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第51回練馬区民美術展が開催されています。

第51回練馬区民美術展が開催されています。

■練馬区民美術展の開催
 第51回練馬区民美術展が練馬区立美術館で開催されています。期間は2020年2月1日(土)から9日(日)、開催時間は午前10時から午後6時(最終日は午後2時終了)までです。

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 会場では洋画、日本画、彫刻、工芸の4部門に分けて、展示されていました。

 私は今回、「春の日」というタイトルの油彩画(F15号)を出品しました。

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 油彩画(洋画)部門の展示作品は87点でした。レベルの高い作品が多く、それぞれ見応えがありました。足を止めて見入ってしまった作品がいくつもありました。そのうち、強く印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。

■黒田依莉子氏の『深海の記憶』
 区長賞を受賞した作品です。この作品を会場で見たとき、言葉では表現しきれない不思議な魅力を感じました。写真撮影をして自宅で見直してみると、さらに深淵さが増して感じられ、引き込まれてしまいました。

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 画面左側に見えるやや褐色がかった乳白色の物体は、巨大な深海魚の一部なのでしょうか。まるで馬の臀部から脚部にかけての筋肉のように、所々、隆起が見られます。そこには肉塊の持つ柔らかさとその内側にある筋肉の強靭さが感じられます。よく見ると、かすかに朱が添えられている箇所があり、それが血のようにも見えます。

 視線を右にずらすと、頭がい骨と背骨と尾ヒレだけの魚が泳いでいます。肉片は食べられてしまったのでしょうか、骨の白さが不気味です。その真下でクラゲが浮遊していますが、クラゲの傘はまるで押しつぶされたかのように平板です。中心部には赤くて丸い口のようなものがあり、そこから放射状に赤い線が伸びています。いずれも赤く塗られていますから、これもまた血のように見えます。

 その左下にはタコ壺のようなものが転がっています。中にタコが入っているのでしょうか。つい、覗いてみたくなります。その右側には巻き付けられた縄の先が見えます。おそらく、タコ壺を固定するためなのでしょう。さらに目を凝らすと、背後に張り巡らされた漁網に引っかかった海老のようなものが見えてきます。

 やや引いてみると、クラゲは長い触手を縦横無尽に伸ばしており、その動きの中に水の質感が感じられます。水中だということは、肌色の物体の周辺から浮き上がっていく卵のようなものからも感じられます。

 膜につつまれ、真珠のように鈍い光を放ちながら、卵が肌色の物体から次々と水中に浮遊しはじめています。生命が誕生しているのです。

 興味深いことに、馬の臀部のように見える物体の上に、長方形の金箔のようなものが描かれています。自然界と交じり合うことのない人工物です。画面の下に描かれた縄も壺もヒトが作り出した人工物ですが、こちらは自然界と交じり合い、共生し、やがては朽ちていきます。ところが、金箔のように見えるものはいつまでも朽ちることなく、自然界とは異質なまま存在し続けるのでしょう。

「深海の記憶」とは海中から誕生した生命の根源を指しているのでしょうか。あるいは、深い記憶の底に眠る、個体発生と系統発生との連鎖を指しているのでしょうか。この画面からは、生命が誕生して以来の時間の堆積が感じられます。

 その一方で、さまざまな形状、大きさ、色彩のモチーフが画面に多数レイアウトされており、微妙に層化された奥行が生み出されています。それは水平方向に造形された層と、垂直方向に造形された層と一体化し、生命を育む空間の厚みと歴史を感じさせます。

 さらに、画面左上には金箔のようなものが描かれています。異質のものを配することによって、画面にコンフリクトが生み出され、劇的な構成になっています。とても興味深く、眠っていた感覚を甦らせてくれるような作品でした。

■加藤保典氏の『グラス』
 努力賞を受賞した作品です。何気ないモチーフを描きながら、奇妙な魅力があります。

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 グラスが5個、描かれています。このうち、見る者にとって違和感なく存在しているのはただ1つで、それ以外は描かれた視点がそれぞれ大きく異なっています。それが不思議な調和を保ちながら、重なり合って、一つの世界を創り出しています。

 グラスが5個、描かれていると書きましたが、ひょっとしたら、それ以上かもしれません。見る者にそう思わせてしまうほど、ただ一つのグラス以外は見たままを描かず、複雑に絡ませながらレイアウトしています。グラスの底面と上の縁、いずれも円形ですから、重ね合わせ、逆さまにして見せることが可能です。上部も下部の円形だということを利用して、まるでパズルのような絵柄を生み出しているのです。

 この作品を見ていて、ふと、セザンヌのリンゴを描いた作品を思い出してしまいました。タイトルは、『リンゴとオレンジのある静物』です。

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(1999年制作、オルセー美術館所蔵)

