ヒト、メディア、社会を考える

アーティストトーク

「新鋭美術家2015」:アーティストトークから見えてくるもの

■2月28日、東京都美術館では「都美セレクション新鋭美術家2015」展の一環として、出品作家によるアーティストトーク第2弾が行われました。スピーカーは田丸稔氏(彫刻)、高松和樹氏(洋画)、山田彩加氏(版画)です。それでは、「公募団体ベストセレクション美術2014」で選ばれた作品を中心に見ていくことにしましょう。

■田丸稔氏の「抒情詩の男と馬」
田丸氏の作品5点は瀬島氏と高島氏のコーナーを横断する形で配置されていました。「公募団体ベストセレクション美術2014」で選ばれたのが、「抒情詩の男と馬」(2012年制作)です。この彫像の材質はFRP(繊維強化プラスティック)、漆で着色されています。サイズは110×100×60㎝です。

こちら →田丸稔

初めてこの作品を見たとき、意表を突かれる思いがしました。馬の頭部は男の上半身ほど大きく表現されているのですが、男の顔は馬の頭部にめり込んでしまって見えません。人馬一体という言葉はありますが、このような構図は想像もできませんでした。

いったいどうなっているのかと考えながら、上から見たり、横から眺めたりしているうちに、やがて、男の肩から背面、肩から腕、そして、腿から脹脛にかけての筋肉がよく発達しているのに気が付いていきます。この作品ではとくに肩から腕にかけての盛り上がった筋肉が印象的でした。逞しく鍛え抜かれた身体が持つ美しさといっていいでしょう。意表を突く構図の下で、マッチョな男性美が表現されていたのです。

他の作品も同様です。2013年の作品は、馬の頭部に男がうつ伏せになっている構図で、男の背面から臀部、肩から腕にかけての筋肉が印象的です。2014年の作品は、馬の頭部を男が抱きかかえている構図で、男の背面から臀部、肩から腕、臀部から腿にかけての筋肉が眼に焼き付けられます。そして、2015年の作品は、馬の上で男が仰向けになっている構図です。顔はつぶされ、腕ももぎ取られていますから、贅肉のない筋肉質の上半身だけが印象に残ります。興味深いことに、これらの作品のタイトルはすべて「叙事詩の男と馬」でした。

■「項羽」の最期に対する思い
なぜ、2012年以降の4作品はどれも男と馬をモチーフにし、そのタイトルは「叙事詩の男と馬」だったのでしょうか。田丸氏には深い思い入れがあったはずです。

こんなふうに説明してくれました。

田丸氏は子どものころから歴史好きで、抒情的なものよりも叙事的なものを好む傾向があったといいます。「三国志」もよく読んだ歴史書の一つだそうです。男と馬のモチーフは、その三国志に登場する「項羽」の悲惨な最期からイメージを膨らませ、作品にしたのだそうです。

さっそく、項羽の最期を調べてみました。

秦の末期、劉邦軍に安徽省の烏江にまで追い詰められた項羽は自害します。ところが、この戦いに先立って劉邦は項羽を殺した者には領土を与えると宣言していました。ですから、褒賞を求めた兵士たちが争って項羽の死体を奪い合います。その結果、項羽の身体は5つに引き裂かれてしまったというのです。

田丸氏はこのような項羽の悲惨な最期を知り、深く感じるところがあったといいます。それが動機づけとなって後年、「男」(項羽)と「馬」(項羽の愛馬)をモチーフに一連の作品を手掛けるようになったようです。改めてこの4作品を見てみると、たしかに、2012年の作品には顔だけがなく、2013年、2014年の作品には顔と脚がなく、2015年の作品は胴体だけになっていることに気がつきます。

もっとも田丸氏は、観客にはこの作品からもっと自由に想像してもらいたいと考えているようです。だからこそ、項羽という名を出さず、一連の作品に「叙事詩の男と馬」というタイトルを付けたのだそうです。そして、「男と馬」というモチーフは、「人間と馬」あるいは、「人類と道具」と読み替えることもできるといいます。

