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岩倉具視幽棲旧宅②:岩倉らは新たな日本の国家像をどう描いたのか。

■幕府と朝廷の代替わり

 岩倉らの有能な公家たちが追放されていた5年間に、幕府も朝廷も代替わりしました。

 将軍家茂は、慶応2年(1866)7月20日、長州征伐に向かう途中、大阪城で亡くなりました。その後継として、12月5日に第15代将軍の座に就いたのが、徳川慶喜です。30歳でした。

 一方、36歳の孝明天皇は、慶応2年(1866)12月25日、悪性の出血性痘瘡が原因で亡くなってしまいました。慶喜が将軍になった20日後のことです。第122代天皇として即位したのが、まだ15歳の明治天皇でした。

 有力な公家が追放された後の朝廷に、幼い天皇と判断力のない公家たちが残されました。朝議を開いても、政治力のある徳川慶喜に仕切られてしまうのは当然のことでした。かといって、慶喜が諸藩を掌握しているわけでもありませんでした。薩摩藩など将軍職の廃止に動こうとしていた藩もあったのです。

 朝廷と幕府の代替わりとともに、日本の国家体制はきわめて脆弱なものになっていました。それを好機とばかりに、欧米列強は開国を求める動きを強めていました。

 たとえば、オールコックの後任大使に任命されたパークス卿(Sir Harry Smith Parkes, 1828 – 1885)は、慶応3年(1867)に大坂で徳川慶喜に謁見し、期限どおり兵庫を開港する確約を取り付けています。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り絶賛しています(※ Wikipedia パークス)。

 この時点で、慶喜はまだ天皇から勅許を得ていませんでした。

 兵庫開港については、慶喜や諸侯も出席した朝議を経て、5月24日に勅許がおりました。ところが、その朝議に幼い天皇は出席していませんでした。将軍慶喜は渋る朝廷を脅したりすかしたりしながら、強引に勅許をもぎ取ったといいます(※ 佐々木克、前掲。p.103.)

 このような徳川慶喜をパークスは、最も優れた人物と評しましたが、公家たちは、政治力のある慶喜に脅威を感じはじめていました。岩倉ら有能な公家が欠けた朝廷内で、朝議が慶喜の意のままに動かされるようになっていたからでした。

 このときの朝議に対する遺憾の思いは、さまざまな方面から、蟄居する岩倉具視に伝えられました。岩倉が国政に危機感を抱いたのも無理はありません。

 それでは、再び、岩倉具視幽棲旧宅に戻ってみましょう。

■岩倉宅を訪れていた中岡慎太郎

 表門から入ると、玄関に辿り着く手前に、庭に入る中門があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 中門を入ると、立派な枝ぶりの松の木が、シンボルツリーのように植えられていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 この木はちょうど、主屋から鑑賞できる位置にあります。手入れの行き届いた閑静な庭を眺めながら、岩倉具視はどのような国家ビジョンを練り上げていたのでしょうか。

 主屋には、興味深い説明書きが展示されていました。


(※ 署名の植彌は管理会社名。図をクリックすると、拡大します。)

 坂本龍馬や中岡慎太郎、大久保利通らが、蟄居する岩倉具視を訪ねて来て、相談を重ねていたというのです。

 また、敷地内にある対岳文庫には、土佐藩の中岡慎太郎が岩倉具視に宛てた書状が、展示されていました。1867年9月10日付けの書状です。上が草体仮名の原文で、左下が活字体に書き起こしたもの、右がその内容を現代語に訳したものです。


(※ 対岳文庫蔵、図をクリックすると、拡大します)

 宛先の「北岡」は、岩倉具視を指し、送り主の「勘蔵」は、中岡慎太郎の偽名です。情報が洩れるのを恐れ、当時はこのように、お互いに偽名を使って連絡を取り合っていたことがわかります。

 書状の内容は、次のようなものでした。

 「幕末の混乱した政局を安定させるため、土佐藩は薩摩藩と協力して、大政奉還と公議政体の創出に向けて尽力することを申し合わせたが、前土佐藩主の山内容堂が土佐藩兵の京都派遣は武力行使につながるとして反対し、後藤象二郎に武力行使を伴わない大政奉還をめざすよう命じたため、出兵を中止した。そのことを詫び、今後の方策を説明したい」

 中岡慎太郎は、前土佐藩主の山内容堂が土佐藩兵の派遣を中止したことを詫びるとともに、今後、土佐藩はどうすべきか新たな方策を直接、岩倉具視に会って、説明したいといっているのです。

 この書状の日付は1867年9月10日でした。

 その内容が、薩摩藩と土佐藩の申し合わせに関するものだったので、調べてみると、二カ月余前の1867年6月22日、薩摩藩と土佐藩、両首脳の間で「薩土盟約」が結ばれていました。

■薩土盟約

 当時、日本は諸外国との間で約束した開港時期を巡る問題に対処しなければなりませんでした。ところが、有力公家が追放された朝廷では、朝議が機能せず、かといって、幕府に任せれば、外国のいうまま、日本に不利な条約を結んでしまいかねません。

 危機感を覚えた薩摩藩は、雄藩諸侯の合議で政策を決定する体制に持ち込もうとしました。実際、四侯会議(有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制)を開催したこともありました。

 薩摩藩はこれを機に、政治の主導権を幕府から雄藩体制に移し、公武合体の政治体制へ変革しようとしていたのです。

 ところが、政治力のある徳川慶喜に思うがまま、操られてしまいました。それまでは公武合体派であった薩摩藩が、これでは討幕せざるをえないと思うようになった契機が、この四侯会議でした。

 一方、土佐藩の中岡慎太郎は、前藩主の山内容堂の四侯会議での不甲斐なさに危機感を覚えました。これでは、日本の未来はないと思ったのです。そこで、土佐藩を脱藩して、薩摩藩に近づき、薩土密約を交わして倒幕の計画を練り上げるという行動に打って出ました。

 一連の手はずを整えてから、中岡は前藩主の山内に承認を迫り、ようやく薩土盟約は成立したという経緯がありました。

 薩土盟約は、薩摩藩と土佐藩との間で交わされた盟約で、徳川慶喜に将軍職を退かせ、幕府でもなく朝廷でもない全く新しい政府を樹立するために協力し合うというのがその趣旨でした。幕府の暴走を止め、政治力のある慶喜に圧力をかけるために、両藩は兵力を動員するという約束を交わしていたのです(※ Wikipedia 薩土盟約)。

 中岡慎太郎の機転の利いた行動がなければ、おそらく、この薩土盟約は成立していなかったでしょう。

 ところが、先ほど、ご紹介した中岡慎太郎の書状にあるように、土佐藩の前藩主・山内容堂が藩兵を出すことに反対しました。最終局面になって、土佐藩は出兵に応じなかったのです。

 中岡慎太郎らが奔走し、その尽力の結果、交わされた薩土盟約でしたが、実行に移されることなく、2か月余で解消されました。前藩主の山内容堂に胆力がなく、その決断ができなかったからでした。

 一方、薩摩藩はこの計画を変更しませんでした。むしろ逆に、土佐藩が欠けたので、その代替として長州藩に応援を求め、9月19日には、薩長両藩の出兵協定を結んでいます。積極果敢に、当初の方針を貫いたのです。すると、翌20日には、芸州藩(広島)が、この協定に加わりました。

 さて、土佐藩は10月3日に出兵しませんでした。前藩主の山内容堂は、その代わりに、後藤象二郎を使者とし、大政奉還建白を徳川慶喜に提出させました。武力行使を避け、徳川慶喜将軍に政権返上の意見書を提出したにすぎませんが、土佐藩としては、これで初志を貫いたことにしたかったのでしょう。

 さまざまな情勢、政局、海外の動きなどを考え、中岡慎太郎らが、脱藩して薩摩藩に近づき、締結にこぎつけた薩土盟約でした。それを、前藩主の山内容堂があっさりと保護にしてしまったのです。

 刻々と変化する情勢をどう分析するか、その先にどのような未来を見るのか、さらには、海外を含めた周囲の動きはどうなのか・・・、さまざまな情報を総合的に的確に判断する力とともに、いざとなれば武力行使も厭わないといった胆力が、混迷期の指導者には不可欠なのでしょう。

 その頃、蟄居する岩倉具視を頻繁に訪れていたのが、大久保利通でした。

■大久保利通と「倒幕の密勅」

 各藩のさまざまな動きがあるなか、中御門経之は10月5日、薩摩藩の大久保利通を邸に呼び、国情を聞いています。翌6日には、大久保と長州藩の品川弥二郎が岩倉宅に呼ばれ、そこで岩倉と中御門に会っていました。具体的な話の内容はわかりませんが、薩摩と長州、両藩の藩士と朝廷側とが密かに会っていたのです。おそらく、大政奉還を進めるための具体的な話し合いをしていたのでしょう。

 佐々木克氏は、会談内容を次のように推測しています。

 「断然と征夷大将軍を廃止」して、「大政を朝廷に収復」し、朝廷が政治の実権を握り、大いに「政体制度」を革新し、「皇国の大基礎」を確立することを、非常の英断をもって、「朝命を降下」するというものである(※ 佐々木克、前掲。p.106.)。

 この時点では明らかに、彼らが将軍職を廃し、朝廷を中心とした政治体制を目指した動いていたことがわかります。

 実際、10月8日、大久保利通ら薩摩藩代表、広沢真臣ら長州藩代表、植田乙次郎ら芸州藩代表らが会合し、武力で幕府を倒し、政変を決行することを決議しました。

 三藩の代表は、その決意を中御門経之らに告げ、幕府の出方次第では武力行使の可能性もあることを理由に、相応の宣旨を発行してもらいたいと願い出ました。

 いよいよ最終局面にさしかかってきたようです。

 そこで、当時の資料を渉猟してみると、該当する古文書を見つけることができました。


(※ 岩下哲典監修『幕末維新の古文書』pp.228-229. 柏書房、2017年)

 長州藩に残されていた古文書です。

 左下に連署された差出人を見ると、右から順に、広沢真臣、福田侠平、品川弥二郎と署名されています。いずれも長州藩の藩士です。続いて、その左側には順に、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通の名前があり、こちらは薩摩藩の藩士です。

 この古文書は、長州藩と薩摩藩の藩士6名によって、中山らに宛て、隠密裏に提出された書状でした。倒幕の正当性を担保する「倒幕の密勅」を求める書状の写しだったのです。

 書状の左上に書かれている宛先は、右から順に、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と書かれており、いずれも公家の中の討幕派として知られている人物です。興味深いことに、最後に書かれているのが、岩倉具視の名前でした。

 そもそも、岩倉が御所から遠く離れた洛外に蟄居せざるをえなくなったのは、尊王攘夷派から佐幕派とみなされていたからでした。ところが、「倒幕の密勅」の請書を見ると、岩倉具視も、この書状の宛先の一人になっているのです。

 一体、なぜなのでしょうか。

■岩倉具視の国家構想

 岩倉具視はそもそも公武合体派だったはずです。朝廷を中心に、幕府と諸侯力を合わせた国家体制の下、外国勢に対応していこうと考えていました。

 それが、なぜ、この時点では、倒幕派に与するようになっていたのでしょうか。その経緯がわからず、岩倉の立ち位置の変化が理解できませんでした。

 調べてみると、幕府には欧米列強に対する危機感がなく、判断力が鈍いことへの不満が、岩倉には蓄積していることがわかりました。

 幕府の体制もまた、硬直化していました。彼らは、積極的に海外情報を摂取しようとせず、的確な決断を下すこともできません。このような幕府の体制では、とても激動の時代を乗り切れないと岩倉は考えるようになっていたのです。

 一方、有力公家が追放された朝廷もまた硬直化し、合理的な判断力に欠けていました。それを憂いた薩摩藩の提案で、四侯会議を開催したこともありました。雄藩の代表を意思決定の場に参加させてみたのです。ところが、政治力のある将軍慶喜に押し切られ、実りある衆議を尽くすことはできませんでした。

 ひょっとしたら、岩倉はこの四侯会議の経緯を聞いて、朝廷と雄藩を中心とした国家体制の構築へと傾いていったのかもしれません。

 調べていると、次のような記述を見つけることが出来ました。

 「岩倉は慶応元年(1865)頃から元水戸藩士の香川敬三などと接触し、公家の中御門経之(妻は岩倉の姉富子)等を通して薩摩藩士藤井良節、井上石見らから情報を得、今後の国家の構想を練っていた」(※ 斉藤紅葉「第二章 岩倉具視の新国家像と動向」伊藤之雄『維新の政治変革と思想』、ミネルヴァ書房、2022年、pp.80-81.)

 岩倉は、蟄居の身分でありながら、元水戸藩士や薩摩藩士などと接触して、情報を得ていたのです。できる限り幅広く情報を集め、刻々と変化する情勢分析を行い、どのような体制が日本にとって最適なのか、日々、考えを巡らせていました。

 国内外の最新の情報を収集した結果、天皇を中心とし、雄藩が支える構造の国家体制を考えるようになっていたのです。

 実際、岩倉は具体的な提言を行っています。

 たとえば、慶応2年(1866)10月頃、岩倉は朝廷に向けて意見書を書いています。その内容は、徳川から「軍職」を取り戻し、源頼朝以前の体制への「復古」をめざすべきだというものでした。王政復古に加え、薩長の支援があれば、強力な国家体制になると考えていたのです(※ 前掲)。

 確かに、岩倉は以前から、朝廷を中心とした国家体制を構築するのがベストだと思っていました。国家としての統合を図るには、天皇を中心に据えた体制が不可避だと考えていたのです。

 もちろん、天皇とその周辺だけでは国家運営はできません。行政を担当するパートナーが必要でした。

 岩倉はこれまで、為政のためのパートナーとして、幕府と諸藩を想定していました。これまで岩倉が公武一体派とみなされてきた所以です。ところが、この時の意見書では、幕府を外し、薩摩藩と長州藩を両輪として朝廷を支えるという具体的な構想を打ち出してきたのです。

 果たして、どのような状況の変化があったのでしょうか。

 実は、岩倉がこの意見書を出した当時、長州藩は朝敵とみなされ、藩主、藩士共に入京が認められていませんでした。というのも、元治元年(1864)8月20日、長州藩は過激な攘夷思想ゆえに、京都で武力衝突事件を起こしていたからでした。

 薩摩藩と長州藩は攘夷思想の点では一致していましたが、その進め方に大きな違いがありました。薩摩藩が、公武合体の立場から穏便に、朝廷を中心とした体制に移そうとしていたのに対し、長州藩は急進的な攘夷思想の下、一気に王政復古を進めようとしていたのです。

 その結果、薩摩藩は会津藩と組んで戦い、長州藩を京都に出入りできないようにせざるをえませんでした。この事件は、禁門の変、あるいは、蛤御門の変とも呼ばれています。

 この禁門の変の後、長州藩は「朝敵」とみなされ、1864年と1866年には幕府が長州征伐を行っています。1863年と1964年には、イギリス、フランス、オランダア、アメリカとの間で下関戦争が勃発し、長州藩は相当、打撃を受けていました。

 相次ぐ戦禍で、長州藩は勢力を大きく減退させていたのです。

 それでも、岩倉具視は、長州藩に大きな可塑性を見出していました。薩摩藩とともに朝廷を支えるのは長州藩だと着目していたのです。

■長州藩と薩摩藩

 実は、岩倉の意見書が提出される7か月ほど前の慶応2年(1866年)3月7日、京都上京区の小松帯刀邸で、薩長同盟が締結されていました。争っていたはずの薩摩藩と長州藩がいつの間にか、手を組み、政治的、軍事的同盟を結んでいたのです。

 薩摩藩が会津藩と協力して長州藩を京都から追放したのが、1863年に起こった「八月十八日の政変」でした。そして、翌1864年には、上京して出兵してきた長州藩と戦火を交え、敗退させました。「禁門の変」と呼ばれる事件です。この時点で、薩摩藩と長州藩は明らかに敵対関係になっていました。

 ところが、その後、薩摩藩は長州藩に何度も秋波を送り、長州藩との連携を模索しています。というのも、薩摩藩が幕府から距離を置いて、将来の戦闘に備えるには、西国の大名との連携が不可欠だったからでした。

 薩摩藩主の島津久光は、当初、福岡や久留米など九州雄藩との連携を考えました。ところが、うまくいきませんでした。結局、長州藩と提携するしかなく、土佐藩を脱藩した坂本龍馬や中岡慎太郎が、両藩の仲を取り持つ恰好で、交渉が進み、慶応2年(1866年)3月7日、6か条から成る薩長同盟が締結されました。

 坂本龍馬が書いた薩長同盟の裏書が残されています。


(※ 宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵)

 この裏書には日付が書かれていませんが、坂本龍馬らの働きのおかげで、両藩が手を結んだことは明らかでした。岩倉が薩長を頼りになる雄藩だと考えていたことに変わりはありません。 

 穏健派であろうと、過激派であろうと、薩長は攘夷思想の下で活動していました。しかも、両藩とも、その攘夷思想が原因で、海外とトラブルを引き起こし、列強との戦争を経験していました。

 文久3年の薩英戦争であり、文久3年と元治元年の下関戦争です。

 薩摩藩は文久2年(1862)9月14日に起きた生麦事件を契機に、薩英戦争(1863年8月15日‐17日)を引き起していました。艦隊を持つイギリスに対し、薩摩藩は果敢にも、防戦をし、砲台や弾薬庫、汽船などに損害を受けました。鹿児島城下の約1割が焼失したそうですが、イギリスに比べ、死傷者は比較的少なく、善戦していたといいます。

 岩倉はおそらく、そこにも目をつけていたのでしょう。海外勢と戦うだけの兵力、情報力、そして、胆力があったのです。

 攘夷思想の下、海外勢と戦った長州藩と薩摩藩を岩倉は高く評価し、薩長を両軸とした、朝廷中心の国家体制に切り替えようとしていたのです。

 興味深いことに、岩倉は、朝廷に提出したこの意見書の中で、当時の関白二条斉敬に代わって、前関白の近衛忠煕を天皇の侍臣とするよう、朝廷に求めていました。

 一体、なぜなのでしょうか。

 近衛家は五摂家のうちの最高家格の家柄でした。そして、前関白の近衛忠煕は公武合体派の一人で、夫人は前薩摩藩主の娘でした。薩摩藩と深い繋がりがあったのです。

 一方、当時の関白であった二条家も五摂家の一つですが、家格としては近衛家に劣ります。しかも、二条斉敬と徳川慶喜とは従弟同士で、幕府と深い繋がりがありました。岩倉は、このような関係も重視したのかもしれません。前関白の近衛忠煕に天皇の侍臣になるよう請願したのです。

 公武合体を唱えていた頃とは違って、岩倉は明らかに、幕府を外し、朝廷と薩長両藩を中心とした新しい国家体制を考えるようになっていました。このような岩倉の変化を、親王や内大臣、薩摩藩士の大久保利通らは、好意的に受け止めるようになっていきます。

 それでは、再び、倒幕を巡る薩長の藩士と朝廷の動きに戻りましょう。

■倒幕の勅許

 先ほど、書状をご紹介しましたが、大久保利通らは、「倒幕の密勅」を求め、中御門らに請願しました。これは、薩摩藩藩主の島津久光の上京を条件に了承されました。そして、翌9日には、大久保利通は、8日の話し合いの一切合切を、岩倉具視に報告しています。

 ここに、薩長藩士を動かし、密かに倒幕を指揮したのが岩倉具視だったことが示されています。

 薩摩藩の大久保利通が密使となって、岩倉具視と中御門ら意思決定者との間を取り持ち、実行部隊と齟齬のないよう、隠密裏に動いていたのです。

 10月13日、岩倉は、薩摩藩の大久保と長州藩の広沢を邸に呼び、沙汰書を授けました。そして、肝心のものは明日、正親町三条実愛から渡されると告げています。肝心のものとは、「倒幕の密勅」です。

 14日には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三名の連名で、倒幕の密勅が出されました。


(※ 岩下哲典監修『幕末維新の古文書』pp.228-229. 柏書房、2017年)

 上記の書状は、毛利父子宛てに出されたもので、10月14日の日付があります。「倒幕の密勅」は、10月13日付けで薩摩藩主宛て、翌14日付けで長州藩主宛てに下されました。

 内容の一部をご紹介すると、「賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに、回天の偉勲を奏し、しかして生霊を山嶽の安きに措くべし、これ朕の願い敢えて懈るある無かれ、」と書かれています。

 その主旨は、「賊臣慶喜」を「殄戮(殺せ)」せよというものでした。文中に「倒幕」といった文字はありませんが、これで、薩長両藩主による出兵への同意がなされたことになりました。

 ちなみに、この密勅の文面は、岩倉具視の側近である玉松操が考え、揮毫したのは、薩摩藩宛てが正親町三条実愛、長州藩宛てが中御門経之だとされています(※ 前掲。p.230.)

 改めて、岩倉具視が倒幕のキーパーソンであり、新たな国家構想の中心人物であったことがわかります。

■キーパーソンとしての岩倉具視

 それにしても、岩倉具視はなぜ、これだけ堂々と倒幕活動に関わることができたのでしょうか。蟄居を強いられ、行動を監視されていたにもかかわらず、薩長藩士らと連絡を取り合い、要人に懇請して密勅を出してもらえるよう手配し、密使に指令を出していたのです。

 なぜ、これだけパワフルに活動することができていたのでしょうか。

 調べてみると、1867年3月29日に、入洛を許すという、一部追放解除令が出されていました。まだ、全面的に赦免されたわけではなく、依然として住まいは洛外とされていましたが、月に一度、一泊だけ洛中への帰宅が許されていたのです。

 もちろん、朝廷政治に関わることはできず、監視されてもいましたが、行動は以前よりもやや自由になっていました。岩倉具視が実際に、洛中帰住を許されたのは、11月8日でしたから、大久保らに指令を出していた頃はまだ、隠密裏に動かなければなりませんでした。

 さて、密勅が出された時点で、徳川慶喜はまだ大政奉還を表明していませんでした。おそらく、倒幕の動きがあることなど、考えもしていなかったのでしょう。慶喜が大政奉還を上表したのは、密勅が発令された10月14日でしたが、その際、将軍職については何も触れていませんでした。

 一方、その頃、薩摩、長州、芸州の諸藩は計画通り、政変の決行に向けて動き出していました。

 遅まきながら、慶喜が将軍職の辞表を朝廷に提出したのは、10月24日でした。将軍職の辞職は事実上、幕府の消滅を意味します。ですから、提出した時点で、この辞表が朝議で認められていれば、倒幕の必要はありませんでした。

 ところが、当時の朝廷に的確な判断を下せる公家はおらず、慶喜の辞表は朝議で却下されました。将軍職は引き続き、慶喜に勅許されてしまったのです。

 もはや、王政復古のための政変を回避することはできなくなりました。

 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、薩摩藩、土佐藩、尾張藩、越前藩、安芸藩の5藩が御所の諸門を封鎖しました。次いで、京都御所の御学問所で、岩倉具視の奏上によって、明治天皇が王政復古の大号令を発せられました。

 この大号令で、江戸幕府、摂政・関白等が廃止となり、新政府が成立しました。

 もちろん、徳川慶喜をかつぐ勢力はまだ力を持ち、新政府に慶喜を参画させようとしていました。岩倉はそのような勢力にも丁寧に対応し、不安定な新政府の瓦解を防いだといわれています(※ 齊藤紅葉、前掲。pp.87-89.)。

 とはいえ、幕府を拠り所にしてきた諸藩は新政府に挑みました。慶応4年1月3日には鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争といわれる一連の戦いが各地で続きました。いずれも、薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍に対し、旧幕府軍が戦った内戦です。

 Hoodinski氏がこれらの内戦を整理し、図示した地図がありますので、ご紹介しましょう。


(※ Hoodinski氏、作成、Wikipedia戊辰戦争より)

 上図に見るように、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日‐30日)から始まった内戦は、北進し、1868年5月3日には江戸城が無血開城されました。その後、宇都宮城の戦い、北越戦争、会津戦争などを経て、榎本武揚が率いた箱館戦争に至ります。最後は、函館市五稜郭で行われた戦闘で、1869年6月29日に終了しました。

 旧幕府軍はこれで完全に敗退しました。岩倉らは、新政府の樹立に向けて、動き出します。

 興味深いのが、徳川慶喜の処分についてです。岩倉らは朝議を開き、徳川家に同情的な諸侯に不満が残らないよう、その扱いを検討しました。そして、合議の結果を踏まえ、三条、岩倉、大久保らが相談して最終的な処分を決め、天皇の裁可を得て決定していたのです。

 このような手続きを経ることによって、新政府の下では合議制によって意思決定がなされることが示されたといえます。

 慶喜は死こそ免れましたが、徳川家の領地は駿河国など70万石に削減され、幼い家達が後を継ぐことになりました。徳川家は政治的権力を失ったのです。こうして幕府は実質的に消滅し、岩倉らは、天皇を中心とした新たな体制の樹立に向けて歩み出しました。

 大政奉還とその後の対応を見ると、欧米列強に対抗できる国家体制を推進したキーパーソンは、下級公家出身の岩倉具視だったといわざるをえません。

 岩倉具視は、一部の公家や薩長藩士と共に倒幕を企画して実行しただけではなく、戊辰戦争についてもきめ細かな配慮をして臨みました。おかげで硬直化していた幕藩体制を打ち壊し、スムーズに近代国家を構築できる準備を整えることができました。

■欧米列強に対抗できる国家体制とは?

 駐日英国公使であったパークス(Harry Smith Parkes, 1828-1885)は1866年、当時の日本の政治状況を見て、次のように述べていました。

 「中央権力というものが形成されなければならず、それは封建制度のもつ恣意的であり、且つ混乱にみちた支配を、しだいに駆逐していくであろう」(※ 萩原延壽、『英国策論』、pp.216-217. 朝日新聞社、1999年)

 幕府との交渉に難航したパークスは、たとえ条約を締結できても、幕府の直轄地のみで有効だという制約に悩まされていました。幕府と条約を結んでも、天皇が勅許を出さなければ、その条約は日本全体で有効とはみなされなかったのです。

 そのような経験をしてきたパークスは、日本には中央権力が存在せず、恣意的な決定が横行していると思っていたのでしょう。ただ、このような日本のシステムはいずれ、崩壊すると見ていました。

 実際、その変化はすぐにも起ころうとしていました。

 パークスはさらに、次のように述べています。
 
 「この国の歴史は、きわめて興味ぶかい段階にさしかかっている。しかし、このような重要な変革は、現在の階級社会を構成している指導的なひとびとのあいだのはげしい闘争をへずには、おそらくもたらされないであろう」(※ 萩原延壽、前掲。pp.216-217.)

 実際、戊辰戦争といわれる一連の内戦は、旧幕府の新政府に対する抵抗でした。その一方で、これらを俯瞰してみれば、封建制を打破し、近代的な国家体制を構築するための戦いであったともいえます。

 石井孝は、戊辰戦争について、「絶対主義政権を目指す天皇政権と徳川政権との戦争」と総括し、一連の内戦を次の三つに分類しています(※ 石井孝『維新の內乱』至誠堂、1968年)。

① 「将来の絶対主義的全国政権」を争う天皇政府と徳川政府との戦争(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)」、
② 「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争(東北戦争)」、
③ 「封禄から離れた旧幕臣の救済を目的とする、士族反乱の先駆的形態(箱館戦争)」
(※ Wikipedia 戊辰戦争)

 こうしてみると、戊辰戦争は、単に新政府軍と旧幕府軍との戦いであっただけではなく、幕藩体制の下で統治されていた日本が、欧米列強に対抗できる近代国家になるための段階的な戦いでもあったことがわかります。

 幕藩体制の終了に伴い、とりわけ武士の生活が激変しました。岩倉らは、各方面に配慮し、旧幕府軍に対処しました。できるだけ穏便に政権移譲が進み、安定した近代国家を構築できるようきめ細かな布石を打っていたのです。

 なによりもまず、国内が分裂することを避けなければなりませんでした。

 近代国家としての体制を早急に整備しなければ、日本の将来は欧米列強の餌食になりかねませんでした。開国を迫る列強に対するには、否応なく、中央集権的な国家を構築する必要があったのです。

■アーネスト・サトウの『英国策論』

 パークスの下で通訳として働いていたアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow, 1843-1929)は当時、横浜で発行されていた週刊の英字新聞『ジャパン・タイムズ』に寄稿し、日本の政治体制について次のように指摘していました。

 「われわれは、つぎのことを心に銘記しておかなければならない。すなわち、将軍は、日本の政治を指導していると公言しているけれども、実際には、諸国連合(a Confederation of Princes)の首席(the head)にすぎず、われわれとの最初の条約が結ばれたときにも、そうであるにすぎなかったということ、そして、将軍が一国の支配者という肩書きを僭称するのは、この国の半分ほどしか、かれの管轄に属していないのだから、じつに僭越至極な行為であったということである」(※ 萩原延壽、前掲。p.223.)

 さらに、次のようにも述べています。

 「現行の条約が永久不変のものではないことを、いまではだれもが確信している。最近、われわれは、天皇の認可(勅許)なくしては、条約は実行されず、大名たちによって認められもしないことを、将軍がみずからの行動によって是認するのを知ったのである」
(※ 萩原延壽、前掲。p.229.)

