■玉川温泉
2022年11月4日、埼玉県嵐山史跡博物館に出かけた帰りに、埼玉県比企郡ときがわ町にある玉川温泉に立ち寄りました。たまたま手にしたチラシに、「お肌つるつるの美肌の湯」と書かれていたのを見て、ふと、訪れてみる気になったのです。
こちら → https://tamagawa-onsen.com/spa/
これを見ると、玉川温泉は、地下1700メートルの秩父古生層から湧出するアルカリ性の単純泉で、ph値は10と書かれています。
調べてみると、温泉はph値が高いほどアルカリ性、小さいほど酸性という区分されており、中間値はph6以上7.5未満で、日本の温泉で最も多いのはこの中性の温泉だそうです。
玉川温泉はph値が10なので、相当アルカリ性の高い泉質だということがわかります。アルカリ性の温泉は皮脂を落とし、角質を柔らかくする効果があるので、「お肌つるつる」になるのでしょう。
玉川温泉に就いての情報を確認し、カーナビの案内に従って、ときがわ町に向かいました。次第に人家が少なくなっていく山の中で、カーナビが案内終了を告げました。車が何台か駐車している場所が近くに見えたので、おそらく、ここが玉川温泉なのでしょう。ところが、温泉があるような気配はどこにもありません。
下車して少し歩くと、古民家のような建物が見えてきました。
■古民家かと見まがう玉川温泉
どう見ても、高齢者が住んでいるとしか思えないような建物です。家の前には、廃棄物のような生活用品が放置されています。
いまではほとんど見かけることもない色褪せた郵便ポスト、小さな三輪自動車、そして、手前左には錆びついた自転車が置かれています。なんとも奇妙な取り合わせです。置いてあるものがいずれも、時代がかっているのです。
一瞬、場所を間違えたかと思いました。ところが、郵便ポストの背後に、「玉川温泉」の看板が見えます。やはり、ここが玉川温泉のようです。
確認するため、看板に近づこうとすると、その前に、まるで行く手を阻むかのように、古びたタイル張りの、洗い場のようなものが置かれていました。
高さからいって、どう見ても、洗い場ではありえません。中を覗き込むと、鎖のついた栓もついています。どうやらお風呂のようです。こんなに小さなお風呂があるのかと驚くほどの小ささですが、昔はこれで足りていたのでしょう。
古ぼけたタイル仕様のお風呂のすぐ近くに、「玉川温泉」の看板が掛けられていました。こちらは、赤地に白で書かれた「玉川温泉」の文字が鮮明で、印象的でした。
近づいて見ると、看板だと思っていたものが、実は、垂れ幕でした。ロールスクリーンのように、下部にウエイトバーがついており、風が吹いても巻き上がらないように固定されています。これなら、遠くから見て、看板だと思ってしまったのも無理はありません。
よく見ると、「玉川温泉」の脇に、小さな文字で、「昭和レトロな温泉銭湯」とキャッチコピーが書かれています。
このキャッチコピーを読んでようやく、この温泉の位置づけがわかりました。廃棄物にしか見えなかった古臭い生活用品は、なんとこの温泉をアピールするためのオブジェだったのです。
■昭和レトロな温泉
放置されているようにみえた昭和のオブジェは、見たところ、昭和30年代のモノのように見えます。日本がとりあえず戦後復興を終え、ようやく経済成長期に入った頃、人々の生活を支えてきたさまざまな生活用品です。
それが、今、こんな山の中の温泉をアピールするための道具として使われているのです。改めて、「昭和レトロな温泉銭湯」の文字が気になってきました。
奥の方に、「玉川温泉」と書かれた提灯が見えます。
その提灯の奥には、さきほど見たのとはまた別の小さな三輪自動車が置かれ、背後に「アサヒビール」と「ニッポンビール」の看板が見えます。看板でありながら、購買者の気持ちを煽ろうとするところがなく、ただ、白い鉄の板に赤い文字だけが書かれています。実に、素朴です。
そういえば、ここに置かれているモノ、一つ一つが素朴で、飾り気がなく、質素でした。
商品名を書いただけの看板、ようやく一人が浸かれるだけの小さなお風呂、おもちゃのような三輪自動車、いずれも生活に必要な機能だけを求め、最低限の仕様で製品化されていました。慎ましく、必死に生きていた当時の人々の生活の一端を見たような気がしました。
