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第55回練馬区民美術展に出品しました。

■第55回練馬区民美術展の開催

 第55回練馬区民美術展が開催されました。期間は2024年2月3日(土)から2月12日(月)まで、時間は午前10時から午後6時(最終日は午後2時終了)でした。美術館脇の公園には、第55回美術展の看板が掛けられていました。

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 館内に入ると、出品作品は、洋画1、洋画Ⅱ、日本画、彫刻・工芸のジャンルに分けて、展示されていました。

 私は洋画Ⅰ(油絵)部門に出品しましたが、この部門の出品者は69名でした。その中から区長賞1名、教育委員会賞1名、美術館長賞1名、奨励賞3名、努力賞3名が選ばれています。

 まず、私の作品が展示された、洋画1の部門のコーナーを見てみましょう。

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 真ん中に展示されているのが、私が出品した作品です。風景を背景としているので、カンヴァスはPサイズの20号を使いました。

 昨年と同様、母をモチーフに描きました。もちろん、リアルな母ではなく、イメージの中の母を手掛かりに、晩年に差し掛かった頃の姿を作品化しています。

 もうすぐ100歳になろうとする母は、認知症が悪化し、95歳ごろから施設のお世話になっています。今では、施設を訪れても、私のことを認識できず、言葉にならない音声を発することしかできなくなりました。

 人としての形が徐々に崩れ始めているのですが、それでも、その表情や目つきには、かつての母の面影が残っていました。認識能力を失っているはずなのに、聡明で、孤高の面持ちが見られるのです。

 母のことをいろいろと思い返しているうちに、ふと、80歳になった頃から、母が不思議な輝きを見せ始めたことを思い出しました。

 母は、晩年に入ろうとしている頃から、全身からいぶし銀のような輝きを発しはじめました。その時は、深く考えもしなかったのですが、その後、さまざまな高齢者の姿を見るにつれ、なぜ、母にそのような変化が起きたのか、不思議でならなくなりました。

 一時は、その理由を探りたいと思ったこともありました。ところが、母と離れて暮らすうちに、そのような気持ちもいつしか忘れ去っていました。

 今回、母をモチーフに絵を描こうとしたとき、ふいに、その頃の気持ちが甦ってきました。記憶の底に深く沈んでいたその気持ちが、突如、浮上してきたのです。

 そこで、当時の母をイメージしながら、その姿をカンヴァスに表現してみることにしました。母の不思議な輝きの源泉を見出すことができるかもしれません。

 そう思った途端、反射的にタイトルが思い浮かびました。

《晩秋》です。

■《晩秋》

 80歳になった母は、もちろん、見た目は年齢相応に老いていました。肌はくすみ、深く刻み込まれた皺は隠しようもなく、衰えが顔全体に広がっていました。ところが、ふとした拍子に見せる表情に、なんともいえない輝きがみられるようになりました。

 それは、年齢に抗って放たれているように見える一方、年齢の積み重ねによって生み出されているようにも見えました。

 80歳にならなければ、得られないような美しさであり、ひっそりとした輝きでした。誰もが気づくわけでもありません。母が生きてきたプロセスを知っている者しか、看取できない微妙な変化でした。

 見た目の老いの背後から滲み出た内面の深みであり、母が本来、持ち合わせていた聡明さや孤高の精神と交じり合って生み出された風情や雅趣といえるようなものでした。

 人生を四季に例えるなら、まさに、晩秋の輝きでした。

 もうすぐ冬になろうとする時期、気温は下がり、木々の葉はさまざまに紅葉していきます。街路を見渡せば、イチョウ並木が黄色く輝き、塀越しに見える庭木は、橙色や黄色に色づき、遠く山を望めば、とりどりの暖色系の葉で覆われた木々が華やいで見えます。

 晩秋ならではの、いっときの輝きです。

 やがて、冷たい風が吹いて、木々は葉を落とし、いっさいの生命活動は鳴りを潜めてしまいます。晩秋から冬にかけてのほんの一時期、木々は紅葉した姿で、精一杯の輝きを見せるのです。

 80歳頃からの母の輝きは、紅葉した木々の姿に重ね合わせることができるものだったような気がします。

 紅葉の季節が過ぎれば、木の葉は一枚、一枚、散って落ち、瞬く間に、枝と幹だけになっていきます。人もまた80歳を過ぎれば、一年、一年、老いが目立つようになり、動作も反応も鈍くなっていきます。生命力が衰えていく過程が、そのような現象として現れるようになります。

 母は80歳になっても、背を丸めて歩くようなことはなく、背筋をピンと張って歩いていました。思い返すと、母が不思議な輝きを見せていたのは、80歳からの10年間ほどでした。90歳になると、歩調は遅くなり、反応も鈍くなっていきました。さすがに心身ともに老いが際立つようになり、ひっそりとした輝きも老いの影に隠れてしまいました。

 晩秋に思いきり輝き、やがて、散っていく木の葉のように、母は80歳からの10年間、いぶし銀のような輝きを見せ、そして、その後の10年間、人としての形が脆くも崩れていきました。

 今回、カンヴァスに描きとどめようとしたのは、晩節に母が見せてくれた、ひっそりとした輝きです。

■母をどう描いたか

 今回、私が出品した《晩秋》を見ていくことにしましょう。

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(油彩、カンヴァス、72.7×53㎝、2023年。図をクリックすると、拡大します)

 写真では、会場のライトが額縁のアクリル面に反射しています。カンヴァスの画面がありのままに写し出されているとはいえませんが、私が表現したかったことはほぼ、この写真から伝わってくると思います。

 描きたかったのは、老いてなお輝きを見せていた頃の母のイメージです。

 当時、帰省するたびに見かけていたのが、もの思いに耽る母の姿です。台所で料理をしている時、庭で草むしりをしている時、床の間の花瓶に花を活けている時、ふとした拍子に、母は「心ここにあらず」の表情を見せることがありました。

 もの思いに耽っているように見える時があれば、何か考え事をしているように見える時もありました。母の周囲には、人を寄せ付けない、孤高の雰囲気が漂っていたのです。気軽に話しかけることもできず、戸惑ったことを覚えています。

 その時の光景を何度も思い返しているうちに、この孤高の雰囲気こそが、母が見せていた不思議な輝きの源泉なのかもしれないという気がしてきました。

 孤高の雰囲気とそこから生み出される輝きを表現するには、どのような画面構成にすればいいのか、考えてみました。さらに、モチーフをどのような設定すればいいのか、背景をどうすればいいのか、いろいろとシミュレーションしてみました。

■逆光の中のメインモチーフ

 まず、メインモチーフの母は、逆光を受けて佇む姿にしようと思いました。

 晩節にさしかかった母を、明るく輝かしく描くのは不自然です。顔色は当然、暗く、鈍い色調でなければなりません。その反面、顔面にはいぶし銀のような輝きも必要です。そこで考えたのが、逆光の中でモチーフを描くという構図です。

 こうすれば、メインモチーフに必要な二つの側面を表現できると考えたのです。

 実は、このようなアイデアを思い付くキッカケとなったのが、ミレーの《晩鐘》でした。

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(油彩、カンヴァス、55.5 × 66 cm、1857-59年、オルセー美術館蔵。図をクリックすると、拡大します)

 ミレー(Jean-François Millet、1814 – 1875)は、バルビゾン派を代表する画家といわれ、田園に取材した作品を数多く制作しました。この作品はそのうちの一つです。

 画面には、農民夫婦が手を休めて祈りを捧げる様子が描かれています。逆光の中で手を合わせ、祈りを捧げる夫婦の姿が、静かな佇まいの中で捉えられているのが印象的です。タイトルからは、晩鐘が鳴り響くのを合図に、一日の平安を感謝する敬虔な気持ちが表現されていることがわかります。

 この作品は、1865年2月にパリで展示されました。その時、ミレーは、次のように、祖母の思い出を描いた作品であることを述懐していたそうです。

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かつて私の祖母が畑仕事をしている時、鐘の音を聞くと、いつもどのようにしていたか考えながら描いた作品です。彼女は必ず私たちの仕事の手を止めさせて、敬虔な仕草で、帽子を手に、「憐れむべき死者たちのために」と唱えさせました。
********(※ Wikipedia)

 在りし日の祖母の姿を思い起こしながら、ミレーはこの作品を描いていたのです。そのような背景事情を私はまったく知りませんでしたが、美術の教科書でこの作品を見たとき、敬虔な農民の姿に強く心を動かされたことは、はっきりと覚えています。

 当時、ヨーロッパでは風景画が注目を浴びるようになっていました。ところが、ミレーは、都会人が求めるような田園風景を描くのではなく、農民の生活を踏まえて風景を描いていたといわれています。

 日本の紹介された作品、《種まく人》(1850年)や《落穂拾い》(1857年)などを見ると、確かに、ミレーが風景を、農民の生活と一体化させて捉えていることがわかります。農民の生活と真摯に向き合い、深く観察して作品化していったところに、ミレーの独自性があるといえるでしょう。

 私がなぜ、この作品を思い出したかといえば、母の生きる姿勢に、この作品に見られる敬虔な要素があったからでした。母は「徳子」という名前でしたが、その名の通り、「徳を積む」ことをひっそりと実践してきた人生でした。私がミレーのこの作品をまっさきに思い出したのは、おそらく、農民夫婦の敬虔な光景に、母の生き方との親和性が見られたからでした。作品から受ける敬虔な印象が、母を思い起こさせたのです。

 もっとも、この作品には、私が求めるいぶし銀のような輝きは見られません。確かに、穏やかさ、落ち着き、敬虔さは画面から伝わってきますが、輝きが足りません。陽が落ちた残照では、命のラストステージを煌めかせる熱量が不足しているのです。

 メインモチーフである母に、いぶし銀の要素を添えるには、もう少し、きらびやかな要素が必要でした。

 そこで、さらにミレーの作品を渉猟してみました。すると、次のような作品が見つかりました。

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(油彩、カンヴァス、100.7×81.9㎝、1870-72年、ニューヨーク フリック・コレクション。図をクリックすると、拡大します)

 タイトルは《ランプの明かりで縫物をする女性》(Woman Sewing by Lamplight)です。初めて見る作品です。

 ミレーは1875年1月20日に亡くなっていますから、制作年からいえば、晩節の作品といっていいでしょう。

 《晩鐘》とは違って、メインモチーフのすぐ近くにあるランプが光源になっています。画面中央辺りが明るい色調、そこから遠ざかるにつれ画面が暗くなるという色構成です。モチーフがランプの光で、明るく浮き彫りにされているのが印象的です。

 画面全体から、暖かな家庭の温もりが感じられます。

 ランプから放たれた穏やかで暖か味のある光が、女性を照らし出しています。横顔、肩、手を柔らかい光で包み込み、縫物をする女性を優しく捉えています。よく見ると、ライトの下では、赤ん坊が眠っています。俯き加減に針を運ぶ女性は、おそらく、母親なのでしょう。

 ランプを光源とする穏やかな光線が、周辺に柔らかな陰影を作り出し、作品に落ち着きと暖かさを添えています。黄色、橙色など暖色系を中心とした色構成の中に、農民の生きる力とひっそりとした輝きが感じられます。

 この色合いを、メインモチーフを支える背景色に使ってみようと考えました。

 次に、考えたのが背景です。

■背景としての湖畔、差し色としての白

 晩節の母を描くのですから、私は、背景として、晩秋の風景しか思いつきませんでした。もちろん、一口に晩秋といっても、さまざまな風景があります。紅葉した街路樹もあれば、紅葉した山、あるいは、すっかり葉を落とした木々など、どのような景色を選べば母のイメージに相応しいのか、悩み、いろいろとシミュレーションしてみました。

 その結果、晩秋の湖畔を、背景として取り上げることにしました。

 湖畔なら、紅葉した木々、すっかり葉を落とした木々など、晩秋を象徴する一切合切を、一つの景色の中に収めることができます。それらの要素を、ごく自然に画面に持ち込むには、湖畔がもっとも適していると思ったのです。

 さらに、背景を湖畔に設定すれば、メインモチーフとの間に、ちょっとした空間を生み出すことができます。この空間を活かす恰好で、湖の際に枯れ木、湖辺に紅葉した木々を描けば、画面に奥行きや深みを生み出し、興趣を感じさせることができると考えました。

 こうして、枯れ木や紅葉した木々を配した湖畔を背景に、逆光を受けて佇む母の姿をイメージして描いたのが、先ほどご紹介した《晩秋》です。

 メインモチーフと背景との組み合わせとバランスで構成を考え、ラフに仕上げてみましたが、何かが足りません。何度も画面を見返してみましたが、決定的要素が足りないような気がしてならないのです。

 老いてなお、背筋をピンと伸ばして暮らしていた、あの母のイメージを表現しきれていませんでした。凛とした佇まいは、母が80歳を過ぎて、放ち始めたいぶし銀のような輝きを支えるものでした。それが画面から滲み出ていなかったのです。

 凛とした母の佇まいを表現するにはどうすればいいのか・・・、再び、画面を見つめ、シミュにレーションを繰り返した結果、要所要所に、白を散らしてみることにしました。

 晩秋の湖畔の空気には、肌を刺すような厳しい冷たさがあります。その厳しい冷たさは、凛とした佇まいに通じるものがあり、晩節の象徴でもあるように思えました。それは白によってしか表現できないもののように思えました。

 試みに、髪の際や逆光の粒子の中に、白を差し色として置いてみました。思いのほか、画面に輝きが生まれたことに驚きました。まさに、いぶし銀のような輝きです。これでようやく、納得できる画面になったような気がします。

 気をよくして、さらに、顔や首の縁、その背後で煌めく残照の中に、そっと白を置いてみました。そうすると、不思議なほど見事に、晩節の母の輝きを表現することができました。予想以上の白の効果でした。

 差し色として白を使うことによって、晩秋の冷たい空気の感触、母の凛とした生き方、いぶし銀のような輝きを表現することができたのです。

 それにしても母はなぜ、80歳を過ぎた頃から、輝き始めたのでしょうか。カンヴァスに母のイメージを描いて見てようやく、なぜ、母が輝き始めたように見えたのか、多少、わかってきたような気がしました。

■母はなぜ、輝いて見えるようになったのか

 80歳ともなれば、心身ともに衰えが目立つようになります。動きが鈍くなったり、物忘れがひどくなったり、老化に伴うさまざまな衰えが、心身に現れるようになります。輝きとは無縁になるのが一般的です。

 それまでの自己肯定感を失い、アイデンティティ・クライシスに陥る人も多々、いると思います。

 ところが、母の場合、80歳を過ぎてから、ひっそりとした輝きを見せるようになっていたのです。それが不思議でなりませんでしたが、今回、絵を描くために、当時の母を何度も思い返すうちに、その原因がなんとなくわかってきたような気がしました。

 母の不思議な輝きは、おそらく、孤独感を昇華させることができ、新しいアイデンティティを獲得したから得られたものではないでしょうか。その頃、時折、母が見せていた孤高の佇まいを思い出します。

 父が83歳で亡くなった時、母は75歳でした。その後、母はそのまま、大きな家で一人暮らしを続けていました。同じ敷地内に弟の家族が住んでおり、日常的に行き来があったので、私は心配していませんでしたが、アイデンティティが大きく揺らいでいたことは確かでしょう。

 専業主婦として生き、外で働いた経験もない母は、家庭こそがアイデンティティの基盤でした。父の死後、その基盤が崩れてしまいました。子どもたちはとっくの昔に巣立って、それぞれの家庭を築き、残されたのが妻という役割でしたが、それも父の他界によって、喪失してしまいました。

 世話をしてきた対象をすべて失ってしまったのです。

 父を失った喪失感を、母はどのようにして補っていたのでしょうか。あるいは、大きな家で一人暮らしをするようになって、寂寥感をどのように紛らわせていたのでしょうか。当時、私は仕事に忙しく、慮る余裕がありませんでしたが、母はアイデンティティ・クライシスに陥っていたのではないかと思います。

 ちょうど80歳を過ぎた頃から、母は、私が帰省するたびに、「お母さんが、この家を守る」と言うようになりました。確かに、長い廊下はそれまで以上に磨き込まれるようになっていましたし、いくつかある床の間にはいつも、何かしら花が活けられ、それに合わせて、掛け軸も取り替えられていました。

 数年に亘るアイデンティティ動揺期を経て、母は、「家を守る」ことに、新たなアイデンティの基盤を見つけたように見えました。

 日々、部屋を掃除し、庭を手入れし、仏壇に御仏飯や花を供えて、「家」の世話をすることに生き甲斐を感じるようになっていたのです。「家を守る」ことにアイデンティティの基盤を置くことによって、母はようやく、自分の居場所を見つけたのでしょう。

 その頃から、母は不思議な輝きを見せるようになりました。
 
 「家を守る」ということは、単に家を整え、綺麗にするということだけではありませんでした。家の対面を守り、先祖を守るという決意の表れでもありました。母にとってはむしろ、こちらの意味合いの方が強かったのかもしれません。

 生身の人間との関わりが薄れても、母は日々、気持ちを通わせ、生きていることの意味を感じさせてくれる対象を見つけたのです。私は、母がついに孤独感を昇華し、孤高の精神へと変貌させていった感情と思考のプロセスを感じました。

 思い返せば、ちょうどこの頃から、母がいぶし銀のように輝いて見えるようになったような気がします。

 当時の母をイメージし、今回、作品化してみました。改めて画面を見て、思いのほか、的確に表現できたのではないかという気がしています。(2024/2/19 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑪:使節団はアメリカで何を見たのか(6)奴隷制と南北戦争

 前回、星条旗のデザインの変化を通して、アメリカ合衆国の建国経緯を振り返ってみました。その過程で見えてきたのが、自由、平等の国を謳いながら、奴隷制を廃止しなかったアメリカの矛盾です。

 そこで、今回は、まず、奴隷制がどのようにして制度化され、アメリカ社会に組み込まれていったのか。その歪な制度に政治家はどのように立ち向かい、廃止することに成功したのかといったことを考えてみたいと思います。

 その上で、岩倉使節団のメンバーである久米邦武がそれについてどう感じたのかといったことについて触れてみたいと思います。

■アメリカ建国の理念とその矛盾

 思い返せば、アメリカの独立宣言は、イギリスの政治思想家ジョン・ロックらの自由主義的考え方に基づいたものでした。独立宣言を起草したジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743- 1826)らは、ジョン・ロック( John Locke, 1632 – 1704)の政治思想を踏まえ、独立のための理論的根拠を練り上げました。

 というのも、ロックが提唱した社会契約や抵抗権についての考えは、名誉革命(1688-1689)を理論的に正当化する基盤となっていたからでした。国家と国民との関係を社会契約という概念で捉え、そこに国民の側の抵抗権を介在させるという斬新なものでした。

 このようなロックの考えは、アメリカの独立宣言(1776年7月4日)に取り入れられ、その後、フランスの人権宣言(1789年8月26日)にも大きな影響を与えました(※ Wikipedia)。

 たとえば、ロックの『社会契約論』では、国の指導者がイギリス人の権利を踏みにじった場合、人々には指導者を打倒する権利があるとされています。このような考え方が名誉革命を正当化し、アメリカ独立戦争の際の政治的根拠にされたのです。

 独立宣言の前文では、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、「生命、自由、幸福の追求」の権利が掲げられています。そのように人間としての基本的権利を謳い上げたところに、『社会契約論』のエッセンスを見ることができます。

 独立宣言を起草したメンバーには、基本的人権を重視する姿勢がありました。だからこそ、その高邁な理念を掲げることによって、アメリカ植民地13州は意思統一を図り、独立を勝ち取ることができたのです。

 ところが、いったん、独立国として承認されると、為政者たちはその理念をすっかり忘れてしまったかのように見えました。「全ての人間は平等に造られている」と唱えておきながら、基本的人権を主張できるのは白人だけに留め置き、奴隷制の廃止を認めようとしなかったのです。

 なぜ、高邁な理念を掲げて建国した為政者たちは、独立戦争後も、その理念とは矛盾する奴隷制を容認していたのでしょうか。

 そもそも、なぜ、これほど大きな矛盾があるにもかかわらず、識見の高い為政者たちは奴隷制を放置したのでしょうか。

 そこで、再び、独立宣言を振り返ってみました。すると、先ほどご紹介した前文以外に、「国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情」に関する28ヶ条の本文が加えられていたことがわかりました。

 なぜ、本国イギリスと戦うのかについての理由が逐一、掲げられていたのです。ジェファーソンらは、論拠を示して戦いを挑んでおり、独立戦争の正当性を示していたのです。起草メンバーたちがきわめて理知的で、論理的な思考の持ち主であったことがわかります。

 実際、独立宣言を主導したジェファーソンの来歴を見ると、政治哲学者としてイギリスやフランスに知己が多く、博学で、傑出した人物だったといわれています。その後、第3代アメリカ合衆国大統領として行政手腕を発揮したばかりか、バージニア大学の創設者として、学問領域の充実にも携わっています(※ Wikipedia)。

 それほどの人物が中心になって、アメリカ合衆国を建国したというのに、なぜ、奴隷制が放置されたままだったのでしょうか。

 この疑問を解くには、まず、植民地時代のアメリカ社会を把握しておく必要があるのかもしれません。

■バージニア植民地の場合

 最初のアメリカ植民地は、バージニア州です。そして、独立宣言を起草したジェファーソンはバージニア入植者の古い家系の出身でした。

 そこで、まず、彼の出身地であるバージニア植民地の来歴を把握することから、アメリカの奴隷制について考えてみることにしましょう。

 バージニア植民地は1607年に開かれました。イギリス人によって開拓された最初のアメリカ植民地です。

 なぜ、バージニアという名称なのかといえば、ロンドンの商人たちが、国王ジェームズ1世から勅許状を得て設立したのが、バージニアという名の会社だったからです。彼らは北アメリカ大陸で植民事業を立ち上げようとしていたのです。

 商人たちは出資者を募り、最初の入植者105人を北アメリカ大陸に送り出したのが、1606年12月のことでした。

 入植団は1607年4月26日に、アメリカ東海岸のヘンリー岬に到着しました。そして、入植に適した土地を求めてジェームズ川をさかのぼり、河口から約48キロメートルの地点に上陸しました。彼らはそこを入植地と定め、川に名付けたのと同様、国王ジェームズ1世にちなんでジェームズタウンと命名しました。

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(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 上の地図はちょっと見にくいので、Jamestownの文字の下に赤線を引き、該当場所に赤丸印をつけました。このジェームズタウンが、アメリカ大陸におけるイギリス初の植民地となりました。

 地図を見ると、入植地のジェームズタウンは、大西洋の荒波を避け、バージニア半島を遡った所にあります。蛇行するジェームズ川をより安全に航行できる地域が選ばれていることがわかります。

 先ほどの地図よりもわかりやすい地図を見つけました。これだと、バージニア半島とジェームズ川、ジェームズタウンの位置関係がよくわかります。さっそく、見てみましょう。

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(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 淡いオレンジ色の部分がバージニア半島です。ジェームズ川と書かれた流域の河口辺りは、ハンプトンやノーフォークが入り組み、やや複雑な地形になっています。このような地形であれば、確かに、大西洋からの荒波を避けることができるでしょう。そこからさらに48キロメートル遡った先に、ジェームズタウンが設置されたことの理由がわかります。

 最初の入植者たちは、用心に用心を重ねて、入植地を決定していたのです。

 ジェームズ川は元々は、先住民族からポウハタン川と呼ばれていたといわれています。バージニア半島に広がっていたポウハタン連邦の酋長の名前に因んで付けられていたのです(※ Wikipedia)。

 ところが、イギリスから入植者たちがやって来て、勝手に、国王ジェームズ1世に因んだ名前に変えてしまいました。入植とはすなわち、先住民を追い払い、彼らの土地や河川を簒奪し、改名することだったのです。

 ジェームズ川は、当初15年間はイギリスからの物資や入植者たちの輸送に役立ちました。その後、1612年になると、実業家ジョン・ロルフがタバコの栽培に成功し、これがイギリスで大人気となりました。その結果、ジェームズ川は、プランテーションからタバコを運ぶ航路として大きな役割を果たすことになったといいます(※ 前掲)。

 タバコ産業の発展によって、ロンドンのバージニア会社は、財政的に大きな成功を収めました。植民地事業が発展し、本国に大きく貢献したのです。当然のことながら、バージニア会社はさらなる発展を目指し、投資を募っては入植者を増やしました。
 
 当初、入植者はもっぱら、イギリス本国から追放された囚人や浮浪者だったといいます。ところが、タバコ栽培でバージニアの経済が活性化するにつれ、イギリスからは数多くの貧困労働者がやってきました。彼らは渡航費や生活費も持たずにやって来て、無賃渡航契約者として一定期間、プランテーションで働き、年季が明けると、報酬をもらって自営農民として独立しました。

 タバコ栽培が盛んになってから、プランテーションの労働力需要はますます高まっていきました。終には、イギリスからの移民だけでは足りなくなってしまいました。隷属して働いてくれる奴隷が必要になったのです。

 1619年に、オランダのフリーゲート艦が、アフリカから20人の黒人を連れてきました。バージニア植民地にとって、はじめての黒人労働者でした。彼らは当初、年季奉公人として働いていました。ところが、労働力を失いたくない雇用者は、年季が満了しても彼らを奉公人に留めておくようになりました。これが慣習化し、雇用の形態が年季制から終身制になっていったのです。

 奴隷労働がプランテーション経営に不可欠になっていたからでした。

■黒人奴隷の制度化

 黒人奴隷の数はタバコ産業が活性化するにつれ、増えていきました。

 たとえば、1649年のバージニアの黒人奴隷は、人口の2%で約200人、1670年は人口の5%の約2000人でした。ところが、1700年には人口の28%の約20000人、1715年は24%の約23000人、1754年には40%の116000人、そして、1770年には42%の約187000人と年を追うごとに、増え続けていったのです。
(※ 楪博行、「アメリカにおける奴隷制度とその変遷」、『人間学研究』No.6、2006年、p.3.)

 このように黒人奴隷が増えていくにつれ、彼らの自由を奪い、強制的に労働させることが慣習化していきました。

 楪博行氏は、バージニア植民地で黒人奴隷の身分制度が確立していくのは、1660年から70年にかけてであったと記し、次のように具体例を示しています。

 1660年、1661年に制定されたのは、黒人奴隷が逃亡することを防ぐための法でした。1662年には父の法的地位に関わりなく、奴隷の母から生まれた子は奴隷とする法が制定されました。そして、1663年には奴隷が許可なく移動することを禁止する法が成立し、1667年には、キリスト教の洗礼を受けたとしても、奴隷の母から生まれた子は自由にはなれないことが定められました。

 さらに、1668年法では、奴隷ではない自由な身分の黒人女性に、納税義務、農場労働で植民地に貢献すること等が課せられ、イギリス人女性とは異なる扱いが規定されました(※ 前掲。p,3)。

 一連の法制度の成立過程を見てくると、ほとんど毎年のように、奴隷を拘束するための法律が制定されていたことがわかります。いずれも、奴隷の逃亡や反抗、反乱などを防ぎ、身分を固定化することによって、強制労働に従事させるためのものでした。

 タバコ生産に従事する黒人奴隷たちを描いた絵があります。1670年の作品です。ご紹介しましょう。

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(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Slaves_working_in_the_tobacco_sheds_on_a_plantation_(1670_painting).jpg、図をクリックすると、拡大します)

 上半身裸の黒人奴隷が、それぞれ、タバコ製造のさまざまな工程に関わり、黙々と働いている様子が描かれています。自由を束縛し、指示通りに働く労働者をプランテーション経営者は望んでいたのでしょう。黒人奴隷の数が増えるにつれ、経営者たちは、彼らを管理するための法制度を整備する必要に迫られたのだと思われます。

 実際、プランテーションの活性化に伴い、黒人奴隷を管理するための制度は整備され、各植民地に浸透していきました。

 たとえば、許可なく移動することの禁止、集会することの禁止、奴隷に対する傷害や殺人の合法化、終身の強制労働、といった具合です。さまざまな規制を設けては、暴力、恐怖による管理を合法化していきました。

 さらに、奴隷を所有物として位置付け、遺言や差し押さえの対象、あるいは、課税対象にするようになっていきました。人ではなく、物として奴隷を扱うようになっていったのです。さまざまな自由をはぎ取り、拘束し、抵抗する権利を奪い、強制労働に従わせるための法の目を張り巡らせていきました。

 奴隷の制度化は、バージニア植民地だけではなく、南部ではどの植民地でも、ほぼ同様の法的規制が設けられ、深化していきました。

■奴隷制と植民地の産業構造

 一方、アメリカ北部の植民地では、奴隷制は発達しませんでした。北部の産業構造は、プランテーションを基盤としておらず、奴隷労働による収益は取るに足るものではなかったからです。

 一口に、アメリカ植民地とはいっても、産業構造の違いによって、奴隷に依存する度合いが異なっていたことがわかります。それに伴い、北部と南部とでは、奴隷制に関する認識は大幅に異なっていました。

 もっとも、北部と南部とで差異がみられるとはいえ、その違いは、奴隷労働がどれほど地場産業で必要とされているかの違いでしかありませんでした。奴隷制そのものは法の下、アメリカ植民地の経済構造に深く組み込まれていたのです。

 それでは、イギリス本国で、奴隷制はどのような法の下で管理されていたのでしょうか。

 楪博行氏は、イギリス本国と植民地の奴隷法との関連について、次のように結論づけています。

 「各植民地の奴隷法の意図は、奴隷を管理しそれから収益をあげつつ、その反乱を防止する禁止側面のみの警察的意味を持つものであった。(中略)イギリス枢密院の植民地に対する積極的な奴隷政策は、植民地において受容され、ついには各植民地での奴隷法の制定によって正当化が図られることになった」(※ 前掲。p.8.)

 アメリカの各植民地は、どうやら、独自の判断で奴隷法を制定してきたわけではなかったようです。背後に、イギリス枢密院からの積極的な政策支援がありました。だからこそ、人権を踏みにじるような法律でも、なんの支障もなく、成立してきたという経由がありました。アメリカ植民地でのローカルな判断は、いってみれば、イギリス枢密院のお墨付きを得て、正当化されてきたのです。

 アメリカ植民地の黒人奴隷に対する支配の網は、時間をかけて、四方八方隈なく、張り巡らされていました。しかも、それらはイギリス本国から容認されていました。イギリス本国にとってはなによりも、植民地のプランテーションからあがる収益が重要だったからでした。

 黒人奴隷は、アメリカ植民地から逃れられないように、制度化されて、プランテーションに組み込まれていました。彼らを取り巻く、二重三重に張り巡らされた支配の網の目は、ジョン・ロックの社会契約論によって突き崩せるほど脆いものではありませんでした。

 一連の奴隷法の制定過程をみてくると、ジェファーソンがどれほど人道主義的な見解を持っていたとしても、奴隷制を廃止することはできず、放置せざるをえなかったのかもしれません。建国理念とは矛盾するとはいえ、奴隷制はそれほど深くイギリス本国と結びつき、そして、アメリカの各植民地に根付いていたのです。

 1872年にアメリカを訪れた久米は、アメリカの奴隷制について、次のように書いています。

 「合衆国が独立する頃、黒人奴隷は50万人(当時のアメリカ全人口の6分の1)に達していた。憲法を制定する時、この制度が非道であるということもわかっていたのであるが、すぐにこれを廃止することが難しいので、奴隷輸入税を1808年までと定めた。ところが、1790年頃、アメリカ人ホイットニーが綿花を紡ぐ機械を発明、それが南部の綿花栽培をいっそう促したので、南部ではさらに黒人の労役が盛んになった。またイギリス人も蒸気機関によって紡績を行うようになり、その利益が増大したことから、奴隷輸入に関する年限が過ぎても南部の綿花栽培諸州における奴隷売買はやむことがなかった」(※ 久米邦武編、水澤周校注、『米欧回覧実記』1、p.231.)