 このように、アーネスト・サトウは、天皇が将軍よりも上位にあるという認識を示した上で、「天皇と条約を結ぶのがよいことであろう」という考えを記します。

 その一方で、「天皇自身は、条約を結ぶことができないであろう」と述べ、「天皇は条約の遵守を強制することができないからである」とその理由を記しています。というのも、天皇は行政力、軍事力を持たないからでした。

 アーネスト・サトウは、朝廷と幕藩体制が共存する統治体制が対外交渉上、不備があることを指摘していました。だからこそ、日本は、将軍に代わって、天皇を元首とする諸大名の連合体が、支配権力の座につくべきであると提言していたのです。

 日本に開国を迫った欧米列強は、君主制の下、帝国主義、覇権主義の政策で、世界各地を支配していました。その先端をいくのが大英帝国でした。アーネスト・サトウはその統治システムを念頭に、日本の国家体制について提言していたのでしょうか。

 その頃、欧米列強は、進んだ航海技術を武器に世界各地を支配し、その資源を収奪していました。1898年当時、帝国主義国家が支配している地域を示した世界地図があります。


(※ World 1898 empires colonies territory, Wikimedia Commons)

 大英帝国の支配する地域はピンクで表示されていますが、きわめて広大な地域がイギリスの支配下にあったことがわかります。各地の資源を奪い、繁栄を誇っていたのが、この時のイギリスでした。君主制国家体制の下、全盛期には全世界の陸地と人口の4分の1を植民地化していたのです。

 これら欧米列強は、世界戦略の一環として、極東の日本に開国を求め、通商条約を結ぼうとしていたのです。

 ところが、日本の統治システムは、彼らにとって複雑でした。

 というのも、たとえ幕府と条約を締結したとしても、その条約は、将軍の直轄地の住民と貿易を行うことを許すものでしかなく、日本全体との条約を意味するものではなかったからです。

 誰が日本の為政者なのか、彼らは戸惑いました。

 だからこそ、アーネスト・サトウは、『ジャパン・タイムズ』に寄稿し、日本は天皇制と幕藩体制とが共存する統治の形態を正すべきだという考えを示したのです。

 彼はこの論説の中でさらに、条約の改正と日本政府の組織の改造を要求していました。日本が近代化するにはまず、欧米列強が安心して取引できる政治体制にしてもらいたいというのがアーネスト・サトウの本音でした。

■岩倉具視は『英国策論』をどう思ったのか?

 『ジャパン・タイムズ』に寄稿されたアーネスト・サトウの論考は、すぐさま翻訳され、『英国策論』という表題で印刷され、関係者に読まれていました。


(※ 国会図書館デジタルコレクションより)

 町田明広氏は、岩倉具視と『英国策論』ついて、次のような見解を示しています。

 「岩倉具視関係文書」(国立公文書館内閣文庫蔵)には、「英国士官サトウ著になる英国の「策論」(作成年月日未詳)とされる文書が含まれており、末尾に「薩摩藩某翻訳」と記されている。抗幕・廃幕を志向する薩摩藩の朝廷内の最大のパートナーが岩倉具視であり、薩摩藩から「英国策論」が岩倉に渡っていることは看過できない。その内容から、彼らにとって『英国策論』は「精神的支柱ですらあった可能性が高い」
(※ 町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向―藩政改革と薩英関係の伸展」、『神田外語大学日本研究所紀要』13号、pp.21-22. 2021年)

 当時、『英政策論』は、想像以上に多くの大名たちに読まれていました。政局は時々刻々と変化し、海外の動きを視野に収めた政策が必要でした。アーネスト・サトウの見解が、その後の政局に多大な影響を与えていたことがうかがえます。

 町田氏は、その後の政局について、次のように述べています。

 「この段階で、幕府と強固な結びつきを構築しているフランス・ロッシュと、西国諸侯、とりわけ薩摩藩との関係を密にしているイギリス・パークスの対立が浮き彫りになっており、幕府対薩摩藩の動向にフランス対イギリスというグローバルな要素が加わり、政局の混迷は加速後を上げることになる」(※ 町田明広、前掲。p.24.)

 幕府にはフランス、西国諸侯、とくに薩摩藩にはイギリスといった具合に、武器供与などの海外からの支援動向に、国内の対立が反映されていました。混迷が長引けば、日本が列強に支配下に置かれかねません。

 すでにご紹介しましたが、岩倉は1866年10月頃、朝廷に対し、意見書を出していました。その内容は、徳川から「軍職」を取り戻し、源頼朝以前の体制に復古すべきだというものでした。岩倉はその時点で、朝廷を中心とし、薩長の支援を得て、強力な国家体制にすることを目指していたのです。

 日本国内が分裂せず、安定しなければ、近代国家への変貌など考えられないことでした。

 アーネスト・サトウの『英国策論』がいつ刊行されたのか、日付がないのでわからないのですが、日本語の訳本について、彼は次のように述べています。

 「阿波候の家臣であり、多少英語を知っているわたしの日本語教師沼田寅三郎の助けを借りて、これを日本語に訳し、小冊子のかたちにして沼田の主君の閲読に供したところ、その写本が方々に出まわり、翌年(1867年)旅行に出てみると、その途中で出会った大名たちの家臣がみなこの写本を介してわたしのことを知っており、わたしに好意をもっていることに気づいた」
(※ 萩原延壽、前掲。p.219.)

 『英国策論』の訳本が刊行されるや否や、多くの大名たちに読まれていたのです。

 岩倉が読んだのは薩摩藩士の訳本だったそうですが、1866年の秋に具申書を出す時点で、彼はすでにアーネスト・サトウの見解を知っていた可能性があります。

 岩倉は以前から公武合体派とみなされ、天皇を中心に、将軍、諸藩の大名を為政者とする国家体制を構想していました。ところが、1866年時点の意見書では将軍から軍権をはく奪し、諸藩の大名と同じ扱いにするという考えに変化していたのです。

 このような変化を考えると、岩倉の国家体制観は、アーネスト・サトウの影響を受け、研ぎ澄まされていった可能性も考えられます。少なくとも、アーネスト・サトウの考えを知って、自分たちが描く国家体制に確信を持つことができたことは確かでしょう。

 一連の経緯をみてくると、欧米列強が日本に開国を迫って来たとき、彼らの餌食にならずに済んだのは、公家出身の岩倉具視がキーパーソンとして、水面下で動いていたからにほかならないといわざるをえません。

 情報収集能力、情報分析力に優れ、胆力があったからこそ、岩倉は、意欲ある藩士や公家を惹きつけることができ、新たに描いた国家の実現に向けて邁進することができたのでしょう。
(2023/4/24 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅①:岩倉具視はなぜ、蟄居させられたのか。

■岩倉具視幽棲旧宅

 2023年1月5日、京都市左京区岩倉上蔵町にある、岩倉具視幽棲住宅に訪れてきました。あれから随分、時間が経ってしまいましたが、幕末の激動期に、岩倉具視がなぜ、ここで蟄居しなければならなかったのか、考えてみたいと思います。

 地下鉄烏丸線の国際会館駅から、京都バス24系統に乗り、終点「岩倉実相院」で下車します。そこから、3分ほど歩くと、かつて岩倉具視が住んでいた旧宅の表門が見えてきます。2023年1月28日にこの欄でご紹介した実相院のごく近くにありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 着いてみると、戸は閉まっており、表門からは入れません。少し歩くと、先に通用門があり、ここから、中に入れるようになっていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 ここが、なぜ岩倉具視幽棲旧宅と呼ばれているかといえば、孝明天皇から蟄居を命じられた岩倉具視が、幕末の5年間、移り住んでいた場所だからです。

 尊王攘夷運動が高まっていた頃、「四奸二嬪」排斥運動(※ 佐幕派あるいは公武合体派の公家に対する圧力行為)が起こり、岩倉ら6人が糾弾されました。孝明天皇がかばいきれないほどの動きになり、岩倉らは1862年8月20日に蟄居処分、辞官、出家を命じられました。

 不本意ながらも岩倉は、まずは、西賀茂の霊源寺、その後、洛西の西芳寺に移りました。ところが、9月26日、今度は、洛中からの追放命令が出され、岩倉具視は、御所から遥かに遠い、洛外の岩倉に転居せざるをえなくなりました。

 朝廷の中で発言力を高めていた岩倉が、急進的な攘夷派の台頭によって、追い落とされたのです。

 年表によると、当初(1862年)は、岩倉村の藤屋藤五郎の廃屋を借りて住んでいましたが、長く住める場所ではありませんでした。その後、1864年に大工藤吉の住宅を購入して、移り住みました。それが、この岩倉具視幽棲旧宅内の附属屋です。

 それでも、まだ岩倉が住めるような家ではありません。その後、繋屋と主屋を建て増して、何とか住めるようになったのが、この旧宅です。


(※ 岩倉具視幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 敷地内には、附属屋と主屋、繫屋があり、敷地を取り囲む土塀と表門、通用門があります。表門を入ると、主屋の南庭に通じる中門があり、そこをくぐると、主屋の南側に池庭があり、静かな落ち着きのある空間が広がっています。さらに、附属屋と主屋の間には中庭があり、そっと目を休める空間も用意されていました。後に、岩倉具視を記念する遺髪碑、対岳文庫、管理事務所などが設置されています。

 この岩倉具視幽棲旧宅は1932年3月25日に、国指定の史跡にされました。面積は1553㎡で、こじんまりとした、静かで落ち着きのある居宅です。

 附属屋には、当時の生活ぶりを描いた絵が展示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 ここには、岩倉の身の周りの世話をしたり、書き物の手伝いをしたりする家来たちがいました。世話係のうちの一人が、文久3年(1863)1月10日に雇い入れられた西川与三です。彼は、回顧録『岩倉具視公一代絵図』を残しています。上図はその中の一つで、当時の生活の一端を見ることができます。
 
■主屋

 主屋には、簡素ながら、床の間も設置されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 お正月に訪れたせいか、床の間には鏡餅が飾られていました。掛け軸もなく、香炉もなく、いたって簡素な設えでした。おそらく、当時の生活ぶりもこのように簡素で質実なものだったのでしょう。

 主屋と附属屋との間に繋屋があり、それに面して、中庭があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、中庭と繋屋は、附属屋と主屋との間に適度な距離を保つ空間として設計されていたように思えます。たとえ、主屋で重要なことが話されていたとしても、これだけの距離があれば、その内容が附属屋まで洩れることはないでしょう。

 主屋は、岩倉具視にとって密談の場であり、情報を整理し、考えをまとめる空間でもありました。それが、廊下と繋屋とによって、附属屋と遮断されているのです。気兼ねなく、話し合うことができたでしょうし、もちろん、安らぎの場にもなっていたでしょう。

 一方、中庭には大きな木もなく、附属屋からも主屋からも一望できるようになっています。障子を開ければ、附属屋から誰がやってくるのか、庭から、誰が忍び込んでくるのか、すぐにも把握できる構造になっていました。もちろん、障子を閉めていても、障子越しに人の気配を感じることもできたでしょう。

 図面を見ると、改めて、繋屋を挟んで、二つの空間が機能別に作られているように思えました。


(図をクリックすると、拡大します)

 附属屋が、日常生活を維持するための空間だとするなら、主屋は、岩倉が思索を巡らせ、熟考する空間、さらには、客を迎えるための空間として設えられていたのでしょう。

 主屋は、岩倉が来訪者から新たな情報を入手し、語り合い、将来ビジョンを打ち立て、練り上げていくための空間として機能していたように思えます。いってみれば、情報を入手し、交換するだけではなく、情報を蓄積し、それらを踏まえて分析し、対策を構想するための空間です。

 蟄居を強いられた岩倉にとって、何よりも大切な空間でした。

 洛外の北方に蟄居していたとはいえ、岩倉具視は、日本の運命を左右する重要な人物でした。それだけに、なによりもまず、刻々と変化する情勢を把握する必要がありました。家来が洛中に出て情報を収集していたでしょうし、来訪者が新たな情報を携えてやってくることもあったでしょう。それら一切合切が、情勢分析には必要でした。

 当時、日本に開国を求め、欧米の艦船が、次々と近海にやって来ていました。どう対処すればいいのか判断がつかず、幕府も朝廷も右往左往していました。判断を誤れば、隣国の中国のように、欧米列強の餌食になりかねませんでした。

 国内情勢を踏まえた上で、国外からの圧力にどう対応すればいいのか判断しなければならず、幕府、朝廷とも、極めて難しい舵取りが迫られていました。対処できる人物は限られていました。

 そんな中、岩倉具視は、さまざまな種類の情報を入手することができたばかりか、的確な判断力を持ち、さらに、朝廷と幕府との間を取り持つことのできる数少ない公家の一人でした。

 それでは、なぜ、それほど重要な人物、岩倉具視が、洛外の北方、岩倉村に転居せざるをえなかったのでしょうか。

 先ほど、「四奸二嬪」排斥運動を契機に、岩倉らは糾弾され、蟄居を強いられたと述べました。急進的な尊王攘夷派が台頭する中、公武合体派は佐幕派とみなされ、敵視され、弾劾されたのです。

 卓見の持ち主で、行動力のある岩倉具視はとりわけ、標的になりやすかったのでしょう。

 まずは、その来歴と人となりをみてみることにしましょう。

■養子縁組をして、岩倉具視に

 年表によると、岩倉具視は文政8年(1825)9月15日、前権中納言堀河康親の第二子として誕生しました。幼名は「周丸」でした。容姿や言動に公家らしい優雅さがなく、公家の女子たちの間では、「岩吉」と呼ばれていたそうです。天保9年(1838)8月8日、岩倉具慶の養子となったため、9月に名を具視と改めました。

 10月28日に従五位下に叙任され、12月11日には元服して、昇殿を許されました。一人前の公家と認められたのです。翌天保10年(1839)からは、岩倉具視として朝廷に出番(宿直勤番)するようになり、年100俵の役料扶持米を受け取っています。満13歳の時でした(※ 佐々木克、『岩倉具視』、p.7-8. 吉川弘文館、2006年)。

 岩倉家への養子縁組を推薦したのは、朝廷に仕える儒学者、伏原宣明でした。岩倉具視は、幼い頃から伏原に師事していましたが、その伏原の目に留まるほど、抜きんでて秀でた子どもだったからです。 

 伏原は、「その挙動をみると、尋常の童子とは異なる、成長して有用の人物になるにちがいない」と岩倉具慶にいって、養子に迎えるようすすめたそうです。幼い頃から、それだけ異彩を放っていたのです。伏原宣明は両家の間を取り持って、養子縁組を実現させたばかりか、岩倉具慶の名を取って、「具視」と命名しました。

 正装した岩倉具視の写真があります。


(※ 岩倉幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 堂々としとした面持ちを見ると、何事にも動じない意思の強さと豪胆さを見て取ることができます。その風貌や態度からは、太々しさの一方で、思慮深さ、洞察力の高さが滲み出ています。いずれも、激動の時代を乗り切るのに不可欠な要素です。

■下級の公家

 幕末に公家の数は137家ありました。ところが、長い伝統の下、家格は定まっており、朝廷内でどこまで昇進できるかということも、ほぼ固定していました。

 たとえば、公家の最高家格は摂家で、摂政・関白となることができ、宮中の席次も太政大臣よりも上でした。九条、近衛、一条、二条、鷹司の五摂家が相当します。その摂家に次ぐのが清華家で、太政大臣まで昇進できます。菊亭、花山院、久我、西園寺、広幡、三条、徳大寺、大炊御門、醍醐の九清華家です。この清華家の下に、大臣家といわれる中院、三条西、正親町三条の三家が続きます。さらに、羽林家、名家、半家、新家などがあって、それら公家の序列は固定化し、動かすことができなかったのです(※ 佐々木克、前掲、p.8-9.)。

 岩倉家は、この清華家の中の久我家の庶流でした。公家としての家格は羽林家でしたが、江戸初期に独立した新家でしたから、下級の公家だったのです。

 岩倉具視は13歳の時に朝廷に入り、いろいろと見聞を深めた結果、いつ頃からか、朝廷改革を進める必要があると思っていたようです。安逸を貪る公家たちの意識と慣習を改めなければ、開国を迫る諸外国の力に対応しきれないと感じていました。

 何とかしなければならないと切に願っていたとしても、そもそも、下級公家の身分では朝廷内で発言権がありません。朝廷改革を行うには、まず権力者に近づき、信頼を得て、発言を認めてもらえるようにするしか道はなかったのです。

 1853年1月、岩倉具視は鷹司政通の歌道の門人になりました。なんと27歳の時です。宮中に出仕するようになってから、14年も経っていました。それなのに、わざわざ、鷹司政通の門下に入ったのです。もちろん、多少は歌を学びたかったのかもしれませんが、それだけではありませんでした。

 当時、鷹司政通は朝廷で大きな権力を握っていました。

 鷹司家は五摂家の一つで、公家の最高家格でした。しかも、政通は、文政6年(1823)に関白・内覧に就任して以来、安政3年(1856)に辞任するまで、34年もの間、朝廷及び公家社会の中で、最高権力者でした。識見があり、天皇からも公家からも信望の厚い人物だったのです。

 さらに、鷹司は幕府や海外からの情報に通じていました。

 佐々木克氏は、鷹司政通が朝廷の制度や故実に知悉しているだけではなく、夫人の実家である水戸藩を通して、幕府や海外からの情報が政通にもたらされていたことに注目しています(※前掲。p.9-10.)。

 政通の夫人は水戸藩主斉昭の姉でした。水戸藩は『大日本史』を編纂したことで有名ですが、多くの学者を輩出しています。攘夷思想が形成されていたことはもちろんのこと、西洋やロシアへの関心も高く、『諸夷問答』や『千島異聞』などの書が作成されていました。漂流民への聞き取り調査を踏まえ、当時、入手できる限りの情報に基づき、作られたものでした。

 このように、水戸藩は当時、各方面からさまざまな情報を入手できる環境にありましたし、それらの情報を総合的に分析できる人材も揃っていたのです。その水戸藩から、鷹司政通は情報を得ることができる稀有な人物でした。

 鷹司政通が長く、公家の最高位にあったのは、動乱期の朝廷にとって幸いだったのかもしれません。公家でありながら、幕府や海外からの情報を入手でき、識見の高い、得難い人物でした。

 その政通は、岩倉具視について、「眼彩人を射て、弁舌流るゝがごとし、誠に異常の器なり」と評したといわれています(※ 佐々木克、前掲、p.7.)。

 鷹司政通は長年、朝廷の最高位にあって、数多くの才能ある人々を見てきたはずです。その鷹司すら、驚かせたほどですから、岩倉具視がどれほどの才人であったか、どれほど胆力のある人物であったかがわかろうというものです。

 一方、岩倉具視はといえば、政通の門下に入ることによって、多様な情報に接することができ、それらを踏まえ、的確な分析ができるようになっていました。他の公家たちよりもはるかに海外事情にも通じ、冷静な情勢判断を下すことができ、一目置かれる存在になっていたのです。

 略年譜をみると、岩倉具視は、安政元年(1854)に孝明天皇の侍従となり、従四位下に叙せられ、安政4年(1858)には孝明天皇の近習となって、従四位上に叙せられています。

こちら → https://iwakura-tomomi.jp/history/

 振り返れば、岩倉具視が、鷹司政通の歌道に入門したのが1853年でした。その後、わずか1年ほどで孝明天皇の侍従となり、さらに、4年後には近習になっているのです。岩倉具視が思惑通り、着実に、朝廷内で頭角を現していったことがわかります。

 実際、鷹司門下に入ると早々に、岩倉は宿願であった朝廷改革に乗り出しています。

■ペリー来航と朝廷改革

 嘉永6年(1853)6月、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794 – 1858)が来航しました。強硬な態度に押されるように、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認めてしまいました。その結果、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至ってしまったのです。

 危機感を覚えた鷹司政通は、同年12月28日、廷臣に対し、重大な事態となっていることを心得るようにと諭告しました。岩倉具視はその翌日、この諭告に応える恰好で、次のように意見表明をしています。

 「国内の政治は幕府に委任しているが、対外問題は国体(国家の基本体制)にかかわるものであるから、幕府の対応・措置に注意をはらい、万一にも「失当の措置あらば、断然勅令を以て、差止め」る覚悟を固める必要がある」

 そして、次のように具申しています。

 「今は公家に和歌・蹴鞠を奨励するような時節ではない、学習院を拡充・改革して人材の育成に当たることが急務である。そのための費用として朝廷の積立金を充当されたい」
(※ 佐々木克、前掲。p.10-11.)

 このように岩倉具視は鷹司に対して、堂々と、外交への朝廷の主体的な関与、公家の意識改革、人材育成のための学習院の充実といった方策を提言したのです。朝廷改革の一環として、かねてから岩倉が考えていたものでした。

 この意見書に対し、鷹司は同意を示したものの、即答は避けたといわれています。

 そうこうしているうちに、1854年3月31日、日米和親条約が締結されました。この条約では、「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」とし、アメリカに対し、下田と箱館(現在の函館)の2港を開港しています(※ Wikipedia 日米和親条約)。

 これについて鷹司は、この条約が「国体」の変更を伴うものではないという理解の下で、天皇が了承したと幕府に伝えています。いわば条件付きで、天皇は日米和親条約を承認したといっているのです。事後承諾せざるをえなかった朝廷の面目を保つための措置であり、幕府の拙速な対応への危機感の表れであり、さらには、勅許を経なかったことへの警告でもありました。

 もっとも、朝廷は、自発的に対外政策を検討することもなく、幕府主導の対外政策に甘んじざるをえないというのが実状でした。組織が硬直化し、時宜を得た意思決定ができなくなっていたのです。幕府もまた、開国を迫る諸国の攻勢にひたすら慌てふためき、度重なる威喝に屈し、国を守るための適切な行動がとれなくなっていました。

■八十八卿列参事件と「神州万歳堅策」

 安政5年(1858年)1月、老中の堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため、上洛しました。これに対し、関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しましたが、多くの公卿・公家は反対しています。

 岩倉もまた、条約調印には反対の立場でした。彼は、大原重徳とともに反九条派の公家を集結させ、3月12日に抗議のため、公卿88人で参内しました。この時、九条尚忠は病と称して参内しませんでした。そこで、岩倉は九条邸を訪問し、面会を求めましたが、これも拒否されました。仕方なく、面会できるまで門前で動かずにいたところ、九条が明日、返答すると応じたので、岩倉はようやく九条邸を辞しました。午後10時を過ぎていたといいます(※ Wikipedia前掲)。

 これが、「廷臣八十八卿列参事件」といわれる出来事です。

 老中の堀田正睦は、公家たちの抗議行動の後、3月20日に小御所に呼ばれ、孝明天皇に拝謁しました。天皇は口頭で、「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝えています(※ Wikipedia前掲)。

 岩倉らの反対によって、勅許は与えられなかったのです。公家たちは、力を合わせれば、幕府の意向に掉さすこともできることを経験しました。岩倉具視主導で行われた初めての抗議行動であり、見事に勝利を収めました。

 実は、88人の列参から2日後の3月14日、岩倉具視は、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しています。その内容は、次のようなものでした。

 「日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)」、「条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策」などを記しています。

 その一方で、単純な攘夷論は否定し、次のように記しています。

 「相手国を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する」、「米国は将来的には同盟国になる可能性がある」、「国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき」(※ Wikipedia 前掲)

 これらを読めば、岩倉具視がきわめて的確に、日本の置かれた状況を把握し、国防に配慮した対策を考えていたことがわかります。各所から収集した情報を踏まえ、岩倉が合理的に情勢判断した結果、導かれた意見書でした。

 この政治意見書を読んだからこそ、孝明天皇は、幕府からの使者である老中、堀田正睦に勅許を与えなかったのでしょう。岩倉具視の見解に一理あると判断したのです。

 この頃から、的確な情勢分析ができ、行動力もある岩倉具視が、朝廷内で大きな影響力を持ち始めていたことがわかります。

■日米修好通商条約の締結

 安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。孝明天皇が勅許を与えなかったにもかかわらず、江戸幕府は朝廷に断りなく、勝手に調印してしまったのです。

 実は、日米和親条約の締結以降、幕府とハリス総領事との間で何度も話し合いが行われていました。

 日米和親条約によって、タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804 – 1878)が、初代日本総領事として赴任してきました。彼は、安政4年(1857)10月21日、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡し、通商条約の締結を進めるため、さまざまな働きかけを行っています。

 幕府は、安政4年(1858)12月11日から条約の交渉を開始させました。交渉は15回にも及び、交渉内容に関して双方の合意が得られた段階で、老中堀田正睦が上洛したという経緯がありました。孝明天皇の勅許を得るためでした。

 ところが、先ほどいいましたように、岩倉具視らの抗議行動で、孝明天皇は勅許を与えませんでした。その結果、幕府は朝廷に断りなく、日米修好通商条約を締結してしまったのです。最終的な判断を下したのは、大老の井伊直弼でした。

 6月27日、老中奏書でこのことを知った孝明天皇は、激怒しました。

 それでも、幕府は平然と朝廷の意向を無視し、アメリカに続いて、オランダ(7月10日)、ロシア(7月11日)、イギリス(7月18日)、フランス(9月3日)、と修好通商条約を締結しています。いずれも勅許なく結ばれた条約です。これら一連の条約は、安政五か国条約といわれています。


(※ Wikipedia)

 いずれも、治外法権を認めたうえに、関税自主権はなく、圧倒的に日本側に不利な不平等条約でした。

 公家たちは、当然のことながら、勅許を待たずに調印した条約は無効だと主張しました。朝廷はこれらの条約を認めず、幕府と井伊大老の独断専行を厳しく非難したのです。その結果、朝廷と幕府との間の緊張が一気に高まっていきました。

 外圧に押され、幕府が暴走しはじめました。幕府側は、朝廷に与する人々を次々と、切腹、死罪、追放などの厳罰に処していったのです。これが、安政の大獄といわれる一連の弾圧です。

 やがて、一連の弾圧および不平等条約への反動が来ました。

 安政7年(1860)3月3日、井伊直弼大老が、外桜田邸を出て、江戸城に向かう途中、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名によって暗殺されました。桜田門外の変と呼ばれる事件です。

 日米修好通商条約は、国論を二分する大きな案件でしたが、条約締結を決断した井伊大老が暗殺されてしまったのです。政治的混乱は避けられず、国情が不安になる可能性がありました。

 事件直後からその死は秘匿され、幕府には、井伊大老が負傷したので帰邸するとだけ報告されました。実状を知らされなかった将軍・家茂はわざわざ井伊邸に見舞い品を届けさせたほどでした。このようにして井伊大老の死はしばらく伏せられていたのです。

 3月末に井伊直弼は大老職を正式に免じられ、それに伴い、ようやく、その死が公表されました。そして、まるで厄落としをするかのように、同年3月に改元され、万延元年(1860)となりました。

 幕府は朝廷への歩み寄りを見せ、公武合体路線に舵を切っていきます。尊王攘夷派が力を増す一方で、幕府の威信は日増しに低下していきました。幕府にとっては、政情を安定させるための方策が必要でした。尊王攘夷派が台頭してきた情勢の中で、幕臣たちが検討していたのが、孝明天皇の妹、和宮を将軍家茂の夫人に迎えることでした。

■『和宮御降嫁に関する上申書』と破約攘夷

 4月12日、和宮降嫁を希望する書簡が、幕府側から京都所司代に提出されました。孝明天皇はすぐさま、和宮はすでに有栖川宮への輿入れが決定しているとして断っています。当時、朝廷内の大半も降嫁に反対で、交渉は難航しました。

 ところが、孝明天皇はどういうわけか、いったん拒否しておきながら、この件について岩倉に諮問しています。岩倉の意見は、多くの公家たちとは違って、幕府の懇請を受け入れることを勧めるものでした。というのも、岩倉は、幕府の懇請を受け入れれば、朝廷主導の国家体制に踏み出すための第一歩になると判断していたからでした。

 岩倉は、幕府が降嫁を持ち掛けてきたのは、自らの権威が地に落ち、人心が離れていることを自覚しているからだと判断していました。だからこそ、朝廷の威光によって幕府の権威を粉飾しようとする狙いがあると分析していたのです。

 岩倉は、「皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わなければならない」とし、『和宮御降嫁に関する上申書』を提出しています。

 さらに、次のように、和宮降嫁に際しての条件をいくつか付けています。

 「政治的決定は朝廷、その執行は幕府が当たるという体制を構築すべき」とし、喫緊の課題としては、「朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき」(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)

 岩倉具視は以前から、朝廷が意思決定をし、幕府がそれを遂行する政治体制を理想としていました。朝廷主導の政治体制です。とはいえ、国難の今、まずは公武一体で課題を解決していく必要があるとし、朝廷に無断で締結した一連の条約を破棄するという条件の下で、降嫁は許可してもいいと述べているのです。

 日本の国体を守るには、なんとしてもこれらの不平等条約を破棄しなければならないと岩倉は考えていたのです。

 孝明天皇は、岩倉の見解を受け入れました。朝廷主導の政治体制を実現させるために、まずは、公武一体で臨む必要があると判断し、和宮降嫁の懇請に応じたのです。岩倉の情勢分析、判断力、交渉力に全幅の信頼を置いていたからにほかなりません。

 6月20日、京都所司代を通し、条約破棄と攘夷を条件に、和宮降嫁を承認したことを伝えました。そして、7月4日、四人の老中の連署による「7年から10年以内に外交交渉、場合によっては武力をもって破棄攘夷を決行する」という念書を取り付け、条件についての幕府側の応諾を確認しています。

 孝明天皇は、文久元年(1861)10月20日に和宮が江戸に下向する際、岩倉を勅使として随行させています。下級公家の岩倉が、老中と対等に議論できるようにという配慮からでした(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)。

■「四奸二嬪」運動と岩倉村での蟄居

 その後、各地で尊王攘夷運動が高まり、公武合体を主張していた岩倉は、いつの間にか、幕府に与する佐幕派とみなされるようになってしまいました。やがて、佐幕派や公武合体派の公家たちは、尊王攘夷派から脅迫され、排斥されるようになっていきます。

