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「いわさき ちひろ、絵描きです」展が開催されています。

「いわさき ちひろ、絵描きです」展が開催されています。

■生誕100年「いわさき ちひろ、絵描きです」展の開催
 2018年8月11日、たまたま東京駅に出向く用事があり、丸の内北口にあるステーションギャラリーの前を通りかかりました。入口付近を歩いていると、ふいに、あどけない少女の姿が目に止まりました。

 一目で、いわさきちひろの絵だということがわかりました。あどけない少女の顔から幼い不安感が滲み出ていたからでした。子どもの微妙な心理を表現できるのは、私が知っている限り、いわさきちひろしかいません。ですから、瞬間的にいわさきちひろの絵だと思ってしまったのですが、よく見ると、お馴染みの画風ではありませんでした。

 そのことが気になって、入口近くのスタンドに置かれているチラシを手に取ってみました。やはりこれまで何度も見たいわさきちひろの画風とは異なっていました。一見、子どもが描いた絵のように幼さを残しながらも、どことなく気になる作品でした。見つめているうちに、次第に、立ち去りがたい思いが募ってきます。気が付いてみると、ギャラリーの中に足を踏み入れていました。

こちら →http://www.nikkei-events.jp/art/chihiro/

 「生誕100年、いわさきちひろ、絵描きです」というのが、この展覧会のタイトルでした。展覧会の名称としては異質ですが、いかにも、ちひろらしい童心が感じられます。開催期間は2018年7月14日から9月9日、開館時間は10時から18時です。

 いわさきちひろの絵を私はこれまで何度も見たことがあります。そのほとんどが子どもをモチーフにしたものでした。誰もが一度は目にしたことのある日常の生活シーンが、題材として選択されていました。しかも、ラフなタッチで子どもの情景が描かれていることが多く、共感を覚えやすく、見ているだけで微笑ましい気持ちになったことを思い出します。

 私が、いわさきちひろの作品にそれなりの魅力を感じていたことは確かです。ところが、私はこれまで一度も展覧会に行ったことがなく、じっくり作品を鑑賞したこともありません。魅力のある画家ではありますが、その作品世界に強く引き込まれてしまうほどではなかったのです。

 もし、今回、たまたま目にしたチラシの絵に引き込まれなかったとしたら、大して気にすることもなく、通り過ぎてしまった画家たちの一人に過ぎなかったでしょう。ところが、この時、なぜか私は、この絵の前から立ち去りがたい思いに駆られたのです。

 彼女はいったい、これまでどのような絵を描いてきたのか、さらには、あの独特の画法はどのようにして生み出されたのか、このときはじめて、知りたいという気持ちになりました。チラシを裏返すと、「絵描きとしてのちひろの技術や作品の背景を振り返る展覧会です」と説明されています。いわさきちひろの画法を知るには恰好の展覧会なのかもしれません。

 それでは、まず、チラシに掲載されていた作品、次いで、会場で印象に残った作品を見ていくことにしましょう。

■ハマヒルガオと少女
 私が気になった絵のタイトルは、「ハマヒルガオと少女」でした。会場では第2コーナーに展示されており、1950年代半ばに制作された油彩画です。

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 画面の左半分に大きく描かれているのが、ピンク色の花を髪に付けた少女の姿です。顔は黒く日焼けし、眉も鼻も口も区別がつきません。その遠方には3人の裸の子どもたちが描かれていますが、これまた全身、焦げ茶色です。これだけで、灼熱の太陽の光が降り注ぐ浜辺の光景だということがわかります。

 メインモチーフの少女は、顔も髪の毛も服もすべて、濁った暗色の組み合わせだけで造形されています。目こそ黒く縁取りされていますが、鼻も口も際立った線を使わず、周囲とそれほど差のない暗色をそっと置いているだけです。

 もっとも、さすがにそれだけでは的確に表現しきれないと思ったのでしょう、いわさきちひろは、鼻先と小鼻だけは細く薄く線描きし、下唇にはやや明るい色を置いています。暗く重い色調の下、輪郭線や境界線を曖昧にしたまま、差異の少ない色面の組み合わせでモチーフを表現する姿勢を堅持していたのです。

