■普通選挙による大統領の選出
前回もいいましたように、イギリスに先を越されたフランスは、早々に、パリで万博を開催することを決定しました。当時、フランス内外の政治状況は混沌としていましたが、それでも、ナポレオン三世の開催意欲が強かったからです。
イギリスに亡命していたルイ・ナポレオンがフランスに戻ったのは、1848年のことでした。そのわずか3年後に、ロンドン万博が開催されたのです。ナポレオンにしてみれば、競争意欲を刺激されたのかもしれませんし、あるいは、未来に希望を託せる一条の光明に思えたのかもしれません。
その頃、ナポレオンは、矢継ぎ早に訪れる政変の真っただ中にいました。
二月革命によって王政が倒れ、臨時政府の下、普通選挙が行われ、第二共和政の憲法が成立しました。その共和政憲法の下で行われた大統領選にナポレオンは出馬しました。当初は泡沫候補扱いでしたが、次第に人気が高まり、ついには、圧倒的多数の票を得て、当選しました。
21歳以上の男性すべてに選挙権が与えられた結果、有権者数はそれまでの24万人から一挙に900万人にまで増えたといいます(* 小山勉、「フランス近代国家形成における学校の制度化と国民統合」、『法政研究』59巻(3/4)、p.323.1993年)。歴史上初めて、普通選挙によって大統領が選出されたのです。
1848年12月15日、第二共和政の下で、ナポレオンは大統領に就任しました。
■有権者数の拡大とその資質
21歳以上であれば、誰にも平等に投票権が与えられることになったことの結果でした。教育も受けずに、果たして適切な投票行動を行えるのかといった懸念があったのでしょう。小山氏は、新しく有権者となった人々は、最小限の教育を受けられるようにすべきだとしています。
一方、鹿島氏は、興味深いことを述べています。
大統領選をめぐってはプロパガンダ合戦が繰り返されたとしながらも、「こうしたプロパガンダは、あくまで、候補者の思想信条に興味をもつ知識階級の人間にしか影響を及ぼさなかった。有権者の大多数を占める農民にとっては、なにが暴露されようが、そんなことはまったくおかまいなしだったのである」と述べています(* 鹿島茂、『怪帝ナポレオン三世』、講談社学術文庫、2020年、pp.85-86)
新しく有権者となった者のほとんどが、読み書きができず、新聞はもちろんのこと、選挙公報に出ている候補者の名前すら読めなかったというのです。ですから、もっぱら、耳から入った候補者の名前が、親しみのあるものかどうかが基準になっていたといいます(* 鹿島、前掲)。
21歳以上の男性という制限付きですが、すべての人に投票権が与えられた普通選挙は、一見、平等に見えます。ところが、有権者が最低限の教育すら受けていなければ、せっかくの投票権が正当に行使されない危険性があることを小山氏は指摘していたのです。
鹿島氏の指摘と考え合わせれば、小山氏が有権者には最低限の教育が必要だと指摘した理由がよくわかります。
ルイ・ナポレオンは、有権者が24万人から900万人に激増した普通選挙で、勝利しました。本命視されていたカヴェニャック将軍を大差で破り、第二共和政初代大統領に収まったのです。これまで有権者になりえなかった層が、ナポレオンに票を投じたからでした。
この時、ナポレオンは、理屈や理論によってではなく、情念や直感によって動く大衆に支えられていることを実感したに違いありません。
