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岩倉具視幽棲旧宅②:岩倉らは新たな日本の国家像をどう描いたのか。

岩倉具視幽棲旧宅②:岩倉らは新たな日本の国家像をどう描いたのか。

■幕府と朝廷の代替わり

 岩倉らの有能な公家たちが追放されていた5年間に、幕府も朝廷も代替わりしました。

 将軍家茂は、慶応2年(1866)7月20日、長州征伐に向かう途中、大阪城で亡くなりました。その後継として、12月5日に第15代将軍の座に就いたのが、徳川慶喜です。30歳でした。

 一方、36歳の孝明天皇は、慶応2年(1866)12月25日、悪性の出血性痘瘡が原因で亡くなってしまいました。慶喜が将軍になった20日後のことです。第122代天皇として即位したのが、まだ15歳の明治天皇でした。

 有力な公家が追放された後の朝廷に、幼い天皇と判断力のない公家たちが残されました。朝議を開いても、政治力のある徳川慶喜に仕切られてしまうのは当然のことでした。かといって、慶喜が諸藩を掌握しているわけでもありませんでした。薩摩藩など将軍職の廃止に動こうとしていた藩もあったのです。

 朝廷と幕府の代替わりとともに、日本の国家体制はきわめて脆弱なものになっていました。それを好機とばかりに、欧米列強は開国を求める動きを強めていました。

 たとえば、オールコックの後任大使に任命されたパークス卿(Sir Harry Smith Parkes, 1828 – 1885)は、慶応3年(1867)に大坂で徳川慶喜に謁見し、期限どおり兵庫を開港する確約を取り付けています。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り絶賛しています(※ Wikipedia パークス)。

 この時点で、慶喜はまだ天皇から勅許を得ていませんでした。

 兵庫開港については、慶喜や諸侯も出席した朝議を経て、5月24日に勅許がおりました。ところが、その朝議に幼い天皇は出席していませんでした。将軍慶喜は渋る朝廷を脅したりすかしたりしながら、強引に勅許をもぎ取ったといいます(※ 佐々木克、前掲。p.103.)

 このような徳川慶喜をパークスは、最も優れた人物と評しましたが、公家たちは、政治力のある慶喜に脅威を感じはじめていました。岩倉ら有能な公家が欠けた朝廷内で、朝議が慶喜の意のままに動かされるようになっていたからでした。

 このときの朝議に対する遺憾の思いは、さまざまな方面から、蟄居する岩倉具視に伝えられました。岩倉が国政に危機感を抱いたのも無理はありません。

 それでは、再び、岩倉具視幽棲旧宅に戻ってみましょう。

■岩倉宅を訪れていた中岡慎太郎

 表門から入ると、玄関に辿り着く手前に、庭に入る中門があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 中門を入ると、立派な枝ぶりの松の木が、シンボルツリーのように植えられていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 この木はちょうど、主屋から鑑賞できる位置にあります。手入れの行き届いた閑静な庭を眺めながら、岩倉具視はどのような国家ビジョンを練り上げていたのでしょうか。

 主屋には、興味深い説明書きが展示されていました。


(※ 署名の植彌は管理会社名。図をクリックすると、拡大します。)

 坂本龍馬や中岡慎太郎、大久保利通らが、蟄居する岩倉具視を訪ねて来て、相談を重ねていたというのです。

 また、敷地内にある対岳文庫には、土佐藩の中岡慎太郎が岩倉具視に宛てた書状が、展示されていました。1867年9月10日付けの書状です。上が草体仮名の原文で、左下が活字体に書き起こしたもの、右がその内容を現代語に訳したものです。


(※ 対岳文庫蔵、図をクリックすると、拡大します)

 宛先の「北岡」は、岩倉具視を指し、送り主の「勘蔵」は、中岡慎太郎の偽名です。情報が洩れるのを恐れ、当時はこのように、お互いに偽名を使って連絡を取り合っていたことがわかります。

 書状の内容は、次のようなものでした。

 「幕末の混乱した政局を安定させるため、土佐藩は薩摩藩と協力して、大政奉還と公議政体の創出に向けて尽力することを申し合わせたが、前土佐藩主の山内容堂が土佐藩兵の京都派遣は武力行使につながるとして反対し、後藤象二郎に武力行使を伴わない大政奉還をめざすよう命じたため、出兵を中止した。そのことを詫び、今後の方策を説明したい」

 中岡慎太郎は、前土佐藩主の山内容堂が土佐藩兵の派遣を中止したことを詫びるとともに、今後、土佐藩はどうすべきか新たな方策を直接、岩倉具視に会って、説明したいといっているのです。

