■武士にとっての始祖
武士にとっての始祖、すなわち武家の棟梁は、清和源氏と桓武平氏の2つの家系です。彼らは天皇の血を引く貴族でしたが、地方に下って武装し、武士団のトップとして全国の武士を束ねました。
清和源氏の始祖は源経基(894-961)で、清和天皇(850-881)の孫が臣籍降下して、源氏を名乗ったのが始まりです。その後、源義家(1039-1106)などが、東国武士との主従関係を強固にし、後に、その子孫の源頼朝(1147-1199)が鎌倉幕府を開きました。
一方、桓武平氏の始祖は平高望(850?-917?)で、桓武天皇(737-806)の曾孫が臣籍降下して、平氏を名乗ったのが始まりです。関東地方に土着して勢力を広げました。その子孫である平清盛(1118-1181)は、武士として初めて太政大臣に就任し、貴族のものだった政治の実権を握り、平氏政権を確立しました。
波多三河守の始祖は、これら二大流派ではなく、源氏の流派の一つ、水軍や警護など、いわば専門職として武士界を支えた流派である嵯峨源氏の系譜につながります。
■嵯峨源氏の流れを引く、波多氏の始祖
『武家家伝』には、波多氏は、平安末期から肥前松浦地方で活躍した上松浦党の最大の一族で、始祖は、東松浦郡波多村を中心に所領した源久(松浦久)の二男(波多源次郎持)だと記されています。
(※ 源氏、松浦氏、波多氏は一文字の名前が多く、判別しにくいので、以後、名前の下に下線を引いておきます)
波多氏の始祖である持の父、源久(1064-不詳)は、平安後期の武将で、松浦久とも名乗っており、渡辺綱(953-1025)の曾孫にあたります。
その源久の曽祖父の渡辺綱は、第52代嵯峨天皇を祖に持つ嵯峨源氏の源融(822-895)の子孫で、正式には源綱を名乗っていました。武蔵国足立郡に生まれましたが、父の死に伴い、母方の里である摂津国西成郡渡辺に移住し、渡辺氏の始祖となりました。平安中期の武将です。
源久は、延久元年(1069)に、肥前国の御厨検校に任ぜられて松浦に下向し、そのまま赴任地に土着しました。久は、やがて松浦の中心に位置する志佐郡今福梶谷に館を構え、久安元年(1145)に、背後の城山に梶谷城を築き、松浦氏発展の基礎を築きました。
源久(松浦久)から、波多郷を与えられた二男の松浦持(生没年不詳)は、康和四(1102)年に波多の地に移り住みました。それを契機に、地名に因んで波多姓を称し、従五位下に叙せられました。これが波多氏の始祖となる波多持です。
さて、この系譜が示すように、源久は、嵯峨源氏の流れを引くというのが定説になっています。(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_matura.html)。
したがって、その二男である波多持もまた、嵯峨源氏の流れを引く系譜につながるといえます。その一方で、源久は、渡辺水軍の流れを引く武将でもありました。
■渡辺水軍の流れを引く、波多氏の始祖
渡辺綱の子孫は、摂渡辺党と呼ばれる摂津国の武士団を形成し、住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地に、瀬戸内海の水軍を統轄していました。淀川の河口である渡辺津を管理し、高度な航海術と水軍の戦闘能力で巨大な勢力を築きました。
渡辺氏は、平安時代から鎌倉時代までは朝廷や源氏を軍事力で支え、戦国時代は大阪湾一帯を拠点に、独自に活躍していた武士団であり、水軍の家系だったのです。摂津を拠点として勢力を蓄えた渡辺氏は、やがて日本各地にその支流を拡散していきました。
支流の一つが、北九州の松浦党でした。強力な水軍として名を馳せた松浦党は、摂津国の渡辺党から派生した武士団だったのです。松浦党の始祖である源久(渡辺久)は、渡辺綱の曽孫であり、両者は血縁関係にありました。
そして、波多氏の始祖が、松浦党の始祖である源久の二男の波多持です。つまり、渡辺綱から源久に流れた水軍の血が、波多持に直接、受け継がれていたといえるのです。渡辺党の卓越した航海術を受け継いだ波多氏が、やがて強力な水軍を率いて、玄界灘を支配するようになったのも、当然の成り行きだったのでしょう。