 タバコ栽培の次は、綿花栽培が盛んになりました。そのために、黒人労働への需要はますます高まっていったのです。

 実は、奴隷の輸入については1808年以降、廃止する方向で調整されていました。ところが、南部の綿花栽培が活況を呈するようになるにつれ、奴隷労働への需要が高まりました。それに伴い、奴隷制廃止の動きは止まり、そのまま継続されていきました。

 とはいえ、時代が進むにつれ、アメリカはやがて、奴隷制廃止に向かわざるをえなくなります。イギリス本国での動きが変わったからです。

 イギリスでは、1833年8月23日に奴隷制廃止法が成立し、イギリスの植民地での奴隷制度を違法としています。

 ところが、アメリカ南部では、プランテーション農園主の政治的発言力が大きく、当時、奴隷制はむしろ強化される傾向にありました。それに反し、アメリカ北部の諸州では奴隷制はすでに廃止されていました。

 南北の経済構造の違いから、やがて奴隷制が南部と北部との対立の焦点となり、先鋭化していきます。

■南軍vs北軍

 1860年の大統領選で、共和党のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln ,1809- 1865)が当選しました。奴隷制度に反対していた政治家が、大統領に選出されたのです。

 リンカーンが大統領に選出されると、奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州は、アメリカ合衆国を脱退してしまいました。そして、これら南部の諸州は新たにアメリカ連合国を結成しました。

 南部諸州で構成されたアメリカ連合国と、アメリカ合衆国にとどまった北部23州との間で戦争が勃発しました。

 奴隷制を争点に、アメリカ合衆国(北軍)とアメリカ連合国(南軍)とが戦う南北戦争(1861-1865)が始まったのです。奴隷制度を巡ってアメリカが二つの国に分断され、同胞が熾烈な戦いを繰り広げることになりました。

 南軍と北軍がどのような分布になっていたのか、当時のアメリカ地図をご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 青がアメリカ合衆国の諸州です。そして、赤がアメリカ連合国諸州で、水色はどちらとも旗色を明らかにしていない境界州です。白は南北戦争の前、あるいは戦争中に、まだ州に昇格していない領域です。

 こうして色分けすると、一見して南軍側か北軍側かがわかります。南と北で別れているのです。

 奇妙なことに、カリフォルニア州、オレゴン州、ネバダ州などが北軍側に色分けされています。西海岸の諸州が北軍に属しているのです。

 なぜなのか、不思議な気がしました。
 
 そこで、調べてみると、どうやらリンカーンが署名した法律(ホームステッド法)が、西海岸の諸州に影響を与え、彼らが北軍支持に回ったようなのです。

■ホームステッド法と奴隷解放宣言

 1862年5月20日、リンカーン大統領が署名し、ホームステッド法(自営農地法)を発効させました。これは自作農を推奨する法令で、公有地を開拓し、最低5年間居住すれば、無償で160エーカーの土地が与えられるというものです。

 アメリカでは、「独立自営農」という概念が伝統的に有力でした。ホームステッド法でその数を増やそうという動きは、実は、1850年代から存在していたのです。ところが、「独立自営農」を増やすことは、奴隷制を脅かすことになるとして、プランテーション経済に依存する南部諸州が強く反対していました。

 この法律が発令された結果、北軍は西部開拓民に大きく支持されるようになりました。西海岸諸州が北軍支持に回った背後に、ホームステッド法の発効があったことは明らかでした。

 さらに、1863年1月1日、リンカーン大統領は、奴隷解放宣言に署名しました。なんと南北戦争の最中に、リンカーンは奴隷解放宣言に署名したのです。奇策としかいいようがありませんが、実は、このことが戦況を北軍側に有利に導きました。

 実際、解放宣言によって解放されたばかりの奴隷の多くが北軍や海軍に加わり、他の奴隷達のために勇敢に闘うようになりました。奴隷解放宣言が、解放奴隷たちの戦意を高揚させ、北軍の士気を高めたことは明らかでした。

 この時点で、リンカーンが奴隷解放宣言を行っていなかったとしたら、南北戦争はもっと長引いていたかもしれません。

 奴隷解放宣言を契機に、南北戦争の争点は急速に変化し、すべてのアメリカ人に自由を浸透させるための大義を持つ戦いになっていきました。南北戦争がちょうど3年目に突入したときでした。
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2389/

■ゲティスバーグの戦い

 アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国軍が、1863年7月1日から3日にかけて、総力を結集して戦った場所が、ゲティスバーグです。ペンシルベニア州アダムズ郡郊外にあり、南北戦争史上最大の激戦地となりました。奴隷解放宣言後、6カ月を経た時の戦いです。

 これが南北戦争の事実上の決戦となって、アメリカ合衆国(北軍)の勝利に終わりました。

 1863年7月1から3日にかけてのゲティスバーグの戦いで、数多くの死傷者が出ました。北軍の戦死者は3000人以上、南軍の戦死者は4000人近く、また負傷者・行方不明者の合計は南北でそれぞれ2万人を超えました。
(※
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3481/#:~:text=%E5%8D%97%E8%BB%8D%E3%81%AF%E5%8C%97%E8%BB%8D,%E4%B8%87%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%9F%E3%80%82

 当時の戦闘シーンを描いた絵があります。

こちら →
(※ https://history-maps.com/ja/story/Battle-of-Gettysburgより。図をクリックすると、拡大します)

 画面左手にはためいているのが、南軍の旗で、右手に見えるのが北軍、すなわちアメリカ合衆国の旗です。

 同国民が、奴隷制を巡って戦ったのが、南北戦争です。したがって、この戦争は、独立戦争とは違って、理念によってアメリカ人の気持ちを一つに結束させる戦いではありませんでした。経済システムに組み込まれた奴隷制度を争点としていただけに、むしろ、国を二分させる性質を持つ戦いでした。

■戦意か、兵力、兵站か

 開戦当初から、北軍が優勢でした。というのも、北部には既存の政府組織が存在し、中央集権的な政治体制だったからです。意思決定のプロセスがスムーズで、さまざまな難題に迅速に対応することができました。

 一方、南部はそれぞれの所属州の発言力が強く、南部連合国のデイヴィス大統領は、意思決定に非常に苦慮していたといわれています。

 さらに、北部は約400万前後の人口であったのに対し、南部はわずか100万強で、人口規模に大きな差がありました。しかも、北部は工業化が進み、敷かれた鉄道の長さも南部の2倍以上でした。鉄道を利用して、北部は食料や武器を兵士に運ぶことが容易にできたのです。兵站の面でも北部に優位性がありました。

 このように、人口規模やインフラ、意思決定などの面で、南部は北部に相当、見劣りがしていました。

 ところが、南軍には、奴隷制を維持して南部の生き方を守る、あるいは、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的がありました。兵力や兵站の面では北軍に見劣りがしても、戦闘意欲だけは強かったのです。

 奴隷制を維持できなければ、即、南部の経済基盤が崩れかねないという危機感が強かったからでしょう。それだけに士気が高く、戦意が高揚していました。

 それに比べ、北部の目標は、合衆国を守る、つまり、南部を合衆国に連れ戻すといった曖昧なものでした。そこには、戦意を喚起し、命をかけてまで戦おうとするモチベーションをかき立てる力はありませんでした。

 南北戦争は、勝利を導くものは戦意なのか、それとも、人口規模、兵站などのインフラ装備なのかが問われる戦いでもあったのです。

 一方、南北戦争は、奴隷制を争点にした南北の戦いであったと同時に、工業化の進んだ地域とそうではない地域との戦い、あるいは、ナショナリズムとローカリズムとの戦いといったように、当時の社会の分岐点を巡る戦いでもありました。

 その南北戦争の中で、もっとも激しかったのが、ゲティスバーグの戦いでした。

■リンカーンの演説
 
 10月17日から、新しくできたゲティスバーグの国立墓地で、死者の埋葬が始まりました。

 1863年11月19日に行われた献納式で、リンカーン大統領は演説を行いました。アメリカ史上最も有名な演説の一つといわれています。

こちら → https://youtu.be/8HXEgdiIkng
(※ CMはスキップするか、×で消してください)

 約2分間の短い演説の最後で、リンカーンは、「人民の、人民による、人民のための政治を、地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである」と締めくくっています。

 リンカーンの思いがひしひしと伝わってくるような演説です。戦死者を悼み、その栄誉を称えるとともに、アメリカ建国の精神を人々の心に覚醒させる力がありました。言葉が再び、アメリカ人の心に建国の精神を蘇らせたのです。

 リンカーンのこの演説は、北軍の勝利を確実なものにしました。

 1865年3月に北軍は最後の攻勢を仕掛け、アポマトックス方面の作戦が開始されました。4月1日のファイブフォークスの戦いで打撃を受けた南軍は、4月3日に南部の首都リッチモンドから撤退せざるをえず、西へと退却しました。

 そして、4月9日、北軍と南軍との間でアポマトックス・コートハウスの戦いが起き、南軍のリー将軍が降伏して、南北戦争は事実上終了しました(※ Wikipedia)。

■リンカーンの死

 1865年4月14日、リンカーンは妻と観劇中に銃撃され、翌15日に亡くなりました。犯人は俳優で南軍シンパのブース(John Wilkes Booth, 1838 – 1865年)でした。

 その時の様子を描いた鉛筆画があります。

こちら →
(※ Wikimedia、図をクリックすると、拡大します)

 ブースはフォード劇場の裏口に午後9時ごろ到着し、リンカーンのいるボックス席に入り込み、ドアを閉めました。そして、背後からそっと大統領に近づき、後頭部めがけて銃弾を発射したのです。

 画面では、警官が制止しようと身を乗り出していますが、間に合わなかったのでしょう。小型のデリンジャーピストルから立ち上る白い煙が、惨劇の状況を物語っています。

 ブースは以前からリンカーン大統領を誘拐し、南軍の捕虜を解放させようとしていたといわれています。

 ところが、1865年4月10日、南軍のリー将軍が北軍に降伏したので、暗殺する意味はなくなったと諦めかかっていました。ところが、4月11日、リンカーンがホワイトハウスの前で黒人の参政権を認めたいと演説していたのを聞いて、再び、暗殺を決意したといいます(※ Wikipedia)。

 1860年、リンカーンは奴隷制廃止を掲げて大統領に選出されました。そして、その理念のために南北戦争を回避できず、国を二分するほどの戦いを強いられました。結局、戦争には勝利したのですが、黒人の参政権を認めたいと演説したせいで、南軍のシンパから暗殺されてしまいました。

 奴隷解放という目的を達成し、その後、参政権を認めようという展望を語ったところで、リンカーンは命を絶つことになったのです。

 南部に深く根付いた奴隷制は、そう簡単に払拭できるものでもなかったことがわかります。

 リンカーンが亡くなった後、8カ月を経てようやく、憲法が修正され、奴隷解放の制度が整備されました。

 1865年12月、憲法が修正され、アメリカ合衆国のあらゆる地域に暮らすすべての奴隷が自由の身となりました。合衆国憲法修正13条によって、アメリカのすべての奴隷制度は終焉を遂げたのです(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2389/)。

■政治家としての矜持

 振り返ってみれば、憲法を修正し、奴隷制度を廃止させる基盤となったのが、奴隷解放宣言でした。

 その奴隷宣言を執筆している最中のリンカーン大統領らを描いた油彩画があります。

こちら →
(油彩、カンヴァス、274.3×457.2㎝、1864年、United States Capitol、図をクリックすると、拡大します)

 画面に描かれている人物は8人で、左から順に、エドウィン・M・スタントン陸軍長官(着席)、サーモン・P・チェイス財務長官(起立)、アブラハムリンカーン大統領(着席)、ギデオン・ウェルズ海軍長官(着席)、カレブ・ブラッド・スミス、内務長官(起立)、ウィリアム・H・スワード国務長官(着席)、モンゴメリー・ブレア郵便局長(起立)、エドワード・ベイツ司法長官(着席)です。

 奴隷解放宣言を執筆するリンカーンをはじめ、メンバーの表情はいずれも硬く、厳しいものがあります。北部と南部、国を二分する争点だっただけに、彼らの思いはさまざまだったでしょうし、理念だけではすまない情感も種々、去来していたでしょう。

 それでも、彼らは断行しました。理想を掲げて建国したアメリカ合衆国をさらに一歩、前進させることに熱意を注いだのです。

 描かれている人物たちが一様に、思いつめたような表情を浮かべているのが印象的です。その表情からは、南部を敵に回しながらも、建国の精神に立ち返り、奴隷解放宣言を組立てようとしている政治家たちの気概を見るような気がしました。

 この暗い画面には、理想を追求する政治家たちの矜持を見て取ることができます。

 この絵が描かれた1864年は、ホワイトハウスのイースト・ルームに展示されていましたが、その後は国会議事堂に収められています。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emancipation_proclamation.jpg

 久米は、奴隷解放に人生を賭けたリンカーンについて、次のような感想を述べています。

 「西洋人はその持論を貫くためにその精神力のすべてを賭ける。できなかった場合には命を損なうところまでに至るのである。その志篤く、忍耐深いことはどうだろう。このようでなくては、今の時代に仕事を成功させることは難しいのである」
(※ 久米邦武編、水澤周校注、『米欧回覧実記』1、p.350.)

 久米をはじめ岩倉使節団一行は、明治という新しい体制の国家建設に意気込み、学びの一環として、訪米していました。そこで、アメリカ建国の精神、その精神と矛盾する奴隷制、そして、奴隷制を焦点とした南北戦争、南北戦争勝利後の凶事、それら一切合切を現地で知りました。

 彼らは一体、何を感じていたのでしょうか。

 少なくとも、久米は、理想と現実との矛盾に対峙し、問題解決していこうとする政治家の姿勢に、意思の強さと忍耐強さ、志の高さを感じていたようです。

 ちなみに、1872年3月25日、ワシントン滞在中に、使節団一行は黒人学校を訪れています(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/history/index.html)。

 久米ら一行が黒人学校を訪れたのは、リンカーン大統領(Abraham Lincoln, 1809 – 1865)が、奴隷解放宣言(1863年1月1日)を行ってから9年ほど経た頃でした。

 当時、白人と黒人は別々の学校に通っており、人種間の格差は歴然としていました。法的に奴隷制は廃止されましたが、まだ奴隷制の残滓はそこかしこに残っていたに違いありません。

 ところが、奴隷解放宣言以後、黒人の中には巨万の富を築いた者もいれば、下院議員に選出した者もいました。運と環境と努力次第で、指導的立場に就く者もいたのです。

 久米はそのことに着眼し、次のように述べています。

 「皮膚の色と知能の優劣は無関係であることははっきりしている。だからこそ有志の人々は黒人教育に力を尽くし、学校を作るのである」(※ 前掲。p.232-233.)

 人は誰しも自由で平等であり、基本的人権は守られなければならないというのが、ジョン・ロックの考えでした。それに基づいているのが独立宣言であり、アメリカ建国の精神でした。

 現地でそれらを見聞した久米は、基本的人権を踏まえた国家と国民との関係は、社会契約と概念を介在させることによって成立すると理解したのでしょう。だからこそ、そのような関係は教育によってこそ維持することができ、実践することができるのだと思ったのではないかという気がします。

 使節団一行は、近代国家としての制度整備をしていかなければならない責務を担っていました。それだけに、奴隷制を巡る一連の事例から、教育の重要性を汲み取ったことでしょう。中には、国家と国民との関係を、社会契約として捉える視点の重要性を感じ取った人もいたかもしれません。(2024/1/12 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑩:使節団はアメリカで何を見たのか(5)星条旗と奴隷制

■アメリカ合衆国、初めての国旗

 1783年9月3日、パリ条約(Treaty of Paris)が締結されました。アメリカ合衆国が、イギリスから独立した国家であることが正式に認められたのです。1775年4月19日に始まった独立戦争がようやく終結したことになります。

 独立国家と認められたからには国旗が必要になりますが、実は、パリ条約以前に、アメリカ合衆国の国旗は作られていました。国家として正式に承認される前、つまり、まだ独立戦争の最中に、独立の象徴としての国旗が作られていたのです。

こちら →
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/monthly-topics/1953/、図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、左上の隅に英国旗「ユニオン・ジャック」がレイアウトされ、それ以外の部分は、赤白13本のストライプが使われています。ジョージ・ワシントン(George Washington, 1732 – 1799)がデザインし、「グランド・ユニオン」と呼ばれた国旗です。独立戦争が始まった翌年の1776年1月1日に大陸軍本部に掲げられました。

 アメリカはまだ本国イギリスと戦っている最中でした。それなのに、自分たちで作った国旗を本部に掲げていたことからは、人々の団結心を高め、戦意高揚を図ろうとしていたことがうかがい知れます。

 英国旗を取り囲むように、アメリカ植民地13州をシンボリックに配したデザインでした。

 それから約半年後の1776年7月4日、第2回大陸会議で、独立宣言が採択されました。もちろん、この時もまだ本国イギリスを戦っている最中でした。

 独立宣言の冒頭には、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と述べられています。

 独立宣言の執筆を担当したジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743 – 1826)が、自然権と個人の自由という理念を重視していたからでした。だからこそ、彼は17 世紀の哲学者ジョン・ロック(John Locke FRS, 1632 – 1704年)らが提唱していた理念を踏まえ、これらの文言を起草したのです。

 さらに、彼は英国に対する種々の苦情を列記し、なぜ母国イギリスから完全に独立しようと決断したかを正当化していました。まさに独立不羈の精神を貫き、本国イギリスに対峙していたことを示したのです。

 それだけに、片隅とはいえ、英国旗ユニオン・ジャックがアメリカ国旗にレイアウトされていることには違和感がありました。おそらく、当時のアメリカ人もそう思ったのでしょう。翌年、このデザインは変更されました。

■星条旗に込められた建国の精神

 1777年6月14日、フィラデルフィアで行なわれた第2回大陸会議の海事委員会で、アメリカ合衆国の国旗として制定されたのが、この星条旗です。

こちら →
(※ https://www.y-history.net/appendix/wh1102-029_1.html 図をクリックすると、拡大します)

 新しいデザインは、ユニオン・ジャックを削除し、青地に13個の白い星を円形に配したものでした。独立のために立ち上がった13州を、星と赤と白の横線で表現したのです。

 このデザインについてワシントンは次のように述べたと伝えられています。

「星は天から与えられたもの、赤は母国を表す。その赤を分離する白のストライプは、われわれが母国から分離したことを表す」
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/monthly-topics/1953/)

 ようやく出来た国旗ですが、一見してこのデザインが、私たちが見慣れたアメリカ国旗とは異なっていることがわかります。この時もまだ本国から独立を勝ち取っていたわけではありません。

 1776年の国旗との違いは、ユニオン・ジャックの代わりに、青地に13個の白い星が円形にレイアウトされていることでした。独立を目指して戦っているアメリカ13州を強調したものに変更されていたのです。

 現在の星条旗はこちらです。1960年7月4日に更新されました。

こちら →
(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97 図をクリックすると、拡大します)

 星が円形ではなく、横一列に6個の星と5個の星が交互に9段、並べられています。青地に合計50の星が表現されているのです。なぜ、50の星が表現されているかといえば、1959年8月にハワイがアメリカの州に昇格され、州の数が50になったからでした。その結果、1960年7月4日に星の数が変更されたのです。

 このデザインは27代目ですから、それまでに26回もデザインが更新されたことになります。もっとも変更の多いのがアメリカ合衆国の国旗だと言われる所以です。

 さて、アメリカ合衆国の星条旗は、星と赤と白の横線で構成されています。当初、加盟州が加わるたびに、星と横線が追加されていました。やがて、横線を増やすことが難しくなったので、1818年に、横線は独立当時の13本に固定することにしたという経緯があります。

 その後、加盟州が増えれば、翌年の独立記念日(7月4日)に星だけを増やすという方法が取られ、現在に至っています。

 さて、星条旗は、白、赤、青で色構成されています。

 白は純粋と純潔を表し、赤は逞しさと勇気、そして、青は警戒と忍耐と正義を表すとされています(※ 前掲URL)。

 アメリカ合衆国の国旗には、純粋で逞しく、勇気をもって生きることを目指す一方、警戒心を緩めず、忍耐強く、正義感に満ちた振舞を望ましいものとする建国時の精神が表現されているといえます。

 生きることに絶望していた人々にとって、この国旗は大きな希望でした。国内であろうと、国外であろうと、多くの人々は、アメリカの国旗に、独立不羈の精神、チャレンジ精神、革新の精神を見ていたのでしょう。

 その後、自由と独立を標榜するアメリカに、移民が続々と押し寄せてきました。故国で生活できなくなった人々や、圧政に苦しむ人々、そして、自由を求める人々が、アメリカを目指してやって来たのです。

 当時のアメリカには、大挙して押し寄せてきた移民を受け入れる余裕がありました。広大な国土を整備し、資源を活用し、開発するために、大量の労働力が必要だったからです。双方の思惑がマッチして、しばらくの間、移民の流入が続きました。

 やがて、アメリカに不況の兆しが見え始めると、一転して、移民を排斥する動きが起こりました。自由の国アメリカとはいえ、いつまでも移民を無差別に受け入れるはずがなかったのです。

■移民政策

 独立直後は、イギリス周辺からの移民が多かったのですが、その後、ヨーロッパを中心に移民が増えていきました。やがて移民に規制がかけられるようになり、1790年に制定された帰化法(The Naturalization Act of 1790)では、「自由な白人(Free white men)」に限定して帰化が認められました。

 国内の整備が進むにつれ、先着移民の意向を受け、新規に流入してくる移民を選択するようになったのです。

 1790年といえば、アメリカで初めて国勢調査が行われた年です。当時、人口は約400万人でした。
(※ https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/demographic-history-of-the-united-states)

 当時、アメリカの人口は、たった400万人だったというのです。巨大な国土に対し、あまりにも人口が少ないのには驚かされます。どれだけ移民を受け入れても十分ではないと思えますが、当時のアメリカ人はそうではなかったようで、帰化するためのハードルを高く引き上げました。

 当時のアメリカは、なによりもまず、労働力を必要としていたはずです。資源を活用するには、大量の労働者が必要だったからです。出身国を問わず、誰もが力を出し合い、協力しあい、新国家を建設していかなければならない時期でした。

 ところが、入国してきた移民に対し、当時の為政者は、アメリカ国民になるには、「自由な白人」でなければならないという規制をかけたのです。

 労働力需要が高かったにもかかわらず、このような規制を賭けた背景には、非白人をアメリカ国民として受け入れることへの強い反発があったと思われます。当初、アメリカはイギリスを中心としたヨーロッパからの移民で占められていました。先着した彼らの心情が強く反映された法律だったといえます。

 久米はアメリカの移民について、次のように記しています。

 「1820年から70年までの51年間に外国人の移民は750万人を数えた。そのうち最も多いのは英国からの移民であり、次いでドイツ人である。また早い頃からアフリカから黒人奴隷を輸入して使ったので、黒人は全人口の7分の1に達するほど多い」と述べています。
(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年:初版1977年)、岩波書店、p.56.)

 アメリカには独立以前に、アフリカから強制的に連れてこられた人々がいました。1640年代から1865年に至る間に、アフリカから連れてこられた人々とその子孫たちです。彼らは合法的に奴隷化され、肉体労働者としてアメリカ社会に組み込まれていました。南部のプランテーションを中心に、奴隷制度が定着していたのです。

 本国イギリスに対し、アメリカは自由と独立を求めて戦いました。激戦の結果、ようやく独立を手にしたアメリカですが、実は、はるか以前から、アフリカ人を奴隷として売り買いし、強制労働をさせてきた歴史がありました。長年に亘って、アフリカ人の自由と独立を侵害するという矛盾をアメリカは犯していたのです。

 その奴隷制が、1820年頃には岐路に差し掛かっていました。

 1819年の時点で、アメリカには22の州がありました。その内訳は、11が奴隷州(南北戦争以前に奴隷制を認めていた州)、11が自由州(南北戦争以前に奴隷制を禁止していた州)でした。両勢力が拮抗していたのです。

 時代が下るにつれ、アメリカ全般に、奴隷制反対の感情が強まっていきました。北部ではすでに奴隷制は禁止された州がありましたし、急速に消滅しつつある州もありました。

 ところが、南部では逆に、綿花需要の高まりとともに、プランテーションでの黒人奴隷労働への依存が強まっていました。奴隷制を禁止するか否かは、地域産業の盛衰ともかかわる大きな問題になっていたのです。

 たとえば、南部では南北戦争前の時点で、4軒に1軒が奴隷を所有していたといわれています。南部では農園等の労働力として黒人が必要とされていたのです。黒人の95%が南部に住み、南部人口の3分の1に達していました(※ Wikipedia)。

「奴隷を所有」という表現に示されているように、黒人奴隷は家畜と同様に扱われていました。そして、彼らを多く所有すればするほど、富者であることの証とされていたのです。

■奴隷州と自由州

 アメリカには、奴隷制を禁止している州(自由州)と、奴隷制を維持したままの州(奴隷州)が存在しました。

 奴隷州と自由州との区別は、経済基盤を奴隷労働に依存している州なのか否かで判断されていました。奴隷労働に依存しなくてもいい経済体制の北部の諸州と依存せざるをえない南部の諸州との間で、利害対立が先鋭化しはじめました。

 相互の利害対立の緩和を図るため、1820年に成立したのが、「ミズーリ―協定」です。

 このミズーリ協定では、北緯36度30分よりも北に新設される州を自由州、南に新設される州を奴隷州とするという内容でした。緯度で北部と南部とに区分するもので、合意を得るための手段です。まさにアメリカ合衆国の政治的安定を図るための方策でした。

 1849年ごろの奴隷州と自由州の構成図を見つけたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://history-link-bottega.com/archives/36030392.html 図をクリックすると、拡大します)

 上図のうち、青は自由州、赤は奴隷州、灰色部分は州に昇格していない地域を示しています。グリーンの線が、ミズーリ―協定で設定された北緯36度30分線です。

 興味深いことに、北緯36度30分以北にありながら、奴隷州を区分けされている州がいくつかあることに気づきます。実は、それらは、「ミズーリ協定」以前にすでに奴隷州として区分けされた州でした。それが、協定成立以降もそのまま踏襲されているのです。

 ところが、それらの州とは違って、このミズーリ州は北緯36度30分以北にあるにもかかわらず、奴隷州とされています。それは、ミズーリ―州を奴隷州と認める一方、奴隷制禁止を唱えるメイン州を自由州とするためでした。両派のバランスを図るため、このような変則的な区分けがされていたのです。アメリカ合衆国議会が、奴隷州と自由州の数をほぼ均等にし、政治的安定を図っていたことがわかります。

 久米は、「1820年から1870年までの51間に移民は750万人を超えた」と書いていますが、この1820年という年は、アメリカ合衆国議会で、奴隷制擁護派と反奴隷制派との間で協定が成立した年もありました。

 そして、移民は1820年以降も、増加し続けました。綿花栽培への需要が急速に高まったのに伴い、労働力需要が伸びたからです。綿花生産量は大幅に延び、1820年には総輸出額に占める綿花輸出の割合は32.01%であったのが、1860年には57.5%にも達していました。
(※ 小川晃、「アメリカ南部の綿プランテーションと黒人奴隷」、『横浜商大論集』第4巻1号、1970年、p.17.)

■アメリカ社会に定着していた奴隷制

 当初、ヨーロッパからの移民とアフリカから連れてこられた奴隷は共に、綿花や砂糖などのプランテーション経済を支えていました。ヨーロッパからの移民とはいえ、アメリカに到着したばかりでは働き口が限られていました。手っ取り早く仕事に就けるのは、プランテーションでの労働でした。

 到着したばかりの移民を描いたウィンスロー・ホーマー(Winslow Homer, 1836-1910)の作品があります。ご紹介しましょう。

こちら →
(※
https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Winslow-Homer/768645/1857%E5%B9%B4%E3%80%81%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%A7%BB%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%88%B0%E7%9D%80%E3%80%82.html 図をクリックすると、拡大します)

 ボストンに到着したばかりの移民と、出迎える人々が写実的に捉えられています。家族なのでしょうか、駆け寄って抱き合うシーンが情感豊かに描かれています。男性はシルクハットを被り、女性はスカーフで頭部を覆っています。どうやらヨーロッパからの移民のようです。

 この絵のように移民は次々と、アメリカに押し寄せてきましたが、白人は単調で過酷な労働を厭い、年季が明けると早々に、他の労働に移動していきました。その結果、綿花栽培などの重労働にはもっぱら黒人奴隷があてがわれるようになりました。

 実は、それ以前から、アメリカ経済を支えるために、黒人奴隷はなくてはならない存在になっており、奴隷制として合法的に制度化されていました。

 ヴァージニア州の議会は、1601年に黒人を終身奴隷といて白人奉公人とは違う身分にする法律を制定しました。その後、同様の法律が次々と他の州でも採用され、独立戦争の頃には、黒人奴隷が制度化され、所有者の財産として法律的に認められるようになっていました(※ 前掲。p.24.)。

 すでに17世紀初頭にアメリカは、経済基盤を安定させるため、奴隷への強制労働を合法化し、奴隷制度を定着させていたのです。以来、取り立てて異議を唱える者もなく、奴隷取引は19世紀後半まで続いていました。

 久米は、奴隷取引が近年まで続いていたことについて、「言語道断」であると感想を述べています(※ 前掲。p.231.)。

■久米がワシントンで見た、奴隷の絵

 ワシントン滞在中に久米が驚いたことがありました。それについて、次のように記しています。

 「ワシントン市内の画商の店で、黒人が縛られて座らされているかたわらに白人が銃を持って並び立ち、一方、密林内では黒人を追い立てている様子を描いた油絵を見た。これは何の図かと尋ねたところ、アフリカで奴隷狩りをしているところだという答えであった」
(※ 前掲。p.230.)

 日本では想像もできないような西洋社会の一側面を、久米はその絵画の中に見たのです。どれほど驚いたことでしょう。

 画面では、アメリカの独立宣言に盛り込まれた自然権や個人の自由といった基本的権利がまったく蔑ろにされていました。自由の国アメリカと称賛された高邁な理念が、その絵には微塵も見られなかったのです。

 自由平等の建国理念を好ましく思っていただけに、久米が大きなショックを受けたのも無理はありません。アメリカ合衆国の建国理念とはあまりにもかけ離れた内容の絵でした。

 絵を見たことがきっかけとなって、久米は徹底的に調べました。

 その結果、奴隷狩りの多くが、アフリカの西北部、大西洋に面して曲折した湾岸一帯から地中海沿岸のバーバリー海岸に至るまで、幅広く行われていたことを知りました。さらに、このような事業を行っていたのはもっぱらヨーロッパであり、最も盛んだったのがスペイン、ポルトガルであったことも知りました。

 具体的な奴隷狩りの方法について、久米は次のように述べています。

 「彼ら奴隷業者がアフリカに行って、「ネグロ」狩りをすると、「ネグロ」は恐れて叢林に逃げ潜むのだが、奴隷業者たちは隊伍を整え部署を定めて、追いかけてこれを捕らえ、本営に送って人数を数え、船の暗い船倉いっぱいに押し込む。それはまるで羊や豚を囲い込むかのようであった」(※ 前掲。pp.230-231.)

