■久しぶりの入間川
2025年4月20日、久しぶりに入間川遊歩道を訪れてみました。例年、四月になれば一斉に開花するソメイヨシノがすっかり散り、葉だけになっていました。
早緑の葉桜が、軽やかに遊歩道一帯を覆っています。そんな中、先の方にピンクの花が緑の葉陰からそっと顔をのぞかせていました。近づいてみると、八重桜でした。
この桜木は、土手に斜めになりながら、堂々とした姿で立っていました。斜面に対して垂直に立っているだけでなく、川側に大きく枝を伸ばしているのです。バランスが取れておらず、川側に倒れてしまうのではないかと思うほどでした。
一見すると、不安定に見えるのです。
ところが、この桜木をよく見ると、幹が大きく遊歩道側に湾曲し、本体を支えています。その姿勢は、まるで川側に倒れてしまわないように、必死に踏ん張っているように見えます。
そればかりではありません。遊歩道側に延びた枝はどれも太く、咲き乱れた花々もどっしりとした重みを感じさせるのに、入間川側に延びた枝は細く、枝先に開いた花弁もより小さく、軽やかに見えます。
幹の傾き、枝の太さなどから、この木が、遊歩道側(左)に比重を置いているのがわかります。根元にかかる負荷に差をつけ、左右の重量のバランスを取っているのです。
枝の太さ、伸ばし方、花の大きさ、その数量などを調節し、この桜木は、斜面に対し垂直に立っていながら、生き延びることができているのです。絶妙なバランスの取り方に、この木の強い生命力に感じざるをえません。
■植物に学ぶ生命力
そもそも、遊歩道にいた私がなぜ、この桜木に気を取られたかというと、葉桜となったソメイヨシノの群れの中に、濃いピンクの花を見かけたからでした。この木は土手に生えていながら、遊歩道まで大きく枝を伸ばしていたのです。
遊歩道沿いに、整然と立ち並んだソメイヨシノの一群から離れ、この木は、一段低い土手に垂直に立っていました。延々と続く桜並木から、はじき出されたように見えなくもありません。
ところが、ソメイヨシノの列に割り込み、その存在を誇示していたのです。四方八方に大きく伸びた枝には、大輪の花弁が咲き誇り、異彩を放っていました。辺り一帯、緑色の中で、この木はひときわ目立ちました。
どの枝にも重量感のある濃いピンクの花が咲き誇り、ソメイヨシノとは違った趣がありました。咲いたと思えば、すぐに散ってしまうソメイヨシノの可憐な風情はいささかもなく、おおぶりの花弁からは、力強く生き抜こうとする生命力が強く感じられます。八重桜ならではの豪華な華やかさがありました。
歩を進めていくと、タンポポが、遊歩道の脇に這いつくばるようにして、黄色の花弁を咲かせていました。
まるで行き交う人々に注意喚起するかのように、ひときわ鮮やかな黄色の花弁が目立っていました。何度、踏みにじまれても、その都度、健気に立ち上がって、生きてきたのでしょう。ここでも旺盛な生命力を感じさせられました。
黄色い花の隣には白い綿帽子も見えます。花が咲き終わり、綿毛になっているのです。さらには、綿毛が飛んでしまって、茎だけになっているのもあります。まるでタンポポのライフサイクルを見ているようでした。
この一画には、成長、成熟、種子の散布、枯死、といったライフサイクルごとの形態が揃っていたのです。
タンポポを見ているうちに、ふと、生命体というものは、成熟して子孫を残せば、もう役目を終え、自然に回帰する定めなのかもしれません。
そんなことを思っているとき、子どもたちの声が川の方から聞こえてきました。
■釣りを学ぶ?