実需主導でモノが流通していた頃の質実な生活に、気持ちが動かされました。戦後の復興期から経済成長期にかけて、これらのモノが、どれほど多くの人々の生活を支え、未来への希望をかき立てていたのでしょうか。
未来への不安を払拭できなくなっている令和の今、もはや昭和を振り返る手掛かりすら失ってしまっています。昭和レトロをアピールする玉川温泉にやってきたのですから、せっかくの機会を無駄にせず、昭和30年代にタイムスリップし、当時を振り返ってみることしたいと思います。
■一世を風靡したミゼット
道路側から玄関を眺めると、また別の光景が見えてきました。
画面左側に、手押しポンプの井戸が見えます。水道が普及するまで、人々はこのようにして井戸から水をくみ出していたのです。その傍らに小さなタイル張りの洗い場が見えます。人々はここでしゃがみ込んで洗い物をし、炊事の支度をしていたのでしょう。
ここからは、「フクニチ スポーツ」や「毎日新聞」の看板も見えます。
画面中央に、最初に見たのとはまた別の三輪自動車が置かれています。特徴のある形はおそらく、ミゼットでしょう。子どもの頃、テレビCMでよく見ていた記憶があります。
懐かしい思いに駆られ、スマホで調べてみると、確かに、このおもちゃのような車はダイハツ・ミゼットでした。1957年8月1日に販売開始されたダイハツのミゼットDKA型だったのです。
初代ミゼットをこんなところで見かけるとは思いもしなかったので、驚きました。
もっと近づいて、見てみましょう。
写真を見てわかるように、前面に風防こそ装着されていますが、屋根と背面は幌仕立てです。ドアも付いておらず、一人しか乗れません。今から65年も前の車ですが、あまりにも簡単な造りなので、驚いてしまいました。
車としては最低限の仕様です。それでも、リヤカーよりも速く、人の労力を軽減できるので重宝され、日常の運搬車として活用されていました。
このダイハツ・ミゼットのテレビCMに起用されていたのが、当時、お笑い番組で人気のあった大村崑です。「ささやん」と呼ばれていた佐々十郎とコンビで、ミゼットを紹介していたのを、今でもすぐに思い浮かべることができます。
大村崑のとぼけた風貌と所作が面白く、毎回、飽きもせず真剣に見ていたことを思い出します。子どもたちの中にはそのセリフと振りを真似するものもいて、人気はうなぎのぼりでした。大村崑は、ミゼットのCMには最適のお笑いタレントでした。
愛らしいデザインのミゼットもまた、人々に愛され、小回りを利かせ、街中で生活物資を運んで走り回っていました。是非とも、当時を振り返ってみたいと思って、ユーチューブを検索してみると、当時のCMを見つけることができました。
ちょっと、見てみることにしましょう。
こちら → https://youtu.be/bEBmAGdAhHk
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学生服を着た大村崑と佐々十郎が、掛け合い漫才風に、ミゼットを紹介しています。「一番小さい車」「一番小回りの利く車」「一番安全な車」「一番安い車」「現代の車」と佐々十郎が立て続けにミゼットの効能を述べると、その都度、大村崑が可愛らしい振りをつけて、「ミゼット」と呼応していきます。
止めどなく「ミゼット」と連呼し続ける大村崑を打とうとした佐々十郎を、大村崑は見事にかわして空振りにさせ、最後は大村崑が佐々十郎の額を打つといった展開で終了します。二人の持ち味を活かしたコント形式のCMでした。
続くCMでは、漫才師の芦屋小雁が単独で登場し、ミゼットに2人乗りが出来たと告げています。小雁もまた当時、人気のお笑い芸人でした。背後に男女二人が乗ったミゼットが見え、運転席から男性がミゼットの改良点を述べています。
こちら → https://youtu.be/9T84GUSGofs