源久から、波多の地を受けた波多持は、その後、岸岳城を本拠として活動し、発展していきました。
興味深いことに、波多持が波多一族の始祖とされていますが、必ずしも、この系統で波多氏が継続してきたわけではなく、佐志氏の一派から波多姓の人物が分かれた形跡もあるとされています。(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html)。
波多氏の系譜については、松浦党大系図、源光寺松浦党系譜、松浦拾風土記の松浦党系図などに記述があります。それぞれ照らし合わせてみると、相互に異なる記述がみられ、必ずしも信用できるものではありません。
そこで、本稿では、郷土史家の山崎猛夫氏が整理した波多家系図に依拠し、波多氏の系譜を見ていくことにしたいと思います。
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(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html、図をクリックすると、拡大します)
まずは初代の波多持が、どのようにして波多氏の基盤を築き、どのようにして松浦党を率いるようになっていったのかをみていくことにしましょう。
■波多持、岸岳城を築く
波多持が、岸岳城を築造したのは、久安(1145-1151)年間だとされています(※ 『波多津町誌』、1999年、伊万里市波多津公民館、p64)。
岸岳城は簡易で、きわめて質実、かつ剛健な山城でした。攻めにくく、守りやすいよう天然の地形を活かして、築造されました。防御機能を優先させ、機能的に築城されたことがわかります。
たとえば、岸岳城の石垣の遺構が残されていますが、このような巨石が、岸岳山頂の尾根全体に、延々と1キロにもわたって、弓状に築かれています。一端を見るだけで、峻厳な山の地形を踏まえ、防衛機能を優先させた造りになっていることがわかります。
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(※ https://shirobito.jp/castle/2788、、図をクリックすると、拡大します)
上の写真を見ると、巨大な石垣が、急斜面の上に築かれています。いかに攻めるのが難しく、防御に適しているかを念頭に築城されたことがわかります。地形に沿って、堅牢な石垣を積み重ね、ひたすら、容易に攻め込まれないような城壁を建造していたのです。
この城に居館はありませんでした。ひたすら防衛のための城であり、その機能を果たすことを最優先して造られました。まさに天然の要害を利用した山城だったのです。
波多持は、この岸嶽(岳)を本拠地として、活動していましたが、保元の乱(1156年)で、戦死しました。(※『武家家伝』)。
岸岳城の完成からわずか5年後のことでした。
ここまで書いてきて、ふと、気になりました。
■波多持は、果たして、保元の乱で戦死したのか?
山崎猛夫氏が作成した年譜には、波多持は保元の乱で戦死したと書かれていましたが、果たして、実際にそうだったのか、疑問を覚えたのです。
波多持の生没年は不詳ですが、康和四(1102)年に、父の松浦久から波多郷に領地を得て、波多姓を名乗るようになったことはわかっています。新たに一族の始祖となり、地域を統治し、開拓する役割を担ったのです。当然のことながら、ある程度の統治能力がなければ、領主の座は務まりません。
したがって、康和四(1102)年当時、波多持は少なくとも元服を済ませ、いくらか実績を積み上げた20代〜30代前後の働き盛りだったのではないかと思われます。
一方、岸岳城の築造は、久安(1145-1151)年間だとされています。波多氏を創設した時の推定年齢から推し量れば、築城期間、波多持は60代半ばから70代後半だったことになります。つまり、保元の乱の頃は70代から80代になっていたはずです。戦陣に赴くには、高齢すぎます。
しかも、城主としての立場もあります。
