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岩倉具視幽棲旧宅①:岩倉具視はなぜ、蟄居させられたのか。

岩倉具視幽棲旧宅①:岩倉具視はなぜ、蟄居させられたのか。

■岩倉具視幽棲旧宅

 2023年1月5日、京都市左京区岩倉上蔵町にある、岩倉具視幽棲住宅に訪れてきました。あれから随分、時間が経ってしまいましたが、幕末の激動期に、岩倉具視がなぜ、ここで蟄居しなければならなかったのか、考えてみたいと思います。

 地下鉄烏丸線の国際会館駅から、京都バス24系統に乗り、終点「岩倉実相院」で下車します。そこから、3分ほど歩くと、かつて岩倉具視が住んでいた旧宅の表門が見えてきます。2023年1月28日にこの欄でご紹介した実相院のごく近くにありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 着いてみると、戸は閉まっており、表門からは入れません。少し歩くと、先に通用門があり、ここから、中に入れるようになっていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 ここが、なぜ岩倉具視幽棲旧宅と呼ばれているかといえば、孝明天皇から蟄居を命じられた岩倉具視が、幕末の5年間、移り住んでいた場所だからです。

 尊王攘夷運動が高まっていた頃、「四奸二嬪」排斥運動(※ 佐幕派あるいは公武合体派の公家に対する圧力行為)が起こり、岩倉ら6人が糾弾されました。孝明天皇がかばいきれないほどの動きになり、岩倉らは1862年8月20日に蟄居処分、辞官、出家を命じられました。

 不本意ながらも岩倉は、まずは、西賀茂の霊源寺、その後、洛西の西芳寺に移りました。ところが、9月26日、今度は、洛中からの追放命令が出され、岩倉具視は、御所から遥かに遠い、洛外の岩倉に転居せざるをえなくなりました。

 朝廷の中で発言力を高めていた岩倉が、急進的な攘夷派の台頭によって、追い落とされたのです。

 年表によると、当初(1862年)は、岩倉村の藤屋藤五郎の廃屋を借りて住んでいましたが、長く住める場所ではありませんでした。その後、1864年に大工藤吉の住宅を購入して、移り住みました。それが、この岩倉具視幽棲旧宅内の附属屋です。

 それでも、まだ岩倉が住めるような家ではありません。その後、繋屋と主屋を建て増して、何とか住めるようになったのが、この旧宅です。


(※ 岩倉具視幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 敷地内には、附属屋と主屋、繫屋があり、敷地を取り囲む土塀と表門、通用門があります。表門を入ると、主屋の南庭に通じる中門があり、そこをくぐると、主屋の南側に池庭があり、静かな落ち着きのある空間が広がっています。さらに、附属屋と主屋の間には中庭があり、そっと目を休める空間も用意されていました。後に、岩倉具視を記念する遺髪碑、対岳文庫、管理事務所などが設置されています。

 この岩倉具視幽棲旧宅は1932年3月25日に、国指定の史跡にされました。面積は1553㎡で、こじんまりとした、静かで落ち着きのある居宅です。

 附属屋には、当時の生活ぶりを描いた絵が展示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 ここには、岩倉の身の周りの世話をしたり、書き物の手伝いをしたりする家来たちがいました。世話係のうちの一人が、文久3年(1863)1月10日に雇い入れられた西川与三です。彼は、回顧録『岩倉具視公一代絵図』を残しています。上図はその中の一つで、当時の生活の一端を見ることができます。
 
■主屋

 主屋には、簡素ながら、床の間も設置されていました。


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 お正月に訪れたせいか、床の間には鏡餅が飾られていました。掛け軸もなく、香炉もなく、いたって簡素な設えでした。おそらく、当時の生活ぶりもこのように簡素で質実なものだったのでしょう。

 主屋と附属屋との間に繋屋があり、それに面して、中庭があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、中庭と繋屋は、附属屋と主屋との間に適度な距離を保つ空間として設計されていたように思えます。たとえ、主屋で重要なことが話されていたとしても、これだけの距離があれば、その内容が附属屋まで洩れることはないでしょう。