 この書状の日付は1867年9月10日でした。

 その内容が、薩摩藩と土佐藩の申し合わせに関するものだったので、調べてみると、二カ月余前の1867年6月22日、薩摩藩と土佐藩、両首脳の間で「薩土盟約」が結ばれていました。

■薩土盟約

 当時、日本は諸外国との間で約束した開港時期を巡る問題に対処しなければなりませんでした。ところが、有力公家が追放された朝廷では、朝議が機能せず、かといって、幕府に任せれば、外国のいうまま、日本に不利な条約を結んでしまいかねません。

 危機感を覚えた薩摩藩は、雄藩諸侯の合議で政策を決定する体制に持ち込もうとしました。実際、四侯会議(有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制)を開催したこともありました。

 薩摩藩はこれを機に、政治の主導権を幕府から雄藩体制に移し、公武合体の政治体制へ変革しようとしていたのです。

 ところが、政治力のある徳川慶喜に思うがまま、操られてしまいました。それまでは公武合体派であった薩摩藩が、これでは討幕せざるをえないと思うようになった契機が、この四侯会議でした。

 一方、土佐藩の中岡慎太郎は、前藩主の山内容堂の四侯会議での不甲斐なさに危機感を覚えました。これでは、日本の未来はないと思ったのです。そこで、土佐藩を脱藩して、薩摩藩に近づき、薩土密約を交わして倒幕の計画を練り上げるという行動に打って出ました。

 一連の手はずを整えてから、中岡は前藩主の山内に承認を迫り、ようやく薩土盟約は成立したという経緯がありました。

 薩土盟約は、薩摩藩と土佐藩との間で交わされた盟約で、徳川慶喜に将軍職を退かせ、幕府でもなく朝廷でもない全く新しい政府を樹立するために協力し合うというのがその趣旨でした。幕府の暴走を止め、政治力のある慶喜に圧力をかけるために、両藩は兵力を動員するという約束を交わしていたのです(※ Wikipedia 薩土盟約)。

 中岡慎太郎の機転の利いた行動がなければ、おそらく、この薩土盟約は成立していなかったでしょう。

 ところが、先ほど、ご紹介した中岡慎太郎の書状にあるように、土佐藩の前藩主・山内容堂が藩兵を出すことに反対しました。最終局面になって、土佐藩は出兵に応じなかったのです。

 中岡慎太郎らが奔走し、その尽力の結果、交わされた薩土盟約でしたが、実行に移されることなく、2か月余で解消されました。前藩主の山内容堂に胆力がなく、その決断ができなかったからでした。

 一方、薩摩藩はこの計画を変更しませんでした。むしろ逆に、土佐藩が欠けたので、その代替として長州藩に応援を求め、9月19日には、薩長両藩の出兵協定を結んでいます。積極果敢に、当初の方針を貫いたのです。すると、翌20日には、芸州藩(広島)が、この協定に加わりました。

 さて、土佐藩は10月3日に出兵しませんでした。前藩主の山内容堂は、その代わりに、後藤象二郎を使者とし、大政奉還建白を徳川慶喜に提出させました。武力行使を避け、徳川慶喜将軍に政権返上の意見書を提出したにすぎませんが、土佐藩としては、これで初志を貫いたことにしたかったのでしょう。

 さまざまな情勢、政局、海外の動きなどを考え、中岡慎太郎らが、脱藩して薩摩藩に近づき、締結にこぎつけた薩土盟約でした。それを、前藩主の山内容堂があっさりと保護にしてしまったのです。

 刻々と変化する情勢をどう分析するか、その先にどのような未来を見るのか、さらには、海外を含めた周囲の動きはどうなのか・・・、さまざまな情報を総合的に的確に判断する力とともに、いざとなれば武力行使も厭わないといった胆力が、混迷期の指導者には不可欠なのでしょう。

 その頃、蟄居する岩倉具視を頻繁に訪れていたのが、大久保利通でした。

■大久保利通と「倒幕の密勅」

 各藩のさまざまな動きがあるなか、中御門経之は10月5日、薩摩藩の大久保利通を邸に呼び、国情を聞いています。翌6日には、大久保と長州藩の品川弥二郎が岩倉宅に呼ばれ、そこで岩倉と中御門に会っていました。具体的な話の内容はわかりませんが、薩摩と長州、両藩の藩士と朝廷側とが密かに会っていたのです。おそらく、大政奉還を進めるための具体的な話し合いをしていたのでしょう。

 佐々木克氏は、会談内容を次のように推測しています。

 「断然と征夷大将軍を廃止」して、「大政を朝廷に収復」し、朝廷が政治の実権を握り、大いに「政体制度」を革新し、「皇国の大基礎」を確立することを、非常の英断をもって、「朝命を降下」するというものである(※ 佐々木克、前掲。p.106.)。