年齢からいっても、城主という立場からいっても、波多持が、保元の乱に参戦することはありえないのです。
そこで、年譜をいくつか調べてみましたが、山崎猛夫氏による年譜以外に、波多持が保元の乱に参戦したという記述はありませんでした。
とはいえ、まったく根拠のないことを郷土史家の山崎氏が書くはずがありません。ひょっとしたら、松浦党の誰かと混同して記述した可能性が考えられます。
だとすれば、松浦党の誰かが、保元の乱に参戦し、戦死していたことになります。
調べてみると、松浦党の棟梁である松浦久などは、鎮西八郎と恐れられた源為朝と深い主従関係にあったとされていました。この縁で、松浦党の武士たちは為朝を頼って上洛し、彼の一党として崇徳上皇方で白河北殿の警固に就いたとされています(※ Wikipedia)。
■松浦地方と源為朝
郷土史家の松代松太郎が、著書『東松浦郡史』の中で、次のように記していました。
「松浦と為朝との関係は、彼の廿八騎中に松浦の二郎左中次と云う者が加わっている点のみである。然し松浦地方には為朝関係の伝説が頗る多い。但し其の証據となる資料はないようで、到底伝説の域を脱することが出来ぬ。よってこれらは後日の研究に待つ事とする」
(※ https://tamatori.sakura.ne.jp/news/matuurasi/matuurasi2.html)
「松浦地方には、為朝にかかわる伝説がとても多い」が、信頼できるものは、「彼の廿八騎中に松浦の二郎左中次と云う者が加わっている点のみである」という見解を示しているのです。
ここで記されている「為朝」とは、源為朝のことです。源為朝(1139-1170)は、源為義(1096-1156)の八男で、源頼朝(1147-1199)や源義経(1159-1189)兄弟の叔父にあたります(※ Wikipedia)。
実際、源家の家系図を見ると、源為義には十人の男子がおりますが、その中の八番目が為朝です。分かりやすいように、名前の右側に青線を引いておきました。
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(※ https://www.touken-world.jp/tips/87237/、、図をクリックすると、拡大します)
源為義の長男・義朝には九人の男子がおり、三番目が頼朝、九番目が義経です。彼らの叔父さんに当たる為朝が、鎌倉幕府を築き、武士の時代を切り拓いた由緒正しい家系の武将であることがわかります。ちなみに、源頼朝は鎌倉幕府を開いたので赤枠で囲ってあります。
『保元物語』によると、為朝は、身長2mを超える巨体のうえに気性が荒かったといいます。目尻が切れ上がった鋭い目つきをしており、「天を翔る鳥、地を走る獣、恐れずといふ事なし」と表現されているほど、恐れられる外貌だったようです。
歌川国芳が描いた源為朝像です。
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(※ wikimedia. 、図をクリックすると、拡大します)
眼光鋭く、威風堂々とした姿が印象的です。剛弓の使い手で、他に並ぶ者がないほど、勇ましくて強く、そして、傍若無人で乱暴者でした。十三歳の時、父の為義に持てあまされて、九州に追放されたほどです。九州に追放されてからは、手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗るようになっています。
郷土史家の松代氏は、松浦地方には為朝にまつわる伝説が多いと記していますが、地元勢とやりあう中、いくつもの武勇伝が残されているのでしょう。松浦地方を制覇すると、鎮西八郎を名乗っていますが、鎮西(九州)を平定した八郎(八番目の息子)という意味で、自称したのでしょう。
■戦死した松浦小次郎
保元の乱が勃発すると、為朝は京に向かい、父とともに崇徳上皇方で参戦します。その際、松浦地方の若武者たちが共に上洛したいと申し出たのですが、大勢を引き連れて行くと不穏な事態になるとし、精鋭だけを伴ったのが二十八騎といわれる若武者たちです。
