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実相院で振り返る日本の中世

実相院で振り返る日本の中世

■ 岩倉実相院

 京都市左京区岩倉上蔵町に、天台宗寺門派の門跡寺院・実相院があります。2023年1月5日、所用で京都を訪れた際、次いでに行ってみることにしました。地下鉄烏丸線の沿線の国際会館駅で24系統京都バスに乗り換え、終点の岩倉実相院で下車すると、目の前に実相院が見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 さらに近づくと、表門は四脚門でした。


(図をクリックすると、拡大します)

 落ち着いた佇まいの中に、歳月を重ねた重厚感と格式の高さが感じられます。見ていると、次第に身が引き締まる思いがしてきました。

 四脚門は、鎌倉以降、将軍家の正門や勅使門、格式のある寺家の正門などに使われたといわれます。

 パンフレットを見てみると、江戸時代初期、天皇家とのゆかりが深まり、「享保5年(1720)、東山天皇の中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜った」と書かれています。江戸時代になって、承秋門院(東山天皇の中宮)の御殿の一部が移築されたものだったのです。

 今日まで伝わっているのは、この四脚門と実相院の車寄せ、客殿でした。そういわれてみると、この表門には、奥ゆかしく、典雅な趣が感じられます。実相院はまさに、現存する数少ない女院御所なのです。

 確かに、中に入ると、どの部屋にも襖絵があって、壮観でした。とくに印象深かったのが、杉戸に描かれた襖絵です。

 内部は撮影できませんので、実相院HPの画像をご紹介しましょう。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 これは仏間のある牡丹の間に設えられた襖絵です。杉戸に、竹林の中で虎が寝そべっている姿が描かれています。そもそも、竹に虎というモチーフは取り合わせのいい図柄で、古来、縁起がいいとされてきました。

 仏間の杉戸に描かれた襖絵を見ていると、私には、この虎が仏間を守護しているように思えました。

両側には、虎を囲むように、何本もの竹が描かれています。まっすぐに伸びた竹の合間から風が吹き抜けてきて、竹林のしめやかな空気を運んできているような気がします。襖絵を通して、さり気なく、自然が室内に取り入れられているのです。

 何も襖絵に限りません。風や水の流れを感じ、四季折々の変化を愛でるための設えは、さまざまな所に見られました。

 たとえば、石庭です。

 苔むした巨石の周りに刻まれた同心円状の線が、水面に広がる波紋に見えます。その先に設置されたアーチ状の造形物が、水面を跨ぐ橋に見えます。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 写真は2022年11月26日に撮影された石庭です。庭を囲む木々がさまざまに色づき、砂利の白さに興を添えています。手前には庭を望む桟敷があり、ここから四季折々にもたらされる自然の美しさを堪能していたのでしょう。

 優雅な生活の一端が偲ばれます。

 典雅な佇まいは、門跡寺院だからなのでしょうか。

■ 門跡寺院

 実相院は昔から、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。実相院が岩倉にある門跡寺院だからでしょう。

 門跡寺院とは、天皇家の血を引く方々が、その寺院の住職を務める格式の高い寺院を指します。現在、17の門跡寺院があります。17のうち、11の寺院が天台宗で、真言宗は5、浄土宗は1です(※ https://enman-inn.com/about/)。

 天台宗の寺院の比率が圧倒的に高いことがわかりますが、天台宗には山門派と寺門派があります。

 第3世天台座主の円仁(慈覚大師、794-864)と、第5世天台座主の円珍(智証大師、814-891)には、仏教解釈に違いがありました。やがて、その末流が対立するようになり、以下のような経緯で、2派に分かました。

 正歴4年(993)、円仁派が比叡山の円珍派の坊舎を焼き払ったので、円珍門徒は山を下り、園城寺に入って独立しました。そこで、寺門派と呼ばれるようになりました。一方、山に残った円仁派は山門派と呼ばれています。

