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幕末・明治期の万博⑥:ナポレオン三世にとってのパリ大改造と1855年パリ万博

幕末・明治期の万博⑥:ナポレオン三世にとってのパリ大改造と1855年パリ万博

■パリ大改造を託したオスマン

 1850年当時、人口100万人を超える都市はヨーロッパではロンドンとパリしかありませんでした。ロンドンほどではありませんでしたが、大都会パリにも仕事を求めて外部から多くの人々が流入してきており、さまざまな問題が発生するようになっていました。

 前々回に、ご紹介した経済学者のシュヴァリエは、19世紀前半のパリの人口増の特徴として、働き盛りの男性が多いこと、季節労働者が多いこと等をあげています。とくにパリの中心部では人口密度が高く、衛生面、交通面、安全面で問題が多く発生しており、都市改造が焦眉の課題になっていました(* 松井道昭、『フランス第二帝政下のパリ都市改造』、日本経済新聞社、1997年、pp.75-81.)。

 ナポレオン3世は、このようなパリの過密状態を改善するため、街路幅を広げ、広場を整備する一方、新鮮な空気の補給源として公園の整備にも取り組みました。その計画は、ブローニュの森を左肺、ヴァンセンスの森を右肺とみなす人体モデルを念頭に構想したものだったといいます(* https://imp.or.jp/wp-content/uploads/2021/10/special-1.pdf)。

 ナポレオンは大統領就任すると早々に、当時のセーヌ県知事ベルジュ(Jean. Jacques Berger 1790-1859, 知事任期:1848-1853)に、パリ改造に取り組むよう指示しました。ところが、財政健全主義者であったベルジュは市議会と組み、事業実施を遅らせようと画策しました。そこで、第二帝政成立後の1853年6月に、ナポレオンはベルジュを解任し、ジロンド県知事であったオスマン(Georges-Eugène Haussmann、1809 – 1891)を新たなセーヌ県知事に任命したのです。

 ナポレオンが、オスマンに近隣自治体の併合令を引き渡した時の様子を描いた絵があります。アドルフ・イヴォン(Frédéric Adolphe Yvon, 1817 – 1893)が描いた作品です。

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(* https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Adolphe-Yvon/ 図をクリックすると、拡大します)

 併合令の引き渡しは1859年6月に行われました。書き付けを手にしたナポレオンがにこやかに足を踏み出し、オスマンもまた前のめりになってナポレオンに向き合っている様子が描かれています。ナポレオンがオスマンの力量と手腕を高く評価し、満足している様子が画面からうかがえます。

 セーヌ県知事への任命からすでに6年を経ており、パリ改造はオスマンの手で着々と進行していました。

 そもそも1853年6月29日に行われた知事叙任式に出席した時からすでに、ナポレオンはオスマンに期待を寄せていました。会議室に入るとナポレオンは、真っ先にオスマンの前に歩み寄り、現状況下でもっとも重要な地位にオスマンを就かせることができたのは喜ばしいと言ったそうです(* 前掲、p.96.)。

 実際、オスマンは胆力、根気、才気があり、統率力もありました。パリ大改造を託すにはまたとない人物だったのです。

■パリ大改造のために

 ナポレオンは、式典後の昼食会では、オスマンをウジョニー皇后の脇に座らせ、重用している姿勢を見せつけました。さらに、昼食後は、執務室にオスマンを招き、パリ改造に関する計画を打ち明けています。

 一方、オスマンは回想録の中で、当時の様子を次のように記しています。

 「皇帝は急いで私にパリの地図を見せた。それには工事優先度に応じて、皇帝自らが認めた青・赤・黄・緑の線が引かれていた。それは、皇帝が実行を提案するところの各種の新しい道路を示していた」(* 前掲。p.96-97.)。

 ナポレオンはすでにパリ改造計画を組み立てていたのです。時間をかけ、何度もシミュレーションをし、徹底的に練り上げていました。これまでの為政者の誰も手がつけられなかった大胆な改造プランでした。

