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幕末・明治期の万博⑤:ナポレオン三世が望んだ労働者共同住宅

幕末・明治期の万博⑤:ナポレオン三世が望んだ労働者共同住宅

■民衆に支持され、圧勝したルイ・ナポレオン

 1848年12月10日に行われた大統領選で、ルイ・ナポレオンは、最有力候補であったカヴェニャック将軍を大差で破って当選しました。得票数は553万4520票で、投票者数の74.2%にも及ぶものでした。はじめて行われた直接選挙で、泡沫候補と思われていたルイ・ナポレオンが、圧倒的多数の支持を獲得し、大統領選に勝利したのです。

 当時の様子を描いた絵があります。

こちら →
(* https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Campagne_pr%C3%A9sidentielle_de_1848.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 手前に、二人の子どもが喧嘩している様子が描かれています。左の子どもはナポレオンのポスターを持ち、右の子どもはカヴェニャック将軍のポスターを持っています。それぞれ相手の肩を掴み、すごい形相をしてにらみ合っています。

 子どもの喧嘩のネタになるほど、この大統領選がホットな話題であったことがわかります。

 子どもはただ、二人のどちらが勝つか負けるかを言い争っているだけですが、その後ろに立つ若い母親は、訴えかけるような表情で、「ルイ・ナポレオン・ボナパルト」と書かれた紙をこちらに見せています。ナポレオンを支持し、是非とも勝利してもらいたいのでしょう。

 そして、画面の左側を見ると、警官が後ろ姿を見せ、帽子をかぶった男に何か尋ねています。男はばつの悪そうな表情をみせ、上部を折り畳んだ新聞をこちらに見せています。「・・・新聞」と書かれた紙面の下に、二人の人物が小さく描かれているのが見えます。おそらく、ナポレオンとカヴェニャック将軍が描かれているのでしょう。男はひょっとしたら、選挙絡みで、なにか警官から咎められるようなことをしていたのかもしれません。

 背後の壁には大統領選と書かれた紙が貼られ、選挙を迎えたパリの街の様子が端的にとらえられています。

 そういえば、この絵では、投票権を持たない子ども二人と女性が支持者を鮮明にしているのに、投票権を持つ男性はどちらを支持しているのか明らかにはされていません。画家はどちらかの肩を持つようなことを避けていたのかもしれませんが、若い母親がはっきりとナポレオン支持を表明しているように、二人の候補者を比べてみれば、民衆の潜在欲求をよく理解していたのは、ルイ・ナポレオンの方でした。

■社会の安定には経済の発展を

 高山裕二氏は、ナポレオンが立候補した際のポスターに掲載されていたメッセージを、次のように紹介しています。

 「人民に選ばれた者は商業、産業、繁栄のために選ばれた者でもあってもらいたい。万人に認められたその名が、赦しと和解の第一の保証であってもらいたいのだ。なぜなら、諸階級の和解がなければ平和も産業も信用もなく、あるのは貧困と無秩序だからだ」(* 高山裕二、「ボナパルティズム再考‐フランス第2帝政の統治制度と理念に関する素描‐」、『フランス哲学・思想研究』26号、p.6, 2021年)

 ルイ・ナポレオンは有権者に、貧困に陥ることなく、安定した生活を得ようとすれば、まず、経済的な発展が不可欠だと訴えていました。だからこそ、為政者に求められるのは、経済発展に寄与する政策を展開することだと主張していたのです。この姿勢は大統領に就任した後も変わりませんでした。

 もっとも、初めての共和国大統領に選出されたからといって、ナポレオンが全権を掌握したわけではありませんでした。

 実は、大統領選が行われる(12月10日)前の11月に、憲法制定議会が開催されました。そこで、共和国の政治形態が決定され、大統領の任期とその権限が決められていました。

 直接普通選挙で選ばれた大統領は、行政の執行権を持ち、内閣を任命し解任することもできるが、議会の解散権については認められておらず、しかも、任期は4年で、再任はできないというものでした。

