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岩倉具視幽棲旧宅③:欧米列強に伍していくため、岩倉具視が求めたものは何か。

■岩倉具視は何を懸念し、何を求めていたのか

 岩倉具視幽棲旧宅を訪れた際、目にした光景の中で、いつまでも記憶から消えないものがあります。

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 座布団が置かれただけの、何の変哲もない縁側ですが、この光景からは限りなく想像力が刺激されます。

 岩倉はおそらく、ここで虚空を見つめながら、日本の来し方行く末を考えていたのでしょう。時には、縁側に腰を下ろし、訪れてきた志士を相手に国造りのプランを具体的に語っていたかもしれません。

 あるいは、国の現状を憂い、その舵取りを懸念していたかもしれません。そう思うと、この縁側の光景が脳裏から離れず、何度もリフレインするのです。

 はたして岩倉具視は何を懸念し、何を求めていたのでしょうか。

 これまでみてきたように、下級公家出身の岩倉具視が求めたものはまず、朝廷改革でした。というのも、朝廷内には厳格な序列があり、発言もその序列によって制限されていたからです。下級公家の岩倉だからこそ、そのことの理不尽さを身に染みて感じていました。

 発言が許された立場でいても、多くの公家は唯々諾々とし、抗うことをしませんでした。積極的に情報を収集し、幅広い世間を見ようともせず、旧態依然とした生活に甘んじていたのです。

 しかも、海外諸国が次々と開国を求めてきているというのに、多くの公家に危機感は見られませんでした。これでは朝廷に、時宜に合った対応ができるはずがありません。

 いつまでも伝統的な序列の下、蹴鞠や和歌を嗜むだけでいいのかという思いから、岩倉は次第に、朝廷改革への思いを固めていったのです。

 岩倉が、硬直化していた朝廷に一石を投じたのが、八十八卿列参事件といわれる抗議活動でした。

■『神州万歳堅策』(安政5年1月)

 安政5年(1858年)1月、老中の堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため上洛しました。この時、関白の九条尚忠は勅許を与えるべきだと主張しましたが、多くの公家は反対しました。反対意見の公家たちを組織化し、抗議活動に変えたのが、岩倉具視でした。

 岩倉は、中山忠能ら合計88名とともに条約案の撤回を求めて抗議活動を行い、回答を得られるまで九条邸を去らなかったのです。この一件は岩倉の行動力、屈せず動じない豪胆さを朝廷内に認知させることになりました。

 岩倉はその二日後には『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しています。

 主な内容は、①日米和親条約には反対、②条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策などでした。

 興味深いことに、岩倉はこの意見書の中で、相手国の形成風習産物を知るために、欧米各国に使節を派遣すべきだと主張していました。既にこのころから、岩倉は海外を視察する必要があると考えていたのです。

 その内容は非常に具体的でした。

 『岩倉公実記 上巻』には、「朝廷より正使1名随従4,5名、柳営(幕府)より副使1名随従4,5名、三家家門国主より各随従2,3名」を派遣し、少なくとも3年以上かけて、諸国の状況などを視察し、「国々の模様は書取りを以て蘭船に托して朝廷と柳営に言上せしむ可し」と書かれています。
(※ 安岡昭夫「岩倉具視の外交政略」、『法政史学』21巻、p.6、1969年)

 これをみると、派遣する人員、派遣期間、その職務内容まで、岩倉が詳細に考えていたことがわかります。

 しかも、現地で得た情報は逐一記録し、オランダ船に托して朝廷と幕府に送るよう求めてもいます。より正確に、より迅速に諸外国の情報を、朝廷が入手できる仕組みを考えていたのです。

 もちろん、それだけではありません。

 慶応2年(1866年)11月には、岩倉は国事意見書として「航海策」を記し、今後の外交政略を提言していました。

 冒頭の部分をご紹介しましょう。

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(※ 岩倉具視関係文書、国立国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 「臣友山・・・」で文章が始まっています。これは、岩倉がまだ蟄居していたころに書かれたものなので、謹慎中に使っていた法名を名乗っているのです。

■「航海策」(慶応2年11月)

 岩倉は、外国への対し方を俯瞰し、時代によって大きく変化してきたことを重く視ました。外交という観点から、これまでの経緯を次のように整理し、書き留めています。

 「攘夷の時代は外国勢を撃退し、近づけないようにしていればよかったが、和親の時代にはそれとは違って、何事もなければ、彼らをうまく手なずけ、思いやりのある気持ちで接し、なにかあれば、懲らしめる」(※ 前掲)といった具合です。

 確かに、幕府は、文化・文政時代(1804-1830)には、接近してきたイギリス船に対し、打払令で対応していました。日本の沿岸に近づく外国船があれば、見つけ次第に砲撃し、上陸した外国人は逮捕し、処罰していたのです。

 ところが、アヘン戦争で惨敗した中国を見て、幕府は対応を変えました。西洋の軍事力の強さを認識したからでした。1842年には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限って補給を認めるという薪水給与令を出しました。

 その後、再び、外国船が頻繁に接近してくるようになると、幕府では打払令の復活が議論されました。ところが、沿岸警備が不十分だったので、砲撃すれば逆襲され、そのまま上陸してくる可能性を懸念し、結局、打払令は撤回されたという経緯があります。

 押し寄せる海外勢を暴力的に抑え込むことはできないことを認識せざるをえなくなっていました。来航を拒絶するには、軍事力を高め、沿岸を警備できるようにしておかなければならなかったのですが、それは無理でした。軍備の面で圧倒的な差があったことはわかっていたのです。

 そこで、岩倉は、外国勢に対しては仁と威を使い分けることによってこそ、適切な外交ができると主張していたのです。つまり、徒に拒絶するだけではなく、相手が困った時には助け、危険が及ぶようであれば成敗し、臨機応変に対応していくしかないと考えていたのです。

 この岩倉の見解には、列強の軍事力への警戒心とともに、勅許も得ず軽率に、通商条約を結んでしまった幕府への怒りと不満が込められています。

 幕府は、1859年に横浜、函館、長崎を開港していました。海外との交渉の窓口が急速に広げられてしまったのです。

 岩倉が焦るのも当然でした。四方を海に囲まれた日本では、港は関門として重視する必要がありました。開港すれば、海外から人や物資が流入し、それに伴い、国内秩序が乱される懸念があったのです。

 そこで、当時、外国に開かれていた港の状況がどのようなものだったのか知りたいと思い、検索していると、1865年に撮影された長崎港の写真を見つけることができました。

 ご紹介しましょう。

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(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 長崎港は当時、多数の外国船で賑わっていました。帆船があれば、蒸気船のようなものまで、所狭しとばかりに行き交っています。これらの船からさまざまな物資が運び込まれ、それらの物資に付随して、海外のさまざまな情報が持ち込まれていたのでしょう。

 このような状況を見ると、岩倉が、開港したからには、海軍を設置する必要があると考えていた理由もわかります。

 中国ではアヘンがイギリスから持ち込まれ、やがてアヘン戦争が勃発していました。1842年に南京条約を締結し、香港が割譲されています。このようにしてアジア各国が欧米列強によって、次々と植民地化されていたことを明治政府は知っていましたし、もちろん、岩倉も知っていました。

 欧米列強に対抗できる国家にするにはどうすればいいか、岩倉は国防の重要性と、人材育成の必要性をひしひしと感じていました。列強に対して威と仁を以て接するには、まず、相手を知らなければなりません。

 岩倉は折に触れ、世界各国に渡航して視察し、その優れた点や弱点を把握することの重要性を説いています。とくに公家は早急に外国に応対していく必要があるとし、使節として海外に派遣され、現地の諸状況を把握してくるべきだと主張していました。

 慶応3年(1867年)3月、岩倉は国事意見書として「済時策」を記しています。興味深いことに、ここでも岩倉は、「航海策」と同様の考えを述べています。

■「済時策」(慶応3年3月)

冒頭の部分をご紹介しましょう。

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(※ 岩倉具視関係文書、国立国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 「臣」の字が小さく、「友山・・・」と始まる文章で起草されています。この時点でもまだ謹慎処分が解除されていなかったので、岩倉は謹慎中に使っていた法名を名乗っています。

 序文が終わると、項目として「朝廷ヨリ主トシテ航海ノ道ヲ開カル可キ事」を挙げ、開国貿易論を展開しています。次に項目として挙げられているのが、「兵庫開港ノ談判ハ朝廷ニ於テ之ヲ為ス可キ事」です。

 兵庫港の開港は、朝廷で判断すべき事項だとしています。ここでも、安政の通商条約で、幕府が拙速に開港してしまったことへの怒りと不満が感じられます。とくに兵庫港は、朝廷や商都大阪に近いので、江戸に近い横浜港を参考に、貿易制度の整備をすべきだと進言しています。

 横浜港は、安政5年(1858)の日米修好通商条約によって、神奈川開港が決定され、安政6年(1859)に開港しました。

明治初め頃の横浜港の西波止場の写真をご紹介しましょう。

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(※ 横浜開港資料館。図をクリックすると、拡大します)

 西波止場には和船がぎっしりと停泊しています。写真が小さくてよくわからないのですが、ざっと見たところ、外国船は見られないようです。

 ところが、1910年に撮影された写真を見ると、帆船や蒸気船が多数、行き交っているのがわかります。

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(※ 望月小太郎撮影、1910年。Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 見比べると、横浜港が大きく変貌しているのがわかります。40年余の歳月が技術を変え、人を変え、社会を大きく変えていったことが示唆されています。

 開港すれば、海外からの人や情報が国内に流れ込み、やがて社会が変貌していくのが目に見えていました。

 岩倉が欧米列強に対して抱いていた懸念を、はたして、払拭することはできるのでしょうか。

 とにかく、日本に開国を求める海外勢の態度は執拗で貪欲でした。何度も通商交渉を求めてくる諸国に、アヘン戦争の顛末を知る人々はどれほど危機感を覚えていたことでしょう。彼らには富みを得ようとする強い意欲と意思があり、そのためには手段を選びません。鎖国していた日本人が応対できる相手ではありませんでした。

 一旦、通商条約を結んでしまえば、その後は赤子の手をひねるように、日本が不利な状況に追い込まれていくのは目に見えていました。だからこそ岩倉は、貿易についても詳しく学び、教えていかなければならないと認識していました。

 列強と渡り合えるだけの制度整備と人材育成の必要性を感じていたのです。

■人材育成

 その基盤の一つとして、考えていたのが、国民教育の普及でした。

 「七道の観察使俯管轄内に数百の小学校を設置するべき」だとし、この観察使府には「和漢の諸学を研究する大学校を設ける」構想も抱いていました(※ 安岡昭夫 前掲。p.7)。

 七道とは、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道を指し、現在の関東、東北、北陸、山陽、山陰、四国、九州を指します。

 また、観察使府とは、平安時代の桓武天皇が設置した地方官の行政実績を監査するもので、地方行政の向上に一定の効果があったとされています。ところが、平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、わずか4年で廃止されました。

 それにしても、七道の観察使府とはなんと古色蒼然とした言い回しなのでしょう。公家出身の岩倉だからこそ、敢えてこの言葉を使い、王政復古の下での仁政を期待したのかもしれません。

 遥か遠く、平安時代にまで遡って、桓武天皇の偉業を踏まえ、岩倉は、地方行政の一貫として、教育組織を設置しようと考えていました。桓武天皇の地方行政での効果を参考にしたところに、岩倉の天皇による治世への想いが透けて見えます。

 岩倉は一貫して、開国するには、海外勢と平等な関係を築いていく必要があると考えていました。それには、海外情報の収集とその分析が不可欠で、それらを遂行できる人材の育成が肝要だと思っていました。

 一方、岩倉は次のように述べています。

 「海外列国には遺米使、遺英使などの官命を帯びた職員を置き、それぞれの国情を探り、その結果を朝廷に報告すべき」(※ 岩倉具視関係文書より意訳。)

 海外の情報を収集するには、渡航して一時的に滞在して情報を入手するのではなく、専門の職員を現地に駐在させる必要があると岩倉はいっているのです。住んでみなければわからない情報を入手しなければ、万全の対策を講じることはできないと考えていたからでしょう。

 興味深いことに、岩倉はここで、遺米使、遺英使といった言葉を使っています。このことからは、岩倉がこの頃の日本を、遣隋使、遣唐使を派遣していた頃と重ね合わせていたことがわかります。

 かつて中国から文化や技術、制度や思想を学んだように、今後は西洋からそれらを学ばなければならないと思っていたふしが見受けられます。

 このように岩倉は、政府要人をはじめ官僚、次代を担う多くの人々が、欧米の技術、制度、文化、思想を学ぶ必要があると考えていました。西洋との圧倒的な技術力の差を感じていたからにほかなりません。

 こうした経緯をみてくると、新政府が発足したのに伴い、岩倉が欧米に使節団を派遣したいと願ったのは当然でした。

■使節派遣に向けての三者三様の意見書

 岩倉具視は明治2年(1869)2月、新政府樹立早々に、欧米に勅使を派遣するべきだという意見書を提出しています。その目的は、①外交儀礼の聘問の礼、②条約改定問題の協議、を主な任務とするものでした。

 岩倉は、条約締結時の交渉相手であった江戸幕府は崩壊し、新政府が誕生したことを関係諸国に知らせる必要があると考えていました。外交儀礼上、聘問の礼を行わなければならないと思っていたのです。

 その一方で、条約改正について協議したいという意向を、条約締結各国に示す必要があるとも考えていました。おそらく、条約改正協議の期限が1872年5月だということが念頭にあったからでしょう。

 いずれも岩倉にとっては、喫緊の課題でした。

 またこの年、英語教師として幕府に採用されたオランダ系アメリカ人のフルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck, 1830 – 1898)が、当時、会計官副知事であった大隈重信に使節派遣の意見書を送っていました。1969年6月11日頃のことでした。
(※ https://www.facebook.com/verbeck.jp/posts/731989243655751/

 フルベッキが懇意にしていたJ.M, フェリスに宛てた書簡によると、当時、江戸では外国に使節を送るのはこの秋か冬になる可能性があると知らせてくれた人がおり、それで、彼は使節派遣についての意見書(ブリーフ・スケッチ)を書こうという気になったそうです(※ 前掲)。

 なぜ、フルベッキが大隈に意見書を送ったのか不思議でしたが、調べてみると、彼は長崎で大隈重信に英語を教えていたことがありました。

 フルベッキは長崎の致遠館(佐賀藩が長崎に設けた英学校)で英語教師をしていましたが、1869年2月13日に明治政府から大学設立のため江戸に出仕するようにという通達をうけました。法律の改革論議と大学設立の仕事だったといいます。

 おそらく、フルベッキが長崎を離れる前に、学生たちと集合写真を撮ったのでしょう。上野彦馬が撮影した写真が残っています。

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(※ Wikipedia。 図をクリックすると、拡大します)

 フルベッキ親子と学生たち、総勢46名が写っています。

よく見ると、フルベッキ親子と岩倉具定と岩倉具経、そして、大隈重信が、同じ列に並んでいましたので、その部分を拡大してみました。

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(※ Wikipedia。部分。 図をクリックすると、拡大します)

 フルベッキの右側にいるのが岩倉具定で、フルベッキの子どもの左側にいるのが岩倉具経、その左側にいるのが大隈重信です。岩倉具定は岩倉具視の次男、岩倉具経は三男です。

 大隈重信は佐賀藩士だったので、致遠館で英語を勉強しているのはわかるのですが、岩倉兄弟がなぜ、この集合写真に写っているのが不思議でした。

 調べてみると、岩倉兄弟は1869年6月に致遠館に派遣され、フルベッキに学んでいました。その後、岩倉具定は米国ラトガース大学に、弟の岩倉具経はオックスフォード大学に留学しています。

 先ほどもいいましたように、フルベッキが大隈に意見書を送ったのは、6月11日頃でした。ですから、岩倉兄弟はほとんどフルベッキに学んでおらず、後任から英語や海外事情を学んでいたのでしょう。

 さて、フルベッキは政府要人になっていた大隈に意見書を送りましたが、受け取った大隈はその取扱いに困ったのかもしれません。時期尚早として、その意見書を秘蔵していました。1871年10月26日にフルベッキが岩倉邸に呼ばれるまで、この意見書の存在は誰にも知られていませんでした。

 そして、明治4年(1871)2月、今度は伊藤博文がアメリカから、条約改正準備と特命理事官の各国派遣の意見書を、沢宣嘉・外務卿に提出しています(※ 長谷川栄子、「岩倉使節団成立過程の再検討」、『熊本学園大学論集 総合科学』19巻、2号、pp.3-4.)。

 実は、伊藤は明治3年(1870)から財政幣制調査のために渡米していました。新政府樹立後の財政、貨幣について参考にするためアメリカ派遣され、現地で視察、調査を行っていたのです。その傍らで得たさまざまな情報を総合的に判断し、早急に、条約締結国に使節を派遣する必要があると判断したのでしょう。

 このように、当初、欧米への使節派遣の必要性を感じ、意見書を具申していたのは、岩倉具視とフルベッキ、そして、伊藤博文でした。

 岩倉はこれまでの経緯を踏まえて使節派遣の必要性を感じたのでしょうし、伊藤はアメリカに滞在して得たさまざまな情報から、派遣の緊急性を感じたのでしょう。そして、オランダ系アメリカ人のフルベッキは、派遣の噂を聞き、欧米人だからこそわかる使節派遣の際の注意事項を政府首脳に伝えるべきだと判断したのでしょう。

 日本の将来を考えた時、条約改正は不可欠だと判断し、三者三様の立場から、意見書を政府首脳に提出していました。彼らは、条約改正のためには準備のため早急に使節を送る必要があるという認識で一致していたのです。

 ちなみにアメリカで財政、貨幣制度を把握した伊藤は、その翌年に金本位制の採用と新貨条例の公布を主導しています。各方面で、新政府主導の制度整備が着々と進んでいたのです。次の大きな課題は使節団を派遣し、欧米との条約改正のための準備をすることでした。

■当時の状況

 それでは、1871年の状況がどのようなものであったか、政体の側面から見ておくことにしましょう。

 1871年7月14日に廃藩置県が行われ、7月29日には、これまでの太政官制が、正院(最高国家意思決定機関)、左院(議法機関)、右院(行政機関)の三院制と改められました。そして、中央官庁として、神祇省、大蔵省、司法省、文部省、兵部省、工部省、外務省、宮内省が整備されています。

 その後、11月には府県の統廃合を実施して、一使、三府、72県とし、長官に相当する知事、県令には大蔵省の官吏を任命しました。こうして新政府は着々と中央集権体制を整え、幕藩体制からの移行を、形式上、終えたのです。

 残された大きな課題は、不平等条約の解消でした。

 江戸幕府が安政5年(1858)に、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと締結した通商条約は、①治外法権を認めたこと、②関税自主権がなく、協定税率に拘束されていること、③無条件で片務的な最恵国待遇条款を承認したこと、等々の点で、日本にきわめて不利な条約でした。

 安政五か国条約と呼ばれているものです。

 これらの不平等な条項を撤廃するには、一国との交渉ではなく、最恵国待遇を承認した国々すべての同意が必要でした。列強の勢いに押され、拙速に条約締結に踏み切ってしまった徳川政権は、後の世に大きな負債を残していたのです。

 さて、廃藩置県が施行され、取り敢えず、中央集権体制に移行したのが、1871年でした。ようやく近代国家としての体裁を整えることができましたが、翌1872年5月には、条約改正協議の期限を迎えることになっていました。

 新政府としては早急に、期限延長の準備交渉のために使節を派遣しなければなりませんでした。

 期限延長を含め、条約改正に向けたさまざまな交渉の準備のため、欧米に使節を派遣するという名目で、使節団派遣の構想は実現に向けて動き出したのです。

■使節団構想と岩倉使節団

 使節団がどのような過程を経て編成されたかについては諸説あるようです。

 これまで見てきたように、私は当初から、岩倉具視使節団として派遣が決まったものだと思っていました。公家たちを組織化して抗議活動を展開した八十八卿列参事件をはじめ、岩倉がこれまで行ってきた政治活動は一貫して、日本を守るためのものであり、不平等条約の撤廃に向けてのものでした。

 先ほどもいいましたように、岩倉は1869年2月には使節派遣に意見書を出しています。

 ところが、使節派遣構想は大隈重信が言い出したもので、「大隈使節団」こそ、当初の構想だったという説があります。この説では、大隈使節団が岩倉使節団に変更された背景には、廃藩置県後の明治政府内部の政治抗争があったと説明されています。

 たとえば、大庭邦彦氏は、使節団派遣構想は当初、大隈重信主導で1871年8月下旬に具体化され、閣議において「内定」したと書いています。使節団の任務としては、条約改正の延期を締結各国と交渉すること、法律、政治、経済、教育、軍事、宗教など各分野の視察および調査をすること、等々でした。

 この構想が9月に入ると、外務卿岩倉具視を大使とする岩倉使節団構想へと引き継がれていくことになったというのです(※「岩倉遣欧米使節団にとっての「観光」」、『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社、2007年、p.152.)

 その理由として、大庭氏は、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』を引いて、政権のヘゲモニーを掌握される可能性を嫌った大久保利通や岩倉具視による「謀議」と「策略」の結果であると書いています(前掲、p.152.)。

 これはほんの一例ですが、大隈重信が使節派遣の発案者だとする説を取る人は大抵、岩倉使節団の発足を新政府内の抗争あるいは陰謀論の結果だと解釈しているのです。

 大庭氏は、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』を引いて説明していましたが、この立場をとる研究者の多くが大久保氏の論に立脚しています。

 試みにWikipediaをみると、使節団派遣の経緯については記述がなく、日本大百科全書では、岩倉使節団の派遣をめぐっては、伊藤博文提案説と大隈重信提案説があるが、それが結果的に岩倉使節団に切り替えられたと説明されており、その理由として新政権をめぐる薩長と非薩長との主導権争いがからむとされています。
(※ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2059

 ここでも、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』に基づいて、使節団の設立経緯が説明されています。このように、使節団派遣の経緯については、大久保利謙氏の見解が大きな影響力を持っていることが示されています。

■「大隈使節団」から「岩倉使節団」への移行と捉えることはできるのか。

 これまでみてきたように、使節団について知ろうとする初学者はまず、大久保利謙氏の説に出会う可能性がとても高いことがわかりました。その結果として、大勢の人がこの見解を共有することになり、一つの歴史的事実として受け止められているのかもしれません。

 これに対し、鈴木栄樹氏は、「従来の岩倉使節団編成過程の研究に対していくつか疑念がわいてきた」と記し、文献資料を踏まえ、実証的に検証していきます。

 大久保利謙氏の、「岩倉使節派遣の研究」(『岩倉使節団の研究』宗高書房、1976年、所収)という論考に対し、鈴木氏は、岩倉使節団編成過程に関する実証研究の起点となったと評価したうえで、「大隈使節団」構想から岩倉使節団への転換を政治抗争と関連付けて捉える大久保氏の見解には疑問を呈するのです。
(※ 鈴木栄樹、「岩倉使節団編成過程への新たな視点」、横山伊徳編、『幕末維新と外交』、吉川弘文館、2001年、pp.316.)

 そして、大久保氏が「岩倉の全権は、この使節の重大性から、むしろ当然の人事で、大隈では軽く、実は岩倉をおいてこの大任に当たるべき人物はほかになかったといっていい」とし、「岩倉は公家出身の傑物で、幕末期の革新運動の一方の推進者であり、はやく遣外使節の主張を行っていた」とも述べていることに言及しています。

 私がこれまで岩倉具視の活動についてご紹介してきたとおりの見解です。岩倉具視の人となり、政治的立場、社会的地位、これまでの経緯等についての大久保氏の理解になんの異論もありません。

 ところが、大久保氏は、「「大隈から岩倉への推移は、廃藩前後の政府部内の複雑な内情、雄藩間の対立などを考えると、そこに重大な政治的な内情があったことが察せられ、岩倉使節団の成立がそういう政治過程のなかからでた事態であることが考えられる」(※ 大久保論文、前掲)と述べているのです。

 鈴木氏は、そこに違和感を覚え、次のように記しています。

 「当然の人事」でありながら、「重大な政治的な内情があった」という大久保氏の発言ははたしてどのように解釈されるべきなのであろうか」
(※ 鈴木栄樹、「岩倉使節団編成過程への新たな視点」、横山伊徳編、『幕末維新と外交』、吉川弘文館、2001年、pp.319-320.)

 確かに、これまでの言動および活動をみれば、岩倉が全権大使になるのは当然でした。条約締結をした各国首脳と対等に面談できる立場だという点でも、岩倉は適任でした。ところが、大久保氏は、当初は大久保使節団で決まっていたものが、新政府内の内情、雄藩の対立などの政治的過程から岩倉使節団が発足したと述べるのです。

 鈴木氏が疑問に思ったように、大久保氏の記述には、論理に飛躍があり、論理矛盾があるように思えます。

 鈴木氏はまた、「大隈使節団」構想が存在したことを言い出したのが大久保氏だったことに触れ、果たして、そのようなものが存在するのかと疑問を呈しています。後年になって書かれた大隈重信の回想録『大隈伯昔日譚』の中の記述しか証明するものがなく(※ 前掲)、客観的根拠がないに等しいのです。

 こうしてみてくると、大久保利謙氏の使節団成立過程に関する論考で、大きく問題になるのは、①仮に大隈使節団構想というものがあったとして、それを岩倉使節団と同レベルで取り上げ、論じていること、②大隈使節団から岩倉使節団への移行理由を政府内の抗争、あるいは陰謀論で片づけていること、等々だといえます。

 一方、長谷川栄子氏は『岩倉具視関係資料』所収の新出書簡に基づき、この問題について、次のように見解を総括しています。

① 大隈重信は条約改正交渉成功のため、日本をアピールするための使節を各国に派遣することと、自身が使節の任務を引き受けることを閣議で申し出、ひとまず容れられたが、その閣議で決まったのは使節を外国へ派遣することのみであった。

② その閣議後、岩倉らの議論の中で使節は勅使と位置付けられ、岩倉の大使選任は異議なく決まった。しかし、それに付随して出された木戸・大久保副使案には、廃藩置県直後の新体制整備の最中であることから、三条と板垣が反対した。

③ しかし、条約改正が最も重要な課題であることを国民に認識させ、帰国後の条約改正に向けた改革をスムーズに進めるために政府指導者層の洋行が必要である、という使節団派遣についての木戸の説明を三条と板垣が理解したことにより、正院構成員全員の了承のもとに大規模な岩倉使節団が編成されることになった。これが新出の木戸書簡により判明した事実である。

④ 大蔵省の強力な指導のもとに健全財政の実現をめざす井上馨は、使節団留守中の大蔵省の掌握と大蔵省批判勢力の排除を画し、木戸・大久保洋行の実現に尽力するとともに、使節団と留守政府のメンバーの約定書調印を提起した。

(※ 長谷川栄子、「岩倉使節団成立過程の再検討―『岩倉具視関係資料』所収の新出書簡を用いてー」、『熊本学園大学論集『総合科学』』、第19巻2号、2013年、p.20.)

