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原ひろ子先生を偲ぶ

原ひろ子先生を偲ぶ

 いつの間にかもう10月28日、原ひろ子先生が亡くなられてから、あっという間に三週間が過ぎてしまいました。日が経つにつれ、その存在がいかに大きかったかを思い知らされています。最近、ようやく気持ちの整理がついてきましたので、この場で、原ひろ子先生を偲びたいと思います。

■突然の訃報
 2019年10月11日、「原ゼミの会」から訃報メールが届きました。原ひろ子先生が10月7日、午後6時38分に亡くなられたというお知らせでした。突然のことで驚いてしまいました。なんといっても、まだ85歳、思いもよらないことでした。

 定年退職して帰京してからは毎年、私は、「原ゼミの会」で原ひろ子先生にお目にかかっていました。先生の含蓄のあるお話しを聞くのが楽しみでした。毎回、言葉の端々から何かしら新鮮な刺激を受け、気持ちが鼓舞されていくのを感じさせられていました。今年は6月に開催される予定でした。ところが、腰椎骨折をされて、まだ痛みが残っているということで延期になってしまったのです。

 私の知り合いでも腰椎骨折を経験している人が何人かいますが、だいたい3か月を過ぎる頃から痛みが取れるということを聞いていました。ですから、そろそろ「原ゼミの会」開催のお知らせがくる頃だと思っていた矢先の訃報でした。

■東京大学大学院修了式での告辞
 その後、メンバーから連絡があり、2019年9月13日、東京大学大学院修了式で五神真・東京大学総長が告辞の中で、原ひろ子先生について触れられていたことを知りました。これから社会に出ていく大学院修了者に向けて、はなむけの言葉として、原先生の生き方とその業績を紹介されたのです。

こちら →https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message01_07.html
(英語表記の後、日本語表記があります)

 東京大学総長の五神真氏が原ひろ子先生のどこに着目されたのか、告辞内容をかいつまんでご紹介しておきましょう。

 原先生は、東京大学が女性に門戸を開いた最初の年に合格されました。1953年に入学された際、入学者約2000名中、女性はわずか8名でした。

 学部、修士課程では文化人類学を専攻され、日本の農・山・漁村で精力的にフィールドワークをされました。やがて「狩猟採集民について研究してみたい」と思うようになり、1959年、アメリカに留学されました。フルブライト奨学金を得てピッツバーグ大学大学院博士課程に進み、1960年にはブリンマー大学大学院人類学科に移り、1961年にカナダ極北で生活するヘヤ―・インディアンの調査研究を開始されました。

 当時、カナダ極北の地で生活する狩猟採集民は、リーダーがおらず、フラットな社会組織だと考えられていました。そこで、研究対象をヘヤー・インディアンに定めた原ひろ子先生は、大学院留学生の立場で、カナダの国立博物館に手紙を書いて支援を取り付け、現地に乗り込み、フィールドワークに励まれたのです。

 戦後間もない時期に、原ひろ子先生はなんと積極果敢に研究者人生を切り拓いてこられたのでしょう。

 青年期のこのような経験を知るだけでも、原ひろ子先生がいかに先進的で革新的な考えの持ち主であり、創造性豊かな努力家であったかがわかります。東京大学総長の五神真氏が、大学院修了者に向けた告辞の中で、原ひろ子先生を取り上げられた理由がよくわかります。

 大学院修了者たちは今後、不確実性の高い社会の中で研究活動を展開していかなければなりません。果たして研究者になれるのか、彼らは時に迷い、時に沈み込むこともあるでしょう。どのような場に身を置くことになろうとも、原ひろ子先生のように積極果敢に、そして、柔軟に道を切り拓いていこうとする姿勢がなければ、成果を得ることは難しいでしょう。原先生の来歴を告辞の中で紹介された五神真氏の思いがひしひしと伝わってきます。

■原ひろ子先生のお顔
 2019年10月13日、代々木斎場で執り行われたお通夜に行ってきました。先生のご遺影はにこやかで、可愛らしく、見ていると、悲しみの中でいっとき、気持ちが和んでいくような気がしました。茶目っ気のある先生の笑顔を思い出してしまったのです。研究者としての厳しさを見せられる反面、どんなヒトをも包み込むおおらかさがあり、笑顔の素晴らしい先生でした。

 最後に、お棺の中の先生にお別れをさせていただきました。先生は軽くお化粧を施されており、まるで少女のような初々しさが感じられました。普段、お化粧されないだけに、頬に薄く差された紅が印象的でした。可愛らしく、そして、穏やかで、とてもいいお顔でした。

 先生と出会った頃を思い出します。

■原ひろ子先生との出会い、そして、得たこと
 大学院在籍時、私は社会学系の研究室に所属していました。ところが、修了しても行き場がなく、途方に暮れていたところ、原ひろ子先生からお声をかけていただき、原研究室の補佐員になることになったのです。

 研究室に通うたびに何かしら新しい発見があり、ワクワクするような知的な刺激を受けていたことを思い出します。というのも、先生が直観力に優れ、観察力に優れた研究者だったからです。