 淡い透明感のある色調ではなく、濁った暗色を基調にした作品だったからでしょうか。いわさきちひろといえば定番の、あの軽やかで都会的な繊細さが見受けられません。鋭角的な要素は見られず、モチーフの輪郭線も境界線も曖昧で、すべてがぼんやりと描かれています。どちらかといえば泥臭く、素朴な作品でした。今思えば、だからこそ、私は気になったのでしょう。

 一方、画面のあちこちにピンクの大きな花、ハマヒルガオが飛び飛びに描かれています。まるで黒褐色の顔色や肌色を補うかのように、画面に華やぎとリズミカルな味わいが添えられています。

 また、画面の右半分には、砂地を示すかのように、灰色のスペースがいくつか設えられています。濁った暗色の中に適宜、明るい色が取り入れられることによって、画面が沈鬱した雰囲気になるのが回避されています。

 もう一つ、この絵がよく見るちひろの画風と異なっていると思ったのは、余白がなかったことでした。空想を広げてくれる余白がなく、キャンバス全体に絵具が塗りこめられています。画面の半分以上に明るい色が取り入れられているので、圧迫感はないのですが、これまで見慣れた作品とは異なり、素朴でプリミティブな力がありました。

 この作品の制作年を見ると、1950年代半ばでした。この時期、いわさきちひろはこのような画法を好んでいたのでしょうか。

■眼帯の少女
 第2コーナーをざっと見渡して見ると、同時期に制作された作品がいくつか展示されていました。油彩画はいずれも、「ハマヒルガオと少女」と同様、顔は輪郭線も曖昧なまま、黒褐色が使われていました。そのうち、私が惹かれたのが、「眼帯の少女」という作品です。

 これは、1954年に制作された油彩画です。

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 少女が二人描かれています。後ろの少女はこちらに顔を向けて立っていますが、眼帯をした手前の少女は片方の目を伏せ、猫を抱いて座っています。全般に暗い色調の中で、眼帯の白さが目立ちます。

 二人とも頭の上部が画面からはみ出すほど、顔が大きく描かれており、「ハマヒルガオと少女」と同様、黒褐色の顔色です。顔色や髪の毛だけではなく、着用している衣服までも暗色です。しかも、立っている少女は無表情で、眼帯の少女は目を伏せています。感情が抑えられた画面からは逆に、悲しみと不安感、労りの情感がひしひしと伝わってきます。

 この少女にいったい、何が起こったのか、なぜ、眼帯をしなければならない羽目になったのかとつい、想像力を逞しくしてしまいます。それがおそらく、この絵にヒトを引き付ける力の源泉になっているのでしょう。空想を広げるための余白が設定されていないにもかかわらず、画面全体の色調とその色の取り合わせによって、観客の想像力を刺激し、気持ちをぐいとつかみ取っているのです。

 こうしてみてくると、「ハマヒルガオと少女」の顔は、日焼けしたから赤黒い色で描かれているのではなく、この時期、いわさきちひろはヒトの顔全般をこのような色で表現していたのかもしれません。そう思って同時期の作品を見渡してみると、「マッチ売りの少女」、「玉虫の厨子の物語」いずれも顔が赤黒く描かれていました。

 さらに遡って見渡してみると、1940年代前半に制作された「なでしことあざみ」は花がモチーフなのですが、似たような暗い色調で描かれています。1940年代後半に制作された「若い女性の顔」も顔色は赤銅色です。1950年代半ば以前のメインモチーフの色はほとんどすべて暗褐色が使われていました。

 変化がみられるのは、1957年に制作された「母の絵を描く子ども」です。ここでは子どもの顔いろはやや明るく黄土色、母親の顔も似たような色でやや明るく描かれています。いずれもキャンバスに油彩で描かれた作品です。

 さらに大きな変化がみられるのは、1960年代後半、画材を変えてからでした。

■引っ越しのトラックを見つめる少女
 第3コーナーでは水彩、鉛筆、パステルなど、油彩以外の画材で制作された作品が展示されていました。画材を変えて、表現の可能性への挑戦を始めたのでしょう。このコーナーで印象に残ったのが、「引っ越しのトラックを見つめる少女」です。