 その寺門派の三門跡とされていたのが、円満院、聖護院、実相院です。

 「実相院はとくに室町時代から江戸時代にかけて、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました」(※ 実相院HP)と説明されています。

 寺門派では数少ない門跡寺院の中で、実相院は室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一とされていた」というのです。

 なぜ、実相院が「門跡寺院の随一」だったのでしょうか。

 実相院HPに次のような記述がありました。

 「江戸時代初期に入寺した、義尊(ぎそん)は足利義昭の孫にあたります。義尊の母、法誓院三位局は義昭の子高山(法厳院)との間に義尊(実相院門主)と、常尊(円満院門主)をもうけ、さらに後陽成天皇(一説によると後水尾天皇)との間にも 道晃親王(聖護院門主)をもうけたため、義尊は皇子同様にして後陽成天皇の寵愛を受けました」(※ 実相院HP)

 この記述からはまず、江戸時代初期、天台宗寺門派の三門跡の門主を務めたのが、法誓院三位局の息子たちだったことがわかります。次いで、なかでも実相院の門主である義尊は、時の天皇の寵愛を受けており、多大な支援を得ていたことが示されています。

 その結果、義尊が門主であった時期に、経典や古典籍の大規模な収集、書写、整理などが行われています。それが、実相院の文化的価値を高め、「室町時代から江戸時代にかけて」、「門跡寺院随一」という評価を得ていたのでしょう。

■ 義尊の貢献

 実相院門主の義尊は、天皇や将軍家と深い繋がりがありました。豊かな人脈の中で、諸学、諸芸が磨かれていく一方、義尊は実相院の文化的基盤を整備し、その確立に尽力していたのです。

 次のような記述があります。

 「両天皇、東福門院、三位局など、義尊を取り巻く江戸初期の宮廷生活との深い関わりの中で実相院の文化的基礎は一層確かなものとなりました。義尊は失われた古文書、古記録を熱心に書写したため、重要なものが多くのこされています」(※ 実相院HP)。

 さまざまな写本の中には、義尊筆と書かれたものが数多く残っているそうです。義尊自らが率先して書写し、古典籍、資料などの保存に努めていたのです。

 なにも文化の保存に努めただけではありませんでした。応仁の乱で類焼した実相院の復興に力を尽くし、その後の興隆を図ったのも義尊でした。

 そもそも、門跡寺院は代々、皇室から多大な支援を受けて栄えていました。その中でもとくに実相院が、室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一」とされていたのは、義尊が門主だったからでした。

 義尊は焼失した建物を復興し、文化財を保存し、資料の充実を図りました。

 先ほどもいいましたように、義尊は、大乗院大僧正義尋の子で、15代将軍足利義昭の孫にあたります。由緒正しい出身であったばかりか、仏教をはじめ諸学、諸芸に通じており、見識のある天皇と親密に交流できる資質を備えていました。

 とくに後水尾天皇とは親しかったようで、実相院には天皇の宸翰が残されています。


(実相院HPより。60.6×49㎝、図をクリックすると、拡大します)

 「忍」の一字です。何年に書かれたものかはわかりませんが、後水尾天皇の不満がこの一字に込められているように思えます。義尊が門主を務めた実相院だからこそ、このような内面を晒すような書が残されているのでしょう。後水尾天皇が義尊に親しみをおぼえ、気を許していたことがわかります。

 一方、義尊の書状も残されています。


(https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/319より。図をクリックすると、拡大します)

 何が書かれているのか、文字を判読することはできませんでした。説明によると、これは、女官を通して渡した、「後水尾上皇の幡枝への遊興に際し、義尊がそのもてなしを依頼されたことへの返書」だそうです(※ 上記URL)。

 このように、義尊は、天皇あるいは上皇との良好な関係を通し、経典、古典籍、王朝文化に関わる資料などを数多く保存し、整理していました。その結果、実相院の文化的価値を高めたことは注目に値します。

