ヒト、メディア、社会を考える

奥谷太一

「第17回DOMANI・明日展」で見た奥谷太一氏の作品

■第17回DOMANI・明日展の開催
2015年1月12日、文化庁芸術家在外研修の成果展である「第17回DOMANI・明日展」に行ってきました。文化庁の海外派遣制度によって研修してきた新進芸術家たちの成果発表が国立新美術館で開催されていることを偶然、知ったからです。開催期間は2014年12月13日から2015年1月25日までです。この日、たまたまに六本木方面に行く用事もあったので立ち寄ってみたのですが、大変、興味深い展覧会でした。

■造形の密度と純度をテーマに
今回のテーマは「造形の密度と純度」です。これまでに海外派遣された研修生の中から「造形的に緻密で高い完成度を持ち、表現の純度を高めている作家」として評価された12人が選ばれ、成果発表が行われました。

入口を入ってすぐのコーナーに奥谷太一氏の作品が展示されていました。人物はいずれもまるで写真撮影したかのように精緻なタッチで描かれています。卓越したデッサン力の持ち主なのでしょう、造形的に緻密で完成度の高い作品であることが一目でわかります。

■色彩
ただ、緻密で完成度の高い作品はともすれば観客に息苦しさを感じさせかねません。その種の息苦しさを振り払うかのように、奥谷氏は人物の顔や手を青色や緑がかった色で彩色しています。私が引き付けられた作品「帰路」(2007年制作、162×194)も同様です。このように彩色することによって、誰もが見慣れている光景に違和感を演出するとともに、観客の注意を引くことができます。さらには、ビジネスマンたちの疲れ、未来への不安、やるせなさを表現することもできますから、この彩色だけで現代ビジネス社会の風刺にもなっています。

帰路

もっとも、ビジネスマンたちの顔や手を青や緑系で彩色すると、それだけで絵全体が暗くなり、陰鬱で沈滞した印象を与えてしまいます。しかも彼らはまるで制服のように一様に、ダークスーツを着用しています。ですから、いっそう疲れ切った、個性のない集団といった印象を与えがちなのですが、実際は、彼らこそが日本経済を力強く支え、社会の活力源にもなっているのです。

彼らが着用しているダークスーツにしても、寒色系の顔色や手にしても、それだけでは色彩に付着するイメージによって、実際に彼らが生み出している巨大な生産のエネルギーは封じ込められ、観客には伝わってきません。改めて見ると、寒色系の色がもたらす暗鬱さを拭い去るかのように、ビジネスマンが持つブリーフケースやバッグは黄色やオレンジなどの暖色系の色で彩色されています。小物に着色した色彩で端的にビジネスマンの生み出すエネルギーを表現しているのです。さりげなく配されたこの二つの色が見事に効いています。

■構図
ビジネスマンたちは右方向に向かって歩いています。右端と左端の人物はキャンバス内に収まりきれず、はみ出していますから、この人群れが右にも左にも続々とつながっていることがわかります。それも、左方向からの圧力で右方向に向かって押し流されているというイメージです。しかも、彼らの視線は下方か前方か上方に向けられており、観客の方には向けられていません。周囲を見渡す余裕もないことが示されています。

左下に描かれた人物はおそらく作者なのでしょう(実際、会場でご本人をお見かけしたのですが、そっくりでした)。この人物もやはり青い顔色をしているのですが、立ち止って観客の方を見ています。そして、ビジネスマンの群れとは逆の方向に身体を向けていますから、時代の風潮に掉さすことができるクリティカルな視点を持った自由人だということが示唆されています。

この絵の中には、人の流れに二つの方向性が持ち込まれています。一方は黙々と流れに従う方向であり、他方は流れが作り出されていない、停止という方向です。このように対立軸を設定することで、この絵の深さが増しました。流れに従う方向(群衆、多数の人々)は、多数が同じ方向で動くために中にいれば安心感はありますが、自由度は少なく、個性の発揮しようがありません。流れに乗らない方向(個人)は、風当たりは厳しく、あらゆることを自分で開発し、獲得していかなければなりません。ただ、自由度は高く、好奇心を保持したまま生きることができます。奥谷氏はこの位置に自分を描くことによって、クリティカルな視点を失わない画家として生きることの決意表明をしたようにも思えます。とても興味深い構図です。