 真ん中のリンゴ以外はすべて、どこか違和感があります。リアリティに欠ける表現で描かれているからでしょう。食器の描き方も、布の描き方も雑に見えます。そう見えてしまうのは、セザンヌが遠近法を無視し、立体表現を無視したうえで、複数の視点を組み込んで描いているからでした。

 セザンヌのこの作品は、見る者に違和感や不安定を感じさせます。それは、遠近法や統一した視点といった作法から離れ、微妙に異なる複数の視点を画面に取り入れることによって生み出されていました。

 一方、展示されていた『グラス』は、極端に異なる複数の視点を画面に持ち込み、モチーフを描いた結果、見る者に謎解きの衝動を呼び起こしていました。こちらは不安感というよりは解明欲求を喚起させます。

 いずれも見る者を画面に引き付け、考え込ませる力を持っています。両者に共通するのは、一つの画面に異なる複数の視点を取り込んでいるということです。

 私がこの作品に奇妙な魅力があると思ったのは、現代的な要素が巧みに表現されていたからでした。透明なグラスには無機的でメカニックなイメージがあります。そのグラスをモチーフに、作者は極端に異なる複数の視点を一つの画面に取り込んでいました。だからこそ、シャープで脆い現代性を盛り込むことができたのかもしれません。

 現代社会では、人々は日々、明らかに異なる視点で発信された情報に晒されています。それだけに現状を把握するのにどれほどコストがかかり、負荷がかかっていることか・・・。

 この作品には、現代社会がヒトに押し付けているストレスが象徴されているようにも思えます。鋭角的で、繊細で、とても興味深い作品でした。

■伊藤茂子氏の『まどろむ頃』
 奨励賞を受賞した作品です。会場でこの作品を見たとき、ほっと気持ちが和むのを感じました。

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 淡い色調の画面からは、爽やかな空気と暖かな陽射しが感じられます。中心からやや左寄りに配置された数本の木々をメインに、画面が構成されています。葉は落ち、幹と枝だけの木々が柔らかな陽射しを受けて立っています。下草の生えた地面には水たまりができていて、木々の一部が水に映っています。

 枯草のように見える薄い黄土色のそこかしこに黄緑が配色されており、春の芽吹きが感じられます。遠くを見ると、木々の上部がピンク色で霞むように描かれており、桜を連想させられます。

 この作品には全体に春の雰囲気があります。それも、ようやく訪れたばかりといった趣の、早春を感じさせられます。この作品を見て、私がほっとした気持ちになったのは、見る者の緊張を解きほぐし、安らかな気分にしてくれる何かが画面から滲み出ていたからでしょう。

 それは、安定感のある構図のせいかもしれませんし、柔らかい色調のせいかもしれません。あるいは、水と木、草と空といった何気ないモチーフを優しく包み込んで作品化する画力のおかげかもしれません。

 この作品ではモチーフのエッジははっきりと描かれておらず、色彩だけで識別させています。境界線を引かずにコントラストを抑え、穏やかな色調で全体を整え、いってみれば、朦朧とした表現で画面全体が包み込まれていました。まさに、タイトルの「まどろむ頃」そのものの世界が描出されていたのです。油彩画でありながら、日本的な感性の感じられる作品でした。

■絵画が喚起するさまざまな衝動
 さまざまなジャンルの展示作品を見ていると、不意に、キャンバスを通して私は何を見ているのだろうかという疑問が頭をよぎりました。一目で立ち去る作品もあれば、その前でじっと佇んで見入ってしまう作品もあります。なんらかの判断基準が働いて、そのような鑑賞態度になるのでしょうが、それが何なのか、気になったのです。

 今回の展示作品はどれもレベルが高く、上手か否かで判別しているわけではないのは確かです。モチーフで見ているのかといえば、そうでもなく、色彩や構図、マチエールといったものでもないような気がします。

 それでは何かといえば、見る者を刺激し、なんらかの情感を喚起するような作品だということになりそうです。

 『深海の記憶』、『グラス』、『まどろむ頃』等の作品の前で、私はしばらく、佇んで見ていました。作品と対話していたといってもいいかもしれません。画面から放たれる刺激を受けて考えさせられ、自分なりの見解を見つけようとしていたのです。

 これらの作品には作者が感じ、考え、思い悩んだ軌跡が反映されていました。だからこそ、画面を見ていた私もそれに反応しようとしたのでしょう。そのことに気づいてからは、絵画の価値は、見る者に何らかの衝動を喚起させる力を持つか否かで判断されるのではないかと思うようになりました。もちろん、判断基準は人それぞれで、私の場合は、という注釈つきですが・・・。(2020/2/2 香取淳子)

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