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小雁がしきりに、「二人乗りの丸ハンドル」、「ダイハツ生まれのアメリカ育ち」とアピールしています。実は、ダイハツで開発されたミゼットが、アメリカ輸出向けに改良されたのが、このミゼットMPでした。アメリカでも街中での小口輸送向けにミゼットの需要が高まっていたのです。
そのミゼットMPが日本向けに右ハンドル仕様で改良したのがMP2で、その後、鋼板製のクローズドリーフになったのがMP5型です。
ミゼットの発展経緯を見てくると、玉川温泉の入り口で見た三輪自動車は、1962年12月に販売開始されたミゼットMP5型だったことがわかります。
改めて、最初に見た三輪自動車を見てみると、ライトが二つ、サイドミラー、ワイパーが装着され、ドアもついています。DKA型よりもはるかに進歩していることがわかります。調べてみると、形状からいえば、ここに置かれているのは、1969年8月に販売開始されたMP5改良型でした。
ミゼットは当時、軽自動車の分野で市場を席捲していました。やがて、3輪から4輪への流れに押されるようになり、1971年12月には最後の受注分の生産を完了しています。そして、1972年1月31日には販売を終了しました。経済成長時、中小零細企業の躍進を牽引した功績を残し、ミゼットは幕を閉じたのです。
それでは、玉川温泉の中に入ってみましょう。
■シンガー製足踏みミシン
玄関を入り、フロントに向かう靴脱ぎ場に置かれていたのが、足踏みミシンです。
足踏み台にはSINGERと刻印されています。母がこのような足踏みミシンを踏んで、さまざまな洋服を作ってくれていたことを思い出します。
シンガー社製のミシンはすでに明治40年頃、日本に輸入され、販売されていたようです。軍服を大量生産する必要に迫られ、ミシンが大量に輸入されていたといわれています。
こちら →
(※ https://nihonvogue.com/article/detail.html?id=191&c=sewingより。図をクリックすると、拡大します)
この目録には、「家庭及職業用シンガーミシン目録」と書かれています。家族の洋服を作る必要に迫られ、業務用ばかりか家庭用ミシンも輸入されていたことがわかります。近代化に伴い、着物から洋服への移行期を迎えていたからでしょう。
その後、戦後の復興期を経て、産業化が進み、昭和30年代になると、多数のホワイトカラーや技術者が生み出されていきました。それに合わせて、核家族化が進み、家庭を守る存在として主婦が重要な役割を担うようになっていきました。
家事、育児、家族の健康管理、衣服管理、家計管理など、企業戦士としての夫を支えるための後方支援として、主婦は、内なる働きを求められるようになっていったのです。家庭のさまざまな用務を果たすための情報基盤となったのが、『主婦の友』をはじめとする主婦向けの雑誌でした。
家族の衣服に関しても、主婦は雑誌を手掛かりに、自分でミシンを踏み、手作りをしていたのです。
母は、『主婦の友』を定期購読していましたが、それは付録に型紙がついていたからでした。付録の中から気に入った型紙を選び、子どもたちの服を作り、自分の服も作っていたのです。
たとえば、1954年3月号の『主婦の友』の付録はこのようなものでした。
表紙に若尾文子と松島トモ子が起用され、大きく「実物大型紙つき 通勤通学服新型集」とタイトルが付けられています。これを見ると、母が付録の洋服特集を見せてくれて、どれがいいと尋ね、私が望んだ服を作ってくれていたことを懐かしく思い出します。
足踏みミシンを見ると、カタカタという音とともに、当時の母の姿がまぶたに浮かびます。
さて、ミシンに気を取られてしまっていましたが、背後の壁に、福助のロゴの入った看板が掲げられています。
福助といえば、明治、大正、昭和と足袋メーカーとして名を馳せた会社です。子どもの頃、この看板をいろんな場所で見かけた記憶があります。
■福助の円形看板
この福助の看板は、円形のホーロー製の看板です。かつて戸外に掛けられていたのでしょう。所々、錆びが見られます。先ほどの写真から看板部分を拡大してみましょう。
円周の内側に沿って、上部に「名實共ニ日本一」、下部に「福助足袋」と、いずれも右から左に手書き文字が書かれているので、いかにも年代物といった感じがします。