 ところで、実相院のご本尊は、不動明王です。

■ 不動明王

 ご本尊は、鎌倉時代に作られたとされる木造立像の不動明王です。


(※ 実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この写真ではちょっとわかりづらいですが、右目を大きく見開き、左目は瞼が垂れて半開きになっています。左右非対称の形相がなんとも恐ろしく、威圧感があります。

 これは、「天地眼」と呼ばれる様式の造形です。

 天台宗の安然(841-915)が記した「不動十九相観」には、不動明王には十九の外見上の特徴があり、この「天地眼」はその一つだと記されています。

 一見、異様な印象を与える不動明王の両眼は、閉じた左目で災いを退け、開いた右目で善を保つことを表しているといわれています。迷いの世界にいる衆生を見守り、正しい仏の道に導くための造形なのです。(※ http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=2574)

 このような造形は、おそらく、不動明王が大日如来の化身とみなされているからでしょう。

 大日如来と不動明王はまさに異体同心、ある時は柔和で慈悲深い姿、また、ある時は怖い忿怒の形相をした不動明王の姿となって、迷える衆生を導き、救済しているように思えます。

 Wikipediaでは、不動明王について、次のように説明されています。

 「密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。(中略)真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれることもある」(※ Wikipedia)

 不動明王の由来を知ると、天台宗寺門派の門跡寺院である実相院に、本尊として不動明王が置かれているのは当然といえば、当然のことでした。

 それでは、創建の経緯から、見ていくことにしましょう。

■ 実相院門跡の創建

 実相院は寛喜元年(1229)に創建されたとされていますが、実際は、それ以前から存在していたようです。

 「寺伝によると実相院は静基(1214~59)によって開基されたというが、すでに見てきたように近衛家に関連する門跡としてそれ以前より成立していた。静基は鷹司兼基(1185~1259以降)の子で、近衛基通の孫である。寛喜元年(1229)3月7日に覚朝(1159~1239)より伝法潅頂を受けた。正元元年(1259)閏10月26日に46歳で示寂した(『寺門伝記補録』巻第16、僧伝部巳 非職高僧略伝巻上、前権僧正静基伝)。なお近世期の実相院の相承系譜や『諸門跡譜』、明治時代の『愛宕郡寺院明細帳』『京都府寺誌稿』では静基を開基とすることで一致するものの、開創年については詳かにしていない。なお現在実相院における寺伝の開基年である寛喜元年(1229)は静基が伝法潅頂を受けた年である」
(※ 「実相院」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)

 実相院は近衛家に関する門跡として以前から存在していたというのです。いくつかの資料にあたってみても、静基が開いたことでは一致しているが、開基年は詳らかにされていないと書かれています。

 それでは、実相院のHPでは、どのように記述されているのでしょうか。HPを開いてみると、次のように書かれていました。

 「実相院が門跡寺院となったのは、静基(じょうき)僧正が開山された、寛喜元年(1229年)のことで、そのころは北区の紫野にありました。その後、京都御所の近くに移り、ここ岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるためであったと言われています」(※ 実相院HP)

 興味深いことに、ここでは「静基僧正が開山された」と書かれており、「創建された」とは書かれていません。

 さらに、『京都 実相院門跡』には、実相院の創建について、次のような記述があります。

 「鎌倉時代中頃には創建されていたといわれている。寺名については、寛喜元年(1229年)に鷹司兼基の子静基が園城寺に入壇し、実相院と号したことによるという。実相院が門跡寺院となったのも、この初代静基が関白近衛基道通の孫であったことによるところが大きい。そのため鎌倉時代以降、寺領も増加した」(※ 宇野日出生、「洛北岩倉と実相院門跡」、『京都 実相院門跡』、p.43、思文閣出版、2016年)

 以上を総合すると、静基が伝法潅頂を受けた寛喜元年(1229)に、その号にちなみ、実相院が門跡寺院として創設されたといえます。つまり、静基が伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て、正式な僧侶と認められた段階で、実相院は、静基の号を冠した門跡寺院として誕生しているのです。