 この時点では明らかに、彼らが将軍職を廃し、朝廷を中心とした政治体制を目指した動いていたことがわかります。

 実際、10月8日、大久保利通ら薩摩藩代表、広沢真臣ら長州藩代表、植田乙次郎ら芸州藩代表らが会合し、武力で幕府を倒し、政変を決行することを決議しました。

 三藩の代表は、その決意を中御門経之らに告げ、幕府の出方次第では武力行使の可能性もあることを理由に、相応の宣旨を発行してもらいたいと願い出ました。

 いよいよ最終局面にさしかかってきたようです。

 そこで、当時の資料を渉猟してみると、該当する古文書を見つけることができました。


(※ 岩下哲典監修『幕末維新の古文書』pp.228-229. 柏書房、2017年)

 長州藩に残されていた古文書です。

 左下に連署された差出人を見ると、右から順に、広沢真臣、福田侠平、品川弥二郎と署名されています。いずれも長州藩の藩士です。続いて、その左側には順に、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通の名前があり、こちらは薩摩藩の藩士です。

 この古文書は、長州藩と薩摩藩の藩士6名によって、中山らに宛て、隠密裏に提出された書状でした。倒幕の正当性を担保する「倒幕の密勅」を求める書状の写しだったのです。

 書状の左上に書かれている宛先は、右から順に、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と書かれており、いずれも公家の中の討幕派として知られている人物です。興味深いことに、最後に書かれているのが、岩倉具視の名前でした。

 そもそも、岩倉が御所から遠く離れた洛外に蟄居せざるをえなくなったのは、尊王攘夷派から佐幕派とみなされていたからでした。ところが、「倒幕の密勅」の請書を見ると、岩倉具視も、この書状の宛先の一人になっているのです。

 一体、なぜなのでしょうか。

■岩倉具視の国家構想

 岩倉具視はそもそも公武合体派だったはずです。朝廷を中心に、幕府と諸侯力を合わせた国家体制の下、外国勢に対応していこうと考えていました。

 それが、なぜ、この時点では、倒幕派に与するようになっていたのでしょうか。その経緯がわからず、岩倉の立ち位置の変化が理解できませんでした。

 調べてみると、幕府には欧米列強に対する危機感がなく、判断力が鈍いことへの不満が、岩倉には蓄積していることがわかりました。

 幕府の体制もまた、硬直化していました。彼らは、積極的に海外情報を摂取しようとせず、的確な決断を下すこともできません。このような幕府の体制では、とても激動の時代を乗り切れないと岩倉は考えるようになっていたのです。

 一方、有力公家が追放された朝廷もまた硬直化し、合理的な判断力に欠けていました。それを憂いた薩摩藩の提案で、四侯会議を開催したこともありました。雄藩の代表を意思決定の場に参加させてみたのです。ところが、政治力のある将軍慶喜に押し切られ、実りある衆議を尽くすことはできませんでした。

 ひょっとしたら、岩倉はこの四侯会議の経緯を聞いて、朝廷と雄藩を中心とした国家体制の構築へと傾いていったのかもしれません。

 調べていると、次のような記述を見つけることが出来ました。

 「岩倉は慶応元年(1865)頃から元水戸藩士の香川敬三などと接触し、公家の中御門経之(妻は岩倉の姉富子)等を通して薩摩藩士藤井良節、井上石見らから情報を得、今後の国家の構想を練っていた」(※ 斉藤紅葉「第二章 岩倉具視の新国家像と動向」伊藤之雄『維新の政治変革と思想』、ミネルヴァ書房、2022年、pp.80-81.)

 岩倉は、蟄居の身分でありながら、元水戸藩士や薩摩藩士などと接触して、情報を得ていたのです。できる限り幅広く情報を集め、刻々と変化する情勢分析を行い、どのような体制が日本にとって最適なのか、日々、考えを巡らせていました。

 国内外の最新の情報を収集した結果、天皇を中心とし、雄藩が支える構造の国家体制を考えるようになっていたのです。

 実際、岩倉は具体的な提言を行っています。

 たとえば、慶応2年(1866)10月頃、岩倉は朝廷に向けて意見書を書いています。その内容は、徳川から「軍職」を取り戻し、源頼朝以前の体制への「復古」をめざすべきだというものでした。王政復古に加え、薩長の支援があれば、強力な国家体制になると考えていたのです(※ 前掲)。

 確かに、岩倉は以前から、朝廷を中心とした国家体制を構築するのがベストだと思っていました。国家としての統合を図るには、天皇を中心に据えた体制が不可避だと考えていたのです。

