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佐賀「唐人町」にみる専門職外国人の受け入れ方

佐賀「唐人町」にみる専門職外国人の受け入れ方

■唐人町

 JR佐賀駅を出て、佐賀県立図書館に向かって歩いていた時、歩道脇に石像が設置されているのに気づきました。道路側ではなく、建物側の壁面に置かれていたのです。花が添えられ、水の入ったコップが二個、置かれています。一瞬、お地蔵さんかと思ってしまったのですが、傍らに「忍者恵比須」と書かれた板が掲げられています。その上にはQRコードまで表示されていました。読み取って開いてみると、日本語、中国語、英語、韓国語で音声ガイドが用意されていました。「恵比須DEまちづくりネットワーク」がガイドしてくれるようです。

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 板には、次のような内容の説明が記されていました。

 「知的で涼しげな笑み。一五九九年、鍋島直茂公は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に通訳を務めた高麗人の居住地として唐人町を作りました。当時、その鍋島藩の様子を探るため、隣の黒田藩がスパイとしてこの恵比須さんを送り込んだという伝説が残っています。平らで肩まで垂れた福耳は、遠く小さな声を拾うためなのかもしれません。(社)佐賀観光協会」

 この説明書きを読んで、ここが韓国から渡来した人々が居住する町だということがわかりました。たしかに、街灯の柱にも、「唐人町」と書かれた小旗が取り付けられています。

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 他にも何かがあるはずだと思い、辺りを見回してみると、近くに「唐人町の由来」と書かれた石碑がありました。

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 唐人町について、最初の段落で、次のように説明されていました。

 「天正十九(1591)年、佐賀藩に召抱えられた高麗人李宋歓(りそうかん)は、秀吉の朝鮮出兵の際、通詞役として、また陶工たちの招聘(しょうへい)にも重要な役割を果たした。宋歓は利敵行為をしたため故国に帰ることができず、佐賀に留まることになった。藩主鍋島直茂はこのことを不憫におもい、佐賀城下の十間堀川以北の愛敬島村に、慶長四(1599)年宋歓が連れ帰ってきた高麗人の一団を住まわせた。その中にのちの鍋島更紗を創始した九(く)山道(ざんどう)清(せい)もいた。唐人(異国人)の住む町として、唐人町と名づけた」(※「唐人町由来」より)

 どのような経緯があって佐賀藩に召抱えられるようになったかわかりませんが、高麗人の李宋歓は、秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島直茂に随行して、地理案内および通訳として重要な働きをしているのです。

■鍋島直茂の朝鮮出兵

 朝鮮出兵に際して、直茂は龍造寺(戦国時代から江戸時代初期にかけての肥前国の戦国大名)家臣団を率い、加藤清正を主将とする日本軍二番隊の武将として参加しました。この朝鮮出兵を経て、龍造寺家臣団の直茂への傾倒が一層促進される効果があったとされています。この戦争中、直茂は一度も帰国することなく、慶長二(1597)年になってからようやく子息の勝茂と交代で日本に帰国しています。

 朝鮮戦役で戦功をあげ、その後の関ヶ原の戦いでもうまく立ち回った鍋島直茂、勝茂父子に対し、幕府は竜造寺氏からの禅譲を認める姿勢をとりました。周辺もそれを承認した結果、鍋島勝茂は幕府公認の下で、龍造寺家の遺領を引き継ぎ、佐賀藩主となり、父直茂の後見下で藩政を行うことになりました。(※ Wikipedia)。

 実際は慶長十三(1608)年に、鍋島家による領国支配が確立していましたが、幕府から鍋島勝茂に領地安堵の沙汰が出たのは慶長十八(1613)年でした。幕府の承認という側面からみれば、勝茂が祖となるはずですが、鍋島家略系図では藩祖を鍋島直茂とされています。
(※ https://www.nabeshima.or.jp/main/23.html)

 ここで、「肥前佐賀の領主としての鍋島家の基礎を築く」と書かれているように、鍋島直茂は多大な努力をして、肥前の領主としての地位を獲得しました。様々な局面をうまく繋ぎ、有利な状況を作り上げていったからでしょう。その一つが、朝鮮出兵でした。これを機に、佐賀での政治的地盤を優勢に導いています。直茂の洞察力と卓越した知略の賜物だといわざるをえません。

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(※ 文化遺産オンライン、図をクリックすると、拡大します)

 絵画とはいえ、眼光鋭く、しっかりとした面立ちからは知謀にたけた政治家であることがわかります。

 さて、朝鮮戦役の影響は、明にも朝鮮にもその後、衰退の原因となる深刻な財政難を残しました。攻勢をしかけた豊臣家にも家臣団の内紛をもたらしました。それぞれ悪影響を被りましたが、秀吉に指示され参加した西国大名の中には、多数の奴婢を連れ帰ることでこの戦役の代償を得た大名もあったといわれています(※ Wikipedia)。