 このパリ大改造を安心して任せられる人物は限られていました。

 皇帝の座に就くと、ナポレオンは早々に、ジロンド県知事であったオスマンを新たにセーヌ県知事に任命し、この壮大なプランを委託したのです。オスマンなら実行できるだろうと白羽の矢を立てていたのでしょう。当時、ナポレオンは45歳、オスマンは44歳でした。

 以後、オスマンはナポレオンに逐一、相談しながら、計画を実行に移していきました。事業の進捗とともに、二人の信頼関係は確かなものになっていきました。パリを根本的に作り変えるには強固な絆が必要でした。

 ナポレオンの計画案を踏まえて、オスマンが作成したパリ改造図があります。ご紹介しましょう。

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(* https://imp.or.jp/special-1-3/、クリックすると、拡大します)

 上図の黒線は新しい道路、方眼の部分は新開発市区、緑の部分は大規模な郊外の公園(左手がブローニュの森、右手がヴァンセンヌの森)といった具合です。

■改造のポイントは何か

 パリ大改造のポイントは、①街路事業、②公園事業、③上下水道事業、④都市美観、等々でした。

 街路事業については、①古い街路を拡幅し、直線化を図る、②幹線道路は複線化し、交通の円滑化を図る、③重要な拠点は斜交路で接合する、等々の原則を掲げて、整理しました。

 たとえば、現在、観光スポットとして有名なパリ凱旋門の界隈は、次のように生まれ変わりました。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paris_Arc_de_Triomphe_3b40740.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 凱旋門を中心に大きな道路が放射状に延び、見事な都市景観を作り出しているのがわかります。既存の区画や建物をほぼすべて破壊し、新しく区画整理するという方針の下、得られた見事な景観です。

 機能と美観を追求した結果、このような見事な景観がもたらされたといえますが、これはほんの一例です。

 オスマンは、市民の利便性を図るために、「ショートカット」といった観点からも道路事業を進めました。主要地点をダイレクトに結ぶ道路を新たに設置し、利便性を高める工夫をしたのです。

 たとえば、ルーブル美術館からオペラ座に行くには,大通りを通らなければなりませんでしたが、ショートカット道路のおかげで,直接行くことができるようになりました。

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(* https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/civil-worldheritage/seineriverbank 図をクリックすると、拡大します)

 上図で赤い矢印で示された、黄色の丸印二つでつながれた道路です。ナポレオン通りと書かれています。現在の地図で照合してみると、次のようになります。

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(* google map 図をクリックすると、拡大します )

 当時はナポレオン通りと命名されていたのが、いまはオペラ通りになっています。このショートカット道路が、オペラや美術を鑑賞するのにどれほど役立ってきたことでしょう。道路事業の整備がパリの価値を高め、市民に芸術鑑賞の機会を提供してきたことがわかります。

 ナポレオンとオスマンが進めたパリ大改造が、現在にまで生きる大事業であったことがわかります。大改造計画が徹底的に実施されたからこそ、パリはその後、長く、芸術の都といわれるようになったのです。

 このように街路を拡幅し、整備することによって、交通渋滞を解消しただけではなく、居住民には日照や通風を確保することができました。さらに、反政府組織の潜伏や暴動の阻止にも効果があり、有事の際には、軍隊の円滑な移動も可能になりました。

 街路事業に併せ、オスマンは公園事業にも取り組みました。先ほどの改造図の緑の部分はまさに、パリに新鮮な空気を送り込む機能を果たすことになりました。パリ全体を人体に見立てれば、ブローニュの森は左の肺、ヴァンセンスの森は右の肺という位置づけだったのです。

 オスマンは公園事業を担当する土木技師として、アドルフ・アルファン(Jean-Charles Adolphe Alphand, 1817‐1891)を公園局長に抜擢しました。