 場所も当初は現在の岩倉ではなく、北区柴野にありました。その後、京都御所の近くに移り、さらに、応仁の乱(1467-77)が激しくなった頃、戦火を逃れるために、岩倉に移っています。

 それでは、なぜ、岩倉の地が選ばれたのでしょうか。

 先ほどもいいましたように、実相院は岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。このような呼び名からは、実相院が岩倉の地に深く根を下ろしていたことが示唆されています。

 案内図を見ると、実相院の周辺には、大雲寺、岩倉神社、岩倉具視幽棲旧宅、いわくら病院などが図示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 それぞれ、至近距離にあります。私が実際に訪れたのは、実相院と岩倉具視幽棲旧宅だけですが、調べてみると、大雲寺と実相院は相互に深く関わり合って、この地域の歴史を紡いできたことがわかりました。

 なぜ、岩倉の地が選ばれたのかを知るには、まず、実相院と大雲寺との関係を調べてみる必要があるでしょう。

■ 実相院と大雲寺

 先ほどご紹介した宇野日出生氏は、実相院と大雲寺との関係について、次のように記しています。

 「(実相院が)岩倉に移転した要因は、応仁の乱の戦火から逃れるためだった。戦場となった町中から岩倉へ難を避けざるをえなかったのである。建武三年(1336)9月3日付光厳上皇院宣案によると、実相院は南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していたことが知られる。このような理由から、実相院が岩倉に移ったと考えられるのである」(※ 前掲)

 なぜ、岩倉なのかといえば、「実相院が南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していた」からだというのです。

 また、「実相院」(http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)には、以下のように同様の記述があります。

 「それまで大雲寺は同寺中に位置した平等院が大雲寺寺務職を兼帯しており、平等院は後に円満院門跡へと昇格したが、元弘・建武年間(1331-38)に円満院門跡の園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれていた(湯本、著作年未詳)。この頃円満院門跡から円胤(?~1355)が還俗して南朝側にはしるなど、京洛を実効支配していた幕府・北朝側にとって、円満院門跡より、北朝天皇の護持僧となっていた実相院門跡増基の方が信に値することもあったため、実相院が大雲寺を管領することになったと考えられる」(※ 上記URL)

 なぜ、実相院が大雲寺の事務を管掌するようになったかといえば、幕府・北朝側にとって実相院門跡の方が信頼できると思われていたからだというのです。というのも、円満院門跡の一人が還俗して南朝側に走ったことがあるからでした。

 ここに、南北朝時代の抗争の一端を見ることができます。

 一方、大雲寺側の資料によると、次のように書かれています。

 「大雲寺中に位置した平等院は、円満院門跡となり、大雲寺寺務職を兼帯していたが、元弘・建武年間(1331~38)に園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれた(『京都府寺誌稿』)。代わって大雲寺を管領したのが実相院門跡である。実相院は建武3年(1336)9月3日に大雲寺および同寺の荘園を光厳上皇より安堵されており(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編3冊〉)、以後実相院による大雲寺への支配がはじまる」
(※ 「大雲寺」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003j.html)

 それまで大雲寺の事務を管掌していた平等院が円満門跡となって、建武年間に園城寺に移転したのに伴い、実相院が大雲寺を管領するようになったという経緯は、先ほどの記述と同様です。

 興味深いのは、光厳上皇から「大雲寺および同寺の荘園」を「安堵(幕府などが土地の所有権などを認める)」されたと記述されていることでした。

 1336年9月3日、光厳上皇の命によって、実相院は大雲寺を管掌するばかりか、同寺が所有していた荘園までも所有し管理することになったのです。

 実は、その4カ月ほど前の1336年5月、足利尊氏は光厳天皇を奉じて上京しています。そして、光厳天皇の弟を即位させて光明天皇とし、北朝を立てていました。一方、後醍醐天皇は12月に吉野に逃れ、南朝を誕生させています。