 もちろん、天皇とその周辺だけでは国家運営はできません。行政を担当するパートナーが必要でした。

 岩倉はこれまで、為政のためのパートナーとして、幕府と諸藩を想定していました。これまで岩倉が公武一体派とみなされてきた所以です。ところが、この時の意見書では、幕府を外し、薩摩藩と長州藩を両輪として朝廷を支えるという具体的な構想を打ち出してきたのです。

 果たして、どのような状況の変化があったのでしょうか。

 実は、岩倉がこの意見書を出した当時、長州藩は朝敵とみなされ、藩主、藩士共に入京が認められていませんでした。というのも、元治元年(1864)8月20日、長州藩は過激な攘夷思想ゆえに、京都で武力衝突事件を起こしていたからでした。

 薩摩藩と長州藩は攘夷思想の点では一致していましたが、その進め方に大きな違いがありました。薩摩藩が、公武合体の立場から穏便に、朝廷を中心とした体制に移そうとしていたのに対し、長州藩は急進的な攘夷思想の下、一気に王政復古を進めようとしていたのです。

 その結果、薩摩藩は会津藩と組んで戦い、長州藩を京都に出入りできないようにせざるをえませんでした。この事件は、禁門の変、あるいは、蛤御門の変とも呼ばれています。

 この禁門の変の後、長州藩は「朝敵」とみなされ、1864年と1866年には幕府が長州征伐を行っています。1863年と1964年には、イギリス、フランス、オランダア、アメリカとの間で下関戦争が勃発し、長州藩は相当、打撃を受けていました。

 相次ぐ戦禍で、長州藩は勢力を大きく減退させていたのです。

 それでも、岩倉具視は、長州藩に大きな可塑性を見出していました。薩摩藩とともに朝廷を支えるのは長州藩だと着目していたのです。

■長州藩と薩摩藩

 実は、岩倉の意見書が提出される7か月ほど前の慶応2年(1866年)3月7日、京都上京区の小松帯刀邸で、薩長同盟が締結されていました。争っていたはずの薩摩藩と長州藩がいつの間にか、手を組み、政治的、軍事的同盟を結んでいたのです。

 薩摩藩が会津藩と協力して長州藩を京都から追放したのが、1863年に起こった「八月十八日の政変」でした。そして、翌1864年には、上京して出兵してきた長州藩と戦火を交え、敗退させました。「禁門の変」と呼ばれる事件です。この時点で、薩摩藩と長州藩は明らかに敵対関係になっていました。

 ところが、その後、薩摩藩は長州藩に何度も秋波を送り、長州藩との連携を模索しています。というのも、薩摩藩が幕府から距離を置いて、将来の戦闘に備えるには、西国の大名との連携が不可欠だったからでした。

 薩摩藩主の島津久光は、当初、福岡や久留米など九州雄藩との連携を考えました。ところが、うまくいきませんでした。結局、長州藩と提携するしかなく、土佐藩を脱藩した坂本龍馬や中岡慎太郎が、両藩の仲を取り持つ恰好で、交渉が進み、慶応2年(1866年)3月7日、6か条から成る薩長同盟が締結されました。

 坂本龍馬が書いた薩長同盟の裏書が残されています。


(※ 宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵)

 この裏書には日付が書かれていませんが、坂本龍馬らの働きのおかげで、両藩が手を結んだことは明らかでした。岩倉が薩長を頼りになる雄藩だと考えていたことに変わりはありません。 

 穏健派であろうと、過激派であろうと、薩長は攘夷思想の下で活動していました。しかも、両藩とも、その攘夷思想が原因で、海外とトラブルを引き起こし、列強との戦争を経験していました。

 文久3年の薩英戦争であり、文久3年と元治元年の下関戦争です。

 薩摩藩は文久2年(1862)9月14日に起きた生麦事件を契機に、薩英戦争(1863年8月15日‐17日)を引き起していました。艦隊を持つイギリスに対し、薩摩藩は果敢にも、防戦をし、砲台や弾薬庫、汽船などに損害を受けました。鹿児島城下の約1割が焼失したそうですが、イギリスに比べ、死傷者は比較的少なく、善戦していたといいます。