 普通選挙の結果、どんな大統領が選ばれたとしても、議会にある程度の決定権を残し、大統領が自由にふるまえないように制限をかけていたのです。しかも、その任期は4年間に限られていました。

 民衆から圧倒的な支持を受けて、大統領に選出されたナポレオンでしたが、政界では四面楚歌の状態でした。長く海外で逃亡生活を続けていたため、知己も少なく、組閣もままならないような状況でした。これでは、思い通りの政治を行うことなどできません。

 当面、ナポレオンは一貫して、左右対立の調停者として共和国を守っていくという姿勢を貫きました。社会の秩序を守り、安定した生活を提供するというスタンスを崩さなかったのです。

■民衆に寄り添うナポレオン

 大統領就任後も、フランス内外で政変が次々と勃発しました。民衆にとって、生活の安定など程遠い状態でした。ところが、どういうわけか、政変が起こるたびに、ナポレオンの政敵は消滅するか、弱体化していきました。

 ナポレオンは政権内では依然として孤立し、思うように動けませんでしたが、いったん外に出て民衆に接すると、熱い声援を受けました。やがて、全国を遊説して回るようになると、農民や労働者からさらに強い支持を受けるようになりました。

 人々は長引く政治的混乱に疲れ果てていました。ナポレオンが提唱する秩序の回復と生活の安定を心底、求めていたのです。

 労働者の立場に身を置いて考えることができたナポレオンは、そのような民衆の潜在欲求をしっかりと把握していました。そして、ことあるごとに、為政者として民衆に寄り添い、社会を改善していくことをアピールし続けました。

 たとえば、1850年に鉄道序幕式が開催された際、ナポレオンは次のような演説をしています。

 「私は日々、確信を深めています。もっとも親身な、もっとも献身的な私の友は、宮廷の中にはおらず、あばら家の中にいる。彼らは、金箔塗りの天井の下ではなく、作業場や畑にいる」(* 鹿島茂、『怪帝ナポレオン三世』、講談社文庫、2010初版、p.106)

 実際、ナポレオンは全権を掌握した暁には、労働者のための政策を実行しようと考えていました。国家を強靭化するには、まず、社会改革を実践しなければならないと思っていたからです。つまり、社会を支えている労働者を庇護し、生産性を上げることが大切で、それには、労働者の生活を守り、労働環境を整備しなければならないと考えていたのです。

 労働者こそが、モノを生産し、サービスを提供して実社会を維持しているからでした。社会を安定させるには、実質的に社会を支えている労働者こそ守らなければならないという考えを、ナポレオンは、大統領に就任するはるか以前から抱いていました。

 1840年まで遡ってみましょう。

■アムの牢獄

 ルイ・ナポレオンは何度も暴動をおこしていますが、1840年8月4日に起こしたのが、ブローニュの暴動といわれるものです。54名の部下を率いて蒸気船で英仏海峡に面した都市ブローニュに上陸し、民衆に蜂起を呼びかける演説を行ったのです。これは失敗して逮捕され、終身刑に処せられました。1840年10月、パリの北135キロの地点にあるソンム県のアム要塞に収容されたのです。

 当時の様子を描いたスケッチがありますので、ご紹介しましょう。

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(* https://www.wikiwand.com/、図をクリックすると、拡大します)

 読書し、思索にふけるルイ・ナポレオンの様子が描かれています。ドア近くには兵士や執事のような人物が描かれており、服役中でありながら、体面を保って暮らせるよう配慮されていたことがわかります。

 実際、アムの牢獄は、ナポレオンにとっては思索にふけることができる時間であり、空間でした。服役していたとはいいながら、必要な本はその都度、差し入れてもらうことができました。

 ナポレオンは猛烈に読書し、思索にふけりました。アダム・スミスなどの自由主義経済学者からルイ・ブランやプルードンなどの社会主義者、サンファンタンやミシェル・シュヴァリエなどのサン・シモン主義者の著作を読み漁り、社会を根本的に改造する方法を模索しました(* 鹿島茂、『怪帝ナポレオン三世』、講談社文庫、2010初版、pp.56-59)。