 そもそもナポレオンは衛生上の観点から、パリを近代的で風通しがよく、住みやすい首都にしたいと考えていました。

 その意向に沿って、アルファンは、パリの両側に二つの巨大な森林公園を配置し、内部に3つの都市公園、そして、シャンゼリゼをはじめとする24の広場を設計しました。すべてのパリ市民が、徒歩 30 分で緑地に行けるように、公園や広場が整備され、5万本にもおよぶ木が植えられました。
(* https://www.leparisien.fr/politique/adolphe-alphand-le-grand-jardinier-d-haussmann-qui-mit-la-campagne-a-paris-26-05-2019-8079936.php

 上下水道事業については、土木技師ウジェーヌ・ベルグラン(Eugène Bergrin)が抜擢され、水不足への対応から、新たな水源用の導水路が敷設されました。また、衛生上の観点から、飲用と非飲用とに分けて供給されるようになり、巨大な地下溝が整備され、汚水処理が整備されました。

 もちろん、街の景観についても工夫されました。オスマンは美観を維持するためのルールを設ける一方、新ルーブル宮、新オペラ座、市庁舎、鉄道駅など、主要な公共建築物を新しく建設したり、再建したりして、街路の中心に配置しました。

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(* https://imp.or.jp/special-1-3/、クリックすると、拡大します)

 オペラ通りの平面図です。公共建築物を記念碑とみなし、パリ全体を芸術都市として生まれ変わらせたのです。

 さらに、街路や上下水道が整備され、景観にこだわって作り直されました。パリの街は、まさに産業化社会にふさわしい近代都市へと変貌していきました。

■技術優先主義と経済合理性

 オスマンは首都改造を断行するため、徹底的な技術優先主義を貫いたといわれています。土木工学的な側面はもちろんのこと、事業を進める際も実務本位の姿勢を徹底させました。

 まずはセーヌ県の機構改革を行い、それまでの縦割り行政を知事直轄の管理下に置きました。一般部門と特別部門とに分け、重点課題は特別部門に一任するという機能的な機構改革を行ったのです。
 
 人事についても同様、技術優先主義を採り、進取の気性に富み、卓越した技術をもつテクノクラートを抜擢し、採用しました。オスマン配下の四天王といわれるアルファン、ベルグラン、バルタール、デシャンらはパリ大改造プロジェクトで指導的立場に就くまで、無名の技師にすぎませんでした(* 松井道昭、前掲、p.354-355)。

 このようにオスマンが技術優先主義を貫き、断固として改造事業を展開したからこそ、パリは華麗に変身することができたといえます。もちろん、その背後に、ナポレオン三世による強力な支援があったことはいうまでもありません。

 ナポレオン三世は、パリ大改造についてのプランを雌伏期間中に、入念に練り上げていました。逃亡先のロンドンで産業革命の実態をつぶさにみていた彼は、産業発展には新たな社会秩序が必要で、都市の形態もまたそれに対応していかなければならないと考えていました。だからこそ、産業発展との調和を考え、綿密な改造プランを立てていたのです。

 実際、ナポレオンは、「わが国にはこれから開墾すべき広大な未開の領土がある、開通させるべき道路がある、穿つべき港がある、船を通せるようにすべき運河がある、完成させるべき鉄道網がある」といい、「国力は経済から生まれる」と断言しています(* ティエリー・ランツ著、幸田礼雅訳、『ナポレオン三世』、白水社、2010年、p.114)。

 さらに、「資本を増やすような順調な産業が存在しなければ、農業自体も揺籃期から抜けられない。つまりすべては、公的財産の諸要素の連続的発展において繋がりあっている」との認識を示したうえで、ナポレオンは次のような方針を提示しています。

 「羊毛と綿に対する税の廃止、砂糖とコーヒーに対する段階的減税、連絡道路の精力的かつ持続的改善、輸送費の全般的低減、農業と工業に対する貸付、大規模な公共工事、禁制事項の廃止、大国との通商条約の締結」(* 前掲、p.115)。