 主屋は、岩倉具視にとって密談の場であり、情報を整理し、考えをまとめる空間でもありました。それが、廊下と繋屋とによって、附属屋と遮断されているのです。気兼ねなく、話し合うことができたでしょうし、もちろん、安らぎの場にもなっていたでしょう。

 一方、中庭には大きな木もなく、附属屋からも主屋からも一望できるようになっています。障子を開ければ、附属屋から誰がやってくるのか、庭から、誰が忍び込んでくるのか、すぐにも把握できる構造になっていました。もちろん、障子を閉めていても、障子越しに人の気配を感じることもできたでしょう。

 図面を見ると、改めて、繋屋を挟んで、二つの空間が機能別に作られているように思えました。


(図をクリックすると、拡大します)

 附属屋が、日常生活を維持するための空間だとするなら、主屋は、岩倉が思索を巡らせ、熟考する空間、さらには、客を迎えるための空間として設えられていたのでしょう。

 主屋は、岩倉が来訪者から新たな情報を入手し、語り合い、将来ビジョンを打ち立て、練り上げていくための空間として機能していたように思えます。いってみれば、情報を入手し、交換するだけではなく、情報を蓄積し、それらを踏まえて分析し、対策を構想するための空間です。

 蟄居を強いられた岩倉にとって、何よりも大切な空間でした。

 洛外の北方に蟄居していたとはいえ、岩倉具視は、日本の運命を左右する重要な人物でした。それだけに、なによりもまず、刻々と変化する情勢を把握する必要がありました。家来が洛中に出て情報を収集していたでしょうし、来訪者が新たな情報を携えてやってくることもあったでしょう。それら一切合切が、情勢分析には必要でした。

 当時、日本に開国を求め、欧米の艦船が、次々と近海にやって来ていました。どう対処すればいいのか判断がつかず、幕府も朝廷も右往左往していました。判断を誤れば、隣国の中国のように、欧米列強の餌食になりかねませんでした。

 国内情勢を踏まえた上で、国外からの圧力にどう対応すればいいのか判断しなければならず、幕府、朝廷とも、極めて難しい舵取りが迫られていました。対処できる人物は限られていました。

 そんな中、岩倉具視は、さまざまな種類の情報を入手することができたばかりか、的確な判断力を持ち、さらに、朝廷と幕府との間を取り持つことのできる数少ない公家の一人でした。

 それでは、なぜ、それほど重要な人物、岩倉具視が、洛外の北方、岩倉村に転居せざるをえなかったのでしょうか。

 先ほど、「四奸二嬪」排斥運動を契機に、岩倉らは糾弾され、蟄居を強いられたと述べました。急進的な尊王攘夷派が台頭する中、公武合体派は佐幕派とみなされ、敵視され、弾劾されたのです。

 卓見の持ち主で、行動力のある岩倉具視はとりわけ、標的になりやすかったのでしょう。

 まずは、その来歴と人となりをみてみることにしましょう。

■養子縁組をして、岩倉具視に

 年表によると、岩倉具視は文政8年(1825)9月15日、前権中納言堀河康親の第二子として誕生しました。幼名は「周丸」でした。容姿や言動に公家らしい優雅さがなく、公家の女子たちの間では、「岩吉」と呼ばれていたそうです。天保9年(1838)8月8日、岩倉具慶の養子となったため、9月に名を具視と改めました。

 10月28日に従五位下に叙任され、12月11日には元服して、昇殿を許されました。一人前の公家と認められたのです。翌天保10年(1839)からは、岩倉具視として朝廷に出番(宿直勤番)するようになり、年100俵の役料扶持米を受け取っています。満13歳の時でした(※ 佐々木克、『岩倉具視』、p.7-8. 吉川弘文館、2006年)。

 岩倉家への養子縁組を推薦したのは、朝廷に仕える儒学者、伏原宣明でした。岩倉具視は、幼い頃から伏原に師事していましたが、その伏原の目に留まるほど、抜きんでて秀でた子どもだったからです。 

