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波多三河守親公と唐津焼の起源

波多三河守親公と唐津焼の起源

■岸岳古唐津

 前回、有田焼についてご紹介してきましたが、肥前地方でもっとも古い焼物は唐津焼です。その起源については諸説あって、定説はありません。ただ、戦国時代に松浦党(肥前松浦地方で組織された武士団の連合)の波多氏が、居城の岸岳城周辺で陶器生産を行わせていたことは明らかになっています。

 実際、岸岳城周辺から窯跡や焼物が出土しており、出土した焼物は岸岳古唐津と呼ばれています。「古唐津」と呼ばれているということは、これが唐津焼の源流なのでしょう。

 平成三十(2018)年、岸岳城周辺を発掘調査した報告書が刊行されました。

■岸岳古窯跡の発掘調査

 唐津市教育委員会は、平成九年度から平成十七年度(「1997-2005)にかけて、発掘調査を行いました。その結果をまとめ、「唐津市文化財調查報告書 第178集」として刊行したのが、『岸岳古窯跡群IV-統括報告書―』(2018年3月)です。

 この報告書の「第1章 はじめに」では、唐津焼の起源について、次のように記されています。

 「岸岳古窯跡の起源については諸説があるが、文禄・慶長の役に先立ち、上松浦党の盟主である波多氏が、朝鮮半島から陶工を呼んで1580~90年代に開窯したと考えられている。この説によると岸岳古窯跡は、唐津焼の源流であるだけではなく、日本最古の登り窯群ということとなる。」(※ 『岸岳古窯跡群IV-統括報告書―』、p.1)

 この記述によって、岸岳古窯跡が、①秀吉による朝鮮出兵以前に、波多氏が朝鮮から陶工を呼んで開窯したものであると考えられていること、②唐津焼の源流であるだけではなく、日本最古の登り窯群であるといえること、等々を確認することができました。

 さらに、次のようなこともわかりました。

 「肥前陶器は、慶長年間(1596~1615) 頃には急速に商圏を広げ、伝統的な窯業地である瀬戸・美濃製品と、国内市場をほぼ2分するまでに成長する。「瀬戸・美濃焼」が従来の国産技術により製作されたのに対し、「唐津焼」はその当初から、朝鮮半島の先進的な技術体系を、丸ごと移植した形で生産を開始しており、特に「登窯」と呼ばれる大型の窯は、一度に大量の製品を低コストで焼くことが可能で、国産高級陶器と同等品を、より低価格で供給できるようになった。なおこの技術体系は、肥前では陶器のみならず磁器生産においても根幹的技術として共有され、さらに「登窯」の構造は、肥前国内だけではなく瀬戸・美濃など全国の窯業地に伝わっていく。」(※ 前掲、p.19)

 興味深いのは、瀬戸焼、美濃焼が国産技術によって製造されていたのに対し、唐津焼が、「その当初から朝鮮半島の先進的な技術体系を、丸ごと移植した形で生産を開始」した焼物であり、「登窯」を使って製造されていたことでした。

 そして、朝鮮の技術を使って製造された唐津焼が、慶長年間のわずか二十年足らずの間に、急速に商圏を拡大し、伝統的な産地である瀬戸や美濃の焼物と陶器市場を二分するまでに成長したというのです。当時、朝鮮の焼物技術やデザインの方が、国産のものよりはるかに秀逸であったからに他なりません。

 その一つが製造方式でした。

●登り窯の導入

 松浦郡の波多三河守の岸嶽(岳)城山に築造された飯洞瓶窯が、唐津焼の始まりだといわれています。この窯は「竹割式の登窯」で「現在も深林中に多少残って居る」と書かれています。おそらく、これらの窯が発掘調査の対象となったのでしょう。

 割竹形連房式登窯とは、側壁が直線的で一基の窯の内部が複数の焼成室に分割されているもので、焼成室間の段差が少なく、通焔孔は粘土を巻いたり、石を四角柱状に加工したものを柱にしていました。

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(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 16世紀末、波多氏が、朝鮮半島の陶工たちに築造させたのが、割竹形連房式登窯でした。そして、この窯で焼かれた最古の焼物が、岸岳古唐津です。

 肥前では磁器を生産する際も、「登窯」を使いました。炉内を仕切り、斜面等の地形を利用して燃焼ガスの対流を発生させる仕組みの「登窯」は、焼物を焼成する際、高温を一定に保てるからでした。陶器を焼く温度は1000度から1300度ですが、磁器は1300度から1400度の高温を一定に保つ必要があるのです。
(※ https://saga-museum.jp/ceramic/yakimono/qa/05.html)

 報告書には、発掘調査された「登窯」の全景写真が添えられていました。

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(※ 前掲、報告書、口絵写真、図をクリックすると、拡大します).

