■日本の陶器生産
波多親は、戦国時代に陶器生産を始めました。それも、秀吉が朝鮮に出兵する以前のことです。陶器製造をはじめたからといって、製造技術があったわけでもなければ、製造方法を知っていたわけでもありません。
そもそも日本古来の焼物は、釉薬を使わない素焼きの土器でした。釉薬を使い、高温で焼成する技術は、中国や朝鮮半島から伝来したものでした。日本の焼物は、それら伝来の技術を使い、土器から陶器へ、陶器から磁器へと発展しました。
少なくとも5世紀前半には、朝鮮半島から陶質の土器が持ち込まれるのとほぼ同時期に、その生産技術が伝えられています。陶邑地域(大阪府)で、須恵器(日本の陶器のルーツ)の生産が始まったことが明らかになっています。
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(※ 宮内庁HPより。図をクリックすると、拡大します)
上の写真は、大阪府仁徳天皇陵の東側の造出(半円形または方形の壇状の施設)で、平成十(1998)年に採取された須恵器の大甕です。本陵における祭祀を考える上で重要な資料とされています。
(※ https://www.kunaicho.go.jp/learn/culture/shoryobu/syuzou-r09.html)
大阪府堺市南区、和泉市、岸和田市、大阪狭山市に広がる泉北丘陵は、五世紀中頃から続く日本最大級の須恵器の生産地でした。1,000基以上の窯跡が存在し、朝鮮半島からの技術によって、須恵器を大量に生産し、日本各地に供給していました。同様の窯が、福岡、香川、兵庫、岐阜、愛知などでも発掘されています(※ Wikipedia)。
焼物といえば、一般に陶磁器を指すようになっていますが、実は、陶器と磁器では、材料や焼成温度に大きな違いがあります。その違いが、それぞれの焼物の特質となっています。
具体的には、陶器は、主に陶土、磁器は、主に砕いた陶石を原料とします。陶器は低温(約800〜1200℃)で焼成され、吸水性があって温かみを感じさせますが、磁器は高温(1300℃前後)で焼成され、ガラス化するため吸水性がなく、硬く白いのが特徴です。
平安時代の末期から、日本でも、堅く耐水性に優れた陶器が、常滑、渥美、越前、信楽、丹波、備前などで生産されるようになりました。以後、鎌倉時代にかけて、陶器製造が盛んになりましたが、鎌倉後期になると、窯業地の淘汰が進み、瀬戸、常滑、備前、丹波、信楽、越前に集約されていきました。現在の愛知県、岡山県、兵庫県、滋賀県、福井県に所在していました。
いずれも京都に比較的近く、それなりの市場を形成しやすく、しかも、陶器製造に適した陶土を入手しやすい土地でした。
これらはやがて、六古窯と呼ばれるようになります。
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(※ https://www.gov-online.go.jp/hlj/ja/march_2026/march_2026-01.html。図をクリックすると、拡大します)
六古窯では、日用品の陶器が製造され、市場が形成されました。陶器市は最初、寺社の境内や門前などで、祭祀の時に開催されていましたが、やがて、定期的に開催されるようになります。これらの市場が、その後、営々と陶器生産を支え、現在に至っています。
ところが、六古窯の中に、波多の名前もなければ、唐津の名もありません。
波多親公は、それまで陶器を生産したこともない土地で、陶器製造を始めていたのです。
実際、波多親は朝鮮から陶工を呼びよせ、材料を取り寄せ、そっくりそのまま朝鮮方式で、陶器を造らせました。当時の日本よりも技術力の高い朝鮮の陶工が、波多氏の下で、陶器生産に携わったのです。当然のことながら、出来上がったのは、いかにも高麗風の焼物でした。
和物よりも硬質で、茶人好みの質朴さ、奥深さがありました。
当時、茶人の一部は、高麗茶碗を賞玩するようになっていましたが、ほとんどの人にとって、高麗物はまだ、日用雑器にすぎませんでした。それが、茶の湯の普及に伴い、高麗物の質朴な風合いが好まれるようになり、価値が生まれました。いつしか、「一井戸(または高麗)、二楽、三唐津」と称されるようになっています(※ http://www2.town.nakadomari.aomori.jp/hakubutsukan/kikakuten/h12-su/karatsu-kaisetsu1.htm)
波多親公が始めた陶器は、後に、唐津焼の源流とされ、古唐津と呼ばれるようになりました。いまや、日本の陶器界で一定の地位を占めるまでに至っているのです。
それでは、なぜ、波多親公が陶器生産を開始することができたのか、地理的、社会的、歴史的状況を踏まえ、考えてみたいと思います。
■松浦地方とは?
