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ルーベンス展

「ルーベンス展」に見る、生、老、死

■ルーベンス展の開催
 国立西洋美術館でいま、ルーベンス展が開催されています。開催期間は2018年10月16日から2019年1月20日までですが、友達に誘われ、10月18日に行ってきました。会場には第1から第7までのコーナーが設けられ、ベルギー生まれのルーベンスがいかにイタリアの美術作品から着想を得たのか、あるいは影響を与えたのか、といった観点から展覧会が構成されていました。

こちら →http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2018rubens.html

 ルーベンス(Peter Paul Rubens、1577-1640)は、ベルギーのアントウェルペンという町で工房を持ち、制作活動をしていましたが、若いころ数年間イタリアに滞在し、古代彫刻やルネッサンス期の美術、カラバッジョらの美術の影響を受けて、自身の表現技法を確立したといわれています。ですから、この会場にはルーベンスの作品や古代美術、イタリアの画家たちの作品など、計70点が展示されていましたが、必ずしも年代順に展示されていたわけではありません。

 さて、「ルーベンスの世界」と題された第1コーナーでは、「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」(1615-16年)、「眠るふたりの子供」(1612-13年)といった見覚えのある作品が展示されていました。どちらも国立西洋美術館の常設展で見たように記憶していたのですが、どういうわけか、「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」の方はリヒテンシュタイン侯爵家のコレクションになっていました。

■子供の顔
 常設展ではじめて、この「眠るふたりの子供」を見たとき、そのあどけなさに引き込まれ、しばらく見入ってしまったことを思い出します。今回、改めて見て、子供の情景が的確に捉えられ、その本質が完璧なまでに表現されていることに感心しました。

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(図をクリックすると、拡大します。国立西洋美術館蔵)

 赤味のある頬からは温かな体温が感じられますし、半開きの口からは微かな寝息すら聞こえてきそうです。無心に眠る二人の子供たちの表情はいずれも、誰もがいつか、どこかで見たことがあるような子供の寝姿です。この作品には、子供だからこそ放つことができる生の豊かな一側面が捉えられているといえます。

 子供がふとした瞬間に見せる微妙な表情を見事に捉えているのが、「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」です。

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(図をクリックすると、拡大します。リヒテンシュタイン侯爵家蔵)

 赤味のある頬と柔らかくきめ細かな肌からは、生き生きとした子供の生命力が感じられます。正面を見据えた目、きりっと結んだ口元が印象的です。聡明で、明朗快活な子供なのでしょう。いまにも画面から話しかけてきそうです。

 第一コーナー「ルーベンスの世界」で取り上げられていた作品は7点、そのうち5点がルーベンスの作品で、3点が子供を描いた作品でした。上記2点と「幼児イエスと洗礼者聖ヨハネ」(1625-28年)です。いずれも子供の生き生きとした表情が余すところなく捉えられ、輝くような色彩で表現されているのが共通しています。

 生命の輝きが豊かな色彩、動きのある構図で描かれており、生を讃える情感が溢れています。ルーベンスが描いた多数の作品の中でもとくにこれらの作品は、「バロックの誕生」にふさわしいといえるでしょう。

■高齢者の顔
 第2コーナーで印象に残ったのが、「老人の頭部」(1609年頃)です。63.5×50.2㎝の比較的小さな作品だとはいえ、有名人でもない一般の高齢者の横顔を題材としています。それが珍しく、印象に残りました。

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(図をクリックすると、拡大します。エルミタージュ美術館蔵)

 精密に高齢者の横顔が描かれています。髭と頭髪に覆われていますが、目の周辺の描き方から、顔面の物憂げな表情を容易に想像することができます。

 おそらく同じ人物なのでしょう、正面を向いた「髭をはやした男の頭部」(1609年頃)というタイトルの作品も展示されていました。こちらも髭や髪の毛が丁寧に描かれており、正面を向いた男は横顔から予想された通り、哀感が漂っていました。取り立ててドラマティックなわけではないのですが、顔面の表情を克明に描くことによってその内面が深く描出されており、心打たれます。