 ヨーロッパの業者はまさに動物を追い込み、生け捕りにする方法でアフリカ人を捕え、輸送し、売買していたのです。人間としての扱いとは程遠く、もちろん、彼らがアフリカ人の気持ちを気に掛けることもありませんでした。

 当時の様子を描いた絵を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AfricanSlavesTransport.jpg 図をクリックすると、拡大します)

 いつ頃、描かれた絵なのかわかりませんが、現地では日常的に、このような光景が見られていたのでしょう。子どもや女性は縄で縛られて繋がれ、成人男子はさらに、木材で首を繋がれ、縦一列になって行進させられています。痛みを与え、逃げ出せないようにしているのです。

 久米は、言葉も出ないほど驚きます。

 そして、次のように述べています。

 「そもそもヨーロッパは強く荒々しい習俗を持っている。奴隷を使う悪習はエジプト、ギリシャ、ローマの時代に起源があり、西暦1500年代のはじめからスペイン、ポルトガル、イギリス、オランダの諸国が競って航海と植民を行い、黒人奴隷を買い入れては植民地に輸送することが一時おおいに行われた。これを英語で「スレイブ」という。日本語に訳せば「奴婢」であろうけれども、その扱いの残酷なことは、むかしの「奴婢」への扱いをはるかに超えている」(※ 前略。p.230.)

 日本では見たことも聞いたこともなかった人間の取り扱いを知って、久米は戸惑いました。

 奴隷の絵を見たときは、これが、個人の自由と平等を謳い上げたアメリカ国民のすることなのか・・・と憤っていました。ところが、色々調べてみると、奴隷に対する非人間的で、残酷な扱い方は、もっと根深いもので、ヨーロッパ文明に根付いたものではないかという考えに至ります。

■東洋と西洋の人間観の違い

 漢籍の素養がある久米は、中国の古典を引き合いに出し、次のように述べています。

 「中国においては市場をつかさどる役人に、人間を牛馬と同様に売買することを禁じたと『周礼』にあるが、ヨーロッパでの奴隷取引は、近年までこのように続いていたとは、言語道断なことである」(※ 前掲。p.231.)

 かつて、中国にも奴隷のような存在はいました。おそらく、人間を売り買いしたこともあったのでしょう。ところが、それを知った賢者が進言して、為政者は禁止しました。すでに紀元前には奴隷の売買を禁止するルールが策定されていたというのです。

 『周礼』は「しゅらい」と読み、儒教経典(十三経)の一つで、『礼記』『儀礼』とともに「三礼」を構成する書物です。 紀元前11世紀に周公旦が作ったといわれ、また、前漢代に劉歆が作ったともいわれています。その内容は、周王朝の「礼」、すなわち習俗や政治制度などについて記されており、戦国時代以降の儒者にとって理想的な制度とみなされていました(※ Wikipedia)。

 戦国時代とはいえ、人間としての最低限の尊厳は守ろうとする節度が中国には存在し、それが制度化されていたことがわかります。

 ワシントンで奴隷の絵を見た久米は、すぐさま、この『周礼』を思い起こしていました。

 欲望や利害損得に駆られ、ともすれば、非人間的な行動を取りがちな人々に対し、人間の尊厳という観点から、戦国時代の中国では規制が設けられていたことを思い起こしたのです。改めて、東洋社会の素晴らしさをかみしめていたのかもしれません。

 一方、ヨーロッパでは近年に至るまで奴隷制度が存在していました。人種が異なれば、もはや人間とはみなさず、動物を扱うように人間の売り買いが行われていたのです。もちろん、人間としての尊厳をおもんばかることはなく、ひたすら利益を追い求めて、人間を奴隷として売買していたのです。野蛮極まりない行為であり、差別的な人間観に基づく行為でした。

 久米は近代国家であるはずのアメリカ、しかも、政治の中枢であるワシントンで、奴隷を描いた絵を見ました。文明国であるはずのアメリカで、非文明的な絵を見たのです。以来、久米は、東洋と西洋では人間観に大きな違いがあると感じていたように思えます。

 アメリカの奴隷制の歴史を紐解いていった結果、久米は、その背後にアメリカよりもヨーロッパ文明そのものに、人間を非人道的に扱う由来があるのではないかという考えに達していました。

 古くはギリシャ・ローマに始まり、スペイン・ポルトガル、オランダ、そして、イギリスに至る国々が、国境を越えて搾取する経済の仕組みを構築してきたと、久米は理解していたのです。西洋が作り上げてきたのは、弱肉強食の世界であり、技術力の差による収奪構造を基盤とする社会でした。

 それに反し、東洋にはそのような伝統はなかったとし、久米は、儒教の経典の一つである『周礼』の一節を紹介しています。人間に対する非人道的な扱いを戒める生活哲学があったことを久米は指摘しているのです。

 久米は漢籍に造詣が深かっただけに、西洋社会と東洋社会を比較して捉えることのできる視点と、社会全体を俯瞰できる視野の広さを持ち合わせていました。西洋文明を複眼で捉えることができただけに、この一件から、西洋社会に優れたものがあることを認めたとしても、すべてを容認することは出来ないと、久米は思ったことでしょう。
(2023/12/26 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑨:使節団はアメリカで何を見たのか(4)移民の国アメリカの建国理念

■一行は一路、東へ

 岩倉使節団一行は、完成して間もない大陸横断鉄道に乗って、西から東に移動しました。サンフランシスコ市を発って、オークランドを経由し、サクラメントに着いたのが、1872年1月31日でした。そこからセントラル・パシフィック鉄道に乗り込み、一路、東に向かいます。ソルトレークシティを経て、シェラネバダ山脈、ロッキー山脈を越え、シカゴを経由して、ワシントンに着いたのが、1872年2月29日でした。
(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/map/america.html#a2

 一か月間に亘る行程の中で、一行にとって最も印象深かったのが、シェラネバダ山脈、ロッキー山脈を越えでした。アメリカ大陸を南北に走る大きな山脈です。西から東に向けて移動する際の大きな関門を、一行は列車に乗ったまま横断したのです。

 車窓からは、木々もまばらな岩石だらけの山並みが続くのが見えます。雪が降りしきる中、列車は迂回しながら渓谷を渡り、高みをめざして登っていきます。傾斜は次第にきつくなり、終には、機関車を増結しなければ動かなくなるほどでした。

 スノー・シェッドといわれる雪除けの屋根の下を、列車はゆっくりと走り抜けていきます。シェラネバダ山脈越えの最高地点がサミット駅でした。海抜2100メートル、四方を高山に囲まれており、駅舎は半ば雪に埋もれているようなところでした。

 とうてい線路を敷設できるとは思えないような峻厳な山並みを、縫うように列車は走り抜けていきました。固い岩盤をダイナマイトで爆発し、切り拓いて内部を掘削して整備し、トンネルを通したから可能になった線路です。

シェラネバダ山脈、ロッキー山脈を越えの線路敷設のための過酷な労働を担ったのは中国人でした。

■中国人労働者の辛苦

 大陸横断鉄道のもっとも高い位置に設置されているのがサミット駅です。その周辺のトンネルで働く中国人労働者が撮影されていました。スタンフォード大学図書館の特別コレクションの中に保存されている写真です。

こちら →
(※ Alfred H. Hart撮影、1862-1869, Department of Special Collections, Stanford University Libraries.図をクリックすると、拡大します。)

 落石等の危険から身を守ることもできないほどの軽装で、危険な仕事に向かっている中国人労働者の姿が撮影されています。

 担いだ天秤棒の両端から、円筒形の缶がぶら下がっています。岩を爆破するためのダイナマイトでも運んでいるのでしょうか。周囲一帯は巨岩で覆われ、足元には大小さまざまの石の破片が散乱しているのが見えます。

 巨岩を爆破すれば、多くの破片が飛散します。それらに当たって怪我をした人がいたでしょうし、ひょっとしたら、亡くなった人もいたかもしれません。トンネルを掘るために、どれほどの犠牲を払わなければならなかったのか、想像するだけで胸が痛みます。

 限りなく危険で、困難を極めた作業がトンネル工事でした。それを請け負ったのが、中国人労働者だったのです。労働内容が苛酷であったにもかかわらず、賃金は白人よりも安価で、待遇も良くありませんでした。

 彼らの待遇を示す写真がありました。先ほどの写真と同様、これもスタンフォード大学図書館の特別コレクションの中に保存されています。

こちら →
(※ Alfred H. Hart撮影、1862-1869, Department of Special Collections, Stanford University Libraries.図をクリックすると、拡大します。)

 線路脇に多数の簡易テントが張られています。テントの合間にちらほら人影が見られ、洗濯物が干されているのがわかります。撮影されているのは中国人労働者のキャンプです。セントラル・パシフィック鉄道の労働者たちはここに住み込み、ひたすら仕事をしていたのです。

 左の線路は行き止まりになっており、右にカーブしている線路にはまだ枕木がありません。建設途中の線路なのでしょう。辺り一帯にはテントと列車以外に何もなく、ただ岩石ばかりが目立ちます。

 キャプションを見ると、砂漠にある線路と書かれていました。人も動物も住まないような荒涼とした場所なのです。そんなところで、簡単なテントで雨露をしのぎながら、中国人労働者たちは働いていました。

 十分に雨露をしのげたのかどうか、寒さ暑さに耐えることができたのかどうか、さらには、食料が十分に供給されていたのかどうか・・・、気になることばかりです。この写真を見るだけで、労働者たちのさまざまな辛苦がしのばれます。

 中国人労働者たちは、このような劣悪な環境に耐え、苛酷な労働に心身をすり減らしながら働き、かろうじて生きていたのです。

 当時、渡米した30万人の中国人労働者の大部分は広州の出身者だったといいます。アヘン戦争の余波を受け、苛酷な状況下で、故郷を捨てざるをえなかった人々です。彼らが生きのびるために選んだ移住先がアメリカでした。

■白人労働者から排斥される中国人労働者

 1848年にサクラメント渓谷で金鉱が発見された後、カリフォルニアはゴールドラッシュに沸いていました。一攫千金を目指し、国内から大量にカリフォルニアに移住しただけではなく、海外からも数多くの移民が殺到しました。中国からの移民も1850年代以降、急速に増えています。

 中国人たちはまず、金鉱労働者として働きました。やがて、金鉱での労働需要が減少すると、鉄道労働者として働きました。その後も増え続けた中国移民は、タバコ製造、繊維加工、漁業、農業などで肉体労働者として働く一方、都市部で食堂や洗濯業などのサービス労働も担っていました。いずれも低賃金で雇用されていました。
(※ 堀井武「十九世紀アメリカにおける中国人労働者」、『高円史学』第5号、1989年、 pp.19-23.)

 1870年には6万3千人余りだった中国移民は、1980年には10万5千人を超えるほど増えました。その83%がカリフォルニア州を中心とする西海岸に集中しており、男性が圧倒的に多く、広東省や福建省出身者が大部分を占めていました。

 彼らは白人よりも低い賃金でよく働き、雇用者からは重宝がられていました。ところが、それが白人労働者の仕事を奪うことになり、彼らから反感を買っていました。1880年代にアメリカが経済不況に陥ると、その傾向はさらに顕著になり、白人労働者の中国人労働者に対する排斥運動が拡大していきました。

 前々回にご紹介したように、カリフォルニア州を中心に、陰惨な暴力事件が多発するようになりました。

 中国人移民たちはやがて、白人からの危害を回避するため、都市部に居住区を作り、固まって住むようになりました。いわゆる中国人ゲットーです。地価が安く、貧しく、危険な地域に作られましたが、それでも白人との距離を保ち、危害を避けることには役立ちました。このゲットーが今日のチャイナタウンの起源となったのです。
(※ 和田修一、「アメリカへの中国移民とチャイナタウンの発展:その歴史と比較・分類枠組み」、『平成国際大学研究所論集』12号、2012年、pp.65-66.)

 中国人移民は、大陸横断鉄道の建設労働者として大きな役割を果たしてきました。アメリカの近代化、経済の活性化に大きく貢献してきたといえます。ところが、鉄道が完成すると、手のひらを返すように、排斥されるようになりました。チャイナタウンを作って、アメリカ社会の中に居場所を見つけ、迫害を回避して生き延びざるをえなかったのです。

 使節団一行が訪米した頃はまだ、中国人排斥運動はそれほど大きな動きになっていませんでした。

■移民によって作られたアメリカ

 久米はアメリカの人種構成について、次のように認識していました。ちょっと長くなりますが、引用してみましょう。

 「この国の人民は最初イギリス、フランスから、次いでオランダやデンマークなどの諸国から渡って来て国土を開いた。一時イギリスの属領となり、のち離反して独立した時の人口はわずか500万であった。それが100年間で7倍にも達したのは、外国からの移民が多いためである。1820年から70年まで51年間に外国人の移民は750万人を数えた。そのうち最も多いのは英国からの移民であり、次いでドイツ人である。また早い頃からアフリカから黒人奴隷を輸入して使ったので、黒人は全人口の7分の1に達するほど多い。中部にはインディアンがおり、西部では清国人が労役についている。人種構成の多様で複雑なことは、それこそアメリカにはあらゆる人種がいるといってよいほどである」
(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年(初版1977年)、岩波書店、p.56.)

 久米はアメリカがイギリスから独立した際の人口は500万だと記していますが、実際は、もう少し少なかったようです。

 アメリカが独立宣言をした後、1790年に第1回目の国勢調査が行われましたが、その時の人口は393万9214人でした。

 その後、アメリカの人口は急速に増えましたが、その原因は自然増ではなく、移民による増加でした。1860年の国勢調査では3144万3321人になっていました。
(※ 木城精二、「アメリカの発展:独立から南北戦争まで」、『Mukogawa Literary Review』No.50, 2013年3月、p.51.)

 第1回目の国勢調査から70年後、アメリカの人口は約8倍にも及んでいたのです。木城氏が指摘するように、自然増ではなく、移民による急増でした。

 この期間の移民はドイツ、イギリス、スカンジナビア、アイルランドなどヨーロッパからがほとんどでした。1848年のドイツ革命に伴う政治的難民、あるいは、飢饉の発生や生業の衰退など、移民にはそれぞれ、やむを得ず祖国を離れざるを得ない事情がありました。

 ヨーロッパからの移民の多くが、移住先としてアメリカを選びました。アメリカ大陸は広くて大きく、誰にも妨げられない自由があると思われていたからでした。彼らにとって、祖国を捨ててしまえるほど、アメリカには大きな魅力があったのです。

 アメリカは本国イギリスと戦って独立し、新たに合衆国としてスタートした移民の国でした。

 アメリカ東部13の植民地は単にイギリスから独立を勝ち取っただけではありませんでした。独立宣言を起草し、アメリカ合衆国の建国理念として、自由・平等・博愛を掲げ、それらが法の下で万民に保障されると謳って建設された、新しい国家でした。

 独立宣言には、基本的人権・国民主権が盛り込まれていました。「全ての人間は平等に造られている」と唱え、侵してはならない権利として、「生命、自由、幸福の追求」が挙げられていました。
(※ https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80 現代語訳部分参照)

 祖国で苛酷な生活を強いられてきた人々にとって、この独立宣言の文言はまさに光明ともいえるものでした。

■独立宣言

 北アメリカ東部沿岸には、イギリス領の植民地が13ありました。イギリス本国の高圧的な植民地経営に対し、13州の自治意識が高まって開催されたのが、大陸会議です。第1回は1774年9月から10月にかけて開催されています。この時、イギリス国王ジョージ3世に対する陳情書である「権利宣言」、そして、王権に対する苦情の一覧が作成されました。これが独立宣言の原案になっています。
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https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/#:~:text=1774%20%E5%B9%B49%20%E6%9C%885,%E5%AE%A3%E8%A8%80%E3%80%8D%E3%81%8C%E4%BD%9C%E6%88%90%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82

 ボストン北西の郊外のレキシントンで、1775年4月19日、イギリス軍が植民地の民兵に銃声を放ったのが、独立戦争の発端となりました。

 その後も本国との軋轢は続き、やがて戦火の火蓋が切られます。

 イギリス軍が、アメリカ植民地の民兵部隊の武器庫の接収を行った際、植民地民兵隊と武力衝突したのです。レキシントンとコンコードで激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破しました。規模こそ小さい戦いでしたが、独立戦争の初戦を飾るものとなりました(※ Wikipedia)。

 戦争が始まった当初は、アメリカには職業的な陸軍も海軍も無く、各植民地には地元の民兵部隊が存在するだけでした。開戦時、この民兵隊のほぼ全てがアメリカ大陸軍に加わりましたが、民兵の装備は簡単なものでした。通常の制服も無く、ほとんど訓練されてもいませんでした。

 しかも、当時、民兵の従軍期間は数週間から数か月間に限られており、彼らは家から遠く離れた所へは行きたがりませんでした。正規兵のような訓練や規律が欠けていただけではなく、戦意の面でも支障があり、大規模な作戦に民兵を使うことはできませんでした。

 1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を設立し、ジョージ・ワシントン(George Washington, 1732 – 1799)を総司令官に任命しました。1775年10月13日にはアメリカ海軍が発足し、4隻の武装船の購入および艤装が認められました。原動機や船室内外の各種装備を船体に取り付けられるようにしたのです。アメリカ海兵隊の前身である大陸海兵隊も1775年11月10日の大陸会議の決議により結成されました(※ Wikipedia)。

 13植民地の代表は1776年7月4日、一堂に会して第3回大陸会議を開催し、全会一致でアメリカ独立宣言を採択し、アメリカ合衆国を設立しました。

 その時の様子を、ジョン・トランブル(John Trumbull, 1756-1843)が描いた有名な作品があります。タイトルは《Declaration of Independence》(1819年)です。ご紹介しましょう。

こちら →
(油彩、カンヴァス、366×549㎝、1819年、National Portrait Gallery 図をクリックすると、拡大します。)

まるで写真撮影をしたかのように、会議場の人物がリアルに表現されています。大勢の人物を描きながらも、それぞれの特徴がしっかりと捉えられています。おかげで、当時の様子をありありと思い浮かべることができます。貴重な記録です。

これらの人物に番号を振って、名前を書き込んだ図がありました。これもあわせて、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(※ Wikimedia, 図をクリックすると、拡大します。)

 ここに名前が記載されているのは47人ですが、名前の後ろに、出身地が記されています。

 出身地で多いのは、順に、ペンシルベニア(8)、ニューヨーク(6)、マサチューセッツ(5)、サウスカロライナ(4)、ニュージャージー(4)、コネチカット(4)、ヴァージニア(3)、メリーランド(3)、ジョージア(2)、デラウエア(2)、ノースカロライナ(2)、ニューハンプシャー(2)、ロードアイランド(2)でした。

 これをみると、確かに、アメリカ東部13の植民地から、代表が集まっていたことがわかります。人口規模に比例しているのでしょうか、植民地によって出席人数に違いがあります。8名出席しているところもあれば、2名のところもあります。

 集まった代表は、皆いっせいに、画面中央を見ています。

 彼らが見ているのは、独立宣言起草委員会の委員5人が、宣言書を大陸議会議長であるジョン・ハンコックに提出している光景でした。この作品の中心部分です。

 大きなテーブルの前に座っているのが、大陸会議議長のジョン・ハンコック(John Hancock, 1736 – 1793)です。テーブルをはさんだ向かい側に、独立宣言を起草した5人委員会のメンバーが立っています。

 画面に向かって右から、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706 – 1790)、トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743– 1826)、ロバート・R・リヴィングストン(Robert R. Livingston , 1746 – 1813)、ロージャー・シャーマン(Roger Sherman, 1721 – 1793)、ジョン・アダムス(John Adams , 1735– 1826)です。 

 そして、独立宣言を執筆したのは、ジェファーソンでした。ジェファーソンは、自然権と個人の自由という理念を重視したといわれています。17 世紀の哲学者ジョン・ロック(John Locke、1632 – 1704)らによって提唱されていた理念です。

 独立宣言の冒頭には、その理念を踏まえ、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と書かれています。

 書かれていたのは、理念や宣言だけではありませんでした。先ほども述べましたが、イギリス王権に対する苦情の一覧です。

 ジェファーソンは、イギリス本国に対する苦情を正式に列記していました。13植民地が本国から完全に独立しようと決断したことの正当性を示したのです。そうすることによって、この宣言書がきわめて合理的で、誰もが納得できる説得力のあるものになりえていました。

 この文書は、1776 年7 月2 日に大陸会議に提出されました。検討および討論の期間を経た上で、1776 年7 月4 日に決議されました。不満の残らないよう、充分な討議を経て決議に臨んだせいか、大陸会議では満場一致で、この独立宣言が採択されました。

 アメリカ合衆国は大きな犠牲を払いながらも、終には勝利を収め、1783年9月3日にパリ条約が締結されて、ようやく戦争が終結しました。イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に認めざるをえませんでした。

 こうして、アメリカの13植民地は本国に抵抗し、独立を勝ち取りました。人々に自主独立の精神があったからこそ、彼らは戦いに挑んだのです。その精神は、彼らがヨーロッパから、困難を顧みず、アメリカに移住してきたときから持ち合わせていたものなのでしょう。それこそ、建国時のアメリカを象徴する精神だといえます。

■久米邦武が見た、アメリカの国民性

 久米は、アメリカ社会の骨格を作り上げている国民性について興味深い見解を述べています。

 「イギリスの植民地であった時代からすでに、この国は自主的な人々が移住して仕事を興すための目的地になった。だからヨーロッパの自主の精神なるものは特にアメリカに集中した。彼らの仕事ぶりは非常に奔放であって、気力にあふれていた。イギリス本土の人々はそのことに気づかず、アメリカの植民地の人々もインドの民衆と同じように無気力であろうと考え、そこから利益をむさぼり取ろうとしたが、見事に失敗したのは、まことに当然である」(※ 前掲、p.261.)

 この記述からは、久米邦武がアメリカがイギリスから独立した経緯を把握していたことがわかります。さらに、イギリスの植民地となっていたインドが長年、イギリスから産品を搾取されている実態も知っていました。

 久米ら一行は、1872年2月29日に到着して以来、ワシントンに三カ月余り滞在していました。その間、さまざまなことを見聞きし、人から話を聞き、本を読み、アメリカ社会についての理解を深めていたのでしょう。日本にいては理解することのできない、イギリスの国際的な力を知ることになったのです。

 アメリカとインドは、当時、同じようにイギリスの植民地でしたが、一方は独立を勝ち取り、他方は唯々諾々と、植民地に甘んじていました。なぜ、そのような違いが起きたのか、考え巡らせた結果、久米は、独立できるか否かは国民性に起因すると判断していたようです。

 ヨーロッパから移住した人々は、ものごとを自主的に判断した結果、祖国を捨てて生きる場としてアメリカを選択したと久米はみていました。アメリカに渡って来た人々は、ヨーロッパの中でもとくに、未来を託して自主的に、生きる国を選び取る気概のある人々でした。

 気概と体力、意欲に溢れた人々だったからこそ、自主性を阻害し、権利を侵害するものがあれば、断固として抵抗したのだと久米は考えたようです。反骨精神に溢れた東部沿岸13州の人々が立ち上がり、イギリス本国に反旗を翻したのは当然のことでした。

■独立できなかったインド

 一方、インドの場合、1600年に設立されたイギリス東インド会社が1757年以降、インド全土への覇権を確立していました。貿易会社でありながら、インドを統治する行政機構の役割を果たしていたのです。交易を通してムガル帝国を形骸化し、なし崩し的にイギリスによるインドの植民地化が行われていました。

 インドの資源はイギリスに搾取され続けてきましたが、ムガル帝国はとくに反乱を起こすこともなく、支配され続けてきました。ところが、1857年5月10日にインド人傭兵のセポイが反乱を起こしました。「セポイの反乱」(1857-58)と呼ばれるものです。

 この傭兵団は上層カーストに位置するヒンドゥー教徒と上流階級のムスリム(イスラーム教徒)で構成されていました。

 彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス本国で新たに採用されたライフル銃の薬包に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とムスリムが不浄とみなしている豚の脂が使われていたからでした。防湿油として牛と豚の脂が塗られていたのです。

 この薬包を銃に装填するには、まず口で薬包の端を食いちぎって火薬を銃口から流し込まなければなりませんでした。それはセポイにとって、宗教的禁忌を冒すことを意味しました(※ Wikipedia)。

 反乱部隊は翌11日にはデリーに到着し、駐留していた他の部隊を味方につけて駐留イギリス軍を駆逐し、デリーを占拠しました。そして、ムガル皇帝を反乱軍の最高指導者にしたかと思うと、即、皇帝復権を宣言して対イギリス戦争開始を表明しました。

 当時の様子を描いた絵がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SepoyMutiny.jpg 図をクリックすると、拡大します。)

 この絵を見る限り、剣で闘っている者もいれば、銃を向けている者もおり、反乱軍も武器を持ち、双方、互角に戦っているように見えます。

 実際、セポイの反乱を機に、旧王侯、旧地主、農民、都市住民などの反英勢力が立ち上がり、宗教や階級の枠を越えて一斉に蜂起しました。彼らは一丸となって反旗を翻し、後にインド大反乱といわれるようになったほど大きな動きを引き起こしていたのです。

 ところが、全体を統率する有能な指揮官が欠けており、反乱は結局、失敗に終わりました。

 一方、イギリス軍は、反乱勢力の鎮圧に向けて組織を立て直し、攻勢を強めました。その結果、やがて反乱軍は劣勢となり、9月にはムガル皇帝はイギリスに投降せざるをえなくなりました。首都デリーでの反乱はわずか4ヶ月で終結したのです。

 その後、皇帝は有罪の判決を受けて廃位させられ、ビルマに流刑となりました。ムガル帝国は名実ともに消滅したのです。そして、反乱軍は見せしめのため、イギリス軍によって苛酷な刑に処せられました。

 イギリス政府は、この反乱の全責任を東インド会社に負わせて解散させ、インドを直接統治することにしました。1858年8月2日にイギリス議会でインド統治法(Government of India Act 1858)が通過し、施行されました。その後、1877年にイギリスのヴィクトリア女王(Victoria,1819 – 1901)を皇帝とするインド帝国の成立を宣言し、形式的にもイギリス政府がインドを統治することとなったのです。以後、イギリスのインド支配は1947年まで続くこととなります。

 世界各地でさまざまな民族と闘ってきたイギリスは敗者の扱いを心得ていました。ムガル帝国を消滅させたうえに、二度と反乱を起こさないよう、見せしめのため反乱軍を苛酷な刑に処しました。そして、インド統治法を制定し、イギリス女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。イギリスに対する恐怖心を植え込む一方、反乱を起こせないようは制度整備をして徹底した統治機構を敷いたのです。

 こうしてみてくると、必ずしも、インドの人々が無気力で、唯々諾々とイギリスに従っていたわけではなかったことがわかります。この点に関してはどうやら、久米が誤解していたようです。

 私にはむしろ、百戦錬磨のイギリスが、卓越した異民族支配の仕組みを構築していたからだと思えるのです。

 ただ、反乱のきっかけが、宗教上の理由だったことを思い起こせば、アメリカの独立戦争とは明らかな違いがあります。インドの場合、本国との戦いは、自由を求め、自治を求めて立ち上がったわけではなかったのです。

■独立不羈の精神

 久米は、ヨーロッパからの移民を支える基本的精神の一つに自主性があったことを重視していました。そして、それこそが独立戦争を成功させる大きな要因であり、その後のアメリカ社会を築く礎になったと認識していました。

 そして、次のような指摘をしています。

 「米国はヨーロッパの人々の開墾地である。ヨーロッパで自主のたくましい精神を持つもの、自分の不羈独立の力を使って新しく生きる道をおおいに発展させたいと志すものは、何をするにもいかにもゆとりのある米国の広い土地に向かって開墾を試みたのである」
(※ 久米邦武、水澤周訳注、前掲。p.261.)

 自主性があり、独立心の旺盛な人々は、アメリカのような広大な土地で自由に夢をはばたかせたいと思ったに違いないと久米は考えました。そして、そういう人々だからこそ、いつまでもイギリスに隷属しているはずがなかったと分析したのです。

 久米は、なぜ、アメリカの国民性に着目するかについても述べています。

 「自主主義や共和主義の論議も、ヨーロッパでたいへん盛んではあるが、その多くは空論であって、その国の実状に即した論議ではない。ただアメリカのみは純粋の自主の民が集まって、真の共和国を作っている。その由来はもともと国を作ったときの精神から発しているのである。これこそ、アメリカ国情を理解しようとするものが着目すべき点である」
(※ 前掲、pp.261-262.)

 わずかな滞在期間中に、久米は、驚くほど的確にアメリカ人の国民性を理解していました。アメリカの国情を理解しようとすれば、まず、建国時の人々の精神に立ち返る必要があると判断していたのです。

 確かに、独立戦争に挑み、新しい国家を建設し、発展させてきた原動力は、当時のアメリカ人の独立不羈の精神にありました。

■移民の増加は国民性を変化させるか?

 この建国の理念、そして、当時のアメリカ社会に漲る独立自尊の精神に惹かれ、世界各地から移民が続々とアメリカに押し寄せてきました。もちろん、アメリカの広大な国土やさまざまな労働チャンスに惹かれ、自己実現の機会を求めてやってくる者もいたでしょう。

 次から次へと移民が、新大陸アメリカに押し寄せました。そして、移民の数は、今なお、増え続けています。1840年から2020年までのデータをご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://honkawa2.sakura.ne.jp/8734.html 図をクリックすると、拡大します。 )

 1970年以降、急激に増えていることがわかります。

 第2次世界大戦後、アメリカが大きく経済発展したため、大量の労働者を必要としました。1965年の移民法で国別制限と日本人移民禁止が解除されました。そのせいか、移民人口比率は1970年の4.7%を底に、以後、上昇に転じています。直近の移民比率は13.5%です。

 ちなみに、1920年までは以下の国々からの移民で構成されていました。

こちら →
(※ 前掲。URL. 図をクリックすると、拡大します。)

 ブリテン・アイルランドからの移民がもっとも多く、ドイツ、オーストリア=ハンガリーなどドイツ系の移住者も合計すると、イギリス系移民と同様に多いことがわかります。それに次いで多いのが、イタリア、ロシア、スカンジナビアからの移民でした。

 近年の移民出身国は以下のように変化しています。

こちら →
(※ 前掲。URL 図をクリックすると、拡大します。)

 2016年にアメリカに流入した移民の出身国は、多い順に、インド(12.6万人)、メキシコ(12.4万人)、中国(12.1万人)、キューバ(4.1万人)となっています。これまでと違って、中南米からのヒスパニック系を、インド、中国、フィリピンなどのアジア系が上回っているのが特徴です。

 今後もアメリカへの移民は増え続けると予測されます。最近では、建国時とは移民の出身国も大幅に変化してきています。果たして、建国時にアメリカの精神的支柱となった不羈独立の精神は維持され続けるのでしょうか、気になります。(2023/11/20 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑧:使節団はアメリカで何を見たのか(3)インディアンの戦い

■インディアン地域への侵略と抗争

 一方、東から西に向かって建設工事を進めていたユニオン・パシフィック鉄道は、経路が大平原でした。ほとんどが平地だったので、工事は順調に進んでいました。現場労働者は、アイルランド人移民、南北戦争の退役軍人、モルモン教徒などが多く、工事自体にはとくに、問題はありませんでした。

 ところが、工事がインディアンの領土にさしかかると、問題が発生しました。

 平原のインディアンたちは、鉄道建設のために土地を没収されたうえに、1830年に調印されたインディアン移住法(Indian Removal Act)に基づき、保留地(Reservation)に強制移住させられていました。

 しかも、鉄道の路線は、その保留地を横断する形となっており、狩猟民族である彼らの狩り場を荒らしていたのです。

 さらに、インディアンにとっては生活の糧であったバッファローが、鉄道設備を壊すからという理由で、手当たり次第に駆除されていきました。路線が建設されている期間に、大平原に生息していた数百万頭のバッファローが組織的に殺戮されました。80年代になると、ほとんど絶滅に瀕してしまいました。
(※ 小野修「ネブラスカのインディアン」『主流』40号、1979年、pp.85-86.)

