■セントラル・パシフィック鉄道
1872年1月31日、岩倉使節団一行はサンフランシスコを発ち、大陸横断鉄道で東海岸に向かいました。
その時の様子を、久米は次のように記しています。
「朝7時にグランド・ホテルを発ち、フェリー・ボートでオークランドの長い桟橋の波止場に至り、カリフォルニア太平洋鉄道の列車に乗った。アメリカには昼夜を走り続ける列車用に寝台車という車両があり、一等客はこの車両に乗る」
(※ 久米邦武編、水澤周訳注、『特命全権大使 米欧回覧実記 Ⅰアメリカ編』、慶應義塾大学出版会、2008年、p.110.)
久米はここで、「カリフォルニア太平洋鉄道の列車」と書いていますが、正確にいえば、「セントラル・パシフィック鉄道(Central Pacific Railroad)」です。カリフォルニア州にあるセントラル・パシフィック鉄道なので、カリフォルニア太平洋鉄道と勘違いしたのでしょう。
さて、セントラル・パシフィック鉄道は、カリフォルニア州サクラメントからユタ州オグデンまでのレール(1,110km)を敷設した鉄道会社です。一方、ネブラスカ州オマハにある(1,749km)を敷設しました。両者が、オグデンのプロモントリーサミット(Promontory Summit)で繋がり、アメリカ最初の大陸横断鉄道が完成したのです。1969年5月10日のことでした。
使節団一行は、完成してまだ3年にも満たない大陸横断鉄道に乗って、サンフランシスコを発ったのです。
久米は、セントラル・パシフィック鉄道の列車に乗るまでの様子を記し、乗車してからは、車両の様子を克明に説明しています。
「車両は一両で24人、中央を通路にし、車両の前後に広い室が設けられ、ここでストーブを焚き、洗顔のための水盤や用水タンクを備え、トイレットもここにある。(中略)床にはカーペットが敷いてあり、快適である。二人の乗客はテーブルに向かってものを書いたり本を読んだりできる。夜は長椅子を合わせてベッドとし、また上のフックを外すとベッドが降りてきて上下二台の寝台となる。シーツや枕を備え、寝台の前にはカーテンを引いて寝るのである」(※ 前掲。p.111.)
このように車内の設備がいかに便利で快適かを具体的に記しています。
続けて久米は、ヨーロッパにはこのような車両がないと記し、それは、ヨーロッパが身分制社会の国だから、貴賤のものが一緒の席に座ったり寝たりすることを嫌うからだと理由づけています。ヨーロッパの鉄道事情については、おそらく、現地で聞き及んでいたのでしょう。
アメリカでは、このような設備の整った列車にも、お金を支払うことさえできれば、乗車できるのです。
この時、使節団一行は、同行する官吏や学生たち、アメリカのデロング(Charles E. DeLong、1832-1876)公使の一家など、総勢100人余にも達していました。一両当たり乗車できるのが24人ですから、五つの車両を借り上げて出発しています。
1872年といえば、この大陸横断鉄道が開通してから間もない頃です。そんな時に、大勢の日本人が車両を五つも借り切って、大陸横断の旅に出たのですから、地元でも大きな話題になっていたに違いありません。
実は、久米らが列車を見るのは、これが初めてではありませんでした。
サンフランシスコに着いて間もない頃、使節団一行は、セントラル・パシフィック鉄道会社から記念式典に招待されたことがあったのです。
セントラル・パシフィック鉄道といえば、アメリカ大陸の西から東に向けての鉄道建設を請け負った鉄道会社です。その鉄道会社から、使節団一行は招待されていたのです。
おそらく、一行がこの大陸横断鉄道に乗って、サンフランシスコを発ち、シカゴを経てワシントンに移動する計画を事前に伝えていたからでしょう。だからこそ、鉄道会社は、新しい車両のお披露目記念式典に、使節団を招待したのだと思います。
一行はサンフランシスコ市のホテルに宿泊していました。
■サンフランシスコとオークランドをつなぐ旅客フェリー
鉄道に乗るには、サンフランシスコから旅客フェリーに乗って、オークランドに行かなければなりません。
その時の様子を、久米は、次のように記しています。
「1872年1月22日、朝9時、アメリカ公使のデロングとともに、エル・カピタンという蒸気船に乗って、オークランドの長い桟橋に着いた。(中略)桟橋の一番先には水上に広い上屋が作られており、ここがフェリーと汽車の乗り換え場所になっている。だから船が桟橋の駅舎に着いたときは、船が島に着いたのかと思った。列車に乗り換えると、その列車が桟橋の上に敷いた鉄道を走るので、驚かないものはなかった。汽笛を鳴らしながら桟橋を渡っていく様子は、まるで水上を飛んでいるようである」
(※ 前掲。pp.79-80.)