 確かに、炉の中が一定の大きさで区切られているのがわかります。斜面を利用して高低差をつけて、熱の対流を発生させ、一定温度に保つ仕組みになっているのです。

 「登窯」は、一定レベルの品質を保持したまま、大量に焼物を生産するのに有効でした。これまで日本の陶工たちが使っていた窯では不可能なほど生産性の高いものだったのです。朝鮮から導入されたこの様式の窯はやがて各地の窯業地に導入されていきました。

 出土した焼物には藁灰釉が施された焼物がありました。

●藁灰釉の茶碗

 岸岳城下の窯で製造された焼物には、藁灰釉の碗や皿がありました。藁灰釉とは、稲の藁を焼いた灰を主成分とする釉薬で、酸化焼成で白く乳濁した色合いになるのが特徴です。これもまた、それまでの日本にはなく、朝鮮から伝わった技法でした。

 藁灰釉を使った茶碗の画像がありましたので、ご紹介しましょう。

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(※ https://touroji.com/choice/cyousengaratsu.htmlより。図をクリックすると、拡大します)

 この茶碗は、唐津焼の一種である朝鮮唐津だと説明されています(※ 上記URL)。下が鉄釉(黒)、上が藁灰釉(白)の組み合わせで作られており、素朴な味わいの中に、そこはかとない奥行きが感じられます。釉薬が混ざり合った部分がにじみ、藁灰釉の中に鉄釉がゆらめく様子が美しく表現されているのが印象的です。

 藁灰釉ならでは白く乳濁した上部を、黒の鉄釉部分が下から支える構図で、炎のように文様化されています。鉄釉と藁灰釉の対比、相互に混ざり合った部分のにじみ具合が秀逸です。このような表現を可能にしたのが藁灰釉でした。

 このように材料から技法、製造装置に至るまで、丸ごと朝鮮から移植して製造された唐津焼が、当時の日本の陶器市場を席捲していたのです。

 発掘調査された岸岳古唐津の報告書には、さまざまな焼物の写真が掲載されていました。

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(※ 前掲、報告書、口絵写真、図をクリックすると、拡大します)

 この写真を見ると、大きな壺や茶碗、茶器、小皿など、さまざまな焼物が作られていたことがわかります。いずれも素朴な味わいのある陶器です。

 とくに茶器と思える焼物には、大橋康二氏が指摘するように、「千利休(1522-1594)の侘び寂の影響を受けた形跡」が見受けられます(※ 大橋康二、「江戸初期における肥前磁器の開発過程について」、『佐賀県立九州陶磁文化館 研究紀要』第6号、2021年、p.3)。

 釉薬を施された唐津焼の茶器の普及が、茶の湯の普及と密接な関係にあったことは疑いようがありません。

 そして、唐津焼は、慶長年間に、国産の瀬戸焼や美濃焼と市場を二分するほどの勢いで発展しました。それは、朝鮮人陶工によって伝えられた技法と「登窯」という製造装置によって、より質の高い焼物を、より安価で大量に生産できるようになったからでした。

 岸岳古窯跡調査の結果から、釉薬が施された唐津焼は、秀吉の朝鮮出兵以前に焼かれていたことがわかりました。果たして、これが唐津焼の起源なのでしょうか?

■唐津焼の始まりはいつか?

 唐津焼の始まりについては、次のような記述があります。少々、長いですが、引用しましょう。

 「唐津焼の起源は勿論傳説であるが、今より千六百六十餘年前、神功皇后三韓御征伐の御時人質として三韓の王子を連れられ松浦郡草野郷に御凱陣の上同郡左志郷内に置き、高麗小次郎冠者、新羅太郎冠者、百済藤平冠者と呼び給ふた。今以て此地を小次郎冠者居住の地を小十冠者村、太郎冠者の所を大良村、藤平冠者の所を藤の平村と世々三王子の名を稱へて居る。小次郎冠者は居所の地で陶器を製造し神功皇后へ献納した。其当時は陶器の一種瓦の極めて堅硬の物で、まだ釉薬を施してはない。」(※ 金原京一、「肥前古窯に就て」、『大日本窯業協會雑誌』40巻、480号、1932年、p.790)

 この文章からは、①陶器の製造が朝鮮渡来の技術であること、②三韓征伐の際、人質として連れてこられた高麗の小次郎冠者が、製造して神功皇后に献納したこと、③この陶器には、まだ釉薬が施されていないこと、等々がわかります。