 長谷川氏の論文は関係者の書簡を渉猟し、きわめて論理的に、丁寧に考証されており、とても説得力のある見解でした。

■大義のための勅使として派遣が決まった岩倉使節団

 大久保氏が「大隈使節団」と称したものは、新たに出てきた資料に基づいて検証すれば、結局、閣議で「外国に使節を派遣する」ことが決まっただけのものでした。内部抗争とされたものも、条約改正の重要性を国民に認識させ、帰国後の条約改正に向けた改革をスムーズに進めるという点で三条や板垣から了解が得られています。

 一連の流れをみてくると、当時の首脳陣は、列強に伍していける日本を創り上げるため、正院全員一致で、勅使としての岩倉使節団の派遣を決定したことがわかります。

 長谷川氏は論文の最後で、木戸孝允の日記から次のような文章を引用しています。

 「真に我国をして一般の開化を進め,一般の人智を明発し,以て国の権力持し独立不羈たらしむるには僅々の人才世出するとも尤難かるへし,其急務となすものは只学校より先なるはなし」(※ 『木戸日記』)
(※ 長谷川栄子、前掲、p.21.)

 木戸は副使として渡航した際、サンフランシスコで小学校を訪問し、視察しました。子どもたちが活発に発言し、自由に行動していたのを眼にしたのでしょう。「独立不羈」という言葉を使って、自発性の重要性を指摘しています。

 岩倉もまた、以前から、欧米列強に伍していくには人材育成が重要であり、全国津々浦々、そのための教育制度を充実させなければならないと考えていました。西洋に見合ったレベルの技術、文化、制度、思想などを身につけなければ、対等に立ち向かえないと思っていました。

 木戸は、アメリカで小学校を視察し、近代国家を担っていくには、「独立不羈」の精神を涵養すること重要だと認識しています。彼は子どもたちの様子を観察しただけで、当時のアメリカの文化を読み取り、近代国家に何が必要なのかを感じ取ったのです。

 岩倉使節団のメンバーは、政府の最高首脳陣から構成されました。大使・副使と各省の実力者から成る理事官46名が、使節団として編成されています。

 意思決定することができ、政策を実行できる立場のテクノクラートたちが大挙して、欧米を訪問したのです。現地で視察し、調査することによって、欧米の文化、技術、制度、思想を肌で感じ取る機会が創出されました。岩倉使節団の派遣は、新政府の英断だったといえるでしょう。(2023/5/29 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅②:岩倉らは新たな日本の国家像をどう描いたのか。

■幕府と朝廷の代替わり

 岩倉らの有能な公家たちが追放されていた5年間に、幕府も朝廷も代替わりしました。

 将軍家茂は、慶応2年(1866)7月20日、長州征伐に向かう途中、大阪城で亡くなりました。その後継として、12月5日に第15代将軍の座に就いたのが、徳川慶喜です。30歳でした。

 一方、36歳の孝明天皇は、慶応2年(1866)12月25日、悪性の出血性痘瘡が原因で亡くなってしまいました。慶喜が将軍になった20日後のことです。第122代天皇として即位したのが、まだ15歳の明治天皇でした。

 有力な公家が追放された後の朝廷に、幼い天皇と判断力のない公家たちが残されました。朝議を開いても、政治力のある徳川慶喜に仕切られてしまうのは当然のことでした。かといって、慶喜が諸藩を掌握しているわけでもありませんでした。薩摩藩など将軍職の廃止に動こうとしていた藩もあったのです。

 朝廷と幕府の代替わりとともに、日本の国家体制はきわめて脆弱なものになっていました。それを好機とばかりに、欧米列強は開国を求める動きを強めていました。

 たとえば、オールコックの後任大使に任命されたパークス卿(Sir Harry Smith Parkes, 1828 – 1885)は、慶応3年(1867)に大坂で徳川慶喜に謁見し、期限どおり兵庫を開港する確約を取り付けています。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り絶賛しています(※ Wikipedia パークス)。

 この時点で、慶喜はまだ天皇から勅許を得ていませんでした。

 兵庫開港については、慶喜や諸侯も出席した朝議を経て、5月24日に勅許がおりました。ところが、その朝議に幼い天皇は出席していませんでした。将軍慶喜は渋る朝廷を脅したりすかしたりしながら、強引に勅許をもぎ取ったといいます(※ 佐々木克、前掲。p.103.)

 このような徳川慶喜をパークスは、最も優れた人物と評しましたが、公家たちは、政治力のある慶喜に脅威を感じはじめていました。岩倉ら有能な公家が欠けた朝廷内で、朝議が慶喜の意のままに動かされるようになっていたからでした。

 このときの朝議に対する遺憾の思いは、さまざまな方面から、蟄居する岩倉具視に伝えられました。岩倉が国政に危機感を抱いたのも無理はありません。

 それでは、再び、岩倉具視幽棲旧宅に戻ってみましょう。

■岩倉宅を訪れていた中岡慎太郎

 表門から入ると、玄関に辿り着く手前に、庭に入る中門があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 中門を入ると、立派な枝ぶりの松の木が、シンボルツリーのように植えられていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 この木はちょうど、主屋から鑑賞できる位置にあります。手入れの行き届いた閑静な庭を眺めながら、岩倉具視はどのような国家ビジョンを練り上げていたのでしょうか。

 主屋には、興味深い説明書きが展示されていました。


(※ 署名の植彌は管理会社名。図をクリックすると、拡大します。)

 坂本龍馬や中岡慎太郎、大久保利通らが、蟄居する岩倉具視を訪ねて来て、相談を重ねていたというのです。

 また、敷地内にある対岳文庫には、土佐藩の中岡慎太郎が岩倉具視に宛てた書状が、展示されていました。1867年9月10日付けの書状です。上が草体仮名の原文で、左下が活字体に書き起こしたもの、右がその内容を現代語に訳したものです。


(※ 対岳文庫蔵、図をクリックすると、拡大します)

 宛先の「北岡」は、岩倉具視を指し、送り主の「勘蔵」は、中岡慎太郎の偽名です。情報が洩れるのを恐れ、当時はこのように、お互いに偽名を使って連絡を取り合っていたことがわかります。

 書状の内容は、次のようなものでした。

 「幕末の混乱した政局を安定させるため、土佐藩は薩摩藩と協力して、大政奉還と公議政体の創出に向けて尽力することを申し合わせたが、前土佐藩主の山内容堂が土佐藩兵の京都派遣は武力行使につながるとして反対し、後藤象二郎に武力行使を伴わない大政奉還をめざすよう命じたため、出兵を中止した。そのことを詫び、今後の方策を説明したい」

 中岡慎太郎は、前土佐藩主の山内容堂が土佐藩兵の派遣を中止したことを詫びるとともに、今後、土佐藩はどうすべきか新たな方策を直接、岩倉具視に会って、説明したいといっているのです。

 この書状の日付は1867年9月10日でした。

 その内容が、薩摩藩と土佐藩の申し合わせに関するものだったので、調べてみると、二カ月余前の1867年6月22日、薩摩藩と土佐藩、両首脳の間で「薩土盟約」が結ばれていました。

■薩土盟約

 当時、日本は諸外国との間で約束した開港時期を巡る問題に対処しなければなりませんでした。ところが、有力公家が追放された朝廷では、朝議が機能せず、かといって、幕府に任せれば、外国のいうまま、日本に不利な条約を結んでしまいかねません。

 危機感を覚えた薩摩藩は、雄藩諸侯の合議で政策を決定する体制に持ち込もうとしました。実際、四侯会議(有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制)を開催したこともありました。

 薩摩藩はこれを機に、政治の主導権を幕府から雄藩体制に移し、公武合体の政治体制へ変革しようとしていたのです。

 ところが、政治力のある徳川慶喜に思うがまま、操られてしまいました。それまでは公武合体派であった薩摩藩が、これでは討幕せざるをえないと思うようになった契機が、この四侯会議でした。

 一方、土佐藩の中岡慎太郎は、前藩主の山内容堂の四侯会議での不甲斐なさに危機感を覚えました。これでは、日本の未来はないと思ったのです。そこで、土佐藩を脱藩して、薩摩藩に近づき、薩土密約を交わして倒幕の計画を練り上げるという行動に打って出ました。

 一連の手はずを整えてから、中岡は前藩主の山内に承認を迫り、ようやく薩土盟約は成立したという経緯がありました。

 薩土盟約は、薩摩藩と土佐藩との間で交わされた盟約で、徳川慶喜に将軍職を退かせ、幕府でもなく朝廷でもない全く新しい政府を樹立するために協力し合うというのがその趣旨でした。幕府の暴走を止め、政治力のある慶喜に圧力をかけるために、両藩は兵力を動員するという約束を交わしていたのです(※ Wikipedia 薩土盟約)。

 中岡慎太郎の機転の利いた行動がなければ、おそらく、この薩土盟約は成立していなかったでしょう。

 ところが、先ほど、ご紹介した中岡慎太郎の書状にあるように、土佐藩の前藩主・山内容堂が藩兵を出すことに反対しました。最終局面になって、土佐藩は出兵に応じなかったのです。

 中岡慎太郎らが奔走し、その尽力の結果、交わされた薩土盟約でしたが、実行に移されることなく、2か月余で解消されました。前藩主の山内容堂に胆力がなく、その決断ができなかったからでした。

 一方、薩摩藩はこの計画を変更しませんでした。むしろ逆に、土佐藩が欠けたので、その代替として長州藩に応援を求め、9月19日には、薩長両藩の出兵協定を結んでいます。積極果敢に、当初の方針を貫いたのです。すると、翌20日には、芸州藩(広島)が、この協定に加わりました。

 さて、土佐藩は10月3日に出兵しませんでした。前藩主の山内容堂は、その代わりに、後藤象二郎を使者とし、大政奉還建白を徳川慶喜に提出させました。武力行使を避け、徳川慶喜将軍に政権返上の意見書を提出したにすぎませんが、土佐藩としては、これで初志を貫いたことにしたかったのでしょう。

 さまざまな情勢、政局、海外の動きなどを考え、中岡慎太郎らが、脱藩して薩摩藩に近づき、締結にこぎつけた薩土盟約でした。それを、前藩主の山内容堂があっさりと保護にしてしまったのです。

 刻々と変化する情勢をどう分析するか、その先にどのような未来を見るのか、さらには、海外を含めた周囲の動きはどうなのか・・・、さまざまな情報を総合的に的確に判断する力とともに、いざとなれば武力行使も厭わないといった胆力が、混迷期の指導者には不可欠なのでしょう。

 その頃、蟄居する岩倉具視を頻繁に訪れていたのが、大久保利通でした。

■大久保利通と「倒幕の密勅」

 各藩のさまざまな動きがあるなか、中御門経之は10月5日、薩摩藩の大久保利通を邸に呼び、国情を聞いています。翌6日には、大久保と長州藩の品川弥二郎が岩倉宅に呼ばれ、そこで岩倉と中御門に会っていました。具体的な話の内容はわかりませんが、薩摩と長州、両藩の藩士と朝廷側とが密かに会っていたのです。おそらく、大政奉還を進めるための具体的な話し合いをしていたのでしょう。

 佐々木克氏は、会談内容を次のように推測しています。

 「断然と征夷大将軍を廃止」して、「大政を朝廷に収復」し、朝廷が政治の実権を握り、大いに「政体制度」を革新し、「皇国の大基礎」を確立することを、非常の英断をもって、「朝命を降下」するというものである(※ 佐々木克、前掲。p.106.)。

 この時点では明らかに、彼らが将軍職を廃し、朝廷を中心とした政治体制を目指した動いていたことがわかります。

 実際、10月8日、大久保利通ら薩摩藩代表、広沢真臣ら長州藩代表、植田乙次郎ら芸州藩代表らが会合し、武力で幕府を倒し、政変を決行することを決議しました。

 三藩の代表は、その決意を中御門経之らに告げ、幕府の出方次第では武力行使の可能性もあることを理由に、相応の宣旨を発行してもらいたいと願い出ました。

 いよいよ最終局面にさしかかってきたようです。

 そこで、当時の資料を渉猟してみると、該当する古文書を見つけることができました。


(※ 岩下哲典監修『幕末維新の古文書』pp.228-229. 柏書房、2017年)

 長州藩に残されていた古文書です。

 左下に連署された差出人を見ると、右から順に、広沢真臣、福田侠平、品川弥二郎と署名されています。いずれも長州藩の藩士です。続いて、その左側には順に、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通の名前があり、こちらは薩摩藩の藩士です。

 この古文書は、長州藩と薩摩藩の藩士6名によって、中山らに宛て、隠密裏に提出された書状でした。倒幕の正当性を担保する「倒幕の密勅」を求める書状の写しだったのです。

 書状の左上に書かれている宛先は、右から順に、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と書かれており、いずれも公家の中の討幕派として知られている人物です。興味深いことに、最後に書かれているのが、岩倉具視の名前でした。

 そもそも、岩倉が御所から遠く離れた洛外に蟄居せざるをえなくなったのは、尊王攘夷派から佐幕派とみなされていたからでした。ところが、「倒幕の密勅」の請書を見ると、岩倉具視も、この書状の宛先の一人になっているのです。

 一体、なぜなのでしょうか。

■岩倉具視の国家構想

 岩倉具視はそもそも公武合体派だったはずです。朝廷を中心に、幕府と諸侯力を合わせた国家体制の下、外国勢に対応していこうと考えていました。

 それが、なぜ、この時点では、倒幕派に与するようになっていたのでしょうか。その経緯がわからず、岩倉の立ち位置の変化が理解できませんでした。

 調べてみると、幕府には欧米列強に対する危機感がなく、判断力が鈍いことへの不満が、岩倉には蓄積していることがわかりました。

 幕府の体制もまた、硬直化していました。彼らは、積極的に海外情報を摂取しようとせず、的確な決断を下すこともできません。このような幕府の体制では、とても激動の時代を乗り切れないと岩倉は考えるようになっていたのです。

 一方、有力公家が追放された朝廷もまた硬直化し、合理的な判断力に欠けていました。それを憂いた薩摩藩の提案で、四侯会議を開催したこともありました。雄藩の代表を意思決定の場に参加させてみたのです。ところが、政治力のある将軍慶喜に押し切られ、実りある衆議を尽くすことはできませんでした。

 ひょっとしたら、岩倉はこの四侯会議の経緯を聞いて、朝廷と雄藩を中心とした国家体制の構築へと傾いていったのかもしれません。

 調べていると、次のような記述を見つけることが出来ました。

 「岩倉は慶応元年(1865)頃から元水戸藩士の香川敬三などと接触し、公家の中御門経之(妻は岩倉の姉富子)等を通して薩摩藩士藤井良節、井上石見らから情報を得、今後の国家の構想を練っていた」(※ 斉藤紅葉「第二章 岩倉具視の新国家像と動向」伊藤之雄『維新の政治変革と思想』、ミネルヴァ書房、2022年、pp.80-81.)

 岩倉は、蟄居の身分でありながら、元水戸藩士や薩摩藩士などと接触して、情報を得ていたのです。できる限り幅広く情報を集め、刻々と変化する情勢分析を行い、どのような体制が日本にとって最適なのか、日々、考えを巡らせていました。

 国内外の最新の情報を収集した結果、天皇を中心とし、雄藩が支える構造の国家体制を考えるようになっていたのです。

 実際、岩倉は具体的な提言を行っています。

 たとえば、慶応2年(1866)10月頃、岩倉は朝廷に向けて意見書を書いています。その内容は、徳川から「軍職」を取り戻し、源頼朝以前の体制への「復古」をめざすべきだというものでした。王政復古に加え、薩長の支援があれば、強力な国家体制になると考えていたのです(※ 前掲)。

 確かに、岩倉は以前から、朝廷を中心とした国家体制を構築するのがベストだと思っていました。国家としての統合を図るには、天皇を中心に据えた体制が不可避だと考えていたのです。

 もちろん、天皇とその周辺だけでは国家運営はできません。行政を担当するパートナーが必要でした。

 岩倉はこれまで、為政のためのパートナーとして、幕府と諸藩を想定していました。これまで岩倉が公武一体派とみなされてきた所以です。ところが、この時の意見書では、幕府を外し、薩摩藩と長州藩を両輪として朝廷を支えるという具体的な構想を打ち出してきたのです。

 果たして、どのような状況の変化があったのでしょうか。

 実は、岩倉がこの意見書を出した当時、長州藩は朝敵とみなされ、藩主、藩士共に入京が認められていませんでした。というのも、元治元年(1864)8月20日、長州藩は過激な攘夷思想ゆえに、京都で武力衝突事件を起こしていたからでした。

 薩摩藩と長州藩は攘夷思想の点では一致していましたが、その進め方に大きな違いがありました。薩摩藩が、公武合体の立場から穏便に、朝廷を中心とした体制に移そうとしていたのに対し、長州藩は急進的な攘夷思想の下、一気に王政復古を進めようとしていたのです。

 その結果、薩摩藩は会津藩と組んで戦い、長州藩を京都に出入りできないようにせざるをえませんでした。この事件は、禁門の変、あるいは、蛤御門の変とも呼ばれています。

 この禁門の変の後、長州藩は「朝敵」とみなされ、1864年と1866年には幕府が長州征伐を行っています。1863年と1964年には、イギリス、フランス、オランダア、アメリカとの間で下関戦争が勃発し、長州藩は相当、打撃を受けていました。

 相次ぐ戦禍で、長州藩は勢力を大きく減退させていたのです。

 それでも、岩倉具視は、長州藩に大きな可塑性を見出していました。薩摩藩とともに朝廷を支えるのは長州藩だと着目していたのです。

■長州藩と薩摩藩

 実は、岩倉の意見書が提出される7か月ほど前の慶応2年(1866年)3月7日、京都上京区の小松帯刀邸で、薩長同盟が締結されていました。争っていたはずの薩摩藩と長州藩がいつの間にか、手を組み、政治的、軍事的同盟を結んでいたのです。

 薩摩藩が会津藩と協力して長州藩を京都から追放したのが、1863年に起こった「八月十八日の政変」でした。そして、翌1864年には、上京して出兵してきた長州藩と戦火を交え、敗退させました。「禁門の変」と呼ばれる事件です。この時点で、薩摩藩と長州藩は明らかに敵対関係になっていました。

 ところが、その後、薩摩藩は長州藩に何度も秋波を送り、長州藩との連携を模索しています。というのも、薩摩藩が幕府から距離を置いて、将来の戦闘に備えるには、西国の大名との連携が不可欠だったからでした。

 薩摩藩主の島津久光は、当初、福岡や久留米など九州雄藩との連携を考えました。ところが、うまくいきませんでした。結局、長州藩と提携するしかなく、土佐藩を脱藩した坂本龍馬や中岡慎太郎が、両藩の仲を取り持つ恰好で、交渉が進み、慶応2年(1866年)3月7日、6か条から成る薩長同盟が締結されました。

 坂本龍馬が書いた薩長同盟の裏書が残されています。


(※ 宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵)

 この裏書には日付が書かれていませんが、坂本龍馬らの働きのおかげで、両藩が手を結んだことは明らかでした。岩倉が薩長を頼りになる雄藩だと考えていたことに変わりはありません。 

 穏健派であろうと、過激派であろうと、薩長は攘夷思想の下で活動していました。しかも、両藩とも、その攘夷思想が原因で、海外とトラブルを引き起こし、列強との戦争を経験していました。

 文久3年の薩英戦争であり、文久3年と元治元年の下関戦争です。

 薩摩藩は文久2年(1862)9月14日に起きた生麦事件を契機に、薩英戦争(1863年8月15日‐17日)を引き起していました。艦隊を持つイギリスに対し、薩摩藩は果敢にも、防戦をし、砲台や弾薬庫、汽船などに損害を受けました。鹿児島城下の約1割が焼失したそうですが、イギリスに比べ、死傷者は比較的少なく、善戦していたといいます。

 岩倉はおそらく、そこにも目をつけていたのでしょう。海外勢と戦うだけの兵力、情報力、そして、胆力があったのです。

 攘夷思想の下、海外勢と戦った長州藩と薩摩藩を岩倉は高く評価し、薩長を両軸とした、朝廷中心の国家体制に切り替えようとしていたのです。

 興味深いことに、岩倉は、朝廷に提出したこの意見書の中で、当時の関白二条斉敬に代わって、前関白の近衛忠煕を天皇の侍臣とするよう、朝廷に求めていました。

 一体、なぜなのでしょうか。

 近衛家は五摂家のうちの最高家格の家柄でした。そして、前関白の近衛忠煕は公武合体派の一人で、夫人は前薩摩藩主の娘でした。薩摩藩と深い繋がりがあったのです。

 一方、当時の関白であった二条家も五摂家の一つですが、家格としては近衛家に劣ります。しかも、二条斉敬と徳川慶喜とは従弟同士で、幕府と深い繋がりがありました。岩倉は、このような関係も重視したのかもしれません。前関白の近衛忠煕に天皇の侍臣になるよう請願したのです。

 公武合体を唱えていた頃とは違って、岩倉は明らかに、幕府を外し、朝廷と薩長両藩を中心とした新しい国家体制を考えるようになっていました。このような岩倉の変化を、親王や内大臣、薩摩藩士の大久保利通らは、好意的に受け止めるようになっていきます。

 それでは、再び、倒幕を巡る薩長の藩士と朝廷の動きに戻りましょう。

■倒幕の勅許

 先ほど、書状をご紹介しましたが、大久保利通らは、「倒幕の密勅」を求め、中御門らに請願しました。これは、薩摩藩藩主の島津久光の上京を条件に了承されました。そして、翌9日には、大久保利通は、8日の話し合いの一切合切を、岩倉具視に報告しています。

 ここに、薩長藩士を動かし、密かに倒幕を指揮したのが岩倉具視だったことが示されています。

 薩摩藩の大久保利通が密使となって、岩倉具視と中御門ら意思決定者との間を取り持ち、実行部隊と齟齬のないよう、隠密裏に動いていたのです。

 10月13日、岩倉は、薩摩藩の大久保と長州藩の広沢を邸に呼び、沙汰書を授けました。そして、肝心のものは明日、正親町三条実愛から渡されると告げています。肝心のものとは、「倒幕の密勅」です。

 14日には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三名の連名で、倒幕の密勅が出されました。


(※ 岩下哲典監修『幕末維新の古文書』pp.228-229. 柏書房、2017年)

 上記の書状は、毛利父子宛てに出されたもので、10月14日の日付があります。「倒幕の密勅」は、10月13日付けで薩摩藩主宛て、翌14日付けで長州藩主宛てに下されました。

 内容の一部をご紹介すると、「賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに、回天の偉勲を奏し、しかして生霊を山嶽の安きに措くべし、これ朕の願い敢えて懈るある無かれ、」と書かれています。

 その主旨は、「賊臣慶喜」を「殄戮(殺せ)」せよというものでした。文中に「倒幕」といった文字はありませんが、これで、薩長両藩主による出兵への同意がなされたことになりました。

 ちなみに、この密勅の文面は、岩倉具視の側近である玉松操が考え、揮毫したのは、薩摩藩宛てが正親町三条実愛、長州藩宛てが中御門経之だとされています(※ 前掲。p.230.)