 8月16日、三条実美、姉小路公知ら13名の公卿が連名で、岩倉具視、久我建通、千種有文、富小路敬直、今城重子、堀河紀子の6人を弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出しました。岩倉を含む4人の男性と2人の女性は、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として糾弾されたのです。

 当時、とくに京都では尊王攘夷の気運が高まっていました。

 岩倉具視は、「四奸二嬪」の一人として弾劾されました。岩倉を信頼していた孝明天皇でさえかばいきれず、岩倉らは8月20日に蟄居処分、さらに、辞官、出家命令を受けました。不満に思いながらも、岩倉は逆らわずに辞官して出家し、朝廷を去りました。

 出家した後、まずは、西賀茂の霊源寺に移りました。ところが、そこで身に危険が及ぶようになり、さらに御所から遠い、洛西の西芳寺へと移り住んだのです。

 ちなみに、霊源寺は岩倉家の菩提寺でした。
(※ https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ki017.html

 そして、西芳寺は当時、父、岩倉具慶の甥が住持でした。
(※ http://saihoji-kokedera.com/top.html

 このように岩倉は縁故を頼って、次々と落ち延びていったのです。

 それでも糾弾の声はやまず、9月26日には、洛中に居住することを禁じる命令が出されました。仕方なく洛中を出て、御所から遥か遠方の岩倉村に住まいを移しました。文久2年(1862)10月8日のことです。以後、岩倉村での蟄居生活は、1867年11月8日に洛中帰住が許されるまで5年間も続きました。

 洛中帰住が許されても、岩倉具視はまだ完全に赦免されたわけではありませんでした。

 その一か月後の12月8日、小御所で朝議が開催されてようやく、文久2年(1862)と3年(1863)の処分者に対する赦免が行われたのです。激動のさ中、岩倉具視はようやく本領を発揮し、活躍できるようになりました。

■激動期の改革者

 振り返ってみれば、岩倉は初めて宮中に伺候した時から、朝廷改革の必要性を感じていました。下級公家だったからこそ、組織の硬直化による不毛に気づいたのです。

 さらに、ペリー来航時の幕府の対応を見て、なによりもまず、朝廷の主体的な外交関与、そのための公家の意識改革、人材育成、等々の重要性を痛感しました。そのような見解を文書にし、鷹司に提言していたほどでした。岩倉がわずか24歳の時です。

 岩倉は当初から、朝廷の改革を行わなければ、日本の未来はないと思っていたのです。

 その後も、公家の在り方について、岩倉は沙汰書を出しています。日付は明らかではありませんが、公家の実状を熟知しているだけに、その内容には根本的な改革案が含まれていました。

 たとえば、次のような見解が、沙汰書で披露されています。

 「世襲の禄については、時宜によって減少させられることはあっても、加増を仰せつけられることはない。ただし、この後の奉公によって「功労」があれば、一代限り加禄を賜うべきである。官位についても同様で、「世襲の旧弊」は改革され、今後は人材の能力に応じて任命されるので、そのように心得て「文武」のことに「勉励」するべきだ」とされています(※ 斉藤紅葉、「岩倉具視の新国家像と動向」、伊藤之雄編著『維新の政治変革と思想』、pp.91-92. ミネルヴァ書房、2022年)

 沙汰書を見れば、岩倉が、世襲の官位や禄の制度を改革し、能力に応じた取扱いをして、公家たちの自発性を喚起しようとしていたことがわかります。朝廷を中心に、国体を維持した政治体制にするには、なによりも優秀な公家の育成に努めなければならず、勉学を奨励しなければならなかったからでした。

 一方、欧米列強に伍していくには、外交、防衛にも配慮した政治体制でなければならず、それを支える卓越した識見をもつ優秀な人材の登用が必要でした。新たな秩序の体系は、朝廷側であろうと、幕府側、藩側であろうと、能力の高い意欲ある人材によって構築しなければならないと岩倉は考えていたのです。(2023/3/31 香取淳子)

実相院で振り返る日本の中世

■ 岩倉実相院

 京都市左京区岩倉上蔵町に、天台宗寺門派の門跡寺院・実相院があります。2023年1月5日、所用で京都を訪れた際、次いでに行ってみることにしました。地下鉄烏丸線の沿線の国際会館駅で24系統京都バスに乗り換え、終点の岩倉実相院で下車すると、目の前に実相院が見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 さらに近づくと、表門は四脚門でした。


(図をクリックすると、拡大します)

 落ち着いた佇まいの中に、歳月を重ねた重厚感と格式の高さが感じられます。見ていると、次第に身が引き締まる思いがしてきました。

 四脚門は、鎌倉以降、将軍家の正門や勅使門、格式のある寺家の正門などに使われたといわれます。

 パンフレットを見てみると、江戸時代初期、天皇家とのゆかりが深まり、「享保5年(1720)、東山天皇の中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜った」と書かれています。江戸時代になって、承秋門院(東山天皇の中宮)の御殿の一部が移築されたものだったのです。

 今日まで伝わっているのは、この四脚門と実相院の車寄せ、客殿でした。そういわれてみると、この表門には、奥ゆかしく、典雅な趣が感じられます。実相院はまさに、現存する数少ない女院御所なのです。

 確かに、中に入ると、どの部屋にも襖絵があって、壮観でした。とくに印象深かったのが、杉戸に描かれた襖絵です。

 内部は撮影できませんので、実相院HPの画像をご紹介しましょう。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 これは仏間のある牡丹の間に設えられた襖絵です。杉戸に、竹林の中で虎が寝そべっている姿が描かれています。そもそも、竹に虎というモチーフは取り合わせのいい図柄で、古来、縁起がいいとされてきました。

 仏間の杉戸に描かれた襖絵を見ていると、私には、この虎が仏間を守護しているように思えました。

両側には、虎を囲むように、何本もの竹が描かれています。まっすぐに伸びた竹の合間から風が吹き抜けてきて、竹林のしめやかな空気を運んできているような気がします。襖絵を通して、さり気なく、自然が室内に取り入れられているのです。

 何も襖絵に限りません。風や水の流れを感じ、四季折々の変化を愛でるための設えは、さまざまな所に見られました。

 たとえば、石庭です。

 苔むした巨石の周りに刻まれた同心円状の線が、水面に広がる波紋に見えます。その先に設置されたアーチ状の造形物が、水面を跨ぐ橋に見えます。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 写真は2022年11月26日に撮影された石庭です。庭を囲む木々がさまざまに色づき、砂利の白さに興を添えています。手前には庭を望む桟敷があり、ここから四季折々にもたらされる自然の美しさを堪能していたのでしょう。

 優雅な生活の一端が偲ばれます。

 典雅な佇まいは、門跡寺院だからなのでしょうか。

■ 門跡寺院

 実相院は昔から、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。実相院が岩倉にある門跡寺院だからでしょう。

 門跡寺院とは、天皇家の血を引く方々が、その寺院の住職を務める格式の高い寺院を指します。現在、17の門跡寺院があります。17のうち、11の寺院が天台宗で、真言宗は5、浄土宗は1です(※ https://enman-inn.com/about/)。

 天台宗の寺院の比率が圧倒的に高いことがわかりますが、天台宗には山門派と寺門派があります。

 第3世天台座主の円仁(慈覚大師、794-864)と、第5世天台座主の円珍(智証大師、814-891)には、仏教解釈に違いがありました。やがて、その末流が対立するようになり、以下のような経緯で、2派に分かました。

 正歴4年(993)、円仁派が比叡山の円珍派の坊舎を焼き払ったので、円珍門徒は山を下り、園城寺に入って独立しました。そこで、寺門派と呼ばれるようになりました。一方、山に残った円仁派は山門派と呼ばれています。

 その寺門派の三門跡とされていたのが、円満院、聖護院、実相院です。

 「実相院はとくに室町時代から江戸時代にかけて、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました」(※ 実相院HP)と説明されています。

 寺門派では数少ない門跡寺院の中で、実相院は室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一とされていた」というのです。

 なぜ、実相院が「門跡寺院の随一」だったのでしょうか。

 実相院HPに次のような記述がありました。

 「江戸時代初期に入寺した、義尊(ぎそん)は足利義昭の孫にあたります。義尊の母、法誓院三位局は義昭の子高山(法厳院)との間に義尊(実相院門主)と、常尊(円満院門主)をもうけ、さらに後陽成天皇(一説によると後水尾天皇)との間にも 道晃親王(聖護院門主)をもうけたため、義尊は皇子同様にして後陽成天皇の寵愛を受けました」(※ 実相院HP)

 この記述からはまず、江戸時代初期、天台宗寺門派の三門跡の門主を務めたのが、法誓院三位局の息子たちだったことがわかります。次いで、なかでも実相院の門主である義尊は、時の天皇の寵愛を受けており、多大な支援を得ていたことが示されています。

 その結果、義尊が門主であった時期に、経典や古典籍の大規模な収集、書写、整理などが行われています。それが、実相院の文化的価値を高め、「室町時代から江戸時代にかけて」、「門跡寺院随一」という評価を得ていたのでしょう。

■ 義尊の貢献

 実相院門主の義尊は、天皇や将軍家と深い繋がりがありました。豊かな人脈の中で、諸学、諸芸が磨かれていく一方、義尊は実相院の文化的基盤を整備し、その確立に尽力していたのです。

 次のような記述があります。

 「両天皇、東福門院、三位局など、義尊を取り巻く江戸初期の宮廷生活との深い関わりの中で実相院の文化的基礎は一層確かなものとなりました。義尊は失われた古文書、古記録を熱心に書写したため、重要なものが多くのこされています」(※ 実相院HP)。

 さまざまな写本の中には、義尊筆と書かれたものが数多く残っているそうです。義尊自らが率先して書写し、古典籍、資料などの保存に努めていたのです。

 なにも文化の保存に努めただけではありませんでした。応仁の乱で類焼した実相院の復興に力を尽くし、その後の興隆を図ったのも義尊でした。

 そもそも、門跡寺院は代々、皇室から多大な支援を受けて栄えていました。その中でもとくに実相院が、室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一」とされていたのは、義尊が門主だったからでした。

 義尊は焼失した建物を復興し、文化財を保存し、資料の充実を図りました。

 先ほどもいいましたように、義尊は、大乗院大僧正義尋の子で、15代将軍足利義昭の孫にあたります。由緒正しい出身であったばかりか、仏教をはじめ諸学、諸芸に通じており、見識のある天皇と親密に交流できる資質を備えていました。

 とくに後水尾天皇とは親しかったようで、実相院には天皇の宸翰が残されています。


(実相院HPより。60.6×49㎝、図をクリックすると、拡大します)

 「忍」の一字です。何年に書かれたものかはわかりませんが、後水尾天皇の不満がこの一字に込められているように思えます。義尊が門主を務めた実相院だからこそ、このような内面を晒すような書が残されているのでしょう。後水尾天皇が義尊に親しみをおぼえ、気を許していたことがわかります。

 一方、義尊の書状も残されています。


(https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/319より。図をクリックすると、拡大します)

 何が書かれているのか、文字を判読することはできませんでした。説明によると、これは、女官を通して渡した、「後水尾上皇の幡枝への遊興に際し、義尊がそのもてなしを依頼されたことへの返書」だそうです(※ 上記URL)。

 このように、義尊は、天皇あるいは上皇との良好な関係を通し、経典、古典籍、王朝文化に関わる資料などを数多く保存し、整理していました。その結果、実相院の文化的価値を高めたことは注目に値します。

 ところで、実相院のご本尊は、不動明王です。

■ 不動明王

 ご本尊は、鎌倉時代に作られたとされる木造立像の不動明王です。


(※ 実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この写真ではちょっとわかりづらいですが、右目を大きく見開き、左目は瞼が垂れて半開きになっています。左右非対称の形相がなんとも恐ろしく、威圧感があります。

 これは、「天地眼」と呼ばれる様式の造形です。

 天台宗の安然(841-915)が記した「不動十九相観」には、不動明王には十九の外見上の特徴があり、この「天地眼」はその一つだと記されています。

 一見、異様な印象を与える不動明王の両眼は、閉じた左目で災いを退け、開いた右目で善を保つことを表しているといわれています。迷いの世界にいる衆生を見守り、正しい仏の道に導くための造形なのです。(※ http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=2574)

 このような造形は、おそらく、不動明王が大日如来の化身とみなされているからでしょう。

 大日如来と不動明王はまさに異体同心、ある時は柔和で慈悲深い姿、また、ある時は怖い忿怒の形相をした不動明王の姿となって、迷える衆生を導き、救済しているように思えます。

 Wikipediaでは、不動明王について、次のように説明されています。

 「密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。(中略)真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれることもある」(※ Wikipedia)

 不動明王の由来を知ると、天台宗寺門派の門跡寺院である実相院に、本尊として不動明王が置かれているのは当然といえば、当然のことでした。

 それでは、創建の経緯から、見ていくことにしましょう。

■ 実相院門跡の創建

 実相院は寛喜元年(1229)に創建されたとされていますが、実際は、それ以前から存在していたようです。

 「寺伝によると実相院は静基(1214~59)によって開基されたというが、すでに見てきたように近衛家に関連する門跡としてそれ以前より成立していた。静基は鷹司兼基(1185~1259以降)の子で、近衛基通の孫である。寛喜元年(1229)3月7日に覚朝(1159~1239)より伝法潅頂を受けた。正元元年(1259)閏10月26日に46歳で示寂した(『寺門伝記補録』巻第16、僧伝部巳 非職高僧略伝巻上、前権僧正静基伝)。なお近世期の実相院の相承系譜や『諸門跡譜』、明治時代の『愛宕郡寺院明細帳』『京都府寺誌稿』では静基を開基とすることで一致するものの、開創年については詳かにしていない。なお現在実相院における寺伝の開基年である寛喜元年(1229)は静基が伝法潅頂を受けた年である」
(※ 「実相院」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)

 実相院は近衛家に関する門跡として以前から存在していたというのです。いくつかの資料にあたってみても、静基が開いたことでは一致しているが、開基年は詳らかにされていないと書かれています。

 それでは、実相院のHPでは、どのように記述されているのでしょうか。HPを開いてみると、次のように書かれていました。

 「実相院が門跡寺院となったのは、静基(じょうき)僧正が開山された、寛喜元年(1229年)のことで、そのころは北区の紫野にありました。その後、京都御所の近くに移り、ここ岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるためであったと言われています」(※ 実相院HP)

 興味深いことに、ここでは「静基僧正が開山された」と書かれており、「創建された」とは書かれていません。

 さらに、『京都 実相院門跡』には、実相院の創建について、次のような記述があります。

 「鎌倉時代中頃には創建されていたといわれている。寺名については、寛喜元年(1229年)に鷹司兼基の子静基が園城寺に入壇し、実相院と号したことによるという。実相院が門跡寺院となったのも、この初代静基が関白近衛基道通の孫であったことによるところが大きい。そのため鎌倉時代以降、寺領も増加した」(※ 宇野日出生、「洛北岩倉と実相院門跡」、『京都 実相院門跡』、p.43、思文閣出版、2016年)

 以上を総合すると、静基が伝法潅頂を受けた寛喜元年(1229)に、その号にちなみ、実相院が門跡寺院として創設されたといえます。つまり、静基が伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て、正式な僧侶と認められた段階で、実相院は、静基の号を冠した門跡寺院として誕生しているのです。

 場所も当初は現在の岩倉ではなく、北区柴野にありました。その後、京都御所の近くに移り、さらに、応仁の乱(1467-77)が激しくなった頃、戦火を逃れるために、岩倉に移っています。

 それでは、なぜ、岩倉の地が選ばれたのでしょうか。

 先ほどもいいましたように、実相院は岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。このような呼び名からは、実相院が岩倉の地に深く根を下ろしていたことが示唆されています。

 案内図を見ると、実相院の周辺には、大雲寺、岩倉神社、岩倉具視幽棲旧宅、いわくら病院などが図示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 それぞれ、至近距離にあります。私が実際に訪れたのは、実相院と岩倉具視幽棲旧宅だけですが、調べてみると、大雲寺と実相院は相互に深く関わり合って、この地域の歴史を紡いできたことがわかりました。

 なぜ、岩倉の地が選ばれたのかを知るには、まず、実相院と大雲寺との関係を調べてみる必要があるでしょう。

■ 実相院と大雲寺

 先ほどご紹介した宇野日出生氏は、実相院と大雲寺との関係について、次のように記しています。

 「(実相院が)岩倉に移転した要因は、応仁の乱の戦火から逃れるためだった。戦場となった町中から岩倉へ難を避けざるをえなかったのである。建武三年(1336)9月3日付光厳上皇院宣案によると、実相院は南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していたことが知られる。このような理由から、実相院が岩倉に移ったと考えられるのである」(※ 前掲)

 なぜ、岩倉なのかといえば、「実相院が南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していた」からだというのです。

 また、「実相院」(http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)には、以下のように同様の記述があります。

 「それまで大雲寺は同寺中に位置した平等院が大雲寺寺務職を兼帯しており、平等院は後に円満院門跡へと昇格したが、元弘・建武年間(1331-38)に円満院門跡の園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれていた(湯本、著作年未詳)。この頃円満院門跡から円胤(?~1355)が還俗して南朝側にはしるなど、京洛を実効支配していた幕府・北朝側にとって、円満院門跡より、北朝天皇の護持僧となっていた実相院門跡増基の方が信に値することもあったため、実相院が大雲寺を管領することになったと考えられる」(※ 上記URL)

 なぜ、実相院が大雲寺の事務を管掌するようになったかといえば、幕府・北朝側にとって実相院門跡の方が信頼できると思われていたからだというのです。というのも、円満院門跡の一人が還俗して南朝側に走ったことがあるからでした。

 ここに、南北朝時代の抗争の一端を見ることができます。

 一方、大雲寺側の資料によると、次のように書かれています。

 「大雲寺中に位置した平等院は、円満院門跡となり、大雲寺寺務職を兼帯していたが、元弘・建武年間(1331~38)に園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれた(『京都府寺誌稿』)。代わって大雲寺を管領したのが実相院門跡である。実相院は建武3年(1336)9月3日に大雲寺および同寺の荘園を光厳上皇より安堵されており(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編3冊〉)、以後実相院による大雲寺への支配がはじまる」
(※ 「大雲寺」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003j.html)

 それまで大雲寺の事務を管掌していた平等院が円満門跡となって、建武年間に園城寺に移転したのに伴い、実相院が大雲寺を管領するようになったという経緯は、先ほどの記述と同様です。

 興味深いのは、光厳上皇から「大雲寺および同寺の荘園」を「安堵(幕府などが土地の所有権などを認める)」されたと記述されていることでした。

 1336年9月3日、光厳上皇の命によって、実相院は大雲寺を管掌するばかりか、同寺が所有していた荘園までも所有し管理することになったのです。

 実は、その4カ月ほど前の1336年5月、足利尊氏は光厳天皇を奉じて上京しています。そして、光厳天皇の弟を即位させて光明天皇とし、北朝を立てていました。一方、後醍醐天皇は12月に吉野に逃れ、南朝を誕生させています。

 幕府の後ろ盾を得た光厳上皇の力が強くなっていました。

 ちょうどそのころ、実相院が大雲寺を管掌し、その所有地までも所有することになっていたのです。南北朝の対立が鮮明になっており、北朝側寺院として権勢を高め、支配系統を強化する必要がありました。

 1336年に実相院が大雲寺よりも優位に立ち、明らかな支配関係が発生していますが、その背後には幕府・北朝の意向があったといっていいでしょう。

■ 実相院による大雲寺支配

 南北朝の誕生とともに、大雲寺は実相院による支配を受け始めました。

 大雲寺の年表には、次のような記述があります。

 「実相院が今出川小川から応仁の乱の戦火を避けて大雲寺(成金剛院跡地)へ一時避難し以後今日に至る。実相院による大雲寺統治が長く続く」(※ 「大雲寺」年表)

 大雲寺を管掌していたのが縁で、実相院は岩倉の地に移ってきました。応仁の乱の戦火を逃れるため、というのがその理由でしたが、その後、管掌を介して支配力を強めていきました。

 一方、大雲寺側は実相院に対し、大きな不満を抱くようになっていました。
 
 ところが、文亀2年(1502)8月6日、実相院門跡義忠(1479~1502)が将軍足利義澄の命によって殺害されると、実相院領は収公(幕府に没収)され、8月9日、将軍夫人の日野氏領となりました。

 その結果、大雲寺に対する実相院門跡の支配を強めようとする動きに陰りがみえ、「大雲寺衆徒は一時的に大雲寺内の自治勢力回復に成功」しています(※「大雲寺」年表)。

 義忠は将軍継承者の一人であったため、将軍職を奪われることを恐れた義澄の命によって殺害されたといわれています。門主が殺害されたばかりか、実相院領まで収公されてしまったので、一時、実相院の勢力は落ちてしまいました。

 政権争いの厳しさを感じさせられますが、これは、実相院から実効支配されていた大雲寺衆徒には朗報だったのかもしれません。

 宇野氏は、「大雲寺は中世以降、実相院の支配管理となってはいたが、大雲寺衆徒が実相院の下知に応じなかったこともたびたびあった」と記しています(※ 前掲)。

 大雲寺はその後もさまざまな抗争に巻き込まれ、何度も焼き討ちにされました。元亀4年(1573)には明智光秀に攻められ、灰塵に帰したほどですが、その都度、再興されています。

■ 義尊が再興した大雲寺

 大雲寺がようやく安定したのは江戸時代、足利義尊が大雲寺を再興してからでした。寛永18年(1641)の大雲寺年表には次のように記されています。

 「義尊(足利15代義昭の孫)旧伏見城の遺材を充てて大雲寺本堂を再興する。本堂は入母屋造桟瓦葺で桁行5間、梁間5間の建物である。棟札に寛永18年(1641)の年記あり。本堂の四方に縁をめぐらせ、内部は前方2間を外陣とし、引違網入格子戸で結界して奥を方3間の内陣と脇陣にし、伝統的な密教寺院本堂(天台様式)の平面形式を踏襲」(※ 大雲寺年表)

 前にも述べましたが、義尊は実相院を復興させていました。その上、大雲寺も再興させていたのです。見識を持つ人物が資金や資材を動かせる力を持った時、数多くの文化財が失われることなく、保存されることが示されています。

 明暦元年(1655)には大雲寺鐘楼が建立されています。

 安永8年(1779)頃の大雲寺は次のようになっていました。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」、図をクリックすると、拡大します)

 大雲寺の境内の部分をクローズアップしてみましょう。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」部分。図をクリックすると、拡大します)

 本堂の右側に見えるのが、鐘楼です。その右に八所神社と書かれた建物が見えますが、
これが岩倉神社です。

 実は、この岩倉神社が大雲寺のパワースポットなのです。

■ パワースポットとしての岩倉神社

 大雲寺の創建は971年4月2日で、年表には、次のように書かれています。

 「円融天皇が比叡山延暦寺講堂落慶法要の砌、当山に霊雲を眺められ日野中納言藤原文範(ふみのり)を視察に遣わす。文範・真覚(藤原佐里)を開祖として大雲寺創建。佐里卿「大雲寺」の掲額を書く」(※ 大雲寺HP)

 比叡山延暦寺で法会が行われた際、五色の霊雲が立ち昇りました。それを見た天皇が、日野中納言文範を視察させたところ、霊雲の谷(岩倉)に辿り着き、出会った老尼から、その地が観音浄土の地と知らされました。伽藍建立には恰好の土地だったことがわかったというのです。

 そこで、視察した文範と真覚上人(藤原佐里)を開祖とし、その地に大雲寺が創建されました。

 大雲寺を建立するにあたっては、鎮守社として、境内に石座(いわくら)神社を移しています。岩倉の産土神を大雲寺の鎮守のために移動させたのです。

 古来、日本には、巨大な岩石を“磐座(いわくら)”と称して祭壇として使用したり、巨岩そのものを崇拝する習慣がありました。

 たとえば、平安京を造営する際、桓武天皇は、京都の東西南北にある“磐座(いわくら)”を掘り出し、その下に一切経を埋めています。
(※ https://japanmystery.com/z_miyako/rakuhoku/iwakura.html)

 一切経とは仏典を集成したもので、大蔵経ともいいます。その経典を霊験あらたかな磐座(いわくら)に納めることによって、京都を守護させるというのが桓武天皇の計略でした。

 北岩倉、東岩倉、西岩倉、南岩倉など、東西南北に四つの岩倉が設置されたのは、風水思想の四神相応に基づいたものでした。日本古代の磐座信仰を踏まえ、風水思想を取り入れ、桓武天皇は京都に安寧をもたらすシステムを築いていたのです。

 971年に大雲寺が創建されると早々に、岩倉神社が境内に移されています。古代の磐座信仰を踏まえ、大雲寺の安寧を願って移設されたのです。

 平安京は、さまざまな防衛ラインが敷かれた都市でした。陰陽道に基づいた仕掛けがあるかと思えば、仏教の法力によって鎮護を行う仕掛けもありました。その一つが、“四つの岩倉”と呼ばれるパワースポットでした。

 大雲寺には創建とともに、パワースポットとしての霊験あらたかな岩倉神社が置かれていました。古代天皇制の名残りといえます。

 その古代天皇制に揺らぎがみられたのが、実は、鎌倉時代でした。

■ 両統迭立

 鎌倉時代後半、皇統が2つの家系に分裂し、両統迭立の状態にありました。両統迭立とはそれぞれの家系から交互に君主を即位させていくという仕組みです。

 なぜ、「両統迭立」という仕組みが生まれたのか、その経緯をみていくことにしましょう。

 後嵯峨天皇(1220-1272)は、後深草天皇がわずか4歳の時に譲位し、上皇となって院政を敷きました。ところが、後嵯峨上皇は、その後、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にし、治天の君(天皇家の家督者として政務の実験を握るもの)を定めないまま崩御しました。

 それが、その後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなりました。

 鎌倉幕府は、後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱(1221)以降,皇室を監視し、皇位継承に干渉してきました。幕府による朝廷掌握は徹底し、後嵯峨上皇による院政の頃は、ほぼ幕府の統制下にあったといわれています。

 膠着状態に陥っていた皇位継承問題の打開を図ったのは、幕府でした。幕府が、両統交互に即位するという案(両統迭立)を出し,両統の間に協定が成立したのです。 建治元年(1275)のことでした。

 天皇家の系図を見ると、後深草天皇(89代)から亀山天皇(90代)、後宇多天皇(91代)から伏見天皇(92代)といった具合に二つの皇統から交互に君主が出ています。


(宮内庁HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ても、後宇多天皇(91代)から後醍醐天皇(96代)までの6代は、両統から交互に即位していたことがわかります。ところが、後醍醐天皇の代で、この仕組みが機能しなくなり、南朝と北朝に分かれてしまいました。

 というのも、後醍醐天皇が自分の息子に皇位を継承させようとし、両統迭位を求める幕府を打倒しようとしたからでした。計画は事前に幕府に発覚し、後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいます。

 ところが、後醍醐天皇は早々に隠岐から脱出し、幕府打倒の綸旨を諸国に発布します。それに応じた足利尊氏や新田義貞などの功労で、鎌倉幕府は滅亡しました。1333年のことです。

 その翌年(1334年)、後醍醐天皇は京都に帰還して年号を建武と改元し、天皇中心の政治体制を復活させようとしました。いわゆる「建武の新政」です。

 後醍醐天皇は天皇を中心とした社会に戻そうとしたのですが、元弘の乱後の混乱を収拾することができず、また、公家を優遇した政策が武士たちの反感を招きました。その結果、建武3年(1336)、足利尊氏との戦いに敗れ、政権は崩壊しました。

 後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立て、そこで天皇を中心とする政権を樹立しました。一方、武家側に依存している北朝は、足利尊氏は光厳天皇の後、光明天皇を立てました。

 以上が、「両統迭立」から南北朝誕生に至る経緯です。

 実相院が大雲寺を管掌するようになったのは、ちょうどこの頃のことでした。社会が二分され、北朝と南朝の対立が先鋭化していた時期だったのです。

 武士勢力が台頭し、古代天皇制に消滅に向かっていた時期でもありました。

■ 武士勢力の台頭と古代天皇制の崩壊

 光厳天皇は北朝1代目の天皇で、光明天皇は2代目でした。以後、北朝は5代まで続き、北朝6代の持明院統の後小松天皇(100代)からは北朝系で統一されていきます。これで、ようやく南北朝が統一され、皇統が一つになったのです。

 この時も解決に向けて動いたのは幕府でした。

 明徳3年(1392)、足利義満は、南朝第4代天皇・後亀山天皇との間で、「明徳の和平」を締結しました。それに従って、 後亀山天皇は京都へ赴き、大覚寺で神器を後小松天皇に渡しました。南朝が解消される形で、南北朝合一は成立したのです。

 こうして約56年に亘った南北朝の分裂は終結しました。

 この時、南朝に任官していた公家は、一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落していきました。また、南朝には、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちが集まっていましたが、後醍醐天皇が公家を優遇した政策を取ったので、彼等は失望を募らせ、去っていきました。

 南北朝の時代は、古代天皇制が終焉していく過程であり、その一方で、支配階級としての武士の基盤が確立されていった過程だったと捉えることができるでしょう。

 後醍醐天皇は、天皇が絶対的権力を持つ古代天皇制を復活させようとしていました。ところが、政治制度としての天皇制はすでに、摂政から院政へと変容し、天皇は事実上、最高の支配者ではなくなっていました。

 もちろん、律令制はもはや機能しなくなっていました。荘園を所有するのは貴族や寺社だけではなく、武士も参入してきており、中には大土地所有者になっている者もいました。土地所有の公有制は解体され、私有制に移行していたのです。

 さらに、荘園を侵略する者が絶えなくなっていました。それを封ずるため、源頼朝は、律令制の枠組みを壊すことなく、守護・地頭制を組み込み、全国の治安警察権、土地管理権、徴税権などを掌握したのです。

 後醍醐天皇は鎌倉時代末期、武家政権への抵抗を試み、古代天皇制を復活させようとしましたが、わずか2年半でその試みは終了しました。社会構造が変化し、武家政権への移行は避けられなかったのです。

 今回、訪れた実相院は、北朝側に立っていました。だからこそ、室町時代から江戸時代にかけて、隆盛を誇ることができたといえるでしょう。(2023/1/28 香取淳子)

昭和レトロな玉川温泉は体験型ミュージアムか?

