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彼岸花が咲きました。

彼岸花が咲きました。

■川辺の彼岸花
 2020年9月19日、久しぶりに入間川の遊歩道を訪れてみました。暴風雨の後だったせいか、たくさんの桜の葉は吹き飛ばされて地面に落ち、その一部が歩道脇に溜まって、落ち葉の層が出来ていました。それぞれが黄褐色に色づいており、一足早い秋の訪れを感じさせられます。

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(落ち葉の遊歩道、図をクリックすると、拡大します)

 日中はまだ30度近い気温が続いていました。歩くと汗ばみ、木陰が恋しくなるほどです。外にいると、いまだに夏だとしかいいようがありません。とはいえ、そんな中でも時折、そよ吹く風に微かな冷気が感じられます。

 そういえば、騒がしかったセミの鳴き声もひと頃よりは勢いが衰えてきました。夜になれば、虫の音が聞こえてきます。耳を澄ませ、注意深く周囲を見れば、そこかしこに秋の気配を感じることができます。これまで気づかなかっただけで、秋は着実に訪れてきているのです。

 遊歩道の脇に目を向けると、もはや夏はすっかり去っていることがわかります。

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(落ち葉の向こうに赤い花、図をクリックすると、拡大します)

 つい先日まで青々と輝いていた桜葉は、いつの間にか落ち、遊歩道沿いの土手は秋色に染め上げられていました。色変わりした落ち葉がなだらかなスロープ上に拡散し、まるで川辺に秋を運んでいるかのようです。

 近づいて見ると、スロープの先にうっすらと赤い花が咲いているのが見えました。その手前には桜木の枝があり、低く垂れています。枝先は川に向かって細く伸び、遊歩道からのヒトの視線を赤い花に誘導しようとしているかのように見えます。

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(小枝の先に赤い花、図をクリックすると、拡大します)

 さらに近づくと、ちょうどその枝先にかかるところに、赤い花がいくつか咲いています。どうやら彼岸花のようです。

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(彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 近づいてみると、たしかに、彼岸花でした。

■長い茎に支えられた彼岸花
 なだらかなスロープを降りていくと、また別の場所に彼岸花が群生していました。

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(群生する彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 どの花も長い茎に支えられ、すっくと立っている姿が印象的です。

 スロープを上っていくと、綺麗に花開いた彼岸花がありました。アップで撮影したのが次の写真です。

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(彼岸花アップ、図をクリックすると、拡大します)

 長く伸びた茎に上に、独特の形状をした花がかすかに揺れています。細く優雅な曲線がとても印象的です。大きな赤い花弁が鮮やかで、ひときわ目立っていました。とはいえ、どこかしら寂しげな風情が漂っているのが気になります。

 孤立して咲いているからでしょうか。

 そう思って周りを見渡すと、すぐ近くに、まとまって咲いている彼岸花が目に入りました。

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(すっくと立つ彼岸花、図をクリックすると拡大します)

 桜の木の傍で、数本の彼岸花が支え合うように、寄り添って咲いています。豪華な赤い花弁がことさらに際立って見えます。ところが、どういうわけか、これらの花にもそこはかとない寂寥感が漂っています。

 何故、そう思ってしまうのでしょうか。

 しげしげとみているうちに、どの花も葉がないことに気づきました。すっくと伸びた長い茎の上に、大きな赤い花が載っているだけなのです。改めて全体を見ると、何とも奇妙な姿でした。見下ろすと、川べりで咲いている数本の彼岸花にも、同じように葉がありません。

 そこはかとなく寂寥感が漂っているように思えたのは、おそらく、この花の茎にはひとつも葉が付いてなかったからでしょう。本来あるべきものがないので、欠落感、喪失感を覚え、この花自体が寂しそうに見えたのかもしれません。

 喪失感といえば、全国どこでも、毎年、お彼岸の頃になると咲くといわれています。Oxford Languagesの定義によると、彼岸には、①向こう岸、②仏道に精進して煩悩を脱し、涅槃に達した境地。この二つの意味があります。

 彼岸とは「あの世」を指し、故人がいる世界を意味します。日本人にはこの彼岸の時期にお墓参りをする風習があります。お墓参りをすることによって、故人を偲び、感謝し、日々の煩悩を振り払うことによって、安寧の心境を得ることを行事化しているのです。

 彼岸花はまさにお彼岸のための花でした。

 私が子どもの頃は、この花を「曼殊沙華」と呼んでいました。「まんじゅしゃげ」という音の響きにかすかな違和感があって、馴染めないものがありました。それは、初めてこの花を見たのがお寺だったせいか、ちょっと恐いような、不吉なイメージがあったからかもしれません。