 ちなみに、三韓征伐とは、神功皇后が朝鮮半島の新羅、百済、高句麗を制圧し、服属化したという伝承を指し、『日本書紀』の神功皇后紀に記されています。三世紀ごろのお話です。また、文中、何か所か「冠者」という単語がでてきますが、成人男子という意味です。

 さて、それから約四百年後の斉明天皇の頃、唐津の山麓で、高麗製陶の技法で、大形の茶碗が作られましたが、それにも釉薬は施されていませんでした。

 釉薬のある陶器が製造されるのは、それからさらに六百餘年後のことでした。

 「釉薬のある釉薬のある唐津焼は、今より六百餘年前元享年間に東松浦郡波多三河守の岸嶽城山飯洞瓶窯に始まって居る。系統は朝鮮北方系にして窯は竹割式の登窯で現在も深林中に多少残って居るのである。之より帆桂窯、飯洞瓶上窯、小次郎冠者窯、岸岳皿屋敷窯、道納屋谷窯、平松窯、大谷窯と分窯が出来」と記されています。(※ 金原京一、前掲、p.790)

 釉薬が施された陶器を唐津焼とするなら、元享年間(1321-1324)、すなわち、鎌倉時代が始まりだということになります。「波多三河守の岸嶽城山飯洞瓶窯に始まって居る」と記されており、波多三河守が岸岳の城山飯洞瓶窯で焼かれたものが最初だということが示されています。

 ところが、先ほどご紹介した発掘調査報告書では、「1580-90年代」が、唐津焼の起源だと書かれており、金原氏の見解とは齟齬があります。その後、書かれたいくつかの論文を読むと、年代は明記されてはいないものの、秀吉の朝鮮出兵以前が期限だという点で見解が一致していました。

 調べてみると、唐津焼の起源については、先ほどご紹介した金原京一氏の鎌倉時代説、水町和三郎氏の室町時代説、佐藤進三氏の桃山末期説などがあることがわかりました。
(※ https://kusaomi-yomoyama.seesaa.net/article/201009article_1.html)

 識者によって三者三様、唐津焼の起源の時代認定は異なっていました。とはいえ、織田信長以前の遺跡から出土した例がなく、天正十九年(1591)年、天正二十(1592)年のものは現存しているので、唐津焼の始まりは天正年間だと考えられています(※ 大橋康二、『日本のやきもの 唐津』、淡交社、2003年、pp.82-83)。

 松浦郡の波多三河守が、岸岳城山飯洞瓶窯で、朝鮮陶工に造らせたものが、唐津焼の起源なのです。朝鮮式の窯で、朝鮮陶工によって、朝鮮技法に則って焼成されたものが唐津焼でした。窯から材料、製造技法に至るまで、まるごと朝鮮から移植した焼物だったのです。

 最後の領主が波多三河守親公でした。

■波多三河守親公

 波多三河守親公の来歴を調べていると、次のような文書があるのに気づきました。

 「岸岳城主波多三河守は、嵯峨天皇の皇子源融公を始祖とし、七代の後孫源新太郎久公を党祖とする。平安後期久公九州に下向し、その第二子源二郎持公は、波多郷に封を受けて此の地に来り、岸岳山麓に舘を構え、郷名により波多氏を名乗る。のち岸岳城に拠り、子孫相承けて封土を守り、経倫に努め、波多三河守親公に至る。その間、時により盛衰をみるも上松浦諸氏の中に在りて、一等他を抜きんじ智勇兼備と庶民悦服の仁政を以て、上松浦党の首領となり、その雄名は鎮西青史に輝く」 
(※ https://web.people-i.ne.jp/~houanji/hatamikawanokami.html、読みやすくするため、句読点は筆者が追加)

 郷土史家の山﨑猛夫氏が、「波多三河守」について、平成五(1993)年四月十二日付で書いた文章です。

 これを読むと、波多三河守は、嵯峨天皇(786-842)の皇子を始祖とする家系で、七代目源新太郎久公を党祖(松浦党)とし、平安後期に九州に来たようです。第二子の源二郎持公が、波多郷を授けられて岸岳山麓に居を構え、波多氏を名乗るようになりました。

 以後、波多氏は、岸岳城を築城し、代々、領地を守って仁政を敷き、第17代党首波多三河守親公まで続いたことがわかります。平安時代から戦国時代までの間、紆余曲折あったでしょうが、波多氏は、総じて、松浦の領地を穏やかに治めてきた由緒ある武士の家系だったのでしょう。