 改めて、岩倉具視が倒幕のキーパーソンであり、新たな国家構想の中心人物であったことがわかります。

■キーパーソンとしての岩倉具視

 それにしても、岩倉具視はなぜ、これだけ堂々と倒幕活動に関わることができたのでしょうか。蟄居を強いられ、行動を監視されていたにもかかわらず、薩長藩士らと連絡を取り合い、要人に懇請して密勅を出してもらえるよう手配し、密使に指令を出していたのです。

 なぜ、これだけパワフルに活動することができていたのでしょうか。

 調べてみると、1867年3月29日に、入洛を許すという、一部追放解除令が出されていました。まだ、全面的に赦免されたわけではなく、依然として住まいは洛外とされていましたが、月に一度、一泊だけ洛中への帰宅が許されていたのです。

 もちろん、朝廷政治に関わることはできず、監視されてもいましたが、行動は以前よりもやや自由になっていました。岩倉具視が実際に、洛中帰住を許されたのは、11月8日でしたから、大久保らに指令を出していた頃はまだ、隠密裏に動かなければなりませんでした。

 さて、密勅が出された時点で、徳川慶喜はまだ大政奉還を表明していませんでした。おそらく、倒幕の動きがあることなど、考えもしていなかったのでしょう。慶喜が大政奉還を上表したのは、密勅が発令された10月14日でしたが、その際、将軍職については何も触れていませんでした。

 一方、その頃、薩摩、長州、芸州の諸藩は計画通り、政変の決行に向けて動き出していました。

 遅まきながら、慶喜が将軍職の辞表を朝廷に提出したのは、10月24日でした。将軍職の辞職は事実上、幕府の消滅を意味します。ですから、提出した時点で、この辞表が朝議で認められていれば、倒幕の必要はありませんでした。

 ところが、当時の朝廷に的確な判断を下せる公家はおらず、慶喜の辞表は朝議で却下されました。将軍職は引き続き、慶喜に勅許されてしまったのです。

 もはや、王政復古のための政変を回避することはできなくなりました。

 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、薩摩藩、土佐藩、尾張藩、越前藩、安芸藩の5藩が御所の諸門を封鎖しました。次いで、京都御所の御学問所で、岩倉具視の奏上によって、明治天皇が王政復古の大号令を発せられました。

 この大号令で、江戸幕府、摂政・関白等が廃止となり、新政府が成立しました。

 もちろん、徳川慶喜をかつぐ勢力はまだ力を持ち、新政府に慶喜を参画させようとしていました。岩倉はそのような勢力にも丁寧に対応し、不安定な新政府の瓦解を防いだといわれています(※ 齊藤紅葉、前掲。pp.87-89.)。

 とはいえ、幕府を拠り所にしてきた諸藩は新政府に挑みました。慶応4年1月3日には鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争といわれる一連の戦いが各地で続きました。いずれも、薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍に対し、旧幕府軍が戦った内戦です。

 Hoodinski氏がこれらの内戦を整理し、図示した地図がありますので、ご紹介しましょう。


(※ Hoodinski氏、作成、Wikipedia戊辰戦争より)

 上図に見るように、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日‐30日)から始まった内戦は、北進し、1868年5月3日には江戸城が無血開城されました。その後、宇都宮城の戦い、北越戦争、会津戦争などを経て、榎本武揚が率いた箱館戦争に至ります。最後は、函館市五稜郭で行われた戦闘で、1869年6月29日に終了しました。

 旧幕府軍はこれで完全に敗退しました。岩倉らは、新政府の樹立に向けて、動き出します。

 興味深いのが、徳川慶喜の処分についてです。岩倉らは朝議を開き、徳川家に同情的な諸侯に不満が残らないよう、その扱いを検討しました。そして、合議の結果を踏まえ、三条、岩倉、大久保らが相談して最終的な処分を決め、天皇の裁可を得て決定していたのです。

 このような手続きを経ることによって、新政府の下では合議制によって意思決定がなされることが示されたといえます。

 慶喜は死こそ免れましたが、徳川家の領地は駿河国など70万石に削減され、幼い家達が後を継ぐことになりました。徳川家は政治的権力を失ったのです。こうして幕府は実質的に消滅し、岩倉らは、天皇を中心とした新たな体制の樹立に向けて歩み出しました。

 大政奉還とその後の対応を見ると、欧米列強に対抗できる国家体制を推進したキーパーソンは、下級公家出身の岩倉具視だったといわざるをえません。

 岩倉具視は、一部の公家や薩長藩士と共に倒幕を企画して実行しただけではなく、戊辰戦争についてもきめ細かな配慮をして臨みました。おかげで硬直化していた幕藩体制を打ち壊し、スムーズに近代国家を構築できる準備を整えることができました。

■欧米列強に対抗できる国家体制とは?

 駐日英国公使であったパークス(Harry Smith Parkes, 1828-1885)は1866年、当時の日本の政治状況を見て、次のように述べていました。

 「中央権力というものが形成されなければならず、それは封建制度のもつ恣意的であり、且つ混乱にみちた支配を、しだいに駆逐していくであろう」(※ 萩原延壽、『英国策論』、pp.216-217. 朝日新聞社、1999年)

 幕府との交渉に難航したパークスは、たとえ条約を締結できても、幕府の直轄地のみで有効だという制約に悩まされていました。幕府と条約を結んでも、天皇が勅許を出さなければ、その条約は日本全体で有効とはみなされなかったのです。

 そのような経験をしてきたパークスは、日本には中央権力が存在せず、恣意的な決定が横行していると思っていたのでしょう。ただ、このような日本のシステムはいずれ、崩壊すると見ていました。

 実際、その変化はすぐにも起ころうとしていました。

 パークスはさらに、次のように述べています。
 
 「この国の歴史は、きわめて興味ぶかい段階にさしかかっている。しかし、このような重要な変革は、現在の階級社会を構成している指導的なひとびとのあいだのはげしい闘争をへずには、おそらくもたらされないであろう」(※ 萩原延壽、前掲。pp.216-217.)

 実際、戊辰戦争といわれる一連の内戦は、旧幕府の新政府に対する抵抗でした。その一方で、これらを俯瞰してみれば、封建制を打破し、近代的な国家体制を構築するための戦いであったともいえます。

 石井孝は、戊辰戦争について、「絶対主義政権を目指す天皇政権と徳川政権との戦争」と総括し、一連の内戦を次の三つに分類しています(※ 石井孝『維新の內乱』至誠堂、1968年)。

① 「将来の絶対主義的全国政権」を争う天皇政府と徳川政府との戦争(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)」、
② 「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争(東北戦争)」、
③ 「封禄から離れた旧幕臣の救済を目的とする、士族反乱の先駆的形態(箱館戦争)」
(※ Wikipedia 戊辰戦争)

 こうしてみると、戊辰戦争は、単に新政府軍と旧幕府軍との戦いであっただけではなく、幕藩体制の下で統治されていた日本が、欧米列強に対抗できる近代国家になるための段階的な戦いでもあったことがわかります。

 幕藩体制の終了に伴い、とりわけ武士の生活が激変しました。岩倉らは、各方面に配慮し、旧幕府軍に対処しました。できるだけ穏便に政権移譲が進み、安定した近代国家を構築できるようきめ細かな布石を打っていたのです。

 なによりもまず、国内が分裂することを避けなければなりませんでした。

 近代国家としての体制を早急に整備しなければ、日本の将来は欧米列強の餌食になりかねませんでした。開国を迫る列強に対するには、否応なく、中央集権的な国家を構築する必要があったのです。

■アーネスト・サトウの『英国策論』

 パークスの下で通訳として働いていたアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow, 1843-1929)は当時、横浜で発行されていた週刊の英字新聞『ジャパン・タイムズ』に寄稿し、日本の政治体制について次のように指摘していました。

 「われわれは、つぎのことを心に銘記しておかなければならない。すなわち、将軍は、日本の政治を指導していると公言しているけれども、実際には、諸国連合(a Confederation of Princes)の首席(the head)にすぎず、われわれとの最初の条約が結ばれたときにも、そうであるにすぎなかったということ、そして、将軍が一国の支配者という肩書きを僭称するのは、この国の半分ほどしか、かれの管轄に属していないのだから、じつに僭越至極な行為であったということである」(※ 萩原延壽、前掲。p.223.)

 さらに、次のようにも述べています。

 「現行の条約が永久不変のものではないことを、いまではだれもが確信している。最近、われわれは、天皇の認可(勅許)なくしては、条約は実行されず、大名たちによって認められもしないことを、将軍がみずからの行動によって是認するのを知ったのである」
(※ 萩原延壽、前掲。p.229.)

 このように、アーネスト・サトウは、天皇が将軍よりも上位にあるという認識を示した上で、「天皇と条約を結ぶのがよいことであろう」という考えを記します。

 その一方で、「天皇自身は、条約を結ぶことができないであろう」と述べ、「天皇は条約の遵守を強制することができないからである」とその理由を記しています。というのも、天皇は行政力、軍事力を持たないからでした。

 アーネスト・サトウは、朝廷と幕藩体制が共存する統治体制が対外交渉上、不備があることを指摘していました。だからこそ、日本は、将軍に代わって、天皇を元首とする諸大名の連合体が、支配権力の座につくべきであると提言していたのです。

 日本に開国を迫った欧米列強は、君主制の下、帝国主義、覇権主義の政策で、世界各地を支配していました。その先端をいくのが大英帝国でした。アーネスト・サトウはその統治システムを念頭に、日本の国家体制について提言していたのでしょうか。

 その頃、欧米列強は、進んだ航海技術を武器に世界各地を支配し、その資源を収奪していました。1898年当時、帝国主義国家が支配している地域を示した世界地図があります。


(※ World 1898 empires colonies territory, Wikimedia Commons)

 大英帝国の支配する地域はピンクで表示されていますが、きわめて広大な地域がイギリスの支配下にあったことがわかります。各地の資源を奪い、繁栄を誇っていたのが、この時のイギリスでした。君主制国家体制の下、全盛期には全世界の陸地と人口の4分の1を植民地化していたのです。

 これら欧米列強は、世界戦略の一環として、極東の日本に開国を求め、通商条約を結ぼうとしていたのです。

 ところが、日本の統治システムは、彼らにとって複雑でした。

 というのも、たとえ幕府と条約を締結したとしても、その条約は、将軍の直轄地の住民と貿易を行うことを許すものでしかなく、日本全体との条約を意味するものではなかったからです。

 誰が日本の為政者なのか、彼らは戸惑いました。

 だからこそ、アーネスト・サトウは、『ジャパン・タイムズ』に寄稿し、日本は天皇制と幕藩体制とが共存する統治の形態を正すべきだという考えを示したのです。

 彼はこの論説の中でさらに、条約の改正と日本政府の組織の改造を要求していました。日本が近代化するにはまず、欧米列強が安心して取引できる政治体制にしてもらいたいというのがアーネスト・サトウの本音でした。

■岩倉具視は『英国策論』をどう思ったのか?

 『ジャパン・タイムズ』に寄稿されたアーネスト・サトウの論考は、すぐさま翻訳され、『英国策論』という表題で印刷され、関係者に読まれていました。


(※ 国会図書館デジタルコレクションより)

 町田明広氏は、岩倉具視と『英国策論』ついて、次のような見解を示しています。

 「岩倉具視関係文書」(国立公文書館内閣文庫蔵)には、「英国士官サトウ著になる英国の「策論」(作成年月日未詳)とされる文書が含まれており、末尾に「薩摩藩某翻訳」と記されている。抗幕・廃幕を志向する薩摩藩の朝廷内の最大のパートナーが岩倉具視であり、薩摩藩から「英国策論」が岩倉に渡っていることは看過できない。その内容から、彼らにとって『英国策論』は「精神的支柱ですらあった可能性が高い」
(※ 町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向―藩政改革と薩英関係の伸展」、『神田外語大学日本研究所紀要』13号、pp.21-22. 2021年)

 当時、『英政策論』は、想像以上に多くの大名たちに読まれていました。政局は時々刻々と変化し、海外の動きを視野に収めた政策が必要でした。アーネスト・サトウの見解が、その後の政局に多大な影響を与えていたことがうかがえます。

 町田氏は、その後の政局について、次のように述べています。

 「この段階で、幕府と強固な結びつきを構築しているフランス・ロッシュと、西国諸侯、とりわけ薩摩藩との関係を密にしているイギリス・パークスの対立が浮き彫りになっており、幕府対薩摩藩の動向にフランス対イギリスというグローバルな要素が加わり、政局の混迷は加速後を上げることになる」(※ 町田明広、前掲。p.24.)

 幕府にはフランス、西国諸侯、とくに薩摩藩にはイギリスといった具合に、武器供与などの海外からの支援動向に、国内の対立が反映されていました。混迷が長引けば、日本が列強に支配下に置かれかねません。

 すでにご紹介しましたが、岩倉は1866年10月頃、朝廷に対し、意見書を出していました。その内容は、徳川から「軍職」を取り戻し、源頼朝以前の体制に復古すべきだというものでした。岩倉はその時点で、朝廷を中心とし、薩長の支援を得て、強力な国家体制にすることを目指していたのです。

 日本国内が分裂せず、安定しなければ、近代国家への変貌など考えられないことでした。

 アーネスト・サトウの『英国策論』がいつ刊行されたのか、日付がないのでわからないのですが、日本語の訳本について、彼は次のように述べています。

 「阿波候の家臣であり、多少英語を知っているわたしの日本語教師沼田寅三郎の助けを借りて、これを日本語に訳し、小冊子のかたちにして沼田の主君の閲読に供したところ、その写本が方々に出まわり、翌年(1867年)旅行に出てみると、その途中で出会った大名たちの家臣がみなこの写本を介してわたしのことを知っており、わたしに好意をもっていることに気づいた」
(※ 萩原延壽、前掲。p.219.)

 『英国策論』の訳本が刊行されるや否や、多くの大名たちに読まれていたのです。

 岩倉が読んだのは薩摩藩士の訳本だったそうですが、1866年の秋に具申書を出す時点で、彼はすでにアーネスト・サトウの見解を知っていた可能性があります。

 岩倉は以前から公武合体派とみなされ、天皇を中心に、将軍、諸藩の大名を為政者とする国家体制を構想していました。ところが、1866年時点の意見書では将軍から軍権をはく奪し、諸藩の大名と同じ扱いにするという考えに変化していたのです。

 このような変化を考えると、岩倉の国家体制観は、アーネスト・サトウの影響を受け、研ぎ澄まされていった可能性も考えられます。少なくとも、アーネスト・サトウの考えを知って、自分たちが描く国家体制に確信を持つことができたことは確かでしょう。

 一連の経緯をみてくると、欧米列強が日本に開国を迫って来たとき、彼らの餌食にならずに済んだのは、公家出身の岩倉具視がキーパーソンとして、水面下で動いていたからにほかならないといわざるをえません。

 情報収集能力、情報分析力に優れ、胆力があったからこそ、岩倉は、意欲ある藩士や公家を惹きつけることができ、新たに描いた国家の実現に向けて邁進することができたのでしょう。
(2023/4/24 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅①:岩倉具視はなぜ、蟄居させられたのか。

■岩倉具視幽棲旧宅

 2023年1月5日、京都市左京区岩倉上蔵町にある、岩倉具視幽棲住宅に訪れてきました。あれから随分、時間が経ってしまいましたが、幕末の激動期に、岩倉具視がなぜ、ここで蟄居しなければならなかったのか、考えてみたいと思います。

 地下鉄烏丸線の国際会館駅から、京都バス24系統に乗り、終点「岩倉実相院」で下車します。そこから、3分ほど歩くと、かつて岩倉具視が住んでいた旧宅の表門が見えてきます。2023年1月28日にこの欄でご紹介した実相院のごく近くにありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 着いてみると、戸は閉まっており、表門からは入れません。少し歩くと、先に通用門があり、ここから、中に入れるようになっていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 ここが、なぜ岩倉具視幽棲旧宅と呼ばれているかといえば、孝明天皇から蟄居を命じられた岩倉具視が、幕末の5年間、移り住んでいた場所だからです。

 尊王攘夷運動が高まっていた頃、「四奸二嬪」排斥運動(※ 佐幕派あるいは公武合体派の公家に対する圧力行為)が起こり、岩倉ら6人が糾弾されました。孝明天皇がかばいきれないほどの動きになり、岩倉らは1862年8月20日に蟄居処分、辞官、出家を命じられました。

 不本意ながらも岩倉は、まずは、西賀茂の霊源寺、その後、洛西の西芳寺に移りました。ところが、9月26日、今度は、洛中からの追放命令が出され、岩倉具視は、御所から遥かに遠い、洛外の岩倉に転居せざるをえなくなりました。

 朝廷の中で発言力を高めていた岩倉が、急進的な攘夷派の台頭によって、追い落とされたのです。

 年表によると、当初(1862年)は、岩倉村の藤屋藤五郎の廃屋を借りて住んでいましたが、長く住める場所ではありませんでした。その後、1864年に大工藤吉の住宅を購入して、移り住みました。それが、この岩倉具視幽棲旧宅内の附属屋です。

 それでも、まだ岩倉が住めるような家ではありません。その後、繋屋と主屋を建て増して、何とか住めるようになったのが、この旧宅です。


(※ 岩倉具視幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 敷地内には、附属屋と主屋、繫屋があり、敷地を取り囲む土塀と表門、通用門があります。表門を入ると、主屋の南庭に通じる中門があり、そこをくぐると、主屋の南側に池庭があり、静かな落ち着きのある空間が広がっています。さらに、附属屋と主屋の間には中庭があり、そっと目を休める空間も用意されていました。後に、岩倉具視を記念する遺髪碑、対岳文庫、管理事務所などが設置されています。

 この岩倉具視幽棲旧宅は1932年3月25日に、国指定の史跡にされました。面積は1553㎡で、こじんまりとした、静かで落ち着きのある居宅です。

 附属屋には、当時の生活ぶりを描いた絵が展示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 ここには、岩倉の身の周りの世話をしたり、書き物の手伝いをしたりする家来たちがいました。世話係のうちの一人が、文久3年(1863)1月10日に雇い入れられた西川与三です。彼は、回顧録『岩倉具視公一代絵図』を残しています。上図はその中の一つで、当時の生活の一端を見ることができます。
 
■主屋

 主屋には、簡素ながら、床の間も設置されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 お正月に訪れたせいか、床の間には鏡餅が飾られていました。掛け軸もなく、香炉もなく、いたって簡素な設えでした。おそらく、当時の生活ぶりもこのように簡素で質実なものだったのでしょう。

 主屋と附属屋との間に繋屋があり、それに面して、中庭があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、中庭と繋屋は、附属屋と主屋との間に適度な距離を保つ空間として設計されていたように思えます。たとえ、主屋で重要なことが話されていたとしても、これだけの距離があれば、その内容が附属屋まで洩れることはないでしょう。

 主屋は、岩倉具視にとって密談の場であり、情報を整理し、考えをまとめる空間でもありました。それが、廊下と繋屋とによって、附属屋と遮断されているのです。気兼ねなく、話し合うことができたでしょうし、もちろん、安らぎの場にもなっていたでしょう。

 一方、中庭には大きな木もなく、附属屋からも主屋からも一望できるようになっています。障子を開ければ、附属屋から誰がやってくるのか、庭から、誰が忍び込んでくるのか、すぐにも把握できる構造になっていました。もちろん、障子を閉めていても、障子越しに人の気配を感じることもできたでしょう。

 図面を見ると、改めて、繋屋を挟んで、二つの空間が機能別に作られているように思えました。


(図をクリックすると、拡大します)

 附属屋が、日常生活を維持するための空間だとするなら、主屋は、岩倉が思索を巡らせ、熟考する空間、さらには、客を迎えるための空間として設えられていたのでしょう。

 主屋は、岩倉が来訪者から新たな情報を入手し、語り合い、将来ビジョンを打ち立て、練り上げていくための空間として機能していたように思えます。いってみれば、情報を入手し、交換するだけではなく、情報を蓄積し、それらを踏まえて分析し、対策を構想するための空間です。

 蟄居を強いられた岩倉にとって、何よりも大切な空間でした。

 洛外の北方に蟄居していたとはいえ、岩倉具視は、日本の運命を左右する重要な人物でした。それだけに、なによりもまず、刻々と変化する情勢を把握する必要がありました。家来が洛中に出て情報を収集していたでしょうし、来訪者が新たな情報を携えてやってくることもあったでしょう。それら一切合切が、情勢分析には必要でした。

 当時、日本に開国を求め、欧米の艦船が、次々と近海にやって来ていました。どう対処すればいいのか判断がつかず、幕府も朝廷も右往左往していました。判断を誤れば、隣国の中国のように、欧米列強の餌食になりかねませんでした。

 国内情勢を踏まえた上で、国外からの圧力にどう対応すればいいのか判断しなければならず、幕府、朝廷とも、極めて難しい舵取りが迫られていました。対処できる人物は限られていました。

 そんな中、岩倉具視は、さまざまな種類の情報を入手することができたばかりか、的確な判断力を持ち、さらに、朝廷と幕府との間を取り持つことのできる数少ない公家の一人でした。

 それでは、なぜ、それほど重要な人物、岩倉具視が、洛外の北方、岩倉村に転居せざるをえなかったのでしょうか。

 先ほど、「四奸二嬪」排斥運動を契機に、岩倉らは糾弾され、蟄居を強いられたと述べました。急進的な尊王攘夷派が台頭する中、公武合体派は佐幕派とみなされ、敵視され、弾劾されたのです。

 卓見の持ち主で、行動力のある岩倉具視はとりわけ、標的になりやすかったのでしょう。

 まずは、その来歴と人となりをみてみることにしましょう。

■養子縁組をして、岩倉具視に

 年表によると、岩倉具視は文政8年(1825)9月15日、前権中納言堀河康親の第二子として誕生しました。幼名は「周丸」でした。容姿や言動に公家らしい優雅さがなく、公家の女子たちの間では、「岩吉」と呼ばれていたそうです。天保9年(1838)8月8日、岩倉具慶の養子となったため、9月に名を具視と改めました。

 10月28日に従五位下に叙任され、12月11日には元服して、昇殿を許されました。一人前の公家と認められたのです。翌天保10年(1839)からは、岩倉具視として朝廷に出番(宿直勤番)するようになり、年100俵の役料扶持米を受け取っています。満13歳の時でした(※ 佐々木克、『岩倉具視』、p.7-8. 吉川弘文館、2006年)。

 岩倉家への養子縁組を推薦したのは、朝廷に仕える儒学者、伏原宣明でした。岩倉具視は、幼い頃から伏原に師事していましたが、その伏原の目に留まるほど、抜きんでて秀でた子どもだったからです。 

 伏原は、「その挙動をみると、尋常の童子とは異なる、成長して有用の人物になるにちがいない」と岩倉具慶にいって、養子に迎えるようすすめたそうです。幼い頃から、それだけ異彩を放っていたのです。伏原宣明は両家の間を取り持って、養子縁組を実現させたばかりか、岩倉具慶の名を取って、「具視」と命名しました。

 正装した岩倉具視の写真があります。


(※ 岩倉幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 堂々としとした面持ちを見ると、何事にも動じない意思の強さと豪胆さを見て取ることができます。その風貌や態度からは、太々しさの一方で、思慮深さ、洞察力の高さが滲み出ています。いずれも、激動の時代を乗り切るのに不可欠な要素です。

■下級の公家

 幕末に公家の数は137家ありました。ところが、長い伝統の下、家格は定まっており、朝廷内でどこまで昇進できるかということも、ほぼ固定していました。

 たとえば、公家の最高家格は摂家で、摂政・関白となることができ、宮中の席次も太政大臣よりも上でした。九条、近衛、一条、二条、鷹司の五摂家が相当します。その摂家に次ぐのが清華家で、太政大臣まで昇進できます。菊亭、花山院、久我、西園寺、広幡、三条、徳大寺、大炊御門、醍醐の九清華家です。この清華家の下に、大臣家といわれる中院、三条西、正親町三条の三家が続きます。さらに、羽林家、名家、半家、新家などがあって、それら公家の序列は固定化し、動かすことができなかったのです(※ 佐々木克、前掲、p.8-9.)。

 岩倉家は、この清華家の中の久我家の庶流でした。公家としての家格は羽林家でしたが、江戸初期に独立した新家でしたから、下級の公家だったのです。

 岩倉具視は13歳の時に朝廷に入り、いろいろと見聞を深めた結果、いつ頃からか、朝廷改革を進める必要があると思っていたようです。安逸を貪る公家たちの意識と慣習を改めなければ、開国を迫る諸外国の力に対応しきれないと感じていました。

 何とかしなければならないと切に願っていたとしても、そもそも、下級公家の身分では朝廷内で発言権がありません。朝廷改革を行うには、まず権力者に近づき、信頼を得て、発言を認めてもらえるようにするしか道はなかったのです。

 1853年1月、岩倉具視は鷹司政通の歌道の門人になりました。なんと27歳の時です。宮中に出仕するようになってから、14年も経っていました。それなのに、わざわざ、鷹司政通の門下に入ったのです。もちろん、多少は歌を学びたかったのかもしれませんが、それだけではありませんでした。

 当時、鷹司政通は朝廷で大きな権力を握っていました。

 鷹司家は五摂家の一つで、公家の最高家格でした。しかも、政通は、文政6年(1823)に関白・内覧に就任して以来、安政3年(1856)に辞任するまで、34年もの間、朝廷及び公家社会の中で、最高権力者でした。識見があり、天皇からも公家からも信望の厚い人物だったのです。

 さらに、鷹司は幕府や海外からの情報に通じていました。

 佐々木克氏は、鷹司政通が朝廷の制度や故実に知悉しているだけではなく、夫人の実家である水戸藩を通して、幕府や海外からの情報が政通にもたらされていたことに注目しています(※前掲。p.9-10.)。

 政通の夫人は水戸藩主斉昭の姉でした。水戸藩は『大日本史』を編纂したことで有名ですが、多くの学者を輩出しています。攘夷思想が形成されていたことはもちろんのこと、西洋やロシアへの関心も高く、『諸夷問答』や『千島異聞』などの書が作成されていました。漂流民への聞き取り調査を踏まえ、当時、入手できる限りの情報に基づき、作られたものでした。

 このように、水戸藩は当時、各方面からさまざまな情報を入手できる環境にありましたし、それらの情報を総合的に分析できる人材も揃っていたのです。その水戸藩から、鷹司政通は情報を得ることができる稀有な人物でした。

 鷹司政通が長く、公家の最高位にあったのは、動乱期の朝廷にとって幸いだったのかもしれません。公家でありながら、幕府や海外からの情報を入手でき、識見の高い、得難い人物でした。

 その政通は、岩倉具視について、「眼彩人を射て、弁舌流るゝがごとし、誠に異常の器なり」と評したといわれています(※ 佐々木克、前掲、p.7.)。

 鷹司政通は長年、朝廷の最高位にあって、数多くの才能ある人々を見てきたはずです。その鷹司すら、驚かせたほどですから、岩倉具視がどれほどの才人であったか、どれほど胆力のある人物であったかがわかろうというものです。

 一方、岩倉具視はといえば、政通の門下に入ることによって、多様な情報に接することができ、それらを踏まえ、的確な分析ができるようになっていました。他の公家たちよりもはるかに海外事情にも通じ、冷静な情勢判断を下すことができ、一目置かれる存在になっていたのです。

 略年譜をみると、岩倉具視は、安政元年(1854)に孝明天皇の侍従となり、従四位下に叙せられ、安政4年(1858)には孝明天皇の近習となって、従四位上に叙せられています。

こちら → https://iwakura-tomomi.jp/history/

 振り返れば、岩倉具視が、鷹司政通の歌道に入門したのが1853年でした。その後、わずか1年ほどで孝明天皇の侍従となり、さらに、4年後には近習になっているのです。岩倉具視が思惑通り、着実に、朝廷内で頭角を現していったことがわかります。

 実際、鷹司門下に入ると早々に、岩倉は宿願であった朝廷改革に乗り出しています。

■ペリー来航と朝廷改革

 嘉永6年(1853)6月、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794 – 1858)が来航しました。強硬な態度に押されるように、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認めてしまいました。その結果、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至ってしまったのです。

 危機感を覚えた鷹司政通は、同年12月28日、廷臣に対し、重大な事態となっていることを心得るようにと諭告しました。岩倉具視はその翌日、この諭告に応える恰好で、次のように意見表明をしています。

 「国内の政治は幕府に委任しているが、対外問題は国体(国家の基本体制)にかかわるものであるから、幕府の対応・措置に注意をはらい、万一にも「失当の措置あらば、断然勅令を以て、差止め」る覚悟を固める必要がある」

 そして、次のように具申しています。

 「今は公家に和歌・蹴鞠を奨励するような時節ではない、学習院を拡充・改革して人材の育成に当たることが急務である。そのための費用として朝廷の積立金を充当されたい」
(※ 佐々木克、前掲。p.10-11.)