作家は大なり小なり創作の契機となるようなエピソードを抱えています。でも観客はそれに捉われず、もっと自由に想像し、より普遍的な解釈をしてほしいというのが田丸氏の願いでした。たしかに個別の経験を越え、作品を通してそれが普遍化していくことに芸術の醍醐味があるのかもしれませんし、作家もそれを願っているのでしょう。

ただ、私は、田丸氏の「男と馬」に込める思いを知ったからこそ、この作品の理解が深まったような気がしています。

筋骨隆々とした身体部位で、栄耀栄華を極めた英雄の姿が表現されているとするなら、手足顔をもぎ取られた姿に無残な最期が表現されています。そこにヒトの世の無常を読み取ることができますし、その無残な姿に馬を絡めることによって、滅びを見つめる美学とでもいえばいいようなものを感じるのです。叙事的なものが好きという田丸氏ですが、興味深いことに、作品からはリリシズムが漂ってきます。

だからこそ私は、語り継がれてきた項羽の悲惨な最期をリアルな事実として受け入れ、そこに作品を通して語るべき物語を見出した田丸氏に、作家としての冷徹な眼差しとセンスを感じたのです。

■高松和樹氏の「何ダカ意味ガ解ラナイ事ノ為ニ」
高松氏が出品した7作品(そのうち1作品は3連作)は、照明を暗くしたコーナーの壁面いっぱいに展示されていました。「公募団体ベストセレクション美術2014」で選ばれたのが、「何ダカ意味ガ解ラナイ事ノ為ニ」(2014年)です。

この絵はターポリン(テント生地)にジグレー版画(野外用顔料溶剤)でデータを出力して印刷したものにアクリルガッシュ・メディウムを吹き付け、アクリル絵具で塗ったものだそうです。194×259㎝サイズの作品で、有無を言わせず観客を異空間に誘い込む不思議な迫力がありました。

こちら →高松和樹

少女の頭上から背面にかけては鮮やかな花々で覆われ、右手上方に華やかな一角が構成されています。ところが、その裏にはひっそりと骸骨が潜ませてあるのです。膝を抱え込んで顔を伏せている少女の下には花に紛れてライトのようなものが見え隠れし、たなびく雲の下にはビル群が広がり、地下にも同様の空間が広がっています。

その地下空間の下にもやはり巨大なライトのようなものがあります。天上、地上、地下という三層の空間に巨大なライトのようなものが配されているのです。ひょっとしたら、現代社会のエネルギー源である電気を表しているのかもしれません。気になるモチーフです。

画面は対角線で区切られ、その右側に多くのモチーフが収められています。対角線の交点から左上に向けて銃のようなもの、その近くにスピーカーのようなものが配されています。そして、その先の対角線左側は深い闇です。不思議な空間です。さまざまなモチーフが雑多に賑やかに配置されているのですが、全体として静かで、恐いような透明感が漂っているのです。

■モノトーンとグラデーションによる表現
この絵でまず目につくのは、少女の腿です。画面の中心付近に大きく、輝かしく描かれています。それだけに等高線のような模様が目立ちます。眼を転じると、少女の脚、腕、手、衣服、花、骸骨など、この絵のさまざまなモチーフが等高線のようにも樹木の年輪のようにも見える同心円状の模様で形作られていることに気づきます。

しかもすべてがモノトーンで、光や影は描かれていません。ですから、この絵全体からは人工的で無機質な印象を受けてしまうのですが、少女の手足や腕は柔らかく、そっと触れれば体温さえ感じられそうな気配です。無機質な空間の中に確かな生命が息づいているように見えます。