久米はこのように記していますが、その中に、「エル・カピタン」という聞きなれない言葉が出てきます。
これは一体、何なのかと調べてみると、当時、サンフランシスコ湾で運行されていた蒸気動力の旅客フェリーでした。
サンフランシスコとオークランドは、狭い海を隔てて向かい合っています。至近距離の海上を、人々はこのエル・カピタンに乗って、往来していたのです。
この旅客フェリーは、サンフランシスコから、鉄道のあるオークランドまで乗客を運ぶ一方、セントラル パシフィック鉄道でオークランドに駅に到着した乗客をサンフランシスコまで運んでいました。大陸横断鉄道の完成を見越して、1868 年に建造されたのが、このエル・カピタンでした。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/El_Capitan_(ferry)
それでは、エル・カピタンがどのような旅客フェリーなのか、写真を見てみることにしましょう。
こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)
これを見ると、久米が書いているように、確かに、桟橋の先に上屋が見えます。その隣に、エル・カピタンが横づけされていますから、ここが、フェリーと汽車との乗り換え場なのだということがわかります。
実際にエル・カピタンと汽車の両方に乗ってみた経験を、久米は、次のように表現しています。
「降りる客は船首から降り、乗船客は側面から乗り、乗降に当たっての混雑は皆無である。陸からすぐに船、船からすぐに陸、ただ外輪が動いて波に揺れるのを見れば、もう自分が水上にいることを知る。また汽車の汽笛が鳴り、車輪の轟きを聞けば、すでに足が地上にあることを知るのである」(※ 前掲。p.80.)
船上から陸へ、そして、陸からすぐに海上へと、スムーズに乗り換えできる利便性と機能性に、久米はただ、ただ驚いています。乗客のためのインフラがこれほど整備されているとは思いもしなかったのでしょう。
驚きのあまり、久米は、サンフランシスコでこうなのだから、米欧の大都市なら、どれほどすばらしいのだろうかとつい、想像を巡らせてしまうのでした。
さて、セントラル・パシフィック鉄道が開催した式典には、男女150人が参加しました。主催者として応対したのが、コーエン(Alfred Andrew Cohen , 1829-1887)社長でした。そこで用意されていたイベントが、新しい車両が披露され、参加者が実際に試乗してみるというものでした。
久米はその時の様子を次のように書いています。
「列車の中にキッチンを設けて昼食のサービスがあった。オークランドを過ぎ、サンフランシスコ湾の東岸を60メートルほど走り、正午にサン・ノゼ町のミルピタス駅に着いた、使節団一行、その他の客たちは下車し、付近の庭園をしばらく散歩したのち、再び列車に乗った」(※ 前掲。pp.80-81.)
この時の車両がどんなものだったのかわかりませんが、1870年頃のセントラル・パシフィック鉄道の食堂車の図がありましたので、ご紹介しましょう。
こちら →
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-experienceより。図をクリックすると拡大します)
これを見ると、セントラル・パシフィック鉄道の食堂車がいかに豪華な設えだったのかがわかります。車内はきらびやかな装飾が施され、木製の調度品には丹念に彫刻されています。至る所、贅を尽くしたディテールが印象に残ります。
しかも、このような豪華な上級車両でも、料金を払えば誰でも利用することができました。
豪華な車両は、女性の旅行に対する意識改革に大きな影響を与えたといわれています。当時、中流あるいは上流階級の白人女性は、気軽に一人で旅行することはなかなかできませんでした。ところが、この車両のように、自宅のリビングルームのような雰囲気があれば、女性でもリラックスして乗車することができます。安心して乗車できるということがわかれば、女性も鉄道で旅行しようという気にもなるでしょう。女性に向けた鉄道旅行が推奨されれば、利用客の増加につながる可能性がありました。
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-experience )。
さて、セントラル・パシフィック鉄道が開催した式典には、男女150人が招待されていました。
なぜ、女性が招待されていたのかわからなかったのですが、上記のような車両の内装をみれば、新しい車両のお披露目が、実は、女性の鉄道旅行に対する潜在需要を喚起する一つの方策でもあったことがわかります。
この記念式典でセントラル・パシフィックの社長として応対していたのが、コーエンでした。1863 年にサンフランシスコ & アラメダ鉄道会社を設立し、1864 年に運行を開始した人物です。
まずは、ヘイワードでの草創期の鉄道事業がどういうものだったのかを見ておくことしましょう。
■地元ヘイワードの鉄道事業者、コーエン
1860 年代初頭、ヘイワードでは、地元農産物の輸送とサンフランシスコに通う人々の通勤のための鉄道が必要とされていました。
ヘイワードに最初に列車を通したのが、アルフレッド A. コーエンでした。
1864年にヘイワードで、サンフランシスコ & アラメダ鉄道(San Francisco and Alameda Railroad)を創設したコーエンは、1829年、西インド諸島のプランテーション所有者の子として、ロンドンで生まれました。ところが、1833年の奴隷解放法(the Emancipation Act of 1833 freeing the slaves)とスコットランド銀行の破綻によって、一家は財産を失ってしまいました。
長じたコーエンは1850 年、一攫千金を狙って、ゴールド・ラッシュに沸いていたカリフォルニアにやってきました。サンフランシスコで仕事を見つけて法律を学び、1857 年に司法試験に合格しました。弁護士になったコーエンは、サンフランシスコでは有力な弁護士として成功していました。