 当時、私は数量化したデータを統計処理し、解析するという手法で調査研究を行っていました。まだ統計手法もそれほど洗練されていませんでしたので、果たしてこれで実態に即した分析ができるのかと疑問に感じていました。それなりに結果は出せるのですが、気持ちにそぐわないものを感じていたのです。

 ベースになる人間観、世界観を、私はもっぱら書物から得た知識によって作り上げていました。それでヒトや社会がわかったような気になっていたのですが、原先生と出会ってからは少しずつ、そのような認識の基盤が崩れていきました。

 原先生は、ヒトの何気ない言動、ありふれた事象の一つ一つに意義を見出し、生活文化の一環として捉えておられました。とても鋭く、説得力があり、魅力的でした。概念によってがんじがらめになって、方向を見失っていた私がようやく見つけた納得できるスタンスであり、パースペクティブでした。

 先生と接することによって私は、概念化以前、すなわち、言葉によって集約される以前の状態にまで、想像力を働かせることができるようにならなければいけないと気づかされたのです。

 もっとも、日常生活の断片から意義ある情報を掬い取るには、生来、直観力、観察力に優れていなければならず、さらには、柔軟な思考回路がなければ、観察結果を知見として結実させることも難しいでしょう。文化人類学というのは研究者の資質、能力に大きく依存した学問だという印象を持ったことを思い出します。

 原先生と接するようになってから私は、「生活文化」という概念に強く印象付けられ、そこに研究者としてのアイデンティティを覚えるようになっていきました。ですから、当時、論文を書いたり、学会発表をしたりする際、私は誇らしい気分で、所属先を「お茶の水女子大学生活文化研究会」としていたほどでした。もちろん、所属メンバーは私一人でしたが・・・。

■研究者として育てていただいたこと
 さて、私は補佐員として原研究室の事務作業を行う一方で、共同研究にも参加させていただきました。1983年、東大小児科の小林登先生を班長とする共同研究「厚生省母子相互研究班」の中の原ひろ子班(文化人類学)の一員に加えていただいたのです。原先生を長とし、文化人類学の馬場優子氏と実証社会学の私の3人のチームでした。

 この共同研究で私は初めて、原先生のご指導の下、文化人類学的手法で研究を行うことになりました。当時2歳9か月から3歳4か月の幼児4人に対し継続的に参与観察や心理テストを行い、それに合わせ、母親に対する調査を行いました。ホリスティックな観点から、母子コミュニケーションとテレビ視聴行動との関係について、実態把握を試みたのです。とても有益な経験でした。研究成果の一つは、「テレビとお話」というタイトルで、小林登・小嶋謙四郎・原ひろ子・宮澤康人編『新しい子ども学』第2巻(海鳴社、1986年)に収録されました。

 大学院終了後の数年間、私は原ひろ子先生という稀有な研究者を身近に感じながら過ごしました。おかげで、研究者としてのアイデンティティを確立することができ、研究者としての基礎的経験とその体力を身につけることもできました。調査研究、学会発表、論文執筆という一連の過程を先生の下で学ばせていただいたのです。

 さらに、ヒトとしての大きな収穫は、先生の言動から得た「気づき」の重要性でした。

■原ゼミの会
 「原ゼミの会」のメンバーもそれぞれ、研究者として、実践者として、先生にしっかりと鍛えられてきたのでしょう。定年退職後、東京に戻ってきてから、私は毎年、「原ゼミの会」に参加していますが、毎回、メンバーのパワフルな活動ぶりに驚嘆させられています。研究活動であれ、実践活動であれ、全国各地で「原ゼミ」のメンバーがパワーを炸裂させているのです。先生はいつも、にこやかにメンバーの報告を聞いておられました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 2016年7月10日、私は幹事の一人として「原ゼミの会」の開催を担当しました。このときも、和気あいあいとした雰囲気の中、メンバーからさまざまな研究活動や実践活動が報告されました。原ひろ子先生は終始にこやかに、メンバーの報告を聞いておられたことを思い出します。ご自身も第一線の研究者として幅広く活躍しながら、後輩の女性たちのパワーを引き出し、そして、暖かく見守ってくださっていたのです。

■読み返してみた『ヘアー・インディアンとその世界』
 先生のことを思い出しているうちに、ふいに、『ヘアー・インディアンとその世界』を読み返してみたくなりました。

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 今回、時間をかけて読んでみて、もっとも印象深かったのは、死をめぐる叙述の部分、すなわち、病院で聞いた話、そして、実際に死に際のヘヤー・インディアンに接した経験でした。

 原先生は、イヌヴィーク病院で聞き取り調査をした結果、死を間近にしたヘヤー・インディアンは、「経口食を拒否し、家族や親せき、知人に会いたがり」、やがて、「ついに黙ってしまって一晩のうちに死んでしまうのがほとんど」(p.365)だと書いています。
 
 また、実際に見聞したチャー二―の事例から、「死ぬと言い出してからは、紅茶を時折口に含むだけ」になり、テントに集まった家族、親戚、知人に見守られ、「横臥してぼそぼそと思い出話を続けるチャー二―に、みんなはフムフムと相槌を打っている」と原先生は書いています。

