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第54回 練馬区民美術展に出品しました。

第54回 練馬区民美術展に出品しました。

■第54回 練馬区民美術展の開催

 第54回 練馬区民美術展が、2023年2月4日(土)から2月12日)まで、練馬区立美術館で開催されました。


(図をクリックすると、拡大します)

 今回の展示作品は254点で、その内訳は、洋画1(油彩画)が59点、洋画Ⅱ(水彩、パステル、版画など油彩画以外)が125点、日本画(水墨画含む)が20点、彫刻・工芸が50点です。

 私は、《4月生まれの母》というF12号の油彩画を出品しました。


(図をクリックすると、拡大します)

 左端が私の作品です。

 会場内のライトが額縁のアクリル面に縦に反射し、ちゃんと撮影できていませんでした。撮影後、画像を確認しなかったのが悔やまれます。

■《四月生まれの母》

 次に、私の作品だけを撮りました。


(油彩、カンヴァス、60.6×50㎝、2022年。図をクリックすると、拡大します)

 こちらも会場内のライトが影響したのでしょうか、画面の色調がうまく反映されていません。全般に白っぽく映っています。改めて、絵を写真撮影することの難しさがわかりました。

 さて、今回出品した作品は、母をイメージして描きました。

 大正13年4月生まれの母はもうすぐ99歳になります。認知症が重症化し、3年ほど前から施設でお世話になっています。最近は施設を訪れても、コロナのせいで、直接会うことはできず、ガラス窓越しにしか会えなくなりました。とはいえ、一目、その姿を見るだけで、元気な様子を確認することができ、安心できます。

 昨年訪れた際も、母は見たところ、元気そうで、声をかけると、なにかしら応えてくれました。

 食欲も衰えず、よく食べているせいか、顔色はよく、しっかりとして見えます。その表情を見ていると、私が誰だかわかっているかもしれない・・・と、微かな期待を抱きたくもなります。

 何度も、「お母さん」と呼びかけてみました。聞こえているのかどうか、その都度、車椅子に座った母の目に光が宿り、瞬間、生気がみなぎるように見えます。それを見ると、やはり、わかっているのではないかと思えてきたりします。

 その時、母はなんとも穏やかで、安らかな表情をしていました。

 母は施設の4階でお世話になっています。その4階のスタッフの方々から、母が「100歳のアイドル」と呼ばれていることを知りました。それを聞いて、涙が出そうになるほど、嬉しくなりました。

 母を暖かく、お世話してくださっているスタッフの方々の様子が思い浮かびます。おそらく、母もまた、認知症になっても笑顔を絶やさず、感謝の言葉を忘れないでいるのでしょう。介護する者と介護される者との関係の一端を垣間見たような気になりました。

 老いて、さまざまな記憶が飛び、母はずいぶん前から、私たちの顔もわからなくなっていました。それでもまだ、人としての基本だけはしっかりと脳裡に刻み込まれているのでしょう。それがスタッフの方々との絆をつないでいるのかもしれません。

 若かった頃の母を思い出します。

 母は何事も、声を荒げることなく、穏やかに受け入れてきました。どんなことがあっても辛抱強く耐え、しかも、笑顔を忘れませんでした。

 そんな母の姿がなんども目に浮かぶようになり、今回、出品した作品の画題にしようと思い立ったのです。

■大正、昭和、平成、令和を生きた母

 大正13年(1924)4月5日に生まれた母は、まもなく99歳になります。大正末期に生まれ、昭和、平成、令和と4つの時代を生きてきたのです。激動の時代を乗り越え、よくこれまで無事に生を紡いでこられたものだと思います。

 母が生まれた1924年は一体、どんな年だったのか、見てみましょう。

 年表を見て驚いたのは、ソビエト連邦の議長だったレーニンが1924年1月21日に亡くなっていたことでした。

 第1次世界大戦(1914-918)の後、飢餓のために各国で革命が勃発し、ロシア帝国をはじめ、4つの帝国が次々と崩壊していきました。

 ロシア帝国の崩壊後、1922年12月30日に誕生したのが、ソビエト連邦です。政権を握る議長の座に就いたのがレーニンでした。そのレーニンの死後、後継を巡る闘争を経て、トロツキー派を制し、1924年1月、最高指導者の地位に就いたのがスターリン(1878-1953)でした。