 このコーナーでは「毛皮を着た若い女性」(1629-30年頃)など女性を描いた作品も展示されていましたが、生き生きとした躍動感は感じられませんでした。丁寧に描かれてはいるのですが、類型的な描き方に終始しているように思えたのです。

 圧倒的な存在感を感じさせられたのが、「セネカの死」(1615-1616年)でした。

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(図をクリックすると、拡大します。プラド美術館蔵)

 調べてみると、ネロから自殺を強要されたセネカはドクニンジンを飲んでも死にきれず、終には、静脈を切り、血を流れやすくするために湯を張った盥に身を沈めたといわれています。この作品は、今まさに身を沈めようとしているシーンを描いたものです。天を見上げる視線や半開きになった口元には、死に際の苦悩が表現されている一方、死に臨んでも哲学者らしく冷静沈着に振舞おうとするセネカの精神力が見事に描かれています。

 目の表情、口元、皺、肌のたるみ具合など、年齢を重ね、知性を醸成してきた顔が精緻に描かれています。さらに、身体は筋肉隆々の頑健さが強調して描かれており、強靭な生命力が宿っていることが示されています。それにもかかわらず、暴君ネロによって無残にもその生命が終わらせられようとしているのです。セネカの無念さがひしひしと伝わってきます。

 会場でルーベンスの作品を次々と見ていくうちに、脇役ですら高齢者の顔が表情豊かに捉えられていることに気づきます。

 たとえば、「エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち」(1615-1616年)という作品があります。

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(図をクリックすると、拡大します。リヒテンシュタイン侯爵家蔵)

 この作品で私が強く印象付けられたのが、老婆の顔です。若く美しい裸身の女性たちの中にいて、一人だけ暗い色調の衣服をまとい、顔を正面に向けています。裸体で描かれた娘たちや子供は輝くような肌色で描かれ、弾けるような若さが表現されています。一見、華やかなのですが、女性や子供はどちらかといえば類型的に描かれ、ポーズも固まっています。

 ところが、背後からぬっと顔を出すようにして描かれたこの老婆は奇妙な存在感を放っています。若くもなければ美しくもない、歯牙にもかけられない存在のように見えるのに、この作品でもっとも存在感を感じるのがこの老婆でした。それはおそらく、この顔がリアルに表情豊かに描かれているからでしょう。老婆の表情からは先ほどご紹介した、死に臨んだセネカのような崇高な知性すら感じさせられました。

■キリスト哀悼
 第3コーナーには「英雄としての聖人たち」とタイトルが付けられており、関連する諸作品が展示されていました。その中で印象に残ったのが、「キリスト哀悼」(1601-02年)という作品でした。

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(図をクリックすると、拡大します。ボルゲーゼ美術館蔵)

 会場でこの作品を見たとき、よくある宗教画だという印象しかありませんでした。人体の骨格の描き方はリアリティに欠け、キリストの周りを取り巻く人々の表情もバラバラでぎこちなく、統一感がありません。ですから、さっと見ただけでスルーしたのですが、次に、同じタイトルの作品(1612年頃)を見た瞬間、強い衝撃を受けました。

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(図をクリックすると、拡大します。リヒテンシュタイン侯爵家蔵)

 まず視線を引き付けられるのが、血の気を失ったキリストの顔色です。そのまま視線を下方にずらすと、足もまた同じように青味がかった色で表現されています。息絶えて血が通わなくなって、少しずつ身体が変化し、すでに硬直し始めているのでしょうか。ただ、上半身にはまだやや赤味が残っています。おそらく、死後それほど時間が経っていないときの状況なのでしょう。人体を生物学的に理解し、構造学的な視点も取り込みながら描かれているせいか、ぞっとするほどのリアリティがありました。

 次に気になったのが、キリストの頭部を抱きかかえるようにして、右手で額に刺さった棘のようなものを抜き、左手で片方の目を閉じさせようとしているマリアの姿です。キリストと同じように土気色の肌をしていますが、こちらの肌色には深い悲しみが表現されています。キリストを見つめる視線、そして、軽く閉じられた口元からは慈しみの情が溢れており、見る者の気持ちを打ちます。
 