波多氏が治めていた松浦地方は、長崎県北部から佐賀県北西部に位置し、玄界灘に突き出した地域です。東は唐津湾、西は伊万里湾、北は壱岐水道に面しています。伊万里湾に代表される複雑なリアス式海岸と、北松浦半島を中心とする起伏の激しい丘陵地帯が、この地方の大きな特徴です。
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(※ 国交省HPより。図をクリックすると、拡大します)
松浦地方は、大部分が丘陵性の玄武岩台地からなる地形で、平地に乏しく、農業には適していません。平坦地が少ないので、海岸沿いの山間部に、開墾した棚田が広がっています。
気候は、対馬暖流の影響を受けて温暖ですが、台地の上はやや冷涼で、冬期には北西の季節風が強くなります。また、河川に乏しく、保水力に乏しい地理的特性のせいで、常に、干害に悩まされてきました。
(※ https://www.mlit.go.jp/kokudoseisaku/chisei/kokudoseisaku_chisei_tk_000126.html)
そもそも農業には、水はけがよく、保水力があり、適度な有機物を含む土壌が必要です。さらに、平坦で、日当たりがよく、風通しの良い土地なら、最適です。農耕という観点からは、平坦地が少なく、保水力に乏しい松浦地方は、そもそも農業に適していませんでした。
一方、上の地図を見ればわかるように、松浦地方は、長崎県北部から佐賀県北部の入り組んだ海岸線に沿ったところにあります。朝鮮半島や中国沿岸部に近く、人々は古来、農業ではなく漁業を営み、海上交易を行い、生計を立ててきたのです。
松浦地方の人々は、地理的特性から、半ば必然的に、海に活路を見出していました。漁業を生業とし、東アジアを結ぶ海上交易の拠点として、朝鮮半島や中国沿岸部の人々と交易を行い、栄えてきました。
■松浦党とは?
平安時代末期から戦国時代にかけて、松浦地方は、松浦党と呼ばれる武士団が割拠していました。
松浦地方は、中国や朝鮮半島に近い航路の要衝で、古来、海運、交易、漁業などが生活の基盤でした。その生活基盤を守るには、海域の治安の維持、朝鮮半島や中国からの外敵に対する武装集団が必要でした。
松浦党は、松浦氏を中心とした一族が、地元の武士や海民と団結した48の連合体です。地縁、血縁で人々がつながっており、地元の権益を守ってきました。とくに、水軍としての能力に長けており、「海の武士団」とも呼ばれていたようです。
始祖は、平安時代の源久(みなもとの ひさし)です。その後、一族が広がって、連合体となり、「松浦四十八党」と呼ばれるようになりました。各地に分かれた子孫たちが、土地の地名を名乗り、連合体を形成していったのです。
松浦党は、松浦氏の宗家を中心に、48家に分かれて繁栄してきましたが、後に、松浦党の領袖として一族を束ねるようになったのが、波多氏です。
どの氏族が、どの地域を支配していたのかを示した図があります。
波多氏の領地がわかるように、名前の横に赤線を記しておきました。他に比べ、海からやや離れている地域が波多氏の領地だということがわかります。
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(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matu_zu.html。図をクリックすると拡大します)
鎌倉前期まではこのようにして、松浦党は48家がそれぞれ独立して、各地を治めていました。ところが、元冠襲来(1274-1281)を契機に、松浦党は、「一揆」と呼ばれる合議制の組織形態をとり、共通の課題に対応していくようになります。
元寇との激戦が、松浦党を変貌させたのです。
■元寇
ユーラシア大陸を制覇したチンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンは、東アジア全域を支配する野望を抱き、日本もその支配下に置こうとしました。鎌倉時代、第八代執権北条時宗の治世下で、フビライは日本に国書と使者を送りましたが、幕府はそれを黙殺しました。
フビライ・ハンが日本に向けて最初に国書を発したのは、1266年(文永3年)のことでした。
(※ https://www.archives.go.jp/about/activity/international/jp_mn50/ch01.html#:~:text=%E6%96%87%E6%B0%B811%E5%B9%B4%EF%BC%881274,%E3%81%AB%E5%B1%8A%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82)
その後、合計6回にもわたって、フビライ・ハンは、国書を日本に送りつけましたが、北条時宗は黙殺し続けました。