 伏原は、「その挙動をみると、尋常の童子とは異なる、成長して有用の人物になるにちがいない」と岩倉具慶にいって、養子に迎えるようすすめたそうです。幼い頃から、それだけ異彩を放っていたのです。伏原宣明は両家の間を取り持って、養子縁組を実現させたばかりか、岩倉具慶の名を取って、「具視」と命名しました。

 正装した岩倉具視の写真があります。


(※ 岩倉幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 堂々としとした面持ちを見ると、何事にも動じない意思の強さと豪胆さを見て取ることができます。その風貌や態度からは、太々しさの一方で、思慮深さ、洞察力の高さが滲み出ています。いずれも、激動の時代を乗り切るのに不可欠な要素です。

■下級の公家

 幕末に公家の数は137家ありました。ところが、長い伝統の下、家格は定まっており、朝廷内でどこまで昇進できるかということも、ほぼ固定していました。

 たとえば、公家の最高家格は摂家で、摂政・関白となることができ、宮中の席次も太政大臣よりも上でした。九条、近衛、一条、二条、鷹司の五摂家が相当します。その摂家に次ぐのが清華家で、太政大臣まで昇進できます。菊亭、花山院、久我、西園寺、広幡、三条、徳大寺、大炊御門、醍醐の九清華家です。この清華家の下に、大臣家といわれる中院、三条西、正親町三条の三家が続きます。さらに、羽林家、名家、半家、新家などがあって、それら公家の序列は固定化し、動かすことができなかったのです(※ 佐々木克、前掲、p.8-9.)。

 岩倉家は、この清華家の中の久我家の庶流でした。公家としての家格は羽林家でしたが、江戸初期に独立した新家でしたから、下級の公家だったのです。

 岩倉具視は13歳の時に朝廷に入り、いろいろと見聞を深めた結果、いつ頃からか、朝廷改革を進める必要があると思っていたようです。安逸を貪る公家たちの意識と慣習を改めなければ、開国を迫る諸外国の力に対応しきれないと感じていました。

 何とかしなければならないと切に願っていたとしても、そもそも、下級公家の身分では朝廷内で発言権がありません。朝廷改革を行うには、まず権力者に近づき、信頼を得て、発言を認めてもらえるようにするしか道はなかったのです。

 1853年1月、岩倉具視は鷹司政通の歌道の門人になりました。なんと27歳の時です。宮中に出仕するようになってから、14年も経っていました。それなのに、わざわざ、鷹司政通の門下に入ったのです。もちろん、多少は歌を学びたかったのかもしれませんが、それだけではありませんでした。

 当時、鷹司政通は朝廷で大きな権力を握っていました。

 鷹司家は五摂家の一つで、公家の最高家格でした。しかも、政通は、文政6年(1823)に関白・内覧に就任して以来、安政3年(1856)に辞任するまで、34年もの間、朝廷及び公家社会の中で、最高権力者でした。識見があり、天皇からも公家からも信望の厚い人物だったのです。

 さらに、鷹司は幕府や海外からの情報に通じていました。

 佐々木克氏は、鷹司政通が朝廷の制度や故実に知悉しているだけではなく、夫人の実家である水戸藩を通して、幕府や海外からの情報が政通にもたらされていたことに注目しています(※前掲。p.9-10.)。

 政通の夫人は水戸藩主斉昭の姉でした。水戸藩は『大日本史』を編纂したことで有名ですが、多くの学者を輩出しています。攘夷思想が形成されていたことはもちろんのこと、西洋やロシアへの関心も高く、『諸夷問答』や『千島異聞』などの書が作成されていました。漂流民への聞き取り調査を踏まえ、当時、入手できる限りの情報に基づき、作られたものでした。

 このように、水戸藩は当時、各方面からさまざまな情報を入手できる環境にありましたし、それらの情報を総合的に分析できる人材も揃っていたのです。その水戸藩から、鷹司政通は情報を得ることができる稀有な人物でした。

 鷹司政通が長く、公家の最高位にあったのは、動乱期の朝廷にとって幸いだったのかもしれません。公家でありながら、幕府や海外からの情報を入手でき、識見の高い、得難い人物でした。