弁護士だったコーエンは1863 年のある日、ふと、ヘイワードとアラメダ、オークランド、サンフランシスコなどの大都市を、鉄道とフェリーで結ぶことを思いつきました。
(※ https://www.cohenbrayhouse.org/about-6)
彼は元々、ワーム・スプリングス(Warm Springs)のリゾートに興味を持っていました。だから、ヘイワード(Hayward)を通る鉄道は、リゾート客をホテルに運ぶ最適手段になると思っていたのです。さらに、鉄道とフェリーを連結すれば、大きな利益が得られるとも考えました。
一方、アラメダ(Alameda)が住宅地として整備されはじめたのをみて、やがて、小麦、大麦、牛などの商取引に、ヘイワードの重要性が高まってくるだろうと予測しました。
地域の発展を目指そうとすれば、鉄道網の整備は不可欠でした。
さまざまな観点から、鉄道需要を予測したコーエンは、ヘイワード地域の大土地所有者であったファクソン・D・アサートン(Faxon D. Atherton)などと組み、新しくサンフランシスコ&アラメダ鉄道会社を設立しました。1864年のことです。
(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward)
コーエンは1864年に、サンフランシスコ & アラメダ鉄道を運行すると、翌1865 年には、サンフランシスコ & オークランド鉄道を買収し、合併しています。さらに、その後、アラメダからヘイワードまでの列車を運行したかと思えば、サンフランシスコ行きのフェリーを1日5便、運行するようにもしていました。
サンフランシスコに行くのに乗客は、アラメダでフェリーに乗らなければなりませんでしたが、この路線ができたことによって、ヘイワード地域の住民は、サンフランシスコへも比較的容易に通勤できるようになりました。
ジョセフ・リー(Joseph Lee,) が、鉄道とフェリーが最初に連結した日の様子を1868年頃に描いています。その絵を撮影した写真がありますので、ご紹介しましょう。
こちら →
(※ Wikimedia. 図をクリックすると、拡大します)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Joseph_Lee_painting_Alameda_Shore_(1868).jpg)
1864 年 8 月 25 日、鉄道とフェリーが最初に連結しました。その時のアラメダ海岸の光景が描かれています。桟橋の先に白い蒸気を吐き出しながら、静かに進んでいくフェリーが見えます。
前景に、土手を降りて来る人が描かれています。それ以外にほとんど人が見当たりません。当時、鉄道やフェリーを利用する人はまだ、それほど多くはなかったのでしょう。のどかな田園風景が広がっています。
ところが、鉄道が通って、フェリーと繋がり、さまざまな都市へのアクセスがよくなると、地元経済も次第に、活性化されていきました。
■地元への貢献、そして、セントラル・パシフィックへ売却
コーエンは、物資の輸送から人々の通勤に至るまで、地元の人々に役立つよう、鉄道事業をきめ細かく采配し、展開していきました。地域の人々にとっての利便性を高め、地場産業の発展のためになくてはならない人でした。
才気があり、覇気も胆力もある人物でした。
ところが、せっかく築き上げたそれらの事業は、1869 年にセントラル・パシフィック鉄道に買収されてしまいました。その後、コーエンは、セントラル・パシフィック鉄道会社所属の弁護士になっています。
(※ https://localwiki.org/oakland/Alfred_A._Cohen)
ですから、1872年1月に使節団が記念式典に招待された時、コーエンは社長ではなかったはずです。
不思議に思って、資料を渉猟してみると、株を売却したコーエン氏は、そのまま、セントラル・パシフィック鉄道の社長を務めるようになっていました。
とはいえ、セントラル・パシフィック鉄道は、経営を完全に彼に任せていたわけではありませんでした。経営を管理するため、独自の総監督を配置していたそうですから、コーエンは形式上の社長だったのでしょう。
(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward)
なにしろ、コーエンは、サンフランシスコ & アラメダ鉄道の創設者でした。いってみれば、地元ヘイワードの名士でしたから、セントラル・パシフィック鉄道としても、コーエンは疎かにすることはできなかったのでしょう。
使節団一行が招待された際、コーエンが社長として式典を采配していましたが、それには、コーエンが鉄道事業を通して、地元を活性化させた人物だったという事情があったのです。
それでは、なぜ、コーエンは、自分が創設した鉄道会社をセントラル・パシフィックに売却したのでしょうか。
それは、1868 年 10 月にヘイワード断層で大地震が発生し、サンフランシスコ & アラメダ鉄道が大きな被害を受けたからでした。
サンフランシスコ市域の近くを、サンアンドレアス断層とヘイワード断層が走っており、これらの断層が、これまで何度も地震を引き起こしていました。
1868年の地震の被害はとくに甚大でした。サンフランシスコ & アラメダ鉄道の線路にも深刻な被害が生じただけではなく、Dストリート駅が倒壊してしまったのです。
当時の写真があります。
こちら →
(※ HAHS Collectionより。図をクリックすると、拡大します)
駅舎が倒壊し、茫然と佇む人の背後に車両が見えます。
幸いなことに、車両や従業員に大した被害はありませんでしたが、駅舎の倒壊で、コーエンは大きな損失を被ってしまいました。駅舎が再建されても、その後、経営を続けることは難しくなっていました。
