ヒト、メディア、社会を考える

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程② 継承者・平岡仙之助

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程② 継承者・平岡仙之助

 前回、埼玉県入間市の繊維業者・平岡仙太郎についてご紹介しました。新規にレース事業を立ち上げ、技術開発や人材育成に力を注いで地場産業を活性化させる一方、地域社会を守り、住民の団結を図るため、さまざまな貢献をしてきました。

 ところが、その平岡仙太郎が1939年、45歳の若さで亡くなってしまったのです。果たして、「平仙レース」はどうなったのでしょうか。今回はその後の展開を、展示資料等を踏まえ、見ていきたいと思います。

■仙太郎没後の「平仙レース」

 仙太郎は、亡くなる前年の1938年、妻に先立たれていました。家には17歳の長女を筆頭に5人の子供が残され、長男の仙之助はまだ12歳でした。戦時色が濃くなり始めていた頃、子供たちが残されたのです。

 仙太郎の弟の平岡良蔵が後見人となって、「平仙レース」の経営を支えることになりました(※ 入間市文化創造アトリエHP、『織物の歴史と源流』)。

 1939年といえば、日本の同盟国であったドイツがポーランドに侵攻し、第2次大戦が勃発した年です。当時、日中戦争はすでに泥沼化しており、日本軍は南進を企てていました。国内では1940年10月12日に大政翼賛会の発会式が行われ、戦争を支え、推進していくための組織が作られました。社会全体が戦時体制に向けて整備されつつありました。

 翌1941年には東条英機内閣の下、12月10日に日米の戦いの火ぶたが切って落とされました。いわゆる太平洋戦争が勃発したのです。戦線は拡大し、軍事が優先されるようになっていきました。

 「平仙レース」も例外ではありません。1943年、工場転用命令を受け、綿布を織っていた狭山の工場は売却させられてしまいました。

 そんな折、一高・東大卒の平岡雅雄が、その秀才ぶりを見込まれて、仙太郎の長女の婿になりました。

 それを契機に、1943年から「平仙レース」の経営は娘婿の平岡雅雄が引き継ぐことになりました(※ 湯澤規子、「都市近郊農山村における高度経済成長期という体験」『国立歴史民俗博物館研究報告』第171集、p.46, 2011年12月)。

 彼は次々と、難局を乗り切っていきます。

 たとえば、当時、本社工場も売却せざるをえなくなっていましたが、当局に働きかけて、自家転用の許可を受け、1944年からは平仙航空精密製作所として操業しています(『わが町の織物』、2016年、p.48.)。

■戦後の復興期

 こうして家族の力で戦時下をしのぎ、1945年8月にようやく終戦を迎えました。ところが、その後の7年間というもの、日本はGHQの統治下に置かれました。

 GHQにとって喫緊の課題は、焦土と化した日本を立て直し、自立していけるよう経済活動を復興させることでした。復興促進策の先兵として着目されたのが、繊維産業でした。当時、生糸の生産なら、原料を自給することができましたし、日本の繊維産業は戦前、相当の輸出力を持っていたからです。

 そこで、まず、生糸の生産が開始されました。続いて1947年、GHQが綿紡織設備の復元を認めたので、綿業の再建が始まりました。さらに、化繊の生産も年産15万トンまでは認められるようになり、化繊工業の再建も軌道に乗りました(※ 地引淳「繊維産業―復興・発展期から調整・改革期へ」、『繊維機械学会誌』Vol.50, No.7, pp.376-377. 1997年)。

 そうした中、後見人であった平岡良蔵が工場を分離し、飯能に移転しました。1948年のことでした。レース機械12台と共に、多くの技術者も退職していきました。本社工場に残されたのはわずかの機械と従業員でした(※ 入間市文化創造アトリエHP、『織物の歴史と源流』)。

 幸い、残った従業員の中に、最盛期のレース技術を身につけた女子従業員が20人ばかりいました。残された機械も錆びついていましたが、疵はありませんでした。それらを整備して使えるようにし、熟練者を中心に、レース最盛期の作業を逐一、再現していきました。こうして予想外に早く、復興することができました。かつて「質の平仙」といわれていた時のような精巧なレースを作り出すことができたのです(『わが町の織物』、2016年、p50)。

 物資が不足していただけに、質の高いレースは女性たちに装いの夢と楽しみを与えました。復興の準備が整い、繊維産業全般が活気を帯び始めていました。そんな中、1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。大きな需要が発生したのです。