 数千単位で移動するバッファローの群れが、数日かけて通過するのはざらでした。当然、敷設した線路を破壊することもあったでしょう。鉄道建設者側はそれに怒り、バッファローを大量に殺戮していったのです。

 インディアンたちが、鉄道建設を白人による新たな侵略と捉えるのも、当然でした。スー族をはじめとする血気盛んなインディアン部族は、しばしば建設労働者を攻撃しました。

 久米は、列車がハンボルト荒野を通りかかった時の様子を、次のように記しています。

 「この地域は、かつてすべてインディアンの領域であったが、近年になってアメリカ人が彼らを駆逐してその土地を奪った。そこでインディアンたちはみな恨んだり怒ったりしており、鉄道がはじめてできた頃は、インディアンが群れ集まって鉄道を破壊したり、線路に大きな岩を転がしたりして、いろいろ妨害を図り、怒りのあまり列車の乗客に毒矢を射掛けたりもした」(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年(初版1977年)、岩波書店。p.132.)

 もちろん、このようなインディアンの抵抗を受けて、ユニオン・パシフィック鉄道も黙ってはいませんでした。治安維持のためと称して狙撃手を配置し、スー族をはじめとするインディアンたちを大量に虐殺したのです。

 アメリカ軍の騎兵隊がインディアンを襲撃している様子を描いた図があります。1876年の日付があります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 武器もなく、裸に近い恰好で逃げるインディアンたちはどれほど悔しい思いをしていたことでしょう。インディアンにしてみれば、自分たちの領土内に勝手に侵入してきてバッファローを大量に殺してしまったのですから・・・。後ろから何人もの騎兵が銃を構え、インディアを追っていく姿が描かれています。

 大抵の場合、インディアン部族は、圧倒的な兵力と武器を持つアメリカ政府軍に屈服するか、敗退せざるをえませんでした。ところが、中には、スー族のように勇敢に戦い、一時的に勝利を収めたこともありました。

 たとえば、1866年頃、スー族は他部族と連合戦線を組み、政府軍をワイオミング州から撤退させ、政府の道路建設を撤回させたうえに、フィル・カーニー砦とリーノウ砦を1868年に放棄させたことがありました。(※ 久米邦武編、前掲。p.93.)。

 スー族など勇敢なインディアンたちの天敵となったのが、陸軍の軍人カスター(George Armstrong Custer, 1839 – 1876)でした。彼はジョンソン政権から陸軍中佐に任命され、第7騎兵隊の連隊長に就任しました。そのカスターがシャイアン族とスー族への攻撃に参加したのです。1867年のことでした。その後、数々の戦功を立てていきます。

 1868年11月27日、カスター一隊は、現在のオクラホマ州の西部を流れる雪深いワシタ川べりで、野営していたシャイアン族和平派のブラック・ケトル酋長のバンドを急襲しました。子どもであろうが、女性、老人であろうが、見境なく銃撃を加え、全滅させてしまいました。

 まさに、民族虐殺が行われたのです。これは「ウォシタ川の戦い」と白人からは呼ばれていますがが、実際には一方的な虐殺だったといいます(※ Wikipedia)。

 テントを襲うカスター隊の様子が描かれた絵があります。

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(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Seventh_Cavalry_Charging_Black_Kettle_s_Village_1868.jpg)
(図をクリックすると、拡大します)

 平和的に解決しようとしていたシャイアン族の人々を卑怯にも夜襲したのです。防御も不十分なテントの中で休んでいるインディアンの人々を誰かれ見境なく、撃ち殺したのです。寝込みを襲われたシャイアン族の人々はたまったものではありません。何事が起ったかわからないまま次々と殺されていきました。

 こうしてカスターは、シャイアン族の土地を補給拠点にしようとしていたアメリカ軍にとっても作戦目標を達成したのです。そして、インディアンとの戦いで得た勝利とされ、シャイアン族の南部領土はアメリカ合衆国が占領するようになりました。実際は無差別虐殺だったにもかかわらず、です。さらに、カスターはこの虐殺によって、軍から褒められ、カスター英雄視されるようになったのです。
(※ Wikipedia)

 民主主義を謳いながら、なんと野蛮なことかと思いますが、使節団一行はおそらく、そのような事情を知らないまま、敷設された鉄道に揺られ、一路、東に進んでいました。

使節団一行を乗せた列車は、1872年2月23日、ワイオミング州に入りました。当時、ワイオミング州はまだ準州でした。1868年当時のアメリカの地図を見ると、茶色で示したところが準州となります。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 車窓から見た光景を、久米は次のように記しています。

 「西のユタ準州からウァイオミング準州を過ぎるまでがアメリカの最も未開の土地である。列車が疾走しても開発された土地に達するまでにはまるまる四日はかかる。枯れた野草の原がどこまでも続き、ところどころにインディアンのキャンプが見える」
(※ 久米邦武編、前掲。p.158.)

 列車はインディアンの居住地を疾走していきます。そして、2月24日、ララミー村を通り過ぎ、ネブラスカ州に入ります。

 久米は次のように記しています。

 「ここは人口600、常備兵の砦があって、歩兵・騎兵200人が駐屯しインディアンに備えている。ここから進んで東に行くに従い、地形はさらに平らになり、貧弱だった草もだんだん茂って来たようにおもわれた」
(※ 久米邦武編、前掲。p.161-162.)

 実はこの辺り一帯はスー族インディアンの居住地であり、鉄道建設を巡って、スー族とアメリカ政府が抗争を繰り返したところでした。

■インディアンの聖地、ブラックヒルズ

 サウスダコタ州とワイオミング州の州境にある山地が、ブラックヒルズです。

 ブラックヒルズは、スー族インディアンにとって神聖な場所でした。その写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 岩肌が剥き出しになり、ところどころに草木が生えている岩山で、最高地点は2206メートルもあるといいます。少なくとも紀元前7000年頃から、インディアンたちが住み始め、散在していたそうです。18世紀になると、ミネソタからやって来たスー族が、ここをパハ・サパ(ブラックヒルズ)と名づけ、自然崇拝で偉大な精霊の宿る聖地として崇めていました(※ Wikipedia)。

 そのスー族は、インディアン居住地を侵略し続けるアメリカ連邦政府に戦いを挑むような血気盛んなインディアンでした。生活手段を奪われ、虐殺されながらも、果敢に抗争を続けてきましたが、両者はようやく、和平条約を結ぶことになりました。

 それが、使節団一行が列車で通り過ぎたララミーでした。

 アメリカ連邦政府とスー族は、1868年4月29日から11月6日までの間に、第二次ララミー砦条約(Treaty of Fort Laramie、第一次は1830年)を締結しました。

 ブラックヒルズ一帯は「永遠にスー族のものであり、狩りの場であり、白人の立ち入りは禁止される」という文言に基づき、アメリカ連邦政府は、ここはスー族の独占的使用のために確保された居留地だと認め、スー族に確約したのです。署名は、スー族の居住地フォート・ララミーでなされました。
(※ https://www.archives.gov/education/lessons/sioux-treaty

 条約締結時の写真があります。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 この写真は、ワイオミング州フォート・ララミーで、陸軍副司令官ウィリアム・T・シャーマン(William Tecumseh Sherman, 1820 – 1891)らとスー族が、この平和条約に署名するときの様子を撮影したものです。

椅子に座るアメリカ側と、地面に座るスー族側とを見ていると、両者の力関係がはっきりと示されています。

写真を見ているうちに、ようやく平和条約を結んだとはいえ、いつまでそれが保証されるのか、疑問に思えてきました。あまりにも素朴なインディアンの姿を見ていると、狡猾なアメリカ政府側に早晩、してやられることは容易に予想できたからです。

案の定、ブラックヒルズで金が発見されると、アメリカ政府は1876年、スー族に戦争を仕掛けてこの条約を反故にし、1877年にはブラックヒルズを差し押さえてしまいました。(※前掲。URL)

 近代的武器を持たないインディアンが、いかにアメリカ政府から理不尽な目に遭わされてきたのか、土地を奪われ、生活手段を剥奪され、人権を蹂躙されてきたのか・・・。

 ひとたび、居留地で金鉱が発見されると、スー族はアメリカ連邦政府から、戦争を仕掛けられ、条約は反故にさせられ、いとも簡単に聖地を奪われてしまうのか・・・、ブラックヒルズでの出来事は、その一例にすぎません。

 こうしてみてくると、大陸横断鉄道の建設は、インディアンから土地を奪い、生活の資であったバッファローを絶滅寸前にまで追いやる結果となったことがわかります。

 さらに、インディアンの聖地で金鉱が発見されると、アメリカ連邦政府は、スー族に戦争を仕掛けて条約を反故にし、ついには、不毛の荒廃地へと追い払ってしまいました。

 自己利益のためには平気で条約違反をするのは、中国人労働者に対しても同様でした。

■西から東にアメリカ大陸を横断して、一行は何を感じていたか。

 使節団一行は、大陸横断鉄道に乗って、西から東に移動しました。湿地帯、山岳地帯、不毛の地などを通り過ぎ、そこで働き、生活する人々を車窓から見てきました。初めて目にした光景に、さまざまな感慨を抱いたに違いありません。

 たとえば、久米は次のように記しています。

 「米国の広い土地を通過して来て、その来し方から将来像を想像してみると、わが身に引き比べてきわめて切実な感慨を持つ。ロッキーの荒野からオマハに着いて、やっと人間世界に立ち戻ったと感じたものであったが、オマハの市街も、もちろん寂しげな町を言わなければならない。(中略)世界の大きな富は資源や資本の多寡にかかわるのではなく、それを利用する能力にかかわるのだということをますます信ずることとなった。(中略)人口増加が国家の利益にとってきわめて重要なポイントであることがはっきり証明できる」
(※ 久米邦武編、前掲。pp.166-167.)

 大都会を見たかと思えば、過疎地帯を見てきた結果、土地を利用する人口の多さこそ、国力になるのだと久米は考えるようになります。

 そして、日本については次のように記しています。

 「発展の最大の決め手である人口について見れば、米国とほとんど同数である。(中略)わが国にはまだ利用されぬ平地もあり、放置されている山地もあって、どの階級の人も貧弱な富しか持たないのはなぜか。結局は知識を持たぬ民衆は労働力として使用しがたく、無能の民衆は事業に用いることができないし、無計画な事業は成功が難しいということである」
(※ 久米邦武編、前掲。pp.167-168.)

 人口はアメリカとほぼ同数でも、国土が活用されておらず、全般に貧しいという認識を久米が抱いていることがわかります。

 さらに、言葉を継いで、次のように述べています。

 「有益な知識を与えるにあたっては読み書き算数、物理などの実際的な知識から始める。移民たちに生活のための技術や手段がほぼ身についたならば、指導者はこれに規則を与え、仕事の目標を示して厳しく監督しながら、信賞必罰の態度を持つとともに率先躬行して産業を興すことを試みる」(※ 前掲。pp.168.)

 このようにすれば、国が発展するとアメリカ指導者層は考えていると指摘しています。移民を受け入れても、ルールを守るよう指導し、厳しく監督すれば、産業振興の基盤にもなるというのです。

 ところが、東洋はそうではなく、上層階級が学ぶのは、空理空論か浮ついた文芸だけだと指摘しています。上層については、実利、実践的なことは卑しいこととして遠ざけていると批判しています。アメリカの指導者層と比較すると、違いがしっかりと認識されるようになったのでしょう。

 そして、「中層の人々は守銭奴でなければ偶然の利益を追求するだけで、財産を築き、しっかりした事業を確立させようという気持ちは全く持たない」と述べています。これもまた、アメリカと比較し、日本人事業者の計画性のなさ、行き当たりばったりの経営を批判しています。

 だから、「下層階級は、衣食がようやく足りて、その日その日の暮らしだけを追い、辛うじて生きているような状態にある」とし、「そんな人間が一億いたとしても、国の利益には何の役にも立たない」と断言しています。

 勉強もせず、将来ビジョンもなく、その日暮らしのマインドで生活する人なら、いくら人数が多くても何の役にも立たないと嘆いているのです。過酷なアメリカの自然環境、そして、移民やさまざまな人種の生活をみてきて、そう感じたのでしょう。

 大陸横断鉄道に乗って移動したからこそ、見えてきたアメリカの現実であり、生きることの大変さを知り、ふと、日本の生活や社会を振り返ってみたのでしょう。そこから見えてきたものは、日本が学ぶべき今後の社会の在り方であり、人々の在り方でした。

 久米は次のようにも述べています。

 「アメリカの荒れて未開の大地も、人が集まれば開かれる。東洋の肥沃な土地といえども、国の利益が自然に生ずるわけではなく、収穫物が自然に価値を生むわけでもない。人の力を用いなくてはならないのである。いまから国のためになにか計画しようとするものは、このことを痛感し、どんなことについて奮励すべきかということを考えなくてはならない」(※ 久米邦武編、前掲。p.169.)

 いくら荒れ果てた土地でも人の力があれば、土地を活用し、人々にとっての収益を集めることができる、ところが、いくら肥沃な土地を持っていたとしても、何も考えずに暮らしていれば、今以上の収穫物を得ることもできず、場合によっては価値のない土地にしてしまうかもしれない、最終的に力となるのは人だと久米は述べています。アメリカで発見した久米にとっての一つの現実だったのでしょう。

 この件を読んだだけで、使節団一行にとってアメリカ大陸を鉄道で横断した経験は何にも代えがたいものであり、さまざまな発見があったことがうかがい知れます。民主主義を謳いながら、実はルールを平気で破り、寝込みを襲撃しても、勝利さえすればいいという野蛮さは今にも通じるものなのかもしれません。いろいろ考えさせられます。
(2023/10/31 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑦:使節団はアメリカで何を見たのか(2)最初の大陸横断鉄道

■セントラル・パシフィック鉄道

 1872年1月31日、岩倉使節団一行はサンフランシスコを発ち、大陸横断鉄道で東海岸に向かいました。

 その時の様子を、久米は次のように記しています。

 「朝7時にグランド・ホテルを発ち、フェリー・ボートでオークランドの長い桟橋の波止場に至り、カリフォルニア太平洋鉄道の列車に乗った。アメリカには昼夜を走り続ける列車用に寝台車という車両があり、一等客はこの車両に乗る」
(※ 久米邦武編、水澤周訳注、『特命全権大使 米欧回覧実記 Ⅰアメリカ編』、慶應義塾大学出版会、2008年、p.110.)

 久米はここで、「カリフォルニア太平洋鉄道の列車」と書いていますが、正確にいえば、「セントラル・パシフィック鉄道(Central Pacific Railroad)」です。カリフォルニア州にあるセントラル・パシフィック鉄道なので、カリフォルニア太平洋鉄道と勘違いしたのでしょう。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道は、カリフォルニア州サクラメントからユタ州オグデンまでのレール(1,110km)を敷設した鉄道会社です。一方、ネブラスカ州オマハにある(1,749km)を敷設しました。両者が、オグデンのプロモントリーサミット(Promontory Summit)で繋がり、アメリカ最初の大陸横断鉄道が完成したのです。1969年5月10日のことでした。

 使節団一行は、完成してまだ3年にも満たない大陸横断鉄道に乗って、サンフランシスコを発ったのです。

 久米は、セントラル・パシフィック鉄道の列車に乗るまでの様子を記し、乗車してからは、車両の様子を克明に説明しています。

 「車両は一両で24人、中央を通路にし、車両の前後に広い室が設けられ、ここでストーブを焚き、洗顔のための水盤や用水タンクを備え、トイレットもここにある。(中略)床にはカーペットが敷いてあり、快適である。二人の乗客はテーブルに向かってものを書いたり本を読んだりできる。夜は長椅子を合わせてベッドとし、また上のフックを外すとベッドが降りてきて上下二台の寝台となる。シーツや枕を備え、寝台の前にはカーテンを引いて寝るのである」(※ 前掲。p.111.)

 このように車内の設備がいかに便利で快適かを具体的に記しています。

 続けて久米は、ヨーロッパにはこのような車両がないと記し、それは、ヨーロッパが身分制社会の国だから、貴賤のものが一緒の席に座ったり寝たりすることを嫌うからだと理由づけています。ヨーロッパの鉄道事情については、おそらく、現地で聞き及んでいたのでしょう。

 アメリカでは、このような設備の整った列車にも、お金を支払うことさえできれば、乗車できるのです。

 この時、使節団一行は、同行する官吏や学生たち、アメリカのデロング(Charles E. DeLong、1832-1876)公使の一家など、総勢100人余にも達していました。一両当たり乗車できるのが24人ですから、五つの車両を借り上げて出発しています。

 1872年といえば、この大陸横断鉄道が開通してから間もない頃です。そんな時に、大勢の日本人が車両を五つも借り切って、大陸横断の旅に出たのですから、地元でも大きな話題になっていたに違いありません。

 実は、久米らが列車を見るのは、これが初めてではありませんでした。

 サンフランシスコに着いて間もない頃、使節団一行は、セントラル・パシフィック鉄道会社から記念式典に招待されたことがあったのです。

 セントラル・パシフィック鉄道といえば、アメリカ大陸の西から東に向けての鉄道建設を請け負った鉄道会社です。その鉄道会社から、使節団一行は招待されていたのです。

 おそらく、一行がこの大陸横断鉄道に乗って、サンフランシスコを発ち、シカゴを経てワシントンに移動する計画を事前に伝えていたからでしょう。だからこそ、鉄道会社は、新しい車両のお披露目記念式典に、使節団を招待したのだと思います。

 一行はサンフランシスコ市のホテルに宿泊していました。

■サンフランシスコとオークランドをつなぐ旅客フェリー

 鉄道に乗るには、サンフランシスコから旅客フェリーに乗って、オークランドに行かなければなりません。

 その時の様子を、久米は、次のように記しています。

 「1872年1月22日、朝9時、アメリカ公使のデロングとともに、エル・カピタンという蒸気船に乗って、オークランドの長い桟橋に着いた。(中略)桟橋の一番先には水上に広い上屋が作られており、ここがフェリーと汽車の乗り換え場所になっている。だから船が桟橋の駅舎に着いたときは、船が島に着いたのかと思った。列車に乗り換えると、その列車が桟橋の上に敷いた鉄道を走るので、驚かないものはなかった。汽笛を鳴らしながら桟橋を渡っていく様子は、まるで水上を飛んでいるようである」
(※ 前掲。pp.79-80.)

 久米はこのように記していますが、その中に、「エル・カピタン」という聞きなれない言葉が出てきます。

 これは一体、何なのかと調べてみると、当時、サンフランシスコ湾で運行されていた蒸気動力の旅客フェリーでした。

 サンフランシスコとオークランドは、狭い海を隔てて向かい合っています。至近距離の海上を、人々はこのエル・カピタンに乗って、往来していたのです。

 この旅客フェリーは、サンフランシスコから、鉄道のあるオークランドまで乗客を運ぶ一方、セントラル パシフィック鉄道でオークランドに駅に到着した乗客をサンフランシスコまで運んでいました。大陸横断鉄道の完成を見越して、1868 年に建造されたのが、このエル・カピタンでした。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/El_Capitan_(ferry)

 それでは、エル・カピタンがどのような旅客フェリーなのか、写真を見てみることにしましょう。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、久米が書いているように、確かに、桟橋の先に上屋が見えます。その隣に、エル・カピタンが横づけされていますから、ここが、フェリーと汽車との乗り換え場なのだということがわかります。

 実際にエル・カピタンと汽車の両方に乗ってみた経験を、久米は、次のように表現しています。

 「降りる客は船首から降り、乗船客は側面から乗り、乗降に当たっての混雑は皆無である。陸からすぐに船、船からすぐに陸、ただ外輪が動いて波に揺れるのを見れば、もう自分が水上にいることを知る。また汽車の汽笛が鳴り、車輪の轟きを聞けば、すでに足が地上にあることを知るのである」(※ 前掲。p.80.)

 船上から陸へ、そして、陸からすぐに海上へと、スムーズに乗り換えできる利便性と機能性に、久米はただ、ただ驚いています。乗客のためのインフラがこれほど整備されているとは思いもしなかったのでしょう。

 驚きのあまり、久米は、サンフランシスコでこうなのだから、米欧の大都市なら、どれほどすばらしいのだろうかとつい、想像を巡らせてしまうのでした。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道が開催した式典には、男女150人が参加しました。主催者として応対したのが、コーエン(Alfred Andrew Cohen , 1829-1887)社長でした。そこで用意されていたイベントが、新しい車両が披露され、参加者が実際に試乗してみるというものでした。

 久米はその時の様子を次のように書いています。

 「列車の中にキッチンを設けて昼食のサービスがあった。オークランドを過ぎ、サンフランシスコ湾の東岸を60メートルほど走り、正午にサン・ノゼ町のミルピタス駅に着いた、使節団一行、その他の客たちは下車し、付近の庭園をしばらく散歩したのち、再び列車に乗った」(※ 前掲。pp.80-81.)

 この時の車両がどんなものだったのかわかりませんが、1870年頃のセントラル・パシフィック鉄道の食堂車の図がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-experienceより。図をクリックすると拡大します)

 これを見ると、セントラル・パシフィック鉄道の食堂車がいかに豪華な設えだったのかがわかります。車内はきらびやかな装飾が施され、木製の調度品には丹念に彫刻されています。至る所、贅を尽くしたディテールが印象に残ります。

 しかも、このような豪華な上級車両でも、料金を払えば誰でも利用することができました。

 豪華な車両は、女性の旅行に対する意識改革に大きな影響を与えたといわれています。当時、中流あるいは上流階級の白人女性は、気軽に一人で旅行することはなかなかできませんでした。ところが、この車両のように、自宅のリビングルームのような雰囲気があれば、女性でもリラックスして乗車することができます。安心して乗車できるということがわかれば、女性も鉄道で旅行しようという気にもなるでしょう。女性に向けた鉄道旅行が推奨されれば、利用客の増加につながる可能性がありました。
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-experience )。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道が開催した式典には、男女150人が招待されていました。

 なぜ、女性が招待されていたのかわからなかったのですが、上記のような車両の内装をみれば、新しい車両のお披露目が、実は、女性の鉄道旅行に対する潜在需要を喚起する一つの方策でもあったことがわかります。

 この記念式典でセントラル・パシフィックの社長として応対していたのが、コーエンでした。1863 年にサンフランシスコ & アラメダ鉄道会社を設立し、1864 年に運行を開始した人物です。

 まずは、ヘイワードでの草創期の鉄道事業がどういうものだったのかを見ておくことしましょう。

■地元ヘイワードの鉄道事業者、コーエン

 1860 年代初頭、ヘイワードでは、地元農産物の輸送とサンフランシスコに通う人々の通勤のための鉄道が必要とされていました。

 ヘイワードに最初に列車を通したのが、アルフレッド A. コーエンでした。

 1864年にヘイワードで、サンフランシスコ & アラメダ鉄道(San Francisco and Alameda Railroad)を創設したコーエンは、1829年、西インド諸島のプランテーション所有者の子として、ロンドンで生まれました。ところが、1833年の奴隷解放法(the Emancipation Act of 1833 freeing the slaves)とスコットランド銀行の破綻によって、一家は財産を失ってしまいました。

 長じたコーエンは1850 年、一攫千金を狙って、ゴールド・ラッシュに沸いていたカリフォルニアにやってきました。サンフランシスコで仕事を見つけて法律を学び、1857 年に司法試験に合格しました。弁護士になったコーエンは、サンフランシスコでは有力な弁護士として成功していました。

 弁護士だったコーエンは1863 年のある日、ふと、ヘイワードとアラメダ、オークランド、サンフランシスコなどの大都市を、鉄道とフェリーで結ぶことを思いつきました。
(※ https://www.cohenbrayhouse.org/about-6

 彼は元々、ワーム・スプリングス(Warm Springs)のリゾートに興味を持っていました。だから、ヘイワード(Hayward)を通る鉄道は、リゾート客をホテルに運ぶ最適手段になると思っていたのです。さらに、鉄道とフェリーを連結すれば、大きな利益が得られるとも考えました。

 一方、アラメダ(Alameda)が住宅地として整備されはじめたのをみて、やがて、小麦、大麦、牛などの商取引に、ヘイワードの重要性が高まってくるだろうと予測しました。

 地域の発展を目指そうとすれば、鉄道網の整備は不可欠でした。

 さまざまな観点から、鉄道需要を予測したコーエンは、ヘイワード地域の大土地所有者であったファクソン・D・アサートン(Faxon D. Atherton)などと組み、新しくサンフランシスコ&アラメダ鉄道会社を設立しました。1864年のことです。
(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 コーエンは1864年に、サンフランシスコ & アラメダ鉄道を運行すると、翌1865 年には、サンフランシスコ & オークランド鉄道を買収し、合併しています。さらに、その後、アラメダからヘイワードまでの列車を運行したかと思えば、サンフランシスコ行きのフェリーを1日5便、運行するようにもしていました。

 サンフランシスコに行くのに乗客は、アラメダでフェリーに乗らなければなりませんでしたが、この路線ができたことによって、ヘイワード地域の住民は、サンフランシスコへも比較的容易に通勤できるようになりました。

 ジョセフ・リー(Joseph Lee,) が、鉄道とフェリーが最初に連結した日の様子を1868年頃に描いています。その絵を撮影した写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikimedia. 図をクリックすると、拡大します)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Joseph_Lee_painting_Alameda_Shore_(1868).jpg

 1864 年 8 月 25 日、鉄道とフェリーが最初に連結しました。その時のアラメダ海岸の光景が描かれています。桟橋の先に白い蒸気を吐き出しながら、静かに進んでいくフェリーが見えます。

 前景に、土手を降りて来る人が描かれています。それ以外にほとんど人が見当たりません。当時、鉄道やフェリーを利用する人はまだ、それほど多くはなかったのでしょう。のどかな田園風景が広がっています。

 ところが、鉄道が通って、フェリーと繋がり、さまざまな都市へのアクセスがよくなると、地元経済も次第に、活性化されていきました。

■地元への貢献、そして、セントラル・パシフィックへ売却

 コーエンは、物資の輸送から人々の通勤に至るまで、地元の人々に役立つよう、鉄道事業をきめ細かく采配し、展開していきました。地域の人々にとっての利便性を高め、地場産業の発展のためになくてはならない人でした。

 才気があり、覇気も胆力もある人物でした。

 ところが、せっかく築き上げたそれらの事業は、1869 年にセントラル・パシフィック鉄道に買収されてしまいました。その後、コーエンは、セントラル・パシフィック鉄道会社所属の弁護士になっています。
(※ https://localwiki.org/oakland/Alfred_A._Cohen

 ですから、1872年1月に使節団が記念式典に招待された時、コーエンは社長ではなかったはずです。

 不思議に思って、資料を渉猟してみると、株を売却したコーエン氏は、そのまま、セントラル・パシフィック鉄道の社長を務めるようになっていました。

 とはいえ、セントラル・パシフィック鉄道は、経営を完全に彼に任せていたわけではありませんでした。経営を管理するため、独自の総監督を配置していたそうですから、コーエンは形式上の社長だったのでしょう。
(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 なにしろ、コーエンは、サンフランシスコ & アラメダ鉄道の創設者でした。いってみれば、地元ヘイワードの名士でしたから、セントラル・パシフィック鉄道としても、コーエンは疎かにすることはできなかったのでしょう。

 使節団一行が招待された際、コーエンが社長として式典を采配していましたが、それには、コーエンが鉄道事業を通して、地元を活性化させた人物だったという事情があったのです。

 それでは、なぜ、コーエンは、自分が創設した鉄道会社をセントラル・パシフィックに売却したのでしょうか。

 それは、1868 年 10 月にヘイワード断層で大地震が発生し、サンフランシスコ & アラメダ鉄道が大きな被害を受けたからでした。

 サンフランシスコ市域の近くを、サンアンドレアス断層とヘイワード断層が走っており、これらの断層が、これまで何度も地震を引き起こしていました。

 1868年の地震の被害はとくに甚大でした。サンフランシスコ & アラメダ鉄道の線路にも深刻な被害が生じただけではなく、Dストリート駅が倒壊してしまったのです。

 当時の写真があります。

こちら →
(※ HAHS Collectionより。図をクリックすると、拡大します)

 駅舎が倒壊し、茫然と佇む人の背後に車両が見えます。

 幸いなことに、車両や従業員に大した被害はありませんでしたが、駅舎の倒壊で、コーエンは大きな損失を被ってしまいました。駅舎が再建されても、その後、経営を続けることは難しくなっていました。

 それでもコーエンは、なんとか解決策を見出そうとしましたが、もはや鉄道会社を運営し続けることはできず、1869年、サンフランシスコ&アラメダの株売却を決定せざるをえませんでした。

 ちょうどその頃、セントラル・パシフィック鉄道が、ベイエリアの小規模な鉄道路線の買収に動いていました。大陸横断鉄道を完成させるためでした。コーエンはそれを知って、セントラル・パシフィック鉄道に自社株を売却したのです。

 そもそも、サンフランシスコ&アラメダ鉄道は、初年度に貨物で 2万1,000 ドル、旅客券で 4万ドルの収益を上げていましたが、建設費は100 万ドルもかかっていました。その後の収支も同様で、コーエンらはこの鉄道事業から、大きな投資利益を得ることは出来ませんでした。(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 その上、1868年の大地震で追い打ちをかけられました。駅舎まで倒壊するという被害を受けた以上、もはや鉄道事業を継続することは困難でした。地元のサンフランシスコ&アラメダ鉄道が、大手のセントラル・パシフィック鉄道に吸収されるのは自然の流れだったのです。

 一方、セントラル・パシフィック鉄道は、1862年の議会で承認された「太平洋鉄道法」に基づき、建設資金を主に、米国債で賄うことができました。さらに、カリフォルニア州やサンフランシスコ市からも助成金を得ることができました。

 セントラル・パシフィック鉄道が建設したのは、大陸横断鉄道のうち、カリフォルニア州からユタ州までの西から東に向かう路線でした。そのセントラル・パシフィックも、現在は、東から西に向かう路線を建設したユニオン・パシフィック鉄道に吸収されています。鉄道というインフラ事業は、大資本が絡まなければ、安定した経営が難しい事業でした。

 さて、使節団一行が乗った列車が走るのは、平坦な場所だけではありませんでした。湿原地帯もあれば、峻厳な山脈地帯もあります。とくに困難をきわめたのが、山岳地帯の線路の敷設工事でした。労働内容は苛酷で、しかも、高度な技術と忍耐力が要求されました。そのような作業をこなせる労働者を集めるだけでも大変でした。

 1872年1月31日、サンフランシスコを発った使節団一行は、大陸横断鉄道に乗って東へ東へと向かいました。車窓からは、カリフォルニア州からユタ州にかけてのさまざまな地形が見えてきます。さまざまな地形から浮かび上がってくるのは、広大なアメリカが創り出す文化の姿であり、社会の形でした。

■使節団が見た車窓からの光景

 使節団一行は、車窓からサンホアキン川を眺め、その周辺のいたるところに、沼地や湿地ができているのを見ました。カリフォルニア平野は平坦だったので、川も緩やかに流れ、平地に流れ出ることも多かったのだろうと、久米は推測し、このような地形ではまず、輸送路を建設するのが先だと述べています。

 久米は次のように書いています。

 「カリフォルニアにはまだ、古代中国の禹のような名人が必要で、暗渠排水によって土地を改良するのを待っているといえそうだ。鉄道から支線を出し、数本の鉄路が荒れた湿原の中に敷設されているのを見た。荒地を開拓するにはまず、輸送のための路を開くのが最初である」(※ 前掲。p.112.)