 その政通は、岩倉具視について、「眼彩人を射て、弁舌流るゝがごとし、誠に異常の器なり」と評したといわれています(※ 佐々木克、前掲、p.7.)。

 鷹司政通は長年、朝廷の最高位にあって、数多くの才能ある人々を見てきたはずです。その鷹司すら、驚かせたほどですから、岩倉具視がどれほどの才人であったか、どれほど胆力のある人物であったかがわかろうというものです。

 一方、岩倉具視はといえば、政通の門下に入ることによって、多様な情報に接することができ、それらを踏まえ、的確な分析ができるようになっていました。他の公家たちよりもはるかに海外事情にも通じ、冷静な情勢判断を下すことができ、一目置かれる存在になっていたのです。

 略年譜をみると、岩倉具視は、安政元年(1854)に孝明天皇の侍従となり、従四位下に叙せられ、安政4年(1858)には孝明天皇の近習となって、従四位上に叙せられています。

こちら → https://iwakura-tomomi.jp/history/

 振り返れば、岩倉具視が、鷹司政通の歌道に入門したのが1853年でした。その後、わずか1年ほどで孝明天皇の侍従となり、さらに、4年後には近習になっているのです。岩倉具視が思惑通り、着実に、朝廷内で頭角を現していったことがわかります。

 実際、鷹司門下に入ると早々に、岩倉は宿願であった朝廷改革に乗り出しています。

■ペリー来航と朝廷改革

 嘉永6年(1853)6月、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794 – 1858)が来航しました。強硬な態度に押されるように、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認めてしまいました。その結果、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至ってしまったのです。

 危機感を覚えた鷹司政通は、同年12月28日、廷臣に対し、重大な事態となっていることを心得るようにと諭告しました。岩倉具視はその翌日、この諭告に応える恰好で、次のように意見表明をしています。

 「国内の政治は幕府に委任しているが、対外問題は国体(国家の基本体制)にかかわるものであるから、幕府の対応・措置に注意をはらい、万一にも「失当の措置あらば、断然勅令を以て、差止め」る覚悟を固める必要がある」

 そして、次のように具申しています。

 「今は公家に和歌・蹴鞠を奨励するような時節ではない、学習院を拡充・改革して人材の育成に当たることが急務である。そのための費用として朝廷の積立金を充当されたい」
(※ 佐々木克、前掲。p.10-11.)

 このように岩倉具視は鷹司に対して、堂々と、外交への朝廷の主体的な関与、公家の意識改革、人材育成のための学習院の充実といった方策を提言したのです。朝廷改革の一環として、かねてから岩倉が考えていたものでした。

 この意見書に対し、鷹司は同意を示したものの、即答は避けたといわれています。

 そうこうしているうちに、1854年3月31日、日米和親条約が締結されました。この条約では、「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」とし、アメリカに対し、下田と箱館(現在の函館)の2港を開港しています(※ Wikipedia 日米和親条約)。

 これについて鷹司は、この条約が「国体」の変更を伴うものではないという理解の下で、天皇が了承したと幕府に伝えています。いわば条件付きで、天皇は日米和親条約を承認したといっているのです。事後承諾せざるをえなかった朝廷の面目を保つための措置であり、幕府の拙速な対応への危機感の表れであり、さらには、勅許を経なかったことへの警告でもありました。

 もっとも、朝廷は、自発的に対外政策を検討することもなく、幕府主導の対外政策に甘んじざるをえないというのが実状でした。組織が硬直化し、時宜を得た意思決定ができなくなっていたのです。幕府もまた、開国を迫る諸国の攻勢にひたすら慌てふためき、度重なる威喝に屈し、国を守るための適切な行動がとれなくなっていました。

■八十八卿列参事件と「神州万歳堅策」

 安政5年(1858年)1月、老中の堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため、上洛しました。これに対し、関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しましたが、多くの公卿・公家は反対しています。