 このように岩倉具視は鷹司に対して、堂々と、外交への朝廷の主体的な関与、公家の意識改革、人材育成のための学習院の充実といった方策を提言したのです。朝廷改革の一環として、かねてから岩倉が考えていたものでした。

 この意見書に対し、鷹司は同意を示したものの、即答は避けたといわれています。

 そうこうしているうちに、1854年3月31日、日米和親条約が締結されました。この条約では、「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」とし、アメリカに対し、下田と箱館(現在の函館)の2港を開港しています(※ Wikipedia 日米和親条約)。

 これについて鷹司は、この条約が「国体」の変更を伴うものではないという理解の下で、天皇が了承したと幕府に伝えています。いわば条件付きで、天皇は日米和親条約を承認したといっているのです。事後承諾せざるをえなかった朝廷の面目を保つための措置であり、幕府の拙速な対応への危機感の表れであり、さらには、勅許を経なかったことへの警告でもありました。

 もっとも、朝廷は、自発的に対外政策を検討することもなく、幕府主導の対外政策に甘んじざるをえないというのが実状でした。組織が硬直化し、時宜を得た意思決定ができなくなっていたのです。幕府もまた、開国を迫る諸国の攻勢にひたすら慌てふためき、度重なる威喝に屈し、国を守るための適切な行動がとれなくなっていました。

■八十八卿列参事件と「神州万歳堅策」

 安政5年(1858年)1月、老中の堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため、上洛しました。これに対し、関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しましたが、多くの公卿・公家は反対しています。

 岩倉もまた、条約調印には反対の立場でした。彼は、大原重徳とともに反九条派の公家を集結させ、3月12日に抗議のため、公卿88人で参内しました。この時、九条尚忠は病と称して参内しませんでした。そこで、岩倉は九条邸を訪問し、面会を求めましたが、これも拒否されました。仕方なく、面会できるまで門前で動かずにいたところ、九条が明日、返答すると応じたので、岩倉はようやく九条邸を辞しました。午後10時を過ぎていたといいます(※ Wikipedia前掲)。

 これが、「廷臣八十八卿列参事件」といわれる出来事です。

 老中の堀田正睦は、公家たちの抗議行動の後、3月20日に小御所に呼ばれ、孝明天皇に拝謁しました。天皇は口頭で、「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝えています(※ Wikipedia前掲)。

 岩倉らの反対によって、勅許は与えられなかったのです。公家たちは、力を合わせれば、幕府の意向に掉さすこともできることを経験しました。岩倉具視主導で行われた初めての抗議行動であり、見事に勝利を収めました。

 実は、88人の列参から2日後の3月14日、岩倉具視は、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しています。その内容は、次のようなものでした。

 「日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)」、「条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策」などを記しています。

 その一方で、単純な攘夷論は否定し、次のように記しています。

 「相手国を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する」、「米国は将来的には同盟国になる可能性がある」、「国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき」(※ Wikipedia 前掲)

 これらを読めば、岩倉具視がきわめて的確に、日本の置かれた状況を把握し、国防に配慮した対策を考えていたことがわかります。各所から収集した情報を踏まえ、岩倉が合理的に情勢判断した結果、導かれた意見書でした。

 この政治意見書を読んだからこそ、孝明天皇は、幕府からの使者である老中、堀田正睦に勅許を与えなかったのでしょう。岩倉具視の見解に一理あると判断したのです。

 この頃から、的確な情勢分析ができ、行動力もある岩倉具視が、朝廷内で大きな影響力を持ち始めていたことがわかります。

■日米修好通商条約の締結

 安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。孝明天皇が勅許を与えなかったにもかかわらず、江戸幕府は朝廷に断りなく、勝手に調印してしまったのです。

 実は、日米和親条約の締結以降、幕府とハリス総領事との間で何度も話し合いが行われていました。

 日米和親条約によって、タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804 – 1878)が、初代日本総領事として赴任してきました。彼は、安政4年(1857)10月21日、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡し、通商条約の締結を進めるため、さまざまな働きかけを行っています。

 幕府は、安政4年(1858)12月11日から条約の交渉を開始させました。交渉は15回にも及び、交渉内容に関して双方の合意が得られた段階で、老中堀田正睦が上洛したという経緯がありました。孝明天皇の勅許を得るためでした。

 ところが、先ほどいいましたように、岩倉具視らの抗議行動で、孝明天皇は勅許を与えませんでした。その結果、幕府は朝廷に断りなく、日米修好通商条約を締結してしまったのです。最終的な判断を下したのは、大老の井伊直弼でした。

 6月27日、老中奏書でこのことを知った孝明天皇は、激怒しました。

 それでも、幕府は平然と朝廷の意向を無視し、アメリカに続いて、オランダ(7月10日)、ロシア(7月11日)、イギリス(7月18日)、フランス(9月3日)、と修好通商条約を締結しています。いずれも勅許なく結ばれた条約です。これら一連の条約は、安政五か国条約といわれています。


(※ Wikipedia)

 いずれも、治外法権を認めたうえに、関税自主権はなく、圧倒的に日本側に不利な不平等条約でした。

 公家たちは、当然のことながら、勅許を待たずに調印した条約は無効だと主張しました。朝廷はこれらの条約を認めず、幕府と井伊大老の独断専行を厳しく非難したのです。その結果、朝廷と幕府との間の緊張が一気に高まっていきました。

 外圧に押され、幕府が暴走しはじめました。幕府側は、朝廷に与する人々を次々と、切腹、死罪、追放などの厳罰に処していったのです。これが、安政の大獄といわれる一連の弾圧です。

 やがて、一連の弾圧および不平等条約への反動が来ました。

 安政7年(1860)3月3日、井伊直弼大老が、外桜田邸を出て、江戸城に向かう途中、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名によって暗殺されました。桜田門外の変と呼ばれる事件です。

 日米修好通商条約は、国論を二分する大きな案件でしたが、条約締結を決断した井伊大老が暗殺されてしまったのです。政治的混乱は避けられず、国情が不安になる可能性がありました。

 事件直後からその死は秘匿され、幕府には、井伊大老が負傷したので帰邸するとだけ報告されました。実状を知らされなかった将軍・家茂はわざわざ井伊邸に見舞い品を届けさせたほどでした。このようにして井伊大老の死はしばらく伏せられていたのです。

 3月末に井伊直弼は大老職を正式に免じられ、それに伴い、ようやく、その死が公表されました。そして、まるで厄落としをするかのように、同年3月に改元され、万延元年(1860)となりました。

 幕府は朝廷への歩み寄りを見せ、公武合体路線に舵を切っていきます。尊王攘夷派が力を増す一方で、幕府の威信は日増しに低下していきました。幕府にとっては、政情を安定させるための方策が必要でした。尊王攘夷派が台頭してきた情勢の中で、幕臣たちが検討していたのが、孝明天皇の妹、和宮を将軍家茂の夫人に迎えることでした。

■『和宮御降嫁に関する上申書』と破約攘夷

 4月12日、和宮降嫁を希望する書簡が、幕府側から京都所司代に提出されました。孝明天皇はすぐさま、和宮はすでに有栖川宮への輿入れが決定しているとして断っています。当時、朝廷内の大半も降嫁に反対で、交渉は難航しました。

 ところが、孝明天皇はどういうわけか、いったん拒否しておきながら、この件について岩倉に諮問しています。岩倉の意見は、多くの公家たちとは違って、幕府の懇請を受け入れることを勧めるものでした。というのも、岩倉は、幕府の懇請を受け入れれば、朝廷主導の国家体制に踏み出すための第一歩になると判断していたからでした。

 岩倉は、幕府が降嫁を持ち掛けてきたのは、自らの権威が地に落ち、人心が離れていることを自覚しているからだと判断していました。だからこそ、朝廷の威光によって幕府の権威を粉飾しようとする狙いがあると分析していたのです。

 岩倉は、「皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わなければならない」とし、『和宮御降嫁に関する上申書』を提出しています。

 さらに、次のように、和宮降嫁に際しての条件をいくつか付けています。

 「政治的決定は朝廷、その執行は幕府が当たるという体制を構築すべき」とし、喫緊の課題としては、「朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき」(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)

 岩倉具視は以前から、朝廷が意思決定をし、幕府がそれを遂行する政治体制を理想としていました。朝廷主導の政治体制です。とはいえ、国難の今、まずは公武一体で課題を解決していく必要があるとし、朝廷に無断で締結した一連の条約を破棄するという条件の下で、降嫁は許可してもいいと述べているのです。

 日本の国体を守るには、なんとしてもこれらの不平等条約を破棄しなければならないと岩倉は考えていたのです。

 孝明天皇は、岩倉の見解を受け入れました。朝廷主導の政治体制を実現させるために、まずは、公武一体で臨む必要があると判断し、和宮降嫁の懇請に応じたのです。岩倉の情勢分析、判断力、交渉力に全幅の信頼を置いていたからにほかなりません。

 6月20日、京都所司代を通し、条約破棄と攘夷を条件に、和宮降嫁を承認したことを伝えました。そして、7月4日、四人の老中の連署による「7年から10年以内に外交交渉、場合によっては武力をもって破棄攘夷を決行する」という念書を取り付け、条件についての幕府側の応諾を確認しています。

 孝明天皇は、文久元年(1861)10月20日に和宮が江戸に下向する際、岩倉を勅使として随行させています。下級公家の岩倉が、老中と対等に議論できるようにという配慮からでした(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)。

■「四奸二嬪」運動と岩倉村での蟄居

 その後、各地で尊王攘夷運動が高まり、公武合体を主張していた岩倉は、いつの間にか、幕府に与する佐幕派とみなされるようになってしまいました。やがて、佐幕派や公武合体派の公家たちは、尊王攘夷派から脅迫され、排斥されるようになっていきます。

 8月16日、三条実美、姉小路公知ら13名の公卿が連名で、岩倉具視、久我建通、千種有文、富小路敬直、今城重子、堀河紀子の6人を弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出しました。岩倉を含む4人の男性と2人の女性は、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として糾弾されたのです。

 当時、とくに京都では尊王攘夷の気運が高まっていました。

 岩倉具視は、「四奸二嬪」の一人として弾劾されました。岩倉を信頼していた孝明天皇でさえかばいきれず、岩倉らは8月20日に蟄居処分、さらに、辞官、出家命令を受けました。不満に思いながらも、岩倉は逆らわずに辞官して出家し、朝廷を去りました。

 出家した後、まずは、西賀茂の霊源寺に移りました。ところが、そこで身に危険が及ぶようになり、さらに御所から遠い、洛西の西芳寺へと移り住んだのです。

 ちなみに、霊源寺は岩倉家の菩提寺でした。
(※ https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ki017.html

 そして、西芳寺は当時、父、岩倉具慶の甥が住持でした。
(※ http://saihoji-kokedera.com/top.html

 このように岩倉は縁故を頼って、次々と落ち延びていったのです。

 それでも糾弾の声はやまず、9月26日には、洛中に居住することを禁じる命令が出されました。仕方なく洛中を出て、御所から遥か遠方の岩倉村に住まいを移しました。文久2年(1862)10月8日のことです。以後、岩倉村での蟄居生活は、1867年11月8日に洛中帰住が許されるまで5年間も続きました。

 洛中帰住が許されても、岩倉具視はまだ完全に赦免されたわけではありませんでした。

 その一か月後の12月8日、小御所で朝議が開催されてようやく、文久2年(1862)と3年(1863)の処分者に対する赦免が行われたのです。激動のさ中、岩倉具視はようやく本領を発揮し、活躍できるようになりました。

■激動期の改革者

 振り返ってみれば、岩倉は初めて宮中に伺候した時から、朝廷改革の必要性を感じていました。下級公家だったからこそ、組織の硬直化による不毛に気づいたのです。

 さらに、ペリー来航時の幕府の対応を見て、なによりもまず、朝廷の主体的な外交関与、そのための公家の意識改革、人材育成、等々の重要性を痛感しました。そのような見解を文書にし、鷹司に提言していたほどでした。岩倉がわずか24歳の時です。

 岩倉は当初から、朝廷の改革を行わなければ、日本の未来はないと思っていたのです。

 その後も、公家の在り方について、岩倉は沙汰書を出しています。日付は明らかではありませんが、公家の実状を熟知しているだけに、その内容には根本的な改革案が含まれていました。

 たとえば、次のような見解が、沙汰書で披露されています。

 「世襲の禄については、時宜によって減少させられることはあっても、加増を仰せつけられることはない。ただし、この後の奉公によって「功労」があれば、一代限り加禄を賜うべきである。官位についても同様で、「世襲の旧弊」は改革され、今後は人材の能力に応じて任命されるので、そのように心得て「文武」のことに「勉励」するべきだ」とされています(※ 斉藤紅葉、「岩倉具視の新国家像と動向」、伊藤之雄編著『維新の政治変革と思想』、pp.91-92. ミネルヴァ書房、2022年)

 沙汰書を見れば、岩倉が、世襲の官位や禄の制度を改革し、能力に応じた取扱いをして、公家たちの自発性を喚起しようとしていたことがわかります。朝廷を中心に、国体を維持した政治体制にするには、なによりも優秀な公家の育成に努めなければならず、勉学を奨励しなければならなかったからでした。

 一方、欧米列強に伍していくには、外交、防衛にも配慮した政治体制でなければならず、それを支える卓越した識見をもつ優秀な人材の登用が必要でした。新たな秩序の体系は、朝廷側であろうと、幕府側、藩側であろうと、能力の高い意欲ある人材によって構築しなければならないと岩倉は考えていたのです。(2023/3/31 香取淳子)

第54回 練馬区民美術展に出品しました。

■第54回 練馬区民美術展の開催

 第54回 練馬区民美術展が、2023年2月4日(土)から2月12日)まで、練馬区立美術館で開催されました。


(図をクリックすると、拡大します)

 今回の展示作品は254点で、その内訳は、洋画1(油彩画)が59点、洋画Ⅱ(水彩、パステル、版画など油彩画以外)が125点、日本画(水墨画含む)が20点、彫刻・工芸が50点です。

 私は、《4月生まれの母》というF12号の油彩画を出品しました。


(図をクリックすると、拡大します)

 左端が私の作品です。

 会場内のライトが額縁のアクリル面に縦に反射し、ちゃんと撮影できていませんでした。撮影後、画像を確認しなかったのが悔やまれます。

■《四月生まれの母》

 次に、私の作品だけを撮りました。


(油彩、カンヴァス、60.6×50㎝、2022年。図をクリックすると、拡大します)

 こちらも会場内のライトが影響したのでしょうか、画面の色調がうまく反映されていません。全般に白っぽく映っています。改めて、絵を写真撮影することの難しさがわかりました。

 さて、今回出品した作品は、母をイメージして描きました。

 大正13年4月生まれの母はもうすぐ99歳になります。認知症が重症化し、3年ほど前から施設でお世話になっています。最近は施設を訪れても、コロナのせいで、直接会うことはできず、ガラス窓越しにしか会えなくなりました。とはいえ、一目、その姿を見るだけで、元気な様子を確認することができ、安心できます。

 昨年訪れた際も、母は見たところ、元気そうで、声をかけると、なにかしら応えてくれました。

 食欲も衰えず、よく食べているせいか、顔色はよく、しっかりとして見えます。その表情を見ていると、私が誰だかわかっているかもしれない・・・と、微かな期待を抱きたくもなります。

 何度も、「お母さん」と呼びかけてみました。聞こえているのかどうか、その都度、車椅子に座った母の目に光が宿り、瞬間、生気がみなぎるように見えます。それを見ると、やはり、わかっているのではないかと思えてきたりします。

 その時、母はなんとも穏やかで、安らかな表情をしていました。

 母は施設の4階でお世話になっています。その4階のスタッフの方々から、母が「100歳のアイドル」と呼ばれていることを知りました。それを聞いて、涙が出そうになるほど、嬉しくなりました。

 母を暖かく、お世話してくださっているスタッフの方々の様子が思い浮かびます。おそらく、母もまた、認知症になっても笑顔を絶やさず、感謝の言葉を忘れないでいるのでしょう。介護する者と介護される者との関係の一端を垣間見たような気になりました。

 老いて、さまざまな記憶が飛び、母はずいぶん前から、私たちの顔もわからなくなっていました。それでもまだ、人としての基本だけはしっかりと脳裡に刻み込まれているのでしょう。それがスタッフの方々との絆をつないでいるのかもしれません。

 若かった頃の母を思い出します。

 母は何事も、声を荒げることなく、穏やかに受け入れてきました。どんなことがあっても辛抱強く耐え、しかも、笑顔を忘れませんでした。

 そんな母の姿がなんども目に浮かぶようになり、今回、出品した作品の画題にしようと思い立ったのです。

■大正、昭和、平成、令和を生きた母

 大正13年(1924)4月5日に生まれた母は、まもなく99歳になります。大正末期に生まれ、昭和、平成、令和と4つの時代を生きてきたのです。激動の時代を乗り越え、よくこれまで無事に生を紡いでこられたものだと思います。

 母が生まれた1924年は一体、どんな年だったのか、見てみましょう。

 年表を見て驚いたのは、ソビエト連邦の議長だったレーニンが1924年1月21日に亡くなっていたことでした。

 第1次世界大戦(1914-918)の後、飢餓のために各国で革命が勃発し、ロシア帝国をはじめ、4つの帝国が次々と崩壊していきました。

 ロシア帝国の崩壊後、1922年12月30日に誕生したのが、ソビエト連邦です。政権を握る議長の座に就いたのがレーニンでした。そのレーニンの死後、後継を巡る闘争を経て、トロツキー派を制し、1924年1月、最高指導者の地位に就いたのがスターリン(1878-1953)でした。

 その後、第一次大戦後の歪みを残したまま、世界は激動の渦に巻き込まれていきます。

 一方、日本では、母が生まれた前年の1923年9月1日に関東大震災が発生していました。建物は倒壊し、火災は発生し、多くの人々が亡くなりました。首都機能は麻痺し、日本全体が極度の飢えと貧困、不安に陥っていました。

 大変な時代に、母は生を受けていたのです。

 やがて世界は、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻から始まる第2次世界大戦に突入しました。

 そのころ、母は15歳、県立姫路高等女学校の生徒でした。

 高等女学校を卒業後も2年間、専攻科に通い、卒業するとすぐ、お見合いで結婚しました。かるた会の席でお見合いが行われたそうですから、百人一首を得意としていた母にとっては絶好の見せ場だったのかもしれません。

 お見合い相手の父は、東京帝国大学文学部英文科(現、東京大学)を卒業し、当時、東京で英語の先生をしていました。そのため結婚すると、母は戦時下の東京で暮らすようになりました。東京での母は、日々、爆撃を逃れ、食糧を調達するのに苦労していたようです。

 結婚の際に親がそろえてくれた着物を持って、農家を訪ね、わずかな食糧と引き換え、なんとか生き延びていました。ところが、戦争末期に、終に、栄養失調になってしまいました。妊娠していたこともあって、一人帰郷し、実家で出産しています。終戦後9カ月、1946年5月、第一子である私が誕生しました。

 その後、父は第四高等学校(現、金沢大学)を経て、岡山大学に移動しました。引っ越すたびに、母は慣れない土地で苦労し、子どもたちを育ててきました。まだまだ調度品は整わず、食糧難の時代でした。

 岡山で暮らしていたのは、池があり、築山のある大きな家でした。微かに記憶に残る家が懐かしく、数年前に訪ねてきました。所々、記憶にある断片と合致し、幼い頃が甦ってきます。

 この家は現在、文化遺産に指定されています。

こちら → https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/115694

 門から道路に続く、この白い石道を三輪車で遊ぶ幼い頃の私の写真が残っています。私たちは、この家の一角に間借りして住んでいました。

 ようやく定住するようになったのが、私が幼稚園の頃です。その頃、何があったのかわかりませんが、祖父から戻ってくるようにいわれたのです。以後、父は、家族を実家のある兵庫県に残し、自身は大学のある岡山県に通う生活を送るようになります。

■子どもたちと母

 父の実家に戻った後、しばらくは、祖父母も一緒に暮らしていました。祖父はまだ医者を続けており、家には、家事担当のお手伝いさんや下働きをする男性もいました。私が自転車の乗り方を教えてもらったのは、体格のいいお手伝いさんでした。

 ところが、私が小学校3年生の頃、祖父母は引っ越していきました。薬局を経営する伯母らと共に暮らし始めたのです。このときも、何があったのかわかりません。ただ、祖父母が引っ越すとともに、お手伝いさんも下働きをする男性もいなくなりました。その途端、大きな家ががらんとした空間になってしまいました。それがとても強く印象に残っています。

 家の管理、家事一切を一人でこなさなければならなくなった母はさぞかし大変だっただろうと思います。なにしろ、それまではお手伝いさんと下働きの男性がいてようやく体裁を整えることができたような大きな家でした。

 父は、週に何日間かは勤務のため岡山に出かけ、不在でした。その間、母と子どもたち4人とで暮らさなければならなかったのです。家事ばかりか、防犯の面でも気苦労が絶えなかったのではないかと思います。

 ある時、母が私に、「誰かが入ってきたら、お母さんが抵抗するから、あなたは弟たちを連れて、裏から逃げて」といったのです。そして、玄関にはしっかりと鍵をかけ、その傍らに木刀を置いていました。私が長子で、下にまだ幼い弟妹がいましたから、母は私を助手代わりに使うしかなかったのでしょう。

 昭和30年代の初め、まだ人々は貧しく、物騒な世の中でした。

 小学校4年生の私は、どの経路で弟妹たちを連れて逃げればいいのか、逃げ切れなければどこに隠れれば安全か、などといったようなことを真剣に考えたことを思い出します。

 母は女学校の頃、バスケットボール部の選手でした。体力には相当、自信があったのでしょう。いざとなれば、子どもたちのため、木刀で闘う覚悟をしていたのです。

 4人の子どもを生み、育てた母は、胃潰瘍以外に大きな病を経験することもなく、父が亡くなった後も、気丈に生きてきました。ところが、今、認知症になり、施設のお世話になっているのです。思いもしなかったことでした。

 人が健康で恙なく、平穏に生きていくことがどれほど難しく、得難いものであるかを思い知らされます。

 母を見ていると、この世に生を受け、一人前に成長し、やがて、老いていく、人のライフコースの中で、もっとも過酷なのは、身体の自由が効かなくなった晩年ではないかという気がします。

 ウィーン分離派の画家クリムトは、《三世代の女性》という作品の中で、老年期の悲哀を見事に表現しています。

■クリムトの《三世代の女性》(The Three Ages of Woman, 1905年)

 グスタフ・クリムト( Gustav Klimt, 1862 – 1918)は、帝政オーストリアに生まれた画家です。日本では、《接吻》(The Kiss, 1907-08年)という作品が有名ですが、それ以前に描かれた作品の中で、気になったのが、《三世代の女性》です。


(油彩、カンヴァス、180×180㎝、1905年、ローマ国立近代美術館所蔵)

 画面中央に年齢の異なる女性が3人、描かれています。おそらく、子、母、祖母という設定なのでしょう。幼児期、青年期、老年期の女性の姿がそれぞれ、裸体で描かれているのです。とても珍しい画題でした。

 子どもを抱いた女性は慈愛に満ちた表情を浮かべ、子どもの頭に頬を寄せています。子どももまた安心しきった様子で女性に身を委ねています。理想的な母と子の姿が描かれており、平和で幸福の象徴に見えます。

 この作品を観て、多くの観客がまず、目を引かれるのはこの部分でしょう。

 実際、後に作成されたポスターや複製画では、母と子の部分だけが切り取られ、作品として出回っています。興味深いことに、《母と子》として、この作品はよく知られているのです(※ https://www.aaronartprints.org/klimt-thethreeagesofwoman.php)。

 そもそも、この作品のタイトルは《三世代の女性》です。クリムトがこの作品を通して描こうとしたのは、子、母、祖母といった三世代の女性だったのです。ところが、この作品はクリムトの意図に反し、「母と子」の部分にスポットが当てられてしまいました。

 一体、なぜなのでしょうか。

 それについて考えてみようと思い、人物が描かれている箇所を拡大してみました。


(前掲。部分)

 母子が幸せそうに肌を密着させている様子は、限りなく優しく、暖かく描かれており、観る者の気持ちを和ませてくれます。見ているだけでほほえましく、幸せな気分になれます。

 ところが、左の高齢女性は一人佇み、老醜をさらしています。この姿を見たとき、見るべきではないものを見てしまったような後味の悪さが残りました。

 女性の肌はたるんで萎び、乳房は垂れています。手といわず脚といわず、静脈が浮きあがり、腹部が異様に突き出ています。しかも、女性は、手で髪の毛を引き寄せて顔を覆っており、その表情を見ることはできません。まるで老いを恥じて、顔を隠そうとしているかのようです。

 クリムトはひょっとしたら、老醜そのものをリアルに描こうとしていたのでしょうか。

 母と子の身体は、それほど克明には描かれていなません。ところが、高齢女性の身体は、苛酷なまでに老衰した状況がリアルに描かれています。今まさに生のさ中にいる母と子の姿に比べ、老いさらばえ、死を待つばかりの高齢女性との対比が、なんともいえず残酷に思えました。