さて、右から3分の1あたりで、この人群れに空白が置かれています。空白のすぐ後に、一人だけ白いワイシャツ姿の人物が描かれています。ダークスーツの群れに白いワイシャツ姿の人物を配置することによって、観客に空白を明確に認識させる効果がありますが、どうやらそれだけではないようです。

キャンバス全体からみれば、このポジションはとても重要です。中央に近い位置であり、その前に空白が置かれているからです。しかも、ダークな色調の中で白という対立色が施されています。ポジションの面でも色彩の面でも強調されていることがわかります。観客の目を自然に集める位置に配されていますから、この人物が中心なのです。いわば主人公なのですが、それが前かがみになってうなだれた姿で描かれています。描かれた人物たちの中でもっとも生気が乏しいのです。ここに奥谷氏の現代社会を捉える視点が浮き彫りにされているといえるでしょう。

さて、空白は区切りを作るだけではなく、リズムを生み出します。実際、この空白を作ることによって人群れに区切りを生み出し、観客の中に、日本経済にひたすら奉仕する無名のビジネスマンたちが実はそれぞれ個性をもつ人々なのではないかという認識を呼び覚ませます。と同時に、世代から世代へと一定のリズムでこの種のビジネスマンたちが生み出されていく様子も示されています。奥谷氏は精緻なタッチでビジネスマンたちを描き、色彩と構図を巧みに配することによって、現代のビジネス社会そのものの構造をみごとに掬いだしているのです。

この絵を見ていて不意に、リースマンの『孤独な群衆』を思い出してしまいました。ビジネスや情報機器によって、それまでは相互に緊密につながりあっていた人々が切り離され、孤立状態に置かれるようになると、ヒトは操作されやすくなり、時代の風潮に対するクリティカルな視点を失いがちになってしまいます。そのことが精緻な描写力と構図、着色の工夫によって的確に表現されています。現代社会を見事に描いた作品だといわざるをえません。奥谷氏の作品には、ケータイやカメラ、ビデオカメラなどの情報機器を操作しているモチーフが多いのも納得できます。

■背景
背景に具体的なモノや風景は描かれておらず、ただ、グレーの濃淡で塗り込められているだけです。その上に人物がそれぞれハサミできれいに切り抜かれたように個別に配されているのです。ですから、大勢の人物を描きながら、それぞれが孤立して見えるのです。その彼らの表情や髪型、姿勢は誰もが街中でいつでも見かることができるものです。まさに現代の人々の典型が描かれているのです。

後の作品になると、この特徴がさらに強化されます。たとえば、「シャッターの刻」(2011年制作、194×259)は人物4人がそれぞれ独立して描かれており、背景はやはり、グレーの濃淡で着色されているだけです。ここでもバッグやフードの裏側、帽子などに暖色が配されています。

シャッターの刻

■現代社会での絵画の役割
一連の奥谷氏の作品をみてくると、一枚の絵がいかに多くのことを表現できるかということに思い至ります。様々な段階で表現に工夫さえすれば、リアルな実態とその背後にある真相を同時に捉えることができるのです。しかも言語の障壁がありません。国境を越えて訴える力をもつ媒体だということを改めて感じさせられました。

さらに絵画は、このコピーの蔓延したデジタル社会の中で唯一といってもいい一回性のメディアです。時間と空間が固着した中で表現されたこの作品にはベンヤミンのいうアウラがほとばしっていました。

ここで取り上げた奥谷氏に限りません。「第17回DOMANI・明日展」では挑戦を厭わない若手画家たちの作品を多数、目にしました。ここに展示されなかった多数の若手画家たちもまた現在、しのぎを削って制作に励んでいるのでしょう。絵画という一回性の媒体を選んだからこそ、対象に鋭く迫り、表現の地平を開拓し、はばたいてもらいたいと思っています。(2015/01/14 香取淳子)