何やら声が聞こえたので、下を見ると、砂州に大勢の子どもたちと大人が集まっています。水際にはブルーの網が所々に置かれています。
川にはまだ誰も入っておらず、川を眺めている大人や子どもがいるかと思えば、子どもに話しかけている大人もいます。所々にクーラーボックスが置かれ、獲った魚を持ち帰る準備もできているようです。
これから何かが始まるのでしょう。そう思って、しばらく遊歩道に佇んでいると、再び、子どもたちの黄色い声が聞こえてきました。
どうやら、子どもたちが川に入って、魚を探しているようです。
子どもたちが川に入って、屈みこみ、魚を追っているようです。臨時に造られた生け簀の中には、魚が放たれているのでしょう。子どもたちは屈みこんで、両手を川に入れ、魚を追うのに余念がありません。夢中になっている子どもたちの様子を、大人たちは砂州で見守っています。
よく見ると、ほとんどの大人は、砂州から子どもたちを見ているだけなのですが、緑の野球帽をかぶり、黒のシャツを着た大人は川に入って、子どもたちを助けています。
腰をかがめ、網を引き揚げて、子どもに語り掛けている人もいれば、手に袋のようなものを持ち、子どもたちに話しかけている人もいます。おそらく、魚釣りの指導員か何かなのでしょう。
緑の帽子を被っていない大人が川に入って、魚を取っているところもありました。指導員の手がまわらないところは、子どものお父さんが支援に入っていたのかもしれません。
指導員らが、子どもに魚の獲り方を教え、多くの大人はその様子を砂州に佇み、見守っています。砂州のあちこちにクールボックスが置かれ、獲った魚を家に持ち帰り、食する準備もできているようです。子どもたちだけではなく、付き添ってきた大人たちもまた、魚釣りを楽しんでいました。
魚釣りを通して、子どもたちは川についても、魚についても多くを学んだことでしょう。何か発見したことがあるかもしれません。普段、経験できないだけに、貴重な体験だったにちがいありません。
しばらくしてから再び、訪れてみると、もう魚釣りは終了していました。参加者は立ち去り、砂州に人はおらず、川には青い網で造った臨時の生け簀だけが残されています。
緑の半コートを着た人が撤去作業を始めています。
そのブルーの網も次々と撤去されていきます。緑の野球帽をかぶり、黒のシャツを着た人たちが網をたたみ、片付けています。
川を眺めているうちに、砂州の周辺の土手に、鮮やかな黄色の花が群生しているのに気づきました。開花期が少し早いように思いますが、セイダカアワダチソウなのでしょうか。辺り一面に咲いている様子が、子どもたちの魚釣りをショーアップしているようにも見えます。
それにしても、子どもたちの魚釣りは、一体、何のイベントだったのでしょうか。
■入間川漁協主催の子供魚釣り教室か?
帰宅してざっとネットで調べてみましたが、それらしい記事が見つかりませんでした。なおも調べてみると、ようやく関連記事が見つかりました。平成27年(2015)の日付がありますから、今から10年も前の記事です。全文を引用してみましょう。
「平成27年4月19日(日)入間川漁業協同組合が入間市役所及び入間観光協会の協力を得て入間川の中橋上流にて子供釣り教室を開催しました。この日は雨の降りそうな曇り空でしたが、幼稚園児から小学校5年生まで70数名とその保護者や一般の大人たち100名ほどが参加しました。
放流された魚は、約20cmのニジマス140Kg 約1,800尾を2ヶ所(子供用特設生簀(いけす)と大人用は河川)に放しました。子供たちは初めての釣りをする児童も多く、入間漁協組合員の指導に熱心に耳を傾け、次々に魚を上げ楽しい1日を過ごしていただき、帰りには夕食用のニジマスを持ち帰り頂きました」
(※ http://saitamakengyokyou.blog.fc2.com/blog-entry-141.html)
入間市の漁協はかつて子どもたちのためにこのような行事を行っていたのです。その後の更新記事はありませんが、開催時期がほぼ同じなので、私が入間川で見た光景は、おそらく、漁協主催の子ども釣り教室だったのでしょう。
興味深いことに、入間市漁協は10年も前から、子どもたちに入間川で魚釣りを経験させ、川に親しむ機会を提供していたのです。ひょっとしたら、私が知らないだけで、もっと以前から行われていたのかもしれません。
この記事を読み、先ほど見たばかりの光景を思い浮かべていると、なんとなく、ほほえましい気分になっていきます。