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 1970年に制作された作品で、洋紙にパステルで描かれています。モチーフは画材の特質を活かして造形され、子どもの微妙な気持ちが見事に表現されています。

 会場には、この作品のための習作が2点、展示されていました。

 一つは、鉛筆と墨を使って洋紙に描かれたもの(習作①)で、落書きされた壁面を大きく配置し、一方の側に壁に隠れるように身を潜ませている女の子が描かれ、その反対側から男の子が覗いている構図です。壁のはるか先に、引っ越しのトラックの後部が少し見えます。その脇には三輪車と降ろされた荷物が描かれており、さり気なく、隣家に子どもが引っ越してきた状況が説明されています。

 もう一つは、洋紙にパステルで描かれた作品(習作②)です。こちらは、落書きされた壁が右に寄せられ、男の子の姿が消えています。女の子は全身を道路側に現す反面、まるで支えを求めてでもいるかのように壁に寄りかかり、そのそばには子犬が描かれています。女の子が身体を向けている先には、引っ越しのトラックが大きく描かれ、その傍らに三輪車や荷物が描かれています。

 これら2点の習作をみていると、いわさきちひろが本作を完成させるまでに行った試行錯誤が見えてきます。

 まず、鉛筆・墨絵による習作①では、トラックは小さく、落書きのある壁面が大きく配置されています。その壁の右側では男の子が壁の内側にいる女の子をそっと覗いており、左側の壁に隠れるように女の子がそっと引っ越しのトラックを見ている姿が描かれていました。

 ところが、パステルによる習作②では、男の子は消え、壁面は狭められて右に寄せられ、代わりに子犬が女の子の傍らに登場しました。女の子は両脚を踏ん張り、壁の内側から外側に全身を現していますが、頭と手はしっかりと壁にくっつけています。不安感を鎮めるための所作といえるでしょう。きめ細かな心理表現といえます。

 習作①から習作②への変化をみてくると、男の子と遊んでいた女の子が、引っ越しのトラックを見つけ、そこから降ろされた三輪車を見て、隣家に子どもがいると判断したのでしょう。女の子は、習作①では、壁に隠れるようにしてそっと見ていました。好奇心に駆られてはいたのでしょうが、どんな子が引っ越してくるのか、不安感も強かったでしょうから、身を隠しながら観察していたのです。

 ところが、習作②では壁の内側から外側へと全身を現しています。それと同時に、トラックの全体像が大きく描かれ、三輪車などもはっきりと描かれるようになっています。不安感よりも好奇心の方が勝ってきたことがわかります。

 そして、本作になると、習作②の子犬は消えており、女の子は壁に寄りかかることもせず、壁から離れてしっかりと立っています。女の子自身、やや大きく描かれていますから、引っ越してきた子を迎え入れる心の準備ができつつあるように思えます。

 一方、壁の落書きは、習作①や習作②と違って、本作でははっきりとした絵柄で、傘をさす女の子がまるで分身のように描かれています。ありのままの自分をさらけ出して、引っ越してきた子どもを受け入れようとする女の子の気持ちの変化が、見事に表現されています。

 習作①と②、本作を連続して見てみると、いわさきちひろが、子どもの心理に沿って、微妙にモチーフを変え、構図を変えていることがわかります。モチーフの組み合わせや大きさ、その配置、構図などがどれほど観客の絵の解釈に影響してくるか、詳細に推し量りながら制作されていることがわかります。

 輪郭線、境界線をしっかりと使ってモチーフを描き、粗いタッチで強弱をつけて色を置いています。モチーフの大きさ、色、形態に強弱をつけ、構図にメリハリをつけています。パステルならではの表現方法なのでしょうし、リアリティ、質感の出し方なのでしょう。このような表現方法によって、情景と女の子の心理状態を的確に抉り出すことができているように思えました。モチーフに沿って考え抜いたからこそ得られた表現方法だといえます。

■子犬と雨の日の子どもたち
 第4コーナーで印象付けられたのが、「子犬と雨の日の子どもたち」です。

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 1967年に制作された作品で、洋紙に水彩、クレヨン、鉛筆で描かれています。