 幕府の後ろ盾を得た光厳上皇の力が強くなっていました。

 ちょうどそのころ、実相院が大雲寺を管掌し、その所有地までも所有することになっていたのです。南北朝の対立が鮮明になっており、北朝側寺院として権勢を高め、支配系統を強化する必要がありました。

 1336年に実相院が大雲寺よりも優位に立ち、明らかな支配関係が発生していますが、その背後には幕府・北朝の意向があったといっていいでしょう。

■ 実相院による大雲寺支配

 南北朝の誕生とともに、大雲寺は実相院による支配を受け始めました。

 大雲寺の年表には、次のような記述があります。

 「実相院が今出川小川から応仁の乱の戦火を避けて大雲寺(成金剛院跡地)へ一時避難し以後今日に至る。実相院による大雲寺統治が長く続く」(※ 「大雲寺」年表)

 大雲寺を管掌していたのが縁で、実相院は岩倉の地に移ってきました。応仁の乱の戦火を逃れるため、というのがその理由でしたが、その後、管掌を介して支配力を強めていきました。

 一方、大雲寺側は実相院に対し、大きな不満を抱くようになっていました。
 
 ところが、文亀2年(1502)8月6日、実相院門跡義忠(1479~1502)が将軍足利義澄の命によって殺害されると、実相院領は収公(幕府に没収)され、8月9日、将軍夫人の日野氏領となりました。

 その結果、大雲寺に対する実相院門跡の支配を強めようとする動きに陰りがみえ、「大雲寺衆徒は一時的に大雲寺内の自治勢力回復に成功」しています(※「大雲寺」年表)。

 義忠は将軍継承者の一人であったため、将軍職を奪われることを恐れた義澄の命によって殺害されたといわれています。門主が殺害されたばかりか、実相院領まで収公されてしまったので、一時、実相院の勢力は落ちてしまいました。

 政権争いの厳しさを感じさせられますが、これは、実相院から実効支配されていた大雲寺衆徒には朗報だったのかもしれません。

 宇野氏は、「大雲寺は中世以降、実相院の支配管理となってはいたが、大雲寺衆徒が実相院の下知に応じなかったこともたびたびあった」と記しています(※ 前掲)。

 大雲寺はその後もさまざまな抗争に巻き込まれ、何度も焼き討ちにされました。元亀4年(1573)には明智光秀に攻められ、灰塵に帰したほどですが、その都度、再興されています。

■ 義尊が再興した大雲寺

 大雲寺がようやく安定したのは江戸時代、足利義尊が大雲寺を再興してからでした。寛永18年(1641)の大雲寺年表には次のように記されています。

 「義尊(足利15代義昭の孫)旧伏見城の遺材を充てて大雲寺本堂を再興する。本堂は入母屋造桟瓦葺で桁行5間、梁間5間の建物である。棟札に寛永18年(1641)の年記あり。本堂の四方に縁をめぐらせ、内部は前方2間を外陣とし、引違網入格子戸で結界して奥を方3間の内陣と脇陣にし、伝統的な密教寺院本堂(天台様式)の平面形式を踏襲」(※ 大雲寺年表)

 前にも述べましたが、義尊は実相院を復興させていました。その上、大雲寺も再興させていたのです。見識を持つ人物が資金や資材を動かせる力を持った時、数多くの文化財が失われることなく、保存されることが示されています。

 明暦元年(1655)には大雲寺鐘楼が建立されています。

 安永8年(1779)頃の大雲寺は次のようになっていました。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」、図をクリックすると、拡大します)

 大雲寺の境内の部分をクローズアップしてみましょう。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」部分。図をクリックすると、拡大します)