■玉川温泉

 2022年11月4日、埼玉県嵐山史跡博物館に出かけた帰りに、埼玉県比企郡ときがわ町にある玉川温泉に立ち寄りました。たまたま手にしたチラシに、「お肌つるつるの美肌の湯」と書かれていたのを見て、ふと、訪れてみる気になったのです。

こちら → https://tamagawa-onsen.com/spa/

 これを見ると、玉川温泉は、地下1700メートルの秩父古生層から湧出するアルカリ性の単純泉で、ph値は10と書かれています。

 調べてみると、温泉はph値が高いほどアルカリ性、小さいほど酸性という区分されており、中間値はph6以上7.5未満で、日本の温泉で最も多いのはこの中性の温泉だそうです。

 玉川温泉はph値が10なので、相当アルカリ性の高い泉質だということがわかります。アルカリ性の温泉は皮脂を落とし、角質を柔らかくする効果があるので、「お肌つるつる」になるのでしょう。

 玉川温泉に就いての情報を確認し、カーナビの案内に従って、ときがわ町に向かいました。次第に人家が少なくなっていく山の中で、カーナビが案内終了を告げました。車が何台か駐車している場所が近くに見えたので、おそらく、ここが玉川温泉なのでしょう。ところが、温泉があるような気配はどこにもありません。

 下車して少し歩くと、古民家のような建物が見えてきました。

■古民家かと見まがう玉川温泉

 どう見ても、高齢者が住んでいるとしか思えないような建物です。家の前には、廃棄物のような生活用品が放置されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 いまではほとんど見かけることもない色褪せた郵便ポスト、小さな三輪自動車、そして、手前左には錆びついた自転車が置かれています。なんとも奇妙な取り合わせです。置いてあるものがいずれも、時代がかっているのです。

 一瞬、場所を間違えたかと思いました。ところが、郵便ポストの背後に、「玉川温泉」の看板が見えます。やはり、ここが玉川温泉のようです。

 確認するため、看板に近づこうとすると、その前に、まるで行く手を阻むかのように、古びたタイル張りの、洗い場のようなものが置かれていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 高さからいって、どう見ても、洗い場ではありえません。中を覗き込むと、鎖のついた栓もついています。どうやらお風呂のようです。こんなに小さなお風呂があるのかと驚くほどの小ささですが、昔はこれで足りていたのでしょう。

 古ぼけたタイル仕様のお風呂のすぐ近くに、「玉川温泉」の看板が掛けられていました。こちらは、赤地に白で書かれた「玉川温泉」の文字が鮮明で、印象的でした。

 近づいて見ると、看板だと思っていたものが、実は、垂れ幕でした。ロールスクリーンのように、下部にウエイトバーがついており、風が吹いても巻き上がらないように固定されています。これなら、遠くから見て、看板だと思ってしまったのも無理はありません。

 よく見ると、「玉川温泉」の脇に、小さな文字で、「昭和レトロな温泉銭湯」とキャッチコピーが書かれています。

 このキャッチコピーを読んでようやく、この温泉の位置づけがわかりました。廃棄物にしか見えなかった古臭い生活用品は、なんとこの温泉をアピールするためのオブジェだったのです。

■昭和レトロな温泉

 放置されているようにみえた昭和のオブジェは、見たところ、昭和30年代のモノのように見えます。日本がとりあえず戦後復興を終え、ようやく経済成長期に入った頃、人々の生活を支えてきたさまざまな生活用品です。

 それが、今、こんな山の中の温泉をアピールするための道具として使われているのです。改めて、「昭和レトロな温泉銭湯」の文字が気になってきました。

 奥の方に、「玉川温泉」と書かれた提灯が見えます。

 その提灯の奥には、さきほど見たのとはまた別の小さな三輪自動車が置かれ、背後に「アサヒビール」と「ニッポンビール」の看板が見えます。看板でありながら、購買者の気持ちを煽ろうとするところがなく、ただ、白い鉄の板に赤い文字だけが書かれています。実に、素朴です。

 そういえば、ここに置かれているモノ、一つ一つが素朴で、飾り気がなく、質素でした。

 商品名を書いただけの看板、ようやく一人が浸かれるだけの小さなお風呂、おもちゃのような三輪自動車、いずれも生活に必要な機能だけを求め、最低限の仕様で製品化されていました。慎ましく、必死に生きていた当時の人々の生活の一端を見たような気がしました。

 実需主導でモノが流通していた頃の質実な生活に、気持ちが動かされました。戦後の復興期から経済成長期にかけて、これらのモノが、どれほど多くの人々の生活を支え、未来への希望をかき立てていたのでしょうか。

 未来への不安を払拭できなくなっている令和の今、もはや昭和を振り返る手掛かりすら失ってしまっています。昭和レトロをアピールする玉川温泉にやってきたのですから、せっかくの機会を無駄にせず、昭和30年代にタイムスリップし、当時を振り返ってみることしたいと思います。

■一世を風靡したミゼット

 道路側から玄関を眺めると、また別の光景が見えてきました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 画面左側に、手押しポンプの井戸が見えます。水道が普及するまで、人々はこのようにして井戸から水をくみ出していたのです。その傍らに小さなタイル張りの洗い場が見えます。人々はここでしゃがみ込んで洗い物をし、炊事の支度をしていたのでしょう。

 ここからは、「フクニチ スポーツ」や「毎日新聞」の看板も見えます。

 画面中央に、最初に見たのとはまた別の三輪自動車が置かれています。特徴のある形はおそらく、ミゼットでしょう。子どもの頃、テレビCMでよく見ていた記憶があります。

 懐かしい思いに駆られ、スマホで調べてみると、確かに、このおもちゃのような車はダイハツ・ミゼットでした。1957年8月1日に販売開始されたダイハツのミゼットDKA型だったのです。

 初代ミゼットをこんなところで見かけるとは思いもしなかったので、驚きました。

 もっと近づいて、見てみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 写真を見てわかるように、前面に風防こそ装着されていますが、屋根と背面は幌仕立てです。ドアも付いておらず、一人しか乗れません。今から65年も前の車ですが、あまりにも簡単な造りなので、驚いてしまいました。

 車としては最低限の仕様です。それでも、リヤカーよりも速く、人の労力を軽減できるので重宝され、日常の運搬車として活用されていました。

 このダイハツ・ミゼットのテレビCMに起用されていたのが、当時、お笑い番組で人気のあった大村崑です。「ささやん」と呼ばれていた佐々十郎とコンビで、ミゼットを紹介していたのを、今でもすぐに思い浮かべることができます。

 大村崑のとぼけた風貌と所作が面白く、毎回、飽きもせず真剣に見ていたことを思い出します。子どもたちの中にはそのセリフと振りを真似するものもいて、人気はうなぎのぼりでした。大村崑は、ミゼットのCMには最適のお笑いタレントでした。

 愛らしいデザインのミゼットもまた、人々に愛され、小回りを利かせ、街中で生活物資を運んで走り回っていました。是非とも、当時を振り返ってみたいと思って、ユーチューブを検索してみると、当時のCMを見つけることができました。

 ちょっと、見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/bEBmAGdAhHk
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 学生服を着た大村崑と佐々十郎が、掛け合い漫才風に、ミゼットを紹介しています。「一番小さい車」「一番小回りの利く車」「一番安全な車」「一番安い車」「現代の車」と佐々十郎が立て続けにミゼットの効能を述べると、その都度、大村崑が可愛らしい振りをつけて、「ミゼット」と呼応していきます。

 止めどなく「ミゼット」と連呼し続ける大村崑を打とうとした佐々十郎を、大村崑は見事にかわして空振りにさせ、最後は大村崑が佐々十郎の額を打つといった展開で終了します。二人の持ち味を活かしたコント形式のCMでした。

 続くCMでは、漫才師の芦屋小雁が単独で登場し、ミゼットに2人乗りが出来たと告げています。小雁もまた当時、人気のお笑い芸人でした。背後に男女二人が乗ったミゼットが見え、運転席から男性がミゼットの改良点を述べています。

こちら → https://youtu.be/9T84GUSGofs
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 小雁がしきりに、「二人乗りの丸ハンドル」、「ダイハツ生まれのアメリカ育ち」とアピールしています。実は、ダイハツで開発されたミゼットが、アメリカ輸出向けに改良されたのが、このミゼットMPでした。アメリカでも街中での小口輸送向けにミゼットの需要が高まっていたのです。

 そのミゼットMPが日本向けに右ハンドル仕様で改良したのがMP2で、その後、鋼板製のクローズドリーフになったのがMP5型です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ミゼットの発展経緯を見てくると、玉川温泉の入り口で見た三輪自動車は、1962年12月に販売開始されたミゼットMP5型だったことがわかります。

 改めて、最初に見た三輪自動車を見てみると、ライトが二つ、サイドミラー、ワイパーが装着され、ドアもついています。DKA型よりもはるかに進歩していることがわかります。調べてみると、形状からいえば、ここに置かれているのは、1969年8月に販売開始されたMP5改良型でした。

 ミゼットは当時、軽自動車の分野で市場を席捲していました。やがて、3輪から4輪への流れに押されるようになり、1971年12月には最後の受注分の生産を完了しています。そして、1972年1月31日には販売を終了しました。経済成長時、中小零細企業の躍進を牽引した功績を残し、ミゼットは幕を閉じたのです。

 それでは、玉川温泉の中に入ってみましょう。

■シンガー製足踏みミシン

 玄関を入り、フロントに向かう靴脱ぎ場に置かれていたのが、足踏みミシンです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 足踏み台にはSINGERと刻印されています。母がこのような足踏みミシンを踏んで、さまざまな洋服を作ってくれていたことを思い出します。

 シンガー社製のミシンはすでに明治40年頃、日本に輸入され、販売されていたようです。軍服を大量生産する必要に迫られ、ミシンが大量に輸入されていたといわれています。

こちら →
(※ https://nihonvogue.com/article/detail.html?id=191&c=sewingより。図をクリックすると、拡大します)

 この目録には、「家庭及職業用シンガーミシン目録」と書かれています。家族の洋服を作る必要に迫られ、業務用ばかりか家庭用ミシンも輸入されていたことがわかります。近代化に伴い、着物から洋服への移行期を迎えていたからでしょう。

 その後、戦後の復興期を経て、産業化が進み、昭和30年代になると、多数のホワイトカラーや技術者が生み出されていきました。それに合わせて、核家族化が進み、家庭を守る存在として主婦が重要な役割を担うようになっていきました。

 家事、育児、家族の健康管理、衣服管理、家計管理など、企業戦士としての夫を支えるための後方支援として、主婦は、内なる働きを求められるようになっていったのです。家庭のさまざまな用務を果たすための情報基盤となったのが、『主婦の友』をはじめとする主婦向けの雑誌でした。

 家族の衣服に関しても、主婦は雑誌を手掛かりに、自分でミシンを踏み、手作りをしていたのです。

 母は、『主婦の友』を定期購読していましたが、それは付録に型紙がついていたからでした。付録の中から気に入った型紙を選び、子どもたちの服を作り、自分の服も作っていたのです。

 たとえば、1954年3月号の『主婦の友』の付録はこのようなものでした。

こちら →

 表紙に若尾文子と松島トモ子が起用され、大きく「実物大型紙つき 通勤通学服新型集」とタイトルが付けられています。これを見ると、母が付録の洋服特集を見せてくれて、どれがいいと尋ね、私が望んだ服を作ってくれていたことを懐かしく思い出します。

 足踏みミシンを見ると、カタカタという音とともに、当時の母の姿がまぶたに浮かびます。

 さて、ミシンに気を取られてしまっていましたが、背後の壁に、福助のロゴの入った看板が掲げられています。

 福助といえば、明治、大正、昭和と足袋メーカーとして名を馳せた会社です。子どもの頃、この看板をいろんな場所で見かけた記憶があります。

■福助の円形看板

 この福助の看板は、円形のホーロー製の看板です。かつて戸外に掛けられていたのでしょう。所々、錆びが見られます。先ほどの写真から看板部分を拡大してみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 円周の内側に沿って、上部に「名實共ニ日本一」、下部に「福助足袋」と、いずれも右から左に手書き文字が書かれているので、いかにも年代物といった感じがします。

 この福助人形は、子どもの頃、いろんな所でよく見かけました。今回、ずいぶん久しぶりに見たのですが、福々しい顔と丁寧な所作は懐かしく、今見ても、気持ちが和みます。時代を超え、社会を超えて、ヒトの気持ちを和ませる何かがあるのでしょう。

 実は、この福助人形は、創業者親子のミッションを込めて作られていました。

 1900年(明治33)、彼等はこの福助人形を新たに商標登録をするとともに、社名まで「福助」に変更したという経緯がありました。

 社史によると、創業者の辻本福松の息子、豊三郎が伊勢神宮にお参りに行った際、近くの古道具屋でこの福助人形に目を止め、買い求めました。福松親子はこの人形をベースに、人間の徳を表す「仁・義・礼・智・信」のイメージを加えたうえに、頭を低くし、手をついて礼を尽くすポーズの福助人形を作り、1900年(明治33)、新たに商標登録をし、併せて、社名を福助に一新して事業に打ち込んだそうです。
(※ https://www.fukuske.co.jp/contents/history/)

 その後、洋風化が進み、人々は着物を着る習慣を失っていきました。福助は今、足袋メーカーではなく、ストッキングなどのメーカーとして事業を継続しています。人間の徳を重視し、それをミッションにして事業展開してきたからでしょうか、事業を継続することができているのです。

 社史から、福助が1895年(明治28)、日本で初めて足袋縫い鉄輪ミシンを完成させたことを知りました。機械化によって製品の品質を向上させたのです。

 そればかりではありません。日本発の足袋縫いミシンの特許権を得た1895年、「手縫いにまさる機械縫いの足袋」という新聞1ページ大の看板を市内に掲げました。その後、広告活動に力を入れ、大正時代になると、画家に依頼し、美人画を使った広告も制作しています。

こちら →
(※ https://www.fukuske.co.jp/contents/history/より。図をクリックすると、拡大します)

 これは、画家・北野恒富による美人画を使ったポスターです。右上に福助のロゴが入り、背景には、「将来このくらいの大工場を造りたい」という理想の工場が描かれています。

 福助を創業した辻本福松がいかに進取の気性に富み、製品の質を向上させることに努力を惜しまなかったか、製品を販売するための広告活動に力を入れていたかがわかります。

 それでは、そろそろ温泉に戻りましょう。

■昭和レトロなミュージアム

 玉川温泉のお食事処の一角には、往年のポスターが何枚も掛けられていました。ここでも、もはや振り返ることのできない当時の社会文化の一端を味わうことができます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 もちろん、お食事処も当時を偲ばせる設えになっていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 まるでミュージアムのようなレトロな玉川温泉の泉質はまた格別でした。実際、温泉に浸かってしばらくすると、肌がつるつるしてきたような気がしてきたのです。

 お湯は熱すぎず、刺激も少なく、いつまでも浸かっていられるまろやかさと柔らかさがありました。レトロな気分になっていたこともあるのでしょうが、なんともいえない安らぎを感じさせられました。

 眼を閉じ、しばらくゆっくりと浸かっていると、いつしか雑念が払われ、気持ちがのびやかに広がっていきます。日々の煩わしさから解き放たれ、頭の中が次第に浄化されていくような気持ちになりました。

 やがて全身がほぐれ、溜まっていた疲れがすっかり取れていきます。心身ともにストレスのない状況になっていきました。日頃、肩こりに悩まされていましたが、肩の凝りや疲れがすっかり取れました。美肌効果というより、疲労回復効果を感じました。

 一般に、単純温泉には、「疲労回復、神経痛、筋肉痛、肩こり」などの効能があるようです。しかも、玉川温泉はph10で、アルカリ性の泉質でした。だからこそ、疲れが取れただけではなく、肌もつるつるになったような気分になったのでしょう。

 それにしても、玉川温泉は一風変わった温泉でした。設えが普通の温泉とは全く異なっており、外観も内観もまるで昭和30年代の生活に戻ったような気分にさせられます。体験型ミュージアムといってもいいのかもしれません。(2022/11/30 香取淳子)

Henry Lauは現代版モーツァルトか?⑤ 音を知って、音楽を生む

 ユーチューブを見ていて、興味深い動画に出会いました。Henry Lauが一人で、人のいない建設現場のような広い空間で、ドラム缶やピアノを叩いている姿です。クラシック音楽の素養があり、K-POPでスターとして活躍してきた彼が、なぜ、そんなことをしているのか、興味があったので、見てみました。

■音をチェックする

●「Believer」

 殺風景な建設現場のような広い空間で、Henryが一人、ドラム缶をバチで叩き、電気ドリルの電源を入れて音を出しています。ピアノの鍵盤を叩くこともあれば、フタを叩いてみたり、音の響きや反応をチェックしたりしています。

こちら → https://youtu.be/EU_JGT55vN0
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 とくに興味深かったのが、楽器ではない、さまざまなものの音をチェックしていることでした。建設現場のようなところで演奏するのはありうることだと思いますが、そこらへんにあるさまざまなものを叩いて音を出して見ているというのが、意外でした。

 ところが、Henryは真剣な表情でそれぞれの音を吟味していました。

 ドラム缶と言わず、板切れといわず、さまざまなものの傍にはマイクが設置されており、音が収録されています。これらの音がやがて、ミックスされ、音楽として組み立てられていくのでしょう。

 この動画では、「Believer」というタイトルの曲が歌われていました。この曲が始まる前に、Henryはさまざまな音を検証していたのです。

 興味深いのは、電気ドリルの場合でした。電源を入れても、それほど大きな音がでるわけではないので、マイクの傍で音を出し、収録しています。


(上記ユーチューブ動画より)

 すぐ傍にマイクが映っています。

 真剣に取り組むHenryの姿を見て、ちょっと意外でしたが、音楽の原点に触れたような気がしましたし、創作の原点を見たような気がしました。

 音楽活動は音作りから始まるのでしょう。音を作るには、それぞれの音の特性をしらなければなりません。Henryはそれを建設現場でやっていたのです。日常生活の中にはない音を発見することができるでしょう。

 さらに、似たような試みの動画がないかと探してみました。

 すると、韓国のバラエティ番組の中で、Henryが自分のスタジオでの音作りの一端を紹介している動画がありました。

●「Bad Guy」

 ここでは、さまざまな生活音をチェックしています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=hQvUmr7-Nkw
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 ガラスコップを箸で叩いてみたり、紙をくしゃくしゃにして音をだしてみたり、椅子にゴミ箱をぶつけて音を出し、その質やリズム感などをチェックしています。

 たとえば、ガラスのコップを金属製の箸で叩いて出した音に、紙をくしゃくしゃにして出た音を重ね合わせると、思いもかけない音響が生まれます。


(上記ユーチューブ動画より)

 生活音を音楽に組み込むなど、考えてみたこともありませんでした。この動画を見て、多様な音を知ることこそが、音楽活動のスタート地点なのかもしれないと思ったほどです。

 スタジオには、どこにでもマイクが置かれており、出した音が逐一、収録されています。それらがデータとして取り込まれ、それぞれの音が分析され、やがては、音楽として組み立てられていくのでしょう。Henryが取り組んでいることは、先駆者ならではの試みであり、新しい音の開拓なのだと思いました。

 ここでは、「Bad Guy」という曲が歌われていました。

 生活音だけではありません。人が指を鳴らしたり、手拍子を採ったりするのも、一種の音楽活動といえるのでしょう。

■音、音楽による一体感

 戸外での演奏でも、Henryのグループは、楽器以外の音、とくに、人が手指を使って出す音を活用していました。

●「Dance Monkey」

 たとえば、指鳴らしです。親指と中指で音を出す、いわゆるパッチンを使って、音楽に新鮮味を加えていました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=q8BrbdPv2D8
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 指鳴らしでイントロを行い、Henryが歌い始めると、観客も同じように指を鳴らし、同じようなパフォーマンスをしながら、音楽に参加していました。もちろん、お得意のヴァイオリンは披露されます。

 楽器以外の音を音楽に組み込むことによって、これまでわからなかった音の属性に気づかせてくれます。ここで歌われていたのは、「Dance Monkey」でした。

 素朴な音を組み込んだことで、観客の気持ちが緩んだのでしょうか、プレイヤーに倣って、リズムを取り、ちょっとしたパフォーマンスをはじめていました。観客とプレイヤーが一体となって、音楽を楽しんでいたのです。動画を見ているだけで、観客との一体感が感じられます。

●「Savage Love」

 やはり、戸外での演奏シーンです。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=HFeQWTvA8PI
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 ここでは、電子オルガン、ドラム、ギター、ヴァイオリンなどの楽器はもちろん、楽器以外の音としては、手拍子が使われていました。これもごく自然に観客が手拍子をはじめているのです。ドラム担当のスタッフはなんとバチで叩くのではなく、手で叩き、原始的な音を出していました。これも新しい音の発見といえるでしょう。

 観客も笑みを浮かべて、手拍子を合わせ、パフォーマンスを共鳴させて、プレイヤーと一体化した時間が創出されていました。

 観客との一体化といえば、海外での演奏の方が向いているのかもしれません。

●「Havana」

 イタリアでの路上演奏の動画がありました。

こちら →
https://youtu.be/sAtzFsnVjgU?list=RDGMEMQ1dJ7wXfLlqCjwV0xfSNbAVMsAtzFsnVjgU
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 Henryはここでは、電子ピアノやヴァイオリンを弾いていました。曲のイントロ部分を盛り上げて、女性ボーカルがしっとりとした声で歌い始めると、彼らを取り巻いて見ていた観客は老いも若きもみな、顔をほころばせ、身体をゆすっていました。プレイヤーと一体化して手拍子をし、腰を振り、言葉は通じなくても、一体化した時間を楽しんでいたのです。

 とても幸せな時間が流れているように見えました。音楽が持つ力でしょう。

 歌われていたのは「Havana」でした。女性ボーカル2人のハーモニーも素晴らしいものでした。

■Henry、ポッピングとヴァイオリンはどう組み合わせるのか

 珍しい動画を見つけました。Henryが自宅でパフォーマンスとヴァイオリンの組み合わせを解説している動画です。とても興味深いので、ご紹介しましょう。5分8秒の動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=FF7TZDPjRIc
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 ポッピングだけでも大変なのに、それをヴァイオリン演奏と組み合わせるのです。タイミングをどう計り、見せ場をどう作るか緻密に考えなければ成立しないでしょう。

 Henryはヴァイオリンを演奏しては、ポッピングを実演し、この二つの質の違う活動をどのようにつなぎ、どのように見せ場をつくるのかを解説していました。


(上記ユーチューブ動画より)

 これを見て、音楽活動とダンスは、実は、親和性が高いのではないかという気がしました。音楽を聴いて、自然に身体を揺らしたり、手拍子を取ったり、指鳴らしをしてしまうのは、同じような神経が刺激されるからではないかと思ったのです。

 イタリアの街頭演奏でわかったように、言葉が違っていて、意味がわからなくても、観客は歌を聞いて、ハミングし、演奏を聞いて、身体をゆすっていました。

 今回、Henryに関する一連の動画を見て、身体性の復権というか、身体性への回帰というか、言葉や数字以前の表現への再評価が起こりつつあるのではないかと思いました。ひょっとしたら、それは、言葉や数字に拘束されることへの反発からきているかもしれませんが・・・。(2022/8/31 香取淳子)

2022年参議院選挙② 個とコミュニティが支える本格政党の誕生

■2022年参議院選挙の結果

 2022年7月10日午後8時から開票速報が始まりました。比較的早く、比例1議席の当確がでたのですが、その後、なかなか当確がでません。せめて2議席ぐらいは・・・という願いも空しく、結局、1議席の獲得にとどまりました。

 ユーチューブで、選挙戦終盤の勢いを見ていると、ひょっとしたら、5議席獲得するのではないかと思っていたほどですが、現実はそれほど甘くありませんでした。

 比例選挙区の候補者5人の得票数を見ると、神谷宗幣氏が159433票、武田邦彦氏が128257票、松田学氏が73672票、吉野敏明氏が25463票、赤尾由美氏が11344票でした(※ https://www.jiji.com/jc/2022san?l=hirei_094)。

こちら →
(参政党公式ツィッターより。図をクリックすると、拡大します)

 これに、政党名だけが記入された票数を合わせると、参政党は総計176万3429票を獲得しました。比例区の得票率は3.3%になります。

 獲得議席は1つでも、得票率が2%を超えたので、参政党は政党要件を満たすことができました。

 政党交付金の交付の対象となる政党は、「政治資金規正法」上の政治団体であって、(1) 所属国会議員が5人以上、あるいは、(2) 所属国会議員が1人以上、かつ、直近の国政選挙における全国を通じた得票率が2%以上のものと定められています。
(※ https://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seitoujoseihou/seitoujoseihou02.html

 初めて国政選挙に打って出た参政党が、国政政党として認められ、政党交付金を得ることができる条件を満たしたのです。これでようやく、党勢を拡大し、公約を果たしていくための準備が整ったことになります。

 もっとも、私には、この結果は少々、意外でした。

 選挙期間中、私は、全国各地で、数多くの有権者が参政党候補者の街頭演説に集まり、感涙して拍手喝采する姿をユーチューブで見ていました。それだけに、5議席は簡単に獲得できるのではないかと思っていたのです。

 たとえば、投票日前日、芝公園で行われたマイク納めの街頭演説には、1万500人もの有権者が集結しました。

■1万500人が集まった芝公園

 この街頭演説のフィナーレを、360度カメラで撮影した1分28秒の動画があります。見ていただくことにしましょう。

こちら → https://youtu.be/oCx9ayhZuqA
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 神谷氏の呼びかけに応え、有権者たちが気持ちを合わせて、「1、2、参政党!」とコールする声が、いつまでも夜空に響いています。

 気迫あふれる演説に、どれだけ多くの有権者が歓声をあげ、心から拍手喝采していたことか・・・。ニュース映像で見る限り、これだけのフィーバーぶりを他の政党では見ることはありませんでした。

 日本を取り戻そうという神谷氏の熱い思いが、有権者の気持ちを捉え、各地を熱狂の渦に巻き込んでいました。候補者と有権者がいっとき、心を合わせ、誇れる日本を取り戻そうという思いに駆られ、気持ちを一つにしていたのです。

 何も最終日の芝公園だけではありません。参政党を取り巻くこのような光景は、全国各地で見られました。その様子をユーチューバーたちが動画で、次から次へと伝えてくれました。

 有権者の視点で撮影された動画には、現場の熱気が余すところなく、反映されていました。素朴なアングルがとても新鮮でした。画面を見ていると、ふと、これこそ、報道の原点ではないかと思えてきました。

 それがなぜ、得票数に繋がらなかったのでしょうか。

 ネットをチェックしていると、興味深い動画がアップされていることに気づきました。参政党選挙区から立候補した野中しんすけ氏の動画です。この疑問に答えてくれそうです。

■既存政党の圧倒的な組織力

 野中氏は、実際に戦ってみて、どういうことに気づいたのでしょうか。福岡選挙区から立候補した候補者がアップした動画を、ご紹介することにしましょう。

こちら → https://youtu.be/7qXgn0ve3VE
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 今回、初めて選挙に出馬し、気づいたことを3点、野中氏は話してくれました。

 選挙期間中、警察から警告を受け、ビラ配りを中断させられたことがあったというのです。歩道で配っており、違反をしているわけではないのに、ビラを配っているのが気に入らず、ある政党の党員が警察に通報したからでした。やって来た警察官は、違反ではないことを確認して去っていったといいます。

 また、ある時、歩道でビラ配りをしているのに、誰の許可を得て、ビラ配りをしてるんだと凄まれたことがありました。恐怖心を覚えるほどだったといいます。これはある団体の関係者でした。

 いずれの場合も、候補者の意欲を少しでも削ごうとする他陣営の悪意が感じられます。選挙妨害に相当する出来事だといっていいでしょう。

 候補者や支援者の気持ちを萎えさせるような行為が他陣営から仕掛けられる一方、弱小政党ならではの悲哀もあったようです。

 福岡の民放テレビは18日間の選挙期間中、一切、報道してくれませんでした。街頭演説が終わり、既存政党の候補者に代わると、たちまち、その場に報道陣がずらりと並び、撮影していたというのです。諸派といわれる候補者たちは露骨なまでに、完全無視されていたそうです。

 SNSの時代になったとはいえ、認知効果という点で、いまだに大きな威力を発揮しているのがテレビです。地元テレビで一切、取り上げられないのは、候補者として存在しないのも同然でした。

 放送されなければ、有権者に幅広く認知されることは難しく、県民に幅広くアピールすることはできません。大きな損失でした。このようなメディアの対応に、新しく立ち上がろうとしている候補者は完全に不利な状況に置かれていることに気づいたと野中氏は言います。

 例えば、互角の戦いができるかなと思っていた他の候補者は、連合や団体が支持に回っていたので、圧倒的に有利でした。個々の有権者に向け、切々と政策を訴えてきた野中氏にとって、納得のいかない選挙の実状でした。

 既存政党といい、支持団体といい、メディアの対応といい、既存政党からの候補者に有利な仕組みに出来上がっていることを今回、選挙に出てみて、わかったと野中氏はいいます。

 民主主義を支える制度としての選挙制度は、民意をくみ上げるシステムとして機能しているのかどうか、疑問に思えてきます。

 個々の有権者ではなく、団体に支持されただけで当選した候補者は、国会でどんな働きをしているのでしょうか。そのような政治家を国会に送り込んで、日本が衰退していくことに、支持団体はどう責任を取るのでしょうか。結局は投票して終わりという団体と候補者の関係の中からは、日本をよくするための政治ができるわけがありません。

 これを聞いて思い出したのが、自民党の東京選挙区から立候補した生稲晃子氏です。

■自民党の候補者、政治見識なくても楽々、当選

 自民党公認を受け参院選に東京選挙区から立候補した生稲晃子候補(54)は、元おニャン子クラブのアイドルでした。その後、なんらかの社会活動あるいは、政治活動していたと聞いたこともなく、とうてい、政治家としての資質があるとは思えません。

 まず問題となったのが、NHKによるアンケートに対する不誠実な態度でした。全26問の質問のうち、生稲候補が答えたのはわずか5問、残り21問については「回答しない」で済ませています。その中には「これまでの岸田総理大臣の政権運営をどの程度評価しますか」という質問もあったというのに、です。

 生稲候補の場合、回答不備が問題となっただけではなく、自民公認で東京選挙区から出馬した朝日健太郎候補との回答が、瓜二つの“コピペ”だったことも、問題視されていました。(※ 『デイリー新潮』2022年7月9日)

 この件はネット上で大きく騒がれました。

 さらに、7月6日、日刊ゲンダイは、「音楽4団体「生稲晃子氏&今井絵理子氏」支持表明に大ブーイング! 2000人超が抗議賛同」というタイトルの記事を掲載しています。

 「自民党公認で東京選挙区から元「おニャン子クラブ」の生稲晃子氏(54)、比例代表で元「SPEED」今井絵理子氏(38)が立候補しているが、音楽業界4団体(日本音楽事業者協会・日本音楽制作者連盟・コンサートプロモーターズ協会・日本音楽出版社協会)が支持を表明し、音楽関係者から反発の声が上がっている」
(※ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/307848

 ちなみに、生稲候補は大手芸能プロダクションの「尾木プロ」、今井候補は「ライジングプロ」の所属で、いずれも音事協(日本音楽事業者協会)の中心的なプロダクションです。

 1963年に設立された音事協は最大規模の業界団体です(※ https://www.jame.or.jp/)。それが支持表明をしたのですから、音楽関係者全員が自民党とこの2人を支持しているかのような印象を与えてしまいますが、それに対し、ネットで大きな反発の声が上がったのです。

 よほど我慢しかねたのでしょう。「ムーンライダーズ」の鈴木慶一(70)はツイッターで、「私は音楽家だが支援しない」とツイートしました。“日本最古の現役バンド”として、長年、音楽業界に影響を与えてきた重鎮ともいえる鈴木氏が、このような異例の発言をしたことに、ネット上はザワついたといいます。鈴木氏のこのツイートには3万7000件以上の「いいね」が付いていたといいます。
(※ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/307848/2

 選挙期間中、いろいろトラブルがありましたが、結果はどうかといえば、朝日健太郎氏(元バレーボール、ビーチボール選手)が92万2793票も獲得して東京選挙区でトップ、生稲晃子氏は61万9792票も獲得し、5位で当選しました。

 れいわ新撰の山本太郎党首が、古い持ちネタ「メロリンきゅー」まで披露して、ようやく56万5925票獲得したことを思えば、いかに組織票があることがいかに手堅く、票の獲得に有効かということがわかります。

 ちなみに、東京選挙区で当選したのは、得票順位上から、自民党、公明党、共産党、立憲民主党の現職、自民党の新人、そして、れいわの元職でした。

 もちろん、今井絵理子氏も14万8800票獲得し、比例区で当選しています。

■選挙は民主主義を支えているか?