 岩倉もまた、条約調印には反対の立場でした。彼は、大原重徳とともに反九条派の公家を集結させ、3月12日に抗議のため、公卿88人で参内しました。この時、九条尚忠は病と称して参内しませんでした。そこで、岩倉は九条邸を訪問し、面会を求めましたが、これも拒否されました。仕方なく、面会できるまで門前で動かずにいたところ、九条が明日、返答すると応じたので、岩倉はようやく九条邸を辞しました。午後10時を過ぎていたといいます(※ Wikipedia前掲)。

 これが、「廷臣八十八卿列参事件」といわれる出来事です。

 老中の堀田正睦は、公家たちの抗議行動の後、3月20日に小御所に呼ばれ、孝明天皇に拝謁しました。天皇は口頭で、「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝えています(※ Wikipedia前掲)。

 岩倉らの反対によって、勅許は与えられなかったのです。公家たちは、力を合わせれば、幕府の意向に掉さすこともできることを経験しました。岩倉具視主導で行われた初めての抗議行動であり、見事に勝利を収めました。

 実は、88人の列参から2日後の3月14日、岩倉具視は、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しています。その内容は、次のようなものでした。

 「日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)」、「条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策」などを記しています。

 その一方で、単純な攘夷論は否定し、次のように記しています。

 「相手国を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する」、「米国は将来的には同盟国になる可能性がある」、「国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき」(※ Wikipedia 前掲)

 これらを読めば、岩倉具視がきわめて的確に、日本の置かれた状況を把握し、国防に配慮した対策を考えていたことがわかります。各所から収集した情報を踏まえ、岩倉が合理的に情勢判断した結果、導かれた意見書でした。

 この政治意見書を読んだからこそ、孝明天皇は、幕府からの使者である老中、堀田正睦に勅許を与えなかったのでしょう。岩倉具視の見解に一理あると判断したのです。

 この頃から、的確な情勢分析ができ、行動力もある岩倉具視が、朝廷内で大きな影響力を持ち始めていたことがわかります。

■日米修好通商条約の締結

 安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。孝明天皇が勅許を与えなかったにもかかわらず、江戸幕府は朝廷に断りなく、勝手に調印してしまったのです。

 実は、日米和親条約の締結以降、幕府とハリス総領事との間で何度も話し合いが行われていました。

 日米和親条約によって、タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804 – 1878)が、初代日本総領事として赴任してきました。彼は、安政4年(1857)10月21日、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡し、通商条約の締結を進めるため、さまざまな働きかけを行っています。

 幕府は、安政4年(1858)12月11日から条約の交渉を開始させました。交渉は15回にも及び、交渉内容に関して双方の合意が得られた段階で、老中堀田正睦が上洛したという経緯がありました。孝明天皇の勅許を得るためでした。

 ところが、先ほどいいましたように、岩倉具視らの抗議行動で、孝明天皇は勅許を与えませんでした。その結果、幕府は朝廷に断りなく、日米修好通商条約を締結してしまったのです。最終的な判断を下したのは、大老の井伊直弼でした。

 6月27日、老中奏書でこのことを知った孝明天皇は、激怒しました。

 それでも、幕府は平然と朝廷の意向を無視し、アメリカに続いて、オランダ(7月10日)、ロシア(7月11日)、イギリス(7月18日)、フランス(9月3日)、と修好通商条約を締結しています。いずれも勅許なく結ばれた条約です。これら一連の条約は、安政五か国条約といわれています。


(※ Wikipedia)

 いずれも、治外法権を認めたうえに、関税自主権はなく、圧倒的に日本側に不利な不平等条約でした。

 公家たちは、当然のことながら、勅許を待たずに調印した条約は無効だと主張しました。朝廷はこれらの条約を認めず、幕府と井伊大老の独断専行を厳しく非難したのです。その結果、朝廷と幕府との間の緊張が一気に高まっていきました。

 外圧に押され、幕府が暴走しはじめました。幕府側は、朝廷に与する人々を次々と、切腹、死罪、追放などの厳罰に処していったのです。これが、安政の大獄といわれる一連の弾圧です。

 やがて、一連の弾圧および不平等条約への反動が来ました。

 安政7年(1860)3月3日、井伊直弼大老が、外桜田邸を出て、江戸城に向かう途中、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名によって暗殺されました。桜田門外の変と呼ばれる事件です。