■ちょっと不吉なイメージの彼岸花
 なんだか気になったので、調べてみると、水戸市植物公園園長の西川綾子氏は彼岸花について、次のように言っています。

「まず花が咲き、後から葉っぱが伸びるという通常の草花とは逆の生態をもっています。その葉と花を一緒に見ることがない性質から「葉見ず花見ず」と呼ばれ、昔の人は恐れをなして、死人花(しびとばな)や地獄花(じごくばな)などと呼ぶこともありました」
(※ https://horti.jp/2459)

 たしかに、土手に咲いた彼岸花を見ると、葉がありませんでした。明らかに一般の花とは異なっていました。まっすぐに伸びた茎の印象がことさらに強く、どこかしら寂しげな様子に見えたのですが、それが、西川氏の説明でわかったような気がします。

 彼岸花は一般の草花とは逆の生態を持っており、その異質性が見る者に違和感を与え、寂寥感を覚えさせていたのかもしれません。

 私はふと、子どもの頃、彼岸花を縁起のよくない花だと思い込んでいたことを思い出しました。そのような思いの源泉もまた、西川氏の説明でわかったような気がします。

 昔の人はこの花を「死人花」とか「地獄花」と呼んでいたと西川氏はいいます。この花を恐れ、不吉だと思うからこそ、そのような名前で呼んでいたのでしょう。見た目が変わっているだけではなく、この花の名称そのものが不吉なイメージを拡散していたのです。

 実際、彼岸花につけられた別名を見ると、「幽霊花」「剃刀花」「狐花」「捨子花」「毒花」「痺れ花」といった具合に、ロクなものがありません。縁起でもないものばかりです。

 これでは誰もこの花に寄り付こうとしないでしょう。

 西川氏は、「彼岸花の球根には毒があります。地中に潜むモグラやネズミは、他の植物の根はかじっても、彼岸花のものはかじらないと言われています」と説明しています(※ 前掲)

 なんと恐ろしいことでしょう。彼岸花は有毒だというのです。だからこそ、昔の人はこの花に近づかないように警告を発する意味で不吉なイメージの名前をつけていたのかもしれません。

 彼岸花には「花全体にリコリンやガラタミンなど約20種の有毒アルカロイド」が含まれています。誰もがつい手に触れてしまう、花全体に有毒アルカロイドが含まれているというのです。

 調べてみると、アルカロイドは、「“Alkali”(塩基)と“oides”(~類)を語源とした言葉」で、塩基性のものが多いが、イヌサフランに含まれるコルヒチンのように塩基性のないアルカロイドも存在する」そうです。

 そして、「モルヒネなどを含むアヘンや、ツボクラリンなどを含むクラーレのように、強い生理作用をもち、古くから薬や毒として使われてきた」と説明されています
(※ https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89)。

 花全体が有毒だというのですから、近づかないよう注意喚起する必要があります。一連の不吉な名前はそのための昔の人の知恵といえるでしょう。

 しかも、毒があるのは花ばかりではありませんでした。

 花が咲かない時期の彼岸花は、「ノビルやアサツキに似ている植物で、誤って食べてしまい体調を崩す」ことがよくあるそうです。しかも、「誤って食べた場合、特別な解毒剤などはないため、催吐薬や下剤を投与しての対症療法を行う必要がある」といわれています(※ https://horti.jp/3233)。

 さらに毒性の強いのが球根だそうです。「毒は特に球根に多く含まれ、毒抜きせずに食すと30分以内に激しい下痢や嘔吐に見舞われ、ひどい場合は呼吸不全や痙攣、中枢神経麻痺といった深刻な症状を引き起こす」といわれています。

 彼岸花には、「球根1gあたりに約0.15mgのリコリン、0.019gのガラタミンを含んでいる」とされていますが、「リコリンの致死量は10gなので、球根を1個食べても重篤な症状に至ることは基本的に少ない」そうです。とはいえ、「乳幼児が摂取して中毒症状が起こった場合、嘔吐物が気管内に吸い込まれて窒息してしまう場合がある」そうです(※ 前掲)。

 花にも茎にも、そして、球根にも毒があるなんて・・・、なんと危険な植物なのでしょう。想像もしませんでした。

 とくに球根に毒をもつ植物として、彼岸花は古くから知られていたようです。「球根に毒があるので、地中の動物にも効果があると信じられており、そのため、彼岸花は昔からお墓の近くに植えられてきた」そうです。それは、「もぐらやネズミ、土中の生き物から土葬した遺体を守り、傷つけられないようにするため」でした(※ 前掲)。

