に向かいました。坂本城に向かう道中、秀吉の家臣・堀秀政と遭遇した秀満は、馬と一緒に泳いで琵琶湖をわたったといわれ、「明智左馬助湖水渡り」の伝説が生み出されました。

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(※ 歌川豊宣筆『新撰太閤記』)

 安土城と坂本城は琵琶湖を挟み、ほぼ東西に向かいあっていました。秀満は咄嗟の判断で、湖水渡りに挑んだのでしょう。なんとか坂本城までたどり着いたのですが、堀秀政の軍勢に包囲されて万策尽きてしまいます。

 秀満はついに、坂本城に残されていた光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自らも命を絶ちました。秀満はこれに先立ち、光秀がコレクションした茶器や刀剣などの名品が消失しないよう、目録を添えて、秀吉側の堀秀政に引き渡したといわれます。
(※ https://shirobito.jp/article/619)

 一方は、明智秀満の死とともに、「八重桜」が消失したというエピソードであり、他方は、「八重桜」をはじめとする名物を残すため、コレクションリストとともに、敵方に引き渡したというエピソードです。

 主君に殉じ、「名物」もろとも死を選ぶのか、それとも、「名物」の命を尊重し、敵方に託して移譲し、自らは自害するのか、二つのエピソードからは、究極の選択を迫られた明智秀満の姿が思い浮かびます。

 どちらのエピソードが真実なのかはわかりません。ただ、主君から預かった「名物」を守り抜こうとした明智秀満の立場からすれば、どちらのエピソードの可能性も考えられます。唐物茶器そのものが貴重であっただけでなく、なによりも、茶器は主君とのつながりの象徴でもあったからです。

 さて、残った唐物茶壷の二つのうち、「四十石」は、葉茶七斤半(約4.5kg)が入る容量の真壺で、逸品とされていました。秀吉はこの茶壷に信長からもらった茶葉を入れていました。茶壷といい、信長からもらった茶葉といい、誇示するには十分なほどの最高級のものを秀吉は所有していました。
 
 戦場で開いた茶席で、それらを惜しげもなく、披露していました。

■現存する唐物茶壷「松花」

 当時、秀吉が所有していたとされるのが、「四十石」と「松花」でした。ところが、現存するのは「松花」だけになってしまいました。以来、「松花」は最も著名な「大名物」であり、茶会記などにも頻繁に登場しています。唐物茶壺の典型を知ることができる、貴重な作品だといえます。

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(※ 唐物茶壷、高39.7㎝ 口径11.6㎝ 胴径33.2㎝ 底径12.7㎝、南宋から元時代、徳川美術館所蔵。図をクリックすると、拡大します)

 唐物茶壷「松花」は、南宋から元の時代(1201-1400)に製作された、大型の四耳壺(肩部に4つの環状のツマミが付いた陶器の壺)です。肩の四方に耳をつけ、素地は鉄分を多く含んだ灰色の陶胎(陶器の素地)で、器の表面は黒褐色から赤褐色に焼け焦げています。

 外面は、胴下半まで、白化粧土(赤土などの色土の表面に塗る白色の粘土泥)を施していますが、胴下部から底部は、土見せとしています。一部は淡赤褐色を呈し、裾は底に向かって、幾条もの流れを作り、風情を添えています。

 胴上半の化粧土(成形後の素地の表面にコーティングし、色や質感を変えるために用いる白色または着色された泥状の粘土)の上には、灰釉(植物の灰を主原料とした天然の釉薬)を施して、二重掛けとしています。灰釉は暗黄緑色を呈し、全体に胡麻のような小さな黒斑が見られます。釉の裾には、一部青色を呈する釉溜まりを作っています。
(※ 文化遺産オンライン)

 素朴でありながら、端正な形状には、奥ゆかしさが感じられます。二重掛けされた白化粧土(赤土などの色土の表面に塗る白色の粘土泥)や、灰釉の一部が流れ出し、興趣ある変容を生み出しています。

 こうしてみると、確かに、「松花」は、現存する唐物茶壺を代表する作品の風格を備えています。

 日本に持ち込まれて以来、茶人や権力者に所持されてきた来歴が確認されており、茶道文化史上貴重な資料にもなっています。

 所持歴をみると、まず、もと管領・斯波氏が所持していたと伝えられ、以後、村田珠光、北向道陳、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと伝わっています。そして、駿府御分物として徳川義直へ譲られ、その後、尾張徳川家に伝来しました。
(※ 文化遺産オンライン)

 茶会記録によると、天文十一(1542)年四月九日、松屋久政茶会(『松屋会記』)で、初めて、この茶壷の存在が確認されています。天正年間には津田宗及および他の茶会(『天王寺屋会記』)にも、たびたび登場しています。また、天正十五(1587)年の北野大茶之湯では、豊臣秀吉の茶席で、今井宗久の道具として用いられたことがわかっています(※ 前掲)。