 日米修好通商条約は、国論を二分する大きな案件でしたが、条約締結を決断した井伊大老が暗殺されてしまったのです。政治的混乱は避けられず、国情が不安になる可能性がありました。

 事件直後からその死は秘匿され、幕府には、井伊大老が負傷したので帰邸するとだけ報告されました。実状を知らされなかった将軍・家茂はわざわざ井伊邸に見舞い品を届けさせたほどでした。このようにして井伊大老の死はしばらく伏せられていたのです。

 3月末に井伊直弼は大老職を正式に免じられ、それに伴い、ようやく、その死が公表されました。そして、まるで厄落としをするかのように、同年3月に改元され、万延元年(1860)となりました。

 幕府は朝廷への歩み寄りを見せ、公武合体路線に舵を切っていきます。尊王攘夷派が力を増す一方で、幕府の威信は日増しに低下していきました。幕府にとっては、政情を安定させるための方策が必要でした。尊王攘夷派が台頭してきた情勢の中で、幕臣たちが検討していたのが、孝明天皇の妹、和宮を将軍家茂の夫人に迎えることでした。

■『和宮御降嫁に関する上申書』と破約攘夷

 4月12日、和宮降嫁を希望する書簡が、幕府側から京都所司代に提出されました。孝明天皇はすぐさま、和宮はすでに有栖川宮への輿入れが決定しているとして断っています。当時、朝廷内の大半も降嫁に反対で、交渉は難航しました。

 ところが、孝明天皇はどういうわけか、いったん拒否しておきながら、この件について岩倉に諮問しています。岩倉の意見は、多くの公家たちとは違って、幕府の懇請を受け入れることを勧めるものでした。というのも、岩倉は、幕府の懇請を受け入れれば、朝廷主導の国家体制に踏み出すための第一歩になると判断していたからでした。

 岩倉は、幕府が降嫁を持ち掛けてきたのは、自らの権威が地に落ち、人心が離れていることを自覚しているからだと判断していました。だからこそ、朝廷の威光によって幕府の権威を粉飾しようとする狙いがあると分析していたのです。

 岩倉は、「皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わなければならない」とし、『和宮御降嫁に関する上申書』を提出しています。

 さらに、次のように、和宮降嫁に際しての条件をいくつか付けています。

 「政治的決定は朝廷、その執行は幕府が当たるという体制を構築すべき」とし、喫緊の課題としては、「朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき」(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)

 岩倉具視は以前から、朝廷が意思決定をし、幕府がそれを遂行する政治体制を理想としていました。朝廷主導の政治体制です。とはいえ、国難の今、まずは公武一体で課題を解決していく必要があるとし、朝廷に無断で締結した一連の条約を破棄するという条件の下で、降嫁は許可してもいいと述べているのです。

 日本の国体を守るには、なんとしてもこれらの不平等条約を破棄しなければならないと岩倉は考えていたのです。

 孝明天皇は、岩倉の見解を受け入れました。朝廷主導の政治体制を実現させるために、まずは、公武一体で臨む必要があると判断し、和宮降嫁の懇請に応じたのです。岩倉の情勢分析、判断力、交渉力に全幅の信頼を置いていたからにほかなりません。

 6月20日、京都所司代を通し、条約破棄と攘夷を条件に、和宮降嫁を承認したことを伝えました。そして、7月4日、四人の老中の連署による「7年から10年以内に外交交渉、場合によっては武力をもって破棄攘夷を決行する」という念書を取り付け、条件についての幕府側の応諾を確認しています。

 孝明天皇は、文久元年(1861)10月20日に和宮が江戸に下向する際、岩倉を勅使として随行させています。下級公家の岩倉が、老中と対等に議論できるようにという配慮からでした(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)。

■「四奸二嬪」運動と岩倉村での蟄居

 その後、各地で尊王攘夷運動が高まり、公武合体を主張していた岩倉は、いつの間にか、幕府に与する佐幕派とみなされるようになってしまいました。やがて、佐幕派や公武合体派の公家たちは、尊王攘夷派から脅迫され、排斥されるようになっていきます。