それでもコーエンは、なんとか解決策を見出そうとしましたが、もはや鉄道会社を運営し続けることはできず、1869年、サンフランシスコ&アラメダの株売却を決定せざるをえませんでした。
ちょうどその頃、セントラル・パシフィック鉄道が、ベイエリアの小規模な鉄道路線の買収に動いていました。大陸横断鉄道を完成させるためでした。コーエンはそれを知って、セントラル・パシフィック鉄道に自社株を売却したのです。
そもそも、サンフランシスコ&アラメダ鉄道は、初年度に貨物で 2万1,000 ドル、旅客券で 4万ドルの収益を上げていましたが、建設費は100 万ドルもかかっていました。その後の収支も同様で、コーエンらはこの鉄道事業から、大きな投資利益を得ることは出来ませんでした。(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward)
その上、1868年の大地震で追い打ちをかけられました。駅舎まで倒壊するという被害を受けた以上、もはや鉄道事業を継続することは困難でした。地元のサンフランシスコ&アラメダ鉄道が、大手のセントラル・パシフィック鉄道に吸収されるのは自然の流れだったのです。
一方、セントラル・パシフィック鉄道は、1862年の議会で承認された「太平洋鉄道法」に基づき、建設資金を主に、米国債で賄うことができました。さらに、カリフォルニア州やサンフランシスコ市からも助成金を得ることができました。
セントラル・パシフィック鉄道が建設したのは、大陸横断鉄道のうち、カリフォルニア州からユタ州までの西から東に向かう路線でした。そのセントラル・パシフィックも、現在は、東から西に向かう路線を建設したユニオン・パシフィック鉄道に吸収されています。鉄道というインフラ事業は、大資本が絡まなければ、安定した経営が難しい事業でした。
さて、使節団一行が乗った列車が走るのは、平坦な場所だけではありませんでした。湿原地帯もあれば、峻厳な山脈地帯もあります。とくに困難をきわめたのが、山岳地帯の線路の敷設工事でした。労働内容は苛酷で、しかも、高度な技術と忍耐力が要求されました。そのような作業をこなせる労働者を集めるだけでも大変でした。
1872年1月31日、サンフランシスコを発った使節団一行は、大陸横断鉄道に乗って東へ東へと向かいました。車窓からは、カリフォルニア州からユタ州にかけてのさまざまな地形が見えてきます。さまざまな地形から浮かび上がってくるのは、広大なアメリカが創り出す文化の姿であり、社会の形でした。
■使節団が見た車窓からの光景
使節団一行は、車窓からサンホアキン川を眺め、その周辺のいたるところに、沼地や湿地ができているのを見ました。カリフォルニア平野は平坦だったので、川も緩やかに流れ、平地に流れ出ることも多かったのだろうと、久米は推測し、このような地形ではまず、輸送路を建設するのが先だと述べています。
久米は次のように書いています。
「カリフォルニアにはまだ、古代中国の禹のような名人が必要で、暗渠排水によって土地を改良するのを待っているといえそうだ。鉄道から支線を出し、数本の鉄路が荒れた湿原の中に敷設されているのを見た。荒地を開拓するにはまず、輸送のための路を開くのが最初である」(※ 前掲。p.112.)
車窓から湿地帯を見たとき、久米は、古来、しばしば洪水が起きていた中国で、禹が治水の成功によって、夏王朝の創始者となったという故事を思い起していました。漢籍に造詣の深い久米ならではの感想です。
さらに、もう一か所、久米が、中国の故事を連想していたのが、シエラネバダ山脈を通過し、絶壁をうがったトンネルを見た時のことでした。
ちょっと長くなりますが、引用しましょう。
「咽ぶような汽笛が車輪の響きと混ざり合いながら列車は疾走し、安らかに寝ている間に絶壁をうがったトンネルをくぐり抜け、山脈の背後に走り抜けた。まったく鬼神の業かと思われるほどである。李白が「蜀道難」という詩で、「地崩山砕壮士死 而後天梯石桟相鉤連」(地面が崩れ、山が砕けて、たくましい男たちが死んだ。その犠牲によって天にも通ずる梯子や、石のかけはしが鎖によってしっかりつなぎ合わされた)」と詠っている難工事といえども、このトンネル工事ほど難しくはなかったのではないか」(※ 前掲。p.129.)
久米ら一行は、眠っている間に、無事、トンネルをくぐり抜け、山脈の裏側に抜け出ることが出来ました。固い岩盤を切り崩して作ったトンネルのおかげでした。
だからこそ、久米は、この標高の高い山地にトンネルを掘って線路を通した労働者の労苦をしのび、李白の「蜀道難」に匹敵する偉業であり、まさに神業だと評したのです。
そして、工事の過程で、多くの犠牲者を出したに違いないことを想像し、このトンネル工事ほど難しい工事はなかったのではないかと感慨深く、感謝の気持ちを表しています。
確かに、シエラネバダ(Sierra Nevada)は、カリフォルニア州東部を縦貫する大きな山脈です。ロッキー山脈よりも高いこの山脈は、これまでずっと、東部アメリカから西海岸に進出するのに大きな妨げとなっていました。
上空写真を見てみましょう。
こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)
山また山が、どこまでも続いている様子がよくわかります。草木はほとんど生えておらず、岩山のように見えます。
■シエラネバダ山脈のサミット駅
実際、シエラネバダ山脈は、列車で走行するのも、想像以上に大変だったようです。高度が高く、勾配もきついので、自力走行が難しく、機関車に牽引してもらって、ようやく動くといったような有様でした。
久米は次のように書いています。
「シャディ・ランに着いた。ここはもう標高1300メートルほどの高地である。ここから鉄道の傾斜はますます急になり、機関車を増結して三重連で牽引した。(中略)山は重なって、路は険しいが、列車は二重窓をとざし、ストーブが暖気を送ってくるので春風の中で銀世界を眺めているようである」