 その後、第一次大戦後の歪みを残したまま、世界は激動の渦に巻き込まれていきます。

 一方、日本では、母が生まれた前年の1923年9月1日に関東大震災が発生していました。建物は倒壊し、火災は発生し、多くの人々が亡くなりました。首都機能は麻痺し、日本全体が極度の飢えと貧困、不安に陥っていました。

 大変な時代に、母は生を受けていたのです。

 やがて世界は、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻から始まる第2次世界大戦に突入しました。

 そのころ、母は15歳、県立姫路高等女学校の生徒でした。

 高等女学校を卒業後も2年間、専攻科に通い、卒業するとすぐ、お見合いで結婚しました。かるた会の席でお見合いが行われたそうですから、百人一首を得意としていた母にとっては絶好の見せ場だったのかもしれません。

 お見合い相手の父は、東京帝国大学文学部英文科(現、東京大学)を卒業し、当時、東京で英語の先生をしていました。そのため結婚すると、母は戦時下の東京で暮らすようになりました。東京での母は、日々、爆撃を逃れ、食糧を調達するのに苦労していたようです。

 結婚の際に親がそろえてくれた着物を持って、農家を訪ね、わずかな食糧と引き換え、なんとか生き延びていました。ところが、戦争末期に、終に、栄養失調になってしまいました。妊娠していたこともあって、一人帰郷し、実家で出産しています。終戦後9カ月、1946年5月、第一子である私が誕生しました。

 その後、父は第四高等学校(現、金沢大学)を経て、岡山大学に移動しました。引っ越すたびに、母は慣れない土地で苦労し、子どもたちを育ててきました。まだまだ調度品は整わず、食糧難の時代でした。

 岡山で暮らしていたのは、池があり、築山のある大きな家でした。微かに記憶に残る家が懐かしく、数年前に訪ねてきました。所々、記憶にある断片と合致し、幼い頃が甦ってきます。

 この家は現在、文化遺産に指定されています。

こちら → https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/115694

 門から道路に続く、この白い石道を三輪車で遊ぶ幼い頃の私の写真が残っています。私たちは、この家の一角に間借りして住んでいました。

 ようやく定住するようになったのが、私が幼稚園の頃です。その頃、何があったのかわかりませんが、祖父から戻ってくるようにいわれたのです。以後、父は、家族を実家のある兵庫県に残し、自身は大学のある岡山県に通う生活を送るようになります。

■子どもたちと母

 父の実家に戻った後、しばらくは、祖父母も一緒に暮らしていました。祖父はまだ医者を続けており、家には、家事担当のお手伝いさんや下働きをする男性もいました。私が自転車の乗り方を教えてもらったのは、体格のいいお手伝いさんでした。

 ところが、私が小学校3年生の頃、祖父母は引っ越していきました。薬局を経営する伯母らと共に暮らし始めたのです。このときも、何があったのかわかりません。ただ、祖父母が引っ越すとともに、お手伝いさんも下働きをする男性もいなくなりました。その途端、大きな家ががらんとした空間になってしまいました。それがとても強く印象に残っています。

 家の管理、家事一切を一人でこなさなければならなくなった母はさぞかし大変だっただろうと思います。なにしろ、それまではお手伝いさんと下働きの男性がいてようやく体裁を整えることができたような大きな家でした。

 父は、週に何日間かは勤務のため岡山に出かけ、不在でした。その間、母と子どもたち4人とで暮らさなければならなかったのです。家事ばかりか、防犯の面でも気苦労が絶えなかったのではないかと思います。

 ある時、母が私に、「誰かが入ってきたら、お母さんが抵抗するから、あなたは弟たちを連れて、裏から逃げて」といったのです。そして、玄関にはしっかりと鍵をかけ、その傍らに木刀を置いていました。私が長子で、下にまだ幼い弟妹がいましたから、母は私を助手代わりに使うしかなかったのでしょう。