 車窓から湿地帯を見たとき、久米は、古来、しばしば洪水が起きていた中国で、禹が治水の成功によって、夏王朝の創始者となったという故事を思い起していました。漢籍に造詣の深い久米ならではの感想です。

 さらに、もう一か所、久米が、中国の故事を連想していたのが、シエラネバダ山脈を通過し、絶壁をうがったトンネルを見た時のことでした。

 ちょっと長くなりますが、引用しましょう。

 「咽ぶような汽笛が車輪の響きと混ざり合いながら列車は疾走し、安らかに寝ている間に絶壁をうがったトンネルをくぐり抜け、山脈の背後に走り抜けた。まったく鬼神の業かと思われるほどである。李白が「蜀道難」という詩で、「地崩山砕壮士死 而後天梯石桟相鉤連」(地面が崩れ、山が砕けて、たくましい男たちが死んだ。その犠牲によって天にも通ずる梯子や、石のかけはしが鎖によってしっかりつなぎ合わされた)」と詠っている難工事といえども、このトンネル工事ほど難しくはなかったのではないか」(※ 前掲。p.129.)

 久米ら一行は、眠っている間に、無事、トンネルをくぐり抜け、山脈の裏側に抜け出ることが出来ました。固い岩盤を切り崩して作ったトンネルのおかげでした。

 だからこそ、久米は、この標高の高い山地にトンネルを掘って線路を通した労働者の労苦をしのび、李白の「蜀道難」に匹敵する偉業であり、まさに神業だと評したのです。

 そして、工事の過程で、多くの犠牲者を出したに違いないことを想像し、このトンネル工事ほど難しい工事はなかったのではないかと感慨深く、感謝の気持ちを表しています。

 確かに、シエラネバダ(Sierra Nevada)は、カリフォルニア州東部を縦貫する大きな山脈です。ロッキー山脈よりも高いこの山脈は、これまでずっと、東部アメリカから西海岸に進出するのに大きな妨げとなっていました。

 上空写真を見てみましょう。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 山また山が、どこまでも続いている様子がよくわかります。草木はほとんど生えておらず、岩山のように見えます。

■シエラネバダ山脈のサミット駅

 実際、シエラネバダ山脈は、列車で走行するのも、想像以上に大変だったようです。高度が高く、勾配もきついので、自力走行が難しく、機関車に牽引してもらって、ようやく動くといったような有様でした。

 久米は次のように書いています。

 「シャディ・ランに着いた。ここはもう標高1300メートルほどの高地である。ここから鉄道の傾斜はますます急になり、機関車を増結して三重連で牽引した。(中略)山は重なって、路は険しいが、列車は二重窓をとざし、ストーブが暖気を送ってくるので春風の中で銀世界を眺めているようである」

 酷寒の中、勾配のきつい路線の走行がいかに大変かを記す一方、久米は、車内には二重窓とストーブとあって、寒さから守られていることに感謝しています。そのような車内の快適さを、「春風の中で銀世界を眺めているよう」だと表現しています。

 おそらく、どれほど苛酷な自然でも技術力によって克服し、人間にとって居心地のいい環境に作り替えていくアメリカ人の気力に感嘆していたのでしょう。

 こうして列車は機関車を連結し、勾配のきつい路線を走行しましたが、5時間かけて、わずかに80キロメートル足らず進んだだけでした。列車の速度があまりにも遅く、一行がサミット駅に到着したのは、日も暮れていました。

 降雪はやまず、使節団一行がここに到着した時、雪は深さ2,3メートルにも及び、駅舎は半ば雪に埋もれていました。それでも、この駅の中の小屋で、一行は昼食兼夜食を取ることができました。ようやく一息つくことができたのです。

 久米は、サミット駅での酷寒の様子を、「客車を出ると、その寒さは皮膚を削るようである」と表現しています。

 なにしろ、シエラネバダ山脈越えの最高地点が、サミット駅です。海抜2100メートルで、四方に高い山が連なっています。客車の外が凍えるような寒さだったのも当然でした。

 当時の写真があります。

こちら →
(※ Wikimedia。Pond, C. L.撮影。図をクリックすると、拡大します)

 これは、1870年に撮影されたサミット駅です。ちょっとわかりづらいかもしれませんが、左側に列車が停まっているのが見えます。使節団一行は、ここにあるような列車に乗ってやって来て、しばらく停車し、時を過ごしたのだと思われます。

 調べてみると、セントラル・パシフィック鉄道が、当時、使っていた車両の写真がありました。ご紹介しましょう

こちら →
(※ Wikimedia。John B. Silvis撮影。図をクリックすると、拡大します)

 これは、セントラル・パシフィック鉄道の機関車 113 号「ファルコン」です。ネバダ州アルジェンタで、1869 年 3 月 1 日に撮影されています。

 車両の先頭に、2人の男性が座っているのが見えます。

 左が、ユニオン・パシフィック(UPRR )の技師ジェイコブ・ブリッケンダーファー (Jacob Blickensderfer) で、右が、セントラル・パシフィック鉄道(CPRR)の 技師ルイス・メッツラー・クレメント (Lewis Metzler Clement) です。太平洋鉄道委員会の一員として、彼らが線路を点検しているときの写真です。

 ちなみに、この「ファルコン」は、ニュージャージー州パターソンのダンフォース機関車工場で製造された機関車です。見るからに頑丈で立派な車両ですが、まだ手作りの要素が多々残っていて、人と機械が協力して、列車を走行させていた頃の車両だということがよくわかります。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CPRR_Locomotive_-113_FALCON)

 さて、サミット駅で、雪かき用の機関車と連結してようやく、一行が乗った列車は、出発することができました。列車はその後、シエラネバダ山脈の中腹にあるトンネルに入っていきます。

 やがて、固い岩盤を削って作られたトンネルを抜け、使節団一行は、眠っているうちに、シエラネバダ山脈越えをすることができました。

■鉄道工事と中国人労働者

 セントラル・パシフィック鉄道は、1863 年にカリフォルニア州サクラメントから、建設をスタートさせ、険しいシエラネバダ山脈を越え、ネバダ州まで続く1,110 kmの新しい線路を敷設しました。

 このシエラネバダ山脈越えのルートを発見し、標高を含む詳細な地形調査を行ったのは、セオドア・D・ジュダ(Theodore Dehone Judah ,1826 – 1863)でした。サクラメントバレー鉄道の主任技師であり、後にロビイストになり、その後、下院の太平洋鉄道委員会の書記官にも任命された人物です。

 彼らが議会で、太平洋鉄道法案の通過に尽力した結果、1862年7月1日にリンカーン大統領が同法に署名したという経緯があります。この法案の可決によって、東からのユニオン・パシフィック鉄道、西からのセントラル・パシフィック鉄道が、大陸横断鉄道を敷設することが決定されたのです。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/First_transcontinental_railroad

 セントラル・パシフィック鉄道は、さまざまに検討したあげく、結局、ジュダが提案するシエラネバダ山脈越えルートを採用することになりました。そのため、初期工事のほとんどは、丘陵地帯の切断や発破、埋め立て、橋や架台の建設、トンネルの掘削と発破、シエラネバダ山脈上へのレール敷設などでした。峻厳な山脈ルートに不可避の難工事を強いられたのです。

 どの工程を取ってみても、生命の危険を伴う苛酷きわまりない作業でした。

 たとえば、シエラネバダ山脈を通る鉄道路線のために、セントラル・パシフィック鉄道は、15 本のトンネルを建設しなければなりませんでした。

 トンネルを掘るには、まず、1 人が花崗岩の表面に削岩機を当て、他の 1 ~ 2 人が大きなハンマーを振り回してドリルを順番に打ち、ゆっくりと岩に進入させていかなければなりません。そして、ドリルがうがった穴の深さが約25 cm になると、黒色火薬を充填し、導火線を設置して、安全な距離から点火して、爆破するのです。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/First_transcontinental_railroad

 火薬よりも強力なのが、ニトログリセリンでした。これは、1846年にイタリア人アスカニオ・ソブレロ(Ascanio Sobrero,1812 – 1888)によって発明された起爆剤です。

 セントラル・パシフィック鉄道では、トンネル建設中に、このニトログリセリンを大量に使用しました。安定供給を確保するため、自社でニトログリセリン工場を所有し、稼動させていたほどです。その工場は中国人労働者によって運営されていました(※ 前掲。URL)。

 危険なニトログリセリン工場の運営もまた、中国人に任されていたのです。彼らは勤勉に働くので、経営者たちから信頼されていました。そして、中国人たちもまた、最も過酷で危険な条件であったにもかかわらず、真面目に、誠意を込めて働いていました。

 その一端を示すスケッチがありますので、ご紹介しましょう。

 イラストレーターのジョセフ・ベッカー (Joesph Becker, 1841-1910)が、中国人労働者たちの生活の一端をスケッチした鉛筆画です。

こちら →
(鉛筆、紙、サイズ不詳、1869年、Bancroft Library, University of California, Berkeley.図をクリックすると、拡大します)

 雪が舞い散る寒い日、列車が通りかかると、辮髪姿の中国人が多数、小屋から出てきて、列車に挨拶しています。線路の傍に近づいている者がいるかと思えば、山の斜面から、手を振っている者、中には、帽子を振っている者もいます。トンネルを通り抜けてきた列車に挨拶しているのです。彼らの歓喜の声が、峻厳な山中から聞こえてきそうです。

 中国人労働者にとって、トンネルを抜けて走ってくる列車を見ることこそ、唯一の楽しみだったのかもしれません。トンネルは彼らの苛酷な労働の成果であり、列車が無事、そこを通り抜けてくるのを見ることは、成果の確認でした。

 危険と隣り合わせの労働と、深い疲労感に押しつぶされそうになっている日々の中で、列車をみることは、彼らにとって何にも代えがたい喜びだったに違いありません。

 中国人労働者は、極寒の冬であれ、炎天下の夏であれ、苛酷な労働に耐えてきました。鉄道工事期間中に、爆発、地滑り、事故、病気などで多くが死亡していったといわれています。彼らは、言葉も通じない異国の地で日々、苛酷な労働を強いられ、時に負傷し、時に死亡し・・・、あまりにも多くの犠牲を払ってきていました。

 先ほどもいいましたが、トンネルを建設するには、岩盤を爆破しなければならず、危険な作業が伴いました。そのため、セントラル・パシフィック鉄道は、中国人労働者を大量に雇用していました。そして、トンネル掘削工事では、作業効率を高めるために、爆破力の高いニトログリセリンを使用しており、多数の犠牲者を出していたのです。

 久米はここを通過する際、トンネル工事の苛酷さを想像し、李白の詩、「蜀道難」を思い出していました。まさに、多数の中国人労働者の犠牲の下に、トンネルが完成し、列車はシエラネバダ山脈を越えることができたのです。

 それにしても、なぜ、アメリカの大陸横断鉄道の建設に、白人ではなく、中国人労働者が尽力したのでしょうか?

■なぜ、中国人労働者なのか?

 セントラル・パシフィック社は当初から、現場労働者を雇用し、維持することに苦労していました。というのも、せっかく採用しても、多くの白人が、鉄道建設よりもはるかに儲かる金や銀の採掘所に移ってしまうからでした。

 鉄道労働者が不足してきたとき、経営者らが注目したのが中国人でした。

 1848年から1855年にかけてのゴールド・ラッシュの時期に、多くの中国人がカリフォルニアにやって来ており、その後も住みついていました。大半は金鉱夫か、ランドリーかキッチンなどのサービス産業で働いていました。

 経営者たちは、そんな中国人たちに目をつけたのです。

 ところが、実際に彼らを見た経営者たちは、鉄道建設には向かないと判断せざるをえませんでした。当時、カリフォルニアに来ていた中国人の身体は小さく、華奢でした。鉄道工事の経験もなく、これでは、苛酷な労働をこなせないとみなされたのです。

 英語もしゃべれませんから、現場監督の指示を正確に受け取れるかどうかも懸念されました。身体能力、経験、意思疎通の面で、トンネル建設工事などの危険な作業を任せられないと思われたのです。

 経営者たちは労働力不足に悩み、何度も求人広告を出しました。ところが、白人からの応募はわずか数百しかありませんでした。そこで、仕方なく、中国人労働者の雇用に踏み切ったのです。
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-chinese-immigrants

 こうして、セントラル・パシフィック鉄道の線路や橋、トンネルなどの建設は、中国からの移民労働者によって行われるようになりました。熟練した白人監督者の指示の下、現場労働者として中国人が大変な作業を担当するのです。

 1865 年後半のセントラル・パシフィック社では、約3,000 人の中国人と1,700 人の白人が雇用されていましたが、中国人は肉体労働者として低賃金で働き、白人はほぼ全員が監督職や熟練技能職で、中国人よりも高い賃金で、楽な労働内容で働いていました。

 圧倒的に不利な条件であったにもかかわらず、中国からは次々と、労働者が流入してきました。

 建設作業員は12,000人もにおよぶ中国人移民で構成され、1868年時点では全体の80パーセントが中国人だったといわれています(※ Wikipedia)。

 1868年といえば、バーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)が成立した年でした。

■バーリンゲーム条約

 バーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)とは、清国の使節団の特命全権大使であったバーリンゲーム(Anson Burlingame, 1820 – 1870)が、アメリカ国務長官ウィリアム・スワード(William Henry Seward,1801 – 1872)と交渉し, 1868年7月28日にアメリカと締結した条約を指します。

 1858年に締結された天津条約を拡張する形で結ばれたもので、8条から成る「天津条約追加條款」です。

 その内容は、中国からの移民制限の緩和を目的として、いくつかの基本原則を確立し、中国の国内問題へのアメリカの干渉を制限するというものでした。
(※ https://history.state.gov/milestones/1866-1898/burlingame-seward-treaty

 画期的なのは、中国人のアメリカへの入国と旅行を自由にできる権利を約束し、最恵国待遇原則に従って、アメリカ国内の中国人の保護を認める措置が含まれていたことでした。

さらに、両国の国民に教育と学校教育への相互アクセスを認めており、これらの条項は両国間の平等の原則を強化する役割を果たすものでした(※ 前掲、URL)。

 1868年に描かれた、バーリンゲーム使節団の肖像画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ 出典:Library of Congress, LC-USZ62-42697、
https://www.foreignaffairs.com/articles/united-states/2017-11-23/burlingame-mission
 図をクリックすると、拡大します)

 この図の中央で、洋装で立っている髭を生やした男性が、特命全権大使のバーリンゲームです。そして、前列右から2番目が正使で特命全権大使の孫家毅、3番目がやはり正使で特命全権大使の志剛です。

 清朝政府は、バーリンゲームを使節団の特命全権大使に任命しましたが、それと同格で、役人であった孫家毅と志剛を参加させました。アメリカ人バーリンゲームの交渉活動を監督するとともに、彼らにも外交交渉の経験を積ませるためでした。

 実際、彼らは、わずかな機会をとらえて、欧米との外交交渉術を学び取ったようです。訪露中に、バーリンゲームはサンクト・ペテルブルグで急逝してしまいましたが、その後の外交は、志剛がリーダーとなって、それまでと遜色のなく、対応することができたといいます。
(※ 矢久保典良、https://www.jacar.go.jp/iwakura/column/index.html

 バーリンゲームのおかげで、清国に有利な条約をアメリカと結ぶことができましたし、清朝の役人が外交交渉術を学ぶ機会を持つこともできました。

 清国政府が、初代アメリカ駐清公使であったバーリンゲームを、遣欧米使節団の特任全権大使に任命したのは、賢明だったといわざるをえません。

 もっとも、その効果は長く続きませんでした。

■バーリンゲーム条約の効果と失効

 経営者たちからは、中国人は、従順で信用できる労働者だとみなされていました。しかも、安い賃金で大勢、集めることができるので、当初、この条約は歓迎されていました。中国人もまた、この条約があったからこそ、一定の保護は受けられると思い、安心してアメリカにやって来たのでしょう。

 国政調査によれば、中国からの流入人口は、1861-1870間が64301人、1871-1880間が123201人、そして、1881-1890間が61711人でした。10年単位で、流入人口の推移をみると、バーリンゲーム条約が結ばれた後の10年間に、流入人口がほぼ倍増していることがわかります。
(※ 越川純吉、「アメリカにおける中国人の法律上の地位」、『中京法学』17巻1号、1982年、pp.59-63.)。

 不法入国もあるでしょうから、必ずしも正確な人数とはいえませんが、この30年間の人口の推移を見ると、明らかにバーリンゲーム条約の効果とその喪失をみることができます。

 一方、この条約の影響は、1870年代に清国からアメリカへ留学生が派遣されたことになった経緯にも見ることができます。

 バーリンゲーム条約の締結後、清国から官吏級の若者たちが40名、アメリカで大学教育を受けることになりました。

 清国は当初、彼らをイギリスに留学させる予定だったそうです。ところが、当時、アメリカ総領事であったスワード(George Frederick Seward, 1840 – 1910)の助言によって、留学先をアメリカに変更したといいます。
(※ 黄逸、「南北戦争直後のアメリカから見た清日両国の使者」、『関西大学東西学術研究所紀要』巻53、2020年、p.130.)

 アメリカの方がイギリスよりも健全な関係を築けると、清国政府は判断していたのかもしれません。

 黄氏は、「砲艦政策を通じて清国市場独占や植民地の獲得を目指したイギリス」よりも、「英清間の一連の外交的かつ軍事的衝突において中立の立場をとり、貿易をきっかけに清国への影響力を構築していったアメリカ」の方に、清国人は好意的感情を持っていたと記しています。

 さらに、イギリスは、主としてアヘンを清国に輸出し、清国からは茶を輸入という貿易内容でした。清国が禁止しているインド産アヘンを、イギリスは公然と輸出してきていたのです。害悪以外のなにものでもありませんでした。

 一方、アメリカは、白綿布を清国に輸出し、清国からは茶を輸入するという内容でした。清国人がイギリスよりもアメリカに好意的なのは、貿易内容がより健全なものだったからでもありました(※ 前掲。pp.125-126.)。

 清国政府は近代化を進めるため、エリート層を欧米で学ばせる必要性を感じていましたが、それまでの関係を踏まえ、産業革命を成功させたイギリスではなく、イギリスからの独立を勝ち取り、進取の気性に富むアメリカで学ばせようとしていたのです。

 ところが、この時点ですでに、アメリカでは中国人排斥の動きが顕著になりはじめていました。

 興味深いことに、1872年8月29日付の“Daily Evening Bulletin”には、‘China following Japan’という見出しの記事の中に、次のようなことが書かれていました。

 「これらの若者たちはそれぞれ、不本意ながらも、やがて帰国することになるだろうが、確実に、国際交流の価値と、アジア最大の国を排斥した愚行を伝える伝道者になるだろう」(※ 前掲。p,130.)

 実際、その10年後の1882年5月6日、最初の「中国人排斥法」(Chinese Exclusion Act)が、議会を通過し、チェスター・A・アーサー(Chester Alan Arthur, 1829 – 1886)大統領がこれに署名しました。この法律によって、中国人労働者の米国への移民は10年間、禁止されました。

 そればかりではありません。すでに入国していた中国人に対しても新たな要件が課されました。 アメリカを出国した場合、再入国するには証明書を取得しなければならなくなったのです。こうして、アメリカ史上、最も重い制限が、中国人に課せられることになりました。(※ https://www.archives.gov/milestone-documents/chinese-exclusion-act

 バーリンゲーム条約からわずか4年ほどで、中国人の移住が禁止されてしまったのです。条約がいかに当てにならないものか、国同士の力関係、その時の経済状況などによって、容易に変わってしまうことの一例でした。

 バーリンゲーム使節団一行と同様に、不平等条約の改正のための準備交渉に訪れていた岩倉使節団は果たして、この一件をどのように感じていたのでしょうか。

■不況下で発生していた襲撃事件

 久米は、中国人労働者について、次のように述べています。

 「サンフランシスコ近辺の労働賃金はきわめて高いのだが、弁髪の連中がごく安い賃金で仕事を引き受けてしまうので資本家としてはおおいに利潤が上がり、開発も進められた。しかし、そのおかげで白人種は仕事の口を奪われ、大きな不満が白人側から巻き起こって、とうとう清国人を追放せよという議論が沸騰するようになった」(※ 前掲。p.109.)

 なぜ中国人労働者が騒動を引き起しているかについて、久米は、低賃金で仕事を引き受けるからだと分析しています。

 低賃金で雇えば利潤が増えるので、経営者は中国人労働者を採用したがります。ところが、その分、他の労働者には仕事がまわらず、白人労働者の不満を買っているというのです。つまり、騒動の原因は、中国人労働者が白人労働者の仕事を奪っているからだと指摘しているのです。

 単なる旅行者にすぎなかったにもかかわらず、久米は、きわめて的確な状況分析を行っています。そればかりか、資本主義の原理のようなものにまで思考が及んでいることに気づきます。

 中国人労働者なら低賃金で雇用できるという状況が、経営者には、コストをカットして利潤を増加させるメリットをもたらし、白人労働者には、仕事を奪われる、あるいは、中国人労働者と同程度の賃金にまで引き下げられるデメリットをもたらします。

 このメカニズム一連の騒動を引き起していると、久米はみているのです。経営者側も雇用者側も自己利益で動く限り、このメカニズムは解消のしようがありません。衝突を繰り返し、やがては、法的規制にまで及んでしまう・・・、といった流れが、「中国人排斥法」(1882年)成立の背景にあるのでしょう。

 それでは、アメリカ政府や企業は、中国人排斥現象に対してどのような態度を示しているのでしょうか。それについて、久米は、次のように分析しています。

 「州政府では、しばしば追放策を協議してきたが、民主国の原則からして、そのようなことは実行できないという論理がある。まだ企業の側からすると、安い労働を駆逐しては具合が悪いのである。あれやこれやの事情があって、清国人追放は行われないということになって歳月が過ぎた」(※ 前掲。p.109.)

 住民からの突き上げで、州政府もこれについて検討してきたようです。

 ところが、行政の立場からすれば、大所高所からの視点を外すことはできず、民主主義を掲げて独立した国家として、排斥運動に手を貸すことはできないという立場を取ってきました。

 一方、企業側は、資本の論理からいって、中国人労働者を排斥したくないというのが本音でした。結果として、使節団一行が滞在した頃は、久米が述べているように、「清国人追放は行われないということになって歳月が過ぎた」のです。

 問題が深刻化したのは、1873年に始まった世界的な大不況からです。

 堀井氏は、岩倉使節団が訪米した直後あたりに、さまざまな排斥運動が勃発したことを説明しています。

 「1871年にロサンゼルスでバーリンゲーム条約に反対する暴動が発生し、中国人22名が殺された事件を初めとして、反中国人暴動はカリフォルニア各地から他州へ拡大していった。ほぼ西部のすべての州の60地区以上で反中国人暴動が勃発したが、中国側の史料は、これらの暴動で中国人200人余りが殺されたことを伝えている」
(※ 前掲。p.24.)

 排斥運動は、それ以後も継続的に発生しています。有名なものでは、1877年7月にサンフランシスコの暴動、1885年9月のワイオミング州ロックスプリングでの事件、等々があります。中華街や鉄道会社、船会社が襲撃され、軍隊まで出動したケースがあれば、武装した白人集団によって中国人居住区が襲撃されたケースもありました(※ 前掲)

 いずれも当時、世界を襲っていた大不況のさなかの出来事でした。不況で仕事にあぶれた人々が狂暴化し、暴徒化し、中国人移民に対する襲撃事件を引き起す結果になっていたのです。

 一連の事件は、移民労働者として他国で働くことの意味を問いかけているように思えます。

 1882年の中国人排斥法は10年間の時限立法でしたが、1892年の更新を経て、1902年には恒久的な措置として実施されることとなりました。これらの排斥法が解除されたのが、1943年12月17日に制定、「マグヌソン法」(Magnuson Act)として知られる「中国人排除廃止法」(The Chinese Exclusion Repeal Act of 1943)です。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Magnuson_Act

 勤勉な中国人労働者の後を引き継いだのが、日本人でした。日本人の場合、下層の労働者に留まらず、事業を起こす者、市場向け野菜栽培業者となった者もいましたが、後に、「1924年移民法」((Immigration Act of 1924)で排除の対象となりました。この時は、東アジア全体からの移民も禁じられています。

 使節団が訪米した頃、アメリカ経済はまだ好況でした。1868年から1873年の間に国内で総延長53,000 kmもの新線が敷設され、鉄道に対する投資は過熱していました。その後大不況に転じるとは、使節団一行の誰も想像しなかったに違いありません。
(2023/9/8 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑥:使節団はアメリカで何を見たのか(1)

■アメリカでの岩倉使節団

 明治5年1月21日(1872年2月29日)、使節団一行はワシントンに着きました。いよいよグラント大統領に会い、条約改正交渉の準備に入る時がやってきたのです。

 久米邦武編、水澤周訳注、『特命全権大使 米欧回覧実記Ⅰ』(慶應義塾大学出版会、2008年)に沿って、他の資料も踏まえながら、ご紹介していくことにしましょう。日付は西暦で表現することにします。

 アーリントン・ホテルに着いたところ、大統領夫人から花束が大使に送られていました。当時、雪が降っていたそうですが、夫人からの花束は、さぞかし一行の気持ちを暖かく、和ませてくれたことでしょう。

 1872年3月4日、12時からはグラント大統領との謁見に臨みました。大使、副使は衣冠、5人の書記官は直垂を着用し、全員、帯剣して、玄関からホワイトハウスに入りました。階段の両側に警護官が数十人、整列して立っている中を通り、使節団はまず、ブルー・ルームに通されました。

 ブルー・ルームは、ホワイトハウスの1階にあります。

 間取り図がありますので、ご紹介しましょう。入口を入ってすぐ正面にある楕円形の部屋で、ブルーで色付けされているところです。

こちら →
(※Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 この部屋は、ホワイトハウスを訪れる来客を、最初に通す部屋として使われているようです。

 1875年に描かれたブルー・ルームの鉛筆画があります。岩倉使節団が訪問した頃とほぼ同時期の作品です。

 一行は玄関を入ると、まず、ここに通されました。

こちら →
(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 天井が高く、荘厳な設えの部屋で、豪華なシャンデリアが印象に残ります。

 一方、グラント大統領とコルファックス副大統領、フィッシュ国務長官など閣僚たちは、イースト・ルームに入り、部屋の南側中央に着席しました。

 イースト・ルームは、先ほどの間取り図でいえば、エントランスを入ると、すぐ左手に見える大きな部屋です。

■大統領との謁見

 大統領との謁見場面については、岩波文庫版『特命全権大使 米欧回覧実記』(一)(1999年刊、初版:1977年)の田中彰氏の校注に詳細が記されています。当時の様子を詳しく知ることができますので、ちょっと長くなりますが、この校注を踏まえ、慶応義塾大学版『米欧回覧実記』(2008年)の水澤周氏の現代語に従って、ご紹介していくことにしましょう。

 アメリカ側がイースト・ルームに入るのを見計らったように、フィッシュ国務長官が森弁務使とともにブルー・ルームに来て、使節団に挨拶しました。挨拶が終わると、国務長官は自ら岩倉大使を案内して、イースト・ルームに招き入れました。続いて、副使以下も部屋に入り、大統領の右側に整列しました。

 全員が揃ったのを見届けると、フィッシュ国務長官は、岩倉具視大使を大統領に紹介しました。双方とも握手はせずに敬礼だけを交わしたそうです。続いて、岩倉大使は、大統領の左側に並ぶ文武諸長官たちに会釈してから、大統領に向かって口上書を読み上げました。

 岩倉大使が、天皇陛下の国書を大統領にお渡しできるのは光栄だと述べると、書記官が前に進んで、国書を大統領に渡し、受け取った大統領は、それをフィッシュ国務長官に渡します。

 大使が、欧米諸国の文明を学び、友好な外交関係を築き上げることを宣言すると、大統領もそれに応えて歓迎の意を表し、自ら、副大統領や諸長官を大使や副使らに紹介しました。岩倉大使も副使以下を大統領に紹介し、互いに礼を交わすと、双方、列を解いて、しばらく談話するといった具合に進行し、謁見の儀が終了しました。

 その後、大統領は、使節団一同をホワイト・ルームに招き、大統領夫人や各長官の夫人に引き合わせました。こうしてなごやかな会談を終えると、使節団一行はホワイトハウスを辞し、ホテルに戻りました。
(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年(初版1977年)、岩波書店、pp.385-386.)