酷寒の中、勾配のきつい路線の走行がいかに大変かを記す一方、久米は、車内には二重窓とストーブとあって、寒さから守られていることに感謝しています。そのような車内の快適さを、「春風の中で銀世界を眺めているよう」だと表現しています。
おそらく、どれほど苛酷な自然でも技術力によって克服し、人間にとって居心地のいい環境に作り替えていくアメリカ人の気力に感嘆していたのでしょう。
こうして列車は機関車を連結し、勾配のきつい路線を走行しましたが、5時間かけて、わずかに80キロメートル足らず進んだだけでした。列車の速度があまりにも遅く、一行がサミット駅に到着したのは、日も暮れていました。
降雪はやまず、使節団一行がここに到着した時、雪は深さ2,3メートルにも及び、駅舎は半ば雪に埋もれていました。それでも、この駅の中の小屋で、一行は昼食兼夜食を取ることができました。ようやく一息つくことができたのです。
久米は、サミット駅での酷寒の様子を、「客車を出ると、その寒さは皮膚を削るようである」と表現しています。
なにしろ、シエラネバダ山脈越えの最高地点が、サミット駅です。海抜2100メートルで、四方に高い山が連なっています。客車の外が凍えるような寒さだったのも当然でした。
当時の写真があります。
こちら →
(※ Wikimedia。Pond, C. L.撮影。図をクリックすると、拡大します)
これは、1870年に撮影されたサミット駅です。ちょっとわかりづらいかもしれませんが、左側に列車が停まっているのが見えます。使節団一行は、ここにあるような列車に乗ってやって来て、しばらく停車し、時を過ごしたのだと思われます。
調べてみると、セントラル・パシフィック鉄道が、当時、使っていた車両の写真がありました。ご紹介しましょう
こちら →
(※ Wikimedia。John B. Silvis撮影。図をクリックすると、拡大します)
これは、セントラル・パシフィック鉄道の機関車 113 号「ファルコン」です。ネバダ州アルジェンタで、1869 年 3 月 1 日に撮影されています。
車両の先頭に、2人の男性が座っているのが見えます。
左が、ユニオン・パシフィック(UPRR )の技師ジェイコブ・ブリッケンダーファー (Jacob Blickensderfer) で、右が、セントラル・パシフィック鉄道(CPRR)の 技師ルイス・メッツラー・クレメント (Lewis Metzler Clement) です。太平洋鉄道委員会の一員として、彼らが線路を点検しているときの写真です。
ちなみに、この「ファルコン」は、ニュージャージー州パターソンのダンフォース機関車工場で製造された機関車です。見るからに頑丈で立派な車両ですが、まだ手作りの要素が多々残っていて、人と機械が協力して、列車を走行させていた頃の車両だということがよくわかります。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CPRR_Locomotive_-113_FALCON)
さて、サミット駅で、雪かき用の機関車と連結してようやく、一行が乗った列車は、出発することができました。列車はその後、シエラネバダ山脈の中腹にあるトンネルに入っていきます。
やがて、固い岩盤を削って作られたトンネルを抜け、使節団一行は、眠っているうちに、シエラネバダ山脈越えをすることができました。
■鉄道工事と中国人労働者
セントラル・パシフィック鉄道は、1863 年にカリフォルニア州サクラメントから、建設をスタートさせ、険しいシエラネバダ山脈を越え、ネバダ州まで続く1,110 kmの新しい線路を敷設しました。
このシエラネバダ山脈越えのルートを発見し、標高を含む詳細な地形調査を行ったのは、セオドア・D・ジュダ(Theodore Dehone Judah ,1826 – 1863)でした。サクラメントバレー鉄道の主任技師であり、後にロビイストになり、その後、下院の太平洋鉄道委員会の書記官にも任命された人物です。
彼らが議会で、太平洋鉄道法案の通過に尽力した結果、1862年7月1日にリンカーン大統領が同法に署名したという経緯があります。この法案の可決によって、東からのユニオン・パシフィック鉄道、西からのセントラル・パシフィック鉄道が、大陸横断鉄道を敷設することが決定されたのです。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/First_transcontinental_railroad)
セントラル・パシフィック鉄道は、さまざまに検討したあげく、結局、ジュダが提案するシエラネバダ山脈越えルートを採用することになりました。そのため、初期工事のほとんどは、丘陵地帯の切断や発破、埋め立て、橋や架台の建設、トンネルの掘削と発破、シエラネバダ山脈上へのレール敷設などでした。峻厳な山脈ルートに不可避の難工事を強いられたのです。
どの工程を取ってみても、生命の危険を伴う苛酷きわまりない作業でした。
たとえば、シエラネバダ山脈を通る鉄道路線のために、セントラル・パシフィック鉄道は、15 本のトンネルを建設しなければなりませんでした。
トンネルを掘るには、まず、1 人が花崗岩の表面に削岩機を当て、他の 1 ~ 2 人が大きなハンマーを振り回してドリルを順番に打ち、ゆっくりと岩に進入させていかなければなりません。そして、ドリルがうがった穴の深さが約25 cm になると、黒色火薬を充填し、導火線を設置して、安全な距離から点火して、爆破するのです。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/First_transcontinental_railroad)
火薬よりも強力なのが、ニトログリセリンでした。これは、1846年にイタリア人アスカニオ・ソブレロ(Ascanio Sobrero,1812 – 1888)によって発明された起爆剤です。