 本堂の右側に見えるのが、鐘楼です。その右に八所神社と書かれた建物が見えますが、
これが岩倉神社です。

 実は、この岩倉神社が大雲寺のパワースポットなのです。

■ パワースポットとしての岩倉神社

 大雲寺の創建は971年4月2日で、年表には、次のように書かれています。

 「円融天皇が比叡山延暦寺講堂落慶法要の砌、当山に霊雲を眺められ日野中納言藤原文範(ふみのり)を視察に遣わす。文範・真覚(藤原佐里)を開祖として大雲寺創建。佐里卿「大雲寺」の掲額を書く」(※ 大雲寺HP)

 比叡山延暦寺で法会が行われた際、五色の霊雲が立ち昇りました。それを見た天皇が、日野中納言文範を視察させたところ、霊雲の谷(岩倉)に辿り着き、出会った老尼から、その地が観音浄土の地と知らされました。伽藍建立には恰好の土地だったことがわかったというのです。

 そこで、視察した文範と真覚上人(藤原佐里)を開祖とし、その地に大雲寺が創建されました。

 大雲寺を建立するにあたっては、鎮守社として、境内に石座(いわくら)神社を移しています。岩倉の産土神を大雲寺の鎮守のために移動させたのです。

 古来、日本には、巨大な岩石を“磐座(いわくら)”と称して祭壇として使用したり、巨岩そのものを崇拝する習慣がありました。

 たとえば、平安京を造営する際、桓武天皇は、京都の東西南北にある“磐座(いわくら)”を掘り出し、その下に一切経を埋めています。
(※ https://japanmystery.com/z_miyako/rakuhoku/iwakura.html)

 一切経とは仏典を集成したもので、大蔵経ともいいます。その経典を霊験あらたかな磐座(いわくら)に納めることによって、京都を守護させるというのが桓武天皇の計略でした。

 北岩倉、東岩倉、西岩倉、南岩倉など、東西南北に四つの岩倉が設置されたのは、風水思想の四神相応に基づいたものでした。日本古代の磐座信仰を踏まえ、風水思想を取り入れ、桓武天皇は京都に安寧をもたらすシステムを築いていたのです。

 971年に大雲寺が創建されると早々に、岩倉神社が境内に移されています。古代の磐座信仰を踏まえ、大雲寺の安寧を願って移設されたのです。

 平安京は、さまざまな防衛ラインが敷かれた都市でした。陰陽道に基づいた仕掛けがあるかと思えば、仏教の法力によって鎮護を行う仕掛けもありました。その一つが、“四つの岩倉”と呼ばれるパワースポットでした。

 大雲寺には創建とともに、パワースポットとしての霊験あらたかな岩倉神社が置かれていました。古代天皇制の名残りといえます。

 その古代天皇制に揺らぎがみられたのが、実は、鎌倉時代でした。

■ 両統迭立

 鎌倉時代後半、皇統が2つの家系に分裂し、両統迭立の状態にありました。両統迭立とはそれぞれの家系から交互に君主を即位させていくという仕組みです。

 なぜ、「両統迭立」という仕組みが生まれたのか、その経緯をみていくことにしましょう。

 後嵯峨天皇(1220-1272)は、後深草天皇がわずか4歳の時に譲位し、上皇となって院政を敷きました。ところが、後嵯峨上皇は、その後、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にし、治天の君(天皇家の家督者として政務の実験を握るもの)を定めないまま崩御しました。

 それが、その後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなりました。

 鎌倉幕府は、後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱(1221)以降,皇室を監視し、皇位継承に干渉してきました。幕府による朝廷掌握は徹底し、後嵯峨上皇による院政の頃は、ほぼ幕府の統制下にあったといわれています。

 膠着状態に陥っていた皇位継承問題の打開を図ったのは、幕府でした。幕府が、両統交互に即位するという案(両統迭立)を出し,両統の間に協定が成立したのです。 建治元年(1275)のことでした。

 天皇家の系図を見ると、後深草天皇(89代)から亀山天皇(90代)、後宇多天皇(91代)から伏見天皇(92代)といった具合に二つの皇統から交互に君主が出ています。


(宮内庁HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ても、後宇多天皇(91代)から後醍醐天皇(96代)までの6代は、両統から交互に即位していたことがわかります。ところが、後醍醐天皇の代で、この仕組みが機能しなくなり、南朝と北朝に分かれてしまいました。