 当時のフランスの経済力は、イギリスやアメリカはもちろんのこと、ベルギーや北ドイツ圏にも及びませんでした。鉄道は未発達でしたし、産業化は進んでおらず、大部分が手工業のままでした。

 だからこそ、国家は財政上の負担を減らし、競争力を高めながら、産業を発展させていかなければならないとナポレオンは考えていました。そのために、さまざまな改革に着手していきましたが、その最たるものがパリ大改造でした。

 パリの大改造は、市民にとって安全で衛生的で便利な都市生活を実現させただけではなく、街を美しく、芸術的な都に変貌させました。これに世界が注目しないはずはありませんでした。

 パリの大改造には、実は政治的効果もあったのです。

■政治的効果

 大改造の期間中に、開催されたビッグイベントがいくつかあります。その一つがパリ万博です。1855年5月15日から11月15日までの期間、シャンゼリゼで開催され、516万2,000人(有料入場者のみ)が参加しました。入場者数でロンドン万博(603万9,000人)に勝ることはできませんでしたが、フランスならではの特徴が組み込まれ、目論見通り、大きな存在感を示すことができました。

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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html、図をクリックすると、拡大します)

 上図は万博が開催されたシャンゼリゼを鳥瞰した図です。道路は広く、まっすぐに伸びており、辺り一面が緑に覆われています。壮観な光景です。緑豊かなシャンゼリゼを出現させており、パリの大改造の一端を万博に訪れた観客に見せることができました。

 1855年のパリ万博の開催を担当したのが、経済顧問のシュヴァリエでした。サンシモン派の経済学を信奉し、ナポレオンから絶大な信頼を得ていた人物です。彼は実際にロンドン万博の会場を視察しており、フランスこそ最初に万博を開催すべきだったと認識していました。

 実際、フランスにはこれまでに何年も国内で産業博覧会を開催してきた実績があったからです。国際的な産業博覧会を開催しようとしていたのですが、国内の保護主義者たちから反対され、実現できなかったという経緯がありました。それだけに、産業化を推進するため、是非ともパ万博を開催しなければならないとシュヴァリエは固く決意していました。

 一方、ナポレオン三世もまた、是非ともパリで万博を開催しなければならないと思っていました。クーデタを引き起こして皇帝の座に就いたナポレオンは、皇帝として国際的に承認され、その正統性が担保される必要がありました。そのため、早急にパリで国際的なイベントを開催する必要があったのです。

 こうして、パリ大改造のさなか、万博が開催されました。おかげで海外の要人に華やかに変貌していくパリの姿を見せることができ、一定の政治的効果を得ることができました。

 その一つが、パリでの和平会議の開催です。

■クリミア戦争の和平会議

 1856年2月25日の午後、パリのオルセー通りにあるフランス外務省の新築の建物でクリミア戦争の和平会議が開幕しました。外務省に到着した各国代表が通されたのは、壮麗な大使の間でした。

 この大使の間は第二帝政期に花開いた装飾芸術のショールームのような部屋だったとオーランド・ファージスは記しています(* Orlando Figes著、染谷徹訳、 『クリミア戦争』下、白水社、2015年、p.198-199.)

 フランスの肖像画家エドゥアール・デュビュフ(Édouard Dubufe, 1819-1883)が、この和平会議の様子を描いています。ご紹介しましょう。

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(油彩、カンヴァス、311×511㎝、1856年、オルセー美術館所蔵 図をクリックすると、拡大します)

 中央の円形テーブルの傍に座り、顔を画面右側に向けている男性がいます。これがフランスの外務大臣ヴァレンフスキ(Alexandre Colonna-Walewski, 1810-1868)です。当時、46歳、1855年5月に外務大臣に任命されたばかりでした(* https://en.wikipedia.org/wiki/Alexandre_Colonna-Walewski)。