■武将に好まれた朝鮮伝来の茶器

 発掘調査からは、岸岳城下で朝鮮陶工によって窯がいくつも築造され、さまざまな焼物が生産されていたことがわかりました。松浦党の波多三河守は、朝鮮半島に近い地の利を生かし、容易に朝鮮陶工を連れてくることができたのです。

 唐津焼を代表するものとして絵唐津があります。絵唐津茶碗の白眉といわれる「鉄絵菖蒲文茶碗」をご紹介しましょう。

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(※ 口径12.0㎝、高さ9.7×9.3㎝、1580-1610年代、田中丸コレクション蔵、図をクリックすると、拡大します)

 上の写真は、絵唐津の茶碗です。淡い灰釉に鉄顔料で描かれた菖蒲の姿に何ともいえない興趣があって、印象的です。絵唐津は、鉄顔料で絵付けし、長石釉を掛けて焼き上げる技法で造られており、唐津焼の代表的な焼物です。草花や抽象的な文様を奔放に描いた絵柄が特徴で、侘びさびが感じられます。慶長年間以降、盛んに生産されるようになりました。

 当時、茶の湯が武将や豪商の間で流行っており、素朴な味わいのある茶器への関心が高まっていました。特に好まれていたのが、高麗茶碗など朝鮮伝来の茶器でした。

 それでは、高麗茶碗が一体、どのようなものなのか、ご紹介しておきましょう。

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(※ 井戸茶碗、銘/喜左衛門(国宝)、16世紀、大徳寺孤篷庵蔵)

 上の写真は、朝鮮伝来の高麗茶碗の中でも、格別の佇まいを見せているものです。喜左衛門の銘が入った井戸茶碗で、粉青砂磁の井戸茶碗ならではの風格が印象深く、唯一、国宝に指定されています(※ https://yoi-art.seesaa.net/article/201312article_1.html)。

 枇杷色の釉薬を施されたこの茶碗には、素朴な風情が感じられる一方、力強さもあります。まさに戦国武将の精神や茶人の美意識に合致した焼物だといえます。「井戸茶碗」として珍重され、侘び茶の象徴になったといいます。

 最後に、唐津焼の水差しをご紹介しておきましょう。

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(※ https://touji-gvm.com/showroom/000117madarakaratsu/、図をクリックすると、拡大します)

 上の写真は古唐津斑釉水指で、唐津焼の一種の焼物です。古唐津斑釉が施されており、青や黒色の斑の模様が器面に出ているのがわかります。長石と藁灰を混ぜた釉薬を上から掛け、焼成することで、胎土に含まれる鉄分が滲み出てきて、白濁した唐津の釉薬と混ざり、斑模様になっているのです。この斑模様に特徴があるので、斑唐津とも呼ばれています。

■侘びさびの精神と美学

 絵唐津の茶碗と高麗茶碗、そして、古唐津焼の水差しをご紹介してきました。いずれも淡く素朴な味わいの中に幽遠な趣が感じられます。いつまで見ていても、見飽きることのない深さがあるのです。

 茶碗の形状には歪みがあり、絵柄は粗く、決して精緻なものではありません。水差しの表面も不規則な斑模様になっています。いずれも、どこかしら歪みがあり、不揃いで、不完全な形状をしているのが印象的です。

 その不完全性の中に、想像力を働かせる余地があり、思考を促す手がかりがあるのでしょう。器の色彩にも、不均衡、不均質であるがゆえの複雑さと奥行きが感じられます。利休が大成した精神や美学が、これらの焼物に内包され、息づいていることがわかります。

 波多三河守が、窯業を領地の基幹産業として、発展させようとしたのも当然でした。

 唐津焼の中には、侘びさびの精神と美学がしっかりと組み込まれていたのです。今後、茶の湯が武将の嗜みとして、生活文化の中に根付いていくとすれば、唐津焼に対する需要は高まるはずでした。質の高い唐津焼を量産すれば、領内の財政基盤を高めることができると考えたのかもしれません。

 波多三河守親公は窯業に力を入れ、量産体制に入りました。

 この時期に波多三河守親公が生産していた唐津焼は、さまざまな地域に陶器や茶碗、皿などが関西、山形、秋田などで出土しています。
(※ 大橋康二、「世界に輸出された肥前陶器」、『佐賀県立九州陶磁文化財 研究紀要』第10号、2025年、p.5)

 秀吉が朝鮮出兵を企てる以前に、波多三河守親公は唐津焼を生産開始していたのです。
(2026/02/14 香取淳子)

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