松代氏は、保元の乱が勃発して源為朝が上洛する際、九州の兵の中から、特に武勇に優れた「二十八騎」を、直属の精鋭部隊として、引き連れて行ったと記しています。これは、『保元物語』に基づいた記述で、二十八騎の中の一人に、「松浦の二郎左中次」の名が記されています(※ https://ohta-masakazu.blog.jp/archives/12092986.html)。
確認するため、『松浦源氏創成期年表』を見ると、保元(1156)の項に、「松浦小次郎、白河殿に死す」と書かれていました(※ 古賀稔康、『松浦源氏創成期 遺跡山ン寺』、伊万里市教育委員会、p.29、昭和48年4月25日刊)。
保元の乱に関連した二つの資料のいずれにも、松浦姓の者が登場します。同じ人物だと思われますが、名称がやや異なっています。
たとえば、『保元物語』では、「松浦の二郎左中次」と称され、「源為朝が率いて上京した廿八騎」の一人と記されています。
名称の一部に「左中次」が組み入れられていますが、中世の武士の俗名は、朝廷の官職名を真似て作られることが多く、この「左中次」も、天皇の護衛や宮中の警備を担当した「左近衛府」に倣ったものだとされています。つまり、護衛官「松浦二郎」というほどの意味なのでしょう。「二郎」とは次男坊を指します。
一方、『松浦源氏創成期年表』では、保元元年の項に、事項として、「保元の乱、松浦小次郎白河殿に死す」と書かれていました。名前は、「松浦小次郎」と称され、「次男」を表す「次郎」に「小」をつけ、親しみを込めた名称で記載されているのです。
この年表では、松浦小次郎は、白河殿(白河天皇の離宮)で戦死したとされていますが、源為朝は、実際、白河殿に攻め入っておいます。
(※ http://www.kikuchi2.com/chusei/gun/hogenall.html, @『白河殿攻め落す事』S0202)
松浦小次郎は、戦死しましたが、為朝の父・為義もこの時、戦死しています。保元の乱は、貴族(藤原)の内紛が絡んだ皇位継承争いでしたが、その勝敗を武士が決定したという点で、注目される内乱でもありました。
松浦小次郎は、源為朝に随って、保元の乱に参戦した結果、『保元物語』に名前が書き残されることになりました。戦死しましたが、松浦家にとっては歴史に残る、名誉なことでした。
■波多氏家系図での誤記載
『松浦源氏創成期年表』には、小次郎の伝承年齢は55歳、推定実年齢は32歳だったと書かれています。保元の乱で戦死したとされるのは、なによりもまず、年齢からいって、波多持ではなく、この松浦小次郎だったと思われます。
もちろん、波多持が、崇徳上皇とも後白河天皇ともなんお関係もないのに、わざわざ保元の乱に参戦するはずもありません。
このようにみてくると、年齢からいっても、源為朝との関係からいっても、保元の乱で戦死したのは、松浦小次郎だったといえます。
波多氏の系譜で、波多持が保元の乱で戦死と書かれているのは、明らかに誤記です。
そして、この松浦小次郎の名前は、松浦源氏総本家の下松浦御厨家の系譜の中にもありました。『松浦家世伝』には、松浦源氏の総本家の下松浦の御厨家の系譜として、次のように記されていました。
御厨公― 清(松浦源二郎、御厨執行)― 直(松浦小次郎、叙五位御厨執行)― 定(松浦授、御厨執行)― 正(丹後守)
(※ https://www.town.genkai.lg.jp/uploaded/life/63324_614912_misc.pdf)
この系譜からは、松浦家の直が、松浦小次郎だということが示されています。『保元物語』に書かれていた「松浦の二郎左中次」が、実は、松浦小次郎であり、下松浦の御厨家の直であったことがわかります。
これらの資料を見てきて、改めて、保元の乱で戦死したのは、波多持ではなく、松浦小次郎であったことを確認することができました。現時点でみれば、間違うはずのない事実でした。
それでは、なぜ、山崎氏は、波多氏の年譜で、波多持は保元の乱で戦死と記さしたのでしょうか。
■なぜ、誤った事実が記載されたのか?