 岩倉はおそらく、そこにも目をつけていたのでしょう。海外勢と戦うだけの兵力、情報力、そして、胆力があったのです。

 攘夷思想の下、海外勢と戦った長州藩と薩摩藩を岩倉は高く評価し、薩長を両軸とした、朝廷中心の国家体制に切り替えようとしていたのです。

 興味深いことに、岩倉は、朝廷に提出したこの意見書の中で、当時の関白二条斉敬に代わって、前関白の近衛忠煕を天皇の侍臣とするよう、朝廷に求めていました。

 一体、なぜなのでしょうか。

 近衛家は五摂家のうちの最高家格の家柄でした。そして、前関白の近衛忠煕は公武合体派の一人で、夫人は前薩摩藩主の娘でした。薩摩藩と深い繋がりがあったのです。

 一方、当時の関白であった二条家も五摂家の一つですが、家格としては近衛家に劣ります。しかも、二条斉敬と徳川慶喜とは従弟同士で、幕府と深い繋がりがありました。岩倉は、このような関係も重視したのかもしれません。前関白の近衛忠煕に天皇の侍臣になるよう請願したのです。

 公武合体を唱えていた頃とは違って、岩倉は明らかに、幕府を外し、朝廷と薩長両藩を中心とした新しい国家体制を考えるようになっていました。このような岩倉の変化を、親王や内大臣、薩摩藩士の大久保利通らは、好意的に受け止めるようになっていきます。

 それでは、再び、倒幕を巡る薩長の藩士と朝廷の動きに戻りましょう。

■倒幕の勅許

 先ほど、書状をご紹介しましたが、大久保利通らは、「倒幕の密勅」を求め、中御門らに請願しました。これは、薩摩藩藩主の島津久光の上京を条件に了承されました。そして、翌9日には、大久保利通は、8日の話し合いの一切合切を、岩倉具視に報告しています。

 ここに、薩長藩士を動かし、密かに倒幕を指揮したのが岩倉具視だったことが示されています。

 薩摩藩の大久保利通が密使となって、岩倉具視と中御門ら意思決定者との間を取り持ち、実行部隊と齟齬のないよう、隠密裏に動いていたのです。

 10月13日、岩倉は、薩摩藩の大久保と長州藩の広沢を邸に呼び、沙汰書を授けました。そして、肝心のものは明日、正親町三条実愛から渡されると告げています。肝心のものとは、「倒幕の密勅」です。

 14日には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三名の連名で、倒幕の密勅が出されました。


(※ 岩下哲典監修『幕末維新の古文書』pp.228-229. 柏書房、2017年)

 上記の書状は、毛利父子宛てに出されたもので、10月14日の日付があります。「倒幕の密勅」は、10月13日付けで薩摩藩主宛て、翌14日付けで長州藩主宛てに下されました。

 内容の一部をご紹介すると、「賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに、回天の偉勲を奏し、しかして生霊を山嶽の安きに措くべし、これ朕の願い敢えて懈るある無かれ、」と書かれています。

 その主旨は、「賊臣慶喜」を「殄戮(殺せ)」せよというものでした。文中に「倒幕」といった文字はありませんが、これで、薩長両藩主による出兵への同意がなされたことになりました。

 ちなみに、この密勅の文面は、岩倉具視の側近である玉松操が考え、揮毫したのは、薩摩藩宛てが正親町三条実愛、長州藩宛てが中御門経之だとされています(※ 前掲。p.230.)

 改めて、岩倉具視が倒幕のキーパーソンであり、新たな国家構想の中心人物であったことがわかります。

■キーパーソンとしての岩倉具視

 それにしても、岩倉具視はなぜ、これだけ堂々と倒幕活動に関わることができたのでしょうか。蟄居を強いられ、行動を監視されていたにもかかわらず、薩長藩士らと連絡を取り合い、要人に懇請して密勅を出してもらえるよう手配し、密使に指令を出していたのです。

 なぜ、これだけパワフルに活動することができていたのでしょうか。

 調べてみると、1867年3月29日に、入洛を許すという、一部追放解除令が出されていました。まだ、全面的に赦免されたわけではなく、依然として住まいは洛外とされていましたが、月に一度、一泊だけ洛中への帰宅が許されていたのです。

 もちろん、朝廷政治に関わることはできず、監視されてもいましたが、行動は以前よりもやや自由になっていました。岩倉具視が実際に、洛中帰住を許されたのは、11月8日でしたから、大久保らに指令を出していた頃はまだ、隠密裏に動かなければなりませんでした。

 さて、密勅が出された時点で、徳川慶喜はまだ大政奉還を表明していませんでした。おそらく、倒幕の動きがあることなど、考えもしていなかったのでしょう。慶喜が大政奉還を上表したのは、密勅が発令された10月14日でしたが、その際、将軍職については何も触れていませんでした。

