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枯れたアジサイに見た、春の訪れ

枯れたアジサイに見た、春の訪れ

■久しぶりの入間川遊歩道
 2020年2月25日、好天に誘われ、久しぶりに入間川遊歩道を訪れてみました。着いてみると、桜の木々が巨大な幹を惜しげもなくさらけ出していました。晴れ渡った青空の下、春とは違った眺めを提供してくれていました。

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 立ち並んだ桜の巨木はすっかり葉を落とし、幹と枝だけになっていました。いっさいの装飾を削ぎ落し、素の形になっていたのです。

 葉も花もないので、一見、味も素っ気もないように見えるのですが、よく見ると、幹の形状はそれぞれ異なり、味わいのある個性豊かな佇まいをしているのがわかります。葉で覆われ、花を咲かせていた時とは違って、逆に、壮大さが際立って見えました。

 幹からさまざまな方向に伸びている枝もまた、多様な形状を誇示していました。風雅な曲線を描いて垂れさがっているものがあれば、重力に抗うように、空に向かって高く伸びているものもあって、まるで青空をキャンバスに描かれたアートのようでした。

 巨木の下の草叢は一部を残して、枯れていました。垂れ下がった枝に沿って視線を落とすと、川べりで群生したススキが揺れているのが見えました。

 さらに歩を進めました。

■澄み渡った川面
 立ち止まって見渡すと、色彩を失った世界が広がっていました。

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 川辺は一面、枯れススキで覆われています。

 すぐ傍の大きな桜木の幹が下草の生えた斜面に巨大な影を落としています。その脇にそっと寄り添うように生えている灌木も枯れて、土色をしています。巨木から伸びる枝が、斜面を超えて川を跨ぎ、画面を鋭角的に切り取っています。その対岸の岸辺に生えている草もまた土色をしています。

 遊歩道を取り巻く周辺は色彩を失った世界でした。それだけに、川面の澄み渡った青がとても印象的です。川べりではススキの白い穂先が風に従って揺れています。遠目からでもはっきりと見えるほど澄んだ空気がたちこめていました。

 桜の大木が大きな影を落とした斜面に、突如、冷たい風が吹き付けてきました。遊歩道上にいる私にも刺すような冷気が及び、まだ冬が居座っていることを感じさせられます。

 ふと反対側の桜木を見ると、その脇に、枯れたアジサイがひっそりと立ち尽くしていました。

■桜木の下の枯れたアジサイ
 花も葉もほとんどが風で吹き飛ばされてしまったのでしょう、茎だけになっています。

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 道路側の斜面には常緑の草木が植えられています。そのせいか、枯れた土色のこのアジサイがことさらにみすぼらしく見えます。

 思い立って、道路側に降りてみることにしました。

■そこかしこに枯れたアジサイ
 道路側に降りてみると、その斜面には、枯れたアジサイがひと塊の棒のような姿を晒していました。かつては華やかに開いた花の競演ステージになっていた場所が、いまや土色の枯れた茎の集積場になっていたのです。

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 そこかしこに枯れたアジサイの無残な姿がありました。それに反し、桜木は葉が落ちてしまっても、大きな幹と枝ぶりがくっきりと力強く、目立っていました。飾るものがなくても、壮大で揺るぎのない存在感があったのです。

 それでは、枯れたアジサイに近寄って見ましょう。

■ドライフラワー状態のアジサイ
 巨大な桜木の下にドライフラワー状態になったアジサイがありました。

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 この写真ではちょっとわかりづらいのですが、桜木の左側、遊歩道近くにガクアジサイの形をそのまま残して枯れているアジサイがあります。その右隣の3本は花も葉も落ちてしまっていますが、桜木の太い幹が分かれた右側にも3つ、ガクアジサイの形を残したまま枯れているアジサイがあります。

 いずれも葉は落ちてしまっているのに、花の部分だけ残っているのです。ドライフラワーを見ているような妙な気分になりました。

■葉が枯れて縮んだアジサイ
 遊歩道を少しずつ歩を進め、次々と枯れたアジサイを見ていくうちに、一口に枯れたアジサイといってもその形状はいろいろだということがわかってきました。もっとも多いのは、葉が付いたまま枯れて、縮んでいるものでした。