モチーフは手前を明るく、奥に行くにつれ暗く、表現されています。等高線の模様を崩さずにグラデーションをかけていくやり方が実に繊細で微妙なのです。この微妙なグラデーションによる効果で、無彩色でありながら、観客はこの絵に奥行を感じ、立体を感じることができるのでしょう。

そもそも等高線は高さのある地形を平面で表すための記号です。それを高松氏は立体を表現する模様として取り入れたのです。非凡な着眼だといわざるをえません。等高線のような同心円状の模様もまた、モノトーンでありながら立体を表現するための技法です。このような高松氏ならではの表現技法が他の追随を許さない独特の世界を生み出しているのでしょう。

■ネットの世界とリアルな世界
高松氏はネット社会の匿名性をモノトーンで表現しているといい、カタログには次ぎのように書いています。

「自身を表すものは実名ではなくハンドルネーム、プロフィールアイコンにはアニメのキャラクターやイラストなどが使われることが多く年齢も性別も事実か解らない。それゆえ書き込む者の人間性や本音が出やすくアイコンのイメージとは裏腹に生々しさを感じる」

そして、作家としてのスタンスを次のように表明しているのです。

「大人になりきれない純粋な感情の中にこそ、この世の中の矛盾を浮き彫りにする研ぎ澄まされた鏡が存在し、そこに現代を象徴する美があると考える」

これを読んで、ようやく現代社会を表現しようとする作家が登場してきたという気がしました。

現代社会はメディア主導で動いているといってもいいと思いますが、それに対峙するような絵画作品をこれまで見たことがありませんでした。もちろん、私が知らなかっただけかもしれません。ですが、高松氏のようにメディアの消費者側から現代社会について考え、最新のメディア技術を駆使して表現できる作家は稀です。今後もぜひ、このスタンスで頑張ってもらいたいと思います。

■山田彩加氏の「生命の変容と融合―0への回帰―」
高松氏の隣のコーナーで展示されていたのが山田彩加氏の作品11点です。どの作品も緻密で細密に仕上げられており、その表現力に圧倒されてしまいました。生と死を見つめ続けてきた山田氏が切り拓いてきた独自の世界がありました。「公募団体ベストセレクション美術2014」で選ばれたのが、「生命の変容と融合―0への回帰―」です。バロンケント紙に刷られたリトグラフです。2012年から13年にかけて制作されました。サイズは150×215㎝、東京芸術大学大学院での博士審査展に出品した作品だそうです。

こちら →生命の変容融合

この絵を見てまず目につくのは、赤ちゃん、若い女性、老女、いずれも目を閉じています。その次に、左上と右下に配置された時計と鎖、そして、赤ちゃんに顔を向けている横顔の女性に気づきます。おそらく母親なのでしょう、こちらは眼を開けています。なおも見ていくと、老女の下にタヌキかキツネのような顔をした動物、若い女性の周辺に描きこまれた花や植物・・・、等々が見えてきます。

非常に複雑な絵です。すべてのモチーフがきわめて細密に描き込まれており、それぞれがなんらかの点でつながっています。克明に描き込まれているだけに、絵全体が暗く、ヒトはつい、白い余白の多い箇所から見てしまうことがわかります。

大きな円が二つ、層を成して設定されています。上になっている右の円上に描かれているのが赤ちゃんと母親、そして、その下の円との境界領域に老女が横向きに描かれ、下の若い女性とつながっています。ヒトが生まれ、成長し、やがては老い、死んでいくプロセスが凝縮して表現されています。

ヒトについては性別と大雑把な年齢がわかるよう顔部分だけが描かれ、その周辺に動物の顔や植物が密集して描き込まれています。動物や植物がヒトと同列同等に配置されているのです。

ちなみに、この絵のタイトルは「生命の変容と融合―0への回帰―」です。ですから作者は、命がヒトの中で循環するだけではなく、動物や植物を含めた生物全体で循環していることを伝えようとしていたのでしょう。とても哲学的な内容ですが、非常に美しい絵なので引き込まれて見てしまい、メッセージが明確に伝わってきます。