 アムに収容されている間、ナポレオンはいってみれば、社会改革に関する研究を行っていたのです。その結果をまとめたのが1844年に出版された『貧困の根絶』でした。

■『貧困の根絶』

 この著書の中でナポレオンは、国家予算の使い方によって、労働者の貧困を根絶することは可能だと述べています。そして、貧困問題を解決するには、政治の力だと結論づけ、次のように述べています。

 「もしすべての住民から毎年徴収される税金を、必要もない官職を増設したり、不毛な記念碑を建立したり、あるいは平和のさなかに軍隊を設けたりするといった非生産的な用途に用いるなら、そのとき税金は重圧となり、国を疲弊させ、取るだけ取って何も与えない凶器と化す。したがって、国家予算の目的とは労働者階級の生活の向上でなくてはならない」(* 鹿島茂、前掲。p.62)。

 つまり、国家予算が、新しい生産様式の創出と労働の組織化のために使われるなら、適切に資金運用されることになり、新たな富を生み出し、好循環が導き出されます。結果として、労働者の貧困を根絶することができると述べているのです。

 予算が「新しい生産様式と労働の組織化のために使われるなら」と、ナポレオンは書いていますが、それは、新たに富を生み出す労働には、組織化と規律が必要だと認識していたからでした。

 ナポレオンは長く、海外での逃亡生活を送ってきました。それぞれの地で見聞した様々な事象から、労働の組織化と規律がいかに重要かを認識していたのでしょう。見聞した事例を思索するだけではなく、アムの牢獄で数多くの関連書を読んで検証し、社会と労働に関する理論化を行っていたのです。

 ナポレオンの労働者についての考えを、鹿島茂は次のように要約しています。

 「労働者階級は、なにものも所有していない。なんとしてもこれを持てる者にかけなければならない。(中略)労働者階級は、現在、組織もなければ連帯もなく、権利もなければ未来もない。彼らに権利と未来を与え、協同を教育と規律によって彼らを立ち直らせなければならない」(* 前掲。pp.59-60)。

 ナポレオンはアムの牢獄で、経済や社会、政治に関する著作を読み漁り、思索にふけっていました。その結果、国家の安定を図り、秩序を回復するには、なによりもまず、労働環境の整備、労働者の生活の改善に努めなければならないと考えるようになっていたのです。

 労働者の生活を安定させることこそが、さまざまな暴動をなくし、社会を安定させるキーポイントになると考えていたことがわかります。

■絶対的権力を掌握するために

 ルイ・ナポレオンは、労働者の生活改善をすることから、混乱した社会を立て直そうと考えていましたが、それには独裁的な権力が必要でした。圧倒的多数に支持され、大統領に選出されたとはいえ、共和国大統領の任期は4年で、しかも、再任は禁止されていました。絶対的権力を持ちようがなかったのです。

 そこで、大統領職に就くと、ルイ・ナポレオンは着々と、軍隊や警察、行政機構などの権力機構を掌握することに注力しました。

 憲法では再任が禁止されていましたから、政権を維持するには、選択肢は二つしかありません。すなわち、大統領の再任を禁止する憲法を改正するか、非合法に権力を奪取するか、この二つでした。

 ところが、憲法の改正には賛成議員の数が四分の三必要だったので、憲法改正の可能性は低く、期待はできませんでした。残るは一つ、クーデタを決起する以外、ナポレオンに選択肢はなかったのです。

 さらに、議会は、普通選挙の影響を危惧し、1850年5月31日法を可決し、選挙権の資格を制限してしまっていました。その結果、普通選挙が行われた時には1000万人ほどいた有権者が600万人にまで減少していたのです。

 20歳以上のすべての男性に与えられていた選挙権が、この法律によって資格が制限され、4割も減少するはめになっていました。議会は、ルイ・ナポレオンを支持した労働者階級の人々を排除する法案を通していたのです。