 生稲氏らの件からは、大きな組織に属し、団体からの支持を得られれば、政治家としての見識、資質がなくても容易に当選できることが明らかになりました。

 生稲氏について、ネットがどう反応していたのかを少し、ご紹介しておきましょう。

 「こんなのに出馬を打診する党、こんなのに票を入れる有権者…すべてが情けない。以前ヤフーニュースに出ていた杉良太郎さんのこの意見ぜひ大きく取り上げて、そして公職選挙法を改善してほしい」

 「政治家になるための国の資格制度を作るべきです。それにパスした人が候補者として出ていくといいと思う。国会は政治の素人の研修所でも学校でもない。国会議員になれば、即、国民の税金をお給料としてもらうわけだから、即戦力でなきゃダメ。選挙の前にしっかり勉強してほしい。」

 「国会内での一票、議席が取れれば顔は誰でもいいんだろうな。 党の言いなりの方が使いやすいんだろう。 党としては変に勉強されるより、カンニングペーパー通りに回答してくれる方がありがたいはず。 数合わせのためであれば、そもそもの議員の数が多すぎるということ。自分のアタマで考えないということは他の誰かの意見に従っているわけで、一人で複数の票を持っているのと同じ。いわゆる派閥ですね。 議員定数削減、これをやらないと数合わせのお飾り議員がいなくなりませんね。 しかし自分の首をしめる改革ができるわけがない。野党が弱い今こそが、それをやるチャンスなんですけどね。」

 コメント欄を見ていると、生稲氏の件によって、若者が投票意欲を失ってしまうのではないかと心配になってくるほどでした。

 果たして、今の選挙制度は民主主義を支えるシステムとして機能しているのでしょうか。

 総務省のHPには、「日本は国民が主権を持つ民主主義国家です。選挙は、私たち国民が政治に参加し、主権者としてその意思を政治に反映させることのできる最も重要かつ基本的な機会です」(※https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo01.html )と書かれています。

 投票行動は、国民の意思を政治に反映させることのできる機会のはずですが、強力な団体の支持が、国民の意向を歪曲してしまう可能性のあることが、今回の件で、わかりました。団体の持つ数の力によって、個々の有権者の投票による意思表明は、いとも簡単に、圧し潰されてしまうのです。生稲氏の件によって、選挙制度の問題点が浮き彫りにされたといえます。

 もう一つ、総務省のHPから引用しておきましょう。

 「「人民の、人民による、人民のための政治(政府)」。民主主義の基本であるこの言葉は、私たちと政治との関係を象徴する言葉です。国民が正当に選挙を通して自分たちの代表者を選び、その代表者によって政治が行われます」と書かれています。

 理念はそうであっても、実態は必ずしもそうではなく、今回の件で、既存政党と団体との利権構造が定着していることが浮き彫りになってきました。

 一方、そのような既存の政党政治に異を唱え、民主主義の根幹に立ち戻ろうとしているのが参政党でした。

■参政党こそ、民主主義を支える政治組織か

 参政党のHPには、「先人が守って来たこの国を次の世代に引き継ぐために」という理念が掲げられ、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」の下、政治活動を実践していくと書かれています。(※ https://www.sanseito.jp/about/)

 そもそも、参政党は設立経緯からして、すでに他の政党とは異なっています。「仲間内の利益を優先する既存の政党政治では、私たちの祖先が守ってきたかけがえのない日本がダメになってしまう」という危機感を持った有志が集まり、「ゼロからつくった政治団体」なのです。

 参政党はその発端から、既存の政党とは異なる組織形態を考えていることがわかります。

 「特定の支援団体も資金源もありません。同じ思いをもった普通の国民が集まり、知恵やお金を出し合い、自分たちで党運営を行っていきます」

 既存政党のような利権構造を排するために、参政党は、有権者個々の力を基盤に、コミュニティをつくり、切磋琢磨し合いながら、政党を作っていくという仕組みです。情報を共有し、知恵を出し合い、お金を融通し合いながら、日本を立て直し、次世代につないでいくという志を持った人々の集まりだから、そういう仕組みが可能なのだともいえます。

 参政党は、個とコミュニティを基盤にした新型の政党としてデビューしたのです。

 そういわれてみれば、参政党の候補者のほとんどは、政治の素人でした。既存政党の候補者とは違って、企業や宗教団体などからの支援のないまま、ズブの素人の候補者たちが、今回、熾烈な参議院選を戦いぬいたのです。

 
 政党は本来、「真面目に税金を払って働いている人々のために働くもの」です。ところが、既存政党では、「縁故者や世襲の人々で党員が占められていたり、議員の選挙要員にされて」います。これでは、個々の自由意思は尊重されず、集団的投票行動が強制されざるをえません。

 ところが、参政党では、「党員活動に義務やノルマはありません」と書かれています。

 実際、HPを見ると、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」と書かれています。党員になると、できる範囲のことから、コミュニティ活動に参加することからスタートするようです。

 あくまでも党員の自発的な参加を求め、無理強いすることのないよう、図られていることがわかります。持続可能な組織づくりを行っているのです。

 「まずは同じ思いをもった国民が集まり、エリアやテーマごとにコミュニティをつくり、つながり合うことで新しい流れをつくっていくことを目指して」いるからでしょう。

 個々の党員の自由意思を尊重するという姿勢が貫かれているところが興味深いと思いました。まさに、個々人に支えられた草の根民主主義ともいえる形態で、初期民主主義の形態に近いものではないかと思います。

■お金のかかる選挙

 先ほどご紹介した福岡選挙区から立候補した野中氏は、選挙ポスターを例にとり、お金がないと選挙に出られない仕組みになっていることを知ったと語っています。

 福岡の場合、9000か所の掲示板に貼るポスターの印刷代に150万円、貼る人がいなければ宅急便で掲示板の住所宛てに送り、貼ってもらうようにすると540万円、ポスターを制作し、貼るだけで約700万円かかるというのです。

 さらに、供託金300万円がかかりますから、合計で1000万円用意できないと、選挙には出馬できないというのが実態でした。若い人や諸派の候補者が立候補しにくい状況に置かれているのが、わかったと野中氏は言うのです。

 こうした現状を知ったうえで、今回の選挙を振り返ると、あくまでも一つの政治団体にすぎない参政党が、比例区に5人、選挙区で45人、合計50人を出馬させたのは驚異的なことだったといわざるをえません。そのために、どのくらい費用がかかったのか、推して知るべしですが、参政党は、それを寄付や党費などで賄ったのです。

 参政党は7月7日時点で党員数が8万人を超え、7月9日時点で政治資金は4億3365万2621円に達しています。国政政党ですから、今後、政党助成金に入ってきますから、次回の選挙では、もっと多数の候補者を出馬させることができるでしょう。

 わずかな期間で、ここまで参政党の設立基盤を固めることができたのは、有権者の心をしっかりと掴むことができたからこそだといえるでしょう。党員が増え、政治資金も増え、日本を取り戻すための政治活動を展開してくれれば、日本人がもっと元気になり、積極的な考えを持てるようになると思います。

 参政党は、全国各地でフィーバーを巻き起こしていきましたが、その渦の中心は、神谷宗幣氏でした。

 神谷氏のスピーチがどのようなものであったか、その一端を覗いてみることにしましょう。

■神谷氏の投票日前のラストスピーチ

 芝公園には開始時点で、7000人が集まり、現場の様子を伝えるライブ中継は2万人以上の人々が見ていました。その後も続々と有権者が詰めかけ、最終的には1万500人にも及びました。手作りで出来上がった参政党が、18日間の選挙期間中で、ここまで有権者の注目を集める存在になっていたのです。

 投票日前のラストスピーチで、神谷氏は何を訴えようとしていたのでしょうか。

 ライトに照らされた神谷氏の表情は気迫に満ち、その言葉の一つ一つが、有権者の魂を揺さぶり、夜空に響き渡っていました。

こちら → https://youtu.be/MY2T5921NvE
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 神谷氏はまず、15年前からずっと、このままでは日本が駄目になると思ってきた。多くの人が自分のことしか考えない、お金のことしか考えていない。日本のために立ち上がりたいと言うと、「お前は右翼か」と言われる。それが今の日本だと語りかけます。

 次いで、有権者に向かって、「何故、日本人であることに誇りを持ってはいけないの?」と問いかけます。一呼吸置いて、言葉を継ぎ、「77年間、そんな教育をされてきたからでしょう、戦争に負けて、日本はアメリカにいいようにされてきたんでしょ!」と語気を強めます。

「そうだ!」と有権者は叫び、拍手喝采します。

●日本の教育を変える

 神谷氏は「参政党はまず、この日本の教育を変えたい」と切り出し、「教育を変えないと、次の日本を支える人材がいないんですよ」と訴えます。

 なぜなのか。

 「子どもを管理して枠にはめ、不登校を20万人も作って、発達障害の子どもを何十万人も作って、子どもたちを薬漬けにしているんですよ」と、子どもたちがいかに理不尽な環境に置かれているかを語ります。

 落ち着きがなく、注意力の散漫な子どもは多動性障害とされ、大人しすぎる、消極的すぎる子どもは自閉症とされて、治療の対象にされ、投薬されます。枠にはまらない、標準的ではない子どもは管理しにくく、診断名がつけられて、薬漬けにされていくというのです。

 実際、不登校の子どもたちは年々、増えています。NPO法人による報告『日本の子どもたちの今』によると、2019年に小中学校で長期欠席した子供25万2825人のうち、不登校は71.7%でした。1991年度に比べると、3倍以上も増えています(※ https://3keys.jp/)。

こちら →
(※ NPO法人3keys、『日本の子どもたちの今』より。図をクリックすると、拡大します)

 不登校になった結果、社会生活に必要な基本知識や技能、モラルや礼儀を学ばないまま、青年期を迎えてしまう若者が何と多いことでしょう。

 学ぶ機会を逸した彼らは、青年期になっても、社会に出ていくことができず、家に引きこもるか、あるいは、仮に社会に出ても適応できず、次第に、自殺に追い込まれていくのかもしれません。

 それなのに、政府は、子どもの窮状を救うために、有効な対策をなんら講じてきませんでした。

 神谷氏は怒りをあらわにして、続けます。「薬を飲みすぎて、社会に出られなくて・・・、若者の死亡原因の第1位は自殺なんですよ、この国は!」と叫び、声を荒げます。

 厚生労働省のデータを見ると、20-44歳の男性、15-34の女性の死因の1位が自殺、45-49の男性、35-49の女性の死因の2位が自殺でした。
(※ https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html

 せっかく、この世に生を受けたというのに、一度も謳歌することもなく、多くの若者が自らの命を閉じてしまっているのです。なんと辛く、悲しいことでしょう。

 神谷氏は、「若者はコロナなんかで死んでいない。自分の命を自分で奪っているんですよ!そっちの方がはるかに緊急事態でしょう!」と指摘します。そして、「子どもが減っているというのに、なんで、若者が命を絶っていくのを止めないんですか」と、問いかけます。

 実際、コロナで感染死するよりも、緊急事態宣言が発せられ、飲食店やアパレルなどの閉店で、収入をなくした若者の方がはるかに多く、自殺に追い込まれました。政治家こそ、若者の死因の第1位が男性、女性とも自殺だということの背景を深く考えてみる必要があるでしょう。

 命を育む世代の自殺が多いことから、今後、さらなる少子化が懸念されます。

 働き方、働く環境といったわかりやすい要因以外にも、目を向ける必要があるでしょう。そもそも、若者たちは自立して生きていくための能力を習得していたのかというところまで遡って要因を探らなければ、有効な対策は見つかりません。

 若者の死亡要因の第1位が自殺だということは、少子化現象と連動しています。不登校に至らないまでも、社会に適応できず、生きていくだけで精一杯の子どもたちは数多くいます。そうした子どもたちが若者になっても、おそらく、結婚や家庭、子どもを持つという気持ちにはなれないでしょう。

 まずは、自立して生きていくことのできる能力を、子どものうちに涵養していくことが大切です。

 ところが、政府の少子化対策を見ると、結婚支援、出会いサポート、産前・産後のサポート、不妊治療の保険適用といった表層的で、小手先の対策に終始しています。
(※ https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/203484_1.pdf

 神谷氏は、参政党が目指す教育について、「煉獄さん(映画《鬼滅の刃》の主人公)のお母さんが言ってたように、誰でも皆、一人ひとり、力と才能があるんですよ。その力や才能を自分のためだけではなく、弱い人のため、世のため、人のために使う・・・、そういう心の教育です」と訴えます。

 子どもが自立して生きていくための能力の一つとして、メンタルの強さがあげられます。それは、自分の能力を世のため、人のために使うという気持ちから生まれると、神谷氏は考えているのです。

 神谷氏は、演説の中でよく、アニメ映画《鬼滅の刃》(無限列車編)のキャラクター煉獄さん(煉獄杏寿郎)を引き合いに出します。

■次代を担うエリートとは?

 煉獄さんは、無限列車の乗客を救うために鬼と闘い、終には、亡くなってしまうシーンがあります。そこに、神谷氏の考える強さのエッセンスが込められているように思います。1分30秒の予告動画がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/-ewm56D9DzY
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 煉獄さんは、戦闘相手である鬼の猗窩座(あかざ)から、「お前も鬼にならないか」と誘われ、「鬼にならなければ殺す」とまで言われますが、「俺は俺の責務を全うする」と言って、闘うことを選択します。

 ピンチで利益誘導されるのですが、それには乗らず、敢えて信念を貫き通すのです。そこに、強さがあり、「老いることも、死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ」というセリフが印象づけられます。神谷氏の人生哲学あるいは生活美学が示される箇所です。

 滅びゆく日本を救うために、試行錯誤を重ねてきた結果、神谷氏は、既存組織にはない、新たな政党を立ち上げました。煉獄さんの生き方には、その姿勢に重なるものがあります。

 また別の予告動画がありました。

こちら → https://youtu.be/EFUSUcbLHK0
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 「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない」というセリフがあります。そして、「人間の原動力は心だ、精神だ」というセリフがあります。身体が強いだけではなく、心が強いことが重要だというのですが、それは、人間の原動力が心であり、精神だからだというのです。

 ここには、煉獄さんの人間観であり、価値観が端的に表されていますが、おそらく、神谷氏の人間観、価値観でもあるのでしょう。

 神谷氏は、「私たちはもう一度、教育を考え直し、日本のリーダーを作っていくしかない」と訴えています。

 肝心の心を強くする教育がなされておらず、官僚や政治家など、偏差値エリートはこれまで日本を守って来なかったからです。

 「本当のエリートは煉獄さんみたいな人ですよ。自分の命をかけてでも弱い人を守る、正義を貫く人、そういう人が、かつては日本にいっぱいいたから、この島国は何万年も続いてきたんじゃないですか」神谷氏は語調を強めます。

 聴衆は「そうだ!」と大声をあげ、拍手します。

 神谷氏は拍手が終わるのを待って、「私たちは、その末裔なんです。誇り高き日本人なんですよ。縄文時代から続いているんです、日本は!」と叫び、「そのことを教えなくなった戦後教育に大きな問題がある」と訴えます。

 そして、我々大人は、「自分たちの国を誇りに思い、先輩に感謝し、今、与えられた命のバトンを一生懸命、守って、次の世代につたえていかないといけない」と説き、「それを皆でやっていくのが、参政党ですよ」とアピールします。

 日本を取り戻すというのは、戦後教育によって失った日本を誇りに思う気持ちを取り戻すことであり、それを後の世代に引き継ぐということを指しているのでしょう。縄文時代から脈々と受け継がれてきた日本精神の中にアイデンティティの基盤を見つけることだと言っているように思えました。

■参政党が掲げる教育政策

 参政党は大きく3つの政策を掲げていますが、教育はその第1に掲げられています。

こちら → https://www.sanseito.jp/prioritypolicy/

 「学力(テストの点数)より、学習力(自ら考え自ら学ぶ力)の高い日本人の育成」を目指し、具体的には、①探究型のフリースクールを地方自治体が作れるようにする法改正、②自ら仕事をつくり、収入を他者に依存せず、管理されない人生が設計できる公教育の実現、③国や地域、伝統を大切に思える自尊史観の教育等の政策を通して実現していくというものです。

 神谷氏は、ラストスピーチの中で、「子どもたちを社会に合わせて型にはめるのではなく、私たち大人が子どもたちに合わせて生きやすい国を作る」と言っていますが、これは、①に該当します。

 これまでの教育の他に、探求型のフリースクールを自治体が設立できるようにすることで、子どもたちの個性に合わせた学びの場を提供することができます。つまり、学びの場を選択できるようにするため、参政党は法改正をするというのです。

 多様な学びの場を作れば、基準から逸脱しているために、問題児扱いされる子どもはいなくなるでしょう。不登校が減るばかりか、子どもが探求心を抱いて学び始めるようになるかもしれません。そうして、子どもが本来の能力を発揮できるようになれば、習熟度が高まる可能性があります。

 そもそも憲法第26条には、子どもには教育を受ける権利があり、保護者は子どもに教育を受けさせる義務があると定められています。それは、子どもは誰でも、義務教育課程を修了すれば、自立して生きていけるようにするための措置でした。

 参政党は、既存の教育体系に馴染めない子どもたちのために、①を設定しています。そして、ICT主導の社会の中で、子どもが自立して生きていける能力を涵養するための計らいが、②といえるでしょう。

 そして、参政党の独自色が強いのが、③です。

 神谷氏が冒頭、語りかけていたように、戦後、日本人は長い間、日本人であることに誇りを持てず、アイデンティティの基盤を失って、生きてきました。それは、GHQによって統治されていた期間、それまでの日本を支えてきた国家体制を壊す一方、子どもの頃から、学校教育やマスメディアによって、自虐史観を植え付けられてきたからでした。

 神谷氏が、「我々は戦争に負けて、アメリカのいいようにされてきた」と言っているように、自国に誇りを持てず、対外的に何の手出しもできない植物人間のようにされてきました。

 それを覆し、日本という国や郷土、伝統を大切にし、日本人であることに誇りを持てるような教育をしたいというのが③です。

 日本を取り戻すには、日本に誇りを持てるような子どもを育てていく必要があります。参政党の政策を見る限り、①さまざまな子どもたちが排除されることなく、落ちこぼれることなく、学びの場が提供され、②自立して生きていけるような能力の涵養、さらには、③日本人として誇りを持って生きていけるようなプログラムになっています。

 神谷氏のラストスピーチの中から、とくに、教育の部分を取り出し、参政党の政策と関連づけてみてきました。既存政党がいえなかったような内容に踏み込み、日本を精神面から取り戻すための方策が練り上げられていると思いました。

 敗戦国として長い間、抑え込まれてきた日本人が、日本人としてのアイデンティティを取り戻すのは容易なことではないかもしれません。自虐史観を乗り越え、日本を肯定的に捉える「自尊史観」に移行するには、まずは、歴史を学ばなければならないでしょう。

 さらに具体的な教育政策がHPに掲載されています。

こちら → https://www.sanseito.jp/hashira04/

 ここでは、政策を実現していくための具体策、予算配分なども示されています。

 それでは、マイク納め後の全候補者の反省会を覗いてみましょう。

■候補者とスタッフの絆

 参政党候補者たちはマイク納め演説の後、全員が反省会を行いました。そのタイトルはなんと、一世を風靡したテレビ番組「8時だヨ、全員集合!」をもじって、「9時だヨ、全員集合!」でした。

こちら →
(参政党HP動画を撮影。図をクリックすると、拡大します)

 2022年7月9日、「9時だヨ、全員集合!」が始まりました。神谷氏が進行役として、候補者全員をZOOMでつなぎ、選挙期間中に起こったこと、困ったことなどを報告する会が開催され、そのまま配信されました。

こちら →
(参政党HP動画を撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ZOOM画面では50名全員を映しきれないので、表示されている候補者が時々、入れ替わります。

 和気あいあいのうちに反省会が進められていきましたが、全員に共通していることが二つ、ありました。

 一つは、スタッフの惜しみない働きや支援に対する感謝でした。異口同音にスタッフへの熱い感謝の気持ちが語られます。選挙前から選挙期間中、さまざまなトラブルに見舞われながらも、候補者とスタッフが一丸となって、乗り切ってきたことがよくわかりました。

 日本をよくしたい、地域を守りたい、さまざまな思いを一つにして、頑張って来たことの喜びが候補者たちの日焼けした顔から感じられました。

 二つ目は、全国どこの候補者も一様に、終盤に近付くにつれ、街頭演説に集まってくる人が増えていったということでした。もう少し、選挙期間が長ければ、もっと票が取れたのかもしれません。ひょっとしたら当選も・・・、と思っている候補者も何人かいました。現場では、そう思ってしまうほどの熱気に包まれていたのでしょう。

 どの候補者も満足した表情を浮かべ、楽しそうでした。

 それこそ、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」を実践していたのでしょう。候補者と支えるスタッフ、地域社会の人々が、この選挙活動を通して、つながり合っていったことが感じられました。

 そして、ふと、思ったのです。

 今回、神谷氏が無理をしてでも、全国に候補者を立てたのは、このような地域社会に根付いた政治拠点を作るためだったのではないかと。残念ながら、選挙区候補者はすべて落選しましたが、候補者とスタッフ、地域社会の絆というものはしっかりと育まれ、根を張りました。

 このネットワークが全国各地にいきわたれば、これほど強固な政治組織はありません。参政党は既存組織に頼らず、団体に頼らず、党員とボランティアがすべての選挙活動を展開してきました。

 まさに、「投票したい党がないから、自分たちでゼロからつくって」いるのです。

こちら →
(選挙ドットコムより。図をクリックすると、拡大します)

 資金も選挙活動もすべて自分たちで行っているからこそ、参政党は誰からの圧力に屈することなく、正々堂々と意見を言うことができます。しがらみのない参政党のような政党でなければ、決して日本を変えていくことはできないでしょう。

 改めて、参政党は、理想的で本格的な政党だと思えてきました。日本がピンチに立たされているいま、ようやく、「国民の、国民による、国民のための政党」が誕生したのです。私たちは、ラストチャンスを掴んだといえるかもしれません。(2022/7/22 香取淳子)

2022年参議院選挙① 有権者の魂を掴んだ参政党について考えてみる。

■自公政権に国政を任せられるか?

