■李参平
文禄・慶長の役で朝鮮に遠征した西国大名たちは、慶長三(1598)年、豊臣秀吉が亡くなったために撤退する際、朝鮮人陶工を日本に連れ帰りました。彼らは九州地方を中心に釉がかかった施釉陶器(成形・素焼きした陶器の表面に、ガラス質の釉薬を掛けて本焼きした焼き物)の生産を始めました。
この文禄・慶長の役には、当時、藩主であった龍蔵寺氏に代わって鍋島直茂(1538-1618)が出陣し、多久 安順(1566-1641)も随行していました。
西国大名のうち、佐賀藩が最も多くの朝鮮人を連れ帰ったといわれています。その中には、医薬に通じた者、能書家、製塩家、農民、漆工、飴工などが含まれており、陶工の数はそれほど多くなかったようです(※ 丸山雍成、「有田焼の生成・発展と流通構造(一):その若干の素描」、『九州文化史研究所紀要』、30号、1985年、p.56)。
この時、連れてこられた陶工の中の一人が李参平でした。鍋島直茂は。多久安順に命じて佐賀城下まで連れてこさせ、出身地にちなんで日本名を金ケ江三兵衛とし、多久に預けています。よほど李参平を見込んでいたのでしょう。
実は、朝鮮遠征時に彼は、鍋島直茂や多久安順に忠誠を尽くし、信頼を得ていました。しかも、朝鮮で焼き物の経験があり、陶土についても知識がありました。鍋島らにとって、きわめて有用な人材だったのです。
多久安順は、李参平に「焼物試」の免許を与え、自由に能力を発揮できるようにしました。まずは良質の陶石探しに着手しました。質のいい焼物を造るには良質の陶石が必要でした。
陶磁器に適した良質の土を見つけるため、李参平は佐賀藩領内の各地を巡回しました。いくつも掘削しては土質を調べていくうちに、とうとう有田で最高の場所を見つけました。それが有田郷上白川でした。
上白川に居住して焼物を造ったところ、確かに質のいい焼物が仕上がりました。当時、人里離れた辺鄙なところでしたが、評判を聞きつけた陶工たちが集まるようになり、次第に繁盛していきました。やがてその辺一帯が皿山となり、近隣随一の陶磁器製作の場となりました(※ 丸山、前掲、p.59-60)。
日本で最初の磁器が誕生し、安定して磁器を製造できるようになりました。
李参平のホームページには次のように記されています。
「金ヶ江家文書によると、鍋島藩初代藩主鍋島直茂公によって佐賀の地に連れてこられた李参平は初め鍋島藩の老中、多久家に預けられます。その領内で今までの技術を活かし築窯しましたが、思い通りの焼物が出来ませんでした。やがて、白磁に適した陶土を探すため鍋島藩内を歩きまわります。そして、1616年に李参平が有田の泉山にて良質の磁器鉱を発見したと書かれています」
(※ https://toso-lesanpei.com/history)
木本真澄氏は李参平の功績を讃え、次のように記しています。
「言葉も通じない異国の地で未開の土地を耕しながら磁器の原料の陶石を見つけ、生産にこぎつけた偉業に感服するばかりです。李参平はリーダーシップも備えた人物だったようで、『皿山代官旧記覚書』によると、窯焼き120人を統率する有田皿山のリーダーになっています」
(※ 大木真澄、『有田焼400年の歴史』、http://arita-episode2.jp/ja/history/history_3.html)
初代李参平の像があります。
こちら →
(※ https://toso-lesanpei.com/history、図をクリックすると、拡大します)
彼の業績を象徴するように、白磁で造られた座像です。
正面を見つめる眼差しに、哲学者の趣が見られます。言葉も通じない異国の地で、磁器製造に適した土地を見つけて陶石を切り出し、精錬して磁器を製造していった者ならではの気迫も感じられます。開拓者精神があり、失敗に負けない信念があり、完成作品に仕上げていく粘り強さが滲み出ているように思えます。
それでは、李参平が発見した泉山磁石場はいったい、どのような場所なのか、見てみることにしましょう。
■泉山磁石場
泉山磁石場は、元和二(1616)年、朝鮮人陶工・李参平(金ケ江三兵衛、生年不明-1655年没)によって発見されました。
こちら →
(※ https://www.driveconsultant.jp/detail/spot/1880.html、図をクリックすると、拡大します)
泉山の陶石には磁器に欠かせない石英やセリサイトが含まれています。その他に、カオリナイト、長石、少量の酸化鉄などが含まれています。わずかとはいえ酸化鉄が含まれているので、上の写真を見てわかるように、剥き出しになった岩肌が黄色くなっています。
陶石が発見されてからは、200年以上にわたって、徐々に切り出され、今では写真で見るような形状になってしまっています。十九世紀後半ごろから、有田地域の窯元は、熊本県天草から高品質の陶石を購入し始め、現在、有田焼のほとんどは天草の陶石で作られています。泉山磁石場は1980年に、国指定史跡に指定されました。
■大名たちはなぜ、朝鮮人陶工を連れ帰ったのか?
出征した西国大名たちは、慶長三年に朝鮮から撤退する際、現地の陶工たちを数多く、連れ帰りました。なぜかといえば、当時、武士階級の間で茶文化が流行しており、茶器に対する関心が高まっていたからでした。
茶人・千利休(1522-1591)は、織田信長(1534-1582)に仕え、その後、豊臣秀吉(1537-1598)にも仕えました。武士階級のトップ2と相対しながら、次第に茶道を確立していきました。それまでの中国ものを高級とする見方から、李朝の民窯の焼物を良しとする見方になり、侘び、寂の美を確立させていったのです。
(※ 山田友治、「李朝白磁の特質」、『東京工芸大学芸術学部紀要』巻13、2007年、p.63)
利休の茶人としての評価が高まる一方、上層の武士階級の間では、茶器の名品を権力者に贈答すること、大名同士で茶器を贈答し合うこと、茶の作法を習得し、茶会を開催すること、等々が、浸透していきました。政治関係の円滑化に大きな役割を果たしていたのです。
このような当時の状況を知れば、朝鮮の陶磁器に強い憧れを抱いていた西国大名たちが、朝鮮から撤退する際、多くの陶工を連れ帰った理由がわかろうというものです。
大名たちはそれぞれ、領地内に朝鮮人陶工を使って、領主主導の陶器窯を築かせました。卓越した技術を持つ陶工たちを厚遇したこともあって、各窯から優れた製品が次々と生産されるようになりました。
たとえば、薩摩藩は、朝鮮陶工に築かせた宇都窯や御里窯を、後に、鹿児島城下に移して堅野窯を御庭焼(大名や公家が自らの城内や別邸に窯を築き、趣味や観賞用として作らせた陶磁器)としました。そして、佐賀藩などの技術を導入して、色薩摩を作り出すことに成功しています。
宇都窯では、黒色系の彩釉(陶磁器の表面にガラス質の釉薬を施し、色鮮やかな色彩や美しいグラデーションを表現する技法)が行われ、これは古帖左(こぢょうさ)焼と呼ばれています。また、釉陶(釉薬)も作られるようになりましたが、その土と釉薬は朝鮮産を使っています。
福岡藩、熊本藩も同様です。朝鮮人陶工を連れ帰った西国大名はそれぞれ、朝鮮の技術を取り入れ、独自の作品を作るようになりました。
そのような中で、際立って成果を上げていたのが佐賀藩でした。
次回、詳しくみていくことにしましょう。
(2026/1/31 香取淳子)