この福助人形は、子どもの頃、いろんな所でよく見かけました。今回、ずいぶん久しぶりに見たのですが、福々しい顔と丁寧な所作は懐かしく、今見ても、気持ちが和みます。時代を超え、社会を超えて、ヒトの気持ちを和ませる何かがあるのでしょう。
実は、この福助人形は、創業者親子のミッションを込めて作られていました。
1900年(明治33)、彼等はこの福助人形を新たに商標登録をするとともに、社名まで「福助」に変更したという経緯がありました。
社史によると、創業者の辻本福松の息子、豊三郎が伊勢神宮にお参りに行った際、近くの古道具屋でこの福助人形に目を止め、買い求めました。福松親子はこの人形をベースに、人間の徳を表す「仁・義・礼・智・信」のイメージを加えたうえに、頭を低くし、手をついて礼を尽くすポーズの福助人形を作り、1900年(明治33)、新たに商標登録をし、併せて、社名を福助に一新して事業に打ち込んだそうです。
(※ https://www.fukuske.co.jp/contents/history/)
その後、洋風化が進み、人々は着物を着る習慣を失っていきました。福助は今、足袋メーカーではなく、ストッキングなどのメーカーとして事業を継続しています。人間の徳を重視し、それをミッションにして事業展開してきたからでしょうか、事業を継続することができているのです。
社史から、福助が1895年(明治28)、日本で初めて足袋縫い鉄輪ミシンを完成させたことを知りました。機械化によって製品の品質を向上させたのです。
そればかりではありません。日本発の足袋縫いミシンの特許権を得た1895年、「手縫いにまさる機械縫いの足袋」という新聞1ページ大の看板を市内に掲げました。その後、広告活動に力を入れ、大正時代になると、画家に依頼し、美人画を使った広告も制作しています。
こちら →
(※ https://www.fukuske.co.jp/contents/history/より。図をクリックすると、拡大します)
これは、画家・北野恒富による美人画を使ったポスターです。右上に福助のロゴが入り、背景には、「将来このくらいの大工場を造りたい」という理想の工場が描かれています。
福助を創業した辻本福松がいかに進取の気性に富み、製品の質を向上させることに努力を惜しまなかったか、製品を販売するための広告活動に力を入れていたかがわかります。
それでは、そろそろ温泉に戻りましょう。
■昭和レトロなミュージアム
玉川温泉のお食事処の一角には、往年のポスターが何枚も掛けられていました。ここでも、もはや振り返ることのできない当時の社会文化の一端を味わうことができます。
もちろん、お食事処も当時を偲ばせる設えになっていました。
まるでミュージアムのようなレトロな玉川温泉の泉質はまた格別でした。実際、温泉に浸かってしばらくすると、肌がつるつるしてきたような気がしてきたのです。
お湯は熱すぎず、刺激も少なく、いつまでも浸かっていられるまろやかさと柔らかさがありました。レトロな気分になっていたこともあるのでしょうが、なんともいえない安らぎを感じさせられました。
眼を閉じ、しばらくゆっくりと浸かっていると、いつしか雑念が払われ、気持ちがのびやかに広がっていきます。日々の煩わしさから解き放たれ、頭の中が次第に浄化されていくような気持ちになりました。
やがて全身がほぐれ、溜まっていた疲れがすっかり取れていきます。心身ともにストレスのない状況になっていきました。日頃、肩こりに悩まされていましたが、肩の凝りや疲れがすっかり取れました。美肌効果というより、疲労回復効果を感じました。
一般に、単純温泉には、「疲労回復、神経痛、筋肉痛、肩こり」などの効能があるようです。しかも、玉川温泉はph10で、アルカリ性の泉質でした。だからこそ、疲れが取れただけではなく、肌もつるつるになったような気分になったのでしょう。
それにしても、玉川温泉は一風変わった温泉でした。設えが普通の温泉とは全く異なっており、外観も内観もまるで昭和30年代の生活に戻ったような気分にさせられます。体験型ミュージアムといってもいいのかもしれません。(2022/11/30 香取淳子)