 なんとも仰々しい初対面の挨拶ですが、これが正式の大統領との謁見スタイルなのでしょう。

 さて、謁見を終えた一行が次に通されたのが、「ホワイト・ルーム」でした(水澤周氏の校注)。ところが、ホワイト・ルームというものがホワイトハウスにはありません。

 そこで、田中彰氏の校注を確認すると、一行は「白堂」に招かれたと書かれています。この「白堂」というものがどこを指すのかわかりませんので、先ほどの案内図を見てみました。考えられるのは、左側にある「STATE DINING ROOM」です。

 「STATE DINING ROOM」は、イースト・ルームに近く、約140人は入れる食堂です。格式があり、料理を用意することもできますから、使節団一行と大統領と閣僚、それぞれの夫人たちが歓談するのにふさわしい部屋といえます。

 元々はオフィス・スペースでしたが、第5代大統領モンロー(James Monroe、1758 – 1831)の政権時(1817-1825)に大規模な家具が取り付けられ、「STATE DINING ROOM」として使われるようになりました。

 1874年に撮影された写真がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://www.whitehousehistory.org/white-house-tour/state-dining-room

 使節団が訪れたのが1872年、通された時の室内の様子はおそらく、このような状況だったのでしょう。なごやかに歓談するのにふさわしい設えになっています。

■条約改正に関する日米会談

 初対面の挨拶を交わした後、使節団一行は、1872年3月11日、国務省を訪れ、第1回外交会談を行いました。

 使節団側は、岩倉大使、副使ら5名の外、森少弁務使、塩田一等書記官、サンフランシスコ在勤のブルックス領事が出席しました。一方、アメリカ側は、フィッシュ(Hamilton Fish、1808 – 1893)国務長官、同次官チャールズ・ヘール(Charles Hale, 1831 – 1882)らが出席しています。

 森少弁務使の進行にしたがって、会談は進められ、折りを見て、条約改正問題を切り出しましたが、アメリカ側から、条約改正には国家元首の委任状が必要だと指摘されました。日本側が全権委任状を持っていなかったので、フィッシュ国務長官が、条約についての協議はできても、調印はできないと主張したのです。

 フィッシュ国務長官との会談記録が残っています。

こちら →
(※ 国立公文書館、Ref.A04017148800。図をクリックすると、拡大します)

 アメリカ側にしてみれば、委任状がなければ、使節団を日本の代表だと正式に認めることができません。当然の成り行きでしたが、外交に慣れない岩倉使節団にとっては思ってもみない展開でした。

 この日の会談の本題は、条約改正期限の延期要請と日本側に新条約調印の権限が付与されているかどうかの確認でした。両国間で質疑応答が繰り返されましたが、アメリカ側からは大した回答も得られないまま終わってしまいました。

 第1回の会談終了後、伊藤博文と森有礼は、予備交渉ではなく、本格的な条約改正交渉に移行すべきではないかと考え、岩倉らにそれを提言しました。この二人は英語がわかりますから、アメリカ側の反応に何らかの手ごたえを感じたのかもしれません。

 岩倉はその後、木戸、大久保、伊藤を集めて協議した結果、使節団は、今後、予備交渉ではなく、本格的な改正交渉に着手することに決定しました。それには委任状が必要なので、大久保と伊藤の両副使が帰国し、全権委任状を取得することになりました。

 二日後の3月13日、一行は再び、国務省に赴き、第2回の外交会談を行っています。会談内容は実記に記載されていませんが、おそらく、全権委任状を取得したうえで、本格的な条約改正交渉をしたい旨、アメリカ側に伝えたのでしょう。

 伊藤と大久保は、帰国する直前、これまでの会談の経緯を振り返り、岩倉や木戸と交渉の要点を議論しました。その結果、領事裁判権と関税自主権については、いくつかの条件を満たせば、今後の交渉次第で達成できる可能性があるという見解が共有されました。

 そして、3月20日の朝6時、大久保副使が、ニューヨーク経由で日本に向かい、翌21日の夜8時、伊藤副使がワシントンを発ちました。
(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/history/index.html
 
 こうして二人が日本に向かった後も、会談は進められました。

 実際に会談を重ねていくと、期待に反し、日米双方の溝は深まる一方でした。

■交渉決裂

 『米欧回覧実記』を見ると、一行は、7月14日に、伊藤と大久保がサンフランシスコに着いたという電報を受け取っています。そして、7月22日の朝6時、二人は全権委任状を携え、ワシントンに到着しました。

こちら →
(※ 国立公文書館、A00302104.図をクリックすると、拡大します)

 ようやく本格的な交渉をする準備ができたのです。

 実は、伊藤と大久保がワシントンを去っていた間にも、何度か協議の場がもたれていました。たとえば、7月10日、岩倉は、フィッシュ国務長官をガリソンの山荘に訪問し、数時間会談しています。これは条約改正問題に関する第9回会談でした。この時、岩倉に同行したのは、外務官僚の塩田三郎、通訳の福地源一郎でしたが、なんの成果もありません。

 交渉は次第に悪化し、楽観視できない状態になっていました。そのことを察知した岩倉は、いよいよ最終決断をすべき時期が来たと思いはじめていたようです。

 伊藤らが到着する直前に、岩倉と木戸の間で、新たな策が練られていました。それは、アメリカだけを相手にしていたのでは埒が明かないので、改正条約調印のための欧州合同会議を開催するという計画でした。そして、アメリカがこの案を拒否すれば、条約改正交渉を中止するという方針を決定していたのです。
(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/column/column3.html

 ワシントンに到着したばかりの伊藤と大久保は、これまでの交渉経緯を聞かされました。日本側の草案が受け入れられる可能性のほとんどないことを知って、伊藤と大久保も、すでに岩倉らが決定していた方針に従わざるをえませんでした。

 7月22日15時から、第11回会談が開催されましたが、案の定、日本側の提案はアメリカ側から拒否されました。そこで、かねてからの手はず通り、日本側から交渉の打ち切りを通告しました。

 ようやく全権委任状を用意できたというのに、条約改正交渉を中止せざるをえなかったのです。

 アメリカとの交渉が決裂してしまった以上、他国との条約改正交渉に臨めるはずもありませんでした。

 使節団一行は、結局、条約改正の予備交渉のため、ワシントンに約半年も滞在していましたが、それが無駄に終わったのです。

 もっとも、その間、一行は、国会をはじめ諸官庁、さらには、海軍兵学校、陸軍士官学校など、連邦政府管轄下の諸機関を視察しています。

 条約改正については成果が得られませんでしたが、ワシントンで、当時のアメリカを取り巻く国際情勢、国内情勢をつぶさに観察することができたのは、日本にとってきわめて有意義だったといっていいでしょう。

 使節団が訪れた当時、アメリカはまだ南北戦争の影が長く尾を引いており、その復興期にありました。戦争後に大統領に就任したグラントが、どのような政策を展開してきたかについても、一行は見届けることができていました。

 南北戦争(1861-65)は、34州で構成されていたアメリカ合衆国が、南部・11州と北部・23州とに分かれて戦った内戦です。その南北戦争の後、1868年に大統領選挙で勝利を収めたのが、共和党のユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant、1822 – 1885)で、元北軍の将軍でした。

 謁見式で、グラント大統領に会った久米は、次のように述べています。

 「グラント氏は日頃寡黙で、従容たる様子をしており、大樹将軍といった感じの人であるが、そのあっさりして風雅なこともこの通りである」(※ 前掲。p.349.)

 そのグラント大統領が、南北戦争の戦後処理では辣腕をふるっていました。

■グラント大統領とアラバマ請求

 久米は7月27日、ワシントンを去る時、次のような感想を述べています。

 「聞くところによると、南北戦争当時ヨーロッパ諸国は、外面では中立を約束しながらひそかに南部に肩入れして武器を売り与え、あるいはその分離独立を支持しようとし、あるいは辺境地域をそそのかして自ら占領しようと計画するなどさまざまな陰謀が行われた。イギリスからはアラバマ号が南部に救援艦として派遣され、北部の海軍がこれを沈めたことについてはついに英米両国の大議論となり、われわれ一行がワシントンに滞在中にも、両国が宣戦布告をしそうな勢いとなったけれども、各国が仲立ちをして、ワシントン出発までは事が起こらなかった」(※ 前掲。p.346.)

 グラント大統領は元北軍の将軍でした。それだけに、南軍に加担し、戦争中に何度も攪乱工作を仕掛けてきたイギリスには許せないものがあったのでしょう。グラントが大統領に就任すると、早々に、アメリカ政府はイギリスに、いわゆるアラバマ請求を行っています。

 なぜかといえば、南北戦争中に、イギリスは南軍に加担し、北軍商船への攻撃を繰り返していたからでした。南軍の通商襲撃部隊は、イギリスの造船所で建造された偽装巡洋艦アラバマ号を使って、北軍に大きな打撃を与えていたのです。

 アラバマ号は1864 年にフランス沖で沈没するまでに、60 以上もの打撃を大西洋上で、北軍の商船に与えていました。そのことに怒りをおぼえていたグラント大統領は1869年、それら一連の攻撃に対する損害賠償請求をイギリス行いました。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Alabama_Claims

 1861年に始まった南北戦争は当初、北軍が優勢でした。北軍(アメリカ合衆国)は人口が多く、工業化が進展し、中央集権化が進んでいました。寄せ集めの南軍(アメリカ連合国)よりもはるかに機能的な政体であり、戦争は、すぐにも終結に向かうと思われていました。

 ところが、南軍(アメリカ連合国)の偽造巡洋艦アラバマ号が、1862年8月から北軍の商船に対する破壊活動を繰り返すようになりました。アラバマ号が、北軍の輸送に多大な損害を与えた結果、南北戦争を長引かせることになってしまったのです。

 2年に亘って、アラバマ号を追跡していた北軍の軍艦キアサージ号は、1864年6月11日、アラバマ号が修理と補給のために、フランスのシェルブールに入港したのを見届けました。好機が訪れたとばかりに、北軍のキアサージ号は、その3日後、シェルブール港に入り、航路を封鎖しました。

 6月19日、公海上で2隻の軍艦は激しい砲撃戦を行い、1時間後にアラバマ号は沈没しました(※ Wikipedia キアサージ号とアラバマ号の海戦)。

 この戦いは当時、フランスやイギリスで大きく報道されました。人々の関心をかき集め、話題をさらっていたのです。

 フランス人画家のマネ(Édouard Manet, 1832- 1883)は、この戦いをテーマに作品を仕上げています。よほど創作意欲をかき立てられたのか、短期間のうちに完成させいます。英語の作品タイトルは、《The Battle of the Kearsarge and the Alabama》です。

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(油彩、カンヴァス、134×127㎝、1864年、フィラデルフィア美術館。図をクリックすると、拡大します)

 手前に乗員救助のためのヨット、画面上方の中央に、沈み始めたアラバマ号が描かれています。その背後に煙に隠れたキアサージがかろうじて見えます。沈んでいくアラバマ号に焦点が当てられており、とてもドラマティックな画面構成です。

 マネはこの戦闘を直接、目撃したわけではありませんが、新聞報道に刺激され、夢中になって、描き始めました。26日後には完成させて、パリの画廊で展示しています。その後、この作品は1872年のサロンでも展示されました。

 さて、このアラバマ号事件は、結局、英米両国が事件を国際仲裁裁判に付託することで合意しました。1871年5月8日に締結されたワシントン条約に基づいた措置でした。その結果、1872年9月14日、イギリスの中立義務違反とされ、1550万ドルの賠償額を決定する判決が下されました。
(※ Wikipedia 国際仲裁裁判、https://millercenter.org/president/ulysses-s-grant/key-events

 岩倉使節団一行がワシントンに滞在していた時は、まだ、この判決は出ていませんでした。ですから、久米が述べているように、当時、米英間にはいまにも戦争が勃発しかねない雰囲気が漂っていたのでしょう。

 戦争が終結したとはいえ、依然として、南北の対立は根強く、グラント大統領にもさまざまな再建策が求められました。

■グラント大統領の再建政策

 1865年4月9日、ヴァージニア州アポマトックスで北軍が南軍を包囲しました。南軍のリー将軍は、北軍のグラント将軍に降伏の交渉を求め、4年にもわたる南北戦争はようやく終結しました。

 それでも、議会ではまだ南北の対立が続き、人々の奴隷制度に関する見解の相違は解消されていませんでした。奴隷制度を争点に展開された南北戦争は、大きなしこりを双方に残したまま、戦後を迎えていたのです。

 戦争が終結した直後の1865年4月15日、南北戦争の発端となった第16代リンカーン大統領(Abraham Lincoln, 1809- 1865)は、南軍のシンパによって暗殺されました。

 その後、副大統領であったジョンソン(Andrew Johnson, 1808 – 1875)が第17代大統領となり、再建業務を引き継ぎました。以後、4年間、ジョンソン大統領が南北戦争の戦後処理を行いました。

 ところが、一連の再建政策は、南部に寛大な対応だとみられ、ジョンソン大統領は、共和党急進派のメンバーとは相いれませんでした。

 たとえば、黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部の指導者の政治的権利を復活させています。また、共和党内の多数派が黒人解放・奴隷制廃止の方向に動いていたのに、ジョンソンは奴隷制廃止を唱える連邦議会と対立していました。

 政権のレームダック化を免れることはできず、1869年3月4日、任期満了に伴い退任しています。

 一方、連邦議会はジョンソン政権末期から勢力を増大させており、1868年6月までに、旧南部連合諸州の大半を連邦に復活させています。再建された州の多くは、州知事や下院および上院議員の大半が北部出身の男性で占められました。その中には、新たに解放されたアフリカ系米国人と提携する人々も多く、ルイジアナ州とサウスカロライナ州の議会では、アフリカ系米国人が議席の過半数を占めていました。
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3481/

 このような政治状況の下、グラントは第18歳大統領になりました。

 着任早々、グラント大統領は、共和党急進派が提唱していた再建政策を実行しました。その一つが、鉄道建設を重視した開発政策です。これは、リンカーン大統領が行っていた政策でもありました。

 リンカーン大統領政権下の1862年、太平洋鉄道法が制定され、連邦政府の財政支援のもとで大陸横断鉄道の建設が推進されました。

 その3年前の1859年、アメリカ合衆国では、すでに東部の鉄道網がミズーリ川を越えてネブラスカ州オマハまで到達していました。西部開拓が進む中、西海岸までの延伸を求める声が高まっていました。そのためのロビー活動が積極的に展開されていたのです。

 リンカーン大統領は1862年7月1日、ミズーリ川から太平洋に至る鉄道の建設を求める太平洋鉄道法に署名しました。この法律は、プロジェクトの資金として国債を提供し、鉄道の走行距離の完了スケジュールを提出することが業者に義務付けられていました。

 国債の返済が必要であり、走行距離の完了という要件があったため、線路を建設する鉄道会社は迅速に作業しなければならず、政府にとってはリスクの少ないプロジェクトでした。
(※ https://millercenter.org/president/ulysses-s-grant/key-events

 当時は南北戦争のさ中で、南部と北部の分断が進んでいました。そんな中で進められた大陸横断鉄道の建設には、分断されつつあったアメリカ合衆国をなんとか統合し維持しようとする企図も込められていたようです。

 太平洋法を受けて1862年に法人化されたのがユニオン・パシフィック鉄道で、同年、議会で承認されたのが、セントラル・パシフィック鉄道でした。この二つの鉄道会社が敷設したレールが、グラント政権が誕生した後、ユタ州のプロモントリー・サミット(Promontory Summit)でつながりました。1969年5月10日のことでした。

 完成記念に、「ゴールデン・スパイク」が打ち込まれました。

こちら →
(※ Wikipedia。スタンフォード大学で保存され、展示されています。図をクリックすると、拡大します)

 大陸横断鉄道の完成を金の犬釘で行うというアイデアは、サンフランシスコの投資家デービッド・ヒューズ(David Hewes)が考えたものでした。この時の犬釘は、サンフランシスコのウィリアム・T・ガーラット・ファウンドリー(William T. Garratt Foundry)で製造され、その両側に鉄道会社の役員の名前が彫り込まれています。そして、犬釘が打ち込まれる最後の完成区間には、カリフォルニア月桂樹で作られた特別な枕木が使用されています(※ Wikipedia)。

 1869年5月10日の式典を前に、ユニオン・パシフィック鉄道の119号機関車とセントラル・パシフィックの60号機関車が引き出され、1本の枕木分の距離を置いて、二つの車両が正面から向き合うように設置されました。

 こうしてプロモントリー・サミットで、西から進むセントラル・パシフィック鉄道の路線と、東から進むユニオン・パシフィックの路線とが連結したのです。

 記念すべき式典には、政府や鉄道の関係者、工事を請け負った労働者たちが参加しました。

 当時の写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 完成を喜ぶ人々の声が聞こえてきそうな写真です。中央に、握手を交わしている二人の人物が写っています。左がセントラル・パシフィック鉄道のサミュエル・S・モンタギュー(Samuel S. Montague)氏で、右がユニオン・パシフィック鉄道のグレンビル・M・ダッジ(Grenville M. Dodge)氏です。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1869-Golden_Spike.jpg

 政権が誕生してまもなく、大陸横断鉄道が完成しました。グラント大統領にとって幸先がよく、政権運営にも弾みがついたことでしょう。戦後のグラント政権下で、鉄道に対する投資が盛んになったのも当然でした。

 政府による土地の払い下げと鉄道に対する補助金が大きな推進力となっていたのです。その結果、1868年から1873年の間に総延長33,000マイル (53,000 km) もの新線が敷設されました。

 すぐにはリターンが見込めない鉄道事業に多くの資本が投下され、リスクを伴いながらも、活況を呈していました。過剰な資本投下の結末がどうなるかはわからないまま、南北戦争後のアメリカ経済は、鉄道建設のおかげで好況でした。

 使節団は訪れる先々で歓迎されましたが、それは、『米欧回覧実記』校注者の水澤周氏が指摘するように、アメリカが南北戦争の後、一時的に経済が豊かになっており、気持ちの上で余裕があったからかもしれません。

 実は、岩倉使節団もこの鉄道を利用していました。

 1871年12月21日、横浜港を出発した一行は、24日間の船旅を経て、サンフランシスコに着きました。そして、サンフランシスコを発ったのが1872年1月31日、この時、彼らは鉄道を利用しているのです。

 久米はアメリカ合衆国総説の項で、次のように記しています。

 「鉄道の架設の状況はヨーロッパ諸国をはるかに超えている。1864、5年頃までの鉄道総延長は約6万1000キロメートルほどであったが、70年にはほとんど9万6000キロメートルに達した。これは世界中の鉄道総延長の半ばに相当する。中でも3年前に完成したオマハ・カリフォルニア間の鉄道は、その工事の雄大なことで世界を驚かせ、貿易の状況を一変させるに至った」(※ 前掲。p.46.)

 久米が、「その工事の雄大なことで世界を驚かせ」と書いているのが、1869年5月10日に開通した最初の大陸横断鉄道のことです。ネブラスカ州オマハとカリフォルニア州オークランドを結び、アメリカ経済の活性化にも大きく貢献しました。

 さまざまな問題を孕みながらも、この大陸横断鉄道の完成が、南北戦争によって分断されていたアメリカを再建し、西部開拓を含めたアメリカの再編に大きな影響を与えたことは確かでしょう。(2023/8/23 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑤:岩倉使節団の訪欧米とウィーン万博への初参加に何をみるか。

 前回みてきたように、明治新政府の喫緊の課題として、不平等条約改正協議のため、関係諸国との交渉をしなければなりませんでした。廃藩置県を断行すると、早々に、岩倉具視を全権大使として使節団を編成し、課題解決に向けて動き出したのです。

 一方、ほぼ同時期に、ウィーン万博への参加打診があり、明治政府は初めて参加することを決定しました。

 岩倉使節団の訪欧米も、ウィーン万博への初参加も、明治政府がはじめて現地に出向き、列強と渡り合う機会となります。

 そこで、今回は、使節団の参加メンバーから何が見えてくるか、ウィーン万博にへの初参加を明治政府は同見て居たのかを考えてみることにしたいと思います。

■岩倉使節団の編成

 1871年7月14日、明治政府は廃藩置県を断行しました。それまで300弱あった藩を廃止し、地方統治を明治政府管轄下の府と県に一元化したのです。

 さらに、7月29日には太政官制を発布し、太政官に正院(国家意思決定機関)・左院(議法機関)・右院(行政機関)の3院を設置して、その下に各省を置き、中央集権体制の基礎を固めました。

 着々と中央集権体制を整備していく中、喫緊に取り組まなければならない課題がまだ残っていました。一つは、不平等条約改正協議の期限延長を交渉すること、もう一つは、近代国家としての内実を整えること、等々です。1872年5月には条約改正協議の期限が切れることになっていたのです。

 これらの課題を解決するには、海外に使節を派遣して、関係諸国と交渉するとともに、現地を視察してくる必要がありました。

 そこで、結成されたのが、岩倉具視を特命全権大使とする遣欧米使節団です。

 全権大使が岩倉具視、副使に、参議の木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳が選ばれました。いずれも明治政府の要員です。

こちら →
(※ 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通、クリックすると図が拡大します)

 彼らの出身と職位は、岩倉が公家で右大臣、木戸が長州で参議、大久保が薩摩で大蔵卿、伊藤が長州で工部大輔、山口が肥前で外務少輔でした。維新を断行した勢力で構成されていることがわかります。

 この写真は1872年12月、サンフランシスコ到着直後に撮影されたものだそうです(※https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Iwakura_mission.jpg)。

 この時、岩倉が47歳、木戸孝允が39歳、山口尚芳が33歳、伊藤博文が31歳、大久保利通が42歳でした。彼らの表情には、新体制を背負って立つ気概が感じられます。

 岩倉具視は公家の正装をし、副使の4人はシルクハットを持ち、洋式の正装をしています。単なる視察ではなく、条約改正協議に関する交渉が主な目的でしたから、正装が必要だったのでしょう。山口と伊藤はブラックタイをしていますから、現地で調達したのかもしれません。ブラックタイは、19世紀英米のフォーマルなドレスコードです。

 彼らはその後、諸機関や諸施設を見学した後、22日にサンフランシスコを発っています。

 使節団の旅程を見ると、サンフランシスコには12月6日に着いています。歓迎会が相継いだそうですから、その間隙を縫って、記念写真を撮影したのでしょう。

■旅程と使節団メンバー

 一行は1871年11月12日に横浜港を発ち、まず、アメリカ、次いで、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、イタリアを訪問し、スエズ運河を経由し、マラッカ海峡を通過して香港、上海に立ち寄り、1873年9月13日に横浜港に着きました。なんと1年10カ月にも及ぶ長旅でした。

 出発時の使節団は、随行員を含め46名でした。それに、女性を含めた留学生が43名と随行員18名が加わり、総勢107名にも及びました。

 年齢構成は、40代8名、30代17名、20代17名、10代2名でした。20代、30代を中心に編成されていました。次代を担う若者層に期待し、中心メンバーに据えていることがわかります。

 使節団メンバーの出身を見ると、最も多いのが幕臣で13名、次いで肥前藩の8名、長州藩5名、土佐藩4名、公家3名、薩摩藩2名、後は、九つの府や県から1名ずつといった内訳です。興味深いことに、幕臣と肥前藩(佐賀藩)出身者が多いのです。

■なぜ、幕臣と肥前出身者が多いのか?

 使節団に、なぜ、幕臣と肥前藩出身者が多いのか、不思議に思ったのですが、その職務内容を見ると、外務を担当する者が多くみられたので、なんとなく納得しました。海外での業務遂行に支障をきたさないような人選が行われたのでしょう。それにはなんといっても語学力が不可欠です。

 たとえば、副使として参加していた山口尚芳は、肥前藩出身の外務少輔です。外務少輔とは、外国との交流や貿易、監督に関して外務卿を補佐し、必要に応じて、外務卿や外務大輔の代理を務める役職です。

 使節団の渡航の主な目的が、条約改正協議の予備交渉ですから、外務の専門家は不可欠です。外務少輔以外にも、外務少丞、外務少記、外務大録、外務大記などの職名がついたメンバーが参加していました。

 山口尚芳(1839-1894)は、幼い頃から優秀だったので、将来を期待されていたそうです。やがて、佐賀藩主・鍋島直正の命令で長崎に遊学するようになります。そこで、オランダ語や蘭学を学び、フルベッキが来日して、長崎英語伝習所で教えるようになると、英語を学び、藩に戻ってからは翻訳方練兵掛として勤務していました。

 山口尚芳はオランダ語と英語が堪能だったのです。

 これはほんの一例ですが、岩倉使節団に肥前藩出身者が多かったのは、外国語が堪能だったからだと考えられます。鎖国時代に唯一、海外に開かれていた長崎に近く、海外の文化や語学に触れる機会、学ぶ機会に恵まれていました。近代化への志向性も高く、使節団メンバーとしての適性があると判断されたのでしょう。

 一方、幕臣出身者は、外務要員もいますが、租税、検査、教育、兵学、造船など、国家を支えるさまざまな業務を担当していることが注目されます。明治新政府は、優秀なテクノクラートとして幕臣を高く評価していたことがわかります。新しい国家体制の中に組み込み、活用しようとしていたのです。

 46名の布陣をみると、岩倉使節団のメンバーは、それぞれの領域で、近代国家の構築に寄与できるような人材が選ばれていたことがわかります。優秀な若い人材を欧米で実地見学させ、現地でさまざまな経験を積ませたうえで、帰国後は、新国家建設のために能力を発揮してもらおうという算段です。

 ちなみに、使節団が帰国した後、『特命全権大使米欧回覧実記』を刊行したのは、肥前藩出身の久米邦武でした。出発時の肩書きは権少外史です。権少外史とは、太政官正院の書記官で、位階は正七位です(※ https://coin-walk.site/J069.htm#TOP、明治4年7月制定)。

 久米邦武(1839-1931)もまた、優秀な人材でした。肥前藩士久米邦郷の三男として佐賀城下で生まれ、藩校である弘道館で学んだ後、江戸の昌平坂学問所で学びました。弘道館での成績は首席を通し、藩主鍋島直大(1846-1921)に論語の御前講義を行っています。

 漢籍の素養は、『特命全権大使米欧回覧実記』の執筆に活かされました。簡潔で要を得た表現はいまなお評価が高く、貴重な史的資料として重視されています。

 こうしてみてくると、肥前藩がさまざまな人材を輩出していたことがわかります。

 鎖国していた江戸時代、長崎出島は唯一、海外に開かれた日本の窓口でした。肥前藩は、長崎出島に近いという点で、地理的優位性がありました。当然のことながら、藩主は、蘭学や洋学、オランダ語や英語の重要性をいち早く、認識していましたし、世界情勢にも通じていました。そして、藩内の近代化にも早くから取り組んでいました。

■幼い頃に留学

 岩倉使節団の副使であった山口尚芳は、まだ8歳だった子息の俊太郎(1863-1923)を従者として帯同し、尚芳が帰国した後も、俊太郎はそのままイギリスに留学させています。

 幼い頃に海外に出たせいか、俊太郎は語学の習得は早かったようで、次のように説明されています。

「回覧中、尚芳が大隈重信に書き送った書簡中にも、幼い俊太郎が時にはすでに自ら通訳をかって出るなど、その語学習熟の速さに驚嘆した様子が記されている。津田梅子など、幼くして使節団に同行した留学生は多くいたが、なかでも彼は、一行中で「神童」と称されるほどの怜悧さを持ち合わせていたという」
(※ https://www.city.takeo.lg.jp/rekisi/jinbutu/text/syuntarou.html)

 9年後に帰国しましたが、彼の英語はもはやイギリス人とまったく変わらないほどだったそうです。1887年に東京帝国大学工科を卒業した後、再び米国に留学し、鉄道運輸や土木工学などの研究を積み、帰国後は鉄道事業に貢献しました。

 先ほどいいましたが、岩倉使節団には女子留学生が5名、加わっていました。もっとも幼いのが津田梅子です。1864年12月31日生まれですから、出発時点ではまだ満6歳でした。山口俊太郎より2歳も年下だったのです。

こちら →
(※ Wikipedia。クリックすると図が拡大します)

 右から2番目、白い服を着た女の子が津田梅子(1864-1971)です。佐倉藩士として生まれ、幕臣であった津田家に婿入りした津田仙と初子夫妻の次女として生まれました。津田仙は、梅子が誕生した時、江戸幕府に出仕して外国奉行支配通弁(通訳官)を務めていましたが、梅子が3歳の頃、幕府派遣使節の随員として福沢諭吉らと渡米しています。

 幕末に幕府がアメリカに使節を派遣したと聞くと、違和感を覚えますが、1867年、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣しました。

 この時、随行団のメンバーとして加わったのが、通訳を担当する福澤諭吉や津田仙でした。

 1867年1月23日、幕府使節団は、郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港しました。このコロラド号は、オーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分だったようで、福沢諭吉は、「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と、「福翁自伝」に記しています(※ Wikipedia)。

 福沢諭吉は、幕府の命を受けて何度か欧米を訪れています。1859年には幕府海軍の軍艦「咸臨丸」に乗ってアメリカに行き、1861年には英軍艦「オーディン号」に乗ってヨーロッパに行きました。そして、1867年は軍艦ではなく、郵便船の「コロラド号」で渡米したのですが、その性能、装備、設備は素晴らしく、技術力の一切合切に驚嘆したというのです。

 福沢諭吉は早くから、これから学ぶべきは、もはやオランダ語ではなく、英語だと察知していました。欧米での現地経験、あるいは書物等を通して、そのような見解を得ていたのでしょう。津田仙は福沢諭吉から、米英が優勢だという認識を聞いていたのかもしれません。

 さて、1871年10月、開拓次官の黒田清隆が正院に伺い出て、開拓使による女子留学生のアメリカ派遣事業を実現させました。女子にも教育の機会を与えようという思いからでした。それを知った津田仙は、梅子を応募させました。実は、姉の琴子(1862-1911)を応募させようとしたのですが、拒否したので、断念していました。ところが、それを聞いた梅子はが自分から、アメリカに行きたい、といったので応募させ、留学が実現したのでした。

■帰国後の梅子の人生

 明治政府が募集した官費女子留学生は、留学期間が10年で、旅費・学費・生活費は全額政府が負担し、さらに奨学金として毎年800ドルを支給するという破格の条件でした。ところが、応募したのは、旧幕府側士族の少女5名だけでした。年齢は、14歳が2名、11歳、8歳、6歳がそれぞれ1名です(※ Wikipedia)。

 彼女たちはそれぞれ、大きな希望を抱いて渡航したはずですが、留学を終え、帰国しても何も職は用意されていませんでした。開拓使の黒田清隆が敢えて女子のために門戸を開いたというのに、帰国してみれば、奮闘して身につけた能力を活かす場はなかったのです。

 そもそも、官費女子留学生を所管していた開拓使は、1882年2月に廃止されており、梅子が帰国した際、その管轄は文部省に引き継がれていました。11年間の留学を終えて帰国しても、官職が用意されることはありませんでした。

 失意に暮れる梅子にも、1885年9月、転機が訪れます。岩倉使節団で一緒だった伊藤博文の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校の英語教師の職に就くこととなったのです。華族女学校教授補は、宮内省御用掛、奏任官に准じた扱いでした。そして、1886年11月には華族女学校教授となり、同校の女性教師のうち、高等官に列するのは学監と梅子だけでした。

 梅子は華族女学校で3年余り教えましたが、上流階級的気風には馴染めなかったようで、1889年7月、再び、アメリカに留学します。

 今度は、ブリンマー大学で生物学を専攻し、梅子は留学3年目の1891年から1892年の冬に、「蛙の発生」に関する顕著な研究成果を挙げています。研究成果は、指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士(1933年 ノーベル生理学・医学賞)により、博士と梅子の2名を共同執筆者とする論文「蛙の卵の定位」( “The Orientation of the Frog’s Egg”)にまとめられ、1894年にイギリスの学術雑誌 Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35.に掲載されました。梅子は、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性となったのです(※ Wikipedia)。

 自身の経験を踏まえ、女子教育の場の必要性を感じた梅子は、やがて学校の設立を構想するようになりました。アメリカからの資金援助もあり、1900年7月、東京府知事に設立申請を出して認可を受け、9月14日、「女子英学塾」を開校しました。

 女子英学塾は、華族と平民との区別のない女子教育を目指していました。それまでの良妻賢母をモットーとする女子教育とは違って、進歩的で自由でありながら、レベルの高い授業が評判となっていたようです。

 6歳でアメリカに渡った梅子が、留学生活11年を経て帰国後、さまざまな経験をして、再び、渡米し研鑽した後、創り上げた理想の英語塾であり、自由な精神を育む学びの場でした。

 やがて梅子は亡くなりますが、その死から4年が過ぎた1933年、梅子を記念して校名が「津田英学塾」に改められました。その後、戦後の学制改革を経て「津田塾大学」となり、梅子の女子教育への思いは、今に至るまで継承されています。

 こうしてみてくると、岩倉使節団は、参加メンバーの活動を通して、日本に少しずつ、変化をもたらしてくれていることがわかります。津田梅子が行ったのは、女性に対する自由平等な英語教育の機会の提供でした。

■列強と渡り合うための武器

 興味深いことに、激動の時代を経験し、欧米との間に、技術的、文化的、制度的な落差があることを感じた人々は、教育を重視し、塾あるいは学校の設立に向かっています。

 たとえば、福沢諭吉(1835-1901)は1858年に開設した蘭学塾を、1868年に慶応義塾をと名付け、以後、教育活動に専念しました。そして、大隈重信(1838-1922)は1882年、政治学と経済学の融合を志向した政治経済学の構築を目指し、東京専門学校を設立しています。

 福沢諭吉は漢籍を学んだ後、長崎に遊学してオランダ通辞からオランダ語を学び、次に江戸に赴き、幕府の通辞から英語を学んでいます。ほとんど独学に近い形でオランダ語と英語を学んでいるのです。

 一方、肥前藩出身の大隈重信は藩校で漢籍を学び、アメリカ人宣教師チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams、1829 – 1910)の私塾で英語を学び、後に、致遠館で教えていたオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck、1830 – 1898)から英語を学んでいます。

 彼らは、外国語を習得したからこそ広がった視野の中で、日本の将来を考え、日本の運営を考えてきました。学び方の違いはあっても、それぞれ、実際に英語を駆使し、教育や情報収集、海外との交渉に役立てています。