その結果が、文永の役(1274年10月17日前後)でした。
「海の武士団」と呼ばれた松浦党は、古来、周辺海域を熟知していました。その実績を見込まれて、元寇の際、鎌倉幕府から博多湾の警護を命じられました。松浦党は死力の限りを尽くし、抗戦しました。元軍の船を海底に沈めて、戦力を削ぎ、果敢に防衛戦を展開しました。
ところが、兵力の差は歴然としていました。
この時の戦闘で、松浦党の当主、佐志四郎左衛門尉房は、長男の佐志二郎直、二男の留、三男の勇とともに、肥前国星賀(現在の佐賀県唐津市)に上陸した元軍と交戦し、全員戦死してしまいました。
元軍とは圧倒的な戦闘能力の差がありました。
元軍と交戦した松浦党はまず、戦術の違いに驚きました。
当時の日本の武士は「やあやあ我こそは」と名乗りを上げる「一騎打ち」が主流でしたが、元軍は組織的な戦いを行いました。密集した陣形を組み、指揮官の鳴らす太鼓やドラの音を合図に、一斉に動いて包囲し、攻撃するのです。
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(※ https://www.nagasaki-tabinet.com/feature/genko。図をクリックすると、拡大します)
一人の武士に向かって、元軍は複数で狙い撃ちするのです。これでは、どんなに秀でた戦闘能力を持つ武士でも、勝ち目は全くありません。
しかも、元軍は新兵器で襲撃してきたのです。
内部に火薬と鉄片を詰めた爆弾による爆音や火光、そして毒矢による攻撃など、松浦党をはじめとする日本の武士団は非常に困惑し、次々と打倒されていきました。
(※ https://www.touken-world.jp/tips/7050/#:~:text=%E5%85%83%E8%BB%8D%E3%81%AF%E3%80%8C%E9%8A%85%E9%91%BC%E3%80%8D%EF%BC%88,%E5%8D%B1%E9%99%BA%E3%81%AA%E7%89%A9%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82)
博多は壊滅状態になり、松浦地方も同様でした。
そして、弘安四(1281)年五月、再び元軍が襲来しました。高麗から東路軍4万人と900隻、中国の沿岸からは江南軍10万人と3,500隻が日本に向かって来たのです。
実は、二回目の襲来までに、鎌倉幕府執権であった北条時宗は、「異国警固版役」と称し、兵力と防護力を着々と整えていました。異国警固版役として、防衛体制の構築を行い、九州各地の沿岸に20kmにも及ぶ高さ2mの防塁(石を積んだ防護構築物)を築いたのです。
さらに、西国の武士団に昼夜を問わず、海岸沿いを警護させ、兵力を高めるために、御家人ではない武士も幕府の指揮下に置きました。
もちろん、兵器と戦法も変更しました。
まず、元軍の上陸を阻止するため、元軍よりも射程距離の長い弓を使用しました。次に、元軍の集団戦法を阻止するため、陸上戦を避け、元寇船に乗り込み、攻撃をする作戦に変更しました(※ 前掲、URL)。
北条時宗は、文永の役の敗因を分析し、対策を講じていたのです。元軍を陸上に侵攻させず、海上で追い払う作戦に変更していました。
それでも、兵力の差は圧倒的でした。
弘安の役(1281年)では、松浦党の本拠地である鷹島(長崎県松浦市)が戦場となり、激しい襲撃を受けました。この鷹島では、台風から生き残った元軍の兵士と日本の武士が激しい陸上戦を展開しており、「元寇最後の決戦場」と伝えられています。
鷹島は、前回の文永の役の際、上陸した元軍によって、住民は惨殺され、若い女性たちは奴隷として連行されていきました。島は凄惨な状況に置かれていたのです。
七年後の弘安の役では、台風(神風)の襲来によって、なんとか元軍の上陸を回避できました。元軍の船が多数、鷹島沖に沈没した結果、鷹島が最後の激戦地となりました。こうして二度にわたる元寇によって、甚大な被害を受けた鷹島は、14世紀末頃まで無人島化していたといわれています。
(※ https://reskill.nikkei.com/article/DGXDZO38081170X10C12A1EL1P01/)
国防のため、死闘を尽くした松浦党もまた、甚大な被害を受け、組織形態を変えざるをえなくなりました。
■一揆という組織形態
松浦党は最前線で、元軍と戦い、経験したことのない戦法に遭遇しました。集団で取り囲み、完璧に仕留めるという戦法でした。集団の力、結束力というものをいやというほど思い知らされたのでしょう。松浦党は、元寇以後、集団の力によって、身を守ることができるように組織形態を変えました。
松浦党の構成メンバーは、血縁だけでなく、地縁でも結ばれた48家の小規模領主たちでした。