 一方、その頃、薩摩、長州、芸州の諸藩は計画通り、政変の決行に向けて動き出していました。

 遅まきながら、慶喜が将軍職の辞表を朝廷に提出したのは、10月24日でした。将軍職の辞職は事実上、幕府の消滅を意味します。ですから、提出した時点で、この辞表が朝議で認められていれば、倒幕の必要はありませんでした。

 ところが、当時の朝廷に的確な判断を下せる公家はおらず、慶喜の辞表は朝議で却下されました。将軍職は引き続き、慶喜に勅許されてしまったのです。

 もはや、王政復古のための政変を回避することはできなくなりました。

 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、薩摩藩、土佐藩、尾張藩、越前藩、安芸藩の5藩が御所の諸門を封鎖しました。次いで、京都御所の御学問所で、岩倉具視の奏上によって、明治天皇が王政復古の大号令を発せられました。

 この大号令で、江戸幕府、摂政・関白等が廃止となり、新政府が成立しました。

 もちろん、徳川慶喜をかつぐ勢力はまだ力を持ち、新政府に慶喜を参画させようとしていました。岩倉はそのような勢力にも丁寧に対応し、不安定な新政府の瓦解を防いだといわれています(※ 齊藤紅葉、前掲。pp.87-89.)。

 とはいえ、幕府を拠り所にしてきた諸藩は新政府に挑みました。慶応4年1月3日には鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争といわれる一連の戦いが各地で続きました。いずれも、薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍に対し、旧幕府軍が戦った内戦です。

 Hoodinski氏がこれらの内戦を整理し、図示した地図がありますので、ご紹介しましょう。


(※ Hoodinski氏、作成、Wikipedia戊辰戦争より)

 上図に見るように、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日‐30日)から始まった内戦は、北進し、1868年5月3日には江戸城が無血開城されました。その後、宇都宮城の戦い、北越戦争、会津戦争などを経て、榎本武揚が率いた箱館戦争に至ります。最後は、函館市五稜郭で行われた戦闘で、1869年6月29日に終了しました。

 旧幕府軍はこれで完全に敗退しました。岩倉らは、新政府の樹立に向けて、動き出します。

 興味深いのが、徳川慶喜の処分についてです。岩倉らは朝議を開き、徳川家に同情的な諸侯に不満が残らないよう、その扱いを検討しました。そして、合議の結果を踏まえ、三条、岩倉、大久保らが相談して最終的な処分を決め、天皇の裁可を得て決定していたのです。

 このような手続きを経ることによって、新政府の下では合議制によって意思決定がなされることが示されたといえます。

 慶喜は死こそ免れましたが、徳川家の領地は駿河国など70万石に削減され、幼い家達が後を継ぐことになりました。徳川家は政治的権力を失ったのです。こうして幕府は実質的に消滅し、岩倉らは、天皇を中心とした新たな体制の樹立に向けて歩み出しました。

 大政奉還とその後の対応を見ると、欧米列強に対抗できる国家体制を推進したキーパーソンは、下級公家出身の岩倉具視だったといわざるをえません。

 岩倉具視は、一部の公家や薩長藩士と共に倒幕を企画して実行しただけではなく、戊辰戦争についてもきめ細かな配慮をして臨みました。おかげで硬直化していた幕藩体制を打ち壊し、スムーズに近代国家を構築できる準備を整えることができました。

■欧米列強に対抗できる国家体制とは?

 駐日英国公使であったパークス(Harry Smith Parkes, 1828-1885)は1866年、当時の日本の政治状況を見て、次のように述べていました。

 「中央権力というものが形成されなければならず、それは封建制度のもつ恣意的であり、且つ混乱にみちた支配を、しだいに駆逐していくであろう」(※ 萩原延壽、『英国策論』、pp.216-217. 朝日新聞社、1999年)

 幕府との交渉に難航したパークスは、たとえ条約を締結できても、幕府の直轄地のみで有効だという制約に悩まされていました。幕府と条約を結んでも、天皇が勅許を出さなければ、その条約は日本全体で有効とはみなされなかったのです。

 そのような経験をしてきたパークスは、日本には中央権力が存在せず、恣意的な決定が横行していると思っていたのでしょう。ただ、このような日本のシステムはいずれ、崩壊すると見ていました。

 実際、その変化はすぐにも起ころうとしていました。

 パークスはさらに、次のように述べています。
 
 「この国の歴史は、きわめて興味ぶかい段階にさしかかっている。しかし、このような重要な変革は、現在の階級社会を構成している指導的なひとびとのあいだのはげしい闘争をへずには、おそらくもたらされないであろう」(※ 萩原延壽、前掲。pp.216-217.)