 8月16日、三条実美、姉小路公知ら13名の公卿が連名で、岩倉具視、久我建通、千種有文、富小路敬直、今城重子、堀河紀子の6人を弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出しました。岩倉を含む4人の男性と2人の女性は、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として糾弾されたのです。

 当時、とくに京都では尊王攘夷の気運が高まっていました。

 岩倉具視は、「四奸二嬪」の一人として弾劾されました。岩倉を信頼していた孝明天皇でさえかばいきれず、岩倉らは8月20日に蟄居処分、さらに、辞官、出家命令を受けました。不満に思いながらも、岩倉は逆らわずに辞官して出家し、朝廷を去りました。

 出家した後、まずは、西賀茂の霊源寺に移りました。ところが、そこで身に危険が及ぶようになり、さらに御所から遠い、洛西の西芳寺へと移り住んだのです。

 ちなみに、霊源寺は岩倉家の菩提寺でした。
(※ https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ki017.html

 そして、西芳寺は当時、父、岩倉具慶の甥が住持でした。
(※ http://saihoji-kokedera.com/top.html

 このように岩倉は縁故を頼って、次々と落ち延びていったのです。

 それでも糾弾の声はやまず、9月26日には、洛中に居住することを禁じる命令が出されました。仕方なく洛中を出て、御所から遥か遠方の岩倉村に住まいを移しました。文久2年(1862)10月8日のことです。以後、岩倉村での蟄居生活は、1867年11月8日に洛中帰住が許されるまで5年間も続きました。

 洛中帰住が許されても、岩倉具視はまだ完全に赦免されたわけではありませんでした。

 その一か月後の12月8日、小御所で朝議が開催されてようやく、文久2年(1862)と3年(1863)の処分者に対する赦免が行われたのです。激動のさ中、岩倉具視はようやく本領を発揮し、活躍できるようになりました。

■激動期の改革者

 振り返ってみれば、岩倉は初めて宮中に伺候した時から、朝廷改革の必要性を感じていました。下級公家だったからこそ、組織の硬直化による不毛に気づいたのです。

 さらに、ペリー来航時の幕府の対応を見て、なによりもまず、朝廷の主体的な外交関与、そのための公家の意識改革、人材育成、等々の重要性を痛感しました。そのような見解を文書にし、鷹司に提言していたほどでした。岩倉がわずか24歳の時です。

 岩倉は当初から、朝廷の改革を行わなければ、日本の未来はないと思っていたのです。

 その後も、公家の在り方について、岩倉は沙汰書を出しています。日付は明らかではありませんが、公家の実状を熟知しているだけに、その内容には根本的な改革案が含まれていました。

 たとえば、次のような見解が、沙汰書で披露されています。

 「世襲の禄については、時宜によって減少させられることはあっても、加増を仰せつけられることはない。ただし、この後の奉公によって「功労」があれば、一代限り加禄を賜うべきである。官位についても同様で、「世襲の旧弊」は改革され、今後は人材の能力に応じて任命されるので、そのように心得て「文武」のことに「勉励」するべきだ」とされています(※ 斉藤紅葉、「岩倉具視の新国家像と動向」、伊藤之雄編著『維新の政治変革と思想』、pp.91-92. ミネルヴァ書房、2022年)

 沙汰書を見れば、岩倉が、世襲の官位や禄の制度を改革し、能力に応じた取扱いをして、公家たちの自発性を喚起しようとしていたことがわかります。朝廷を中心に、国体を維持した政治体制にするには、なによりも優秀な公家の育成に努めなければならず、勉学を奨励しなければならなかったからでした。

 一方、欧米列強に伍していくには、外交、防衛にも配慮した政治体制でなければならず、それを支える卓越した識見をもつ優秀な人材の登用が必要でした。新たな秩序の体系は、朝廷側であろうと、幕府側、藩側であろうと、能力の高い意欲ある人材によって構築しなければならないと岩倉は考えていたのです。(2023/3/31 香取淳子)

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