 ところが、鍋島直茂は奴婢を連れ帰ったりはしませんでした。日本に帰還する際、他の西国大名たちとは違って、有能な陶工や繊維職人たちを連れ帰っているのです。直茂が現地の事情に明るい李宋歓を随行していたからにほかなりません。

■李宋歓に対する処遇

 李宋歓は、直茂が帰還する際、陶工たちを連れ帰る上でも大きな役割を果たしました。当時の日本では得難い技能をもつ陶工や更紗職人などを選別し、説得し、佐賀に連れ帰ったのです。それが、佐賀にとって、日本にとっていかに大きな功績であったか、後の展開を見れば一目瞭然です。

 もちろん、韓国にとっては大きな損失でした。李宋歓がとった行為は利敵行為とみなされ、帰国できなくなってしまいました。そこで、藩主鍋島直茂は、李宋歓が連れ帰った高麗人たちが住む場所を提供し、唐人町と名づけました。これがこの町の由来ですが、李宋歓にはさらに特権が当たられました。

 李宋歓の功績に対して、鍋島直茂は苗字帯刀を許し、十人扶持と海外貿易の永代御用達商の免状を与えました。その結果、李宋歓は、唐物の繊維品、陶磁器、金物類、荒物など日本にないめずらしい物を輸入しました。海外商品を扱う商人が唐人町に集まってきて、今日の唐人町の基礎ができたというわけです(※「唐人町由来」より)。

 ちなみに、「十人扶持」とは、十人分の家臣や奉公人の生活費に相当する扶持米が支給される俸禄のことです。また、「海外貿易の永代御用達商の免状」とは、海外貿易に関してはその家が存続する限り、あるいは幕府の需要がある限り、安定して取引を行う権利が与えられたのです。

 興味深いのは、李宋歓が連れ帰った人々の中には、陶工もいたし、後に鍋島更紗を創始した九山道清もいたということです。彼らによって、後の鍋島藩の主要な産業基盤が構築されたといっても過言ではありません。

■唐人神社

 「唐人町由来」の石碑の近くには、小さな神社が設置されていました。

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 小ぶりながらも、お賽銭箱があり、鈴を鳴らす鈴緒があって、神社としての機能を備えていました。その下に、「唐人神社の由来」と書かれた石碑があり、そこには、次のように説明されていました。

 「高麗人宋歓は佐賀領主鍋島直茂の招聘を受け、慶長四(1599)年この地に一族と居住し、唐人町と称した。宋歓は文禄・慶長の役の功績によって海外貿易の永代御用達商の免許を得て商業に励み、今日の唐人町の基礎ができた。宋歓は居宅の一角に石碑を建て、故郷を偲び、のち唐人塚と呼ばれた。この碑は昭和三十年七月、道路拡張のため、町西裏にある唐人町会館の構内に移された。同四十年七月、石碑を祭神として、「唐人神社の社殿」を新築。町の守護神として崇め、毎年夏の例祭を施行している」

 藩主直茂から、居住地や身分、俸禄を与えられても、李宋歓は故郷を離れたことからくる、心の虚しさを埋めることはできなかったのでしょう。居宅の一角に石碑を建て、故郷を偲んだといいます。それが、後に、「唐人神社」となり、故郷を離れた韓国人たちの心の砦になったのです。

 それにしても、高麗人の李宋歓がなぜ、秀吉が朝鮮に出征する際、日本にいたのでしょうか?しかも、直茂に随行して、日本側の通訳として現地で活躍しているのです。なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか?

■李宋歓を引き取った鍋島直茂
 
 なぜ、李宋歓が鍋島家に仕えるようになったのか、その経緯を知りたかったのですが、なかなか見つかりませんでした。寺内信一氏の説明によってようやく、理解することができました。

 寺内氏は李宋歓について、次のように解説しています。

 「朝鮮人。姓は達、名は越。朝鮮咸鏡北道吉州の刺史達賢の子。1587年(天正一五)海難に遭って筑前国黒崎(福岡県粕屋郡志賀町勝馬)に漂着した。1591年(天正一九)肥前鍋島家に引き取られ、文禄の役の際にはその地理案内および通訳の任に当てられた。出征中彼の地の陶工を斡旋仲介して藩主直茂に従い帰化させた。その委細は宗歓の子孫で佐賀唐人町の荒物商川崎四郎が1840年(天保一一)六月に提出した由緒書に明らかであります」
(※ https://turuta.jp/story/archives/43632)

この説明の中で、興味深いのは、「1587年に海難に遭遇して黒崎に漂着し、その四年後に鍋島家に引き取られたという文言です。李宋歓は海難に遭い、黒崎に漂着したのが、当時、日本にいた理由だというのです。

 黒崎といえば、黒田藩の所領でした。藩主黒田長政に先見の明があれば、漂着した李宋歓をすぐにも召抱えていたでしょう。日本を平定した秀吉が勢いにのって、やがて朝鮮に進出するのは目に見えていたはずです。実際、秀吉はその四年後には朝鮮出兵を決めています。家臣だった黒田藩は五千人の軍役を課せられました。