 2022年6月22日、参議院選挙が公示されました。任期満了に伴うもので、投票日は7月10日です。前回は入れたい政党がなく、仕方なく、自民党に投票しました。他の政党よりはまだましだと思ったからでした。

 ところが、その後、岸田政権になって、コロナ、ウクライナ事変、物価高など、次々と押し寄せる難題への対応に、思慮が欠け、国民への配慮が足りないことが明らかになりました。誰の目にも国益を大きく損なう対応しかできず、失望してしまったのです。

 このまま自公政権が続けば、日本がダメになってしまうのではないかと危機感を抱き始めました。

 たとえば、ガソリンの高騰です。2022年2月7日、JAF(日本自動車連盟)は政府に「当面の間ガソリン税の廃止」を要望しています。ガソリン代が上がると、輸送費が上がり、全ての物価に反映します。公共交通機関のない地方はもちろん、車がないと生活できず、たちまち家計は苦しくなってしまいました。

 ところが、政府はJAFの要望を退け、石油元売り企業への補助金を出して価格の抑制を図ったにすぎませんでした。JAFが求めたガソリン税の廃止とは、上乗せ分の1リットル当たり25.1円課税を指していますが、これがそのまま温存されたのです。

 ちなみに、消費税込み、1リットル170.9円のガソリンの場合、ガソリン本体は101.6円、ガソリン税(本則)28.7円、ガソリン税(上乗せ分)25.1円、石油税2.8円、消費税15.5円がその内訳です。なんと4割近くが税金なのです。ガソリン本体にガソリン税や石油税を加えた価格に消費税がかけられているのです。
(※ https://jaf.or.jp/common/news/2022/20220207-002

 自動車ユーザの立場から、JAFは、合理性のないこの課税形態を早急に解消してほしいと要望していたのですが、退けられました。

 これはほんの一例ですが、現政権がどちらを向いて、政権運営しているのかが端的に示されています。

 折しも6月28日、茂木自民党幹事長は、沖縄北谷町の街頭演説で、「消費税は年金、医療、介護、子育ての財源だ。(減税すると)社会保障(の予算)を3割カットしなければいけない」と語り、「現実的な与党か、現実性のない野党かが問われる選挙だ」と強調したといいます。(※ https://www.jiji.com/jc/article?k=2022062801054&g=pol

 茂木敏充氏といえば、政権与党、自民党の幹事長です。それなのに、生活に苦しむ人々への配慮がみられません。コロナ下で、多くの人々が減収に追いやられ、その後、円安、物価高が続いて、人々の生活は苦しくなる一方です。

 耐えかねて、減税を要求すれば、恫喝して黙らせようというのでは、安心して政権を任せるわけにはいきません。今回の件で、政権幹部が配慮に欠けているだけではなく、思慮も足りないことが露呈してしまいました。

 長崎での街頭演説の動画がありましたので、ご紹介しておきましょう。

■自民党の街頭演説

●茂木幹事長と自民党候補の街頭演説

 6月29日、茂木幹事長は自民党候補者応援のため、長崎を訪れています。沖縄での演説が批判されたことを気にしたのでしょう、野党が主張する消費税の減税に対し、次のように述べています。

 「年金、医療、介護、子育て支援の財源が3割不足する。この財源をどうするのかセットで出さないと責任ある提案と言えない」
(※ https://nordot.app/915049672932392960?c=174761113988793844

 確かに筋は通っていますが、国民への配慮がみられません。

 そもそも、国家予算は適切に使われているのでしょうか。例えば、コロナ予備費の12兆円の使途のうち、9割を追うことが出来ないという報道があります。
(※ https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA143WV0U2A410C2000000/

 これでは、政府に対する信頼が失墜してしまうのも当然です。予算がどのように使われたのか、果たして、必要な支出だったのかどうか精査する必要があるでしょう。残念なことに、現政権に対しては、予算の策定、執行に透明化を求めなければならないほどになっているのです。

 さて、長崎での街頭演説の様子をユーチューバーが撮影していました。テレビでよく見かけるような短い映像です。

こちら → https://youtu.be/FjeXdZ7KR30
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 このユーチューバーは、茂木幹事長や自民党候補について、興味深い見解を述べています。商店街を巡ってにこやかに振る舞っているが、集まって来た人々と話し合うことはなく、意見を聞くこともなかったと、撮影しながら、述べています。

 すべてが内輪だけのやり取りだったせいか、宣伝用に作り込まれた光景に見えたそうです。だから、演説を聞いても感動することもなく、ただ、見栄えよくポーズを取っているにすぎないという印象だったと語っています。

 さらに、このユーチューバーは、集まった人々に感想を聞いてみたそうですが、多くの人が取材されたくないという態度を示し、避けようとしたといいます。

 たしかに、動画で見る限り、商店街でちょっと試食し、選挙用に見せ場を作っていただけのように思えました。

 この動画について、次のようなコメントが寄せられていました。いくつかご紹介しましょう。

 「参政党を知っちゃったから、自民党とか興味が無くなっちゃたよ」

 「山本候補者の演説はほとんど心に響きません。昔インスタントコーヒーのCMで「本物には感動がある」というセリフがありました。ある党の街頭演説動画を視聴しましたが、全ての演説動画には心を揺さぶられるような感動があります。自民党の演説は、CM的に表現すると「偽物には感動が無い」のかもしれません」

 「様子を見ると、参政党の演説に来てる人たちとの温度差の違いがすさまじいです
みんな、来させられてるだけじゃん?そして、演説がツマラナイ。。。」

 寄せられたコメントを見ていると、多くの有権者はどうやら、参政党の街頭演説と比較し、茂木幹事長や自民党の候補者の演説に中身がなく、つまらないということに気づいてしまったようです。

 果たして、参政党とはどのような政党なのでしょうか。気になってきました。

 そこで、まず、選挙ドットコムで見てみました。

こちら → https://go2senkyo.com/sangiin/20368/hirei_party/3630/candidates

 比例代表として、5人の立候補者が登録されています。なかなか興味深いボードメンバーだと思いました。実は、彼らは皆、ユーチューブで何度か見たことがある人物だったのです。識見が高く、激変する時代の動向を鋭く見抜く能力のある人々でした。

こちら →
(※ 参政党HPより。図をクリックすると、拡大します。)

 ひょっとしたら、彼らは困難な時代状況を劇的に変化させてくれる人々かもしれません。ユーチューブでちらっと見た程度ですが、世界や社会、経済や歴史に対する見識、実行力、キャリア、いずれも激変する社会に切り結んでいける能力を備えている人々ではないかと感じました。。

 一見、異端児のようにも思える人もいますが、だからこそ、これからの日本を牽引していける果敢な精神を備えているように思えました。

 とりあえず、参政党の街頭演説を見てみることにしましょう。

■参政党・神谷宗幣氏

 長崎では、ドイツ・フランクフルト在住の尾方綾子(おがた・あやこ)氏が参政党の候補者として立候補しています。神谷氏の推薦だそうです。海外居住者の視点を取り込みたいという神谷氏の意見が取り入れられて、実現しました。

 日本の中だけにいると、それこそ井の中の蛙で、日本を客観視することが難しくなります。だからこそ、海外の視点から、日本のシステム、政治、社会、経済、教育などへのさまざまな気づきが重要になります。神谷氏はそういう思いから、尾方氏に立候補を呼び掛けたそうです。

 尾方氏も、素晴らしい日本にしていきたいという思いは同じです。

こちら →
(※ 下記ユーチューブ動画を撮影。図をクリックすると、拡大します。)

 それでは、応援演説をする神谷氏を撮影した動画を見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/lWaX8lkBO3g
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 冒頭で、このユーチューバーは、何人かの参加者に何故、街頭演説に来たのかと尋ねています。

 最初に質問された女性は、ユーチューブで見て神谷氏に感動し、実際の演説を子供に聞かせたくて、子どもを連れてきたと言っていました。次の女性もやはり、ユーチューブで神谷氏を知ったそうです。長崎は自民党が強いが、参政党はこれまでにない政党だから、100%応援していると語っていました。その後、言葉を継いで、皆で参政党を守っていかなければならないとまで言っています。

 動画を通し、一部の有権者の反応を見たにすぎませんが、自民党の街頭演説に集まった有権者たちの反応とは大きく違っていました。参政党の参加者たちからは、弾むような躍動感があり、支援者ならではの熱気が感じられました。

 2時間かけて西海市から来たという高齢者は74歳でした。神谷氏が主宰するCGSを視聴しており、こういう時はなんとしてでも応援しなければと思ってやってきたと答えています。

 やはりCGSを視聴していて神谷氏を知ったという参加者は68歳、そして、37歳の男性でした。これほど歴史をよく勉強し、日本のことを深く考えている政治家はいないと評価していました。そして、実際に、勉強しはじめると、自分で考えるようになり、神谷氏の言っていることがよくわかると語っていました。

 さらには、これまでは自民党に入れていたが、参政党の党員になったとか、創価学会会員だったが、辞めて、参政党の支援をしているという人もいました。また、被爆した長崎がなぜ、アメリカに抗議しないのか、20代から何かもやもやとして気分でいたが、神谷氏の演説を聞いて、どうすればいいか気づいたそうです。だから、参政党ができたことが嬉しくて、入党したという64歳の男性は、これでようやく生き甲斐が出来たと語っていました。

 こうしてみてくると、神谷氏の演説こそが、有権者の気持ちを強く揺さぶり、これまでわからなかったことに気づかせ、そして、これからやるべきことを考えさせるきっかけを作っていたことがわかります。

■魂への働きかけ

 大勢の参加者は演説を聞いて、心の奥底に沈んでいた過去を思い出し、その過去に照らし合わせて感動し、共感することが多かったようです。演説を聞いて、すぐに入党した、寄付した、ボランティアを買って出たという人が多いのは、おそらく、神谷氏の演説が魂に響くようなものであったことが、大きく影響していたのではないかと思います。

 神谷氏はまさに、演説を通して、多くの人々の心に火を点けてしまったのです。

 近現代史を学ぶ機会を持たず、日本人はひたすら、悪いことをしてきたという罪の意識を植え付けられて生きてきました。その結果、人々は、何をすべきか、どう考えるべきかがわからなくなってしまっていたのでしょう。戦後数十年間、多くの日本人は、誇りを持って生きていくための精神的な軸を失っていたのです。

 ところが、神谷氏の演説を聞いて、人々は気づき、失っていた軸を取り戻そうという気持ちに目覚めました。先ほどご紹介した、生き甲斐ができたという男性の言葉にその思いが象徴されています。無力感に苛まれて生きていた人々が、神谷氏の演説を聞いて、心を動かされ、共に行動したくて、入党し、生き生きとした生活を取り戻しつつあるようです。

 激変する社会情勢の中で、老若男女を問わず、自分がどうこの社会とかかわっていけばいいのか、わからなくなってしまっている人が増えています。参政党・神谷氏の演説には、そのような人々の気持ちを捉え、魂を救う何かがあるようでした。

■学び、気づき、行動する

 神谷氏はユーチューバーの質問に答え、当初は30代から50代の人々が多かったが、今は60代、70代、80代にまで広がり始めていると言っていました。

 取材された高齢者の何人かは、神谷氏を知るきっかけとなったのが、CGSだと言っていました。そこで、調べてみると、CGSとは、Channel Grand Strategyの略称で、「日本人の『スイッチ』を入れる番組」で、登録者数29.3万人の教養番組でした。

こちら → https://www.youtube.com/channel/UCNkl6sk3xpHcSpIfiuV2AIA

 内容については、「政治、経済、歴史、軍事、食と健康などのテーマで、学校では教わることのないけれど、これからの日本の国策を考えていくために必要な基礎知識や教養を15分程度で配信する動画チャンネル」と概説されています。

 その番組のメインキャスターが神谷宗幣氏でした。ユーチューブを使い、一種の啓蒙活動を行っていたのです。神谷氏自身、勉強しながら、気づき、そして、行動していくといったスタイルの活動を展開していました。

 それでは、参政党は一体、どのような政策を有権者に訴えていたのでしょうか。

 取り敢えず、ホームページを見てみました。すると、参政党の政策についての動画がありました。

■政策の基本構成

 参政党は政策の基本構成として、以下のようなプランを練り上げています。

こちら → https://youtu.be/WRSEjDJpYbc
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 理念や綱領、政策については、共同代表の松田学氏を中心に策定したそうです。ですから、これについての説明も、松田氏が担当していました。

 政策の基本構成としては以下のようになっています。

こちら →
(※ 参政党HPより。図をクリックすると、拡大します。)

 どういう政党にするかというところに「日本の国益を守り、世界に大調和を生む」という理念が掲げられています。日本のあるべき理想の姿が語られていま。わからないわけではありませんが、漠然としていて、掴みどころがないという印象です。

 その理念の下には綱領が掲げられており、「先人の叡智を活かし、天皇を中心に一つにまとまる平和な国をつくる」「日本国の自立と繁栄を追求し、人類の発展に寄与する」「日本精神と伝統を活かし、調和社会のモデルをつくる」、等々、3点が示されています。

 ここでは、国家としての日本の目指す方向が示されていますが、堂々巡りになっているように思えます。これについてはまだ検討の余地があると思いました。

 現在の技術動向からいえば、今後、デジタル・エコノミーに移行していく可能性が高いでしょう。生産、流通、消費のプロセス、それぞれがデジタル化していけば、当然のことながら、人々の生活形態も変化していきます。人と人とのありかた、人と社会とのありかた、人と国家とのありかたも、生活形態の変貌に応じて国家の方向も政策も変化していかざるをえなくなるでしょう。

 上記の綱領には、そうした状況が想定されていないように思えます。状況変化を踏まえて、綱領を精査し、それ以外のものも含め、整合性をもたせなければ現実的ではないのではないかという気がしました。

 綱領を支えるための目標として10の柱が掲げられています。そして、これらの10の柱を実現していくための地域コミュニティ政策があり、未来社会モデルづくりがあるといった構造になっています。

 さらに、この地域コミュニティ政策と未来社会をつなぐものとして、デジタル革命を進め、トークンエコノミーを通した政策実現を進めていくというのが、参政党の構想です。

 このような未来に向けた国家構想に基づき、参政党が行おうとしている実践課題を構造化して示されたのが、次のチャートです。

こちら →
(※ 参政党HPより。図をクリックすると、拡大します。)

 先ほどの10の柱がここでは具体的に示されていますが、さらに検討を加え、改良していく余地があると思いました。これを見ると、まだ、さまざまな局面に対応できるものになっているとは言い難く、偏りや重複が見られます。社会を支える基本構造を設定し、今後起こりうる変化と継承すべき伝統とを加え、相互排除的に設定し直す必要があるのではないかと思いました。
 
 参政党の政策としては、選挙公報に載せられた3つの重点政策の方がすっきりとしてわかりやすいと思いました。

こちら →
(参議院議員選挙選挙公報より。図をクリックすると、拡大します。)

 これなら、誰もが理解することができ、しかも、現在、人々が懸念している事柄ばかりです。さらに、「子供の教育」、「食と健康、環境保全」、「国の守り」は相互に深く関連しており、まず、これらの課題に取り組むことが大切です。

 いずれにしても、もはや自公政権に期待することはできず、新たな問題意識を持ち、新たな政党づくりを掲げて登場した参政党に頑張ってもらうしかなさそうです。とはいえ、HPで掲げられた政策については議論の余地がありますし、登場したばかりで、すぐには日本の制度改革にはつながらないでしょう。

 ただ、参加型の政党を目指し、実践しているところに、現状を打破できる新しさがあり、未来に向けた可能性が感じられます。今回の参議院選挙では、まず、少しでも多く議席を獲得することに専念すべきでしょう。それが達成できた暁に、党勢を拡大し、社会の抜本的な制度改革に挑んでもらえればいいと思っています。(2022/6/30 香取淳子)

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程③ ルーツ・平岡甚蔵

 前々回は「平仙レース」創始者の平岡仙太郎をご紹介し、前回はその後継者で長男の平岡仙之助をご紹介してきました。両者とも進取の気性に富み、利他精神にあふれた傑物でした。一繊維事業者として活躍し、業界を活性化させただけではなく、研究開発、人材育成、地域社会にも多大な貢献をしてきました。

 なぜ、親子2代にわたって、そのような傑出した人物が現れたのでしょうか、今回はそのルーツを探ってみたいと思います。

 平岡仙太郎は明治26(1893)年、埼玉県元加治村仏子で、織物業を営む平岡専吉の長男として生まれました。そこで、父親である平岡専吉がどのような人物なのか、郷土資料を渉猟してみましたが、平岡甚蔵の甥だということ以外にたいした手がかりは得られませんでした。

 どうやら、平岡甚蔵が大きなカギを握っているようです。

 そこで、今回は、平岡甚蔵が何をしてきたのか、当時の織物業界の動向と関連づけながら、把握していくことにしたいと思います。

■甚蔵が生まれた時代

 平岡甚蔵は弘化4(1847)年10月、代々、元加治村仏子で織物製造業を営む家庭に生まれました。弘化(1844-1848)年間はわずか4年しか続かず、天保(1830-1844)年間の大地震、大飢饉に引き続き、同年5月7日、善光寺地震が発生しています。甚蔵が生まれる5か月前には、M7.4の大規模な地震に見舞われていたのです。

 この地震は江戸、神奈川で震度4だったそうですから、埼玉でも相当、揺れたことでしょう。

 その前年の1846年3月10日には孝明天皇が即位され、5月には、アメリカ東インド艦隊司令官のビドル(James Biddle, 1783-1848)が、軍艦2艘を引き連れ、浦賀沖にやって来ました。米軍艦が通商を求めたのはこの時が初めてでしたが、幕府はこれを拒否しています。

 度重なる天変地異があり、大きな社会変動の兆しが見え始めていた頃、平岡甚蔵は誕生したのです。日本に開国を迫る諸外国からの来航は続き、激動の時代の幕が切って落とされようとしていました。

 1953年7月8日、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)が、開国を求める米大統領の親書を携え、浦賀に入港しました。

こちら →
(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 当時の将軍、徳川家慶は重病だったため、親書を受け取っただけで、返答はしませんでした。そして、ペリーが去った10日後には亡くなってしまいました。その後、徳川家定が第13代征夷大将軍になりましたが、病弱で、乱世を乗り切るだけの胆力はありません。

 その後も開国を求める外国船の出没は続き、不安に駆られた国内では、そのような状況に抗うように、攘夷論が湧き上がっていました。

 1856年7月21日、初代アメリカ総領事ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)が来日し、通商条約の締結を正式に、幕府に求めてきました。ところが、孝明天皇からは条約締結の勅許が得られませんでした。当時の大老・井伊直弼は幕閣の意見を聞いた上で、1858年7月29日、神奈川沖に停泊中のポーハタン号上で、14条からなる日米修好通商条約に調印しました。

こちら →
(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 幕閣の多くは、阿片戦争など、列強がアジアに仕掛けた戦争について把握していました。だから、このままでは日本も植民地にされかねないと、開国論に傾いていたのです。侵略戦争を仕掛けられるより開国する方がましだという認識でした。度重なる列強からの圧力に抗いきれず、半ば、追い詰められるようにして下した決断だったといえます。

 その結果、オランダ、ロシア、イギリス、フランスなどとも貿易協定を結ばざるをえなくなりました。いずれも関税自主権がなく、治外法権を認める不平等条約でした。

 適切な情報もないまま、日本は列強優位の条約を結ばされたのです。明治政府が取り組まなければならない課題の一つとして残されたのが、これら欧米列強との不平等条約の改正でした。

 これらの条約を契機に、日本は否応なく、列強を中心とした国際舞台に引き入れられていきました。悪条件の下で外国との貿易が始まり、大きな変貌を強いられたものの一つが織物産業です。

■甚蔵が育った時代

 19世紀半ば、フランス南部地方を中心に、蚕に微粒子病が発生しました。これは、蚕が桑を食べなくなり、黒褐色の小斑点ができて、やがて死に至るという病気です。この微粒子病は瞬く間に、フランス北部、イタリアにも感染が拡大し、ヨーロッパの生糸生産に大きな打撃を与えました。

 その結果、19世紀の半ばのヨーロッパは生糸不足に陥っており、絹織物業者は苦境に陥っていました。しかも、1851年には太平天国の乱が発生し、当てにしていた中国からの輸出も滞っていました。輸入によって生糸を安定的に確保することが難しくなっていたのです。

 そんな折、日本は日米修好通商条約に基づき、1859年6月2日に横浜と長崎で開港しました。

 フランス、イギリス、オランダとも通商条約を結んでいましたから、当然のことのように、日本からヨーロッパ向けの生糸の輸出が始まりました。輸出は好調で、ヨーロッパとの取引が始まって3年後の1862年、日本からの輸出品の86%が生糸と蚕種でした。

 開国早々、生糸が日本の主な輸出商品となっていたのです。

 当時、日本では養蚕農家が、養蚕から製糸、機織りに至る一連の作業を行っていました。その際、座繰製糸という方法で生糸を生産していました。蚕は幼虫から蛹になるとき、糸を吐き出して繭を作ります。そこで、繭を窯で煮て繭糸を取り出しやすくする方法を取っていたのです。

 座繰製糸(ざぐりせいし)とは、繭を釜で煮る際、片方の手で糸を繰りながら、反対の手で巻き取る作業のことをいいます(※ 関東農政局 座繰製糸)。

 座繰製糸の画像を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ 横浜開港資料館より。図をクリックすると、拡大します)

 江戸時代以降、繭を煮る釜と糸巻き枠が一体化した座繰器が使われはじめました。主に農家で用いられていた器械です。これは工女が自分で糸枠を回転させながら、接緒する方式だったので、能率は悪く、粗製乱造になりがちでした(※ 中村政則、他「製糸技術の発展と女子労働」『技術革新と女子労働』1985年、p.34.)

 養蚕は東北、関東の一部、甲信などの地域で、農家の副業として盛んに行われていました。生糸が輸出の主力商品になっていくにつれ、これらの地方を中心に、全国で生糸が増産されるようになりました。埼玉県はその中心的な地域でした。

 埼玉県でも、当時、養蚕は農家の副業として行われていました。

 農家ごとに、扱う蚕の品種や生糸生産の技術レベルが異なっており、品質にばらつきが多いだけではなく、粗悪品もみられました。商品として安定して輸出できる状態ではなかったのです。

 日本製生糸はまたたくまに信頼を失い、輸出が落ち込んでしまいました。品質からいえば、半ば、当然のことでしたが、日本製生糸の価格は1868年から次第に下落していったのです。

 産業革命に成功したヨーロッパでは、すでに器械製糸技術による生産が行われていました。高品質の生糸を大量に生産するシステムが整っていたのです。ところが、日本の生糸は主要な輸出商品でありながら、そうではなく、外貨を稼ぎ続けるには、ヨーロッパからの需要に応えられる品質管理、生産体制を整える必要がありました。

 ヨーロッパの市場は、高品質の生糸を日本に求めていたのです。

 明治政府には、外国商人から器械製糸場建設の要望が提出されたほどでした。さらには、フランスの貿易会社エシュト・リリアンタール商会(リヨンで1859年に創業)などは、そのための資金提供まで申し出ていました(※ Wikipedia)。

 リヨンは当時、ヨーロッパ最大の生糸取引所でした。エシュト・リリアンタール商会は、生糸の生産に大きな打撃を受けていたヨーロッパの窮状を救うため、高品質の生糸の大量生産を強く日本に求めていたのです。

 渋沢栄一は、当時の日本の生糸について、次のように述べています。

 「其の頃我国から輸出した生糸は伊太利で出来るような精良の生糸ではなかった。総て皆座繰取であって、欧羅巴の機械取はない、故に「デニール」の揃はぬ生糸のみであるから需要地に於て僅に緯糸として消費せらるるに過ぎない、之では一国の重要輸出品として其の販路を拡張する訳に行かぬから是非伊仏のやうに器械製糸に改めて以て経糸として立派な生糸を産出する様にしなければならぬと云ふので、先づ富岡製糸場を設立することになった」(※ 中村政則、前掲、p.36.)

 日本の座繰方式では主要な輸出品として販路を広げることもできないから、是非ともイタリアやフランスのように器械製糸にする必要があると渋沢はいい、富岡製糸場の建設に言及しています。

 渋沢栄一は当時、大蔵省租税正でした。農家出身で養蚕に詳しく、富岡製糸場設置主任5人のうちの1人に任命されています。
(※ https://worldheritage.pref.gunma.jp/shibusawa_eiichi/#link3-1

■富岡製糸場の建設

 明治政府は1872年(明治5年)、高品質の生糸を大量に生産できる官営模範工場の建設を完了しました。それが、群馬県富岡市に建設された富岡製糸場です。やや俯瞰して描かれた全体図があります。

こちら →
(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)

 官営工場の建設にあたっては、大隈重信、伊藤博文、渋沢栄一らが種々、検討した結果、フランスの機械を使い、フランスの技術を使った製糸場を建設することになりました。担当者として選ばれたのが、ポール・ブリューナ(Paul Brunat, 1840-1908)です。

 リヨンの生糸問屋で働いていたブリューナは、エシュト・リリアンタール商会に雇用され、生糸検査人として、横浜支店で勤務していました(※ 澤護「富岡製糸場のお雇いフランス人」『千葉敬愛経済大学研究論集』第20号、1981年、p.197.)。

 リヨンは当時、ヨーロッパ最大の生糸取引所でした。リヨンで働いていたことがあり、生糸関連の人脈もあることから、彼は適任と判断されたのでしょう。1870年6月に仮契約を結びました。

 以後、ブリューナが指揮を執り、用地の選定、工場の建築、稼動に至る全過程を進めていきました。まず、用地の選定です。

 同年、7月、ブリューナらは用地選定のため、当時、生糸の生産が盛んだった武蔵国(埼玉県)、上野国(群馬県)、信濃国(長野県)を視察しました。

 その結果、次のような理由から、群馬県の富岡市に建設することに決定しました。

 すなわち、①養蚕業が盛んで良質の繭の供給が可能、②製糸に必要な良質の水の確保が可能、③大工場建設のための敷地が入手可能、④蒸気エンジンの燃料に必要な石炭の調達が可能、⑤地元住民の協力を得ることが可能、等々の条件が満たされていたからでした(※ 上西英治「日本の絹産業から見た富岡製糸場の歴史意義」『地域政策研究』第18巻第4号、2016年3月。p.92-93.)。

 同年10月、ブリューナは明治政府と契約を結び、1871年1月から有期雇用となりました。「お雇い外国人」制度の下、製糸場の建設のための庶務、工場の建設に必要な機械や機材の購入、熟練したフランス人技師、工女の招聘し、彼らの指導の下、日本人技師、工女を育成するというのが条件でした。

 興味深いのは、エシュト・リリアンタール商会から資金提供の申し出があったにもかかわらず、明治政府が自己資金で官営の模範工場を建設したことでした。開国したばかりで資金不足だったにもかかわらず、明治政府は敢えて自己資金で賄ったのです。主要産業に外国資本の導入を防ぎ、外国勢力の介入を回避したのです。懸命な判断でした。

 さて、富岡製糸場は1871年5月に着工し、1872年7月に主な建物が完成しました。

 製糸場の主な建物は、①繰糸所、②東置繭所、③西置繭所、④首長館、⑤蒸気釜所、⑥検査人館、⑦女工館、⑧鉄水溜、⑨下水竇及び外竇、等々でした。
(※ http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/guide/building.html)

 全体図は、こちらです。

こちら →
(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)

 設計図を書いたのは、フランス人技術者エドモン・オーギュスト・バスティアン(Edmond Auguste Bastien, 1839-1888)でした。ブリューナが、お雇い技術者として横須賀製鉄所に雇用されていたバスティアンに依頼したのです。

 フランス人技師や工女の選定と雇用についてはすべてブリューナが行い、明治政府は彼らとは直接、契約を交わしていませんでした。(※ 澤護、前掲、pp.206-207.)。

 建物の設計はフランス人が担当しましたが、実際の建築作業は日本人が行いました。西洋の建築技術と日本の技術や資材を併せて使い、ハイブリッドで完成させていったのです。

 たとえば、繰糸所があります。

こちら →
(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)

 この繰糸所で、繭から糸を取る作業が行われていました。長さ約140メートルもある巨大な空間に、フランスから導入された金属製の繰糸器が300も設置されていました。当時、フランスやイタリアの繰糸器ですら150程度だったそうですから、富岡製糸場はまさに世界最大規模の器械製糸工場だったのです(※ 前掲 URL)。

 それにしても、これほど天井が高く、建物の中央に柱のない巨大な空間には驚かされます。これは小屋組みをトラス構造にすることで、可能になったのだそうです(※ 前掲 URL)。ヨーロッパの技術、日本の技術及び資材を組み合わせて使い、実現させた建築の一例です。

 フランス人の設計に基づき、ヨーロッパの技術、日本の技術及び資材を使って建設された富岡製糸場は、1872年7月に完成しました。同年10月4日から操業が開始され、1876年に外国人指導者が去った後は日本人だけで操業できるほど、日本人技師や工女たちは作業を習熟していました。

 以後、官営の模範工場として富岡製糸場は、日本の製糸業の技術開発を主導し、新しい技術を普及させるモデル工場として大きな役割を果たしていきました。

 機械を使った製糸作業の習得については次のように展開されました。

 たとえば、一人のフランス人工女から4人の日本人工女が器械を使った糸の操り方を教えられると、今度はその4人が別の日本人工女に教えていくという方法が採用されました。その結果、短期間に大勢の工女が最新の技術を学び取ることができたといいます(※ 澤護、前掲、p.212)。

 明治政府は、国内から工女を募集して、フランス人から器械製糸の技術や知識を習得させました。その後、彼女たちを指導者として、他の日本人工女たちに教えていくという方法で、工女を多数、育成していったのです。全国に新技術が拡散されたおかげで、短期間のうちに、高品質の生糸が大量に生産されるようになりました。

 興味深いのは、品質管理を徹底させる一方、明治期には珍しく、富岡製糸場では労務管理も工女たちに配慮されたものだったことです。フランスの雇用形態がそのまま移植されていたのでしょう。

 1872年の創設時、働いていた工女は400人で、一日8時間労働、夏冬の長期休暇(各10日間)、食費や寮費は製糸場が負担していました。当時、世界でもまれなほど良好な労働環境だったのです。
(※ https://www.sankeibiz.jp/econome/news/140426/ece1404262147007-n1.htm

 富岡製糸場が建設され、模範工場として機能しはじめると、日本の製糸業全般が次第に、近代化されていきました。新しい製糸技術の導入、優良な蚕品種の育成、飼育方法の改良、輸出検査の導入など、日本の製糸業に欠けていた課題が次々と、解決されていったからでした。

 おかげで、製糸産業は急速に生産量を拡大し、輸出量もそれに比例して伸びていきました。

こちら →
(※ 農林水産省 「「明治150年」関連施策テーマ我が国の近代化に大きく貢献した養蚕」)

 富岡製糸場の建設以降、ヨーロッパの需要に合わせ、高品質の生糸を量産できるようになっていました。おかげで、新たな輸出先となった米国のニーズにも応えることができました。富岡製糸場を牽引車として、生糸産業は輸出の花形となっていったのです。

 もちろん、すべての養蚕地方が同じように、欧米基準の生糸を生産できるようになっていたわけではありません。全体的にみれば、家内手工業的な形態で生産されているところがまだ数多くみられました。

■甚蔵が織物業を継いだ時代

 1874年、平岡甚蔵は父親の死に伴い、家業である染糸業、織物業を継ぎました。富岡製糸場ができた2年後のことです。甚蔵27歳の時でした。

 『所沢織物誌』(所沢市史編さん室、編集・発行1984年)に、「平岡甚蔵」の名前が見えます。少し長くなりますが、引用してみましょう。

 「維新直後、元加治村仏子の浅見弥助、平岡甚蔵、宮岡太郎兵衛等縦三十番手横四十番手筬十七算にて京桟留と称する綿織物を製織して世評を問ひたるに、製品の単調なる当時に於いて新組織として喜ばれ忽ちの間に製織者相次いで生じた。これと前後して元加治村を貫く入間川の下流柏原村に博多結城なる絹面交織現れ、数年ならずして、水富、藤澤淘の諸村より生産を見、更に数年にして其地域は元加治、加治、金子、東金子、豊岡、入間川、奥富、精明、南高麗、飯能、宮寺等の諸町村に広まり、野田双子及京桟留と合して年産額六十万反を超え、一時その命脈を絶たんとしていた絹綿交織は茲に復活したのである」(『所沢織物誌』、p.85)

 維新直後、平岡甚蔵らによって「京桟留」が開発され、それが評判を呼び、織物業への新規参入者が増えていったことが記されていました。「京桟留」が開発されることによって、1861年に開発された「野田双子」と合わせ、年60万反を超える生産量を誇るようになり、一時、存続を危ぶまれた絹綿交織もこれで復活したというのです。