居住する地域によって、斑島氏、佐志氏、波多氏、有浦氏、値賀氏、石志氏、相知氏、大川野氏などの上松浦党と、松浦氏(平戸松浦氏)、青方氏、宇久氏、平戸氏、大島氏、志自岐氏、中村氏、早田氏、山代氏などの下松浦党に大別されていました(※ 玄海町HP)。
各氏族は独立性が高く、それぞれが独自に行動していました。
ところが、元寇以降、一揆という組織原理の下、行動するようになりました。大きな課題に対しては、大同小異で一致団結し、組織的に行動するようになったのです。
「一揆」とは、「揆を一にして、結束すること」を指します。
巨大な権力を持たず、各氏族が対等な立場で結ばれた松浦党は、「一揆」という独自の組織形態を創り出したのです。
(※ https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00346510/3_46510_7_201634151023.pdf)
以来、共通の難題に遭遇すれば、これら48家は集まって評議を行い、評決して決定し、松浦党として一致団結して、統一行動をとるようになりました。中世の時代に、地方の小豪族が民主的に協議し、共通の課題を解決していたことはきわめて稀有なことでした。
そして、南北朝の混乱期に松浦党は、この組織形態を強化していました。
■一揆契諾状
元々、連合体だった松浦党ですが、南北朝の混乱期に、居住地によって、「上松浦党」と「下松浦党」の二つに大きく分かれるようになりました。氏族それぞれが南北両朝の勢力争いに深く関わるようになっていたのです。
たとえば、南北朝の騒乱が始まった当初、肥後の菊池氏と連携し、懐良親王(征西将軍宮)ら南朝を支える勢力として活動した氏族が多く見られました。
その一方で、少弐氏らと呼応して北朝側に味方する氏族もありました。また、平戸の松浦氏や佐志氏など、当初は南朝側として戦い、後に北朝側に転じた氏族もありました。
このように、松浦党の中には、北朝に帰順する氏族、南朝方として独自の活動をする氏族、そして、一族の保身のために、様子見しながら、北朝と南朝の間を揺れ動く氏族などが混在していたのです。
これは、北朝方、南朝方がそれぞれ、軍の勢力を優位にするため、松浦党の各氏族に働きかけた結果でもありました。
動乱が激化していくにつれ、働きかけも強まっていきました。松浦党としては、外部勢力からの干渉を防ぎ、一族の結束を守る必要に迫られました。そこで、取り入れられたのが、「一揆契諾状」です。
「一揆契諾状」とは、松浦党内で交わされた契約文書です。
松浦党を味方につけようとする働きかけが、各勢力によって行われましたが、特に熱心だったのは、応安四(1371)年に、九州探題に任命されて下向してきた今川了俊でした。
今川了俊は着任すると、早々に、南朝方の菊池武光や島津氏久らの勢力と抗争を繰り広げ、九州における北朝(幕府)の支配力を強化しました。すでに下松浦党(平戸・北松浦)は、今川了俊の働きかけに応じていました。
もはや氏族それぞれの判断に任せておくわけにはいかなくなっていました。一揆制度を強化しておかなければ、松浦党が組織崩壊する可能性もあったのです。
そこで、松浦党は、一族の結束を維持して、外部勢力に対抗するために、「一揆契諾状」を交わし、合議制による団結を強化しました。
現在、一揆契諾状は、応安元年(1373)、永徳四年(1384)、嘉慶二年(1388)、明徳三年(1392)など、合計四通が残されています。これには、参加者の連署や花押が残されていました。受諾の確認と責任の所在が明記されているのです。
その主な内容は、次のようなものでした。
一、 一揆衆は、一致協力して足利将軍に忠誠を誓うこと
一、 争いごとは、武力ではなく、話し合いで解決すること
一、 夜盗、強盗、窃盗等を取り締まること
一、 年貢や領地の争いは、話し合い、多数決を行うこと
一、 一旦、決めたことは必ず守ること
(※ 「海とともに時代を生きた武士団」、file:///C:/Users/2012k/OneDrive/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A.pdf、p.25)
そもそも松浦党は、強力な一人のリーダーに率いられた組織ではなく、それぞれが独立した中小領主たちの「契約」によって結ばれた連合体でした。だからこそ、社会の混乱時には、このような契約書が必要だったのでしょう。
興味深いことに、これら四通一揆契諾状は、南北朝動乱の収束状況に応じて出されていました。
最初に、一揆契諾状が交わされたのは、今川了俊が南朝方の勢力と戦い、北朝の支配力を強めつつあった応安元年(1373)です。次が、北朝方が南朝方を圧倒しつつあった永徳四年(1384)です。そして、北朝方が、北九州から肥後国(熊本県)にかけての南朝方(征西府)をほぼ制圧し、幕府の支配体制を固めつつあっ、嘉慶二年(1388)が続きます。最後に、南北朝に対立が解消された明徳三年(1392)といった具合です。