■ロダンの《老いた娼婦》(The Old Courtesan, 1901)

 《三世代の女性》の中の高齢女性の身体は、ロダン(Auguste Rodin, 1840-1917)の《老いた娼婦》(The Old Courtesan, 1901)を参考に描かれたといわれています。1901年にウィーンで開催された19世紀美術展覧会に出品された作品です。
(※ https://www.gustav-klimt.com/The-Three-Ages-Of-Woman.jsp


(ブロンズ、50.2×27.9×20.3㎝、16.8㎏、1885年鋳造、メトロポリタン美術館所蔵)

 これは、かつては美しかった女性の老いた姿を表現した作品です。立体なので、こちらの方がリアルで、老衰の残酷さがいっそう際立っています。

 クリムトは展覧会に参加して、この作品に非常な感銘を受け、翌年、ロダンに会うことが出来た際にはとても喜んでいたそうです。

 このエピソードからは、クリムトは《三世代の女性》で、老衰のリアルを表現しようとしていたと考えざるをえません。

 だからこそ、敢えて、高齢女性とは距離を置いて、母と子を配置し、その密着ぶりが際立つような画面構成にしたのでしょう。

 ちなみにこの作品は、1911年のローマ国際美術展で金賞を受賞しました。クリムト独特の装飾的な美しさの中に、誰しもいつかは迎える老衰という深刻なテーマが、ライフコースの視点を取り込み、巧みに表現されていたからだと思います。

 ところが、その後、この作品は、「母と子」の部分だけが切り取られ、ポスターや複製画として再生産されています。大多数の観客は、快く感じられるものを見たがるという傾向を優先したからでした。

 この一件からは、市場原理に従えば、作者の制作意図とは異なる形で作品を再生産せざるをえないことが確認できたといえます。

■画題としての老いた母

 《4月生まれの母》を描こうと思い立った際、私は悩みました。99歳にもなろうとする母の外見は老衰そのものでした。そのような姿を描くことは、逆に、母を冒瀆することになるのではないかと思ったのです。なによりも、そのような姿を、私は描きたくもありませんでした。

 施設でお世話になっている姿は、確かに、現実ではありますが、母の真実の姿ではありません。

 これまで目にしてきた母の姿の断片が、いくつもの記憶となって、私の脳裡に残っています。それらを反芻しているうちに、母の姿とは、見えている肉体や姿形ではなく、さまざまな記憶、一切合切を含めたもの、すなわち、母が生きるのを支えてきた精神こそ、母の真の姿ではないかという気がしてきたのです。

 いろいろ思いを巡らせているうちに、母を描くとすれば、そのような母の生を貫く精神ではないかという結論に辿り着きました。

 つまり、子どもを守るためには、闘いも厭わない気丈さ、さまざまな困難に遭遇しても、それに耐え抜く強さ、どんな時も笑顔を絶やさない穏やかさ、優しさ・・・、母が生きてきた過程で私が垣間見てきた母の精神を、母のリアルな姿として表現したいと考えたのです。

 この作品で、そのような思いを表現できたかどうか、わかりません。ただ、悲しみと慈愛、忍耐と寛容、安らぎと穏やかさ、優しさ・・・、といったようなものを、顔面の色調や表情などに込めたつもりです。

 背景はもちろん、桜の木です。


(図をクリックすると拡大します)

 入間川沿いに毎年、見事な桜が花を咲かせます。開花した部分とまだ蕾の部分とが混在している時期の桜を取り上げてみました。

 桜花には可憐で、健気で、潔い美しさがあります。母の根本精神を突き詰めれば、そこに到達するような気がします。

 ふと見上げると、真上に桜の木の大きな枝が伸びていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 輝かしく開花した花弁に、ふいに風に吹き付け、はらりと頭の上に落ちてきました。淡いピンク色をした可憐な花びらです。

 画面の母の顔の上にも、この桜の花びらを散らそうと思いました。母はこの桜花のように、老いてもなお初々しいところがありました。

 女学校を卒業してすぐに結婚した母は、一度も社会に出て、働いたことがありません。世間馴れしておらず、もちろん、世間知もなく、いつまでも少女のようなところがありました。

 かつてはそのような母を頼りないと思い、不満に思ったこともありました。ところが、理想を軽視し、即物的な実利優先の世の中になっていくにつれ、世間馴れしていない母の子どもとして生まれ、育てられたことを、とても幸せだと思うようになりました。

 しばらくは、この母を画題に、描いていこうと思っています。(2023/2/27 香取淳子)

実相院で振り返る日本の中世

■ 岩倉実相院

 京都市左京区岩倉上蔵町に、天台宗寺門派の門跡寺院・実相院があります。2023年1月5日、所用で京都を訪れた際、次いでに行ってみることにしました。地下鉄烏丸線の沿線の国際会館駅で24系統京都バスに乗り換え、終点の岩倉実相院で下車すると、目の前に実相院が見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 さらに近づくと、表門は四脚門でした。


(図をクリックすると、拡大します)

 落ち着いた佇まいの中に、歳月を重ねた重厚感と格式の高さが感じられます。見ていると、次第に身が引き締まる思いがしてきました。

 四脚門は、鎌倉以降、将軍家の正門や勅使門、格式のある寺家の正門などに使われたといわれます。

 パンフレットを見てみると、江戸時代初期、天皇家とのゆかりが深まり、「享保5年(1720)、東山天皇の中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜った」と書かれています。江戸時代になって、承秋門院(東山天皇の中宮)の御殿の一部が移築されたものだったのです。

 今日まで伝わっているのは、この四脚門と実相院の車寄せ、客殿でした。そういわれてみると、この表門には、奥ゆかしく、典雅な趣が感じられます。実相院はまさに、現存する数少ない女院御所なのです。

 確かに、中に入ると、どの部屋にも襖絵があって、壮観でした。とくに印象深かったのが、杉戸に描かれた襖絵です。

 内部は撮影できませんので、実相院HPの画像をご紹介しましょう。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 これは仏間のある牡丹の間に設えられた襖絵です。杉戸に、竹林の中で虎が寝そべっている姿が描かれています。そもそも、竹に虎というモチーフは取り合わせのいい図柄で、古来、縁起がいいとされてきました。

 仏間の杉戸に描かれた襖絵を見ていると、私には、この虎が仏間を守護しているように思えました。

両側には、虎を囲むように、何本もの竹が描かれています。まっすぐに伸びた竹の合間から風が吹き抜けてきて、竹林のしめやかな空気を運んできているような気がします。襖絵を通して、さり気なく、自然が室内に取り入れられているのです。

 何も襖絵に限りません。風や水の流れを感じ、四季折々の変化を愛でるための設えは、さまざまな所に見られました。

 たとえば、石庭です。

 苔むした巨石の周りに刻まれた同心円状の線が、水面に広がる波紋に見えます。その先に設置されたアーチ状の造形物が、水面を跨ぐ橋に見えます。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 写真は2022年11月26日に撮影された石庭です。庭を囲む木々がさまざまに色づき、砂利の白さに興を添えています。手前には庭を望む桟敷があり、ここから四季折々にもたらされる自然の美しさを堪能していたのでしょう。

 優雅な生活の一端が偲ばれます。

 典雅な佇まいは、門跡寺院だからなのでしょうか。

■ 門跡寺院

 実相院は昔から、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。実相院が岩倉にある門跡寺院だからでしょう。

 門跡寺院とは、天皇家の血を引く方々が、その寺院の住職を務める格式の高い寺院を指します。現在、17の門跡寺院があります。17のうち、11の寺院が天台宗で、真言宗は5、浄土宗は1です(※ https://enman-inn.com/about/)。

 天台宗の寺院の比率が圧倒的に高いことがわかりますが、天台宗には山門派と寺門派があります。

 第3世天台座主の円仁(慈覚大師、794-864)と、第5世天台座主の円珍(智証大師、814-891)には、仏教解釈に違いがありました。やがて、その末流が対立するようになり、以下のような経緯で、2派に分かました。

 正歴4年(993)、円仁派が比叡山の円珍派の坊舎を焼き払ったので、円珍門徒は山を下り、園城寺に入って独立しました。そこで、寺門派と呼ばれるようになりました。一方、山に残った円仁派は山門派と呼ばれています。

 その寺門派の三門跡とされていたのが、円満院、聖護院、実相院です。

 「実相院はとくに室町時代から江戸時代にかけて、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました」(※ 実相院HP)と説明されています。

 寺門派では数少ない門跡寺院の中で、実相院は室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一とされていた」というのです。

 なぜ、実相院が「門跡寺院の随一」だったのでしょうか。

 実相院HPに次のような記述がありました。

 「江戸時代初期に入寺した、義尊(ぎそん)は足利義昭の孫にあたります。義尊の母、法誓院三位局は義昭の子高山(法厳院)との間に義尊(実相院門主)と、常尊(円満院門主)をもうけ、さらに後陽成天皇(一説によると後水尾天皇)との間にも 道晃親王(聖護院門主)をもうけたため、義尊は皇子同様にして後陽成天皇の寵愛を受けました」(※ 実相院HP)

 この記述からはまず、江戸時代初期、天台宗寺門派の三門跡の門主を務めたのが、法誓院三位局の息子たちだったことがわかります。次いで、なかでも実相院の門主である義尊は、時の天皇の寵愛を受けており、多大な支援を得ていたことが示されています。

 その結果、義尊が門主であった時期に、経典や古典籍の大規模な収集、書写、整理などが行われています。それが、実相院の文化的価値を高め、「室町時代から江戸時代にかけて」、「門跡寺院随一」という評価を得ていたのでしょう。

■ 義尊の貢献

 実相院門主の義尊は、天皇や将軍家と深い繋がりがありました。豊かな人脈の中で、諸学、諸芸が磨かれていく一方、義尊は実相院の文化的基盤を整備し、その確立に尽力していたのです。

 次のような記述があります。

 「両天皇、東福門院、三位局など、義尊を取り巻く江戸初期の宮廷生活との深い関わりの中で実相院の文化的基礎は一層確かなものとなりました。義尊は失われた古文書、古記録を熱心に書写したため、重要なものが多くのこされています」(※ 実相院HP)。

 さまざまな写本の中には、義尊筆と書かれたものが数多く残っているそうです。義尊自らが率先して書写し、古典籍、資料などの保存に努めていたのです。

 なにも文化の保存に努めただけではありませんでした。応仁の乱で類焼した実相院の復興に力を尽くし、その後の興隆を図ったのも義尊でした。

 そもそも、門跡寺院は代々、皇室から多大な支援を受けて栄えていました。その中でもとくに実相院が、室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一」とされていたのは、義尊が門主だったからでした。

 義尊は焼失した建物を復興し、文化財を保存し、資料の充実を図りました。

 先ほどもいいましたように、義尊は、大乗院大僧正義尋の子で、15代将軍足利義昭の孫にあたります。由緒正しい出身であったばかりか、仏教をはじめ諸学、諸芸に通じており、見識のある天皇と親密に交流できる資質を備えていました。

 とくに後水尾天皇とは親しかったようで、実相院には天皇の宸翰が残されています。


(実相院HPより。60.6×49㎝、図をクリックすると、拡大します)

 「忍」の一字です。何年に書かれたものかはわかりませんが、後水尾天皇の不満がこの一字に込められているように思えます。義尊が門主を務めた実相院だからこそ、このような内面を晒すような書が残されているのでしょう。後水尾天皇が義尊に親しみをおぼえ、気を許していたことがわかります。

 一方、義尊の書状も残されています。


(https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/319より。図をクリックすると、拡大します)

 何が書かれているのか、文字を判読することはできませんでした。説明によると、これは、女官を通して渡した、「後水尾上皇の幡枝への遊興に際し、義尊がそのもてなしを依頼されたことへの返書」だそうです(※ 上記URL)。

 このように、義尊は、天皇あるいは上皇との良好な関係を通し、経典、古典籍、王朝文化に関わる資料などを数多く保存し、整理していました。その結果、実相院の文化的価値を高めたことは注目に値します。

 ところで、実相院のご本尊は、不動明王です。

■ 不動明王

 ご本尊は、鎌倉時代に作られたとされる木造立像の不動明王です。


(※ 実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この写真ではちょっとわかりづらいですが、右目を大きく見開き、左目は瞼が垂れて半開きになっています。左右非対称の形相がなんとも恐ろしく、威圧感があります。

 これは、「天地眼」と呼ばれる様式の造形です。

 天台宗の安然(841-915)が記した「不動十九相観」には、不動明王には十九の外見上の特徴があり、この「天地眼」はその一つだと記されています。

 一見、異様な印象を与える不動明王の両眼は、閉じた左目で災いを退け、開いた右目で善を保つことを表しているといわれています。迷いの世界にいる衆生を見守り、正しい仏の道に導くための造形なのです。(※ http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=2574)

 このような造形は、おそらく、不動明王が大日如来の化身とみなされているからでしょう。

 大日如来と不動明王はまさに異体同心、ある時は柔和で慈悲深い姿、また、ある時は怖い忿怒の形相をした不動明王の姿となって、迷える衆生を導き、救済しているように思えます。

 Wikipediaでは、不動明王について、次のように説明されています。

 「密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。(中略)真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれることもある」(※ Wikipedia)

 不動明王の由来を知ると、天台宗寺門派の門跡寺院である実相院に、本尊として不動明王が置かれているのは当然といえば、当然のことでした。

 それでは、創建の経緯から、見ていくことにしましょう。

■ 実相院門跡の創建

 実相院は寛喜元年(1229)に創建されたとされていますが、実際は、それ以前から存在していたようです。

 「寺伝によると実相院は静基(1214~59)によって開基されたというが、すでに見てきたように近衛家に関連する門跡としてそれ以前より成立していた。静基は鷹司兼基(1185~1259以降)の子で、近衛基通の孫である。寛喜元年(1229)3月7日に覚朝(1159~1239)より伝法潅頂を受けた。正元元年(1259)閏10月26日に46歳で示寂した(『寺門伝記補録』巻第16、僧伝部巳 非職高僧略伝巻上、前権僧正静基伝)。なお近世期の実相院の相承系譜や『諸門跡譜』、明治時代の『愛宕郡寺院明細帳』『京都府寺誌稿』では静基を開基とすることで一致するものの、開創年については詳かにしていない。なお現在実相院における寺伝の開基年である寛喜元年(1229)は静基が伝法潅頂を受けた年である」
(※ 「実相院」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)

 実相院は近衛家に関する門跡として以前から存在していたというのです。いくつかの資料にあたってみても、静基が開いたことでは一致しているが、開基年は詳らかにされていないと書かれています。

 それでは、実相院のHPでは、どのように記述されているのでしょうか。HPを開いてみると、次のように書かれていました。

 「実相院が門跡寺院となったのは、静基(じょうき)僧正が開山された、寛喜元年(1229年)のことで、そのころは北区の紫野にありました。その後、京都御所の近くに移り、ここ岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるためであったと言われています」(※ 実相院HP)

 興味深いことに、ここでは「静基僧正が開山された」と書かれており、「創建された」とは書かれていません。

 さらに、『京都 実相院門跡』には、実相院の創建について、次のような記述があります。

 「鎌倉時代中頃には創建されていたといわれている。寺名については、寛喜元年(1229年)に鷹司兼基の子静基が園城寺に入壇し、実相院と号したことによるという。実相院が門跡寺院となったのも、この初代静基が関白近衛基道通の孫であったことによるところが大きい。そのため鎌倉時代以降、寺領も増加した」(※ 宇野日出生、「洛北岩倉と実相院門跡」、『京都 実相院門跡』、p.43、思文閣出版、2016年)

 以上を総合すると、静基が伝法潅頂を受けた寛喜元年(1229)に、その号にちなみ、実相院が門跡寺院として創設されたといえます。つまり、静基が伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て、正式な僧侶と認められた段階で、実相院は、静基の号を冠した門跡寺院として誕生しているのです。

 場所も当初は現在の岩倉ではなく、北区柴野にありました。その後、京都御所の近くに移り、さらに、応仁の乱(1467-77)が激しくなった頃、戦火を逃れるために、岩倉に移っています。

 それでは、なぜ、岩倉の地が選ばれたのでしょうか。

 先ほどもいいましたように、実相院は岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。このような呼び名からは、実相院が岩倉の地に深く根を下ろしていたことが示唆されています。

 案内図を見ると、実相院の周辺には、大雲寺、岩倉神社、岩倉具視幽棲旧宅、いわくら病院などが図示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 それぞれ、至近距離にあります。私が実際に訪れたのは、実相院と岩倉具視幽棲旧宅だけですが、調べてみると、大雲寺と実相院は相互に深く関わり合って、この地域の歴史を紡いできたことがわかりました。

 なぜ、岩倉の地が選ばれたのかを知るには、まず、実相院と大雲寺との関係を調べてみる必要があるでしょう。

■ 実相院と大雲寺

 先ほどご紹介した宇野日出生氏は、実相院と大雲寺との関係について、次のように記しています。

 「(実相院が)岩倉に移転した要因は、応仁の乱の戦火から逃れるためだった。戦場となった町中から岩倉へ難を避けざるをえなかったのである。建武三年(1336)9月3日付光厳上皇院宣案によると、実相院は南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していたことが知られる。このような理由から、実相院が岩倉に移ったと考えられるのである」(※ 前掲)

 なぜ、岩倉なのかといえば、「実相院が南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していた」からだというのです。

 また、「実相院」(http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)には、以下のように同様の記述があります。

 「それまで大雲寺は同寺中に位置した平等院が大雲寺寺務職を兼帯しており、平等院は後に円満院門跡へと昇格したが、元弘・建武年間(1331-38)に円満院門跡の園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれていた(湯本、著作年未詳)。この頃円満院門跡から円胤(?~1355)が還俗して南朝側にはしるなど、京洛を実効支配していた幕府・北朝側にとって、円満院門跡より、北朝天皇の護持僧となっていた実相院門跡増基の方が信に値することもあったため、実相院が大雲寺を管領することになったと考えられる」(※ 上記URL)

 なぜ、実相院が大雲寺の事務を管掌するようになったかといえば、幕府・北朝側にとって実相院門跡の方が信頼できると思われていたからだというのです。というのも、円満院門跡の一人が還俗して南朝側に走ったことがあるからでした。

 ここに、南北朝時代の抗争の一端を見ることができます。

 一方、大雲寺側の資料によると、次のように書かれています。

 「大雲寺中に位置した平等院は、円満院門跡となり、大雲寺寺務職を兼帯していたが、元弘・建武年間(1331~38)に園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれた(『京都府寺誌稿』)。代わって大雲寺を管領したのが実相院門跡である。実相院は建武3年(1336)9月3日に大雲寺および同寺の荘園を光厳上皇より安堵されており(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編3冊〉)、以後実相院による大雲寺への支配がはじまる」
(※ 「大雲寺」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003j.html)

 それまで大雲寺の事務を管掌していた平等院が円満門跡となって、建武年間に園城寺に移転したのに伴い、実相院が大雲寺を管領するようになったという経緯は、先ほどの記述と同様です。

 興味深いのは、光厳上皇から「大雲寺および同寺の荘園」を「安堵(幕府などが土地の所有権などを認める)」されたと記述されていることでした。

 1336年9月3日、光厳上皇の命によって、実相院は大雲寺を管掌するばかりか、同寺が所有していた荘園までも所有し管理することになったのです。

 実は、その4カ月ほど前の1336年5月、足利尊氏は光厳天皇を奉じて上京しています。そして、光厳天皇の弟を即位させて光明天皇とし、北朝を立てていました。一方、後醍醐天皇は12月に吉野に逃れ、南朝を誕生させています。

 幕府の後ろ盾を得た光厳上皇の力が強くなっていました。

 ちょうどそのころ、実相院が大雲寺を管掌し、その所有地までも所有することになっていたのです。南北朝の対立が鮮明になっており、北朝側寺院として権勢を高め、支配系統を強化する必要がありました。

 1336年に実相院が大雲寺よりも優位に立ち、明らかな支配関係が発生していますが、その背後には幕府・北朝の意向があったといっていいでしょう。

■ 実相院による大雲寺支配

 南北朝の誕生とともに、大雲寺は実相院による支配を受け始めました。

 大雲寺の年表には、次のような記述があります。

 「実相院が今出川小川から応仁の乱の戦火を避けて大雲寺(成金剛院跡地)へ一時避難し以後今日に至る。実相院による大雲寺統治が長く続く」(※ 「大雲寺」年表)

 大雲寺を管掌していたのが縁で、実相院は岩倉の地に移ってきました。応仁の乱の戦火を逃れるため、というのがその理由でしたが、その後、管掌を介して支配力を強めていきました。

 一方、大雲寺側は実相院に対し、大きな不満を抱くようになっていました。
 
 ところが、文亀2年(1502)8月6日、実相院門跡義忠(1479~1502)が将軍足利義澄の命によって殺害されると、実相院領は収公(幕府に没収)され、8月9日、将軍夫人の日野氏領となりました。

 その結果、大雲寺に対する実相院門跡の支配を強めようとする動きに陰りがみえ、「大雲寺衆徒は一時的に大雲寺内の自治勢力回復に成功」しています(※「大雲寺」年表)。

 義忠は将軍継承者の一人であったため、将軍職を奪われることを恐れた義澄の命によって殺害されたといわれています。門主が殺害されたばかりか、実相院領まで収公されてしまったので、一時、実相院の勢力は落ちてしまいました。

 政権争いの厳しさを感じさせられますが、これは、実相院から実効支配されていた大雲寺衆徒には朗報だったのかもしれません。

 宇野氏は、「大雲寺は中世以降、実相院の支配管理となってはいたが、大雲寺衆徒が実相院の下知に応じなかったこともたびたびあった」と記しています(※ 前掲)。

 大雲寺はその後もさまざまな抗争に巻き込まれ、何度も焼き討ちにされました。元亀4年(1573)には明智光秀に攻められ、灰塵に帰したほどですが、その都度、再興されています。

■ 義尊が再興した大雲寺

 大雲寺がようやく安定したのは江戸時代、足利義尊が大雲寺を再興してからでした。寛永18年(1641)の大雲寺年表には次のように記されています。

 「義尊(足利15代義昭の孫)旧伏見城の遺材を充てて大雲寺本堂を再興する。本堂は入母屋造桟瓦葺で桁行5間、梁間5間の建物である。棟札に寛永18年(1641)の年記あり。本堂の四方に縁をめぐらせ、内部は前方2間を外陣とし、引違網入格子戸で結界して奥を方3間の内陣と脇陣にし、伝統的な密教寺院本堂(天台様式)の平面形式を踏襲」(※ 大雲寺年表)

 前にも述べましたが、義尊は実相院を復興させていました。その上、大雲寺も再興させていたのです。見識を持つ人物が資金や資材を動かせる力を持った時、数多くの文化財が失われることなく、保存されることが示されています。

 明暦元年(1655)には大雲寺鐘楼が建立されています。

 安永8年(1779)頃の大雲寺は次のようになっていました。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」、図をクリックすると、拡大します)

 大雲寺の境内の部分をクローズアップしてみましょう。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」部分。図をクリックすると、拡大します)

 本堂の右側に見えるのが、鐘楼です。その右に八所神社と書かれた建物が見えますが、
これが岩倉神社です。

 実は、この岩倉神社が大雲寺のパワースポットなのです。

■ パワースポットとしての岩倉神社

 大雲寺の創建は971年4月2日で、年表には、次のように書かれています。

 「円融天皇が比叡山延暦寺講堂落慶法要の砌、当山に霊雲を眺められ日野中納言藤原文範(ふみのり)を視察に遣わす。文範・真覚(藤原佐里)を開祖として大雲寺創建。佐里卿「大雲寺」の掲額を書く」(※ 大雲寺HP)

 比叡山延暦寺で法会が行われた際、五色の霊雲が立ち昇りました。それを見た天皇が、日野中納言文範を視察させたところ、霊雲の谷(岩倉)に辿り着き、出会った老尼から、その地が観音浄土の地と知らされました。伽藍建立には恰好の土地だったことがわかったというのです。

 そこで、視察した文範と真覚上人(藤原佐里)を開祖とし、その地に大雲寺が創建されました。

 大雲寺を建立するにあたっては、鎮守社として、境内に石座(いわくら)神社を移しています。岩倉の産土神を大雲寺の鎮守のために移動させたのです。

 古来、日本には、巨大な岩石を“磐座(いわくら)”と称して祭壇として使用したり、巨岩そのものを崇拝する習慣がありました。

 たとえば、平安京を造営する際、桓武天皇は、京都の東西南北にある“磐座(いわくら)”を掘り出し、その下に一切経を埋めています。
(※ https://japanmystery.com/z_miyako/rakuhoku/iwakura.html)

 一切経とは仏典を集成したもので、大蔵経ともいいます。その経典を霊験あらたかな磐座(いわくら)に納めることによって、京都を守護させるというのが桓武天皇の計略でした。

 北岩倉、東岩倉、西岩倉、南岩倉など、東西南北に四つの岩倉が設置されたのは、風水思想の四神相応に基づいたものでした。日本古代の磐座信仰を踏まえ、風水思想を取り入れ、桓武天皇は京都に安寧をもたらすシステムを築いていたのです。

 971年に大雲寺が創建されると早々に、岩倉神社が境内に移されています。古代の磐座信仰を踏まえ、大雲寺の安寧を願って移設されたのです。

 平安京は、さまざまな防衛ラインが敷かれた都市でした。陰陽道に基づいた仕掛けがあるかと思えば、仏教の法力によって鎮護を行う仕掛けもありました。その一つが、“四つの岩倉”と呼ばれるパワースポットでした。

 大雲寺には創建とともに、パワースポットとしての霊験あらたかな岩倉神社が置かれていました。古代天皇制の名残りといえます。

 その古代天皇制に揺らぎがみられたのが、実は、鎌倉時代でした。

■ 両統迭立

 鎌倉時代後半、皇統が2つの家系に分裂し、両統迭立の状態にありました。両統迭立とはそれぞれの家系から交互に君主を即位させていくという仕組みです。

 なぜ、「両統迭立」という仕組みが生まれたのか、その経緯をみていくことにしましょう。

 後嵯峨天皇(1220-1272)は、後深草天皇がわずか4歳の時に譲位し、上皇となって院政を敷きました。ところが、後嵯峨上皇は、その後、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にし、治天の君(天皇家の家督者として政務の実験を握るもの)を定めないまま崩御しました。