セントラル・パシフィック鉄道では、トンネル建設中に、このニトログリセリンを大量に使用しました。安定供給を確保するため、自社でニトログリセリン工場を所有し、稼動させていたほどです。その工場は中国人労働者によって運営されていました(※ 前掲。URL)。
危険なニトログリセリン工場の運営もまた、中国人に任されていたのです。彼らは勤勉に働くので、経営者たちから信頼されていました。そして、中国人たちもまた、最も過酷で危険な条件であったにもかかわらず、真面目に、誠意を込めて働いていました。
その一端を示すスケッチがありますので、ご紹介しましょう。
イラストレーターのジョセフ・ベッカー (Joesph Becker, 1841-1910)が、中国人労働者たちの生活の一端をスケッチした鉛筆画です。
こちら →
(鉛筆、紙、サイズ不詳、1869年、Bancroft Library, University of California, Berkeley.図をクリックすると、拡大します)
雪が舞い散る寒い日、列車が通りかかると、辮髪姿の中国人が多数、小屋から出てきて、列車に挨拶しています。線路の傍に近づいている者がいるかと思えば、山の斜面から、手を振っている者、中には、帽子を振っている者もいます。トンネルを通り抜けてきた列車に挨拶しているのです。彼らの歓喜の声が、峻厳な山中から聞こえてきそうです。
中国人労働者にとって、トンネルを抜けて走ってくる列車を見ることこそ、唯一の楽しみだったのかもしれません。トンネルは彼らの苛酷な労働の成果であり、列車が無事、そこを通り抜けてくるのを見ることは、成果の確認でした。
危険と隣り合わせの労働と、深い疲労感に押しつぶされそうになっている日々の中で、列車をみることは、彼らにとって何にも代えがたい喜びだったに違いありません。
中国人労働者は、極寒の冬であれ、炎天下の夏であれ、苛酷な労働に耐えてきました。鉄道工事期間中に、爆発、地滑り、事故、病気などで多くが死亡していったといわれています。彼らは、言葉も通じない異国の地で日々、苛酷な労働を強いられ、時に負傷し、時に死亡し・・・、あまりにも多くの犠牲を払ってきていました。
先ほどもいいましたが、トンネルを建設するには、岩盤を爆破しなければならず、危険な作業が伴いました。そのため、セントラル・パシフィック鉄道は、中国人労働者を大量に雇用していました。そして、トンネル掘削工事では、作業効率を高めるために、爆破力の高いニトログリセリンを使用しており、多数の犠牲者を出していたのです。
久米はここを通過する際、トンネル工事の苛酷さを想像し、李白の詩、「蜀道難」を思い出していました。まさに、多数の中国人労働者の犠牲の下に、トンネルが完成し、列車はシエラネバダ山脈を越えることができたのです。
それにしても、なぜ、アメリカの大陸横断鉄道の建設に、白人ではなく、中国人労働者が尽力したのでしょうか?
■なぜ、中国人労働者なのか?
セントラル・パシフィック社は当初から、現場労働者を雇用し、維持することに苦労していました。というのも、せっかく採用しても、多くの白人が、鉄道建設よりもはるかに儲かる金や銀の採掘所に移ってしまうからでした。
鉄道労働者が不足してきたとき、経営者らが注目したのが中国人でした。
1848年から1855年にかけてのゴールド・ラッシュの時期に、多くの中国人がカリフォルニアにやって来ており、その後も住みついていました。大半は金鉱夫か、ランドリーかキッチンなどのサービス産業で働いていました。
経営者たちは、そんな中国人たちに目をつけたのです。
ところが、実際に彼らを見た経営者たちは、鉄道建設には向かないと判断せざるをえませんでした。当時、カリフォルニアに来ていた中国人の身体は小さく、華奢でした。鉄道工事の経験もなく、これでは、苛酷な労働をこなせないとみなされたのです。
英語もしゃべれませんから、現場監督の指示を正確に受け取れるかどうかも懸念されました。身体能力、経験、意思疎通の面で、トンネル建設工事などの危険な作業を任せられないと思われたのです。
経営者たちは労働力不足に悩み、何度も求人広告を出しました。ところが、白人からの応募はわずか数百しかありませんでした。そこで、仕方なく、中国人労働者の雇用に踏み切ったのです。
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-chinese-immigrants)
こうして、セントラル・パシフィック鉄道の線路や橋、トンネルなどの建設は、中国からの移民労働者によって行われるようになりました。熟練した白人監督者の指示の下、現場労働者として中国人が大変な作業を担当するのです。
1865 年後半のセントラル・パシフィック社では、約3,000 人の中国人と1,700 人の白人が雇用されていましたが、中国人は肉体労働者として低賃金で働き、白人はほぼ全員が監督職や熟練技能職で、中国人よりも高い賃金で、楽な労働内容で働いていました。
圧倒的に不利な条件であったにもかかわらず、中国からは次々と、労働者が流入してきました。
建設作業員は12,000人もにおよぶ中国人移民で構成され、1868年時点では全体の80パーセントが中国人だったといわれています(※ Wikipedia)。
1868年といえば、バーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)が成立した年でした。
■バーリンゲーム条約
バーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)とは、清国の使節団の特命全権大使であったバーリンゲーム(Anson Burlingame, 1820 – 1870)が、アメリカ国務長官ウィリアム・スワード(William Henry Seward,1801 – 1872)と交渉し, 1868年7月28日にアメリカと締結した条約を指します。