 議会がナポレオンを恐れ、その勢力を削ごうとしていたことは明らかでした。ナポレオンが怒らないはずがありません。

 用意周到に準備を整えたナポレオンは、就任3年後にクーデタを決行しました。大統領の任期が切れる直前でした。

■クーデタで何を訴えたのか

 もちろん、民衆の支持がなければ、クーデタを起こす意味がありません。ナポレオンは民衆に向けて、クーデタの必然性を訴えました。たとえば、民衆に向けた布告、「人民への訴え」の中で、ルイ・ナポレオンは次のように主張しています。

 「その使命は、国民の正統な必要(les besoins légitimes du people)を満たし、破壊的な情念からそれを保護することで、諸革命の時代を閉じることにある」(「1851年12月2日の宣言」)(* 高山裕二、前掲。p.6)。

 訳語がわかりにくいですが、ナポレオンは、政治家として選ばれた者は、何よりもまず国民の要求を満たすことが肝要で、それを覆そうとする勢力があれば、断固として退けることによって、ようやく、さまざまな革命を終了させることができる、すなわち、人々の欲求を満たし、生活を安定させれば、革命を終わらせることができると訴えかけていたのです。

 ナポレオンが満を持して策を練り、決行したのがこのクーデタでした。

 1851年12月2日、ルイ・ナポレオンは、大統領特権を発動して議会を解散し、反対派議員や軍人を逮捕しました。その一方で、普通選挙の復活と新しい議会選挙の措置を盛り込んだ布告を街中に掲示させました。それが先ほどご紹介した「人民への訴え」です。

 クーデタの日パリの様子を描いた絵がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96#Media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Cavalerie_rues_paris_(1851).jpg 、図をクリックすると、拡大します)

 上図を見ると、軍人や警官の姿ばかりが目立ちます。“LA PATRIE”という新聞の号外を配る売り子が前景で描かれていますが、民衆の姿が見当たりません。クーデタといいながら、パリ市民は積極的に参加しなかったようです。

 クーデタに抵抗したのは、一部の議員と知識人だけでした。ほとんどのパリ市民は静観しており、ルイ・ナポレオンのクーデタは完全に成功しました。

 実際、人民投票の結果、クーデタに賛成票が744万票だったのに対し、反対票は64万票でした。有権者の76%が賛成しており、大多数の国民は、議会よりもルイ・ナポレオンを支持したのです(* 野村啓介、『ナポレオン四代』、中公新書、2019年、p.146-147.)。

 クーデタの後、正式に皇帝の座に就く1852年12月までの期間、ルイ・ナポレオンは実質的に独裁権を掌握していました。第二帝政はすでに始まっていたといえます。そして、第二帝政は、基本的には第一帝政の復活といえるものでした。

 実は、ナポレオン三世には、成し遂げるべき大きなプロジェクトがありました。それは、ナポレオン一世が着手できず、ルイ・フィリップがやり残したパリの大改造です。

 それまでも気にはなっていたのでしょうが、ナポレオンはパリ改造を実行に移すことはできませんでした。というのも、パリとその周辺部を合わせたセーヌ県を治めるのは、県知事と警視総監で、この二人の任命権を握っているのは政府、すなわち皇帝だったからです。

 ナポレオンが皇帝の座に就き、彼らの任命権を手にしてようやく、パリ大改造に着手することができるようになったのです。

 ナポレオンが、パリの大改造として最初に取り組んだのが、労働者共同住宅でした。

■大統領時代から準備されていた労働者共同住宅

 クーデタから2週間も経ない1851年12月15日、ナポレオンはパリの不衛生な住宅を強制撤去するための法的措置を講じました。建設予算については、1852年1月22日に大統領令を発布し、オルレアン家の財産を没収して労働者共同住宅の建築費に充てる旨、明記しています。