せっかく大統領に選ばれたナポレオンでしたが、共和政の下では思うように動けなかったのでしょう。1851年12月2日、軍隊を動員して議会を包囲し、クーデタを決行しました。そして、議会を解散し、普通選挙を復活して新たな議会を招集すると民衆に布告したのです。議会が解散させられたことによって、1848年共和主義憲法は失効し、第二共和政は事実上、終了しました。
1851年12月21日に行われた国民投票では、投票率83%、賛成92%の圧倒的多数によって、ナポレオンが起こしたクーデタが支持されました。そして、1年後の1852年末に再び国民投票を行い、1852年12月2日にナポレオン3世として即位しました。絶対的な権力を手に入れ、第二帝政が始まったのです。
■権力の頂点に就いたナポレオン三世
正装をしたナポレオン三世を描いた肖像画があります。ピエール=ポール・アモン(Pierre-Paul Hamon,1817-1860)がアカデミックな画法で描いたものですが、ご紹介しましょう。
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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Napoleon_III-Winterhalter-Billet_mg_6161.jpg、図をクリックすると、拡大します)
全般に、ナポレオン一世ほどの華やかさはありませんが、正装のせいか、恰幅がよく、威風堂々として見えます。表情は沈着で、思慮深さがそこかしこから滲み出ています。亡命先からパリに戻ってわずか4年余りで、皇帝の座に就いたほどの人物です。知略家であり、策謀家であったはずです。そんな様子もうかがえなくもありません。
思い描いたプランを実行するには、絶対的な権力を掌握する必要があったのでしょう。皇帝になり、ナポレオン三世となってから、次々と、フランスの価値を高めるようなプランを実行していきます。
その一つが、パリ万博の開催でした。長年思い描いてきた事業とはいえませんが、ロンドン万博の開催に刺激され、なんとしても着手する必要があると判断したようです。
ロンドン万博が開催されたのは、ナポレオンがまだ大統領だった頃でした。その後、国内政治が第二共和政から第2帝政へと移行し、対外的にはアルジェリア、クリミアなどでたて続けに戦乱が勃発していました。
フランスの政治が内外ともに不安定な時期でしたが、それでも、国家戦略のために取り掛かる必要があると思った事業が、パリでの万博開催でした。
パリの大改造、立ち遅れていた産業化の推進など、フランスには達成すべき課題がいくつもありました。フランスの強靭化政策の一環として、以前から開催されてきたのが産業博覧会です。
それなりに成果をあげていましたが、国内を対象にした産業博覧会でした。対外的なものにしようという意見もあったのですが、国内産業を保護するため、海外の産品を対象にしてこなかったのです。
ところが、ナポレオンは、それまで毎年、開催してきた産業博覧会を中止し、パリ万博の開催を決定したのです。そして、ナポレオンがパリ万博の進行を任せたのは、全幅の信頼を置く、経済顧問のシュヴァリエでした。
コレージュ・ド・フランス(Collège de France, 1530- )の経済学教授だったシュヴァリエは、個人の資格でこのロンドン万博を視察しており、大きな衝撃を受けていました。シュヴァリエにしてみれば、このロンドン万博こそ、フランスが最初に開催すべき博覧会でした。すでに産業博覧会を開催していた実績もあります。イギリスに先を越されたという思いは、ナポレオン三世ばかりではなかったのです。
■シュヴァリエとは何者か?