 「松花」には多くの為政者たちの所有歴があり、しかも、重要な茶会で、何度も披露されてきました。為政者や武人から、高く評価されて権威づけられ、政治の場で活用されてきたからに他なりません。

 さて、唐物茶壷「松花」には、素朴な中に奥ゆかしさがあり、見る者の心を和ませてくれる佇まいがあります。この唐物茶壷に似た雰囲気が、岸岳城古窯跡から発掘された陶器類に見受けられました。

 出土品の中から、碗と瓶を見てみることにしましょう。

■飯洞甕上窯から出土した碗と瓶

 飯洞甕上窯から出土した碗と瓶を見てみることにしましょう。

 まず、碗です。

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(※ 口径 12.6㎝、底径 5.2㎝、器高 6.5㎝、「北波多村文化財調査報告書」。図をクリックすると、拡大します)

 釉薬は土灰(釉薬の媒溶剤)が使われており、畳付(底部分)には、回転糸切(ろくろ上の作品を切り離す)痕が残っています。

 次に、飯洞甕上窯から出土した瓶を見てみることにしましょう。

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(※ 口径 不詳、底径 5.0㎝、器高 不詳、「北波多村文化財調査報告書」。図をクリックすると、拡大します)

 釉薬は土灰(釉薬の媒溶剤)が使われており、ロクロで成形されています。

 飯洞甕上窯から出土した陶器の釉薬は、いわゆる青唐津と呼ばれる土灰釉が主で、皿、碗、袋物などに広く用いられていました。透明釉は、碗や皿類に一部使用されていましたが、丸皿は、ほぼ全て土灰釉でした。

 ちなみに、透明釉とは、焼成後にガラス質の透明な膜となり、素地や下絵の柄を見せる陶芸用の釉薬を指します。

 石灰釉(長石、石灰、カオリン、珪石を主原料とする一般的な透明釉)や灰釉(植物の灰を主原料とした天然の釉薬)が代表的なもので、1200℃〜1250℃の温度で溶けるものが多く、染付や色釉の保護・艶出しに使われます。

 碗や皿類の畳付(底部分)は、ロクロを回転して丁寧に削っています。
(※ https://www.sashoren.ne.jp/kitahata/karatuyaki_hp/1handoukameuekama/handokameuekama.htm#20)

 観賞に耐える陶器が、岸岳古窯跡から多数、出土していたのです。岸岳城周辺で製造されていたのは、当時、武士の間で流行っていた茶席には恰好のものでした。

■戦国時代に求められた茶の湯

 時間をかけて茶葉を挽き、湯を沸かして茶を点てて、一碗の茶を静かに喫するというのが、喫茶文化です。鎌倉時代に伝わってきたとされる喫茶文化は、戦場の中でも、必要とされていました。茶の湯に関わる一連の行為を通して、武将たちは、つかのま、戦場の殺伐とした気分を落とし、平常心を取り戻すことができたからです。

 戦場で武士は、敵と戦い、生か死を迫られます。生き残るには、敵を倒すための強い精神力が不可欠ですが、首尾よく生き残ったとすれば、今度は、人を殺したことの罪悪感に襲われます。戦う前のはかり知れない不安と、生き残った後の強い自責の念に苛まれるのです。

 避けることのできないその種の恐怖あるいは、葛藤から逃れるには、克己心が必要でした。

 禅宗は、座禅の修行を通じて、自己の内面を見つめ、本来備わっている仏性に気づいて悟りを開くことを目指します。経典に収められた知識よりも、座禅という実際の修行を重視するのです。

 修行の中心は座禅です。正しい姿勢で座り、心と体、呼吸を整えることで、精神統一を行います。そして、自ら気づき、自ら悟っていくのです。経典や言葉によって教えられるのではなく、修行を通して、自ら会得していくのが、禅宗の教義です。生と死に向き合って、生きていかざるをえない武士にとって、心と体を整え、精神統一を行う禅宗は、なによりも生きる支えになりました。

 禅宗は、鎌倉時代に日本に伝来し、武士を中心に広まりましたが、それは、戦場に赴く武士たちが、その種の精神的支えを必要としていたからでした。その禅宗とともに日本に入ってきたのが茶の湯の文化でした。

 波多氏が岸岳城下で、朝鮮陶工を呼び寄せ、陶器製造を始めたのが、戦国時代の真っただ中でした。全国各地で戦闘が繰り広げられる一方、茶の湯は政治文化として、武将たちに深く浸透していきました。良質の茶器が求められ、茶器の価値づけが行われるようにもなっていました。波多氏の陶器生産は当時の社会的需要に応じたものだったのです。
(2026/3/31 香取淳子)

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