1858年に締結された天津条約を拡張する形で結ばれたもので、8条から成る「天津条約追加條款」です。
その内容は、中国からの移民制限の緩和を目的として、いくつかの基本原則を確立し、中国の国内問題へのアメリカの干渉を制限するというものでした。
(※ https://history.state.gov/milestones/1866-1898/burlingame-seward-treaty)
画期的なのは、中国人のアメリカへの入国と旅行を自由にできる権利を約束し、最恵国待遇原則に従って、アメリカ国内の中国人の保護を認める措置が含まれていたことでした。
さらに、両国の国民に教育と学校教育への相互アクセスを認めており、これらの条項は両国間の平等の原則を強化する役割を果たすものでした(※ 前掲、URL)。
1868年に描かれた、バーリンゲーム使節団の肖像画がありますので、ご紹介しましょう。
こちら →
(※ 出典:Library of Congress, LC-USZ62-42697、
https://www.foreignaffairs.com/articles/united-states/2017-11-23/burlingame-mission
図をクリックすると、拡大します)
この図の中央で、洋装で立っている髭を生やした男性が、特命全権大使のバーリンゲームです。そして、前列右から2番目が正使で特命全権大使の孫家毅、3番目がやはり正使で特命全権大使の志剛です。
清朝政府は、バーリンゲームを使節団の特命全権大使に任命しましたが、それと同格で、役人であった孫家毅と志剛を参加させました。アメリカ人バーリンゲームの交渉活動を監督するとともに、彼らにも外交交渉の経験を積ませるためでした。
実際、彼らは、わずかな機会をとらえて、欧米との外交交渉術を学び取ったようです。訪露中に、バーリンゲームはサンクト・ペテルブルグで急逝してしまいましたが、その後の外交は、志剛がリーダーとなって、それまでと遜色のなく、対応することができたといいます。
(※ 矢久保典良、https://www.jacar.go.jp/iwakura/column/index.html)
バーリンゲームのおかげで、清国に有利な条約をアメリカと結ぶことができましたし、清朝の役人が外交交渉術を学ぶ機会を持つこともできました。
清国政府が、初代アメリカ駐清公使であったバーリンゲームを、遣欧米使節団の特任全権大使に任命したのは、賢明だったといわざるをえません。
もっとも、その効果は長く続きませんでした。
■バーリンゲーム条約の効果と失効
経営者たちからは、中国人は、従順で信用できる労働者だとみなされていました。しかも、安い賃金で大勢、集めることができるので、当初、この条約は歓迎されていました。中国人もまた、この条約があったからこそ、一定の保護は受けられると思い、安心してアメリカにやって来たのでしょう。
国政調査によれば、中国からの流入人口は、1861-1870間が64301人、1871-1880間が123201人、そして、1881-1890間が61711人でした。10年単位で、流入人口の推移をみると、バーリンゲーム条約が結ばれた後の10年間に、流入人口がほぼ倍増していることがわかります。
(※ 越川純吉、「アメリカにおける中国人の法律上の地位」、『中京法学』17巻1号、1982年、pp.59-63.)。
不法入国もあるでしょうから、必ずしも正確な人数とはいえませんが、この30年間の人口の推移を見ると、明らかにバーリンゲーム条約の効果とその喪失をみることができます。
一方、この条約の影響は、1870年代に清国からアメリカへ留学生が派遣されたことになった経緯にも見ることができます。
バーリンゲーム条約の締結後、清国から官吏級の若者たちが40名、アメリカで大学教育を受けることになりました。
清国は当初、彼らをイギリスに留学させる予定だったそうです。ところが、当時、アメリカ総領事であったスワード(George Frederick Seward, 1840 – 1910)の助言によって、留学先をアメリカに変更したといいます。
(※ 黄逸、「南北戦争直後のアメリカから見た清日両国の使者」、『関西大学東西学術研究所紀要』巻53、2020年、p.130.)
アメリカの方がイギリスよりも健全な関係を築けると、清国政府は判断していたのかもしれません。
黄氏は、「砲艦政策を通じて清国市場独占や植民地の獲得を目指したイギリス」よりも、「英清間の一連の外交的かつ軍事的衝突において中立の立場をとり、貿易をきっかけに清国への影響力を構築していったアメリカ」の方に、清国人は好意的感情を持っていたと記しています。
さらに、イギリスは、主としてアヘンを清国に輸出し、清国からは茶を輸入という貿易内容でした。清国が禁止しているインド産アヘンを、イギリスは公然と輸出してきていたのです。害悪以外のなにものでもありませんでした。
一方、アメリカは、白綿布を清国に輸出し、清国からは茶を輸入するという内容でした。清国人がイギリスよりもアメリカに好意的なのは、貿易内容がより健全なものだったからでもありました(※ 前掲。pp.125-126.)。
清国政府は近代化を進めるため、エリート層を欧米で学ばせる必要性を感じていましたが、それまでの関係を踏まえ、産業革命を成功させたイギリスではなく、イギリスからの独立を勝ち取り、進取の気性に富むアメリカで学ばせようとしていたのです。
ところが、この時点ですでに、アメリカでは中国人排斥の動きが顕著になりはじめていました。
興味深いことに、1872年8月29日付の“Daily Evening Bulletin”には、‘China following Japan’という見出しの記事の中に、次のようなことが書かれていました。
「これらの若者たちはそれぞれ、不本意ながらも、やがて帰国することになるだろうが、確実に、国際交流の価値と、アジア最大の国を排斥した愚行を伝える伝道者になるだろう」(※ 前掲。p,130.)