 クローズアップしてみましょう。黄色のマーカーで示した人物が、ヴァレンフスキです。この和平会議の議長を務めました。

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(* 前掲。図をクリックすると、拡大します)

 自信に満ちた表情が印象的です。パリが和平会議の開催地になったことで、外交の焦点が一時的にパリに移っていたのです。ヴァレンフスキはナポレオン三世への手紙の中で、次のように記しています。

 「今回の事態を経てフランスが一回り「大きくなったことは、誰にも否定できない事実です」と書き、「この戦争から最大の利益を引き出せるのはフランスであり、現在、フランスが欧州大陸で最も重要な国であることは間違いありません」と記しています(* 前掲。p.199)。

 パリ万博の記憶もまだ新しい時期に、パリ和平会議が開催されました。ビッグイベントが立て続けにパリで開催されたのです。フランスがヨーロッパの中心であることを印象づけ、国威を示したことは明らかでした。

 これこそ、ナポレオン三世がパリ万博に期待したことの一つでした。

■ヴィクトリア女王夫妻の万博参加

 ナポレオン三世にとって、1855年パリ万博のもう一つの成果は、ヴィクトリア女王が訪問してくれたことでした。

 ヴィクトリア女王夫妻は、8月20日にパレ・デ・ボザールを視察し、22日にはパレ・ダンストリーを訪問しています。ヴィクトリア女王夫妻は、行く先々で熱狂的な拍手で迎えられました。

 軍の楽隊は歓迎のために、イギリス国歌を演奏しました。それを聞いたフランス人たちの多くは、何世紀にもわたってイギリスと対立してきたことを思い起こし、感極まってむせびました。

 実は、ヴィクトリア女王がパリ万博会場を訪れたことには、深い政治的意味がありました。単なる万博視察にとどまるものではなく、ナポレオン三世がフランスの正統な皇帝であることを英国が公式に認めたことの表明にもなったのです。覇権国イギリスからの承認が世界に知られることが、ナポレオン三世の望みでしたが、それが叶いました。

 ナポレオンは、初めて万国博覧会の産業宮殿を訪れたヴィクトリア女王夫妻を、中央中庭に案内しました。嬉しそうな表情でナポレオンが、ヴィクトリア女王をエスコートしている絵があります。

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(* https://www.arthurchandler.com/paris-1855-exposition 図をクリックすると、拡大します)

 中央中庭には、王冠の宝石と、ゴブラン、ボーヴェ、オービュッソン、セーヴルといった帝国の工房の最新製品が展示されていました。そのセーヴルの展示品の中に、1851年のロンドン万国博覧会の記念として制作された花瓶がありました。

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(* https://www.arthurchandler.com/paris-1855-exposition 図をクリックすると、拡大します)

 これは、ジャン=レオン・ジェロームがデザインして制作された、セーヴルのロンドン万博記念の花瓶です。まさに、記念碑的な花瓶ですが、ナポレオン三世はこれを、1855年パリ万博に訪れたヴィクトリア女王と夫のアルバート公にプレゼントしました。

 ヴィクトリア女王は、8月22日付の日記に、アルベール王子がこの花瓶をナポレオンから贈呈されてことのほか喜んだと記しています。図案といい、デザインといい、色調といい、この花瓶があらゆる意味で傑作だったからでした。

 製作費は合計17,958フランだったといいます。この花瓶は1856年5月初旬にロンドンに発送され、バッキンガム宮殿の1階にあるボウルームに保管されました(* https://www.arthurchandler.com/1855-sevres-vase)。

 パリが大きく改造されることによって、衛生的で便利で、美しくなり、市民が誇りを持てる街に変貌しました。さらには、国際的なイベントが開催されるようにもなり、国家としての地位も向上しました。

 ナポレオン三世が構想し、オスマンが実現させたパリ大改造は、産業革命を経て近代化を強いられた国家が展開したプロジェクトとして、大きな成功事例といえるかもしれません。(2024/8/31 香取淳子)

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