 というのも、後醍醐天皇が自分の息子に皇位を継承させようとし、両統迭位を求める幕府を打倒しようとしたからでした。計画は事前に幕府に発覚し、後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいます。

 ところが、後醍醐天皇は早々に隠岐から脱出し、幕府打倒の綸旨を諸国に発布します。それに応じた足利尊氏や新田義貞などの功労で、鎌倉幕府は滅亡しました。1333年のことです。

 その翌年(1334年)、後醍醐天皇は京都に帰還して年号を建武と改元し、天皇中心の政治体制を復活させようとしました。いわゆる「建武の新政」です。

 後醍醐天皇は天皇を中心とした社会に戻そうとしたのですが、元弘の乱後の混乱を収拾することができず、また、公家を優遇した政策が武士たちの反感を招きました。その結果、建武3年(1336)、足利尊氏との戦いに敗れ、政権は崩壊しました。

 後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立て、そこで天皇を中心とする政権を樹立しました。一方、武家側に依存している北朝は、足利尊氏は光厳天皇の後、光明天皇を立てました。

 以上が、「両統迭立」から南北朝誕生に至る経緯です。

 実相院が大雲寺を管掌するようになったのは、ちょうどこの頃のことでした。社会が二分され、北朝と南朝の対立が先鋭化していた時期だったのです。

 武士勢力が台頭し、古代天皇制に消滅に向かっていた時期でもありました。

■ 武士勢力の台頭と古代天皇制の崩壊

 光厳天皇は北朝1代目の天皇で、光明天皇は2代目でした。以後、北朝は5代まで続き、北朝6代の持明院統の後小松天皇(100代)からは北朝系で統一されていきます。これで、ようやく南北朝が統一され、皇統が一つになったのです。

 この時も解決に向けて動いたのは幕府でした。

 明徳3年(1392)、足利義満は、南朝第4代天皇・後亀山天皇との間で、「明徳の和平」を締結しました。それに従って、 後亀山天皇は京都へ赴き、大覚寺で神器を後小松天皇に渡しました。南朝が解消される形で、南北朝合一は成立したのです。

 こうして約56年に亘った南北朝の分裂は終結しました。

 この時、南朝に任官していた公家は、一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落していきました。また、南朝には、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちが集まっていましたが、後醍醐天皇が公家を優遇した政策を取ったので、彼等は失望を募らせ、去っていきました。

 南北朝の時代は、古代天皇制が終焉していく過程であり、その一方で、支配階級としての武士の基盤が確立されていった過程だったと捉えることができるでしょう。

 後醍醐天皇は、天皇が絶対的権力を持つ古代天皇制を復活させようとしていました。ところが、政治制度としての天皇制はすでに、摂政から院政へと変容し、天皇は事実上、最高の支配者ではなくなっていました。

 もちろん、律令制はもはや機能しなくなっていました。荘園を所有するのは貴族や寺社だけではなく、武士も参入してきており、中には大土地所有者になっている者もいました。土地所有の公有制は解体され、私有制に移行していたのです。

 さらに、荘園を侵略する者が絶えなくなっていました。それを封ずるため、源頼朝は、律令制の枠組みを壊すことなく、守護・地頭制を組み込み、全国の治安警察権、土地管理権、徴税権などを掌握したのです。

 後醍醐天皇は鎌倉時代末期、武家政権への抵抗を試み、古代天皇制を復活させようとしましたが、わずか2年半でその試みは終了しました。社会構造が変化し、武家政権への移行は避けられなかったのです。

 今回、訪れた実相院は、北朝側に立っていました。だからこそ、室町時代から江戸時代にかけて、隆盛を誇ることができたといえるでしょう。(2023/1/28 香取淳子)

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