子どもたちが川をのぞき込んでいる様子が、今も目に焼き付いています。生け簀にかかった魚が跳ねる様子に、子どもたちはさぞかし驚いたことでしょう。家では見たことがない生の魚の姿を目にし、いったい、どういう気持ちになったのでしょうか。
川に入っていった時、魚を捕まえようとする時の子どもたちの叫び声が思い出されます。
川に足をつっこんだときに味わう川の水の感触、水の中を素早く泳ぎまわる魚の動き、ようやく捉まえ、手にしたときの感触など・・・。子どもたちにとっては、その一つ一つがリアルな感触として記憶に残り、やがて思い出として、再生されていくのでしょう。
脳裏に刻み込まれた記憶は、時を経ても色あせず、子ども時代へのタイムスリップへの引き金になるに違いありません。
■その後、見た入間川の光景
なんとなく気になって、後日、再び、入間川遊歩道を訪れてみました。すると、魚釣りをする人が目に入りました。
先日、子どもたちが魚釣りを学んでいた場所で、大人が一人、釣り糸を垂らしているのです。腰に魚籠のようなものをぶら下げ、川面を探っています。魚の居場所を見究めようとしているように見えます。
その姿に、先日見かけた子どもたちの姿が重なりました。あの時の子どもたちが大人になれば、そのうちの何人かは、再びここを訪れ、魚釣りをするのではないかという気がします。
さらに先の方を見ると、砂州に寝ている人がいました。
まるで子どものように、誰はばかることなく、寝入っている様子です。傍らにはルーラーボックスや折り畳みイス、大きなペットボトルのようなものが見えます。おそらく、一人で長時間、ここで魚を釣っていたのでしょう。疲れて横になっているうちに、つい、そのまま寝てしまったのかもしれません。
砂州で寝ている人を見て、私は驚いてしまいましたが、その気持ちもわかります。寒くもなく暑くもなく、陽射しが照り付けるでもなく、適度に雲が浮かぶ晴天でした。さわやかな風が快く、そこにいるだけで、身体も気持ちも解きほぐされていくような気分になります。
聞こえてくるのはただ、入間川のせせらぎだけです。
気持ちが洗われていくような音を繰り返し聞いていると、つい、寝入ってしまったとしても不思議はありません。遊歩道にいてさえ、とても心地よく、心安らかな気分になれたのですから、砂州ではなおのこと、自然との一体感に包まれたことでしょう。
慌しい日常生活の中で、ともすれば忘れてしまいがちな自然に包まれていることの心地よさが、入間川遊歩道にはありました。
■入間遊歩道にみる生命の環
川辺に気を取られていましたが、遊歩道沿いのツツジは、いつの間にか、満開になっていました。
遊歩道には、茂った木の枝から漏れる陽射しが影を落とし、不思議な文様を描き出していました。風がそっと吹けば、葉がさわさわとそよぎ、そのたびに、道に落ちる影が変わります。瞬間の形態がその都度、その文様を変えていくのです。そこには、パターンを組み合わせて創り出された文様には見られない妙味がありました。
自然が紡ぎ出す美しさが、遊歩道のそこかしこに見られました。
久しぶりに訪れた入間川遊歩道は、まず、したたかに生きる八重桜の旺盛な生命力を見せてくれました。次いで、地面に這いつくばって生きるタンポポのライフサイクルを見せてくれました。いずれにも自然環境に合わせ、しなやかに生きる強靭さがあって、感心させられました。
なにも八重桜やタンポポに限りません。おそよ生命体というものは、強靭な生命力に支えられて生き延び、やがて朽ち果てていきますが、再び芽吹き、生命の環を紡いでいきます。どの生命体にも組み込まれたそのような営みを、この遊歩道で見たような思いがします。
さらに、この遊歩道から、子どもたちが入間川で魚釣りをする姿を見かけました。
川に入ることによって、子どもたちは、川の水の感触、流れの速さを知ったことでしょう。魚を獲ることを通して、生きた魚がいかに捕獲から逃れようとするかを目の当たりにしたに違いありません。
魚を自分の手で触り、掴んだからこそ,子どもたちは生きようとする力の凄さを知ったのではないかと思います。中には、生命の尊さ,生命を育む環境にまで、思い及ぶようになった子どもがいたかもしれません。
いずれにせよ、子どもたちは魚釣りを通して、生命体というものをおぼろげながらも把握し、自然の叡智に学ぶことができたのではないかという気がします。このような経験こそが、子どもたちの生きる力となっていくのでしょう。
4月はまもなく終わり、5月を迎えようとしています。生命の環がスタートし、成長期にさしかかろうとする時期になります。生命が躍動する5月、入間川遊歩道は何を見せてくれるのでしょうか。(2025/4/30 香取淳子)