 李宋歓が海難に遭遇し、黒崎に漂着したのが1587年、鍋島家に引き取られるまでの四年間、どこで何をしていたのでしょうか。なぜ、黒田藩は藩内に漂着した李宋歓を引き取らなかったのでしょうか。秀吉が朝鮮に出兵するとなれば、通訳が必要なのは明らかでした。それなのに、黒田藩は李宋歓を引き取りませんでした。

 藩主の度量の違いでしょうか。鍋島藩主・直茂は黒田藩内に漂着した李宋歓を召し抱え、秀吉が朝鮮出兵の際には地理案内および通訳として起用しました。それだけではありませんでした。李宋歓は現地で陶工を選抜し、直茂に帰属させて日本に連れ帰りました。

 ここでつながってくるのが、冒頭にご紹介した「忍者 恵比須」の石像です。説明書きには、「当時、その鍋島藩の様子を探るため、隣の黒田藩がスパイとしてこの恵比須さんを送り込んだという伝説が残っています」と書かれていました。この説明文を読んだときには、どういうことかよくわからなかったのですが、寺内氏の説明を読んでから、なんとなくわかるような気がします。

 なぜ、黒田藩は鍋島藩の動向を探る必要があったのか、それはおそらく、鍋島直茂の動きをよく理解できなかったからではないでしょうか。

 鍋島直茂は、黒田藩内に漂着した李宋歓を召抱えました。渡来人とはいえ、彼の能力や人柄を見抜いたからでしょう。直茂には、度量、料簡、胆力がありました。高麗人を取り立てることによる誤解を招くかもしれませんが、むしろ、召抱えることによる大きなチャンスに賭けました。

 鍋島直茂は単に、朝鮮出兵に参加し、政治的基盤を固めただけではありません。李宋歓を伴っていたので、現地を視察することができ、有能な人材を日本に連れ帰ってくることができたのです。漂着民とはいえ、直茂が彼の能力と人柄を見抜き、信頼していたからにほかなりません。

 鍋島直茂が連れ帰った高麗人の中には、九山道清がいました。鍋島更紗と呼ばれる更紗を伝えています。道清は、後に九山左衛門と改名し、藩の庇護を受け、諸大名や幕府への献上品をつくっていました。技法は木版ずりと型紙ずりを併用した独特なもので、色染めも精巧を極めていたといいます。(※ 石碑「鍋島更紗の由来」より)

 直茂が連れ帰った高麗人の中に陶工もいました。『葉隠聞書382』によると、「鍋島直茂・朝鮮陣凱旋の時陶工を伴なひ帰りて有田焼を創む」との表題の下、次のように説明されています。

 「日本の寶になさるべくと候て、焼物上手頭6,7人召連れられ候、金立山に召置かれ、焼物仕り候、其の後伊萬里の内、藤河内山に罷り移り、焼物仕り候。それより日本人見習ひ、伊萬里有田方々に罷り成り候由」
(※ 『佐賀県立博物館報』No.38)

 陶工たちを連れ帰ったのは、彼らがやがて日本の宝になると直茂が判断したからでした。実際、彼らは大きな功績を上げました。最初は金立山、そして、伊万里、藤河内山へと場所を変えて製造していましたが、陶工団はやがて伊万里や有田で焼物を始めるようになります。

■佐賀「唐人町」が示すもの

 鍋島更紗にしても、鍋島焼にしても、直茂が帰還の際。工人たちを日本に連れて帰ろうと判断しなければ、ありえませんでした。当時、日本にはなかった織物、陶磁器の製造技術を彼らはもたらしてくれました。それらはやがて、佐賀藩の経済基盤を支える産業に成長し、維新後は輸出産業の一端を担うようになったのです。

 鍋島直茂に先見の明があったからだけではありません。高度や技術をもたらしてくれた渡来人に対し、誠実に接してきたからではなかったかと思います。有能な人材を家族ごと受け入れただけではなく、渡来人に対し、城下に居住地を確保し、身分、俸禄も与えました。さらに、故郷を離れて覚える心細さを解消するかのように、唐人神社まで作っていました。能力に応じ、手厚く処遇をしていたばかりか、安心して働ける環境を整備していたのです。

 実際、高度な技術を持つ渡来人たちは、後々まで佐賀藩のため、日本のために役立ってくれました。藩主が正当に彼らを受け入れ、処遇していたからにほかなりません。

 翻って今、単純労働力として外国人を求める産業界の風潮に、危惧を覚えざるをえません。代替の利く労働なら、機械あるいはロボットで補完できるのではないかと思うのです。

 今回、佐賀の「唐人町」で見たのは、日本にはない高度な技術力をもつ渡来人の受け入れ方でした。鍋島藩は、彼らを手厚く処遇し、居住や収入面での環境整備を図ったばかりか、彼らの気持ちに沿って、唐人神社まで作っていました。渡来人が異国でも心安らかに働けるよう配慮されていたのです。(2025/12/31 香取淳子)
 

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