まず、保元の乱と松浦地方との関係について、見ていくことにしましょう。
保元の乱(1156年)は、次期天皇を巡る崇徳上皇と後白河天皇との権力争いに、貴族(藤原家)の内紛が絡み合い、武士が初めて政治の勝敗を決めた平安時代の内乱です。これは、中央で展開された政治争乱であり、九州西端の松浦地方とは一見、なんの関係もないように見えます。
ところが、保元の乱で崇徳上皇に味方した源為朝(鎮西八郎)が、乱以前に、九州に追放されていたことがありました。武力に長けた為朝が、次々と西九州地方を制覇していく中で、為朝と松浦地方の武士たちとの間に、事実上の主従関係が結ばれていったのです。
彼らは、源為朝が上京する際、為朝に随って参戦したいと申し出ました。大勢を引き連れていけば、相手側を刺激し、不穏な事態になるとし、為朝は、鎮西の逸材二十八騎だけを伴いました。選りすぐりの猛者たちの一人が、松浦党の松浦二郎でした。
彼は、崇徳上皇側に立って奮戦しましたが、白河殿で戦死しました。
『保元物語』に、松浦二郎の名が記され、松浦家の系図にもその名と事績が記載されています。由緒正しい家柄の源為朝に随って、奮戦した結果、戦死と引き換えに名誉を得ました。九州西端の若武者にすぎなかった松浦二郎は、保元の乱で名を挙げました。敗者の側で戦い、死亡したとはいえ、松浦党の威信を高めたのです。
上皇と天皇の争いに、貴族の諍いが絡んで、大きな内乱となりましたが、中央政治の勝敗を決めたのは新興階級の武士でした。その貴重な歴史の一コマに、松浦地方の若武者が名を刻んだのです。
ところが、その松浦二郎の戦死が、どういうわけか、波多持の戦死として波多氏の系譜に記載されていました。
郷土史家の山崎猛夫氏はおそらく、松浦二郎を波多持と取り違え、始祖・波多持の項に、「保元の乱で戦死」と書き入れていたのです。
そもそも波多持と松浦二郎とは、松浦党の武士だとはいいながら、年齢が違えば、役職も違い、名前も氏族も異なっています。そんな二人を、取り違えることなど、ありうるのでしょうか。
調べてみると、興味深いことがわかりました。
外山幹夫氏によると、松浦氏系図の一つ、鶴田系図(源寿氏が記したもの)では、源久の三男持(波多氏系図では二男持)は、波多源二郎と称していたと記されているのです(※ 『肥前松浦一族』、人物往来社、2008年刊、pp.51-52)。
山崎氏がこれを見ていたとすれば、波多持を源二郎と思い込み、源二郎(松浦二郎)の戦功を、波多持の事績として、系譜に記載してしまった可能性が考えらます。
保元の乱が勃発した時期と彼らが生きた時代を考え合わせると、すぐに間違いだとわかるのですが、それでも敢えて誤った事績を系譜に掲載したとすれば、もう一つの理由が考えられます。
■箔付けのための誤記載か?
考えられるのが、波多持への権威の付与です。
波多持は、波多氏の始祖でありながら、特に目立つ業績はありません。ただ、源久(松浦久)の二男だというだけで、波多郷を所領地として得て、波多氏を名乗るようになった人物です。
波多氏一族の初代としては、見劣りのする経歴といわざるをえません。
仮にも一族の始祖となれば、対外的にも、一族を束ねていくにも、それなりの権威が必要です。
たとえば、波多持の父、源久(松浦久)は、渡辺綱を曽祖父とし、第52代嵯峨天皇を祖に持つ嵯峨源氏の源融(822-895)の子孫でした。清和源氏の源頼光に仕えた「頼光四天王」の筆頭として知られる武将の曽孫であり、また、嵯峨天皇の血を引く嵯峨源氏の子孫でもあったのです。
つまり、源久(松浦久)は、伝説的な武将の曽孫であり、天皇家とつながる家系の子孫でした。この血統だけで充分、松浦氏の始祖としての権威を保つことができました。ところが、波多持は、その源久の二男というだけで、波多氏を率いる始祖となったのです。輝かしい祖先からの威光も、嫡男ではなく二男の波多持には、それほどの効果もなかったでしょう。
しかも、波多持には特筆すべきエピソードもありませんでした。始祖にふさわしい箔付けになるようなものが何もなかったのです。そのような状況下で、波多氏の系譜を作成した人物が、始祖として威信を保つには、なんらかの事績が必要だと考えたとしても決して不思議はありません。
さらなる検証が必要なことはいうまでもありませんが、始祖の事績に脚色が加えられていた可能性が考えられるのです。(2026/6/30 香取淳子)