 雨がちょっと小降りになったのでしょうか、レインコートを着た子どもは後方に気を取られて振り返り、前方にいる二人の子どものうち、男の子は雨に濡れるのもお構いなしに、傘を子犬に向けています。女の子は傘こそさしていますが、気持ちは足元の子犬に注がれ、じっと見つめています。雨の日、三人三様の子どもの姿が見事に描き分けられています。

 後方には、小さな家々が立ち並び、左前方には、紫色の花や葉や茎が小雨に打たれて、揺れています。土砂降りではなく、小雨模様の日、子どもたちにとってはなんと刺激的な状況が生み出されるのでしょう。

 道路には水溜まりができますし、時折、顔にかかる水滴も快い、おまけに子犬が雨に濡れて歩いてくるのをみれば、声をかけてみたくもなるでしょう。子どもたちの旺盛な好奇心が見事に捉えられており、見ているだけで微笑ましく、気持ちが和んでいくのが感じられます。誰もがいつかどこかで見たことのある子どもの情景がファンタジックに表現されています。

 さて、この作品で気になるのは、雨で滲んだような絵具の使い方であり、上から下に向けて垂れているように見える淡い色の帯です。これらは雨の表現のように見えますし、都会的で軽快な装飾的画法のようにも見えます。

 この絵の特徴は、子どもの情景が的確に表現されているだけではなく、幻想的でファンタジックな味わいが添えられていることだといえます。リアルでありながら、ファンタジックで装飾的な美しさもあり、とても魅力的です。絵具の滲みと上から下に向けての垂らしこみが、この絵をファンタジックで、都会的で、洗練されたものにしているのでしょう。

 この作品を見ていると、作品に深い情緒を込めるために、いわさきちひろが画材の特質を研究しつくしたことがわかります。モチーフの選択、構図や配置、色の構成はもちろんのこと、画材の持ち味を活かした画法の創出こそが、独自の作品世界を創り出すことになるのだと思いました。改めて、表現したいことと表現手段とのマッチングの重要性を感じさせられました。

■リアルでありながら、ファンタジックな画面を生み出す技法
 「いわさき ちひろ、絵描きです」展では約200点が展示されていました。その中から、私が印象深く感じたのが、上記でご紹介した油彩画2点、パステル画1点、水彩画1点です。それぞれ画材の特徴を活かして画法が考え抜かれており、ヒトの気持ちを捉える作品に仕上がっていました。

 この4作品を改めて眺めてみると、モチーフが何であれ、色調がどうであれ、構図がどんなものであれ、どの作品も、リアルでありながら、ファンタジックな要素があります。それが独特の画法と絡み合って、誰も真似のできない妙味を生み出していることに気づきます。

 たとえば、油彩画の場合、「ハマヒルガオを少女」にしても「眼帯の少女」にしても、顔色や肌色の暗褐色を使い、輪郭線も境界線も曖昧なままモチーフを色面で造形していました。その結果、観客は想像力を駆使して作品を読み取らざるをえず、ラフなタッチで描かれたモチーフに解釈の多様性が生まれます。これは、ファンタジックな要素が保持されたまま観客の想像力が作動する仕掛けといっていいかもしれません。

 一方、パステル画、水彩画では淡い色、透明感のある色調でモチーフが描かれています。元来、ファンタジックな要素を生み出しやすい色調です。ここでもタッチはラフですが、モチーフの本質はしっかりと押さえられています。それぞれ余白が適宜、設けられていますから、そこに観客の想像力の働く余地が生まれます。

 こうしてみてくると、リアルでありながらファンタジックな味わいは、モチーフの本質をラフなタッチで捉え、観客の想像力を刺激する仕掛けを画面の中に組み込むことだといえそうです。

 たまたま立ち寄った展覧会でしたが、モチーフと画材、画法のマッチングの重要性を感じさせられ、とても大きな刺激を受けました。表現者として、さまざまな挑戦を惜しまなかったいわさきちひろに敬意を表したいと思います。(2018/8/14 香取淳子)

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