 キリストの身体は画面の対角線上に置かれ、上部と右上半分に悲しみに浸る人々が配置されています。頭部周辺にはマリアと使徒、周辺には信徒といった具合にレイアウトされており、それぞれのキリストとの関係性が示されています。

 キリストの身体に寄り添う人々の輪の外側に、一人の若い女性が泣きはらした顔を天に向けています。半開きの口、茫然とした表情をのぞかせています。あまりにも強い悲しみで、彼女は一時、感情を失っているようにも見えます。キリストの傍らにいて、気丈にもキリストの苦しみを取り除こうとしているマリアの姿とは対比的に描かれています。

 キリストが昇天しようとしているとき、取り巻く人々はそれぞれ独特の姿勢で、その死に際に向き合い、深い悲しみを表現しています。各人各様の祈りのスタイルが丁寧に描き分けられており、キリストの死を巡る哀悼の刻が見事に表現されています。人々の感情が凝縮された濃密な時間が、リアリティ豊かに画面から伝わってきます。

■ローマの慈愛(キモンとペロ)
 第7コーナーで展示されていた衝撃的な作品があります。「ローマの慈愛(キモンとペロ)」(1610-12年)です。

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(図をクリックすると、拡大します。エルミタージュ美術館蔵)

 まず題材とその構図に驚いてしまいました。見た瞬間、エロティックなピンナップに見えてしまったからでした。これまで美術館でこのような絵柄は見たことがないと思いながらも、よく見てみると、若い女性の顔は慈愛に溢れ、老いた男性は瀕死の状態で判断力も失っているようでした。これではとてもピンナップとはいえません。

 そうはいっても気になったので、帰宅してから調べてみました。すると、この作品は歴史家ワレリウス・マキシムの著『忘れざる行為の9冊の書とローマ人の言葉』に書かれた物語に基づいて描かれ、父親に対する娘の献身的な愛が象徴的に表現されているといわれているようでした。

こちら →http://mementmori-art.com/archives/24650902.html
 
 上記の記事には、同じ物語を題材に描かれた15の作品が紹介されていますが、諸作品の中ではルーベンスのこの作品がもっとも美しく、説得力が感じられます。

 心配そうな表情で父親を見守る娘の表情がなんともいえず穏やかで、まるで母親が子供を包み込むような深い愛情がひしひしと伝わってきます。一方、衰弱しきった父親はすでに判断力を失っているのか、虚ろな目をして乳首に口を寄せています。娘と父親という立場がこの場面では救おうとする者と救われようとする者とに逆転しているのです。

 この作品からは、死線を彷徨っているときはもはや娘でも父親でもなく、ヒトとしての根源的な愛が表出してくるのだということが示されています。一見、エロティックに見える絵柄から、家族愛を超えた深い愛がほのかに見えて、実に感動的でした。

■ルーベンスの作品に見る、生、老い、死
 会場で70点ほどのルーベンスの作品を鑑賞しましたが、私が強く印象付けられたのは、上記でご紹介した諸作品でした。無心のあどけなさでヒトを魅了する子供の顔。老いが刻印されながらも知性が滲み出ている高齢者の顔。そして、愛する者、尊敬する者の死を前にした人々の顔。いずれも単なる顔付きや態度が描かれているだけではなく、その背後に潜む気持ちや精神のありようまでもが表現されており、気持ちを揺さぶられました。

 会場には、『人間観相学について』という書物なども展示されており、ルーベンスがヒトを観相学の観点から捉えていたこともわかりました。顔や人体を的確に描くには、骨相学、観相学の知識が必要なのでしょう。ルーベンスを展覧会で見るのは今回が初めてでしたが、ヒトを身心の観点から捉えようとしている姿勢が明確で、とても考えさせられました。時代を超えて生き続ける画家の作品には、ヒトに対する理解が深いのだということが実感されました。(2018/10/19 香取淳子)