 それが、その後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなりました。

 鎌倉幕府は、後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱(1221)以降,皇室を監視し、皇位継承に干渉してきました。幕府による朝廷掌握は徹底し、後嵯峨上皇による院政の頃は、ほぼ幕府の統制下にあったといわれています。

 膠着状態に陥っていた皇位継承問題の打開を図ったのは、幕府でした。幕府が、両統交互に即位するという案(両統迭立)を出し,両統の間に協定が成立したのです。 建治元年(1275)のことでした。

 天皇家の系図を見ると、後深草天皇(89代)から亀山天皇(90代)、後宇多天皇(91代)から伏見天皇(92代)といった具合に二つの皇統から交互に君主が出ています。


(宮内庁HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ても、後宇多天皇(91代)から後醍醐天皇(96代)までの6代は、両統から交互に即位していたことがわかります。ところが、後醍醐天皇の代で、この仕組みが機能しなくなり、南朝と北朝に分かれてしまいました。

 というのも、後醍醐天皇が自分の息子に皇位を継承させようとし、両統迭位を求める幕府を打倒しようとしたからでした。計画は事前に幕府に発覚し、後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいます。

 ところが、後醍醐天皇は早々に隠岐から脱出し、幕府打倒の綸旨を諸国に発布します。それに応じた足利尊氏や新田義貞などの功労で、鎌倉幕府は滅亡しました。1333年のことです。

 その翌年(1334年)、後醍醐天皇は京都に帰還して年号を建武と改元し、天皇中心の政治体制を復活させようとしました。いわゆる「建武の新政」です。

 後醍醐天皇は天皇を中心とした社会に戻そうとしたのですが、元弘の乱後の混乱を収拾することができず、また、公家を優遇した政策が武士たちの反感を招きました。その結果、建武3年(1336)、足利尊氏との戦いに敗れ、政権は崩壊しました。

 後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立て、そこで天皇を中心とする政権を樹立しました。一方、武家側に依存している北朝は、足利尊氏は光厳天皇の後、光明天皇を立てました。

 以上が、「両統迭立」から南北朝誕生に至る経緯です。

 実相院が大雲寺を管掌するようになったのは、ちょうどこの頃のことでした。社会が二分され、北朝と南朝の対立が先鋭化していた時期だったのです。

 武士勢力が台頭し、古代天皇制に消滅に向かっていた時期でもありました。

■ 武士勢力の台頭と古代天皇制の崩壊

 光厳天皇は北朝1代目の天皇で、光明天皇は2代目でした。以後、北朝は5代まで続き、北朝6代の持明院統の後小松天皇(100代)からは北朝系で統一されていきます。これで、ようやく南北朝が統一され、皇統が一つになったのです。

 この時も解決に向けて動いたのは幕府でした。

 明徳3年(1392)、足利義満は、南朝第4代天皇・後亀山天皇との間で、「明徳の和平」を締結しました。それに従って、 後亀山天皇は京都へ赴き、大覚寺で神器を後小松天皇に渡しました。南朝が解消される形で、南北朝合一は成立したのです。

 こうして約56年に亘った南北朝の分裂は終結しました。

 この時、南朝に任官していた公家は、一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落していきました。また、南朝には、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちが集まっていましたが、後醍醐天皇が公家を優遇した政策を取ったので、彼等は失望を募らせ、去っていきました。

 南北朝の時代は、古代天皇制が終焉していく過程であり、その一方で、支配階級としての武士の基盤が確立されていった過程だったと捉えることができるでしょう。

 後醍醐天皇は、天皇が絶対的権力を持つ古代天皇制を復活させようとしていました。ところが、政治制度としての天皇制はすでに、摂政から院政へと変容し、天皇は事実上、最高の支配者ではなくなっていました。

 もちろん、律令制はもはや機能しなくなっていました。荘園を所有するのは貴族や寺社だけではなく、武士も参入してきており、中には大土地所有者になっている者もいました。土地所有の公有制は解体され、私有制に移行していたのです。

 さらに、荘園を侵略する者が絶えなくなっていました。それを封ずるため、源頼朝は、律令制の枠組みを壊すことなく、守護・地頭制を組み込み、全国の治安警察権、土地管理権、徴税権などを掌握したのです。

 後醍醐天皇は鎌倉時代末期、武家政権への抵抗を試み、古代天皇制を復活させようとしましたが、わずか2年半でその試みは終了しました。社会構造が変化し、武家政権への移行は避けられなかったのです。

 今回、訪れた実相院は、北朝側に立っていました。だからこそ、室町時代から江戸時代にかけて、隆盛を誇ることができたといえるでしょう。(2023/1/28 香取淳子)

Idemitsu Art Award 2022展:リアルとファンタジーの合間に

■Idemitsu Art Award 2022展の開催

 国立新美術館で今、「Idemitsu Art Award 2022展」が開催されています。開催期間は2022年12月14日から12月26日まで、開催時間は10:00-18:00(入場は17:30まで)です。

 これまで「シェル美術賞」をして知られていた美術賞が、2022年4月に改称され、「Idemitsu Art Award」となりました。名称が変わっても、次代を担う若手作家を奨励するという目的に変わりはありません。

 これまで通り、40歳までの若手作家を対象に作品募集され、その結果を反映した展覧会、「Idemitsu Art Award 2022展」が今回、実施されました。

 実施概要は以下の通りです。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/news/2022/220603.html

 改称された「Idemitsu Art Award 2022展」には、650名の作家から応募があったといいます。昨年と比べ、作家は142名増え、応募作品は128点増えて860点にも上っているのです。

 これまでと違って、グランプリの賞金が300万円に増額(これまでは100万円)され、25歳以下の出品が無料(1点まで無料、2点目以降は有料)に改良されていたからでしょう。若手作家がこの好機を見逃すはずはありません。改良によって、若手の応募意欲が高まっていたことは明らかでした。

 さて、審査員は上記URLに示された5名ですが、そのうち2名が、今回、新たに審査員に加わりました。福岡市美術館学芸員の正路佐知子氏と、とシェル美術賞2010年度の審査員賞を受賞した画家の青木恵美子氏です。

 新たな視点を加えて審査された結果、グランプリを含む8点の受賞作品、46点の入賞作品が選出されました。今回、展示されていたのは、これら54点の作品です。全般に、優しい色遣いの作品が多いように思えました。

 それでは、会場に入って、鑑賞することにしましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 40歳以下を対象にした公募展のせいか、会場で見かける観客も若い人が多かったような気がします。

 2022年度のグ受賞作品は8点で、作者および作品概要は以下の通りです。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/enjoy/culture_art/art/2022/winners.html

 それでは、まず、これらの受賞作品の中から、印象に残った作品を何点か、ご紹介していくことにしましょう。

■印象に残った作品

●グランプリ作品:《せんたくものかごのなかで踊る》

 グランプリに選ばれたのが、竹下麻衣氏の、《せんたくものかごのなかで踊る》という作品です。

こちら →
(岩絵具、水干絵具、膠、箔、カンヴァス、162×140㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 会場でこの作品を見た時、何が描かれているのか、すぐにはわかりませんでした。

 得体の知れないものが重なり合い、波打つように、画面を覆っています。形からも、色からも、これらのモチーフが一体、何なのか、推し測ることすらできませんでした。なにしろ、モチーフとモチーフが重なり合って、認識の根拠となる形が崩れてしまっているのです。

 しかも、色と色が溶け合って、境界線すら曖昧です。曖昧模糊とした画面の中で、かろうじてモノとして認識できるのが、細い黒の線で描かれたワイヤーでした。

 もっとも、ワイヤーだということはわかっても、それが「せんたくものかご」だという認識には至りません。作品のタイトルを見て、ようやく、このワイヤーが「せんたくものかご」だとわかった次第です。

 認識の盲点を突かれたような気がしました。

 この作品を見た時、タイトルも見ていたはずなのに、漢字で書かれた「踊る」という言葉に強く印象づけられ、平仮名で書かれた他の言葉を認識していなかったのです。タイトルの中の、「せんたくもの」、「かご」、「なかで」という言葉は、平仮名で書かれていました。そのせいで、すっかり認識のフィルターから洩れてしまっていたのです。

 象形文字から派生した漢字は表意文字なので、一目でその意味を理解できます。ところが、平仮名は表音文字なので、見ただけでは意味を理解できません。

 そのような漢字(表意文字)と平仮名(表音文字)の特性の違いに着目し、作者はタイトルの表記に工夫を凝らしたのかもしれません。タイトルのほとんどは平仮名表記にされていました。そうすることによって、観客がすぐにも理解してしまうことを阻む一方、唯一、漢字表記された「踊る」という言葉を強く印象づける効果があったのです。

 さて、このワイヤーが、「せんたくものかご」なら、奇妙なモチーフの群れは、洗濯物かごに投げ込まれた衣類だということになります。これで、ようやく、描かれているモチーフが、洗濯物かごに入れられた布類だということがわかりました。

 なんと、日常生活の中で、ともすれば見落とされがちな洗濯物が、この作品の画題だったのです。

 このような画題の選び方もまた、観客の認識の盲点を突く要素の一つだったと思います。とくに、作品の中に何らかの意味、あるいは、メッセージを見出そうとする観客にとっては、意表を突かれる画題だったでしょう。

 観客には一般に、作品化される画題は、作者にとって何らかの価値があるはずだという思い込みがあります。それもまた、認識の盲点を突く要素になっていたと思います。

 タイトルにしても、画題にしても、この作品には認識の盲点を突くようなところがありました。何が描かれているのか、すぐにはわからなかったのもそのせいだという気がします。

 さらに、ワイヤーかご以外に、具体的なモノとして同定できるモチーフはありませんでした。色彩についても形状についても、ワイヤー以外はすべて、曖昧模糊としています。

 画面は淡いベージュとグレーを基調として色構成されていました。そんな中、得体の知れない黒い塊が3か所、上から順に適度な間隔を空けて配置されています。これもまた、何か具体的なものと同定することはできません。

 黒い塊は、乱雑に動き出そうとする不定形のモチーフを抑え込む役割を果たしているように思えます。同様に、下方には茶色の塊が配置されており、はみ出そうとしているモチーフをどうにか抑えているように見えます。つまり、濃い色を使って描かれたこれらの物体は、ワイヤーとは別に、秩序のない画面を引き締めていたといえます。

 容積を超えて、ワイヤーかごに投げ込まれた洗濯物は、元の姿を変え、得体の知れない物体に変化せざるをえないのでしょう。確かに、うず高く積み上がった高みからワイヤーかごを大きくはみ出し、床に達してしまったものがあれば、ワイヤーの隙間からはみ出そうとしているものもありました。

 一方、上方には、緑の濃淡で曲線がいくつか、ランダムに描かれています。衣類の模様にも見えますが、乱雑な中にも、そこから軽やかな動きが生み出されていました。下方には、ドット模様の衣類がワイヤーからはみ出し、襞を作っています。さらに、画面の左には、ワイヤーから大きくはみ出し、うねるような格好で、床に達している大きな衣類が描かれています。

 そのような洗濯物の様相を、作者は「踊っている」と捉えました。洗濯物に人格を与え、「踊る」と形容したところに、作者の若い感性が感じられます。

 誰からも見向きもされないような洗濯物を擬人化して、言葉を与え、価値づけようとしている気がしたのです。

 洗濯物に着目し、それらを放埓な様相で表現し、「踊る」と捉えて作品化した作者の着眼点が面白いと思いました。ありふれた日常のものを作品化しようとする試み、それを、認識の盲点を突くような形で表現し、観客に訴求しょうとする意欲に若さが感じられました。

 この作品と似たような雰囲気を感じたのが、《bathroom 1》です。

●鷲田めるう審査員賞:《bathroom 1》

 鷲田めるう審査員賞に選ばれたのが、石川ひかる氏の《bathroom 1》です。

こちら →
(油彩、木炭、パステル、カンヴァス、130.3×162㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 タイル壁に沿って、バスタブ、シャワーヘッド、排水口、ブラシなどが描かれています。それらを見ると、浴室内が描かれていることは明らかなのですが、全体にぼんやりとしています。すべてがまるで水蒸気の漂う空間に閉じ込められているかのように見えます。

 ほとんどのモチーフはぼんやりと淡いグレーで描かれ、オフホワイトで覆われた画面の中に封じ込められています。それだけに、色彩のあるモチーフはことさらに強く印象づけられますが、その形状や描かれ方が不自然でした。

 たとえば、バスタブと排水栓をつなぐ線が赤で描かれています。あまりにも細くて、うっかりすると、見落としてしまいそうになります。この赤い線の一方の端は、バスタブに張られた湯の中に深く沈み込んでしますが、片方の端は水栓を経由して、バスタブに固定されているのです。それが不自然で、違和感を覚えました。

 さらに、バスタブ内の湯は、群青色と水色とに分けて表現されています。風呂の湯なのに、なぜ二色に分けて描かれているのかわかりませんが、いずれも海水の色で描かれています。しかも、表面には無数のさざ波が立ち、波打っています。当然のことながら、海を連想させられますが、やはり、不自然で、違和感を覚えさせられます。

 描かれているものがどれも不自然で、稚拙に見えます。

 たとえば、タイル壁の目地なのに、線がまっすぐに引かれておらず、間隔も不揃いです。バスタブの形状も水道栓も、シャワーヘッドも何もかも、リアリティに欠け、バランスに欠け、稚拙としかいいようのない描き方なのです。

 ところが、やや引いて見ると、水蒸気の立ち込めた浴室の様相が、見事に描き出されていることに気づきます。

 稚拙に見えていた浴室内の光景ですが、引いて見てみると、逆に、蒸気のこもった浴室のむっとした空気、バスタブから人が出た後の湯の揺らぎといったものが巧みに表現されているように思えてきたのです。

 それにしても奇妙なのは、群青色と水色で描かれたバスタブの湯でした。まるで陸に近い海と遠い海とを描き分けているようにも思えます。群青色パート、水色パートのどちらにも表面に波頭が立ち、うねっているように描かれています。

 浴室という狭い密室空間が描かれているにもかかわらず、ごく自然に、波立つ海を連想させられてしまいました。

 水面が波立っているのは、ひょっとしたら、誰かがバスタブから立ち去った後だからかもしれません。あるいは、強風が海面を撫ぜ、さっと通り過ぎた後だったのかもしれません。

 誰もいない浴室内の光景が描かれているだけなのに、ヒトの気配が感じられ、海が連想されました。リアルとファンタジーが混在した世界に迷い込んだような気分になっていたのです。

 なんとも不思議な作品でした。

 この作品には、観客の気持ちをアクティブにするための仕掛けが潜んでいたように思います。どのように表現すれば、どのような効果が得られるのか、作者は熟慮を重ねて制作したのではないかという気がするのです。

 たとえば、総てのモチーフは、ぼんやりと曖昧に描かれるだけではなく、不自然な形態で捉えられていました。稚拙に見える表現でしたが、逆に、観客の想像力は限りなく刺激されます。

 それは、おそらく、稚拙で、不自然に描かれた作品を見ると、観客は半ば条件反射的に、欠損部分を補おうとし、そのための想像力を働かせるからでしょう。

 こうしてみてくると、観客が、作品とアクティブに関わらざるをえないような仕掛けを、作者は用意していたのではないかと思えてきます。すなわち、稚拙で、不自然にモチーフを表現するという戦略です。

 画面の不完全さが、観客を刺激し、無意識のうちに、作品への関与度を高めていくのではないかという気がします。その結果、画面には描かれていない世界までも頭の中で創り出し、想像の世界を堪能するようになるのではないかと思いました。

 それでは、次に、色彩の美しさが印象に残った作品をご紹介しましょう。

●桝田倫弘審査員賞:《プランツとプラネット》

 桝田倫弘審査員賞に選ばれたのが、檜垣春帆氏の《プランツとプラネット》です。

こちら →
(油彩、ペンキ、アクリル、パステル、木炭、カンヴァス、162×130.3㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 会場でこの作品を見た時、まず、画面の色調が艶やかで、美しいのが印象的でした。とはいえ、これまで取り上げてきた作品と同様、この作品も、何が描かれているのか、すぐにはわかりませんでした。

 画面の7割ほどが、オフホワイトと淡いベージュで構成された巨大な空間で占められています。その淡い枯れ葉色の上に、濃い枯草が散乱し、辺り一帯を覆っています。風が吹いて、枯れ葉や枯草が砕けて飛散していったのでしょう、周辺にはその残骸が散っていました。

 興味深いことに、いくつもの光線が、その巨大な空間の中を、自由自在に弧を描きながら、縦横無尽に駆け巡っています。まるで散乱する枯れ葉を繋ぎ留めようとしているかのように見えます。

 裏側にいくつか光源があるのでしょうか、背後から輝いています。そして、下方の群青色の空間との繋ぎ目辺りに、発光体のようなものがいくつか描かれており、画面全体に華やぎが感じられます。

 画面の3割ほどを占める下方の空間は、まるで夜空のようでした。群青色の空間が広がり、星が点々と煌めいています。

 上方の黄色をベースとした空間と、下方の群青色をベースとした空間は、ほぼ補色関係になっていて、互いの色を際立たせています。これまでご紹介してきた作品とは違って、配色のコントラストが明確で、しかも艶がありました。ワクワクするような色の刺激があります。

 ちなみに、この作品のタイトルは、《プランツとプラネット》です。

 まず、通常は仰ぎ見ている宇宙が、この作品では下方に配置されています。しかも、その形状が、まるで宇宙から見た地球のように、プラネットとして描かれているのです。

 一方、そのプラネットと接するようにして描かれたのが、枯れ葉や枯草が舞い散る空間でした。プランツが浮遊する空間が、まるで無限に広がる宇宙のように表現されているのです。私たちが認識しているプラネット(宇宙)とプランツ(地上に生息)との位置関係が真逆に表現されていたのです。

 それにしても、なんと奇妙な空間なのでしょう。

 通常、「プランツ」と聞いて連想するのは、緑色の葉や草、大地に根を張った木々ですが、ここで描かれているのは枯れ葉や枯草でした。枯れて、大地に戻る寸前の植物が、巨大なエネルギーによって放散され、うねりながら、無限の巨大空間の中で舞い散っている様子が描かれていました。

 プランツといいながら、緑色の葉や草(生)ではなく、枯れ葉や枯草(死)が飛散する様子が描かれていました。そして、プランツとして表現されている空間には、いくつもの光線が弧を描きながら、上下左右を巡っています。

 アースカラーで覆われ、黄昏を感じさせる広大な空間に、光の環や発光体のようなものが随所に描かれていたのです。それは、まるで枯草(死)を蘇らせ、プランツ(生)として、プラネット(地球)に送り返そうとするエネルギーのように見えました。

 まさに、輪廻転生の現象のように思えました。

 枯れ葉や枯草は、巨大な宇宙空間で舞い散って、砕け、やがて、下方のプラネットに落下して新たなプランツとして誕生するというメッセージが込められているように思えたのです。

 最初、この作品を見た時、ワクワクするような高揚感を覚えました。この作品の色調に、静かで落ち着いていながら、華やかな煌めきがあったからです。

 そして、どういうわけか、その煌めきの中に、生と死の繰り返しの円環現象を支える永遠のエネルギーと、そこから放たれる美が感じられたからでした。

 以上、受賞作品の中から印象に残ったものをご紹介してきました。次に、入選作品の中から1点、ご紹介しておきましょう。

 入選作品は46作品でした。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/enjoy/culture_art/art/2022/list.html

 これら入選作品の中から印象に残った作品を1点、ご紹介しておきましょう。

●桝田倫弘審査員の推薦:《集合住宅》

 桝田倫弘審査員に推薦されて、入選したのが、アルト・クサカベ氏の《集合住宅》です。

こちら →
(アクリル、岩絵具、パネル、和紙、130.4×162.1㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 この作品を見た瞬間、軽やかで都会的な色遣いに、強く印象づけられました。とくに惹かれたのが、繊細な空の色です。黄色や橙色など暖色系の淡い色に、白やセルリアンブルーを程よく加えた色調に、ほのかな陽光の輝きが感じられました。

 ぎらぎらと照りつけるわけではなく、どんよりと曇っているわけでもなく、心地よい明るさと陰りをもたらしているこの色遣いに、都会的な軽やかさと繊細さが表現されていました。

 その空を背景に、建物の設計図のようなものが、赤や黒、グリーンなどの細い線で描かれています。骨組みを示す線の細さが、空の色の繊細さを巧みに引き出していました。線描きならではの簡潔さが、周囲の色を引き立てる効果を生み出していたのです。

 重量感のあるコンクリートの建物が、輪郭線だけで表現されています。それも、赤、黒、青、緑などのごく細い線で、建物の構造がきわめてシンプルに示されていたのです。無駄なものが削ぎ落されていたせいか、画面からは、洗練された切れ味と都会的なセンスが感じられました。

 透けた建物の背後には林が見え、池が見えます。さらに、得体の知れない三角形、あるいは、長方形の造形物も見えます。このように、自然の中に幾何学的なモチーフをはめ込むことによって、人工的で現代的なテイストが加えられていました。

 手前には、建物を支えるコンクリートの杭が数本、立っています。通常、一直線に並べられるはずですが、ここでは、そうではなく、不揃いで、間隔も不均等です。そこに、堅固さの中に柔軟性があり、粗雑さも感じられます。なんともいえない人間臭さが醸し出されていたのです。

 現代的で都会的でありながら、田園の味わいがあり、人がいないのに、その気配が感じられます。そして、暖色系を交えて描かれた背後の空は、幻想的でありながら、リアリティがありました。

 不思議な空間が創出されていました。

 風も空気も通さないコンクリートの厚い壁を描かず、透明にし、背後の林や池が見えています。都会を象徴する建物の中に田園風景を取り込むことによって、風通しの良さと爽やかさを表現することができていました。

 背後に描かれた空は、朝とも午後とも夕刻ともつかない、暖色と寒色の入り混じった色で描かれていました。想像力をかき立てられる一方、ほどよいリアリティが感じられ、気持ちが和む作品でした。

■リアルとファンタジーの合間に

 展示作品の中から、印象に残った作品を4点、ご紹介してきました。いずれも、リアルとファンタジーの合間に作品世界が表現されていたのが、特徴です。

 その中でも理解しにくかったのが、《せんたくものかごのなかで踊る》と《bathroom 1》でした。どちらも、一見しただけでは、何が描かれているのか、作者が何をいおうとしているのか、皆目、わかりませんでした。

 モチーフの形状が曖昧で、モチーフとモチーフ、モチーフと背景との境界も判然としていません。しかも、画面の大半がオフホワイトに近い、淡いアースカラーで覆われていました。そのせいか、ファンタジックで幻想的な空間が描き出されていました。

 画面の色調はやさしく、モチーフの形態もぼんやりとしており、観客を和やかな気持ちにさせてくれます。その一方で、まるで解釈を拒否するかのような奇妙な空間でもありました。作品世界を解釈するための手がかりが欠けていたのです。

 ただ、《せんたくものかごのなかで踊る》には、タイトルの付け方にヒントがあり、《bathroom 1》には、稚拙で不自然に見える描き方にヒントがありました。安直な解釈を回避し、観客の想像力を駆使させるような仕掛けが込められていたのです。

 一方、《プランツとプラネット》と《集合住宅》には、まず、色彩に惹きつけられました。深い色合いに関心を覚えて画面を見ているうちに、ごく自然に、それぞれの作品世界に到達することができたのです。色彩が手掛かりとなり、モチーフの断片がヒントとなって、画面を解釈し、作品世界を堪能することができました。

 今回、若手の作品を何点か見てきて、改めて、リアルとファンタジーの合間にこそ、表現の真実が潜んでいるのではないかという気がしてきました。(2022/12/27 香取淳子)

昭和レトロな玉川温泉は体験型ミュージアムか?