 実際、戊辰戦争といわれる一連の内戦は、旧幕府の新政府に対する抵抗でした。その一方で、これらを俯瞰してみれば、封建制を打破し、近代的な国家体制を構築するための戦いであったともいえます。

 石井孝は、戊辰戦争について、「絶対主義政権を目指す天皇政権と徳川政権との戦争」と総括し、一連の内戦を次の三つに分類しています(※ 石井孝『維新の內乱』至誠堂、1968年)。

① 「将来の絶対主義的全国政権」を争う天皇政府と徳川政府との戦争(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)」、
② 「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争(東北戦争)」、
③ 「封禄から離れた旧幕臣の救済を目的とする、士族反乱の先駆的形態(箱館戦争)」
(※ Wikipedia 戊辰戦争)

 こうしてみると、戊辰戦争は、単に新政府軍と旧幕府軍との戦いであっただけではなく、幕藩体制の下で統治されていた日本が、欧米列強に対抗できる近代国家になるための段階的な戦いでもあったことがわかります。

 幕藩体制の終了に伴い、とりわけ武士の生活が激変しました。岩倉らは、各方面に配慮し、旧幕府軍に対処しました。できるだけ穏便に政権移譲が進み、安定した近代国家を構築できるようきめ細かな布石を打っていたのです。

 なによりもまず、国内が分裂することを避けなければなりませんでした。

 近代国家としての体制を早急に整備しなければ、日本の将来は欧米列強の餌食になりかねませんでした。開国を迫る列強に対するには、否応なく、中央集権的な国家を構築する必要があったのです。

■アーネスト・サトウの『英国策論』

 パークスの下で通訳として働いていたアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow, 1843-1929)は当時、横浜で発行されていた週刊の英字新聞『ジャパン・タイムズ』に寄稿し、日本の政治体制について次のように指摘していました。

 「われわれは、つぎのことを心に銘記しておかなければならない。すなわち、将軍は、日本の政治を指導していると公言しているけれども、実際には、諸国連合(a Confederation of Princes)の首席(the head)にすぎず、われわれとの最初の条約が結ばれたときにも、そうであるにすぎなかったということ、そして、将軍が一国の支配者という肩書きを僭称するのは、この国の半分ほどしか、かれの管轄に属していないのだから、じつに僭越至極な行為であったということである」(※ 萩原延壽、前掲。p.223.)

 さらに、次のようにも述べています。

 「現行の条約が永久不変のものではないことを、いまではだれもが確信している。最近、われわれは、天皇の認可(勅許)なくしては、条約は実行されず、大名たちによって認められもしないことを、将軍がみずからの行動によって是認するのを知ったのである」
(※ 萩原延壽、前掲。p.229.)

 このように、アーネスト・サトウは、天皇が将軍よりも上位にあるという認識を示した上で、「天皇と条約を結ぶのがよいことであろう」という考えを記します。

 その一方で、「天皇自身は、条約を結ぶことができないであろう」と述べ、「天皇は条約の遵守を強制することができないからである」とその理由を記しています。というのも、天皇は行政力、軍事力を持たないからでした。

 アーネスト・サトウは、朝廷と幕藩体制が共存する統治体制が対外交渉上、不備があることを指摘していました。だからこそ、日本は、将軍に代わって、天皇を元首とする諸大名の連合体が、支配権力の座につくべきであると提言していたのです。

 日本に開国を迫った欧米列強は、君主制の下、帝国主義、覇権主義の政策で、世界各地を支配していました。その先端をいくのが大英帝国でした。アーネスト・サトウはその統治システムを念頭に、日本の国家体制について提言していたのでしょうか。

 その頃、欧米列強は、進んだ航海技術を武器に世界各地を支配し、その資源を収奪していました。1898年当時、帝国主義国家が支配している地域を示した世界地図があります。


(※ World 1898 empires colonies territory, Wikimedia Commons)

 大英帝国の支配する地域はピンクで表示されていますが、きわめて広大な地域がイギリスの支配下にあったことがわかります。各地の資源を奪い、繁栄を誇っていたのが、この時のイギリスでした。君主制国家体制の下、全盛期には全世界の陸地と人口の4分の1を植民地化していたのです。

 これら欧米列強は、世界戦略の一環として、極東の日本に開国を求め、通商条約を結ぼうとしていたのです。

 ところが、日本の統治システムは、彼らにとって複雑でした。

 というのも、たとえ幕府と条約を締結したとしても、その条約は、将軍の直轄地の住民と貿易を行うことを許すものでしかなく、日本全体との条約を意味するものではなかったからです。

 誰が日本の為政者なのか、彼らは戸惑いました。

 だからこそ、アーネスト・サトウは、『ジャパン・タイムズ』に寄稿し、日本は天皇制と幕藩体制とが共存する統治の形態を正すべきだという考えを示したのです。

 彼はこの論説の中でさらに、条約の改正と日本政府の組織の改造を要求していました。日本が近代化するにはまず、欧米列強が安心して取引できる政治体制にしてもらいたいというのがアーネスト・サトウの本音でした。

■岩倉具視は『英国策論』をどう思ったのか?