 昭和30年代の初め、まだ人々は貧しく、物騒な世の中でした。

 小学校4年生の私は、どの経路で弟妹たちを連れて逃げればいいのか、逃げ切れなければどこに隠れれば安全か、などといったようなことを真剣に考えたことを思い出します。

 母は女学校の頃、バスケットボール部の選手でした。体力には相当、自信があったのでしょう。いざとなれば、子どもたちのため、木刀で闘う覚悟をしていたのです。

 4人の子どもを生み、育てた母は、胃潰瘍以外に大きな病を経験することもなく、父が亡くなった後も、気丈に生きてきました。ところが、今、認知症になり、施設のお世話になっているのです。思いもしなかったことでした。

 人が健康で恙なく、平穏に生きていくことがどれほど難しく、得難いものであるかを思い知らされます。

 母を見ていると、この世に生を受け、一人前に成長し、やがて、老いていく、人のライフコースの中で、もっとも過酷なのは、身体の自由が効かなくなった晩年ではないかという気がします。

 ウィーン分離派の画家クリムトは、《三世代の女性》という作品の中で、老年期の悲哀を見事に表現しています。

■クリムトの《三世代の女性》(The Three Ages of Woman, 1905年)

 グスタフ・クリムト( Gustav Klimt, 1862 – 1918)は、帝政オーストリアに生まれた画家です。日本では、《接吻》(The Kiss, 1907-08年)という作品が有名ですが、それ以前に描かれた作品の中で、気になったのが、《三世代の女性》です。


(油彩、カンヴァス、180×180㎝、1905年、ローマ国立近代美術館所蔵)

 画面中央に年齢の異なる女性が3人、描かれています。おそらく、子、母、祖母という設定なのでしょう。幼児期、青年期、老年期の女性の姿がそれぞれ、裸体で描かれているのです。とても珍しい画題でした。

 子どもを抱いた女性は慈愛に満ちた表情を浮かべ、子どもの頭に頬を寄せています。子どももまた安心しきった様子で女性に身を委ねています。理想的な母と子の姿が描かれており、平和で幸福の象徴に見えます。

 この作品を観て、多くの観客がまず、目を引かれるのはこの部分でしょう。

 実際、後に作成されたポスターや複製画では、母と子の部分だけが切り取られ、作品として出回っています。興味深いことに、《母と子》として、この作品はよく知られているのです(※ https://www.aaronartprints.org/klimt-thethreeagesofwoman.php)。

 そもそも、この作品のタイトルは《三世代の女性》です。クリムトがこの作品を通して描こうとしたのは、子、母、祖母といった三世代の女性だったのです。ところが、この作品はクリムトの意図に反し、「母と子」の部分にスポットが当てられてしまいました。

 一体、なぜなのでしょうか。

 それについて考えてみようと思い、人物が描かれている箇所を拡大してみました。


(前掲。部分)

 母子が幸せそうに肌を密着させている様子は、限りなく優しく、暖かく描かれており、観る者の気持ちを和ませてくれます。見ているだけでほほえましく、幸せな気分になれます。

 ところが、左の高齢女性は一人佇み、老醜をさらしています。この姿を見たとき、見るべきではないものを見てしまったような後味の悪さが残りました。

 女性の肌はたるんで萎び、乳房は垂れています。手といわず脚といわず、静脈が浮きあがり、腹部が異様に突き出ています。しかも、女性は、手で髪の毛を引き寄せて顔を覆っており、その表情を見ることはできません。まるで老いを恥じて、顔を隠そうとしているかのようです。

 クリムトはひょっとしたら、老醜そのものをリアルに描こうとしていたのでしょうか。

 母と子の身体は、それほど克明には描かれていなません。ところが、高齢女性の身体は、苛酷なまでに老衰した状況がリアルに描かれています。今まさに生のさ中にいる母と子の姿に比べ、老いさらばえ、死を待つばかりの高齢女性との対比が、なんともいえず残酷に思えました。

■ロダンの《老いた娼婦》(The Old Courtesan, 1901)

 《三世代の女性》の中の高齢女性の身体は、ロダン(Auguste Rodin, 1840-1917)の《老いた娼婦》(The Old Courtesan, 1901)を参考に描かれたといわれています。1901年にウィーンで開催された19世紀美術展覧会に出品された作品です。
(※ https://www.gustav-klimt.com/The-Three-Ages-Of-Woman.jsp