 平岡甚蔵が稼業を継いだのは明治7年(1874)ですが、稼業を継ぐ前に、甚蔵は新しい仕様の織物を創り出していたのです。若いころから創意工夫に富む人物だったことがわかります。

 ところが、入間地方の織物生産事業者の多数は、明治前期になってもまだ、問屋制の下に編成されていませんでした。せっかく新製品を開発しても、市場が整備されておらず、品質管理、流通ルートなどにも不備がありました。大きく発展できる環境ではなかったのです。

 改めて、近代化初期過程には、構造的な格差が含まれていることに気づかされます。

■製糸業の近代化初期過程に見られる構造的な格差

 開国当初、近代化の進んだ欧米と日本とでは、圧倒的な格差がありました。産業革命以降、科学技術の進歩の度合いによって、格差が生み出されるようになっていたのです。それは、富みを生み出す源泉が科学技術に移っていたからでした。

 近代化を急ぐ明治政府は、西洋の科学技術を学ぶために、「お雇い外国人」に法外な報酬を出しました。そうでなければ、欧米から優秀な人材に来てもらえなかったのです。

 たとえば、富岡製糸場の建設を指揮したブリューナの場合、その年俸は9000円で、お雇い外国人の中では最高級でした。当時、一般の日本人職工の年俸は74円でした(※ 澤護 前掲、p.199.)。いかにブリューナが多額の報酬を得ていたかがわかります。

 もちろん、往復の旅費、豪華な住宅、備品なども供与されていました。近代化に必要な技術や知識を習得するために、明治政府は、「お雇い外国人」に破格の待遇をしていたのです。

 試みに、官営富岡製糸場の設立当初の収支をみると、いかに膨大な人件費を負担していたかが推測されます。

 項目別の収支はわかりませんが、ざっと見たところ、1872年から1875年までの期間、収入は487,111円79銭、支出は707,345円541銭でした。なんと220,233円744銭もの赤字です。この期間はブリューナをはじめ「お雇い外国人」が在籍していました。

 ところが、「お雇い外国人」がすべて撤退した1876年の収支を見ると、収入は290,866円360銭、支出は188,208円940銭でした。102,657円420銭もの黒字です。
(※ http://www.silkmill.iihana.com/account.php)

 近代化のための授業料であり、投資として、この膨大な出費は仕方がなかったのかもしれませんが、追い詰められるようにして、近代化を急いだ明治政府の姿をここに見ることができます。

 開国したばかりの日本は、産業革命を経て、技術革新の進んだ欧米を相手に、格差を抱えたまま、取引しなければなりませんでした。まだ制度整備も十分でないのに、欧米基準の製品を生産していかなければならず、近代化に伴う構造的な格差を排除できなかったことがわかります。

 しかも、不平等条約は解消されておらず、不利を承知で取引を強いられていました。

 一方、製糸業の近代化は、養蚕、製糸、絹織という従来の作業形態を徐々に崩壊させていきました。それぞれの過程を分業化し、それらを結合して市場を形成するという形態に置き換えられていく過程でも、格差が生じていました。

 欧米との格差だけではなく、国内でも構造的な格差が発生していたのです。

 たとえば、欧米向け生糸の輸出が増えると、国内向け生糸の出荷量は減少します。輸出向け生糸の出荷量が増え、価格が高騰するに伴い、出荷量が少なくなった国内向け価格も、需給ギャップで高騰していきます。そして、国内生糸価格が高騰すると、国内絹織物の価格も高騰しますから、その需要は減少していかざるをえません。

 輸出が盛んになると、輸出向け生糸は好景気でも、国内向け生糸は不景気だという現象が発生していたのです。

 その結果、輸出向け生糸の生産に踏み切る農家が、次第に増えていきました。それに伴い、欧米基準の生糸を生産するため、養蚕から製織まで一貫性をもっていた家内手工業的な形態は廃れていきました。過程ごとに分業化し、器械工業的な形態に移行していったのです。

 そんな折、発生したのが秩父事件でした。

■フランス大恐慌がもたらした養蚕農家の困窮

 埼玉県秩父地方は江戸時代から養蚕が盛んな地域でした。それが生糸の輸出増を背景に、輸出向け生糸生産に切り替える農家が増えていきました。長野など他の養蚕地域に比べ、秩父はとくにフランス市場との結びつきが強かったそうです。(※ Wikipedia 秩父事件)。

 なぜ、秩父とフランスとの結びつきが強かったのか、調べてみましたが、ほとんど目ぼしい情報はありませんでした。ようやく次のような情報を得ることができたぐらいです。

 明治15年(1882)、フランスの特命全権公使アルチュル・トリクー氏が秩父を訪れた際、同11年(1878)に大火で消失した秩父の小学校の仮設校舎に立ち寄っています。そこでフランス式算術が行われているのを見て感激したそうです。彼はさらに、校舎新築計画のあることを聞くと、金100円を寄付し、当時、駐日陸軍武官だったボスキュー氏の設計図を贈ったといいます。
(※ 以下のURLを参考。① https://www.city.chichibu.lg.jp/4175.html
https://www.city-chichibu.ed.jp/dai1sho/gaiyo/history/

 興味深いことに、フランスの特命全権公使がわざわざ秩父を訪れているのです。なぜなのか、不思議でした。特命全権大使といえば、国家を代表し、外交の全権を委任されて交渉に当たる外交使節中で第一階級の官吏のことです。 それが明治15年、交通も不便な秩父にわざわざ出向いているのです。

 秩父は養蚕で有名な地域でしたから、大使が秩父を訪れた理由は養蚕に関係していたに違いありません。そこで思い起こされるのが、フランス大恐慌です。

 1881年のフランス・リヨン市場の生糸価格は激しく騰貴し、それに伴い、横浜市場でも高騰していました。著名な産地であった秩父郡でも6月ごろから価格は急騰しました。ところが、1882年初頭には一転して、パリ市場の投機相場が急落しはじめ、その混乱はリヨン市場にまで波及しました。やがて、銀行は破産し、フランスに大恐慌が勃発したのです。

 以後、1885年11月に至るまで、国際生糸価格は低迷しました。

 輸出向け生糸の生産に携わる農家はいずれも、1882年のフランス大恐慌に直撃されたのです。とくに秩父の生糸価格はリヨン価格に連動していました。81年12月には5円56銭だった価格が、82年3月には3円33銭となり、40%も暴落してしまいました(※ 中村真幸「蚕糸業の再編と国際市場:1882-1886年」、『土地制度史学』第145号、1994年10月、pp.1-4.)。

 1882年の初頭にフランスで大恐慌が起こっていたことを考え合わせると、フランス大使が秩父を訪れたのは、その影響を把握し、生産地に申し訳ない気持ちを伝えるためであった可能性があります。

 決め手になる情報がないので、推測するしかないのですが、フランス特命大使が秩父を訪れたのは、後にも先にも、その時しかありません。しかも、校舎新築資金を寄付し、設計図まで贈与しているのです。

 注目すべきは、フランス大使が恐慌の余波を気づかわなければならなかったほど、生糸価格の暴落がひどいものだったことです。

 遠く離れたフランスで発生した恐慌が、秩父をはじめ養蚕農家を直撃しました。情報もなく、制度整備も不十分なままでした。輸出向け生糸を生産していた農家はやがて、貧窮化し、追い詰められていきました。 

■秩父事件

 1882年初頭に発生したフランス大恐慌は、日本の養蚕農家を直撃しました。1881年に大蔵卿に就任した松方正義がデフレ政策を取り、増税を行っていたので、さらに不況を深刻化させました。

 農家は高利貸からお金を借りてまで、生糸を生産し続けましたが、価格は下がる一方でした。やがて借金を返せなくなり、多くの養蚕農家は土地を手放すしかなくなってしまいました。

 1883年末ごろから、耐え切れなくなった農民の中から、高利貸しに返済期限の延長、政府に減税を求める動きが始まりました。群馬、埼玉、神奈川などの養蚕地方では、農家を支援する困民党の運動が激しくなっていきました。

 秩父では1884年8月に結成された困民党がわずか1か月で、3000人にもなっていたそうです。彼らは高利貸しに借金返済の期間延長を求めましたが、聞き入れられず、10月31日からは武装して、高利貸し、役場、警察署、裁判所などを襲撃し、借金の証文を焼いたり、武器やお金を奪ったりするようになりました(※ Wikipedia 秩父事件)。

 11月4日、一連の騒動は警察部隊など官軍によって鎮圧され、首謀者は処刑されました。これが秩父事件の概要です。

 秩父事件には、①リヨン市場の生糸価格の暴落による養蚕農家の困窮、②緊縮財政下の増税、などが大きく影響していました。

 フランス市場に傾き過ぎた養蚕農家の困窮がきっかけとなって起こった悲劇といえるでしょう。あるいは、制度整備も不備なまま、国際市場に巻き込まれていった製糸産業の悲劇の象徴ともいえるかもしれません。

 秩父・音楽寺の境内には、鐘楼脇に、「秩父困民党無名戦士の墓」が建てられています。

こちら →
(※ Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 これは、1978年11月2日、秩父困民党決起百年記念委員会によって建立されました。石碑には、「われら秩父困民党、暴徒と呼ばれ、暴動といわれることを拒否しない」と刻まれています。

 、秩父困民党は、高利貸しの苛酷な取り立てに悩み、不条理な増税に悩む農民のために立ち上がり、返済期限の延期、減税を求めました。いってみれば、農民たちの生きる権利を求めたのですが、聞き入れられませんでした。

 その状況を打開するため、勢い余って、ついには武装蜂起に至ってしまいました。その際も、神官を除き、農民全戸が参加していたといいます。決して反乱分子が引き起こした暴動ではなかったのですが、秩父困民党は結局、鎮圧され、暴徒、暴動扱いされ、処刑されてしまいました。

 「暴徒と呼ばれ、暴動といわれることを拒否しない」という文言から、無念さがひしひしと伝わってきます。この文言は、武装蜂起せざるをえなかった事情に目をそむけ、暴徒、暴動扱いして収束を図った社会への批判とも読めます。

■同業組合準則

 秩父事件の悲惨な経験を経て、明治政府は、国際市場の動向を踏まえて対応することの重要性を学びました。それには、市場や製品に関する情報の収集及び共有、そして、分業化に対応した業態と業態とを繋ぐ組織の結成が不可欠でした。

 明治17年(1884)11月、農商務省達第37号「同業組合準則」が布達されました。

 白戸伸一氏は、その中心的な意義を次のように捉えています。

 「松方デフレ下にあって、自由競争の「弊害」に未だ対抗しうるだけの資本も生産力も備えていない在来産業を、同業者自身の結集により間接的に保護してゆく意義をもっていたことである」(※ 白戸伸一「明治前期における同業者組織化政策―「同業組合準則」をめぐってー」『明治大学大学院紀要 商学篇』第17号、1980年2月、p.122.)

 フランス恐慌を経験した日本の製糸業界は、1883年から米国向け仕様の生糸を増産するようになりました。そして、1884年には、諏訪地方のように全面的に米国向けに転換するところも出てきました。1886年になると、米国市場で日本糸占有率は高まり、養蚕地方に本格的な好況が訪れました(※ 中村真幸、前掲、p.15-20.)。

 1884年に公布された同業組合準則は、同業者同士の結びつきによって、互いを保護し合い、成長し合える環境を整備することを勧めるものだったといえます。

■甚蔵らが設立した入間高麗織物組合

 同業組合準則に基づき、織物の種類あるいは業種ごとに、準則組合が設立されるようになりました。入間郡下では、明治20年代から30年代にかけて、組織化の動きが活発になっています。

 明治23年(1890)、平岡甚蔵らが中心になって、「入間高麗織物業組合」が豊岡町(入間市)に設立されました。

 その後、改称され、「入間郡織物業組合」となりますが、この組合は有力な機業家層の主導で結成されたところに特徴があります。生産者というよりは、地元の豪農を出自とする商人的特性をもつ織元層が主導したのです(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.23-24.)

 その目的として彼らは、織物の尺幅を統一したり、製品に組合の証明書の添付を義務付けたりして、技術的に手工業段階であるために生じる粗製乱造の防止や、染色や織物の改良を企図していました。さらに、粗悪品の乱売防止や販路の拡張を目指していたのです(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.24)。

 明治30年(1897)4月12日、重要輸出品同業組合法が公布されました。

 対象は「重要輸出品ノ生産、製造又ハ販売ニ関スル営業ヲ為ス者」(第1条)、目的は「組合員協同一致シテ営業上ノ弊害ヲ矯正シ信用ヲ保持スル」(第2条)でした。白戸氏はこの法律制定の背景を、以下のように指摘しています。

 「近年の輸出増加につれ輸出品の粗悪化や不正取引が進んでおり、この是正のため「重要輸出品」の同業組合を活用するとしている。(中略)この法の成立の背景には、個別には粗製乱造を禁じ得ない在来諸産業ないし零細経営を組織化し、海外市場の拡大に対等してそれらをいっそう有効に輸出産業として動員しようとする政府の意図が働いていたのである」(※ 白戸伸一「同業者組織化政策の展開過程―産業資本確立期における動向を中心としてー」『明治大学大学院紀要 商学篇』第18号、1981年2月、p.75.)

 「同業組合準則」(1884年公布)にしても、「重要出品同業組合法」(1897年公布)にしても、明治政府が企図していたのは、在来経営者、零細経営者に対する同業組合による保護でした。近代化初期過程の中でようやく打ち出された生産者保護策の一つといえるでしょう。

 興味深いのは、入間郡織物業組合の場合、積極的に子弟の育成を図り、明治31年(1898)には化学染料の利用法や製織技術を組合員に普及させるため、染織講習所を豊岡町大字扇町屋に設けていたことでした。組合が県内での実業教育に先鞭をつけたのです。

先見の明のある平岡甚蔵が、この組合の中心メンバーとして活躍していたからでしょうか。単に品質管理、欧米基準に基づく製品の製造に留まるのではなく、次世代の織物業をにらんだ人材育成にまで着手していたのです。

■織物業界への貢献、地域社会への貢献

 その2年後の明治33年(1900)、入間郡立染織講習所の設立が計画されると、入間郡織物業組合はその講習所を拡充し、入間郡に寄付しました。そして、農商務省から技師を招聘し、化学染料の利用による染色技術の普及・改良に力を入れていきました。

 さらに、同年、平岡甚蔵をはじめとする10数名の有力機業家層(絹綿交織業者)と有力買継商が共同で、「染色其他機業ニ属スル諸般ノ工業ヲ経営スルヲ以テ目的トス」という趣旨に基づき、資本金3万円の入間染工株式会社を設立しました。

 比較的資力のある絹綿交織業者と、その関連業者が中心となって、染色工場の共同経営に着手したのです。当時、化学染料(硫化染料)による糸染めの改良と、織物の品質改善が織物業者にとっていかに重要であったかが示されています。

 この入間染工の工場は、元加治村大字仏子(入間市)に設置され、明治42年(1909)の『全国工場通覧』によると、職工数20名(すべて男工)を擁し、「絹綿糸色染」が主な業務でした(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.25)。

 明治33年(1900)以降、甚蔵は武蔵織物同業組合設立に着手し、発起人の一人として奔走しました。その結果、36年(1903)12月23日、重要物産同業組合法の下、入間、比企、大里の3郡に亘り、8町72ケ村、組合員5028人を抱える武蔵織物同業組合が川越に設置されました(※ 『わが町の織物』、2016年、p.15.)。

 組合長は向山小平治、平岡甚蔵は副組合長でした。織物の改良と販路拡張のために設置され、主に白魚小織、太織、生糸、絹綿交織、綿織物がその対象でした。明治40年には定款変更をして、事務所は所沢に移されました(※ 『わが町の織物』、2016年、pp12-15.)。

 その推移を見ると、組合は明治政府が打ち出す政策を次々と受け入れ、内容を更新し、激動の時代に合わせて対応していきました。

 明治41年(1908)12月には、組合が対象とする地区が広範囲に亘り、組合の運営に支障をきたすようになっていました。そこで、郡別に分け、さらに、所沢市場の綿織物、絹綿交織業者だけの組合に分けて、組織変更し、大正10年(1921)11月に「所沢織物同業組合」に名称変更しています。

 大正3年(1914)には、平岡甚蔵が二代目の組合長を引き継ぎ、その後、八代目の平岡歓五郎まで、連続して平岡一族が組合長を務めています。(※ 『わが町の織物』、2016年、pp12-15.)甚蔵が切り開いた道を、一族が守り、発展させてきたことがわかります。

 その一方で、甚蔵は仏子村総代、村会議員、名誉助役に就いて、道路改修、橋梁架設などを主導しました。さらに、明治36年(1903)に入間郡会議員になったのを皮切りに、飯能銀行監査役、中武馬車鉄道株式会社取締役、武蔵野鉄道(現、西武鉄道)株式会社創立発起人など、さまざまな役職に就き、地域貢献を行ってきました(※ 入間市文化創造アトリエHP、「織物の歴史と源流」)。

 平岡甚蔵が何をしてきたかを辿ってみると、まず、入間地方の織物業界の近代化になくてはならない人物だったことがわかります。さらに、地域の発展にとっても、なくてはならない人物だったといえます。

 『広報いるま』には「近代繊維産業のパイオニア」として平岡甚蔵が取り上げられ、次のように記されています。

 「資質剛直快活ニシテ、機ヲ見ルコト敏、事ヲ処スルニ熱心、万難ヲ排して必ス素志ヲ貫徹スルノ概アリ」と何人からも言われる徳望のある人物でした(工藤宏、「入間を創った人たち」『広報いるま』No.1037. 2009年、p.20.)

 なんとも穏やかで、温厚な表情が印象的です。

こちら →
(※ 『広報いるま』No. 1037より。図をクリックすると、拡大します)

 幕末から明治にかけての混乱期、甚蔵は時代が要求する課題にしっかりと取り組み、適切な手を打ってきました。近代化初期過程の荒波に耐え、業態を適格化させながら、発展できる道筋をつけてきたのです。誰もができることではありません。

 時代の動きに敏感なだけではなく、先見性があり、行動力があったからこそ、激動の荒波を乗り切ることができたのでしょう。また、徳を備え、人望のある人物だったからこそ、人々をまとめ、率先して事業や社会を改革していくことが出来たのだという気がします。

 新たな激動の時代を迎えようとしている今、果たしてどのような人物が、歴史の舞台の袖で、出番を待っているのでしょうか。ふと、気になりました。(2022/5/31 香取淳子)

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程② 継承者・平岡仙之助

 前回、埼玉県入間市の繊維業者・平岡仙太郎についてご紹介しました。新規にレース事業を立ち上げ、技術開発や人材育成に力を注いで地場産業を活性化させる一方、地域社会を守り、住民の団結を図るため、さまざまな貢献をしてきました。

 ところが、その平岡仙太郎が1939年、45歳の若さで亡くなってしまったのです。果たして、「平仙レース」はどうなったのでしょうか。今回はその後の展開を、展示資料等を踏まえ、見ていきたいと思います。

■仙太郎没後の「平仙レース」

 仙太郎は、亡くなる前年の1938年、妻に先立たれていました。家には17歳の長女を筆頭に5人の子供が残され、長男の仙之助はまだ12歳でした。戦時色が濃くなり始めていた頃、子供たちが残されたのです。

 仙太郎の弟の平岡良蔵が後見人となって、「平仙レース」の経営を支えることになりました(※ 入間市文化創造アトリエHP、『織物の歴史と源流』)。

 1939年といえば、日本の同盟国であったドイツがポーランドに侵攻し、第2次大戦が勃発した年です。当時、日中戦争はすでに泥沼化しており、日本軍は南進を企てていました。国内では1940年10月12日に大政翼賛会の発会式が行われ、戦争を支え、推進していくための組織が作られました。社会全体が戦時体制に向けて整備されつつありました。

 翌1941年には東条英機内閣の下、12月10日に日米の戦いの火ぶたが切って落とされました。いわゆる太平洋戦争が勃発したのです。戦線は拡大し、軍事が優先されるようになっていきました。

 「平仙レース」も例外ではありません。1943年、工場転用命令を受け、綿布を織っていた狭山の工場は売却させられてしまいました。

 そんな折、一高・東大卒の平岡雅雄が、その秀才ぶりを見込まれて、仙太郎の長女の婿になりました。

 それを契機に、1943年から「平仙レース」の経営は娘婿の平岡雅雄が引き継ぐことになりました(※ 湯澤規子、「都市近郊農山村における高度経済成長期という体験」『国立歴史民俗博物館研究報告』第171集、p.46, 2011年12月)。

 彼は次々と、難局を乗り切っていきます。

 たとえば、当時、本社工場も売却せざるをえなくなっていましたが、当局に働きかけて、自家転用の許可を受け、1944年からは平仙航空精密製作所として操業しています(『わが町の織物』、2016年、p.48.)。

■戦後の復興期

 こうして家族の力で戦時下をしのぎ、1945年8月にようやく終戦を迎えました。ところが、その後の7年間というもの、日本はGHQの統治下に置かれました。

 GHQにとって喫緊の課題は、焦土と化した日本を立て直し、自立していけるよう経済活動を復興させることでした。復興促進策の先兵として着目されたのが、繊維産業でした。当時、生糸の生産なら、原料を自給することができましたし、日本の繊維産業は戦前、相当の輸出力を持っていたからです。

 そこで、まず、生糸の生産が開始されました。続いて1947年、GHQが綿紡織設備の復元を認めたので、綿業の再建が始まりました。さらに、化繊の生産も年産15万トンまでは認められるようになり、化繊工業の再建も軌道に乗りました(※ 地引淳「繊維産業―復興・発展期から調整・改革期へ」、『繊維機械学会誌』Vol.50, No.7, pp.376-377. 1997年)。

 そうした中、後見人であった平岡良蔵が工場を分離し、飯能に移転しました。1948年のことでした。レース機械12台と共に、多くの技術者も退職していきました。本社工場に残されたのはわずかの機械と従業員でした(※ 入間市文化創造アトリエHP、『織物の歴史と源流』)。

 幸い、残った従業員の中に、最盛期のレース技術を身につけた女子従業員が20人ばかりいました。残された機械も錆びついていましたが、疵はありませんでした。それらを整備して使えるようにし、熟練者を中心に、レース最盛期の作業を逐一、再現していきました。こうして予想外に早く、復興することができました。かつて「質の平仙」といわれていた時のような精巧なレースを作り出すことができたのです(『わが町の織物』、2016年、p50)。

 物資が不足していただけに、質の高いレースは女性たちに装いの夢と楽しみを与えました。復興の準備が整い、繊維産業全般が活気を帯び始めていました。そんな中、1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。大きな需要が発生したのです。

 国連軍の要請で日本は食糧、衣料、鋼材などの調達を求められ、軍事関連物資の特需が発生しました。土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどの繊維物資が大部分を占めました。「ガチャマン景気」といわれた朝鮮特需は、朝鮮戦争の勃発から1953年7月の休戦協定まで続きました。(※ Wikipedia 「朝鮮特需」)。

 入間地域の繊維業者もこの朝鮮特需にあやかり、徐々に、復興していきました。戦前は巾の小さな小巾織物を生産していましたが、戦後は時代のニーズに合わせ、巾の広いシーツなどの広巾織物に転換していきました。復興期の国内ニーズにも対応していくことによって、順調に生産量を伸ばすことができました。

■後継者としての仙之助

 仙太郎の長男として生まれた平岡仙之助(1927-1966)は、周囲に見守られ、期待を担いながら育っていきました。経歴を見ると、1948年、まだ高校生の時に、レース工業会理事に就任しています。そして、朝鮮特需が発生していた1951年には、大学生でありながら、所沢織物商工協同組合理事に就任しています(『わが町の織物』、2016年、p58)。

 仙之助は若い頃から、仙太郎の長男として、レース事業者、織物業者としての見聞を広め、知己を得る機会を与えられていました。いわゆる帝王教育を受けていたのです。

 浦和高校を経て、1953年3月に東大工学部を卒業すると、同年4月1日には家業を継承し、「平仙レース」工場の主宰者となりました。もうすぐ26歳になろうとする時でした。さらに、同年10月には日本繊維機械学会関東支部評議員に就任しています(前掲)。

 日本繊維機械学会は1948年に創設され、産官学協同を基調とした活動を展開している学会です。

こちら → https://tmsj.or.jp/overview/

 卒業を待ちかねていたかのように、仙之助は役職に就いています。おそらく、産官学を問わず、繊維業界各方面から期待された俊才だったのでしょう。成長を牽引できる人材が必要でした。

 その期待に応えるかのように、仙之助は1954年5月25日から9月19日までレース工業の視察のため、欧米各国を訪問しています。そして、1956年3月5日、「平仙レース」を株式会社に改組し、代表取締役に就任しました(前掲)。

 当時、後進諸国の繊維産業が発展しつつありました。日本の繊維事業者としてはまず、欧米の繊維産業の最新技術、経営動向、市場動向を把握し、改良すべきところは改良していく必要があったのでしょう。

 仙之助は帰国後1年数か月後に、事業形態を株式会社に改組しているのです。欧米への視察で得たものは、単にレース技術の最新動向だけではなく、組織の在り方、海外市場の動向など多岐にわたっていたに違いありません。彼は大幅に組織改革をし、より効率的に高品質のものを生産できる体制に構築し直しています。

 父親に似て仙之助は、進取の気性に富む努力家でした。

 さて、「平仙レース」展では、仙之助の写真が展示されていました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 使命感と緊張感に溢れた表情、そして、ひたむきな眼差しが印象的です。果たして、いつ頃、撮影された写真なのでしょうか。

 展示写真を撮影する際、アクリル面に背景が映り込み、画面が不鮮明になってしまいましたが、それでも、仙之助が着用しているスーツの生地が精巧な織りのものだということはわかります。

■大きく事業を伸ばした仙之助

 事業を継承した仙之助は特需後も順調に業績を伸ばしました。1954年、1959年のレース生地生産量を見ると、埼玉県は全国の40%以上を占め、いずれも1位でした。この5年間で3倍にも達するほどの勢いです(※ 湯澤規子、前掲。p.46.)。

 このように、「平仙レース」は牽引車として、地元の繊維産業の発展にも大きく貢献していました。それだけではなく、同業他社の工場新設にも助力し、支援していました。

 たとえば、郡是製糸(後のグンゼ)がレース工場を設立した際、「平仙レース」から、1958年から3年に亘って、延べ8800人が指導に赴きました(※ 入間文化創造アトリエ・アミーゴHP、前掲)。

 実際、郡是製糸は、1957年に亀岡工場を新設し、刺繍レース事業を開始しています(※ https://www.gunze.co.jp/corporate/history/)。

 日本で初めて刺繍レース工場を創設したのが、「平仙レース」でした。郡是製糸としては、国内で先行する「平仙レース」に頼るしかなかったのでしょう。請われた仙之助は快く、自社の技術者を派遣し、技術供与に応じました。郡是製糸はいってみれば、「平仙レース」の競合相手になるわけですが、それでも支援を惜しむことはなかったのです。

 平岡仙之助は繊維事業の復興に際し、欧米に倣って、新たな商品開発と品質の高度化、そして、徹底的な品質管理を図りました。それをただ自社の発展につなげるだけではなく、地元の繊維産業、さらには、それらの情報を共有し、日本の繊維業界全体の底上げを図っていたことがわかります。

 生来の気質なのでしょうか、それとも、復興期の事業者だからでしょうか。仙之助は、積極的に新しい知識や技術を吸収し、それを自社事業に反映させるだけではなく、同業他社ともそれらをシェアし、共に発展していこうとしていました。

 あるいは、繊維業界や地域社会に貢献してきた仙太郎の気質を受け継いでいたからでしょうか。いずれにせよ、仙之助のそのような姿勢が結果として、「平仙レース」の事業を大きく発展させていきました。

■長者番付にみる事業の栄枯盛衰

 仙之助の繊維事業に対する熱意と努力はしっかりとその業績に反映されていました。たとえば、1955年度の長者番付を見ると、「平仙レース」はなんと7位に食い込んでいます。全国上位10位に入っているのです。

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 10位のうち上位半数は後年、日本経済を牽引していく松下電器などの家電産業で占められており、炭鉱、繊維、合板、鉱業がそれに続きます。これらの産業は1950年から1952年までは上位を占めていました。

 興味深いことに、わすか2,3年で炭鉱、鉱業、繊維といった産業が減少し、家電産業にその地位を明け渡しているのです。1955年という年はどうやら、日本の産業構造の変化を示す分岐点のようにも思えます。

 1953年に松下電器と三洋電機がトップテンに入り、1954年には三洋電機が1位、松下電器が2位、そして、1955年には松下電器が1位、三洋電機が3位といった具合です。産業別に長者番付の推移を見ると、1950年代前半から半ばにかけてのこの時期は、戦後復興から経済成長に向けた過渡期であったことが示されています。

 それにしても、「平仙レース」が他の基幹産業に伍して、堂々と1955年度長者番付トップテンに入っていることに驚きました。

 繊維産業が好調だった時期だとはいえ、「平仙レース」が繊維業界トップでランクインしているのです。仙太郎の事業を引き継いだ仙之助がいかに積極果敢に技術開発、品質管理、経営刷新に取り組んできたかが示されています。

 この年、昭和天皇が工場を視察されました。陛下に付き添って説明する仙之助に、「この産業は輸出に重要な産業であるから今後も努力するように」とお言葉を掛けられたといいます(『わが町の織物』前掲、p.58)。

皇族方も視察されたようです。

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 上手に撮影できませんでしたが、当時の雰囲気は掴めると思います。さまざまな経験を積んできたせいか、仙之助は成功した事業者らしく、先ほどの写真よりもはるかに堂々とした印象です。