 チャー二―を取り囲んだ人々が、「それから?」と言って、話を促したりしないのは、(臨死の人の場合)「霊魂が肉体を出たり入ったりする」とヘヤー・インディアンの人々が考えているからだそうです。「人が目を閉じ、静止するとき、その人は自分の守護霊と交信するのだから、誰もそれを乱してはいけない。その人が目を開け、再びまわりの者とはなしはじめるまで待つ」(pp.367-368)というのです。

 さらに、「良い死に顔をして死んだ者の霊魂は、再びこの世に生まれるべく旅につく」とも考えられており、「良い死に顔で死ぬことは、死にゆく本人の願いでもあり、見送る人々の願いでもある」(p.368)と原先生は記しています。

 『ヘヤ―・インディアンの世界』を読み返してみて、改めて、超高齢社会への大きな示唆を得たような気がしました。
 
 印象深かったのは、ヘヤ―・インディアンの人々が淡々と、「死の自己決定権」とでもいえるようなものを行使していたことでした。先ほどご紹介しましたように、彼らは死期を悟ると、食べ物を口にせず、近親者を集めてお話しをし、生命を終える準備をします。原先生の記述によれば、病院であれ、生活の場であれ、ヘヤ―・インディアンのそのような態度は変わることがありませんでした。時を超え、連綿と継承されてきた死生観だからなのでしょう。

■超高齢社会への示唆
 「守護霊」のお告げを受けると、ヘヤ―・インディアンの人々は死に支度を始めます。今様にいえば、身体の衰えを知ると、「死を自己決定」し、周囲にそれを告知してから、死の準備に入るのです。

 具体的に言えば、食を絶つ一方で、ローソクの火が消えるように、命が尽きるまで、集まった人々を前に次々と思い出を語り、さまざまな想いを語り、この世に別れを告げていきます。そのように肉体の死とその精神的な受け入れとを同期させることによって、死を完結させるのです。

 一方、集まった家族や親せき、知人たちにとっても、これは死を考えるいい機会になります。死期を悟った人が語るさまざまな思いを聞き、その心情に思いを馳せることによって、死を穏やかに受け入れることができます。自然の摂理として死を受け止めることができるからこそ、永遠の別れを静かに受け入れることができるようになるのでしょう。「再生」という概念がその場にいるヒトたちに共有されているからこそ成り立つ生活文化だと思いますが、見事だといわざるをえません。

 それに反し、コマーシャリズムに突き動かされて暮らしているうちに、日本人はいつの間にか、老いや死を受け止める生活哲学を見失ってしまったように思えます。若さ、明るさ、健康をアピールする商品が溢れる社会状況の中で、人々はひたすら若さ、効率性、清潔を追い求めて暮らしています。老いや死にはネガティブなイメージが付与され、生の一環として捉えられずに切り離されて、施設や病院に追いやられています。

 このような文化状況下の2019年、日本の高齢人口(65歳以上)は28.4%と過去最多となりました。今後、この比率はますます増大する見込みです。老いや死を受け止め、それを昇華させていく生活文化、あるいは生活哲学がないまま、果たして、超高齢社会を乗り切れるのでしょうか。

 欲望の肥大化によって稼働している現代社会では、「足るを知る」という言葉は空虚に響きます。そのような社会に生きる私たちは、ヘヤ―・インディアンの人々が共有していた自然と一体化した死生観など持ちようがありません。高齢者人口は今後、増加の一途を辿るというのに、高齢者はこれまでになく、不安で惨めで、落ち着きのない晩年を過ごさざるをえなくなっています。

 原先生は、ヘヤ―・インディアンの再生観について、下記のように記しています。

 「ヘヤ―・インディアンの再生観には、死者と生者を含めての時間を超えた、ヘヤ―の世界における人と人との深いつながりが認識されているように思われる。病や死に直面しての人々の心のつながりや、再生観に見られる人と人とのつながりは、ヘヤ―を外から眺めるとき、まことに重要な事象であると思われる。重要だというのは、この事象が、ヘヤ―文化が固有のヘヤ―文化として少数の人口によって支えられ、世代から世代へと伝えられるうえでの凝縮性というか求心性を保つ役割を担っていると考えられるからである」(p.374)

 この箇所を読んでいて、ふと、現代社会が見失った最も大切なものは、人々の根幹を支える生活文化であり、歴史ではないかと思えてきました。横断的なパースペクティブが優先されて、縦断的なパースペクティブが置き去りにされてしまった結果、人々はまるで根無し草のように、「今を生きる」だけの存在になってしまっているのではないかという気がしてきたのです。

 改めて、コマーシャリズムによる生活文化ではなく、縦断的で根のある生活文化の重要性がわかってきました。とはいえ、果たして、ヒトが生きて、死んでいく過程を支える生活文化、あるいは、生活哲学を、現代社会の中で構築することは可能なのでしょうか・・・。原先生を偲び、言われたことを思い出しているうちに、なんだか、先生から新たな研究課題をいだたいたような気分になってしまいました。(2019/10/28 香取淳子)

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