パリ万博を主導したのは、シュヴァリエ(Michel Chevalier, 1806 – 1879)とル・プレー(P.G.F. LePlay, 1806-82)でした。いずれも社会を科学的、実証的にとらえ、産業化を推進しようとするサン・シモン主義者でした(https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html)。
シュヴァリエは後に、ナポレオン三世の経済顧問になりますが、ロンドン万博を訪れた時はまだ。経済学の教授でした。彼の略歴について、少し、ご説明しておきましょう。
鉱業学校卒業後、シュヴァリエは技師として働いていましたが、七月革命後にサン・シモン派に入団しています。最高教父のプロスペル・アンファンタン(Prosper. Enfantin, 1796-1864)による指導の下、パリ郊外のメニルモンタンで共同生活に参加していたこともありました。
やがて。サン・シモン派の機関紙『グローブ』編集長として活動するようになり、自らも「地中海システム」などを寄稿し、次第に頭角を現していきました。シュヴァリエは、アンファンタンの後継者に指名されるほどになりましたが、1832年、サン・シモン派は、反政府的な結社を禁じる刑法291条に違反したとして、一斉検挙されてしまいました。
裁判で禁固6月の刑を宣告されたシュヴァリエは、サント・ペラジ獄へ収監されましたが、獄中でアンファンタンとは別れ、翌年の出獄後にサン・シモン派を脱退しています(* 藤田その子、「ミシェル・シュヴァリエ小論」、『西洋史学』101巻、1976年、p.40)。
シュヴァリエの経歴を見れば、明らかに彼がサン・シモン派の主要メンバーだったことがわかります。
1841年に、シュヴァリエはコレージュ・ド・フランス経済学教授に就任しますが、1848年に二月革命が勃発すると,コレージュ・ド・フランスを罷免されてしまいます。
ところが、12月に大統領となったルイ・ナポレオンによって、シュヴァリエは地位を回復することができました。そして、第二帝政期(1852‐1870)のナポレオン三世の治世下で、経済顧問を務めています。
ナポレオン三世に信頼され、気に入られていただけではなく、考え方が近かったのでしょう。シュヴァリエは、いったん罷免された地位を回復してもらった上に、経済顧問に採用されていたのです。
ナポレオン三世もシュヴァリエも、ロンドン万博に刺激され、早々に、パリ万博の開催を決めています。シュヴァリエは、実際に訪れていたく感嘆し、是非ともパリ万博をと臨んだからでしたし、ナポレオン三世は、そもそもフランスでこそ開催すべきだと思っていたからでした。
実は、フランスにはイギリスよりも早く、万国博覧会に似た産業博覧会を実施してきた経験がありました。
■フランスで始まっていた産業博覧会
フランスでは1798年から1849年にかけて、計11回もの産業博覧会がパリで開催されていました。いずれも産業振興を目的にするものでした。
そもそも博覧会という企画そのものを最初に思いついたのが、内務大臣フランソワ・ド・ヌシャトー(Francois de Neufchateau, 1750-1828)でした。
第1回産業博覧会が開催されたのは、フランス革命(1789‐1795)が収束してしばらく経ち、諸制度の変革によって社会が変わりはじめていた頃です。そのような状況下で、内務大臣フランソワ・ド・ヌシャトー(Francois de Neufchateau, 1750-1828)は、実用的な工芸を育成するための第一回内国産業博覧会を開催したのです。立ち遅れていた産業化を推進しなければならないと思っていたからでした。
内務大臣だった1798年に描かれたヌシャトーの肖像画に基づき、1812年に、ジャン・ニコラ・ロージエ(Gravure de Jean Nicolas Laugier)が制作した版画があります。見てみましょう。
こちら →
(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Fran%C3%A7ois_de_Neufch%C3%A2teau 図をクリックすると、拡大します)
いかにも聡明そうな眼差しが印象的です。社会の動向を見据え、あるべき姿を模索していたのでしょう。
当時、革命やその後の政治的混乱で、フランス経済は疲弊していました。一方、隣国のイギリスはいち早く、産業革命を成し遂げた結果、経済が活性化し、さらなる発展を推し進めていました。そのイギリスに対抗するため、フランスは国内産業を早急に育成しなければならなかったのです。
実際、安価で良質のランカシャーの織物やウェッジウッドの磁器などが、イギリスから流入し、フランスの市場は食い荒らされていました。
そこで、ド・ヌシャトーは博覧会を開催し、産品の質を高める必要があると考えました。博覧会とはいっても、芸術作品ではなく、実用的な工芸品を「展示」しようと考えたのです。
それが産業博覧会でした。工芸品や製品を展示し、幅広い層に訴求できれば、販売網が広がると考えたのです。
■第1回フランス内国博覧会の特徴は、万国博覧会の基本?