 当時、繊維業界の輝かしい業績を牽引したのは「平仙レース」でした。1958年時点で、レース機械44台、従業員501人、生産量350万ヤード(うち輸出量200ヤード)の規模だったといいます(※ 入間文化創造アトリエ・アミーゴHP、前掲)。

 ちなみに、『婦人公論』1964年9月号では、「平仙レース」の輸出先は、東南アジア、ヨーロッパ、中近東、中南米、ニュージーランド、スイス、西ドイツだったと記載されています。

 さらに、文化出版局が発行する『装苑』の1961年7月号では、「オシャレを作る社長」として、平岡仙之助は取材を受けています。レース事業者として注目されるばかりか、ファッション文化の担い手としても注目されていたのでしょう。

 復興期を経て、経済成長期を迎えていた女性たちにとって、「オシャレ」というキーワードは訴求力がありました。装うことに夢や希望を添えて、未来を思い描かせる力があったのです。

 おそらく、仙之助自身、デザインやファッションに興味があったのではないかという気がします。

■桑沢洋子デザインの制服

 展示写真の中に、平岡仙之助が従業員たちと一緒に撮影されたものがありました。

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 やや緊張した面持ちの仙之助と、従業員たちの初々しい表情が印象的です。白い丸襟の制服を着た彼女たちは清楚で、しかも、とてもオシャレに見えます。まるでどこかの私立女子校の生徒のようです。

 この制服に白い帽子をかぶって、彼女たちは働いていました。

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 工場で働く労働者とは思えないほど、優雅で和やかな雰囲気が漂っています。

 実はこの帽子と制服は、桑沢洋子がデザインしたものでした。彼女は1954年、ドイツの造形学校バウハウスの影響を受けて、東京・青山に桑沢デザイン研究所を設立しました。「ふだん着のデザイナー」と名乗り、生活のためのデザインを提唱した先駆者でした。

 当時、桑沢洋子は学生服や企業のユニフォームなどを数多く手がけていました。

 仙之助は、従業員の制服のデザインをわざわざ桑沢洋子に依頼していたのです。そのことからも、仙之助のこだわり、幅広い知識、理想を追求する姿勢、美的センスなどを読み取ることができます。単なるレース事業者を超えた美的センスとみずみずしい感性の持ち主だったといえるでしょう。

 当時の女子中学生たちが、「平仙レース」に就職したいと強く願っていたのも無理はありませんでした。

■『むつみ』にみる従業員の気持ち

 平仙レース工場には『むつみ』という社内報がありました。1950年に創刊され、1968年に至るまでほぼ毎年、1冊ずつ刊行されていました。創刊時、仙之助はまだ大学生でしたから、この社内報の発刊はおそらく、平岡雅雄の発案によるものでしょう。

 そういえば、平岡雅雄は1943年、長女の婿として平岡家に来た時の様子を次のように述べています。

 「平岡の家は、明治以来の典型的な機屋の構造で、昔着尺を入れた倉は大きくて立派でしたが、仙太郎在世中から書面の類は全くなく、すべて仕事に直結した生活の匂いが残っていました」(『わが町の織物』、前掲。p.50)

 江戸時代から代々、織物業を営んできた平岡家では作業工程にしろ、何にしろ、書面で記録して残すという習慣がなかったのでしょう。ところが、そのようなやり方では、多数の従業員を雇用し、機械を使って作業を進めていく近代的な生産工程はうまく機能しません。平岡雅雄はおそらく、そのような慣行は改善しなければならないと考えたのでしょう。

 社内報『むつみ』の内容は、①会社経営側からの寄稿、②社内各組織からの連絡事項および寄稿、③従業員からの寄稿、等々で構成されていました。特に多かったのが従業員からの寄稿でした(湯澤規子、前掲。p.45.)。

 彼女たちはいったい、どのような気持ちで「平仙レース」を志望し、働いていたのでしょうか。従業員の寄稿を見てみることにしましょう。

 たとえば、1952年に刊行された『むつみ』3号を見ると、入社試験を振り返って、次のような感想が寄せられています。

 「(前略)試験場はもう大勢の受験者でいっぱいでした。(中略)あのきれいな工場で働いている自分を想像したり、その反面考えまいとしても不合格でがっかりしている自分を想像したりしては、なかなかねつかれない夜も何度もありました」

 「私はどうしても第一希望であるあこがれの“平仙”に入りたかった。不安のうちに入社試験の日になった」

 これらを見ると、どうやら、「平仙レース」は、当時の中学生たちにとって憧れの職場だったようです。いずれも、仙之助が工場の主宰者になる前年の記録です。

 当時、中学校を卒業した女性の採用倍率は5倍で、高等学校の試験よりも難しいといわれていました。従業員の年齢は15歳から27歳ぐらいまで中心で、彼女たちは主に工場でレースの生産に従事しました。1台のレース機械に3人の女性従業員が配属され、男性は主に機械類の保守点検や総務を担当していました(※ 湯澤規子、前掲。pp.47-48.)。

 近隣の農山村の女子中学生にとって、近代的な設備の「平仙レース」は憧れの職場でした。それだけでなく、そこで働いていたというキャリアは、彼女たちが将来、結婚する際の手堅い保証にもなっていました。寮生活や課外活動を通して、教養やマナーなども学べるようになっていたからでした。

 「平仙レース」は、商品の品質が高く、ブランドとして幅広く認知されていただけではなく、会社そのものも、女性にとってはブランド化していたのです。

 さらに、仙之助は従業員のために画期的なことをしていました。

■会社内に浦和高校通信部を設置

 展示資料によると、1962年、平岡仙之助は従業員のために、県立浦和高校通信部・仏子共同学習所を会社構内に設立しています。

 全国で初めての通信制高等学校でした。女子従業員たちは作業の終わりか、作業の始まる前に校舎に通う仕組みになっていました。校舎は工場から離れた静かなくぬぎ林の中に建てられていました。4年の過程を終了すると、普通高校と同じ卒業資格が授与されました。

 浦和高校から12名の教師が来て、週4日、授業が行われていました(『わが町の織物』、前掲、p.48.)。

 仙之助は欧米を視察してきただけに、従業員に対する教育の重要性を認識していたのでしょう。高度な機械を導入し、高品質の製品を生産し続けるには、従業員に新しい知識や技術を習得していくための基礎的な学力が必要でした。働きながらも学び続けられるような環境を構内に整備したのです。

 「平仙レース」が導入した学びながら働ける環境の設定は、当時、画期的な試みだったのでしょう。1967年、昭和天皇・皇后が訪問されて、彼女たちの学習風景をご覧になっています。

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(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 昭和天皇は二度も「平仙レース」を訪問されています。戦後の日本経済を立て直し、世界に羽ばたく繊維事業のモデルとしてブランド化されていったからではないかと思います。「平仙レース」は当時、それだけ日本にとってかけがえのない存在だったことがわかります。

■ジェントルマン・平岡仙之助

 さて、1967年に再び、天皇陛下が訪問されたというのに、残念ながら、仙之助は天皇陛下に付き添って説明することはできませんでした。その前年の1966年8月19日に39歳の若さで亡くなっていたのです。交通事故でした。

 あまりにも若く、そして、不慮の死に多くの人々が嘆き悲しみました。

 一連の業績を称え、平岡仙之助は内閣府から従六位に叙せられ、勲五等瑞宝章を授与されました(『わが町の織物』、前掲、p.59)。

 展示資料によると、平岡仙之助は経営者として東奔西走しながら、西武町商工会長、消防団長を務めています。父親の仙太郎と同様、仙之助もまた地元産業、地域社会の安全にも大きく貢献していたのです。

 二人とも、先見の明があり、進取の気性に富み、そして、度量の大きな人物でした。時代の動向を見据えて、最新技術を取り込み、質のいい製品を提供することに力を注ぐ一方、地域に根付いた事業展開をし、地域社会への貢献を怠りませんでした。地元で代々、裕福な家庭に育ったからこそ、ごく自然に、利他的精神が発揮されたのかもしれません。

 ふと、「ノブリス・オブリージュ」という言葉が脳裏をよぎりました。

 そういえば、仙之助は従業員のために桑沢洋子デザインの制服を用意し、構内に通信制高校を設立していました。従業員が夢を抱いて働いて学べる環境を整備していたのです。家族の一員のように従業員を捉え、彼らの生活や人生への責任を感じていたからにほかなりません。

 一連の事業を見てくると、仙之助には事業者としての品格が感じられます。教養があり、美意識に秀でていたからこそ、彼は、従業員の教養を高める必要を感じたのでしょうし、美意識を涵養する必要を感じたのでしょう。若い頃から帝王教育を受けて、見聞を広め、学識を深めてきた仙之助ならではの取り組みでした。

 仙之助はまさに、ジェントルマンでした。

 利益追求を当然視し、平気で従業員を使い捨てにする昨今の風潮を苦々しく思っていただけに、従業員を重視した彼の経営姿勢が眩しく見えてきます。

 当時は、人と人が繋がり合い、人と土地が結びついて経済活動が展開されていました。だからこそ、真面目に努力し、他人を思いやり、節度を持って生きた人間が報いられてきました。それを古き良き時代だったと片づけてしまっていいのでしょうか。

 改めて従業員の白黒写真を見てみると、素朴で初々しい表情の中に、未来を信じ、夢を抱いて生きることの幸せが感じられます。機械に使われるのではなく、人と人が繋がり合って、機械を使い、より良い生活を目指していた時代が限りなく麗しいものに思えてきました。

 AI時代を迎えた今、技術は人の活動を補佐する以上の存在になってしまいました。収集したデータに基づき、AIが判断をし、意思決定をするようになりつつあります。技術は際限なく進歩し、まるでがん細胞が増殖して人を死に追いやるように、進歩し続ける技術が人や社会の諸機能を蝕み、やがて機能不全に陥らせてしまうのではないかと懸念されます。

 果たして、技術の進歩は人の幸せに繋がっているのでしょうか。

 一斉にAI時代に向かって走り始めている今、人間の活動を補佐する程度の技術を基盤にしたオルタナティブ社会が一部に存在してもいいような気がしています。(2022/4/28 香取淳子)

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程① 創業者・平岡仙太郎

■「平仙レース」の写真展示

 2022年3月26日、三寒四温の日々が続いているとはいえ、だんだん暖かくなってきました。ひょっとしたら、もう桜が咲いているかもしれないと思い、久しぶりに入間川遊歩道に出かけました。

 途中、文化創造アトリエ前の交差点で、信号が変わるのを待っていると、向かい側の、「文化創造アトリエ・アミーゴ」(以下アミーゴ)の車寄せ道路側の壁面に、写真と説明文が展示されているのが目に入りました。近づいて見ると、「平仙レース」というタイトルが見えます。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ざっと見たところ、「平仙レース」に関する写真や説明文が掲示されているようでした。

 展示写真を見てみました。

 「まとい」や「神輿」、女子従業員のための寮、寮での生活、昭和天皇・皇后両陛下の当地ご訪問、レース工場の航空写真など、「平仙レース」の過去をうかがえる写真がいくつも展示されています。もはや人々の記憶にはなく、振り返ることすらできないほど遠くなってしまった日本の過去が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていました。

 見ているうちに、通り一遍に見て済ませられるような展示内容ではないような気がしてきました。一連の写真の背後に見過ごすことのできない何かを感じたのです。

 「平仙レース」とは一体、何なのでしょうか。

 そこで、今回は、展示写真を中心に、郷土資料、関連資料を踏まえ、「平仙レース」から何が見えてくるのか、探ってみたいと思います。

■平岡レースとは何か

 展示写真の中には、昭和33年頃の「平仙レース」工場の写真がありました。

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(展示写真より。図をクリックすると、拡大します)

 説明文は、「かつて仏子には「平仙レース」という日本有数のレース工場があったことをご存じですか?」という文章で始まっています。

 上の写真は昭和33年頃に撮影されたものですが、広い敷地に特徴のある建物が並んでいます。この地域の有力な機業家であった平岡仙太郎が、1928年に設立した「平仙レース」工場でした。

 なぜ、「平仙レース」なのかといえば、地元の有力な機業家であった平岡仙太郎(1893-1939)が、大正末期にレース工場を設立したことに由来しています。平岡仙太郎が創始したレース工場だから、「平仙レース」なのでした。

 それでは、平岡仙太郎とはどのような人物だったのでしょうか。

■平岡仙太郎とは

 展示資料によると、平岡仙太郎は1893年、織物業を営む平岡専吉の長男として生まれ、川越染色学校を卒業すると、そのまま家業を継ぎました。この辺り一帯は幕末から明治・大正にかけて、全国でも有数の織物生産地でした。

 入間地方は痩せた土地で、農産物の収穫が少なく、農家の人々は副業として、瘦せた土地でも育つ桑の木を植えて養蚕を行い、織物を作って、市場に出していました。この地域一帯で盛んだったのが、織物業だったのです。

 当時、織物市場は川越、所沢、扇町屋、飯能などにありました。ところが、江戸時代も1844年頃になると、織物の取引が江戸に近い所沢市場に移っていきました。その結果、実際の織物生産の中心は入間でしたが、入間、川越、飯能、所沢などで織られた織物は、総称して、「所沢織物」と呼ばれるようになったそうです。市場が所沢だったからです(『ときの夢を織る~入間の繊維産業の歩み~』、pp.5-7. 2005年1月。入間市)。

 いずれにしても、入間は織物の生産拠点だったのです。そのような環境の中で生まれ育った平岡仙太郎はきっと、織物業を天職と思っていたのでしょう。

 説明文には、「稼業を継いでからは、力織機を増設したり、分工場を設立したりして次第に、経営を拡大していきました」と書かれています。力織機という耳慣れない言葉が使われているので、気になって調べてみると、次のようなものでした。

こちら →
(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 力織機とは、1785年に、イギリス人エドモンド・カートライト(Edmund Cartwright)が発明した機械動力式の織機のことで、英語のpower loomをそのまま日本語に訳したものでした。

 それまでの手織機に代わって織物生産の主役となって産業革命を主導したとされています。これが普及してから、それまでの手織機の使用は、工芸品や伝統的な布を織る場合に限られるようになったそうです。

 上の写真は豊田自動織機G3型です。G型をベースに構造を強化し、厚地が織れるようにした織機です。実は、豊田佐吉は1924年に、このG型自動織機を発明し、完成させていました。(※ https://www.tcmit.org/exhibition/textile/fiber03/)

 平岡仙太郎が事業を継いだ頃はおそらく、このG型自動織機が日本の繊維業界に出回っていたのでしょう。積極果敢に新しい機械を導入して新規事業を展開し、経営拡大を図っていました。

 繊維業は明治、大正、昭和と日本の中心的な輸出産業の一つでした。高品質の製品を大量に生産し続けるには、機械の導入、品質管理、新規製品の開発などが不可避でした。

■なぜ、レース工場を設立したのか。

 平岡仙太郎は稼業を継ぐと、経営を拡大する一方、繊維業界の動向を見ながら、刺繍レースへと主力製品を変えていきました。新しい技術を積極的に導入し、事業効率を高めながら、時代に即した新製品の開発を手掛けていったのです。

 大正末期にレースの生産に着目していた彼は、昭和に入って早々、1928年に平仙レース工場を設立し、1929年から操業を始めました。

 展示資料には、1923年に関東大震災が発生し、①手工レースが壊滅状態に陥ったこと、②浜口内閣が緊縮財政政策を取り、輸入品で贅沢とみなされたレースの関税を3割から10割に引き上げたこと、等々から、レースの国内生産に踏み切ったと、その理由が書かれていました。

 気になったのは、「浜口内閣が緊縮財政を取り・・」、と書かれている箇所でした。関東大震災後、内閣は頻繁に交代しています。果たして、一内閣の経済政策だけで新規事業に踏み切れるものか、納得しかねたのです。

 そこで、当時、誰が経済政策を担当していたのか、調べてみました。

■緊縮財政政策下で振り絞った知恵

 調べてみると、関東大震災後、不安定な社会状況を反映するかのように、内閣は頻繁に交代していました。急死したり(加藤高明)、暗殺されかけたり(浜口雄幸)、不穏な社会状況の下、かじ取りを迫られていたことがわかりました。

 興味深いことに、震災後の数年間、浜口雄幸が一貫して大蔵大臣を務めています。

 震災時は、第22代の第2次山本権兵衛内閣(1923年9月2日から1924年1月7日)で、大蔵大臣は井上準之助でした。次の第23代清浦奎吾内閣(1924年1月7日-6月11日)の大蔵大臣は勝田主計でした。

 いずれも短期間で終わっていますが、震災直後の経済政策を主導したのが井上準之助です。彼は善後策として、一定期間の支払い猶予、震災手形制度などの緊急措置を行いました。

 その後、第24代の加藤高明内閣(1924年6月11日‐1926年1月30日)の大蔵大臣は、浜口雄幸でした。第25代の第1次若槻礼次郎内閣(1926年1月30日-1927年4月20日)でも、彼は大蔵大臣を務めました。

 展示説明では、「浜口内閣の緊縮財政政策」と書かれていましたが、浜口が総理大臣になったのは、第27代内閣(1929年7月2日-1931年4月14日)で、確かに、浜口雄幸が総理大臣だった頃、平岡仙太郎はレース工場を操業しています。

 浜口内閣の大蔵大臣は井上準之助でした。浜口に請われ、立憲民政党の井上が民政党内閣の大蔵大臣に就任しています。浜口は、総理大臣になると、自身と同じ考えの井上を大蔵大臣に起用したのです。高橋是清の弟子でありながら、井上準之助は緊縮財政派だったからでした。

 その井上は、凶弾に倒れた浜口内閣の後、第2次若槻内閣(1931年4月14日-12月13日)でも大蔵大臣を務めました。

 こうしてみてくると、関東大震災後の数年間、政府は一貫して、緊縮財政政策を取ってきたことがわかります。そのような経済政策の結果、国民や中小企業は苦難の淵に追いやられることになりました。

 その後、立憲政友会の犬養毅内閣(1931年12月13日-1932年5月26日)になると、高橋是清が大蔵大臣に起用されました。彼が積極財政を展開してようやく、日本が構造的なデフレ状況から脱却することができました。

 1931年の経済成長率は0.4%でしたが、高橋是清が積極財政を展開すると、1932年には4.4%、1933年には11.4%、そして、1934年には8.7%と劇的な回復をみせたのです。(※ Wikipedia「濱口雄幸」より)

 平岡仙太郎は1929年、緊縮財政下でレース工場の操業を開始しました。ところが、その後、積極財政政策が展開されたため、順調に業績を伸ばしていくことができたのです。

■レース製品

 日本はレース製品をスイス、イギリス、フランスなどからの輸入に頼っていました。輸入品なので奢侈品として高い関税をかけられていたのです。

 展示資料によると、緊縮財政下では10割もの税金が欠けられていたといいます。そのようなレース製品だからこそ、国内生産することに仙太郎は商機を見出していたのです。国産にすれば、少なくとも半値にはなるので、大幅な利益を見込むことができます。

 経営者として合理的で、野心的な判断でした。

 レース工業に着目した仙太郎は、昭和2年(1927)からレース工場の設立に取り組みました。そして、1928年にレース工場を設立したのです。レース機械をドイツから導入し、技術者を招いて指導を受け、1929年に機械による刺繍レースの生産を始めました。

 展示資料によると、1928年暮れにドイツ製レース機械を2台購入したそうです。購入代金は3~4万円(現在価格で6~7000万円)、鉄道で運搬したといいます。ドイツ人技師のカール・フランケ、ワルターが3週間ほど滞在し、機械の組み立てや操作の指導を行いました。

 予想した通り、国内向けレースは好調でした。展示写真の説明によれば、ほぼ一年で、レース機械の減価償却ができたといいます。仙太郎に先見の明があったことが証明されました。

 1929年から30年にかけては、機械を10台購入し、横浜から車で運搬しています。前回と同様、ドイツ人指導者が組み立て、後の2台は社員が組み立てを行いました。

 そして、1931年には、機械12台を購入し、今度は社員が中心になって組み立てました。ところが、途中で、作業の中心人物に召集令状が来て入隊してしまったため、最後の1台は仙太郎自身が組み立てたそうです。仙太郎が現場技術に明るい経営者であったことがこれでわかります。

 その後、逐次、設備を改善し、技術の向上に努めた結果、海外の製品に劣らない優秀な製品ができるようになっていきました。

 展示されていた「平仙レース」をご紹介しておきましょう。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 洗練された色遣い、繊細で豪華、上品な図案が印象に残ります。

 1931年頃から、「平仙レース」は海外に輸出されるようになりました。当時の主な輸出先はインドで、サリー用の生地として使われたそうです。

 そして、1934年、機械24台を購入し、レース機械は合計で48台になりました。その後、リバーレース機械2台を購入し、この時、工女の数は300人ほどになっていました。

 展示されていたレース製品をもう一つ、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 精巧で優雅、可愛らしさのある図案が印象的です。

 それにしても不思議なのは、なぜ、ドイツからレース機械を輸入したのかということでした。というのも、当時、日本はもっぱら、スイス、イギリス、フランスからレース製品を輸入していたからです。

 調べてみると、16世紀以降、ドイツでは織機でレースが生産されていました。19世紀になると、レース産業は急速に発展し、20世紀初頭には、ドイツの主要都市にレース教習所が作られたといいます。やがて、機械レースが一般的になり、手作りレースは植民地で生産されるだけになったようです(※ Wikipedia「ドイツのレース」)。

 これだけではなぜ、平岡仙太郎がドイツ製のレース機械を購入していたのかわかりませんが、その後、リバーレース機械を2台購入していることを考え合わせると、彼がハンドメイドに近い繊細で優雅な出来栄えを望んでいたからかもしれません。

 レバーリース機は高級レースを生産するための機械でした。国内外とも、やがては高級レースへの需要が高まると仙太郎は考えていたのでしょう。

 以後、改良を重ねた平仙レースは、たちまちのうちに、日本で最高の品質に達し、海外でも高い評価を受けるようになっていました。事業は好調に伸びていきました。

 こうして、平岡仙太郎は、創業からわずか10年余りで、日本屈指のレース工場に変貌させていたのです。

■技術の開発、継承をどうするか

 平岡仙太郎は創業から短期間でレース工場を築き上げました。日々、研鑽を積み、改良を重ねた結果、良質のレース製品を生産する技術を獲得しました。彼にとって最大の課題は、どうすれば、その技術を将来にわたって保持し、継承していけるかということでした。

 展示資料によると、解決策として、彼は次のようなことを考えたそうです。すなわち、①県繊維工業試験場(現アミーゴ)の設置、②組合の整染工場の設立、などでした。

 いずれも、繊維事業者にとって必要な技術力の錬磨の場であり、学び、研究、指導の場でもありました。このようにして、「平仙レース」と地元繊維業界との架け橋を作っておけば、平仙の技術そのものが消滅してしまうことがないだろうと考えたからでした。

 平岡仙太郎は実際、1936年に県会議長に就任すると、土地や建物を県に寄付し、1937年に仏子染織指導所を誘致しています。他の産地に負けない優れた品質の製品を作り続けるためでした。おかげで、戦中、戦後とさまざまな苦難に見舞われながらも、「平仙レース」の製品や入間の繊維業界の製品は品質を保つことができました。

 仏子染織指導所の建物は現在、「入間文化創造アトリエ・アミーゴ」として地域の人々の文化活動、芸術活動に使われています。空撮写真をご紹介しておきましょう。

こちら →
(アミーゴHPより。図をクリックすると、拡大します)

 16角形の建物の面積は105㎡で、現在、スタジオとして使われています。

 赤いのこぎり屋根の建物は、繊維試験場の建物を残し、ホールとしてリニューアルされました。面積は210㎡あり、グランドピアノ、音楽設備一式が装備されています。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 もちろん、織物工房や染色工房もあります。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 織物や染色を気軽に体験できる場として設置されています。布を織ったり、染色したりすることによって、子どもたちが織物や染色の仕組みを学び、地場産業を知る機会を提供しています。

 繊維業の発展に尽力していきた平岡仙太郎の思いは、繊維業者だけではなく、このような形でも次世代に引き継がれていくのでしょう。

■地域住民とともに

 展示資料によると、西武公民館のロビーに「まとい」がガラスケースに収められて展示されているそうです。

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(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この「まとい」は、まだ自動車が珍しかった1934年、アメリカ・フォード社製の消防車を2台、平岡仙太郎と地元民とが配備したことが称えられ、授与されたものです。消防車2台のうち1台は仙太郎、もう1台は元加治村民からの寄付でした。

 当時のポンプ車は高価で、近隣の村や町にはまだ導入されておらず、地元はもちろんのこと、近隣まで、このポンプ車で消火活動を行ったそうです。

 地域の安全を守る消防活動に、仙太郎と地元村民が1台ずつ寄付したとところに、彼の深い配慮を感じます。自分一人の手柄にせず、村民と共に生きる姿勢を見せたのです。

 仙太郎がいかに地元を愛し、安全を願っていたか、そして、地元の人々と様々な思いを分かち合い、共に地域を守っていこうとしていたか、このエピソードからは、仙太郎の心遣いと郷土愛が感じられます。

 さらに、平岡仙太郎は、仏子の八坂神社に神輿を寄付しています。

 神輿を作る際、彼は、8割は自分が出資するが、残りの2割は氏子が出資した方がいいといったそうです。自分が全額出資してもいいが、そうすると、氏子の信仰心が希薄になるといって、氏子たちにも出資を呼び掛けたというのです。おかげで、近隣にはない立派な神輿を作ることができました。

こちら→
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この神輿は、近隣のものとはくらべものにならないほど、立派なものでした。それは、外見が並外れて豪華で素晴らしいからですが、氏子たちの心がこもったものになっているからでもありました。仙太郎が主導して氏子たちをまとめ、その信仰心を形にしていったのです。

■銅像が語るもの

 1937年に日中戦争が始まると、レース製品の輸出は禁止されました。さらに、緊縮財政下で国内需要もなくなり、経営が困難になっていきました。その後、第2次大戦へと大きく傾き、経済統制はさらに強化されました。

 この時、入間地域の繊維業者の3分の2が廃業に追い込まれたといいます。

 第2次大戦が始まった1939年、平岡仙太郎は45歳の若さで亡くなってしまいました。「平仙レース」のため、地場産業のため、地域住民のため、粉骨砕身して生きてきた平岡仙太郎が、この世を去ってしまったのです。

 地元繊維業界にとっては大きな損失でした。1935年には所沢織物工業組合を設立して理事長となり、仙太郎は業界の発展に力を尽くしていました。それだけに、仙太郎の死は大きな打撃でした。地元繊維業界は、時代の動向を察知し、業界をまとめて牽引していく旗振り役を失ってしまったのです。

 所沢織物商工共同組合は2019年7月、平岡仙太郎を偲び、かつて「平仙レース」第2工場があった場所に、平岡家本宅に合った銅像を移築し、碑を建てました。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 碑文を読むと、平岡仙太郎のさまざまな功績が偲ばれます。

 関東大震災を経て、日中戦争から第2次世界大戦にいたる大変な時期を、彼は積極果敢に生きてきました。銅像に刻まれた穏やかながらも、凛々しく、毅然とした表情が印象的です。

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 ふと思い立って、背後にスーパーの看板が見える角度から撮影してみました。かつて「平仙レース」第2工場があったところで、彼にとっては思い出深い場所です。

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 こうしてみると、平岡仙太郎はいまなお、地場産業を見守り、地域社会を守ろうとしているかのように見えます。銅像が設置された場所は、背後にかつての「平仙レース」第2工場があり、対角に、彼が誘致した仏子染織指導所(現アミーゴ)を臨んでいます。まさに彼が活躍した場なのです。

 それでは、「平仙レース」から何が見えてきたのでしょうか。

 展示写真からはさまざまなものが捉えられていました。それを要約すると、明治、大正、昭和にかけての近代化の過程が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていたといえるでしょう。

■「平仙レース」を通して見えてきた日本の近代化過程

 振り返ってみれば、欧米列強から開国を強いられた日本は、明治、大正、昭和にかけて近代化を急ぎました。拙速ながらも、近代国家にふさわしい制度整備を行い、殖産興業政策を展開してきました。その一つが繊維産業でした。

 「平仙レース」で展示写真を見ていると、日中戦争、第2次世界大戦を経て、戦後復興期に至る日本の近代化過程の一端を概観できるように思いました。

 果たして、近代化は必然だったのでしょうか。大きな地殻変動が起きているいま、改めて、近代化の総括をしておく必要があるのではないかという気がしました。

 明治の日本は産業革命を経ず、欧米列強から近代化を強いられました。閉じた社会からいきなり開かれた社会へと方向転換させられたまま、現在に至っています。近代化の行きつく先がグローバル化であり、そのグローバル化の弊害が、さまざまな領域で顕著になってきているのが現状です。

 そして、令和の今、コロナに始まり、気候変動による大災害、ウクライナ事変に伴う戦争の危機など、体制転換を予感させる出来事が立て続けに起こっています。それらは、やがて来る幕末期に匹敵する激動の時代の予兆のように思えるのです。

 いずれ、誰もが否応なく、社会体制の転換を経験することになるのでしょうが、その後、どのような未来を迎えることになるのか、現在の延長線上で思い描くことは困難です。ひょっとしたら、幕末期の人々のように、これまでとは全く異なった社会体制を強いられるようになるのかもしれません。

 たまたま出会った、「平仙レース」の展示写真から、日本の近代化過程の一端を垣間見ることができました。いくつもの白黒写真を見ていくうちに、再び、大きな社会変動の時期を迎えているのではないかという思いに駆られてしまいました。(2022/3/30 香取淳子)