 福沢は、1868年に蘭学塾を慶応義塾として以来、官職に就かず、教育活動に専念しました。欧米の書物を翻訳して新しい技術や文化、思想の紹介をしています。さらには、アジアや世界の中の日本の位置づけについての自身の見解を綴って、激動期の指針となるようなメッセージを発信しています。

 他方、大隈は、浦上四番崩れ(隠れキリシタンの弾圧事件)について、各国政府との交渉が行われていた1868年、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させました。これを契機に、大隈は政府内で頭角を現すことになりましたが、この交渉の成功は、ウィリアムズとフルベッキから学んだ英学とキリスト教の知識の恩恵であったとされています(※ Wikipedia)。

 大隈は、各国との難しい交渉の場で、英語を駆使して、問題を解決していたのです。英語力ばかりではなく、キリスト教文化あるいは、欧米の社会についての知識があったからこそ、それらの問題を解決に導くことができたのでしょう。その後、海外との交渉で、大隈は不可欠の存在となりました。

 福沢は、海外の情報や文化を翻訳し、紹介して、当時の日本人の眼を見開かせました。さらに、激動下の日本認識について広い視野から見解を述べることによって、当時の日本人を啓蒙していました。それに対し、大隈は、実際に外国要人との交渉の場で、その力量を発揮しました。

 いずれも当時の日本社会に大きく寄与しています。改めて、列強と渡り合うための武器とは何かということを考えさせられます。意思疎通のための語学の重要性ばかりではなく、背景理解のための、社会や文化についての知識や洞察の重要性が認識されます。

 ちょうどその頃、肥前出身の佐野常民は、博覧会事務局副総裁として、どうすべきか模索していました。ウィーン万博に出品するにあたって、何をすれば、日本のためになるのか、考えていました。

■ウィーン万国博覧会

 ウィーン万国博覧会は、1873年5月1日から11月1日にかけてオーストリア・ウィーンのプラータ公園で開催されました。

こちら →
(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1873.html、クリックすると図が拡大します)

 上記の図は、博覧会場本館の表門です。

 日本のパビリオンは中国の隣で、メインパビリオンのほぼ東端にありました。この主会場以外に、機械、農業、美術など個別の展示館が建設されていました。

 ウィーン万博は明治政府がはじめて公式に出品した博覧会でした。30カ国が参加し、参加者は725万人でした。7万点以上が出品されましたが、イギリス、フランス、アメリカからは革新的な発明品、作品、製品が出品されておらず、目新しさに欠けたそうです。

 一方、インドや中国、日本からは、珍しくて優れた工芸品が出品されており、参加者の評判がよかったそうです。特に日本については、初めての参加だったせいか、ジャポニスムが巻き起こったといわれています(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1873.html)

 明治政府はウィーン万博初参加のために、入念に準備していたようです。

 博覧会事務局副総裁の佐野常民は、ウィーン万博に参加するにあたって、目的を5項目定め、1872年6月に明治政府に提出しています。開催の約1年前のことです。

 5項目いずれも興味深いので、ちょっと長いのですが、引用しておきましょう。

①日本国内で生産される上質な物産と製品を収集・展示し、日本国が豊穣な国土を持ち、優秀な製品を生産できるということを海外諸国に対してアピールする。

②海外各国の展示品と最先端の技術を詳細に調査し、その技術を学び、日本へ持ち帰ることによって日本の技術水準を高める。

③国内の物産を収集することにより、学芸の進歩のために不可欠である博物館の建設を計画する。

④日本国内の上質な物産と製品が海外諸国の耳目を集め、輸出産業の充実につながるようにする。

⑤海外諸国の出展品の原価と販売価格を調査することにより、海外諸国が求めている品々を把握し、貿易の際の基礎資料とする。
(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1873-4.html)

 言い換えれば、①製品や作品を通して日本を世界にアピールする、②海外の製品と最先端技術を把握し、日本製品に取り入れる、③国内の製品や作品を展示できる博物館を作り、製品や作品の進展につなげる、④日本の良質な製品を世界に広く知ってもらい、輸出振興につなげる、⑤海外の出品製品の原価と販売価格を調べ、海外が何を求めているかを把握し、対応できるようにする、等々。

 万博を商品の展示場とみなし、海外の市場調査をし、日本製品の強みは何かを把握しようとしていたことがわかります。

 実際、ウィーン万博についてはかなり入念に準備していたようです。

こちら → https://www.atpress.ne.jp/releases/168733/att_168733_1.pdf

 この中には、実際に出品された製品や作品が載せられています。

 有田焼の大きな花瓶や人形、金属製の灯篭、装飾メアシャムパイプなど、精緻な細工の工芸品が多数、出品されていました。このような工芸品なら、現地の人々を惹きつけ、日本ブームが起こるのも当然だと思わせられます。

 1873年ウィーン万博に出品されたという磁器の絵皿を見つけました。染付花籠文の絵柄が印象的です。

こちら →
(※ Wikimedia、クリックすると図が拡大します)

 花と花瓶がとても繊細なタッチで描かれています。青の濃淡だけでモチーフがきめ細かく表現されているせいか、花びらや葉、茎、それぞれ固有の色彩を感じさせられます。落ち着いた上品な設えの中に、活き活きとした華やぎがあります。

■岩倉使節団の訪欧米とウィーン万博への初参加に何をみるか。

 岩倉使節団一行は、ウィーン万博会期中の1873年6月3日にウィーンに到着し、5日に岩倉、伊藤、山口が会場を訪れています。以後、4日間にわたって博覧会を見学し、6月18日に、一行はウィーンを発っています。

 会場の賑わいを肌で感じたことでしょうし、日本の工芸品や製品が人気を博していることも見かけたことでしょう。言葉が違えば、風俗習慣も違う異国の地で、日本の工芸品や製品が話題を集めていることに発奮したに違いありません。

 不平等条約改正協議のための事前交渉のための訪欧米でしたが、実際に交渉はうまくいきませんでした。ただ、各地の状況を視察することができ、世界がどのような方向で動いているのかがわかったことは大きな収穫だったでしょう。

 とくに、万博は商品の展示場でもあり、次元を別にした各国の争いの場でもあることを察知したかもしれません。

 列強が日本に開国を迫り、仕方なく、日本は社会変革を起こし、列強に対抗できる国家へと変貌しつつありました。岩倉使節団のメンバー、あるいはウィーン万博関係者が行っていることは近代化への一環でした。彼らは欧米各地で、いったい何を見たのでしょうか。翻って、これまでの日本をどう見たのでしょうか。
(2023/7/31 香取淳子)
 

岩倉具視幽棲旧宅④:列強の圧力、そして、胎動する留学への動き

 安政五カ国条約の締結以降、開港を求める列強の強硬な態度、あるいは、上陸した水兵たちとのトラブルをきっかけに、さまざまな事件が起こりました。言葉がわからず、制度もわからない中で発生した、異文化接触に伴う事件でした。

■兵庫開港要求事件

 安政5年(1858年)、強引に開国を迫る列強に押し切られるように、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとそれぞれ、修好通商条約を締結しました。まとめて安政五カ国条約といわれるものですが、いずれも将来に禍根を残す不平等条約でした。

 中でも、喫緊の課題は、兵庫港などの開港が1863年に予定されていたことでした。孝明天皇をはじめ、京都に近い兵庫港の開港に反対する勢力が強く、その年の実現は困難だったのです。

 そこで、幕府は文久元年(1862)、開港延期交渉のため、ヨーロッパに使節団を送りました。正使は竹内保徳、副使は松平康直、総勢36名に通訳2名の使節団でした。使節団は、イギリスでロンドン覚書を交換し、兵庫開港は5年間延長して1868年1月1日とすることで合意を得ました。

 ところが、慶応元年9月(1865年11月)、開港を待ちきれずにイギリス、フランス、オランダの連合艦隊が、いきなり、兵庫沖に侵入してきました。兵庫開港要求事件といわれるものです。

 そもそも、イギリス公使のパークスらは、勅許を得ないまま締結された安政五カ国条約に、不安を覚えていました。そこで、兵庫の早期開港と天皇の勅許を求め、幕府に圧力をかけたのです。

 イギリス4隻、フランス3隻、オランダ1隻の合計8隻からなる艦隊が、横浜を出港し、1865年11月4日に兵庫港に到着しました。パークスをはじめ、フランス、オランダの公使、アメリカの代理公使を乗せており、政治的圧力をかけてきたのは明らかでした。

 パークスらに追い立てられるように、幕府は、朝廷との交渉を進めました。ところが、孝明天皇は、安政五カ国条約については勅許しましたが、兵庫開港については依然として勅許せず、ロンドン覚書での合意を変更することはありませんでした。

 1868年1月1日、念願の兵庫港が開港しました。各国の艦隊が停泊しているのがわかります。イラストレイテッド・ロンドンニューズには、次のような、神戸開港を伝える銅版画が掲載されています。


(※ 神戸市立博物館。図をクリックすると、拡大します)
 
 上図の左下の白い部分が、外国人居留地です。神戸港の開港とともに、建設されました。ヨーロッパの都市計画技術に基づいて居留地を設計したのは、イギリス人土木技師ジョン・ウィリアム・ハート(John William Hart、1836 – 1900)でした。

 敷地は整然と整備され、格子状の街路、街路樹、公園、街灯、下水道などが設置されました。美しく調和のとれた街並みです。

 ジョン・ウィリアム・ハート(John William Hart、1836 – 1900)が、1878年に描いた絵が残されています。


(※ 神戸市立博物館。図をクリックすると、拡大します)

 外国人居留地は、各国領事、兵庫県知事、登録外国人から選ばれた3名以内のメンバーによる「居留地会議」という組織によって運営されていました。道路、下水、街灯などを管理するほか、警察隊を組織し、居留地内の犯罪を取り締まっていました。警察隊が捕らえた犯罪者は、各国の領事に引き渡され、各国の法律によって裁かれました。
(※ https://www.kobe-kyoryuchi.com/history/)

 安政五カ国条約によって、治外法権が認められていたからでした。日本で外国人が関与した事件が発生しても、日本の警察は裁くことができないのです。

 兵庫開港の直後に神戸事件、続いて、堺事件が起きました。いずれも外国人が日本に居留するようになったからこそ、起きた事件でした。

■神戸事件と堺事件

 1868年2月4日、備前藩の隊列が神戸の三宮神社近くにさしかかった時、付近の建物から出てきたフランス水兵2人が、行列を横切ろうとしました。これは、当時の日本人にとっては、大変、無礼な行動でした。

 日本側から見ると、この時のフランス水兵の行為は、非常に無礼な行為に当たります。

 隊長が制止しようとしましたが、言葉が通じず、水兵たちが強引に横切ろうとしたので、終には、切り付け、軽傷を負わせてしまいました。

 彼らはいったん、民家に逃げ込んだ後、今度は拳銃を取り出し、挑んできました。それを見た備前藩の兵士が発砲し、銃撃戦に発展してしまったというのが、この事件の経緯です。弾が撃たれたとはいえ、ほとんど当たっておらず、負傷者は2名ほどだったそうです(※ Wikipedia)。

 実際は小競り合い程度に過ぎなかったのですが、たまたま、隣の居留予定地を実況見分していた欧米諸国公使たちを巻き込むことになりました。発砲音を聞きつけたイギリスのパークス公使は激怒し、各国艦船に緊急事態を宣言し、その日のうちに、居留地の防衛を名目に、神戸中心地は占拠されてしまいました。

 諸国公使は、在留外国人の身の安全と事件の日本側責任者の厳重処罰を、明治政府に要求し、明治政府もそれに応諾せざるをえませんでした。

 この事件に遭遇したのは、備前藩でした。

 明治政府に命じられ、摂津西宮の警備に赴く途中の出来事でした。当時の武士のルールでは、行列を横切ることは非常に無礼なことで、切り付けられるのも当然だったのです。ところが、列強の憤りを買った結果、外交官列席の下で、フランス水兵に切り付け、軽傷を負わせた兵士が切腹させられた上、上司は謹慎処分にされました。

 列強と日本との力の差をまざまざと見せつけられる事件でした。

 外国人が日本で違法に近い行為をしても、罰せられるのは日本人という理不尽な悲哀を、当時の日本人は味わったのです。

 時を経ず、似たような事件が起きました。堺事件です。

 1868年3月8日、フランス水兵が上陸して狼藉を働いたと苦情を受けた土佐藩の警備隊長が、これらのフランス兵を帰艦させようとしました。ところが、言葉が通じず、帰艦しようとしないので、土佐藩の兵士が水兵を捉えようとしたところ、水兵は土佐藩の隊旗を奪って逃げようとしました。

 大切な隊旗が奪われたので、土佐藩の兵士は激怒し、とっさに発砲しました。これが契機となって、銃撃戦となり、フランス水兵11名が死亡しました。

 フランス人イラストレーター、ゴッドフリー・デュランド(Godefroy Durand, 1832 – 1896)が、この事件の様子を描いています。


(※ Wikimedia, Le Monde Illustré, 8 March 1868, 図をクリックすると、拡大します)

 今回もまた、日本側は煮え湯を飲まされるような処置を迫られました。

 明治政府は、賠償金15万ドルを支払ったうえに、土佐藩の指揮官および隊士20名の死刑を要求され、やむなく、呑まざるをえなかったのです。

 列強と当時の日本との国力の差は大きく、日本国内で狼藉を働いた外国人に対し、当然の処置をしただけなのに、処置した日本人が、逆に、極刑を強いられるという結果を免れることができなかったのです。

 どれほど無念の思いをしたことでしょう。

 このような理不尽なことをなくすには、まず、列強と並ぶ近代国家に変わって、不平等条約を解消する必要がありました。近代国家とみなされないからこそ、欧米は自分たちが優位な立場にいると思い、勝手なことをするのです。

 勝手なことをさせないためには、なによりも、欧米の技術や知識、学問を学び、彼らと同等だということを見せつける必要がありました。開国したからには、欧米と対等の技術、学術、制度や文化を持ち、対等にコミュニケーションできなければなりませんでした。

 おそらく、幕府の一部はそれに気づいていたのでしょう。

 1862年、初めての留学生が幕府から派遣され、オランダに出向いています。

■幕府が、留学生をはじめて派遣

 実は、幕府は西洋の学術や技術を導入するため、すでに、欧米に留学生を派遣する計画を立てていました。当初、軍艦の注文と留学生の派遣先として、アメリカを想定し、準備していましたが、南北戦争(1861-1865)が激化したため、1862年1月、アメリカが軍艦の製造を断ってきました。

 そこで、幕府は急遽、発注先をオランダに変え、軍艦の発注と留学生派遣を交渉し、早々に決定しています。

 1862年4月11日、幕府から命を受けたメンバーは、軍艦操練所から、榎本武揚(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、蕃書調所から、津田真道(真一郎)、西周(周助)、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一行に加わりました。
(※ https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_6.html)

 1865年にオランダで撮影された彼らの写真があります。


(※ 津田真道関係文書47-3、国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 後列左から、伊東玄伯(医学)、林研海(医学)、榎本武揚(海軍機関学)、(布施鉉吉郎)、津田真道(法律経済)、そして、前列左から、沢太郎左衛門(砲術)、(肥田浜五郎)、赤松則良(造船学)、西周(法律経済)です。

 なお、内田正雄(海軍諸技術)と田口俊平(海軍測量術)はこの時、欠席しており、この写真に写っていません。また、写真に写っている後列の(布施鉉吉郎)と前列の(肥田浜五郎)は留学生ではありません。

 派遣された留学生は、軍艦操練所から5人、蕃書調所から2人、長崎養生所で医学を学ぶ2人の計9人、そして、船舶運用、造船製図、製鉄鋳物、測量機械、鍛冶術などの職方6名でした。

 メンバーの大部分を占めるのが、軍艦操練所からの5人と職方の6名です。

 軍艦の発注と抱き合わせの留学なので、当然と言えば当然ですが、幕府には、オランダに依頼した軍艦が竣工するまでの間、彼らにその立ち合いと監督を兼ねて、現地で先進的な造船学や航海術を学ばせたいという意図がありました。

 興味深いのは、その中に、西や津田らの洋学者、伊東や林らの医学生が加わっていたことでした。

 開明派の幕吏や蕃書調所からの強い要望があったからなのでしょうが、軍事技術以外の社会科学、人文学、医学など、近代化に必要な人材がメンバーに加えられていたことの意義は大きいといわざるをえません。

 たとえば、津田真道は帰国後、日本初の西洋法学を紹介しています。そして、明治維新後は、新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画し、司法領域で大きな貢献をしています。

 また、西周は帰国後、徳川慶喜の側近として活動し、維新後は、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任し、『万国公法』を訳刊しています。1870年10月22日には乞われて明治政府に出仕し、以後、兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任しました。軍人勅諭・軍人訓戒などの起草に関与し、軍政の整備とその精神の確立などに努めています。

 幕府が派遣した最初の留学生たちは、欧米と並ぶ近代化を目指して、軍事と法を整備するだけでなく、近代医学を学び、医療の改善を図りました。その一方で、日本に西欧の技術や学術を持ち込んだのです。

 軍艦を発注しようとした際、幕府は留学生の派遣までは考えていませんでした。

 軍艦の製造を依頼するなら、ついでに留学生も派遣してはどうかと提案したのは、アメリカ人駐日公使のタウンゼント・ハリスでした。

■タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)

 アメリカの初代駐日公使タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)は、1856年に初代駐日総領事として来日した頃から、日本人や日本の日常生活を高く評価していました。

 『日本滞在日記』(1856年)には、日本人について、「喜望峰以東の最も優れた民族」と書かれており、好意的に捉えていることがわかります。下田の町についても、「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」と書き残しています(※ Wikipedia)。

 ハリスは、1858年に日米修好通商条約が締結されると、初代駐日公使となりました。

 江戸幕府は当初、軍艦の製造をアメリカに依頼していました。その際、ハリスは幕府に、ただ軍艦を発注するだけではなく、人材をアメリカに派遣し、軍事技術や理論なども学んできてはどうかと薦めたのです。

 彼は、日本人の能力を高く評価しており、「私は、蒸気機関の利用によって世界の情勢が一変したことを語った。日本は鎖国政策を放棄せねばならなくなるだろう。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえすれば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう。」(※ Wikipedia、前掲)と語っています。

 日本人に軍艦の製造現場を見せ、技術や理論を学ばせれば、たちまち、欧米列強に並ぶ国になるとハリスは思っていたのでしょう。

 この時、オランダに派遣された留学生は、田口良直(45歳)を除き、20代から30代の若者ばかりでした。意欲のある有能な若者が、列強に対抗できる技術や知識を身につけるために渡欧したのです。

 そして、帰国すると、期待どおりの成果をあげています。

 さて、列強の到来で国家存亡の危機を感じたのは、なにも、幕府だけではありませんでした。列強のアジア侵略を知る機会のあった藩士たちもまた、大きな危機感を覚えていました。

 たとえば、長州藩の吉田松陰(1830- 1859)、下総佐倉藩の西村茂樹(1828-1902)、そして、松代藩士の佐久間象山(1811-1864)などです。

 蘭学者の西村茂樹は1851年、佐久間象山に師事し、砲術修業をしています。ペリーが来航すると、西洋の砲術を修業しようとオランダ留学を思いつきます。藩老に相談すると、強く諫められたので、諦めたようです。

 同じようなことを考え、実行に移したのが、吉田松陰でした。松陰は佐久間象山の弟子でもありました。ペリー来航時に停泊中の軍艦に乗り込み、アメリカに密航しようとしたのも象山の考えに従ったからでした。

 それでは、吉田松陰について、振り返っておくことにしましょう。

■吉田松陰幽囚旧宅

 吉田松陰は長州藩士で、5歳の時、叔父吉田賢良の養子となりました。養父は山鹿流軍事師範を世襲している中級武士でした。19歳で山鹿流軍学の師範を継承しましたが、すでに時代遅れだと認識していました。1850年には長崎留学、1851年には江戸遊学と見聞を広めていくにつれ、その思いはますます強くなっていきました。

 1851年に江戸に留学した際、佐久間象山の木挽町にあった「五月塾」で砲術や兵学を学んでいたと思われます。

 アジア情勢、世界情勢を知った松陰は、1853年に黒船が来航すると、危機感を強めていきます。

 ところが、開国を迫る外国勢に対し、幕府は的確に対応できず、松陰は失望せざるをえませんでした。是非とも、自身の眼で海外情勢を知る必要があると思い、ペリー来航を絶好のチャンスだと思い、密航を企てたのです。

 実際、1854年にペリーが下田沖に再訪した際、松陰は小舟を漕いで黒船に乗り込みました。ところが、すぐさま捉えられ、幕府に送り返されて、幽閉処分になってしまったのです。

 松陰が幽閉された旧宅は、萩市にある松陰神社の境内にあります。木造瓦葺きの平屋建て214㎡の建物で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室のほか、板間・物置・土間などがある大きな建物でした。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 数年前にここを訪れたことがあります。静かな佇まいの中に、思索を醸成する豊かな時間の流れを感じさせられたことを思い出します。

 吉田松陰が幽閉されていたのは、東側にある3畳半の一室です。幽囚室と呼ばれていました。この幽閉部屋はもともと、四畳半でしたが、神棚を設けたため、狭くなったそうです。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 幽囚の間、松陰はここで、読書と著述に専念していましたが、やがて、近親者や近隣の子弟たちに、孟子や武教全書を講じるようになり、1856年9月20日には、禁固中でありながら、「武教全書」の講義を開始しています。

 そして1857年、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾しました。

■松下村塾

 そもそも松下村塾は、松陰の叔父である玉木文之進が、自宅で私塾を開いたのが始まりです。当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから、「松下村塾」という名がつけられました。

 後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、子弟の教育にあたりました。そして1857年に、28歳の松陰がこれを継いで、主宰することになりました。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎です。当初からあった8畳の一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っています。(※ 萩市観光公式サイト)。

 入口に掲げられた、流れるような書体で書かれた「松下村塾」の大きな看板が印象的です。

 松陰は、「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」と『松下村塾記』に記しています。村名を冠した塾名に誇りと責任を感じ、志ある人材を育てようとしていました。

 長州藩の藩校である明倫館は、武士階級の者しか入れず、それも足軽・中間などの軽輩は除外されていました。

 ところが、松下村塾では、それとは対照的に、身分の分け隔てなく、塾生を受け入れていました。それを、藩校明倫館の塾頭を務めたことのある吉田松陰が引き継いだのです。

 松陰は、身分や階級にとらわれず、有志を塾生として受け入れました。わずか1年余りの期間でしたが、多くの逸材に魂を吹き込み、育て上げることができました。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山田顕義、品川弥二郎など、歴史に残る逸材がここから育っています。ちなみに、山縣有朋、桂小五郎は、松陰が明倫館で教えていた頃の弟子で、松下村塾には入塾していません。

 こうしてみてくると、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多く人材を、吉田松陰が育ててきたことがわかります。

 松陰の教授方法は、実にユニークでした。

 一方的に師匠が弟子に教えるスタイルではなく、松陰が弟子と意見を交わし、議論しながら、問題点を探り、考えを深めていく熟議方法を採っていたのです。まさに、民主主義の基本的な性格をもつ教授スタイルでした。

 さらに、書物から学ぶだけでなく、実践を重視していました。もちろん、登山や水泳なども行っており、心身ともに鍛錬しようとしていたことがわかります。

 教育者だったからでしょうか、吉田松陰は多くの書物や書、箴言を残しています。

 たとえば、安政の大獄で収監される直前の1859年4月7日、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中に、松陰は次のような言葉を残しています。

 「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし」

 「幕府も諸侯ももはや酔っ払い同然の用なしだ。在野の人々が立ち上がるのを期待するしかない」と綴り、当時の為政者への絶望感を示す一方、在野の志のある人にわずかな期待をつないでいることがわかります。

 そして、「志士は溝壑に在るを忘れず」という言葉も残しています。「志ある人は、貧困の中、野垂れ死にすることも恐れず、志を貫くことを忘れるな」といっているのでしょう。
(※ 以上、松陰の文言部分はWikipediaより)

 松陰が残した言葉は、どれも、心に響きます。列強が押し寄せてきた激動の時代に、日本を失わないためにどうすればいいか、さまざまに模索していました。それが、残された文言の一つ一つに反映されています。

 やがて、松陰は命を顧みずに立ち上がり、そして、果てていったのです。

■『留魂録』と「夷の術を以て夷を防ぐ」

 松陰が処刑される前に書き残した『留魂録』という書があります。松下村塾の門弟のために著した遺書ともいえるものです。松下村塾門下生の間で、まわし読みされ、志士達の行動力の源泉となったといわれています。

こちら → http://www.yoshida-shoin.com/message/ryukonroku.pdf
(※ 国会図書館 デジタルコレクション)

 冒頭に書かれているのが、次の文言です。

 「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」

 松陰は『留魂録』を、処刑直前に書き上げました。江戸伝馬町の処刑場に行く前に、同じ牢屋で過ごした人達への別れの挨拶として、この辞世の句を高らかに吟誦したそうです(※ 泉賢司、「松陰精神を活かせ」、『國士館大学武徳紀要』第32号、2016年3月、p.11.)。

 松陰は、当時の志ある若者たちの気持ちをどれほど惹きつけたことでしょう。

 吉田松陰が非業の死を遂げてからも、長州藩では、「夷の術を以て夷を防ぐ」という考えが多くの若者たちに引き継がれました(犬塚孝明、「長州藩、イギリス留学生」、『世界を見た幕末維新の英雄たち』別冊歴史読本、64号、第32巻12号、p.120.、2007年3月22日、新人物往来社)。

 ところが、この「夷の術を以て夷を防ぐ」という考えは、吉田松陰自身の考えではなく、松陰の師であった佐久間象山の考えでした。さらに、調べてみると、象山のオリジナルな考えではなく、中国清代の思想家である魏源(1794 – 1857)の『聖武記』を踏まえ、象山がアレンジしたものでした。

 アヘン戦争の敗北に衝撃を受けて書かれたのが、『聖武記』です。この書の中で、魏源は、「夷を以て夷を攻む上策権奇と為す」(※ 新村容子、「佐久間象山と魏源」、『文化共生学研究』第6号、2008年3月、p.73.)と書いています。イギリスと戦うには、西洋の戦艦や武器を配備し、戦うのが妙策だと説いているのです。

 それをアレンジした考えが、佐久間象山が唱える「夷の術を以て夷を防ぐ」という策でした。

 松代藩士で、兵学者であり朱子学者でもあった佐久間象山(1811-1864)は、魏源の『聖武記』を読み、それを解釈して伝え、吉田松陰に大きな影響を与えていました。

 象山は、西洋列強の侵略を防ぎ、文明諸国と同レベルの国になるには、「夷の術を以て夷を防ぐ」しかないと考えていました。有為の人材を欧米に派遣し、現状を視察するとともに、陸海軍事技術、海防、築城の技術を直接、習得させる必要があると考え、その就業期間は3年と見込んでいました。

 この考えは、佐久間象山から、吉田松陰を経て、長州の藩士たちに受け継がれました。

■長州ファイブ
 
 長州藩の藩士、井上聞多は1863年、海軍学の習得を目指し、イギリスへの密航を企てました。同志2人を誘い、藩の上層部に申し出たのです。アジアの情勢、世界の情勢を知っている桂小五郎らが奔走したところ、藩から内命が下りました。

 4月18日、渡された論告書には、次のように書かれていました。

 「海外に渡り学業に励みたいとのこと、鎖国の現時勢では許可し難いが、外国といったん戦いを交えてしまえば、外国のすぐれた技術を学ぶことも難しくなる。そこで三人には五年間、「御暇」を下されるから、その間に「宿志」を遂げ、帰藩後は「海軍一途」をもって奉公するように努力せよ」(※ 犬塚孝明、前掲、p.120.)