鹿島茂氏は、ド・ヌシャトーが発案し、実行した第1回フランス内国博覧会にはのちの万国博覧会の基本となる特徴がすべて含まれているとし、以下のように列記しています。
① 政府が、産業振興のために主催したものであること。
② 展示されるのは実用目的の商品であり、しかもその商品は、販売されるのではなく、展示されるだけであること。
③ アトラクションやスペクタクルを伴う祝祭であること。
④ 一つの会場にすべての展示品を集めたこと。
⑤ 出品者の資格がほとんどフリーであり、私企業ないし私人であること。
⑥ 単なる展示会ではなく、商品のコンクールであること。
(* 鹿島茂、『絶景、パリ万国博覧会』小学館文庫、2000年、p.31)
以上の6点を挙げています。
まず、出品資格として営業免許状を提示し、自らが生産した製品のみ展示できるという条件があります。そして、国家が産業振興のために主催すること、展示されるのは実用目的に産業製品であること、等々の定義づけがされています。
まさに、産業博覧会とはまさに、産業製品のための大規模な展示会でした。
興味深いのは、ド・ヌシャトーは博覧会に、◆アトラクションやスペクトラムを伴う祝祭の要素を重視していること、◆展示製品のコンクールを行い、優劣を競い合う仕組みを持ち込んでいること、等々です。
18世紀末の時点で、ド・ヌシャトーは、展示会には人が大勢集まらなければ意味がなく、多数の来場者を集めるには、祝祭性と競技性、ゲーム性が必要だと認識していたのです。聡明で、先見性のある人物でした。
実際、第1回産業博覧会(1798年)を描いたスケッチを見ると、気球が会場の上空に浮かび、祝祭空間を作り上げています。
こちら →
(* https://www.arthurchandler.com/1798-exposition 図をクリックすると、拡大します)
この図を見ると、確かに、会場の上空には気球が浮かび、祝祭モードで設営されていることがわかります。より多くの人々が参加したくなるような雰囲気が醸し出されており、祝祭空間を作り出そうとしている開催者たちの意図が見えてきます。
ド・ヌシャトーのこのような先見性は、1855年のパリ万博で遺憾なく発揮されました。
たとえば、産業博覧会の特徴の一つに、産品の「コンクール」を行い、権威ある審査委員会によって褒賞するという制度がありました。これは、「サロン」で行われてきた美術作品の審査方法を踏まえたものでした。(* 井上さつき、「19 世紀フランスのフルート製造と博覧会―ジャン=ルイ・テュルーを中心に」、『MIXED MUSES』No.14、2019年、p.46)。
ド・ヌシャトーは、美術界で採用されていたコンクール制度を産業博覧会に導入していたのです。競争状況を作り出し、出品された工芸品や製品の品質を高め、価値を高めていくためでした。1855年パリ万博ではその経験を踏まえ、さらにブランディング力を高めるための工夫がされました。
■受賞した製品のブランド価値
フランスを代表するブランドの一つに、クリスタルガラス・メーカーのバカラ(Baccarat)社があります。その製品紹介文に「1855年パリ万国博覧会で名誉大賞受賞」と書かれていることがあります。万博で受賞したことが製品のブランド価値を高めているのです。
こちら →
(* https://www.majorelle.co.jp/shopdetail/000000003830/ 図をクリックすると、拡大します)
これは、バカラのワイングラスで、1855年パリ万博で名誉大賞を受賞したのと同じデザインで製作されています。アシッドエッチング技法で描かれた文様が美しく、とても人気があるシリーズです。
出展品に褒章を与えるという仕組みは、1851年の第1回ロンドン万博でも行われました。ところが、1855年第1回パリ万博では、審査方法や審査委員の選定基準を厳格化し、詳細化しました。審査を公正に行うことによって、褒章に権威を持たせようにしていたのです。
たとえば、1855年パリ万博の産業部門で授与されたメダル数は、グラン・プリ(大金メダル)112、金メダル252、銀メダル2,300、銅メダル3,900、選外佳作4,000でした。この分布をみると、グラン・プリや金メダルを受賞することがいかに難しいかがわかります。
それだけに、グラン・プリや金メダルを獲得すれば、出展企業にとって強力な宣伝材料になりました。バカラのように、万博で受賞し、その後ブランドとしての地位を確立して、今に続いているメーカーはたくさんあります。
そのうちの一つが、1855年パリ万博で金メダルを受賞したシンガーミシンです。ご紹介しましょう。
1850年にアイザック・メリット・シンガー(Isaac Merritt Singer )は、実用的なミシンを制作し、1851年8月12日に、最初の「シンガー」ブランドでミシンの特許を取得しました。最初のシンガー社は、マサチューセッツ州の小さな工房でした。
1855年に開催されたパリ万博でグラン・プリを受賞したのを契機に、シンガー社は、多国籍企業へと事業を拡大しました。その結果、シンガー社はわずか数年で、国際企業へと発展していったのです。(* https://sewingmachine.mobi/singer-sewingmachine-history/#gsc.tab=0)
1855年パリ万博で受賞した金メダルの効果でした。審査基準を厳格化することによって、メダルに権威をもたせました。その結果として、ミシンメーカー、シンガー社のブランドを確立させたのです。
ブランドを確立することによって、メーカーとしての優位性、安定性が増していきました。企業の生存戦略としても、万博への出品は不可欠となっていきました。
そればかりではありません。出品された産品に値段をつけるようになったのも、1855年パリ万博が最初でした。
■1855年パリ万博の意義は何か?