足利義満は明徳三年(1392)十月、「明徳の和約」を締結しました。
これによって、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、南北朝の対立が解消されたのです。その結果、これまで南朝方として抗戦していた肥後の菊池氏や阿蘇氏が幕府側に帰順し、室町幕府の権力が九州全域に及ぶことになりました。
■波多氏を生んだ松浦地方と松浦党
松浦党は、元寇を契機に、合議制の組織体系を作り上げました。その後、南北朝の混乱期を迎えると、「一揆」という組織に、「一揆契諾状」を絡ませ、組織の機能強化を図りました。
48家が会議をし、評決をした場所が、松浦党唐津会議所跡地として、残されています。現在の唐津神社の周辺にあります。
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(※ https://kandayoshinobu.seesaa.net/article/201703article_11.html。図をクリックすると、拡大します)
この場所は、上松浦党(現在の唐津周辺)の有力者たちが集まる拠点の一つであったと考えられています。松浦党を波多氏が支配していた頃のことです。
南北朝時代が終わり、その後、戦国時代に入ると、強力な戦国大名による一円支配が進みました。対等な連合体としての「一揆契諾」という形態は徐々に姿を消していきました。「一揆契諾状」はまさに、期間限定の制度だったといわざるをえません。
約六十年間にわたった南北朝の動乱(1330年代〜1390年代)の期間中に、地方の治安維持を担当していた「守護」が、軍事、警察、経済的権限を強め、領国を支配する「守護大名」へと変貌していきました。やがて、大名が群雄割拠する戦国時代の幕開けになるのです。
さて、松浦党の始祖である源久は、嵯峨源氏の血を引きますが、単なる貴族ではなく、武力を持って土地を支配し、後の強力な武士団「松浦党」の基礎を築いた人物でした。
松浦郡今福(現在の長崎県松浦市)に梶谷城を築いて拠点とし、自ら「松浦」を名乗りました。やがて、彼の子孫たちが各地に分散して領主となり、松浦党は連合体としての武士団「松浦党」へと発展していきました。
その松浦党の組織のシンボルとして、松浦家の家紋入古旗が残されています。松浦家の家紋である三星・梶葉・二引両が染め出されている船幟です。
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(※ 長崎県指定有形文化財、1562年、松浦資料博物館蔵。図をクリックすると、拡大します)
三星紋は、源融が、源氏の姓をうけて臣籍にくだる際に使用したと伝えられています。まだ、梶葉紋は、松浦家第八代久のときから使用したとされています。そして、二引両は、松浦家第十六代勝が、筑前多々良浜の戦において足利尊氏から下賜されたものです。松浦家第二十五代隆信(1529-1599)の時代に使用されたと考えられています(※ https://www.matsura.or.jp/shiryou/)。
(※ 松浦氏や波多氏の名前は一字が多く、わかりにくいので、以後、名前の下に下線を引いておきます)
上図にみるように、松浦家の家紋には、源氏にルーツがあることを示す三星紋、松浦姓を名乗るようになってからの梶葉紋、そして、足利尊氏から下賜された二引両が使われています。一族の歴史と栄誉が一目でわかる家紋になっているのです。
さて、梶葉紋は、諏訪大社などの神紋として有名で、武士の間で信仰の象徴として好まれており、諏訪氏や平戸松浦氏などが使用しました。この梶葉紋が使われ始めたのが、松浦家第八代当主の松浦久の時代でした(※ https://www.matsura.or.jp/rekishi/nenpyo/)。
この松浦家第八代当主の松浦久(源久)の二男。松浦持が、波多氏の始祖となり、波多持となりました。肥前国松浦郡の波多の地に移り住んだことで、波多氏を称するようになったのです。平安時代の後期、康和四年(1102)頃のことでした。
波多氏は、源氏の系譜を引きますが、清和天皇を祖とする清和源氏ではなく、嵯峨天皇を祖とする「嵯峨源氏」でした。
嵯峨源氏は、当初は高い身分の貴族(公家源氏)として朝廷で活躍していました。ところが、時代が下るにつれて、地方に下って武力を持った子孫たちが、「武士」としての性格を強めていきました。波多氏はその流れをくみます。
こうして誕生した波多氏は、農業に適さず、海防最前線の松浦地方で、合議制を重視し、高い自律性と海上交易で力を誇った松浦党の下、着実に勢力を育んでいきました
(2026/5/1 香取淳子)