■命の繋がり
山田彩加氏はカタログの中で「命の繋がり」を制作コンセプトにしていると書き、次ぎのように述べています。

「命の繋がりとは、森羅万象に共通する粒子(生命の根源)から細胞が誕生し、多種多様な生物へと進化を経る中で、生と死を通じて生物から再び粒子へと還元される一連の過程であり、更にその生成と分解を全ての生物が同様に繰り返すことです」

まさに、「生命の変容と融合―0への回帰―」で表現されている世界観です。そして、それを表現する方法として、次のように記しています。

「このようなコンセプトを基に私は、形而上的繋がりを紐上に描写し、物質的繋がりを表すモチーフの描写と混在させることによって、本質を探求していきます」

この一文を読んでから、改めて「生命の変容と融合―0への回帰―」を見てみると、たしかに上の円からも下の円からも紐のようなものがいくつも放射状に外に向かって延びています。

上の円上やその境界領域にはヒトや動物の身体部位、植物が密集して描かれていますし、下の円には毛細血管のようなものがあります。そして、左上に配置された時計は逆さまに描かれ、右下に描かれた時計は反転して描かれています。それぞれチェーンでつながっており、時間が過去、現在、未来へと連綿と続いていることが示されています。まさに、一枚の絵の中に世の中の森羅万象の繋がりが完ぺきなまでに表現されているのです。

山田氏の作品を見て、美術は哲学的内容を視覚的に表現できるのだということを知りました。奥の深い芸術だということを再認識しました。

■アーティストトークから見えてくるもの
田丸稔氏(彫刻)、高松和樹氏(洋画)、山田彩加氏(版画)など、旬の美術家たちのトークを聞く機会を得て、とても有意義なひとときを過ごすことができました。

たとえば、田丸氏の作品について高松氏が、「1トン以上の重みを感じた」といい、「物質を変えてしまう錬金術師では?」とジョークめかしていったところ、田丸氏は「FRP(繊維強化プラスティック)は保存にも移動にも便利だが、足りないのは眼で見てわかる重量感」だといい、そのための制作上の工夫を説明してくれました。こういうやり取りは専門家同士でないとなかなかできません。

こちら →高松田丸

高松和樹氏は、自作についてのトークの最中、会場の中に彼自身が制作したデザインのTシャツを着たヒトを見つけました。高松氏が驚いたのはいうまでもありませんが、会場も沸きました。彼はかつてTシャツのデザインを手がけたこともあったようですし、いまも企業からさまざまなコラボの提案があるようです。現代社会にフィットした高松氏の画風のせいでもあるのでしょう。このようなハプニングも作家に対する理解を深めてくれます。いつの日か高松氏は街中を舞台に動くアートを見せてくれるようになるかもしれません。

山田氏は大学1年のときの解剖学の授業で、手の毛細血管が細かくて美しいことに感動したそうです。以来、細かい描写が楽しくなったといいます。気の遠くなるような作業ですが、それでも完成度を高めるために、仕上がってからも空白とモチーフとの調和をチェックし、納得のいくまで手直しをするそうです。どの作品からも繊細でかつ豪胆な表現力が伝わってきましたが、実際にお目にかかってお話を聞き、その理由がわかるような気がしました。

いずれもアーティストトークに参加してはじめて知ることのできたエピソードです。創作活動にまつわるエピソードから創作の背景をうかがい知ることができ、作品理解が深まったような気がします。とても興味深い企画でした。

今回、3人の美術家のトークイベントに参加し、新しい表現領域が次々と切り拓かれつつあることを感じました。何を表現するか、どのように表現するか、この二つの側面はセットで考えなければならないということを改めて感じさせられました。素晴らしい作品を制作されたお三人には今後も画期的な創作活動を展開されることを期待したいと思います。(2015/3/2 香取淳子)