1851年ロンドン万博では、出展品に売り値を示していませんでしたが、1855年パリ万博ではすべての出展品に値札をつけることが義務付けられました。展示品すべてに金銭的な価値を表示することにしたのです。その結果、博覧会が単なる展示場ではなく、商品ディスプレイの意味を持ち始めました。
来場者は、展示された製品を鑑賞し、評価するだけでなく、実際に消費したいという欲求を抱くようになりました。万博での経験が、デパートや商店街をウィンドウショッピングするという行動の先駆けとなり、消費行動につながっていったのです。
やがて、産品を消費することによって満足し、幸福感を覚える新たな認識体験が作り出されていきました。
一方、1855年パリ万博では、出品された製品すべてに値段が付けられました。あらゆるものの価値が貨幣に置き換えられ、平準化されるようになったのです。モノやサービスの価値が貨幣に置き換えられるという仕組みは、徐々に社会に浸透し、あらゆるモノやサービスの交換を容易にしました。商品経済の世界へと進んでいったのです。
パリ万博を主導していたシュヴァリエは、ナポレオン三世の下、積極的な経済政策を推進しようとしていました。
当時、フランスはまだ手工業の域を出ておらず、保護貿易主義の下で企業も労働者も、技術革新あるいは生産性の向上といったことに関心を抱いていませんでした。ド・ヌシャトーが創設した産業博覧会は行われていたとはいえ、産業人を大きく刺激するというものではなかったのです。
人々の関心を技術の進歩、産業の発展に向け、意識改革を図るには、そのためのビッグイベントが必要でした。ロンドン万博を見たシュヴァリエは、会場に展示されていたさまざまな機械類に圧倒されました。それこそ、機械文明による人類の進歩を感じさせられたのです。
国民の産業に対する意識を変革するには、是非ともパリ万博を開催する必要がありましたし、フランスならでは特異性を加える必要がありました。出品産品に価格を付けること、厳格なコンクール制度の下、選ばれた産品の権威付けを図ること、等々は、いかにもフランスらしい試みでした。
いずれも万博を主導したシュヴァリエとル・プレーのアイデアでした。
1855年パリ万博では、出品された産品に価格が設定されました。製品の価値が貨幣価値に置き換えられ、価値判断が平準化されるきっかけを作ったのです。さらに、厳格化されたコンクール制度は、受賞した製品を権威づけてブランド化し、グローバルに流通する契機となりました。
1851年ロンドン万博が、産業文明を人々に認識させるきっかけになったとすれば、1855年パリ万博は、人々を商品経済の入り口に立たせる契機ことになったといえるでしょう。
ナポレオン三世が任用したシュヴァリエは、ル・プレーとともに、1855年パリ万博を産業化社会に向けてのとば口としたのです。(2024/6/26 香取淳子)