 『ジャパン・タイムズ』に寄稿されたアーネスト・サトウの論考は、すぐさま翻訳され、『英国策論』という表題で印刷され、関係者に読まれていました。


(※ 国会図書館デジタルコレクションより)

 町田明広氏は、岩倉具視と『英国策論』ついて、次のような見解を示しています。

 「岩倉具視関係文書」(国立公文書館内閣文庫蔵)には、「英国士官サトウ著になる英国の「策論」(作成年月日未詳)とされる文書が含まれており、末尾に「薩摩藩某翻訳」と記されている。抗幕・廃幕を志向する薩摩藩の朝廷内の最大のパートナーが岩倉具視であり、薩摩藩から「英国策論」が岩倉に渡っていることは看過できない。その内容から、彼らにとって『英国策論』は「精神的支柱ですらあった可能性が高い」
(※ 町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向―藩政改革と薩英関係の伸展」、『神田外語大学日本研究所紀要』13号、pp.21-22. 2021年)

 当時、『英政策論』は、想像以上に多くの大名たちに読まれていました。政局は時々刻々と変化し、海外の動きを視野に収めた政策が必要でした。アーネスト・サトウの見解が、その後の政局に多大な影響を与えていたことがうかがえます。

 町田氏は、その後の政局について、次のように述べています。

 「この段階で、幕府と強固な結びつきを構築しているフランス・ロッシュと、西国諸侯、とりわけ薩摩藩との関係を密にしているイギリス・パークスの対立が浮き彫りになっており、幕府対薩摩藩の動向にフランス対イギリスというグローバルな要素が加わり、政局の混迷は加速後を上げることになる」(※ 町田明広、前掲。p.24.)

 幕府にはフランス、西国諸侯、とくに薩摩藩にはイギリスといった具合に、武器供与などの海外からの支援動向に、国内の対立が反映されていました。混迷が長引けば、日本が列強に支配下に置かれかねません。

 すでにご紹介しましたが、岩倉は1866年10月頃、朝廷に対し、意見書を出していました。その内容は、徳川から「軍職」を取り戻し、源頼朝以前の体制に復古すべきだというものでした。岩倉はその時点で、朝廷を中心とし、薩長の支援を得て、強力な国家体制にすることを目指していたのです。

 日本国内が分裂せず、安定しなければ、近代国家への変貌など考えられないことでした。

 アーネスト・サトウの『英国策論』がいつ刊行されたのか、日付がないのでわからないのですが、日本語の訳本について、彼は次のように述べています。

 「阿波候の家臣であり、多少英語を知っているわたしの日本語教師沼田寅三郎の助けを借りて、これを日本語に訳し、小冊子のかたちにして沼田の主君の閲読に供したところ、その写本が方々に出まわり、翌年(1867年)旅行に出てみると、その途中で出会った大名たちの家臣がみなこの写本を介してわたしのことを知っており、わたしに好意をもっていることに気づいた」
(※ 萩原延壽、前掲。p.219.)

 『英国策論』の訳本が刊行されるや否や、多くの大名たちに読まれていたのです。

 岩倉が読んだのは薩摩藩士の訳本だったそうですが、1866年の秋に具申書を出す時点で、彼はすでにアーネスト・サトウの見解を知っていた可能性があります。

 岩倉は以前から公武合体派とみなされ、天皇を中心に、将軍、諸藩の大名を為政者とする国家体制を構想していました。ところが、1866年時点の意見書では将軍から軍権をはく奪し、諸藩の大名と同じ扱いにするという考えに変化していたのです。

 このような変化を考えると、岩倉の国家体制観は、アーネスト・サトウの影響を受け、研ぎ澄まされていった可能性も考えられます。少なくとも、アーネスト・サトウの考えを知って、自分たちが描く国家体制に確信を持つことができたことは確かでしょう。

 一連の経緯をみてくると、欧米列強が日本に開国を迫って来たとき、彼らの餌食にならずに済んだのは、公家出身の岩倉具視がキーパーソンとして、水面下で動いていたからにほかならないといわざるをえません。

 情報収集能力、情報分析力に優れ、胆力があったからこそ、岩倉は、意欲ある藩士や公家を惹きつけることができ、新たに描いた国家の実現に向けて邁進することができたのでしょう。
(2023/4/24 香取淳子)

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