■玉川温泉

 2022年11月4日、埼玉県嵐山史跡博物館に出かけた帰りに、埼玉県比企郡ときがわ町にある玉川温泉に立ち寄りました。たまたま手にしたチラシに、「お肌つるつるの美肌の湯」と書かれていたのを見て、ふと、訪れてみる気になったのです。

こちら → https://tamagawa-onsen.com/spa/

 これを見ると、玉川温泉は、地下1700メートルの秩父古生層から湧出するアルカリ性の単純泉で、ph値は10と書かれています。

 調べてみると、温泉はph値が高いほどアルカリ性、小さいほど酸性という区分されており、中間値はph6以上7.5未満で、日本の温泉で最も多いのはこの中性の温泉だそうです。

 玉川温泉はph値が10なので、相当アルカリ性の高い泉質だということがわかります。アルカリ性の温泉は皮脂を落とし、角質を柔らかくする効果があるので、「お肌つるつる」になるのでしょう。

 玉川温泉に就いての情報を確認し、カーナビの案内に従って、ときがわ町に向かいました。次第に人家が少なくなっていく山の中で、カーナビが案内終了を告げました。車が何台か駐車している場所が近くに見えたので、おそらく、ここが玉川温泉なのでしょう。ところが、温泉があるような気配はどこにもありません。

 下車して少し歩くと、古民家のような建物が見えてきました。

■古民家かと見まがう玉川温泉

 どう見ても、高齢者が住んでいるとしか思えないような建物です。家の前には、廃棄物のような生活用品が放置されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 いまではほとんど見かけることもない色褪せた郵便ポスト、小さな三輪自動車、そして、手前左には錆びついた自転車が置かれています。なんとも奇妙な取り合わせです。置いてあるものがいずれも、時代がかっているのです。

 一瞬、場所を間違えたかと思いました。ところが、郵便ポストの背後に、「玉川温泉」の看板が見えます。やはり、ここが玉川温泉のようです。

 確認するため、看板に近づこうとすると、その前に、まるで行く手を阻むかのように、古びたタイル張りの、洗い場のようなものが置かれていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 高さからいって、どう見ても、洗い場ではありえません。中を覗き込むと、鎖のついた栓もついています。どうやらお風呂のようです。こんなに小さなお風呂があるのかと驚くほどの小ささですが、昔はこれで足りていたのでしょう。

 古ぼけたタイル仕様のお風呂のすぐ近くに、「玉川温泉」の看板が掛けられていました。こちらは、赤地に白で書かれた「玉川温泉」の文字が鮮明で、印象的でした。

 近づいて見ると、看板だと思っていたものが、実は、垂れ幕でした。ロールスクリーンのように、下部にウエイトバーがついており、風が吹いても巻き上がらないように固定されています。これなら、遠くから見て、看板だと思ってしまったのも無理はありません。

 よく見ると、「玉川温泉」の脇に、小さな文字で、「昭和レトロな温泉銭湯」とキャッチコピーが書かれています。

 このキャッチコピーを読んでようやく、この温泉の位置づけがわかりました。廃棄物にしか見えなかった古臭い生活用品は、なんとこの温泉をアピールするためのオブジェだったのです。

■昭和レトロな温泉

 放置されているようにみえた昭和のオブジェは、見たところ、昭和30年代のモノのように見えます。日本がとりあえず戦後復興を終え、ようやく経済成長期に入った頃、人々の生活を支えてきたさまざまな生活用品です。

 それが、今、こんな山の中の温泉をアピールするための道具として使われているのです。改めて、「昭和レトロな温泉銭湯」の文字が気になってきました。

 奥の方に、「玉川温泉」と書かれた提灯が見えます。

 その提灯の奥には、さきほど見たのとはまた別の小さな三輪自動車が置かれ、背後に「アサヒビール」と「ニッポンビール」の看板が見えます。看板でありながら、購買者の気持ちを煽ろうとするところがなく、ただ、白い鉄の板に赤い文字だけが書かれています。実に、素朴です。

 そういえば、ここに置かれているモノ、一つ一つが素朴で、飾り気がなく、質素でした。

 商品名を書いただけの看板、ようやく一人が浸かれるだけの小さなお風呂、おもちゃのような三輪自動車、いずれも生活に必要な機能だけを求め、最低限の仕様で製品化されていました。慎ましく、必死に生きていた当時の人々の生活の一端を見たような気がしました。

 実需主導でモノが流通していた頃の質実な生活に、気持ちが動かされました。戦後の復興期から経済成長期にかけて、これらのモノが、どれほど多くの人々の生活を支え、未来への希望をかき立てていたのでしょうか。

 未来への不安を払拭できなくなっている令和の今、もはや昭和を振り返る手掛かりすら失ってしまっています。昭和レトロをアピールする玉川温泉にやってきたのですから、せっかくの機会を無駄にせず、昭和30年代にタイムスリップし、当時を振り返ってみることしたいと思います。

■一世を風靡したミゼット

 道路側から玄関を眺めると、また別の光景が見えてきました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 画面左側に、手押しポンプの井戸が見えます。水道が普及するまで、人々はこのようにして井戸から水をくみ出していたのです。その傍らに小さなタイル張りの洗い場が見えます。人々はここでしゃがみ込んで洗い物をし、炊事の支度をしていたのでしょう。

 ここからは、「フクニチ スポーツ」や「毎日新聞」の看板も見えます。

 画面中央に、最初に見たのとはまた別の三輪自動車が置かれています。特徴のある形はおそらく、ミゼットでしょう。子どもの頃、テレビCMでよく見ていた記憶があります。

 懐かしい思いに駆られ、スマホで調べてみると、確かに、このおもちゃのような車はダイハツ・ミゼットでした。1957年8月1日に販売開始されたダイハツのミゼットDKA型だったのです。

 初代ミゼットをこんなところで見かけるとは思いもしなかったので、驚きました。

 もっと近づいて、見てみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 写真を見てわかるように、前面に風防こそ装着されていますが、屋根と背面は幌仕立てです。ドアも付いておらず、一人しか乗れません。今から65年も前の車ですが、あまりにも簡単な造りなので、驚いてしまいました。

 車としては最低限の仕様です。それでも、リヤカーよりも速く、人の労力を軽減できるので重宝され、日常の運搬車として活用されていました。

 このダイハツ・ミゼットのテレビCMに起用されていたのが、当時、お笑い番組で人気のあった大村崑です。「ささやん」と呼ばれていた佐々十郎とコンビで、ミゼットを紹介していたのを、今でもすぐに思い浮かべることができます。

 大村崑のとぼけた風貌と所作が面白く、毎回、飽きもせず真剣に見ていたことを思い出します。子どもたちの中にはそのセリフと振りを真似するものもいて、人気はうなぎのぼりでした。大村崑は、ミゼットのCMには最適のお笑いタレントでした。

 愛らしいデザインのミゼットもまた、人々に愛され、小回りを利かせ、街中で生活物資を運んで走り回っていました。是非とも、当時を振り返ってみたいと思って、ユーチューブを検索してみると、当時のCMを見つけることができました。

 ちょっと、見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/bEBmAGdAhHk
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 学生服を着た大村崑と佐々十郎が、掛け合い漫才風に、ミゼットを紹介しています。「一番小さい車」「一番小回りの利く車」「一番安全な車」「一番安い車」「現代の車」と佐々十郎が立て続けにミゼットの効能を述べると、その都度、大村崑が可愛らしい振りをつけて、「ミゼット」と呼応していきます。

 止めどなく「ミゼット」と連呼し続ける大村崑を打とうとした佐々十郎を、大村崑は見事にかわして空振りにさせ、最後は大村崑が佐々十郎の額を打つといった展開で終了します。二人の持ち味を活かしたコント形式のCMでした。

 続くCMでは、漫才師の芦屋小雁が単独で登場し、ミゼットに2人乗りが出来たと告げています。小雁もまた当時、人気のお笑い芸人でした。背後に男女二人が乗ったミゼットが見え、運転席から男性がミゼットの改良点を述べています。

こちら → https://youtu.be/9T84GUSGofs
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 小雁がしきりに、「二人乗りの丸ハンドル」、「ダイハツ生まれのアメリカ育ち」とアピールしています。実は、ダイハツで開発されたミゼットが、アメリカ輸出向けに改良されたのが、このミゼットMPでした。アメリカでも街中での小口輸送向けにミゼットの需要が高まっていたのです。

 そのミゼットMPが日本向けに右ハンドル仕様で改良したのがMP2で、その後、鋼板製のクローズドリーフになったのがMP5型です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ミゼットの発展経緯を見てくると、玉川温泉の入り口で見た三輪自動車は、1962年12月に販売開始されたミゼットMP5型だったことがわかります。

 改めて、最初に見た三輪自動車を見てみると、ライトが二つ、サイドミラー、ワイパーが装着され、ドアもついています。DKA型よりもはるかに進歩していることがわかります。調べてみると、形状からいえば、ここに置かれているのは、1969年8月に販売開始されたMP5改良型でした。

 ミゼットは当時、軽自動車の分野で市場を席捲していました。やがて、3輪から4輪への流れに押されるようになり、1971年12月には最後の受注分の生産を完了しています。そして、1972年1月31日には販売を終了しました。経済成長時、中小零細企業の躍進を牽引した功績を残し、ミゼットは幕を閉じたのです。

 それでは、玉川温泉の中に入ってみましょう。

■シンガー製足踏みミシン

 玄関を入り、フロントに向かう靴脱ぎ場に置かれていたのが、足踏みミシンです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 足踏み台にはSINGERと刻印されています。母がこのような足踏みミシンを踏んで、さまざまな洋服を作ってくれていたことを思い出します。

 シンガー社製のミシンはすでに明治40年頃、日本に輸入され、販売されていたようです。軍服を大量生産する必要に迫られ、ミシンが大量に輸入されていたといわれています。

こちら →
(※ https://nihonvogue.com/article/detail.html?id=191&c=sewingより。図をクリックすると、拡大します)

 この目録には、「家庭及職業用シンガーミシン目録」と書かれています。家族の洋服を作る必要に迫られ、業務用ばかりか家庭用ミシンも輸入されていたことがわかります。近代化に伴い、着物から洋服への移行期を迎えていたからでしょう。

 その後、戦後の復興期を経て、産業化が進み、昭和30年代になると、多数のホワイトカラーや技術者が生み出されていきました。それに合わせて、核家族化が進み、家庭を守る存在として主婦が重要な役割を担うようになっていきました。

 家事、育児、家族の健康管理、衣服管理、家計管理など、企業戦士としての夫を支えるための後方支援として、主婦は、内なる働きを求められるようになっていったのです。家庭のさまざまな用務を果たすための情報基盤となったのが、『主婦の友』をはじめとする主婦向けの雑誌でした。

 家族の衣服に関しても、主婦は雑誌を手掛かりに、自分でミシンを踏み、手作りをしていたのです。

 母は、『主婦の友』を定期購読していましたが、それは付録に型紙がついていたからでした。付録の中から気に入った型紙を選び、子どもたちの服を作り、自分の服も作っていたのです。

 たとえば、1954年3月号の『主婦の友』の付録はこのようなものでした。

こちら →

 表紙に若尾文子と松島トモ子が起用され、大きく「実物大型紙つき 通勤通学服新型集」とタイトルが付けられています。これを見ると、母が付録の洋服特集を見せてくれて、どれがいいと尋ね、私が望んだ服を作ってくれていたことを懐かしく思い出します。

 足踏みミシンを見ると、カタカタという音とともに、当時の母の姿がまぶたに浮かびます。

 さて、ミシンに気を取られてしまっていましたが、背後の壁に、福助のロゴの入った看板が掲げられています。

 福助といえば、明治、大正、昭和と足袋メーカーとして名を馳せた会社です。子どもの頃、この看板をいろんな場所で見かけた記憶があります。

■福助の円形看板

 この福助の看板は、円形のホーロー製の看板です。かつて戸外に掛けられていたのでしょう。所々、錆びが見られます。先ほどの写真から看板部分を拡大してみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 円周の内側に沿って、上部に「名實共ニ日本一」、下部に「福助足袋」と、いずれも右から左に手書き文字が書かれているので、いかにも年代物といった感じがします。

 この福助人形は、子どもの頃、いろんな所でよく見かけました。今回、ずいぶん久しぶりに見たのですが、福々しい顔と丁寧な所作は懐かしく、今見ても、気持ちが和みます。時代を超え、社会を超えて、ヒトの気持ちを和ませる何かがあるのでしょう。

 実は、この福助人形は、創業者親子のミッションを込めて作られていました。

 1900年(明治33)、彼等はこの福助人形を新たに商標登録をするとともに、社名まで「福助」に変更したという経緯がありました。

 社史によると、創業者の辻本福松の息子、豊三郎が伊勢神宮にお参りに行った際、近くの古道具屋でこの福助人形に目を止め、買い求めました。福松親子はこの人形をベースに、人間の徳を表す「仁・義・礼・智・信」のイメージを加えたうえに、頭を低くし、手をついて礼を尽くすポーズの福助人形を作り、1900年(明治33)、新たに商標登録をし、併せて、社名を福助に一新して事業に打ち込んだそうです。
(※ https://www.fukuske.co.jp/contents/history/)

 その後、洋風化が進み、人々は着物を着る習慣を失っていきました。福助は今、足袋メーカーではなく、ストッキングなどのメーカーとして事業を継続しています。人間の徳を重視し、それをミッションにして事業展開してきたからでしょうか、事業を継続することができているのです。

 社史から、福助が1895年(明治28)、日本で初めて足袋縫い鉄輪ミシンを完成させたことを知りました。機械化によって製品の品質を向上させたのです。

 そればかりではありません。日本発の足袋縫いミシンの特許権を得た1895年、「手縫いにまさる機械縫いの足袋」という新聞1ページ大の看板を市内に掲げました。その後、広告活動に力を入れ、大正時代になると、画家に依頼し、美人画を使った広告も制作しています。

こちら →
(※ https://www.fukuske.co.jp/contents/history/より。図をクリックすると、拡大します)

 これは、画家・北野恒富による美人画を使ったポスターです。右上に福助のロゴが入り、背景には、「将来このくらいの大工場を造りたい」という理想の工場が描かれています。

 福助を創業した辻本福松がいかに進取の気性に富み、製品の質を向上させることに努力を惜しまなかったか、製品を販売するための広告活動に力を入れていたかがわかります。

 それでは、そろそろ温泉に戻りましょう。

■昭和レトロなミュージアム

 玉川温泉のお食事処の一角には、往年のポスターが何枚も掛けられていました。ここでも、もはや振り返ることのできない当時の社会文化の一端を味わうことができます。

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(図をクリックすると、拡大します)

 もちろん、お食事処も当時を偲ばせる設えになっていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 まるでミュージアムのようなレトロな玉川温泉の泉質はまた格別でした。実際、温泉に浸かってしばらくすると、肌がつるつるしてきたような気がしてきたのです。

 お湯は熱すぎず、刺激も少なく、いつまでも浸かっていられるまろやかさと柔らかさがありました。レトロな気分になっていたこともあるのでしょうが、なんともいえない安らぎを感じさせられました。

 眼を閉じ、しばらくゆっくりと浸かっていると、いつしか雑念が払われ、気持ちがのびやかに広がっていきます。日々の煩わしさから解き放たれ、頭の中が次第に浄化されていくような気持ちになりました。

 やがて全身がほぐれ、溜まっていた疲れがすっかり取れていきます。心身ともにストレスのない状況になっていきました。日頃、肩こりに悩まされていましたが、肩の凝りや疲れがすっかり取れました。美肌効果というより、疲労回復効果を感じました。

 一般に、単純温泉には、「疲労回復、神経痛、筋肉痛、肩こり」などの効能があるようです。しかも、玉川温泉はph10で、アルカリ性の泉質でした。だからこそ、疲れが取れただけではなく、肌もつるつるになったような気分になったのでしょう。

 それにしても、玉川温泉は一風変わった温泉でした。設えが普通の温泉とは全く異なっており、外観も内観もまるで昭和30年代の生活に戻ったような気分にさせられます。体験型ミュージアムといってもいいのかもしれません。(2022/11/30 香取淳子)

第85回新制作展に見る百花繚乱 ②日常生活の中で、光はどう捉えられたか

■日常の中の光

 第85回新制作展の会場では、さまざまな画題の作品が多数、展示されていました。いずれもレベルが高く、つい、足を止めて、見入ってしまったことが何度もありました。そんな中、ありふれた光景を描いていながら、心に響く訴求力を持つ作品がいくつかありました。

 今回はそのような作品をご紹介していくことにしましょう。

 関谷泰子氏の作品、中村葉子氏の作品、能勢まゆ子氏の作品で、いずれも連作です。
 
■関谷泰子氏の作品

 窓から射し込む陽光の穏やかな優しさに惹きつけられました。関谷泰子氏は東京都の作家です。窓から射し込む陽光の姿が、午前と午後、様相を変えて、捉えられています。

 まず、《朝の光》から見ていくことにしましょう。

●朝の光

 庭に立つ人物を室内から捉えた光景です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 背後から強い陽光を浴びているのでしょう、庭に立つ人は逆光で捉えられ、シルエットだけが見えます。ところが、そのシルエットは胴体と伸ばした腕と手しか捉えられていませんでした。雪見窓越しのせいか、首から上は見えず、足は縁側で遮られていたからです。

 逆光で捉えられたシルエットはそのまま、縁側に影を落とし、室内に入り込んでいます。影はそれほど長く伸びていませんから、やはり、午前の陽射しなのでしょう。外側の光は淡い青系の色で表現され、室内に入ると淡い赤系の色で表現されています。

 よく見ると、外側のシルエットは、障子戸を通して見る影絵のように、障子紙の質感を残して描かれていました。ところが、廊下に落ちた影にはガラス窓越しの質感があります。どちらかといえば、鮮明で鋭角的に見えるのです。透過する材質によって、光が作り出すシルエットにも違いがあることがわかります。

 しかも、逆光を受けて障子窓に映し出されたシルエットと、ガラス窓を透過して廊下に映し出されたシルエットとが接合されていました。一見、ありふれた光景に見えますが、実は、高度な知識とテクニックを駆使し、トリッキーな空間が作り出されていたのです。

 影絵のようなシルエットを映し出した窓は、白を基調に青系の淡い濃淡で微妙なグラデーションをつけて表現されていました。淡く、均一ではないところに障子紙の痕跡が残されています。

 一方、シルエットを映し出した廊下は赤系を基調に、光の当たった部分は明るく、そうではない部分は暗く描かれていました。外に近いところは白色を混ぜた色調で、内に入るにつれ暗色を混ぜるといった具合に、光量に応じて赤系の淡い濃淡が描き分けられていました。

 ごく日常、誰もが目にする光景が、室外と室内とで映し出されたシルエットで再構成されていたのです。穏やかで優しい陽光の中に、ファンタジックな空間が創り出されており、ささやかな幸福が感じられます。

●午後の光

 窓から光が射し込み、直線の影が奥の方まで室内に入り込んでいます。影の異様な長さからは、射し込む光が夕刻に近い午後の陽光だということが示されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 床には花柄模様のジュータンが敷かれ、そのジュータンの上に直接、ガラスの花瓶が置かれています。花瓶にはジュータンの模様と同じような花が生けられていますが、いまひとつ存在感がありません。ジュータンと一体化して見えるからでしょうか。

 さて、この花瓶も花も、低い位置から射し込む陽光によって、大きく形を変形させ、縦長に伸びています。花瓶の両側にも太さの異なる直線の影が長く伸び、室内の奥まで入り込んでいます。

 これらの影の長さを強調するためなのでしょうか、モチーフを捉えるアングルが特異でした。そして、この独特のアングルが、ありふれた光景を題材にしながら、画面を非凡なものに仕上げていました。

 この作品のモチーフは明らかに、花や花瓶ではなく、窓から射し込む縦長の影なのでしょう。というのも、影が画面の面積の大部分を占めているからですが、それだけに影の色調が作品に与える影響は大きいはずです。

 よく見ると、花やジュータンの色はもちろんのこと、カーテンや敷居や窓枠など、描かれているものすべてに固有色があるのですが、その上から青味がかった淡いペールピンクが影の色として全体を覆っていました。寂寥感のある色が使われていたのです。

 そのせいか、画面には優しく柔らかく、それでいて、やや寂し気な雰囲気が漂っていました。それは、陽が沈む前のそこはかとない寂しさであり、一日を振り返る内省的な気分を象徴しているようでもありました。

 室内に長く伸びる影をモチーフとし、特異なアングルでそれらを構成して、ファンタジックな空間が創り上げられていました。何気ない日常生活の中から詩情豊かな世界が生み出されていたのです。

■中村葉子氏の作品

 光と影のさまざまな効果に気づかされたのが、静岡県の中村葉子氏の作品です。よく見ると、《郷-秋の陽に》は、《郷―晩秋の頃》を拡大したものでした。二つの作品の描かれたシーンは同じもののようです。

 まずは全体像を描いた作品から見ていくことにしましょう。

●郷―晩秋の頃

 農村で見かける作業部屋なのでしょう。さまざまな道具が物が乱雑に置かれています。奥には押し入れのような棚があり、そこにもごみ袋や作業用道具箱のようなものが雑然と置かれています。

こちら →
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 左手の格子窓から陽光が射し込み、作業小屋の室内が明るく照らし出されています。見えてくるのは、板や縄、プラスティックケース、ゴムホース、排管のようなもの、作業台、椅子、壊れた木枠などです。

 窓から射し込む光が、小屋の中の物を暗闇の中から浮かび上がらせ、観客に認識させる機能を果たしています。その機能に着目して制作されたのが、この作品といえるでしょう。

 光は物を明るく照らし出す一方で、その反対側に影を作ります。こうして光が当たる所、当たらない所ができ、同じ場所でも観客に見える部分と見えない部分とが創り出されていくのです。

 たとえば、画面の左下は暗くて、何があるのか全くわかりませんし、右下も、椅子の上に石油ケースが置かれていることぐらいしかわかりません。また、たくさんの縄が巻き付いているように見える太い柱のようなものも手前が影になっているので、実際には柱なのかどうかわかりません。

 このように、暗くて何があるのかわからないような影の部分は、画面に謎を創り出します。

 窓から射し込む陽射しが、室内を光と影で区分けしています。中央やや左の位置に、大きな面積を占めていながら、何なのかわからない影の部分があり、手前と上部にも影の部分があります。いずれも面積が大きく、暗くて何があるのかわからない状態です。

 影部分は画面に謎を持ち込み、ドラマティックな様相に転換させることができるのです。

 一方、これらの影部分は、雑然とした室内をすっきり見せる効果を果たしていました。左下と右下の影、中央左よりに柱のように立つ影、上部の影、これらが画面を単色で切り分け、雑多なモチーフで溢れた画面を整理し、安定させていることがわかります。

●郷-秋の陽に

 先ほどの作品では影になっていた部分がこの作品では明らかにされています。

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 先ほどの作品では影になっていて、その正体がよくわかりませんでしたが、この作品を見ると、どうやら柱のようです。その柱に結び目のついた縄が多数、引っかけられているのがわかり、驚きます。足元には黄色のプラスティックケースや棒や金属製の筒のようなもの、壊れた窓枠のようなものなどが散乱しています。

 この作品では、窓から射し込む光によって、さまざまなものが浮き彫りにされており、はっきりと認識することができます。彩度を抑えて表現されているせいか、あらゆるものが色褪せて見えます。陽光に晒されてきた年月の長さを示しているのかもしれませんし、積もった埃を表しているのかもしれません。

 背後の棚には、プラスティックの小物入れ、金属製の本立て、木製の壊れたおもちゃのようなもの、古新聞の入ったごみ袋など、不用品が無造作に置かれています。描かれているモチーフはすべて、日常生活を支える小道具か、もはや生活に必要のなくなった廃品です。

 丁寧に描かれた多種多様の生活用品や道具類を見ていると、私たちがどれほど多くの物に支えられて生きているかがわかります。ところが、長年、人の生活を支えてきたそれらの物は、持ち主から使われなくなると、不用品として放置され、やがて色褪せ、埃にまみれていかざるを得ないことも見えてきました。

 興味深いのはプラスティック製品です。画面にもいくつか描かれていますが、時間の経過とともに色褪せることはあっても、壊れることはなく、形を残しています。どれほど多くの生活用品、小道具がプラスティックで生産され、そして廃品となっているかが示されていますが、これはほんの一端です。

 この作品には、現代社会の問題点の一つがさり気なく、提起されていました。

 さて、この作品の興味深いところは、丁寧に写実的に描かれていながら、使われることなく、放置された物の悲哀が捉えられていることでした。明暗、遠近法を使って立体感をもたせて描かれていながら、それらの印象がとてもフラットなのです。

 アップしてみると、こんなふうでした。

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(前掲一部。図をクリックすると拡大します)

 彩度を抑え、色数を制限して描かれているから、そう見えたのかもしれません。いずれにしても、現代社会が孕む空虚感がフラットな表現の中に込められていたのです。壊れたわけではなく、まだ機能は残っていても、使われなくなると、物はその生命を失い、輝きを失っていくことが、このフラットな描き方の中に示されていたといえるでしょう。

■能勢まゆ子氏の作品

 庭石をモチーフに、ありふれた日常生活の一端が優しく捉えられているのが印象的でした。京都府の画家、能勢まゆ子氏の作品です。

●爺ちゃんの庭 -朝日-

 おそらく、巨大な石がこの作品のメインモチーフなのでしょう。ところが、その周辺に小さく描かれた木々や花の方が強く印象づけられます。

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 画面の大部分を巨大な庭石が占めています。見た途端に目に入るのはこの大きな石ですが、やがて画面左に小さく描かれた千両の赤に目が引かれます。赤色だからでしょうか、それとも、千両がお正月の縁起物だからでしょうか。

 その千両が大きな石にそっと寄り添うように、赤い実をつけています。小さな実は陽光を受けて艶やかに光り、その上を見ると、葉もまた明るい輝きを見せています。いずれも小さいながら、強い生命力を感じさせられます。

 よく見ると、千両と石の描き方は異なっていました。

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(前掲、部分。図をクリックすると、拡大します)

 この石には、まるで砂で出来ているような粗い感触があります。年月を経て、表面に凹凸ができ、陰影ができています。粗さを残したまま風格のある石に変化していったように見えます。青系、褐色系、黄土系など多様な色が使われており、その中に、この巨石がもつ歴史と風化過程が示されているように見えました。

●爺ちゃんの庭 -晦日-

 同じ庭の光景を別の角度から捉えたのがこの作品です。

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 やや上方から至近距離で、モチーフが捉えられています。大きな庭石に沿って、千両の実や二葉葵の葉が丁寧に描かれています。穏やかな陽光を受けて、色艶よく、生命力をたぎらせているように見えます。

 きめ細かく丁寧に描かれた葉や実を見て居ると、葉の一枚一枚、実の一つ一つに生命が宿っているのがわかります。石の背後には竹垣が設えており、庭の一隅で展開されるそれぞれの生の営みを、優しく見守って来た「爺ちゃん」の存在を感じることができます。

 これら二つの作品の直接のモチーフは庭石や千両や二葉葵ですが、その背後から、丹精込めて育ててきた「爺ちゃん」の日常が透けて見えてきます。

 朝、太陽が昇って陽光が射し込むと、葉や花の営みが輝きを増していきます。それらを通して見えてくるのが、ささやかな幸せです。画面を見ているだけで、その背景を想像することができ、ほのぼのとした気持ちにさせられます。

■ありふれた生活空間の中で、光はどう捉えられたか

 第85回新制作展で印象に残ったのが、日常生活の中の光を取り上げた作品でした。3人の作家の作品をそれぞれ2点、取り上げてみました。どの作品も、奇をてらうことなく、見たままの光景が、淡々と描かれているだけのように見えました。