 当時、密航すれば、死罪でした。長州藩としては、公然とは申し渡しができません。そこで、藩主毛利敬親は、論告という形で、三人の海外渡航を黙許したのです。

 海軍力の強化と西洋事情の研究が、喫緊の課題になっていたからにほかなりません。三人の渡航を知った伊藤博文と遠藤謹助も参加を申し出て、認められました。

 黙許とはいえ、藩主から渡欧を認めてもらうことができ、ほっとしたのもつかの間、次に彼らは、巨額の渡航費用の捻出に悩まなければなりませんでした。1年間の滞在費を含めると一人1000両は必要と聞かされたのです。

 藩主の手許金から支給された額では足りず、藩が銃砲購入資金として確保していた準備金から5000両を借り、ようやく資金の目途がつきました。

 渡航からロンドンでの生活の手配等については、駐日イギリスや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)、長崎のグラバー商会らの協力を得て行われました。そして、イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の甥にあたるヒュー・マセソンが世話役として対応してくれることになりました。

 こうして準備を終えた一行は、1863年5月12日、横浜港を密かに発ちました。一週間ほどで上海に着きましたが、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文、野村弥吉の5人は、初めて見た上海に驚いてしまいました。

 当時の上海は、東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していました。彼らは、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、世界認識が変わってしまったのです。

 明らかな技術の差、経済力の差を見て、彼らはすぐに、「攘夷」という考えがいかに無謀かを理解したのです。もはや鎖国を続けることはできず、外国を追い払うこともできず、早々に、開国せざるをえないと思うようになったのです。

 出発から4か月後の9月下旬に、一行はロンドンに着き、ロンドン大学で教授の指導を受けながら、分宿して語学勉強に取り組みました。

 ロンドンで撮影された写真が残されています。


(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 写真には、次のような説明が付いていました。

 「The Chōshū Five (長州五傑) were members of the Chōshū han of western Japan who studied in England from 1863 at University College London under the guidance of Professor Alexander William Williamson.」(※ Wikimedia)

 「長州五傑は、西日本の長州藩のメンバーで、1863年からロンドン大学で、アレクサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授の指導の下で学んでいます」と書かれています。

 上段左が遠藤謹助、上段中が野村弥吉、上段右が伊藤俊輔(博文)、下段左が井上聞多(井上馨)、下段右が山尾庸三です。

 いずれも、丁髷を切り、スーツ姿で革靴を履いています。意気揚々とカメラに収まる姿は自信に満ちて見えます。異国の地で日夜、勉学に励み、進んだ学識や技術を身につけていることを実感し、やがては国のために働けると思っているからでしょう。

 井上と伊藤は海軍航海術、野村、山尾、遠藤は分理化学を専攻する予定でした。ところが、1864年、列強が長州藩を攻撃していることがロンドンの新聞に書かれていました。長州藩が列強と戦っていることを知ると、伊藤と井上は、さっそく帰国を決意します。

 列強と戦うことは無謀であると藩を説得するためでした。藩が滅亡するのを救うには、攘夷ではなく、開国だと説得しようとしたのです。

 伊藤と井上はわずか半年ほどロンドンに滞在しただけで帰国し、なんとか藩論を変えようと努力します。ところが、伊藤らの説得は、長州藩士たちを動かすことはできませんでした。

 結局、8月の下関戦争で、長州藩は英・仏・米・蘭の四カ国連合艦隊に敗れてしまいました。欧米との圧倒的な技術の差に負けたのです。敗北の結果、講和のための賠償金も大変な額でした。

 列強と和議交渉を担当したのが、高杉晋作と通訳を務めた伊藤でした。二人は、5つの講和条件のうち、賠償金と彦島の租借については拒絶を貫き通しました。おかげで賠償金は幕府が払うことで合意され、彦島の租借は回避することができたといいます(※ Wikipedia)。

■それぞれの貢献

 ロンドンに残った遠藤、野村、山尾はそのまま5年間、滞在して勉学に励み、卒業してから、帰国しています。帰国後は、それぞれの分野で近代国家建設のために貢献しています。

 遠藤は、造幣局の設置に貢献し、1881年に造幣局長になりました。日本の貨幣制度を整備し、近代日本造幣の粗とも呼ばれています。また、野村はロンドン大学で鉱山・土木を学び、帰国後は、鉄道頭になり、品川・横浜間の鉄道敷設をはじめ、京都・神戸間、そして、1889年には東海道線を全通させました(※ Wikipedia)。

 そして、山尾は帰国後、新政府に出仕し、工部省・工学寮設置を建白し、翌年工部省を得設立しました。1880年には工部卿となっています。

 わずか半年余りで日本に帰国した伊藤は、近代国家建設のため、手腕を発揮します。岩倉使節団に副使官として12カ国を歴訪し、帰国後は政府要職に就き、1885年に、初代総理大臣になっています。

 伊藤と共に帰国した井上は、明治政府樹立後は要職を歴任していましたが、1873年に辞職し、以後、実業界で活躍しました。1876年に渡欧し、財政経済を研究し、資本主義理論を学んでいます。1885年には外務大臣に就任し、実業界や外交で活躍しています。

 興味深いのは、長州ファイブといわれる5人のうち3人が、1863年1月31日の品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちに参加していたことです。高杉晋作隊長の下、井上馨、伊藤博文が火付け役、山尾庸三が斬捨役として参加していたのです。

 イギリス公使館に焼き討ちを仕掛けたというのに、それから3カ月もしないうちに、イギリスへの密航を企て、しかも、首尾よく、藩主から論告を取り付けているのです。

 見つかれば、斬首の危険を冒してまで、幕末にイギリスに密航したのが、長州藩の藩士たちでした。黙許されたのは、欧米の技術や学術が藩にとっても必要だったからにほかなりません。

 密航した5人がその後、それぞれの領域で近代国家建設のために貢献していることを思うと、彼らにも、黙許した藩にも、先見の明があったといわざるをえません。

 5人のその後を見ていると、激動の時代、何が必要で、何をしなければならないかを見極める嗅覚が必要だということを感じさせられました。
(2023/6/30 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅③:欧米列強に伍していくため、岩倉具視が求めたものは何か。

■岩倉具視は何を懸念し、何を求めていたのか

 岩倉具視幽棲旧宅を訪れた際、目にした光景の中で、いつまでも記憶から消えないものがあります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 座布団が置かれただけの、何の変哲もない縁側ですが、この光景からは限りなく想像力が刺激されます。

 岩倉はおそらく、ここで虚空を見つめながら、日本の来し方行く末を考えていたのでしょう。時には、縁側に腰を下ろし、訪れてきた志士を相手に国造りのプランを具体的に語っていたかもしれません。

 あるいは、国の現状を憂い、その舵取りを懸念していたかもしれません。そう思うと、この縁側の光景が脳裏から離れず、何度もリフレインするのです。

 はたして岩倉具視は何を懸念し、何を求めていたのでしょうか。

 これまでみてきたように、下級公家出身の岩倉具視が求めたものはまず、朝廷改革でした。というのも、朝廷内には厳格な序列があり、発言もその序列によって制限されていたからです。下級公家の岩倉だからこそ、そのことの理不尽さを身に染みて感じていました。

 発言が許された立場でいても、多くの公家は唯々諾々とし、抗うことをしませんでした。積極的に情報を収集し、幅広い世間を見ようともせず、旧態依然とした生活に甘んじていたのです。

 しかも、海外諸国が次々と開国を求めてきているというのに、多くの公家に危機感は見られませんでした。これでは朝廷に、時宜に合った対応ができるはずがありません。

 いつまでも伝統的な序列の下、蹴鞠や和歌を嗜むだけでいいのかという思いから、岩倉は次第に、朝廷改革への思いを固めていったのです。

 岩倉が、硬直化していた朝廷に一石を投じたのが、八十八卿列参事件といわれる抗議活動でした。

■『神州万歳堅策』(安政5年1月)

 安政5年(1858年)1月、老中の堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため上洛しました。この時、関白の九条尚忠は勅許を与えるべきだと主張しましたが、多くの公家は反対しました。反対意見の公家たちを組織化し、抗議活動に変えたのが、岩倉具視でした。

 岩倉は、中山忠能ら合計88名とともに条約案の撤回を求めて抗議活動を行い、回答を得られるまで九条邸を去らなかったのです。この一件は岩倉の行動力、屈せず動じない豪胆さを朝廷内に認知させることになりました。

 岩倉はその二日後には『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しています。

 主な内容は、①日米和親条約には反対、②条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策などでした。

 興味深いことに、岩倉はこの意見書の中で、相手国の形成風習産物を知るために、欧米各国に使節を派遣すべきだと主張していました。既にこのころから、岩倉は海外を視察する必要があると考えていたのです。

 その内容は非常に具体的でした。

 『岩倉公実記 上巻』には、「朝廷より正使1名随従4,5名、柳営(幕府)より副使1名随従4,5名、三家家門国主より各随従2,3名」を派遣し、少なくとも3年以上かけて、諸国の状況などを視察し、「国々の模様は書取りを以て蘭船に托して朝廷と柳営に言上せしむ可し」と書かれています。
(※ 安岡昭夫「岩倉具視の外交政略」、『法政史学』21巻、p.6、1969年)

 これをみると、派遣する人員、派遣期間、その職務内容まで、岩倉が詳細に考えていたことがわかります。

 しかも、現地で得た情報は逐一記録し、オランダ船に托して朝廷と幕府に送るよう求めてもいます。より正確に、より迅速に諸外国の情報を、朝廷が入手できる仕組みを考えていたのです。

 もちろん、それだけではありません。

 慶応2年(1866年)11月には、岩倉は国事意見書として「航海策」を記し、今後の外交政略を提言していました。

 冒頭の部分をご紹介しましょう。

こちら →
(※ 岩倉具視関係文書、国立国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 「臣友山・・・」で文章が始まっています。これは、岩倉がまだ蟄居していたころに書かれたものなので、謹慎中に使っていた法名を名乗っているのです。

■「航海策」(慶応2年11月)

 岩倉は、外国への対し方を俯瞰し、時代によって大きく変化してきたことを重く視ました。外交という観点から、これまでの経緯を次のように整理し、書き留めています。

 「攘夷の時代は外国勢を撃退し、近づけないようにしていればよかったが、和親の時代にはそれとは違って、何事もなければ、彼らをうまく手なずけ、思いやりのある気持ちで接し、なにかあれば、懲らしめる」(※ 前掲)といった具合です。

 確かに、幕府は、文化・文政時代(1804-1830)には、接近してきたイギリス船に対し、打払令で対応していました。日本の沿岸に近づく外国船があれば、見つけ次第に砲撃し、上陸した外国人は逮捕し、処罰していたのです。

 ところが、アヘン戦争で惨敗した中国を見て、幕府は対応を変えました。西洋の軍事力の強さを認識したからでした。1842年には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限って補給を認めるという薪水給与令を出しました。

 その後、再び、外国船が頻繁に接近してくるようになると、幕府では打払令の復活が議論されました。ところが、沿岸警備が不十分だったので、砲撃すれば逆襲され、そのまま上陸してくる可能性を懸念し、結局、打払令は撤回されたという経緯があります。

 押し寄せる海外勢を暴力的に抑え込むことはできないことを認識せざるをえなくなっていました。来航を拒絶するには、軍事力を高め、沿岸を警備できるようにしておかなければならなかったのですが、それは無理でした。軍備の面で圧倒的な差があったことはわかっていたのです。

 そこで、岩倉は、外国勢に対しては仁と威を使い分けることによってこそ、適切な外交ができると主張していたのです。つまり、徒に拒絶するだけではなく、相手が困った時には助け、危険が及ぶようであれば成敗し、臨機応変に対応していくしかないと考えていたのです。

 この岩倉の見解には、列強の軍事力への警戒心とともに、勅許も得ず軽率に、通商条約を結んでしまった幕府への怒りと不満が込められています。

 幕府は、1859年に横浜、函館、長崎を開港していました。海外との交渉の窓口が急速に広げられてしまったのです。

 岩倉が焦るのも当然でした。四方を海に囲まれた日本では、港は関門として重視する必要がありました。開港すれば、海外から人や物資が流入し、それに伴い、国内秩序が乱される懸念があったのです。

 そこで、当時、外国に開かれていた港の状況がどのようなものだったのか知りたいと思い、検索していると、1865年に撮影された長崎港の写真を見つけることができました。

 ご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 長崎港は当時、多数の外国船で賑わっていました。帆船があれば、蒸気船のようなものまで、所狭しとばかりに行き交っています。これらの船からさまざまな物資が運び込まれ、それらの物資に付随して、海外のさまざまな情報が持ち込まれていたのでしょう。

 このような状況を見ると、岩倉が、開港したからには、海軍を設置する必要があると考えていた理由もわかります。

 中国ではアヘンがイギリスから持ち込まれ、やがてアヘン戦争が勃発していました。1842年に南京条約を締結し、香港が割譲されています。このようにしてアジア各国が欧米列強によって、次々と植民地化されていたことを明治政府は知っていましたし、もちろん、岩倉も知っていました。

 欧米列強に対抗できる国家にするにはどうすればいいか、岩倉は国防の重要性と、人材育成の必要性をひしひしと感じていました。列強に対して威と仁を以て接するには、まず、相手を知らなければなりません。

 岩倉は折に触れ、世界各国に渡航して視察し、その優れた点や弱点を把握することの重要性を説いています。とくに公家は早急に外国に応対していく必要があるとし、使節として海外に派遣され、現地の諸状況を把握してくるべきだと主張していました。

 慶応3年(1867年)3月、岩倉は国事意見書として「済時策」を記しています。興味深いことに、ここでも岩倉は、「航海策」と同様の考えを述べています。

■「済時策」(慶応3年3月)

冒頭の部分をご紹介しましょう。

こちら →
(※ 岩倉具視関係文書、国立国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 「臣」の字が小さく、「友山・・・」と始まる文章で起草されています。この時点でもまだ謹慎処分が解除されていなかったので、岩倉は謹慎中に使っていた法名を名乗っています。

 序文が終わると、項目として「朝廷ヨリ主トシテ航海ノ道ヲ開カル可キ事」を挙げ、開国貿易論を展開しています。次に項目として挙げられているのが、「兵庫開港ノ談判ハ朝廷ニ於テ之ヲ為ス可キ事」です。

 兵庫港の開港は、朝廷で判断すべき事項だとしています。ここでも、安政の通商条約で、幕府が拙速に開港してしまったことへの怒りと不満が感じられます。とくに兵庫港は、朝廷や商都大阪に近いので、江戸に近い横浜港を参考に、貿易制度の整備をすべきだと進言しています。

 横浜港は、安政5年(1858)の日米修好通商条約によって、神奈川開港が決定され、安政6年(1859)に開港しました。

明治初め頃の横浜港の西波止場の写真をご紹介しましょう。

こちら →
(※ 横浜開港資料館。図をクリックすると、拡大します)

 西波止場には和船がぎっしりと停泊しています。写真が小さくてよくわからないのですが、ざっと見たところ、外国船は見られないようです。

 ところが、1910年に撮影された写真を見ると、帆船や蒸気船が多数、行き交っているのがわかります。

こちら →
(※ 望月小太郎撮影、1910年。Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 見比べると、横浜港が大きく変貌しているのがわかります。40年余の歳月が技術を変え、人を変え、社会を大きく変えていったことが示唆されています。

 開港すれば、海外からの人や情報が国内に流れ込み、やがて社会が変貌していくのが目に見えていました。

 岩倉が欧米列強に対して抱いていた懸念を、はたして、払拭することはできるのでしょうか。

 とにかく、日本に開国を求める海外勢の態度は執拗で貪欲でした。何度も通商交渉を求めてくる諸国に、アヘン戦争の顛末を知る人々はどれほど危機感を覚えていたことでしょう。彼らには富みを得ようとする強い意欲と意思があり、そのためには手段を選びません。鎖国していた日本人が応対できる相手ではありませんでした。

 一旦、通商条約を結んでしまえば、その後は赤子の手をひねるように、日本が不利な状況に追い込まれていくのは目に見えていました。だからこそ岩倉は、貿易についても詳しく学び、教えていかなければならないと認識していました。

 列強と渡り合えるだけの制度整備と人材育成の必要性を感じていたのです。

■人材育成

 その基盤の一つとして、考えていたのが、国民教育の普及でした。

 「七道の観察使俯管轄内に数百の小学校を設置するべき」だとし、この観察使府には「和漢の諸学を研究する大学校を設ける」構想も抱いていました(※ 安岡昭夫 前掲。p.7)。

 七道とは、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道を指し、現在の関東、東北、北陸、山陽、山陰、四国、九州を指します。

 また、観察使府とは、平安時代の桓武天皇が設置した地方官の行政実績を監査するもので、地方行政の向上に一定の効果があったとされています。ところが、平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、わずか4年で廃止されました。

 それにしても、七道の観察使府とはなんと古色蒼然とした言い回しなのでしょう。公家出身の岩倉だからこそ、敢えてこの言葉を使い、王政復古の下での仁政を期待したのかもしれません。

 遥か遠く、平安時代にまで遡って、桓武天皇の偉業を踏まえ、岩倉は、地方行政の一貫として、教育組織を設置しようと考えていました。桓武天皇の地方行政での効果を参考にしたところに、岩倉の天皇による治世への想いが透けて見えます。

 岩倉は一貫して、開国するには、海外勢と平等な関係を築いていく必要があると考えていました。それには、海外情報の収集とその分析が不可欠で、それらを遂行できる人材の育成が肝要だと思っていました。

 一方、岩倉は次のように述べています。

 「海外列国には遺米使、遺英使などの官命を帯びた職員を置き、それぞれの国情を探り、その結果を朝廷に報告すべき」(※ 岩倉具視関係文書より意訳。)

 海外の情報を収集するには、渡航して一時的に滞在して情報を入手するのではなく、専門の職員を現地に駐在させる必要があると岩倉はいっているのです。住んでみなければわからない情報を入手しなければ、万全の対策を講じることはできないと考えていたからでしょう。

 興味深いことに、岩倉はここで、遺米使、遺英使といった言葉を使っています。このことからは、岩倉がこの頃の日本を、遣隋使、遣唐使を派遣していた頃と重ね合わせていたことがわかります。

 かつて中国から文化や技術、制度や思想を学んだように、今後は西洋からそれらを学ばなければならないと思っていたふしが見受けられます。

 このように岩倉は、政府要人をはじめ官僚、次代を担う多くの人々が、欧米の技術、制度、文化、思想を学ぶ必要があると考えていました。西洋との圧倒的な技術力の差を感じていたからにほかなりません。

 こうした経緯をみてくると、新政府が発足したのに伴い、岩倉が欧米に使節団を派遣したいと願ったのは当然でした。

■使節派遣に向けての三者三様の意見書

 岩倉具視は明治2年(1869)2月、新政府樹立早々に、欧米に勅使を派遣するべきだという意見書を提出しています。その目的は、①外交儀礼の聘問の礼、②条約改定問題の協議、を主な任務とするものでした。

 岩倉は、条約締結時の交渉相手であった江戸幕府は崩壊し、新政府が誕生したことを関係諸国に知らせる必要があると考えていました。外交儀礼上、聘問の礼を行わなければならないと思っていたのです。

 その一方で、条約改正について協議したいという意向を、条約締結各国に示す必要があるとも考えていました。おそらく、条約改正協議の期限が1872年5月だということが念頭にあったからでしょう。

 いずれも岩倉にとっては、喫緊の課題でした。

 またこの年、英語教師として幕府に採用されたオランダ系アメリカ人のフルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck, 1830 – 1898)が、当時、会計官副知事であった大隈重信に使節派遣の意見書を送っていました。1969年6月11日頃のことでした。
(※ https://www.facebook.com/verbeck.jp/posts/731989243655751/

 フルベッキが懇意にしていたJ.M, フェリスに宛てた書簡によると、当時、江戸では外国に使節を送るのはこの秋か冬になる可能性があると知らせてくれた人がおり、それで、彼は使節派遣についての意見書(ブリーフ・スケッチ)を書こうという気になったそうです(※ 前掲)。

 なぜ、フルベッキが大隈に意見書を送ったのか不思議でしたが、調べてみると、彼は長崎で大隈重信に英語を教えていたことがありました。

 フルベッキは長崎の致遠館(佐賀藩が長崎に設けた英学校)で英語教師をしていましたが、1869年2月13日に明治政府から大学設立のため江戸に出仕するようにという通達をうけました。法律の改革論議と大学設立の仕事だったといいます。

 おそらく、フルベッキが長崎を離れる前に、学生たちと集合写真を撮ったのでしょう。上野彦馬が撮影した写真が残っています。

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(※ Wikipedia。 図をクリックすると、拡大します)

 フルベッキ親子と学生たち、総勢46名が写っています。

よく見ると、フルベッキ親子と岩倉具定と岩倉具経、そして、大隈重信が、同じ列に並んでいましたので、その部分を拡大してみました。

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(※ Wikipedia。部分。 図をクリックすると、拡大します)

 フルベッキの右側にいるのが岩倉具定で、フルベッキの子どもの左側にいるのが岩倉具経、その左側にいるのが大隈重信です。岩倉具定は岩倉具視の次男、岩倉具経は三男です。

 大隈重信は佐賀藩士だったので、致遠館で英語を勉強しているのはわかるのですが、岩倉兄弟がなぜ、この集合写真に写っているのが不思議でした。

 調べてみると、岩倉兄弟は1869年6月に致遠館に派遣され、フルベッキに学んでいました。その後、岩倉具定は米国ラトガース大学に、弟の岩倉具経はオックスフォード大学に留学しています。

 先ほどもいいましたように、フルベッキが大隈に意見書を送ったのは、6月11日頃でした。ですから、岩倉兄弟はほとんどフルベッキに学んでおらず、後任から英語や海外事情を学んでいたのでしょう。

 さて、フルベッキは政府要人になっていた大隈に意見書を送りましたが、受け取った大隈はその取扱いに困ったのかもしれません。時期尚早として、その意見書を秘蔵していました。1871年10月26日にフルベッキが岩倉邸に呼ばれるまで、この意見書の存在は誰にも知られていませんでした。

 そして、明治4年(1871)2月、今度は伊藤博文がアメリカから、条約改正準備と特命理事官の各国派遣の意見書を、沢宣嘉・外務卿に提出しています(※ 長谷川栄子、「岩倉使節団成立過程の再検討」、『熊本学園大学論集 総合科学』19巻、2号、pp.3-4.)。

 実は、伊藤は明治3年(1870)から財政幣制調査のために渡米していました。新政府樹立後の財政、貨幣について参考にするためアメリカ派遣され、現地で視察、調査を行っていたのです。その傍らで得たさまざまな情報を総合的に判断し、早急に、条約締結国に使節を派遣する必要があると判断したのでしょう。

 このように、当初、欧米への使節派遣の必要性を感じ、意見書を具申していたのは、岩倉具視とフルベッキ、そして、伊藤博文でした。

 岩倉はこれまでの経緯を踏まえて使節派遣の必要性を感じたのでしょうし、伊藤はアメリカに滞在して得たさまざまな情報から、派遣の緊急性を感じたのでしょう。そして、オランダ系アメリカ人のフルベッキは、派遣の噂を聞き、欧米人だからこそわかる使節派遣の際の注意事項を政府首脳に伝えるべきだと判断したのでしょう。

 日本の将来を考えた時、条約改正は不可欠だと判断し、三者三様の立場から、意見書を政府首脳に提出していました。彼らは、条約改正のためには準備のため早急に使節を送る必要があるという認識で一致していたのです。

 ちなみにアメリカで財政、貨幣制度を把握した伊藤は、その翌年に金本位制の採用と新貨条例の公布を主導しています。各方面で、新政府主導の制度整備が着々と進んでいたのです。次の大きな課題は使節団を派遣し、欧米との条約改正のための準備をすることでした。

■当時の状況

 それでは、1871年の状況がどのようなものであったか、政体の側面から見ておくことにしましょう。

 1871年7月14日に廃藩置県が行われ、7月29日には、これまでの太政官制が、正院(最高国家意思決定機関)、左院(議法機関)、右院(行政機関)の三院制と改められました。そして、中央官庁として、神祇省、大蔵省、司法省、文部省、兵部省、工部省、外務省、宮内省が整備されています。

 その後、11月には府県の統廃合を実施して、一使、三府、72県とし、長官に相当する知事、県令には大蔵省の官吏を任命しました。こうして新政府は着々と中央集権体制を整え、幕藩体制からの移行を、形式上、終えたのです。

 残された大きな課題は、不平等条約の解消でした。

 江戸幕府が安政5年(1858)に、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと締結した通商条約は、①治外法権を認めたこと、②関税自主権がなく、協定税率に拘束されていること、③無条件で片務的な最恵国待遇条款を承認したこと、等々の点で、日本にきわめて不利な条約でした。

 安政五か国条約と呼ばれているものです。

 これらの不平等な条項を撤廃するには、一国との交渉ではなく、最恵国待遇を承認した国々すべての同意が必要でした。列強の勢いに押され、拙速に条約締結に踏み切ってしまった徳川政権は、後の世に大きな負債を残していたのです。

 さて、廃藩置県が施行され、取り敢えず、中央集権体制に移行したのが、1871年でした。ようやく近代国家としての体裁を整えることができましたが、翌1872年5月には、条約改正協議の期限を迎えることになっていました。

 新政府としては早急に、期限延長の準備交渉のために使節を派遣しなければなりませんでした。

 期限延長を含め、条約改正に向けたさまざまな交渉の準備のため、欧米に使節を派遣するという名目で、使節団派遣の構想は実現に向けて動き出したのです。

■使節団構想と岩倉使節団

 使節団がどのような過程を経て編成されたかについては諸説あるようです。

 これまで見てきたように、私は当初から、岩倉具視使節団として派遣が決まったものだと思っていました。公家たちを組織化して抗議活動を展開した八十八卿列参事件をはじめ、岩倉がこれまで行ってきた政治活動は一貫して、日本を守るためのものであり、不平等条約の撤廃に向けてのものでした。

 先ほどもいいましたように、岩倉は1869年2月には使節派遣に意見書を出しています。

 ところが、使節派遣構想は大隈重信が言い出したもので、「大隈使節団」こそ、当初の構想だったという説があります。この説では、大隈使節団が岩倉使節団に変更された背景には、廃藩置県後の明治政府内部の政治抗争があったと説明されています。

 たとえば、大庭邦彦氏は、使節団派遣構想は当初、大隈重信主導で1871年8月下旬に具体化され、閣議において「内定」したと書いています。使節団の任務としては、条約改正の延期を締結各国と交渉すること、法律、政治、経済、教育、軍事、宗教など各分野の視察および調査をすること、等々でした。

 この構想が9月に入ると、外務卿岩倉具視を大使とする岩倉使節団構想へと引き継がれていくことになったというのです(※「岩倉遣欧米使節団にとっての「観光」」、『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社、2007年、p.152.)

 その理由として、大庭氏は、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』を引いて、政権のヘゲモニーを掌握される可能性を嫌った大久保利通や岩倉具視による「謀議」と「策略」の結果であると書いています(前掲、p.152.)。

 これはほんの一例ですが、大隈重信が使節派遣の発案者だとする説を取る人は大抵、岩倉使節団の発足を新政府内の抗争あるいは陰謀論の結果だと解釈しているのです。

 大庭氏は、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』を引いて説明していましたが、この立場をとる研究者の多くが大久保氏の論に立脚しています。

 試みにWikipediaをみると、使節団派遣の経緯については記述がなく、日本大百科全書では、岩倉使節団の派遣をめぐっては、伊藤博文提案説と大隈重信提案説があるが、それが結果的に岩倉使節団に切り替えられたと説明されており、その理由として新政権をめぐる薩長と非薩長との主導権争いがからむとされています。
(※ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2059

 ここでも、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』に基づいて、使節団の設立経緯が説明されています。このように、使節団派遣の経緯については、大久保利謙氏の見解が大きな影響力を持っていることが示されています。

■「大隈使節団」から「岩倉使節団」への移行と捉えることはできるのか。

 これまでみてきたように、使節団について知ろうとする初学者はまず、大久保利謙氏の説に出会う可能性がとても高いことがわかりました。その結果として、大勢の人がこの見解を共有することになり、一つの歴史的事実として受け止められているのかもしれません。

 これに対し、鈴木栄樹氏は、「従来の岩倉使節団編成過程の研究に対していくつか疑念がわいてきた」と記し、文献資料を踏まえ、実証的に検証していきます。

 大久保利謙氏の、「岩倉使節派遣の研究」(『岩倉使節団の研究』宗高書房、1976年、所収)という論考に対し、鈴木氏は、岩倉使節団編成過程に関する実証研究の起点となったと評価したうえで、「大隈使節団」構想から岩倉使節団への転換を政治抗争と関連付けて捉える大久保氏の見解には疑問を呈するのです。
(※ 鈴木栄樹、「岩倉使節団編成過程への新たな視点」、横山伊徳編、『幕末維新と外交』、吉川弘文館、2001年、pp.316.)

 そして、大久保氏が「岩倉の全権は、この使節の重大性から、むしろ当然の人事で、大隈では軽く、実は岩倉をおいてこの大任に当たるべき人物はほかになかったといっていい」とし、「岩倉は公家出身の傑物で、幕末期の革新運動の一方の推進者であり、はやく遣外使節の主張を行っていた」とも述べていることに言及しています。

 私がこれまで岩倉具視の活動についてご紹介してきたとおりの見解です。岩倉具視の人となり、政治的立場、社会的地位、これまでの経緯等についての大久保氏の理解になんの異論もありません。

 ところが、大久保氏は、「「大隈から岩倉への推移は、廃藩前後の政府部内の複雑な内情、雄藩間の対立などを考えると、そこに重大な政治的な内情があったことが察せられ、岩倉使節団の成立がそういう政治過程のなかからでた事態であることが考えられる」(※ 大久保論文、前掲)と述べているのです。

 鈴木氏は、そこに違和感を覚え、次のように記しています。

 「当然の人事」でありながら、「重大な政治的な内情があった」という大久保氏の発言ははたしてどのように解釈されるべきなのであろうか」
(※ 鈴木栄樹、「岩倉使節団編成過程への新たな視点」、横山伊徳編、『幕末維新と外交』、吉川弘文館、2001年、pp.319-320.)

 確かに、これまでの言動および活動をみれば、岩倉が全権大使になるのは当然でした。条約締結をした各国首脳と対等に面談できる立場だという点でも、岩倉は適任でした。ところが、大久保氏は、当初は大久保使節団で決まっていたものが、新政府内の内情、雄藩の対立などの政治的過程から岩倉使節団が発足したと述べるのです。

 鈴木氏が疑問に思ったように、大久保氏の記述には、論理に飛躍があり、論理矛盾があるように思えます。

 鈴木氏はまた、「大隈使節団」構想が存在したことを言い出したのが大久保氏だったことに触れ、果たして、そのようなものが存在するのかと疑問を呈しています。後年になって書かれた大隈重信の回想録『大隈伯昔日譚』の中の記述しか証明するものがなく(※ 前掲)、客観的根拠がないに等しいのです。

 こうしてみてくると、大久保利謙氏の使節団成立過程に関する論考で、大きく問題になるのは、①仮に大隈使節団構想というものがあったとして、それを岩倉使節団と同レベルで取り上げ、論じていること、②大隈使節団から岩倉使節団への移行理由を政府内の抗争、あるいは陰謀論で片づけていること、等々だといえます。

 一方、長谷川栄子氏は『岩倉具視関係資料』所収の新出書簡に基づき、この問題について、次のように見解を総括しています。

① 大隈重信は条約改正交渉成功のため、日本をアピールするための使節を各国に派遣することと、自身が使節の任務を引き受けることを閣議で申し出、ひとまず容れられたが、その閣議で決まったのは使節を外国へ派遣することのみであった。

② その閣議後、岩倉らの議論の中で使節は勅使と位置付けられ、岩倉の大使選任は異議なく決まった。しかし、それに付随して出された木戸・大久保副使案には、廃藩置県直後の新体制整備の最中であることから、三条と板垣が反対した。

③ しかし、条約改正が最も重要な課題であることを国民に認識させ、帰国後の条約改正に向けた改革をスムーズに進めるために政府指導者層の洋行が必要である、という使節団派遣についての木戸の説明を三条と板垣が理解したことにより、正院構成員全員の了承のもとに大規模な岩倉使節団が編成されることになった。これが新出の木戸書簡により判明した事実である。

④ 大蔵省の強力な指導のもとに健全財政の実現をめざす井上馨は、使節団留守中の大蔵省の掌握と大蔵省批判勢力の排除を画し、木戸・大久保洋行の実現に尽力するとともに、使節団と留守政府のメンバーの約定書調印を提起した。

(※ 長谷川栄子、「岩倉使節団成立過程の再検討―『岩倉具視関係資料』所収の新出書簡を用いてー」、『熊本学園大学論集『総合科学』』、第19巻2号、2013年、p.20.)

 長谷川氏の論文は関係者の書簡を渉猟し、きわめて論理的に、丁寧に考証されており、とても説得力のある見解でした。

■大義のための勅使として派遣が決まった岩倉使節団

 大久保氏が「大隈使節団」と称したものは、新たに出てきた資料に基づいて検証すれば、結局、閣議で「外国に使節を派遣する」ことが決まっただけのものでした。内部抗争とされたものも、条約改正の重要性を国民に認識させ、帰国後の条約改正に向けた改革をスムーズに進めるという点で三条や板垣から了解が得られています。

 一連の流れをみてくると、当時の首脳陣は、列強に伍していける日本を創り上げるため、正院全員一致で、勅使としての岩倉使節団の派遣を決定したことがわかります。

 長谷川氏は論文の最後で、木戸孝允の日記から次のような文章を引用しています。

 「真に我国をして一般の開化を進め,一般の人智を明発し,以て国の権力持し独立不羈たらしむるには僅々の人才世出するとも尤難かるへし,其急務となすものは只学校より先なるはなし」(※ 『木戸日記』)
(※ 長谷川栄子、前掲、p.21.)

 木戸は副使として渡航した際、サンフランシスコで小学校を訪問し、視察しました。子どもたちが活発に発言し、自由に行動していたのを眼にしたのでしょう。「独立不羈」という言葉を使って、自発性の重要性を指摘しています。

 岩倉もまた、以前から、欧米列強に伍していくには人材育成が重要であり、全国津々浦々、そのための教育制度を充実させなければならないと考えていました。西洋に見合ったレベルの技術、文化、制度、思想などを身につけなければ、対等に立ち向かえないと思っていました。

 木戸は、アメリカで小学校を視察し、近代国家を担っていくには、「独立不羈」の精神を涵養すること重要だと認識しています。彼は子どもたちの様子を観察しただけで、当時のアメリカの文化を読み取り、近代国家に何が必要なのかを感じ取ったのです。

 岩倉使節団のメンバーは、政府の最高首脳陣から構成されました。大使・副使と各省の実力者から成る理事官46名が、使節団として編成されています。

 意思決定することができ、政策を実行できる立場のテクノクラートたちが大挙して、欧米を訪問したのです。現地で視察し、調査することによって、欧米の文化、技術、制度、思想を肌で感じ取る機会が創出されました。岩倉使節団の派遣は、新政府の英断だったといえるでしょう。(2023/5/29 香取淳子)