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 この枯れたアジサイには、太陽の陽射しがさんさんと降りそそいでいます。遊歩道にはくっきりとした黒い影が刻み込まれていますから、それがどれほど強い光量かがわかろうというものです。

 ところが、このアジサイの葉も茎も枯れ果ててしまっているので、太陽の恩恵を享受できていません。見ているうちに、せっかくの太陽の陽射しを、命を育む貴重なエネルギーとして取り込めていないのが残念に思えてきました。

 ふと前方を見ると、この先にも、同じように茎と葉の一部分だけが残ったアジサイの姿が見えました。

■枯れたアジサイから新芽
 近づいて見ると、こちらは枯れた葉の下から新芽が出てきていました。

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 枯れた茎から、枯れて縮んだ葉を押しのけるようにして、青々としたアジサイの新芽が顔を出しているのです。それを見たとたん、胸の奥底からこみ上げてくるものがありました。

 感動しました。見ると、その後ろにも、その下にも枯れた茎から新芽が出てきています。

 こうしてみると、太陽の陽射しは着実に、枯れたように見えるアジサイにもしっかりとエネルギーを与え、新たな命を吹き込んでいたのです。

 道路側に降りてみると、枯れた茎から次々と新芽を出しているアジサイが見えました。

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 なんと勢いよく、次々と小さな芽を出していることでしょう。土色の茎から健気に顔をのぞかせている新芽が、なんともいえず愛おしく思えます。

 ふいに、「冬来たりなば、春遠からじ」という有名な一句を思い出しました。誰もが一度は聞いたことがあるでしょう。文語体なので、いかにも日本の成句のように思えますが、実は、イギリスの詩人シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792- 1822年)が書いた「西風に寄せるオード」(”Ode to the West Wind”)の最後の句の日本語訳なのです。

 原文は、“If Winter comes, can Spring be far behind?”です。

 日本語訳ですぐにわかるように、このフレーズには、春を待ちわびる気持ちが込められています。今回、原文を取り出してみたところ、WinterもSpringも大文字になっていることに気づきました。擬人化されているのです。

 季節が擬人化されているからこそ、冬が来れば、まもなく春がやってくるという語意に、春の訪れを待ちわびる作者の心情を込めることができているのでしょう。小文字を大文字に変えるだけで、単なる説明ではなく、言葉で表現しきれない微妙な心情が豊かに表現されていることがわかります。

■春はもうそこまで
 シェリーの詩を思い出すと、今度は連鎖反応的に、“Spring is just around the corner”というフレーズが頭を過りました。

 はるか昔、テスト前に友人と一緒に英語の勉強をしていたときの状況が甦ってきたのです。

 こちらのフレーズは、英語学習用の例文の一つですが、“just around the corner”という表現が実に具体的です。まるで春を抱えたオジサンがもうそこまでやってきているというイメージがあって、面白く、高校生の頃はシェリーの詩の一節よりもこちらの方が気に入っていました。

 いずれにしても、季節が擬人化されているからこそ、春を待つヒトの想いをさり気なく、言葉に託すころができているのでしょう。
 
 軽く伸びをしてから、周囲を見渡すと、道路側の斜面に、水仙がそっと花を咲かせているのが見えました。

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 普段なら気づかず、見過ごしてしまうほど小さい花です。それが、枯れずに冬を越した草叢の中に、遠慮がちに花弁を開いていたのです。時折、強く吹きつける風に、激しく揺られながらも、凛とした姿勢を崩さないのに惹かれました。

 2021年の年初、高校時代の同級生が二人、逝去されたことを知りました。ショックでした。同窓会でいつか会えるだろうと思っているうちに、果たせないまま永遠の別れを迎えてしまいました。それが残念でなりませんが、枯れた茎から顔をのぞかせたアジサイの新芽を見ているうちに、形を変えた命の存続というものもあるのではないかという気がしてきました。

 風が強く、冷たく、まだとうてい春とはいえませんが、アジサイの新芽を見てから、なんとなく気持ちが和み、優しくなっていくのが感じられました。枯れた葉にひっそりと身を潜め、春はもうそこまで来ているのです。(2021/2/27 香取淳子)

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