(ブロンズ、50.2×27.9×20.3㎝、16.8㎏、1885年鋳造、メトロポリタン美術館所蔵)

 これは、かつては美しかった女性の老いた姿を表現した作品です。立体なので、こちらの方がリアルで、老衰の残酷さがいっそう際立っています。

 クリムトは展覧会に参加して、この作品に非常な感銘を受け、翌年、ロダンに会うことが出来た際にはとても喜んでいたそうです。

 このエピソードからは、クリムトは《三世代の女性》で、老衰のリアルを表現しようとしていたと考えざるをえません。

 だからこそ、敢えて、高齢女性とは距離を置いて、母と子を配置し、その密着ぶりが際立つような画面構成にしたのでしょう。

 ちなみにこの作品は、1911年のローマ国際美術展で金賞を受賞しました。クリムト独特の装飾的な美しさの中に、誰しもいつかは迎える老衰という深刻なテーマが、ライフコースの視点を取り込み、巧みに表現されていたからだと思います。

 ところが、その後、この作品は、「母と子」の部分だけが切り取られ、ポスターや複製画として再生産されています。大多数の観客は、快く感じられるものを見たがるという傾向を優先したからでした。

 この一件からは、市場原理に従えば、作者の制作意図とは異なる形で作品を再生産せざるをえないことが確認できたといえます。

■画題としての老いた母

 《4月生まれの母》を描こうと思い立った際、私は悩みました。99歳にもなろうとする母の外見は老衰そのものでした。そのような姿を描くことは、逆に、母を冒瀆することになるのではないかと思ったのです。なによりも、そのような姿を、私は描きたくもありませんでした。

 施設でお世話になっている姿は、確かに、現実ではありますが、母の真実の姿ではありません。

 これまで目にしてきた母の姿の断片が、いくつもの記憶となって、私の脳裡に残っています。それらを反芻しているうちに、母の姿とは、見えている肉体や姿形ではなく、さまざまな記憶、一切合切を含めたもの、すなわち、母が生きるのを支えてきた精神こそ、母の真の姿ではないかという気がしてきたのです。

 いろいろ思いを巡らせているうちに、母を描くとすれば、そのような母の生を貫く精神ではないかという結論に辿り着きました。

 つまり、子どもを守るためには、闘いも厭わない気丈さ、さまざまな困難に遭遇しても、それに耐え抜く強さ、どんな時も笑顔を絶やさない穏やかさ、優しさ・・・、母が生きてきた過程で私が垣間見てきた母の精神を、母のリアルな姿として表現したいと考えたのです。

 この作品で、そのような思いを表現できたかどうか、わかりません。ただ、悲しみと慈愛、忍耐と寛容、安らぎと穏やかさ、優しさ・・・、といったようなものを、顔面の色調や表情などに込めたつもりです。

 背景はもちろん、桜の木です。


(図をクリックすると拡大します)

 入間川沿いに毎年、見事な桜が花を咲かせます。開花した部分とまだ蕾の部分とが混在している時期の桜を取り上げてみました。

 桜花には可憐で、健気で、潔い美しさがあります。母の根本精神を突き詰めれば、そこに到達するような気がします。

 ふと見上げると、真上に桜の木の大きな枝が伸びていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 輝かしく開花した花弁に、ふいに風に吹き付け、はらりと頭の上に落ちてきました。淡いピンク色をした可憐な花びらです。

 画面の母の顔の上にも、この桜の花びらを散らそうと思いました。母はこの桜花のように、老いてもなお初々しいところがありました。

 女学校を卒業してすぐに結婚した母は、一度も社会に出て、働いたことがありません。世間馴れしておらず、もちろん、世間知もなく、いつまでも少女のようなところがありました。

 かつてはそのような母を頼りないと思い、不満に思ったこともありました。ところが、理想を軽視し、即物的な実利優先の世の中になっていくにつれ、世間馴れしていない母の子どもとして生まれ、育てられたことを、とても幸せだと思うようになりました。

 しばらくは、この母を画題に、描いていこうと思っています。(2023/2/27 香取淳子)

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