 ところが、その何気ない光景の中で、光はさまざまな効果を発揮し、画面を魅力あるものに変えていたことが、それぞれの作品の中で表現されていました。

 たとえば、関谷氏の作品からは、光には幻想を生み出す力があることを感じさせられました。《朝の光》では、逆光が障子戸に浮かび上がらせたシルエットのラインが、限りなく優しく、穏やかでした。逆光の鋭角的なラインが障子戸を通すことによって、朧気で、柔らかなラインに変化していたのです。現実の光景がファンタジックに捉え直されており、魅力的な画面になっていました。

 一方、陽光は射し込む角度によって、シルエットの形を変えていきます。そこに着目して制作されたのが、《午後の光》でした。午後の光が、ガラス窓越しに長いシルエットを作り出し、それが、日常生活の中に幻想的な空間を作り出していたのです。

 ジュータンに直に置かれたガラスの花瓶も花もかすんでしまうほど、異様に長く伸びたシルエットの群れが鋭角的に表現されており、興趣が感じられました。ありふれた日常生活に訪れる一瞬の美を見逃さず、その妙味を捉えた作家の感性が素晴らしいと思いました。

 中村葉子氏の作品からは、光が時に、ありふれた日常の光景をドラマティックに演出することを知らされました。光は、照らし出された領域とそうでない領域とに空間を分断します。その点に着目して制作されたのが、《郷‐晩秋の頃》です。

 窓越しに射し込む陽光が小屋の中を明暗で区分けし、物の形を認識できる領域と暗くて認識できない領域とに二分された世界が提示されます。

 手前と背後、そして中ほどの柱のような部分が暗く、中ほどの光が射し込む領域とが明確に分断されているのです。とくに手前と中ほどの柱の辺りが暗く、室内の様子がドラマティックに構成されているのが興味深く思えました。

 ありふれた日常の光景なのに、光がもたらす明暗によって二分された途端に、観客をドラマティックな世界に誘うのです。暗い影は、物や人の存在を隠してしまうからこそ、不安をかき立て、好奇心を喚起します。影部分の設定は、ドラマティックな世界を創る要素の一つなのだと認識させられました。

 《郷‐秋の陽に》では、光が当たっている領域が主に描かれていました。この作品を見て、改めて、暗い影の画面上の効果がわかりました。

 暗い影は、画面にメリハリをつけ、奥行きを感じさせる一方、観客の好奇心をそそり、なんらかの反応を引き起こします。その結果、観客の気持ちをかきたて、作品への関与を高めるのではないかとこの作品をみて、思いました。

 この作品で印象的だったのは、光が当たった箇所が写実的に描かれながらも、リアリティが感じられないほど、フラットに見えたことでした。現実味を喪失させるほどの平板さが見られたのです。

 これら二つの作品によって、光と影の果たす効果を知ることができました。

 能勢まゆ子氏の作品からは、ドラマティックでなければ、ファンタジックでもない日常の一場面でも、観客の想像力を刺激する仕掛けを画面に埋め込むことによって、訴求力が生まれることを知らされました。

 三者三様の光の捉え方をみてくると、改めて、光は絵画にとって古くて新しいテーマなのだと思わせられます。光と影、モチーフ、構図、それぞれの関係については、依然として新しい発見があり、気づきがあることがわかりました。(2022/10/11 香取淳子)

第85回新制作展に見る百花繚乱 ①新たな表現の地平

■第85回新制作展の開催

 第85回新制作展が国立新美術館で開催されています。開催期間は2022年9月21日から10月3日までです。

 会場の出口辺りにポスターが置かれていました。会員である金森宰司氏の作品《ライフ「ビート」》が使用されています。

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 私は9月28日に行ってきました。2Fの2A、2B、3Fの3A、3Bが絵画部門の展示会場になっていました。

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 初めて見る公募展でしたが、そのスケールの大きさに圧倒されてしまいました。作品サイズが大きいというだけではなく、レベルが非常に高いのです。どのような応募規定で、どのような審査基準なのか、興味を覚えてしまいます。

 帰宅してから、HPを見てみると、応募規定等については次のように規定されていました。

こちら → https://www.shinseisaku.net/wp/archives/24691

 絵画部門では、サイズと年齢によって、以下のように、4部門に分かれて審査されます。

① カテゴリー1(H140㎝×W140㎝×D30㎝(該当木枠60号以内)、
② カテゴリーⅡ(H205㎝×W205㎝×D30㎝(該当木枠130~80号以内)、
③ カテゴリーⅢ(H300㎝×W300㎝×D30㎝(該当木枠300号~150号以内)、
④ データ審査(30歳以下、1992年以降生まれ)、または国外在住外国人(年齢制限なし)

 会場に入ってまず驚いたのが、作品サイズの大きいことでしたが、サイズの規程が最低で60号、最大で300号ですから、会場の壁面が圧倒的に大きな作品で埋め尽くされていたのも当然でした。

 それでは入選作品のご紹介を始めていくことにしましょう。素晴らしい作品が数多く、足を止めて見入ってしまったことが何度もありました。そんな中で、今回はとくに、表現方法で新鮮さを覚えた作品を取り上げ、ご紹介していくことにしたいと思います。

 なお、入選作品の場合、サイズについての記載がなかったので、ご紹介する作品については、タイトルと作家名のみ記しておきます。いずれも巨大な作品だったことを報告しておきます。

■イースターの休日

 ちぎり絵のような表現が面白いと思い、足を止めて見入ったのが、《イースターの休日》という作品です。作家は京都府の八木佳子氏です。

こちら →
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 都会の街角を歩く人々が描かれています。手前で右方向に歩いていくのは地元の人々なのでしょう、スーツケースを持っておらず、軽装です。左側に太った女性、真ん中に2人の若い女性、そして、右側にリュックを背負った高齢の男性、手前に4人の男女が描かれています。この作品のメインモチーフです。

 いずれも雑誌のページを引きちぎって張り付けたように描かれているのですが、写実的に描くよりもはるかに的確に、イメージを喚起するように表現されているのに驚きました。

 例えば、左側の女性は、スーツケースを押して行く旅行者たちを見ながら、歩いています。好奇心旺盛で、太っているわりには歩幅は大きく、軽快に歩いている様子がわかります。真ん中の二人は、話に夢中になっているのでしょうか、旅行者を気にもしていません。そして、右側の高齢者は用心深くゆっくりとうつむきながら歩いており、周りに注意を払っているようには見えません。自分のことで精いっぱいなのでしょう。

 ふと、何故、この作品のタイトルが「イースターの休日」なのか、気になってきました。

 帰宅して調べてみると、処刑されたキリストが復活したのを記念して、イースターの休暇が生まれたとされています。毎年、決まった日にちで行われるのではないそうで、2022年は4月17日の日曜日だったそうです(※ Wikipedia)。

 だとすると、スーツケースを引く旅行者は、「イースターの休日」を示すためのモチーフだったのでしょうか。

 それにしては、彼らの存在感が希薄です。この作品は、前景にちぎり絵風に描かれた4人、中景に水彩画風に描かれた3人の旅行者、そして塀を挟んで、遠景にビルといった画面構成になっています。いかにも都会にありそうな風景が切り取られているのです。

 ところが、前景以外はすべて水彩画風に表現されています。つまり、前景以外はすべて、都会の一角を印象づけるための背景として処理されているのです。スーツを引く旅行者といっても、背後のビルと同様、前景の4人を引き立てるための小道具にすぎないのです。

 この作品を見たとき、都会的で軽快、現代的な感覚に満ち溢れているように思えました。透明感があり、リズミカルでもあります。なぜそう思ったのかといえば、ちぎり絵風の描き方がメインモチーフに採用されていたからです。

 画面すべてをちぎり絵風の描き方をしなかったせいか、前景のちぎり絵風の表現がとても目立ちます。ちぎった紙の端の白い部分が、細かな輪郭線を数多く創り出しており、それがモチーフの色表現に大きな影響を与えていました。モチーフを構成するすべての色にわずかな白が加わることによって、明るく軽快で、都会的、洗練された雰囲気が醸し出されているのです。

 雑誌から切り取った紙切れには、アルファベット文字が印刷されているものがあったのでしょう。それらが髪の毛やワンピースや短いスカートやズボンに取り入れられ、ユニークでオシャレなファッションが創り出されているように見えました。

 例えば、左側の太った女性は白地に黄土色、黒の模様の入ったワンピースを着ているように見えますが、おそらく、文字の入ったページを切り取ったものなのでしょう。

こちら →
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 黄土色、白、黒、茶色で構成されたページを切り取り、文字部分を模様として活かしながら、衣服、髪の毛、靴、タイツに変身させています。

 何故、都会的で洗練されたイメージがあるのかといえば、おそらく、すでに雑誌のページで確認された色バランスを、そのまま持ち込んでモチーフが造形されていたからでしょう。そして、紙をちぎってできる切れ端の白が、輪郭線として機能する一方、主張する色と色の確執を抑え、洗練の度合いを高めていたように見えました。

 メインモチーフに限定してちぎり絵風の画法を導入したからこそ、この画法の訴求力、あるいは画題とのマッチングが際立ったのでしょう。新たな表現の地平が拓かれたような気がします。

■不語仙

 巨大な画面に、何か得体の知れない造形物が描かれています。《不語仙》というタイトルでしたが、タイトルの意味も分からなければ、描かれている造形物が何なのかもわかりませんでした。作家は兵庫県の中川久氏です。

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 下の作品が《不語仙 氷の声聞く》で、上が《不語仙 風の声聞く》です。二つの作品のタイトルを見ると、《不語仙》という語は同じですが、サブタイトルが異なっていますから、別作品と考えていいのでしょう。

 まずは、《不語仙 氷の声聞く》から見ていくことにしましょう。

こちら →
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 巨大な作品でありながら、精緻な筆致が異彩を放っていました。

 最初、このモチーフは枯れた葉が絡まって何かに引っかかっているのかと思っていましたが、どうも変です。枯れた植物だろうということはわかるのですが、モチーフの背景に描かれているものが何なのかよくわかりません。モチーフと背景がどう関係しているのかが見えてこず、手掛かりを掴むことができなかったのです。

 そもそも、《不語仙》という言葉がわかりませんでした。

 再び、背景をよく見ると、表面にさざ波のようなものが立っており、不透明の灰色で覆われています。一部、暗い部分があったので、そこに、何かがうごめいているようにも見えました。ただ、表面はなめらかに動いているように見えるので、モチーフの背後にあるものは川か水溜まりの可能性があります。

 ところが、川にしては魚のいる気配はないし、藻のようなものもありません。水溜まりにしては広すぎるし、深すぎました。

 しげしげとしばらく見続けて、ようやく、蓮の花が枯れた姿なのではないかと思い至りました。画面中ほどのモチーフが茎から下に垂れ下がりており、それが傘型をしていることに気づいたからでした。

 傘型に萎んだ形を見て、このモチーフが蓮の花が枯れ、茎から水に落ちそうになっている姿だと理解することができたのです。

 それでは、《不語仙 風の声聞く》を見ていくことにしましょう。

こちら →
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こちらでも、真ん中のモチーフははっきりと、枯れた蓮の花だということがわかります。その後ろに見える枯れた蓮の花は、茎まで泥水に浸かって、変形しています。

 モチーフ3つは、手前から、枯れた葉、枯れて半分、泥水に浸かった蓮の花、そして、茎まで泥水に浸かって黒く変形した蓮の花、といった具合に、枯れて生命を終え、泥水の中に戻っていく3段階の過程が描かれていたのです。ふと、人の終末を連想させられました。

 生きていた世界から、枯れて、泥水に入り、別世界に向かっているプロセルそのものが描かれていたのです。

 画面の左上は泥煙が巻き上がって、濁っています。ところが、左下を見ると、石に張り付いた藻のようなものが揺らいでいます。泥水の中でありながら、まるで風に揺れているように見えます。泥水の中に所々、陽光がさしこんできているのでしょう、泥の中にぼんやりとした光が感じられます。やがて、おぼろながら光の筋が見えてきます。

 泥水の中の世界を、目を凝らして見ていると、藻が揺らぎ、海草がなびいているのが見え、聞こえるはずのない風の音すら聞こえてくるように思えてきます。

 興味深いことに、タイトルの《不語仙 氷の声聞く》も、《不語仙 風の声聞く》も、「音を聞く」ではなく、「声聞く」と表現されています。

 通常、「氷の割れる音を聞く」であり、「風の吹く音を聞く」のはずですが、「声を聞く」でもなく、「声聞く」と言い表されているのです。このようなタイトルの表現に、中川氏の感性、自然の捉え方、関わり方が見えてきます。

 自然を客体化せず、その中に包まれる存在として捉え、共に生き、関わってこられたのでしょう。だからこそ、中川氏には氷の割れる音や風の吹く音を自然の声として聞こえるのでしょう。

 中川氏は泥水に沈んでいく枯れた蓮の花をモチーフにこの連作を手掛け、枯れた後にも居場所はあることを示そうとしていたのではないでしょうか。

 蓮の花は泥水の中から生まれるといわれます。ところが、中川氏はこれら二つの作品で、枯れた蓮の花を描き、やがて泥水の中に沈んでいく過程を描いています。連作を通して、死の行く末を示唆しているのです。

 この作品には他の作品とは異なる吸引力のようなものがありました。たとえ何が描かれているかわからなくても、じっと見続けさせる力があったのです。

 得体が知れず、謎めいたモチーフが繊細で精緻な筆遣いで描かれていると、大抵の人は、その画面に惹きつけられ、見入ってしまうことでしょう。理解したいという衝動に駆られるからですが、タイトルや構図を容易に推察されないようなものにしておくと、理解は進まず、観客の関与はより深く、強くなります。

 コンセプトが明確で、確かな画力があって、モチーフや構図が戦略的に組み立てられていれば、一定数の観客を魅了することが出来るのではないかと思います。新たな表現の地平に、コンセプトや哲学が必要になってきているように思いました。

 帰宅して調べてみて、「不語仙」が「蓮の花の異称」だということを知りました。言葉の由来はわかりませんが、「蓮の花」よりもはるかに含蓄のある言葉だと思いました。

■神磐

 海水の煌めきの表現が素晴らしく、つい、見入ってしまいました。《神磐》というタイトルの連作です。下に描かれているのが《神磐Ⅱ》、上に描かれているのが《神磐1》です。手掛けた作家は愛知県の藤川妃都美氏です。

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 繊細で精緻な表現力に驚き、見入ってしまったのですが、これらのモチーフが何を意味しているのか、作者が何を言おうとしているのか、皆目わかりませんでした。そもそも《神磐》というタイトルすら、わかりません。

 ただ、どちらの作品にも、巨大な画面に巨大な亀が描かれ、亀の真上に、海辺で群れを成す巨石群が描かれていることが共通しています。異なるモチーフが上下に分かれて描かれているのです。

 このような構図、構成の作品は初めて見ました。

 大きすぎるので、つい、下に設置されている方を見てしまいましたが、《神磐》というタイトルに、Ⅰ、Ⅱと番号を振られていることを思えば、順序通り見ていく必要があるのでしょう。

まず、《神磐1》からみていくことにしましょう。

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 上部に海辺の巨石が描かれ、下部に亀が描かれています。上部に描かれた巨石は亀の手指のような形をしています。その背後には同じような奇妙な形をした石が転がっています。その下には海があり、海は巨石や山並みを映し出す一方、晴れ渡った空も映し出しています。空に奇妙なものが浮かんでいるのが映っていますが、それが何かはわかりません。

 下部の亀は上部の様子を窺うように、動かずにじっとしています。海から射し込んだ陽光を受けて、辺り一面はさざ波の模様で覆われています。そのような中で、亀は手をつき、やや身をよじった姿勢をとっており、生きているように見えます。

 次に、《神磐Ⅱ》を見てみることにしましょう。

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 下部のモチーフは最初、亀だと思ったのですが、ひょっとしたが、岩かもしれません。所々に苔のようなものがついており、向かって右の手には、まるで足裏をひっくり返したかのように丸い模様が入っています。

 上部を見ると、巨石群が左右対称に真っ二つに分かれていて、ちょっと不自然です。さざ波の立ち方にも違和感があります。下部の亀の磁力が強く、その真上を真っ二つに割っただけではなく、波の動きまで狂わせてしまったのでしょうか。

 亀の真上のセンターラインに沿って海上を進むと、洞窟の入り口に辿り着き、その中央に偶像のようなものが設置されているのです。だとすると、この亀は神の化身なのでしょうか。

 そういえば、この連作のタイトルは《神磐》でした。この作品の新しさは、画面を上下に分け、時間、空間の異なる層で関連するモチーフを組み込み、画面を層化して構成していたことでしょう。一枚の画面では表現しきれない新たな表現の地平を感じさせられます。

■百花繚乱を支える審査方法

 第85回新制作展に参加し、数多くの力作を目にしました。サイズの大きな作品が多く、しかも、レベルが非常に高いのが印象的でした。会員の作品が素晴らしいのはもちろんですが、入選作品の中に斬新なものが多々、見られたのが興味深く思えました。

 そこで、気になったのが、応募作品の審査方法です。HPを見ると、審査及び賞については、次のように決められていました。

「審査は本協会会員がこれに当たる。優秀作品には協会賞、新作家賞を贈る。
受賞者には、当協会各部主催の受賞作家展が企画される。」

 審査は「新制作」の全会員が担当するというのです。冒頭でお知らせしましたように、「新制作」では募集作品を4つのカテゴリーに分けていました。それは、自分に合ったサイズで応募し、作品のサイズごとに丁寧に審査してもらうためでした。

 具体的な審査方法は、次のようになっていました。
 
 応募者の氏名は伏せられ、作品が一人分ずつ(何点応募してもいい)審査会場に運ばれます。それを見て、会員が1点ずつ入落の挙手をするのです(※『2022年新制作手帖』)。

 今回、私は会場で諸作品を見て、どの作品も圧倒的にレベルが高いと驚いてしまったのですが、それには、このような審査方法が関係しているのかもしれません。長年、絵画制作に励み、境地を切り拓いてきた会員たちがそれぞれ、作品サイズごとに丁寧に審査するのですから、入落の基準が高く維持されてきたのも当然かもしれません。

『2022年新制作手帖』には、「新制作では、芸術性を尊重し、それに基づく平等性を大切にしています」と書かれていました。様々な可能性に対し、門戸を大きく開いておくという姿勢です。

 確かに、この審査方法を採れば、審査員の嗜好性によるバイヤスを回避できますし、絵画の可能性、表現の可能性に対する見落としを減少させることができるでしょう。審査が応募者と会員の切磋琢磨の場になっているのかもしれません。

 ふと、「見巧者」という言葉を思い出しました。芝居に関する言葉ですが、絵画にも通用するような気がしました。目の肥えた「見巧者」に見てもらって、適切な批評をもらうことで芸に磨きがかかるという見方です。

 今回、新制作が会員全員による審査方法を採用し、作品サイズ別に応募を受け付けていることを知りました。この方法なら、様々な表現の可能性を排除することなく、しかも、丁寧に審査してもられるメリットがあると思いました(2022/9/30 香取淳子)。

Henry Lauは現代版モーツァルトか?⑤ 音を知って、音楽を生む

 ユーチューブを見ていて、興味深い動画に出会いました。Henry Lauが一人で、人のいない建設現場のような広い空間で、ドラム缶やピアノを叩いている姿です。クラシック音楽の素養があり、K-POPでスターとして活躍してきた彼が、なぜ、そんなことをしているのか、興味があったので、見てみました。

■音をチェックする

●「Believer」

 殺風景な建設現場のような広い空間で、Henryが一人、ドラム缶をバチで叩き、電気ドリルの電源を入れて音を出しています。ピアノの鍵盤を叩くこともあれば、フタを叩いてみたり、音の響きや反応をチェックしたりしています。

こちら → https://youtu.be/EU_JGT55vN0
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 とくに興味深かったのが、楽器ではない、さまざまなものの音をチェックしていることでした。建設現場のようなところで演奏するのはありうることだと思いますが、そこらへんにあるさまざまなものを叩いて音を出して見ているというのが、意外でした。

 ところが、Henryは真剣な表情でそれぞれの音を吟味していました。

 ドラム缶と言わず、板切れといわず、さまざまなものの傍にはマイクが設置されており、音が収録されています。これらの音がやがて、ミックスされ、音楽として組み立てられていくのでしょう。

 この動画では、「Believer」というタイトルの曲が歌われていました。この曲が始まる前に、Henryはさまざまな音を検証していたのです。

 興味深いのは、電気ドリルの場合でした。電源を入れても、それほど大きな音がでるわけではないので、マイクの傍で音を出し、収録しています。


(上記ユーチューブ動画より)

 すぐ傍にマイクが映っています。

 真剣に取り組むHenryの姿を見て、ちょっと意外でしたが、音楽の原点に触れたような気がしましたし、創作の原点を見たような気がしました。

 音楽活動は音作りから始まるのでしょう。音を作るには、それぞれの音の特性をしらなければなりません。Henryはそれを建設現場でやっていたのです。日常生活の中にはない音を発見することができるでしょう。

 さらに、似たような試みの動画がないかと探してみました。

 すると、韓国のバラエティ番組の中で、Henryが自分のスタジオでの音作りの一端を紹介している動画がありました。

●「Bad Guy」

 ここでは、さまざまな生活音をチェックしています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=hQvUmr7-Nkw
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 ガラスコップを箸で叩いてみたり、紙をくしゃくしゃにして音をだしてみたり、椅子にゴミ箱をぶつけて音を出し、その質やリズム感などをチェックしています。

 たとえば、ガラスのコップを金属製の箸で叩いて出した音に、紙をくしゃくしゃにして出た音を重ね合わせると、思いもかけない音響が生まれます。


(上記ユーチューブ動画より)

 生活音を音楽に組み込むなど、考えてみたこともありませんでした。この動画を見て、多様な音を知ることこそが、音楽活動のスタート地点なのかもしれないと思ったほどです。

 スタジオには、どこにでもマイクが置かれており、出した音が逐一、収録されています。それらがデータとして取り込まれ、それぞれの音が分析され、やがては、音楽として組み立てられていくのでしょう。Henryが取り組んでいることは、先駆者ならではの試みであり、新しい音の開拓なのだと思いました。

 ここでは、「Bad Guy」という曲が歌われていました。

 生活音だけではありません。人が指を鳴らしたり、手拍子を採ったりするのも、一種の音楽活動といえるのでしょう。

■音、音楽による一体感

 戸外での演奏でも、Henryのグループは、楽器以外の音、とくに、人が手指を使って出す音を活用していました。

●「Dance Monkey」

 たとえば、指鳴らしです。親指と中指で音を出す、いわゆるパッチンを使って、音楽に新鮮味を加えていました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=q8BrbdPv2D8
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 指鳴らしでイントロを行い、Henryが歌い始めると、観客も同じように指を鳴らし、同じようなパフォーマンスをしながら、音楽に参加していました。もちろん、お得意のヴァイオリンは披露されます。

 楽器以外の音を音楽に組み込むことによって、これまでわからなかった音の属性に気づかせてくれます。ここで歌われていたのは、「Dance Monkey」でした。

 素朴な音を組み込んだことで、観客の気持ちが緩んだのでしょうか、プレイヤーに倣って、リズムを取り、ちょっとしたパフォーマンスをはじめていました。観客とプレイヤーが一体となって、音楽を楽しんでいたのです。動画を見ているだけで、観客との一体感が感じられます。

●「Savage Love」

 やはり、戸外での演奏シーンです。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=HFeQWTvA8PI
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 ここでは、電子オルガン、ドラム、ギター、ヴァイオリンなどの楽器はもちろん、楽器以外の音としては、手拍子が使われていました。これもごく自然に観客が手拍子をはじめているのです。ドラム担当のスタッフはなんとバチで叩くのではなく、手で叩き、原始的な音を出していました。これも新しい音の発見といえるでしょう。

 観客も笑みを浮かべて、手拍子を合わせ、パフォーマンスを共鳴させて、プレイヤーと一体化した時間が創出されていました。

 観客との一体化といえば、海外での演奏の方が向いているのかもしれません。

●「Havana」

 イタリアでの路上演奏の動画がありました。

こちら →
https://youtu.be/sAtzFsnVjgU?list=RDGMEMQ1dJ7wXfLlqCjwV0xfSNbAVMsAtzFsnVjgU
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 Henryはここでは、電子ピアノやヴァイオリンを弾いていました。曲のイントロ部分を盛り上げて、女性ボーカルがしっとりとした声で歌い始めると、彼らを取り巻いて見ていた観客は老いも若きもみな、顔をほころばせ、身体をゆすっていました。プレイヤーと一体化して手拍子をし、腰を振り、言葉は通じなくても、一体化した時間を楽しんでいたのです。

 とても幸せな時間が流れているように見えました。音楽が持つ力でしょう。

 歌われていたのは「Havana」でした。女性ボーカル2人のハーモニーも素晴らしいものでした。

■Henry、ポッピングとヴァイオリンはどう組み合わせるのか

 珍しい動画を見つけました。Henryが自宅でパフォーマンスとヴァイオリンの組み合わせを解説している動画です。とても興味深いので、ご紹介しましょう。5分8秒の動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=FF7TZDPjRIc
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 ポッピングだけでも大変なのに、それをヴァイオリン演奏と組み合わせるのです。タイミングをどう計り、見せ場をどう作るか緻密に考えなければ成立しないでしょう。

 Henryはヴァイオリンを演奏しては、ポッピングを実演し、この二つの質の違う活動をどのようにつなぎ、どのように見せ場をつくるのかを解説していました。


(上記ユーチューブ動画より)

 これを見て、音楽活動とダンスは、実は、親和性が高いのではないかという気がしました。音楽を聴いて、自然に身体を揺らしたり、手拍子を取ったり、指鳴らしをしてしまうのは、同じような神経が刺激されるからではないかと思ったのです。

 イタリアの街頭演奏でわかったように、言葉が違っていて、意味がわからなくても、観客は歌を聞いて、ハミングし、演奏を聞いて、身体をゆすっていました。

 今回、Henryに関する一連の動画を見て、身体性の復権というか、身体性への回帰というか、言葉や数字以前の表現への再評価が起こりつつあるのではないかと思いました。ひょっとしたら、それは、言葉や数字に拘束されることへの反発からきているかもしれませんが・・・。(2022/8/31 香取淳子)