 調べれば調べるほどいろんなことがわかり、ますます彼岸花が不吉な花に思えてきます。

■曼殊沙華
 彼岸花には「曼殊沙華」という別名があります。私は子どもの頃、この花を曼殊沙華と呼んでいました。お寺で見かけ、そのとき一緒にいた祖母から「まんじゅしゃげ」だと教えてもらったからです。そのせいか、この花からお寺やお経を連想していたのですが、今回、調べてみて、そのことを確認することになりました。

 「曼殊沙華」という言葉を調べていると、「法華経」に行きつきました。

 『法華経』第一序品に、「是時天雨曼陀羅華。摩訶曼陀羅華。曼殊沙華。摩訶曼殊沙華。而散仏上。及諸大衆。」という文言があります。この文言の中に、「曼殊沙華」という言葉が出てきます。曼殊沙華については、「柔らかく白い天界の花」のことで、「この花を見るものを悪業から離れさせるという意味がある」と説明されています。
(※ https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01-2.htm)

 この中では、「曼陀羅華」という言葉と対のようになって出てきますが、こちらは「色が美しく芳香を放ち、見るものの心を悦ばせるという天界の花」という意味だそうです。(※ 前掲)。

 このような説明を総合すると、この文言は、「この時、天から曼陀羅華、摩訶曼陀羅華、曼殊沙華、摩訶曼殊沙華といった天界の花がふってきて、仏と人々の上に降りそそいだ」というような意味になるのでしょうか。

 また、「曼殊沙華」には「この花を見るものを悪業から離れさせる意味がある」と説明されていました。ですから、この花には人を防衛したり、守護する機能があるといえます。

 先ほど、彼岸花には花も葉も茎も根もすべて毒があると説明しました。曼殊沙華の説明に従えば、有毒なので、他のものから受ける被害を食い止める効果があるといえます。

 そういわれて思い出すのは、次のような説明でした。

 精製された彼岸花の球根は、「石蒜(セキサン)」や「ヒガンバナ根」の名で漢方薬として利用されることがあります。消炎作用や利尿作用があり、茎を刻んで搾取した汁で患部を流すとよいとされているほか、根をすりつぶしたものを張り薬にすると、むくみやあかぎれ、関節痛を改善する効果が期待されます。また、最近では彼岸花に含まれるガランタミンが記憶機能を回復させるとして、アルツハイマー型認知症の薬に利用されるようになりました。(※ https://horti.jp/3233)

 まさに、毒と薬は表裏一体なのです。

 この花にはさまざまな不吉なイメージの名前がありました。それが今、ほぼ彼岸花、あるいは曼殊沙華で統一されています。この二つの名前には、毒性を持ったこの花のポジティブな側面とネガティブな側面とが表現されており、昔の人々の知恵を引き継ぎ、名称が定着してきたプロセスが感じられます。

■俳句に詠まれた彼岸花(曼殊沙華)
 彼岸花はその独特の花の形状や不吉なイメージから、古来、数々の和歌や俳句に詠まれてきました。俳句では秋の季語になっていますから、数多くの秋にちなんだ句が詠まれています。
(※ http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/aki/higanbana.html)

 ここでは正岡子規と夏目漱石の句を取り上げ、見ていくことにしましょう。

 たとえば、正岡子規に次ぎのような句があります。

 「秋風に枝も葉もなし曼殊沙花」

 見たままを詠み込んだ、とてもシンプルな句です。とはいえ、彼岸花(曼殊沙華)の花の特徴がしっかりと押さえられており、ありのままの自然を見つめようとする子規の作家としての姿勢を見て取ることができます。

 「葉見ず花見ず」として知られた彼岸花(曼殊沙華)には、花が咲く時期には葉がなく、花が枯れた後に葉がでるという特徴がありました。そこからさまざまな言い伝えが生まれ、さまざまな印象形成がされてきました。

 また、子規には次のような句があります。

 「ひしひしと立つや墓場のまん珠さげ」

 先ほどの句は「曼殊沙花」と表現されていましたが、この句は「まん珠さげ」と表現されています。ですから、この「珠」はおそらく、数珠を表現しているのでしょう。数珠を手にさげ、お墓の前で先祖の安寧を祈っている人の姿が浮かびます。

 一方、「まん珠さげ」を「曼殊沙華」と読み替えれば、この句は、花と茎しかない曼殊沙華が墓場でまっすぐ立っているという、見たままをスケッチ風に表現された句になります。