実際、その10年後の1882年5月6日、最初の「中国人排斥法」(Chinese Exclusion Act)が、議会を通過し、チェスター・A・アーサー(Chester Alan Arthur, 1829 – 1886)大統領がこれに署名しました。この法律によって、中国人労働者の米国への移民は10年間、禁止されました。
そればかりではありません。すでに入国していた中国人に対しても新たな要件が課されました。 アメリカを出国した場合、再入国するには証明書を取得しなければならなくなったのです。こうして、アメリカ史上、最も重い制限が、中国人に課せられることになりました。(※ https://www.archives.gov/milestone-documents/chinese-exclusion-act)
バーリンゲーム条約からわずか4年ほどで、中国人の移住が禁止されてしまったのです。条約がいかに当てにならないものか、国同士の力関係、その時の経済状況などによって、容易に変わってしまうことの一例でした。
バーリンゲーム使節団一行と同様に、不平等条約の改正のための準備交渉に訪れていた岩倉使節団は果たして、この一件をどのように感じていたのでしょうか。
■不況下で発生していた襲撃事件
久米は、中国人労働者について、次のように述べています。
「サンフランシスコ近辺の労働賃金はきわめて高いのだが、弁髪の連中がごく安い賃金で仕事を引き受けてしまうので資本家としてはおおいに利潤が上がり、開発も進められた。しかし、そのおかげで白人種は仕事の口を奪われ、大きな不満が白人側から巻き起こって、とうとう清国人を追放せよという議論が沸騰するようになった」(※ 前掲。p.109.)
なぜ中国人労働者が騒動を引き起しているかについて、久米は、低賃金で仕事を引き受けるからだと分析しています。
低賃金で雇えば利潤が増えるので、経営者は中国人労働者を採用したがります。ところが、その分、他の労働者には仕事がまわらず、白人労働者の不満を買っているというのです。つまり、騒動の原因は、中国人労働者が白人労働者の仕事を奪っているからだと指摘しているのです。
単なる旅行者にすぎなかったにもかかわらず、久米は、きわめて的確な状況分析を行っています。そればかりか、資本主義の原理のようなものにまで思考が及んでいることに気づきます。
中国人労働者なら低賃金で雇用できるという状況が、経営者には、コストをカットして利潤を増加させるメリットをもたらし、白人労働者には、仕事を奪われる、あるいは、中国人労働者と同程度の賃金にまで引き下げられるデメリットをもたらします。
このメカニズム一連の騒動を引き起していると、久米はみているのです。経営者側も雇用者側も自己利益で動く限り、このメカニズムは解消のしようがありません。衝突を繰り返し、やがては、法的規制にまで及んでしまう・・・、といった流れが、「中国人排斥法」(1882年)成立の背景にあるのでしょう。
それでは、アメリカ政府や企業は、中国人排斥現象に対してどのような態度を示しているのでしょうか。それについて、久米は、次のように分析しています。
「州政府では、しばしば追放策を協議してきたが、民主国の原則からして、そのようなことは実行できないという論理がある。まだ企業の側からすると、安い労働を駆逐しては具合が悪いのである。あれやこれやの事情があって、清国人追放は行われないということになって歳月が過ぎた」(※ 前掲。p.109.)
住民からの突き上げで、州政府もこれについて検討してきたようです。
ところが、行政の立場からすれば、大所高所からの視点を外すことはできず、民主主義を掲げて独立した国家として、排斥運動に手を貸すことはできないという立場を取ってきました。
一方、企業側は、資本の論理からいって、中国人労働者を排斥したくないというのが本音でした。結果として、使節団一行が滞在した頃は、久米が述べているように、「清国人追放は行われないということになって歳月が過ぎた」のです。
問題が深刻化したのは、1873年に始まった世界的な大不況からです。
堀井氏は、岩倉使節団が訪米した直後あたりに、さまざまな排斥運動が勃発したことを説明しています。
「1871年にロサンゼルスでバーリンゲーム条約に反対する暴動が発生し、中国人22名が殺された事件を初めとして、反中国人暴動はカリフォルニア各地から他州へ拡大していった。ほぼ西部のすべての州の60地区以上で反中国人暴動が勃発したが、中国側の史料は、これらの暴動で中国人200人余りが殺されたことを伝えている」
(※ 前掲。p.24.)
排斥運動は、それ以後も継続的に発生しています。有名なものでは、1877年7月にサンフランシスコの暴動、1885年9月のワイオミング州ロックスプリングでの事件、等々があります。中華街や鉄道会社、船会社が襲撃され、軍隊まで出動したケースがあれば、武装した白人集団によって中国人居住区が襲撃されたケースもありました(※ 前掲)
いずれも当時、世界を襲っていた大不況のさなかの出来事でした。不況で仕事にあぶれた人々が狂暴化し、暴徒化し、中国人移民に対する襲撃事件を引き起す結果になっていたのです。
一連の事件は、移民労働者として他国で働くことの意味を問いかけているように思えます。
1882年の中国人排斥法は10年間の時限立法でしたが、1892年の更新を経て、1902年には恒久的な措置として実施されることとなりました。これらの排斥法が解除されたのが、1943年12月17日に制定、「マグヌソン法」(Magnuson Act)として知られる「中国人排除廃止法」(The Chinese Exclusion Repeal Act of 1943)です。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Magnuson_Act)
勤勉な中国人労働者の後を引き継いだのが、日本人でした。日本人の場合、下層の労働者に留まらず、事業を起こす者、市場向け野菜栽培業者となった者もいましたが、後に、「1924年移民法」((Immigration Act of 1924)で排除の対象となりました。この時は、東アジア全体からの移民も禁じられています。
使節団が訪米した頃、アメリカ経済はまだ好況でした。1868年から1873年の間に国内で総延長53,000 kmもの新線が敷設され、鉄道に対する投資は過熱していました。その後大不況に転じるとは、使節団一行の誰も想像しなかったに違いありません。
(2023/9/8 香取淳子)