 任命権を掌握した途端に、ナポレオンは、オルレアン派の閣僚の反発などものともせず、それまで構想していた労働者共同住宅の建築に着手したのです。

 オルレアン家から没収した1000万フランの予算をつぎ込んだだけではなく、ナポレオンは自身の私的財産から出資し、建築コンクールを主催するほどの入れ込みようでした。優れた設計図を提出した建築家には5000フランの賞金を授与するとしています(* 鹿島茂、前掲、p.242)。

 ナポレオンが実現を急いだ労働者共同住宅は1852年、ナポレオン住宅としてロッシュシュアール通り(rue de Rochechouart )58番地に建設されました(前掲、p.245)。

 そこで、ネットでこの住所にある住宅を探してみると、ナポレオン住宅と思われる写真が見つかりました。中庭側から撮った写真です。

こちら →
(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Cit%C3%A9_Napol%C3%A9on、図をクリックすると拡大します)

 写真に寄せられた説明によると、この建物はクーデタ後のものではなく、それ以前のもののようです。次のように説明されています。

 「12月10日に、第二共和政大統領に選出されたばかりのルイ・ナポレオン・ボナパルトの要請により、「ヴーニーの長老」として知られる建築家マリー・ガブリエル・ヴーニー (Marie-Gabriel Veugny,1785-1856 年頃) によって、1849 年から1851年にかけて建設されました」(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Cit%C3%A9_Napol%C3%A9on)。

 この説明を読むと、ナポレオンはどうやら、共和国大統領に選出された段階で、すぐに建築家に要請して、労働者住宅の建築を進めていたようです。

■理想を追求するナポレオン

 ところが、クーデタ後、全権を掌握したナポレオンは再び、労働者共同住宅の建設に挑んでいるのです。自費を投入し、優秀な設計図には賞金を供与するという条件で、建築コンテストを開催しているのです。

 このような経緯を考え合わせると、ナポレオンは、マリー・ガブリエル・ヴーニーが建てた最初の労働者共同住宅に満足していなかった可能性があります。ナポレオンが考える理想の労働者共同住宅とはどういうものだったのでしょうか。

 そこで、ナポレオンが1852年1月に決定した建築コンクールの概要を見ると、次のように書かれています。

 「妻帯ないし独身の労働者が居住するための住宅として要求される条件は、まず清潔で換気が行き届き、適度に暖房が施され、採光がよく、上下水道が完備していることである。こうした建物では各世帯が完全に分離して生活できることが必要で、唯一の共同部分は洗濯場に限られている」(* 鹿島茂、前掲、p.245)。

 ナポレオンが、なによりも衛生面、プライバシーに配慮した設計を求めていたことがわかります。

 このような基準に基づいて、1852年の労働者共同住宅は建築されました。低家賃で200世帯が住むことができ、共同使用の設備も数多く備わっていました。一部のメディアからは「場違いな贅沢さに満ちている」と非難されたりしたといいます。

 そもそも、ナポレオンがなぜ、労働者共同住宅の建築を急いだかといえば、労働者の生活環境を改善することが、生活の安定、社会の安定につながると考えていたからでした。労働者が清潔で衛生的な環境で生活するようになれば、衛生意識が涵養され、健康で規則正しい生活ができるようになるだろうという思いからです。

 こうしてみると、ナポレオン三世は、19世紀半ばですでに福祉政策のようなものを実行しようとしていたといえます。労働者の生活環境、労働環境を改善することが、平和で安定した社会の基盤になるという考えからでした。

 今回、ナポレオン三世の労働者とその居住環境についての考えとその実践を取り上げてみました。その合理的な取り組みには驚くばかりです。

 実は、パリの大改造もこのような考えに基づいて進められました。改造プランには、政治、経済、産業、技術、外交、文化などさまざまな観点が取り入れられています。読書家で思慮深く、海外経験の豊富なナポレオン三世でなければできない大事業でした。

 次回に詳しく、見ていくことにしましょう。(2024/07/29 香取淳子)

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