 茎だけでまっすぐ立っている曼殊沙華の姿には、「ひしひしと」としか表現できない緊張感が込められています。そこに正岡子規の鋭敏な感性と知性が感じられます。

 先ほどいいましたように、曼殊沙華は球根に強い毒性を持っています。だからこそ、曼殊沙華は墓場に植えられることが多く、収められた遺体を動物から守る使命を帯びていたのです。正岡子規が生きた明治の頃はまだその名残があったのでしょう。スケッチ風にシンプルに表現しながら、曼殊沙華の特性を踏まえ、本質を突いた句になっています。

 一方、夏目漱石に次のような句があります。

 「曼珠沙花あつけらかんと道の端」

 この句には、いかにも漱石らしいユーモアがあります。「あっけらかんと」という語には諧謔性があり、「道の端」という表現には庶民性があります。そして、「あっけらかんと道の端」になると、道端や川辺など卑近な場所に咲くことに、権力に阿らない自由、高邁な理想主義に馴染まない庶民性強調されます。漱石は共感を込めてこの句を創ったのでしょう。

 また、漱石には次のような句もあります。

 「仏より痩せて哀れや曼珠沙華」

 この句もまた、いかにも漱石らしいシニカルな表現が印象的です。仏には断食などの修行を重ねて悟りを開くというイメージがあります。ですから、仏は「痩せて」いるというイメージが一般的です。

 ところが、漱石はその「仏より痩せて哀れや」という印象を曼殊沙華に抱いているのです。法華経によれば、曼殊沙華は天から降ってくる吉祥の花です。ところが、茎だけで葉のない曼殊沙華は「痩せて」貧相に見えます。果たして、天の花の御利益があるのかという皮肉が「哀れや」という語に込められています。

 漱石は、「痩せて」という語に植物としての曼殊沙華の特性を詠む一方、過酷な修行をして悟りを開くということに疑問を投げかけています。権威に阿らず、自身の観察力を信じた漱石ならではの皮肉が込められているのです。

 正岡子規と夏目漱石の彼岸花(曼殊沙華)を詠んだ句を見比べてみると、両者とも彼岸花(曼殊沙華)の特性に着目し、自身の持ち味を生かしながら、句を創っていることがわかります。

■彼岸花の両義性
 埼玉県日高市には巾着田曼殊沙華公園という彼岸花の名所があります。ここには彼岸花約500万本が自生しており、毎年9月中旬から咲き始めます。例年、全国から20万人以上の観光客が訪れていましたが、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、花が咲き始める前に芽が刈り取られたようです。

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https://news.yahoo.co.jp/articles/dae271111698e95983150d55741e553fb9e16cfa

 そこまでする必要があるかと思いますが、コロナ感染予防のために、罪のない彼岸花が花の咲く前に刈り取られてしまったというのです。コロナによってまた一つ、人々の楽しみが奪われました。

 いつも通りなら、次のような華麗な光景を見ることができるはずでした。

こちら →
(tabi channelより)

 彼岸花が群生すると、この世のものとも思えない艶やかで豪華な世界が創り出されます。

 毎年、数多くの観光客が訪れていたのも、このような滅多にみることのできない美の世界が生み出されていたからでしょう。赤く染め上げられたこの辺り一体は、自然の力が生み出す魔界といってもいいかもしれません。

 ふと、彼岸花の英語名が「red magic lily」だということを思い出しました。興味深いことに、その名称に「magic」という語が使われているのです。洋の東西を問わず、人々は彼岸花の異質性に魔力を感じていたのでしょうか。

 先ほどもいいましたが、彼岸花には毒性がある一方で、薬効もあります。少し補足しておきましょう。

 熊本大学薬学部・薬草園・植物データベースでは、以下のような薬効がまとめて紹介されています。

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 鎮痛作用があり,肩こり,膝の痛みに,すりおろした鱗茎をガーゼや布に包んで足の土踏まずに貼る.体のむくみにも同様に利用する.全草に強い毒性があるため口にしてはいけない.鱗茎にはデンプンを多く含むため,砕いた鱗茎を水にさらして毒性を除いて食用にされた.鱗茎をすりつぶし糊状にしたものは,屏風やふすまの下張り使うと虫が付かないとされ,昔利用されていた.
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(http://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/yakusodb/detail/003655.php)

 こうしてみると、彼岸花はまさに両義性の植物だといえるでしょう。

 再び、遊歩道に戻ってみると、桜の木の大きく垂れた枝の下に、彼岸花がそっと寄り添うように咲いているのが見えました。

こちら →
(大きく垂れた枝の下の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 おそらく、ここでも毒性の強い彼岸花の球根が、川辺の土中の植物の根などを動物による被害から守っているのでしょう。桜の木がこれほど大きく」枝を伸ばせるのも、そのような影の力があるからだと思うと、急に、彼岸花が可憐でいとおしく思えてきました。
(2020/9/23 香取淳子)

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