 国連軍の要請で日本は食糧、衣料、鋼材などの調達を求められ、軍事関連物資の特需が発生しました。土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどの繊維物資が大部分を占めました。「ガチャマン景気」といわれた朝鮮特需は、朝鮮戦争の勃発から1953年7月の休戦協定まで続きました。(※ Wikipedia 「朝鮮特需」)。

 入間地域の繊維業者もこの朝鮮特需にあやかり、徐々に、復興していきました。戦前は巾の小さな小巾織物を生産していましたが、戦後は時代のニーズに合わせ、巾の広いシーツなどの広巾織物に転換していきました。復興期の国内ニーズにも対応していくことによって、順調に生産量を伸ばすことができました。

■後継者としての仙之助

 仙太郎の長男として生まれた平岡仙之助(1927-1966)は、周囲に見守られ、期待を担いながら育っていきました。経歴を見ると、1948年、まだ高校生の時に、レース工業会理事に就任しています。そして、朝鮮特需が発生していた1951年には、大学生でありながら、所沢織物商工協同組合理事に就任しています(『わが町の織物』、2016年、p58)。

 仙之助は若い頃から、仙太郎の長男として、レース事業者、織物業者としての見聞を広め、知己を得る機会を与えられていました。いわゆる帝王教育を受けていたのです。

 浦和高校を経て、1953年3月に東大工学部を卒業すると、同年4月1日には家業を継承し、「平仙レース」工場の主宰者となりました。もうすぐ26歳になろうとする時でした。さらに、同年10月には日本繊維機械学会関東支部評議員に就任しています(前掲)。

 日本繊維機械学会は1948年に創設され、産官学協同を基調とした活動を展開している学会です。

こちら → https://tmsj.or.jp/overview/

 卒業を待ちかねていたかのように、仙之助は役職に就いています。おそらく、産官学を問わず、繊維業界各方面から期待された俊才だったのでしょう。成長を牽引できる人材が必要でした。

 その期待に応えるかのように、仙之助は1954年5月25日から9月19日までレース工業の視察のため、欧米各国を訪問しています。そして、1956年3月5日、「平仙レース」を株式会社に改組し、代表取締役に就任しました(前掲)。

 当時、後進諸国の繊維産業が発展しつつありました。日本の繊維事業者としてはまず、欧米の繊維産業の最新技術、経営動向、市場動向を把握し、改良すべきところは改良していく必要があったのでしょう。

 仙之助は帰国後1年数か月後に、事業形態を株式会社に改組しているのです。欧米への視察で得たものは、単にレース技術の最新動向だけではなく、組織の在り方、海外市場の動向など多岐にわたっていたに違いありません。彼は大幅に組織改革をし、より効率的に高品質のものを生産できる体制に構築し直しています。

 父親に似て仙之助は、進取の気性に富む努力家でした。

 さて、「平仙レース」展では、仙之助の写真が展示されていました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 使命感と緊張感に溢れた表情、そして、ひたむきな眼差しが印象的です。果たして、いつ頃、撮影された写真なのでしょうか。

 展示写真を撮影する際、アクリル面に背景が映り込み、画面が不鮮明になってしまいましたが、それでも、仙之助が着用しているスーツの生地が精巧な織りのものだということはわかります。

■大きく事業を伸ばした仙之助

 事業を継承した仙之助は特需後も順調に業績を伸ばしました。1954年、1959年のレース生地生産量を見ると、埼玉県は全国の40%以上を占め、いずれも1位でした。この5年間で3倍にも達するほどの勢いです(※ 湯澤規子、前掲。p.46.)。

 このように、「平仙レース」は牽引車として、地元の繊維産業の発展にも大きく貢献していました。それだけではなく、同業他社の工場新設にも助力し、支援していました。

 たとえば、郡是製糸(後のグンゼ)がレース工場を設立した際、「平仙レース」から、1958年から3年に亘って、延べ8800人が指導に赴きました(※ 入間文化創造アトリエ・アミーゴHP、前掲)。

 実際、郡是製糸は、1957年に亀岡工場を新設し、刺繍レース事業を開始しています(※ https://www.gunze.co.jp/corporate/history/)。

 日本で初めて刺繍レース工場を創設したのが、「平仙レース」でした。郡是製糸としては、国内で先行する「平仙レース」に頼るしかなかったのでしょう。請われた仙之助は快く、自社の技術者を派遣し、技術供与に応じました。郡是製糸はいってみれば、「平仙レース」の競合相手になるわけですが、それでも支援を惜しむことはなかったのです。

 平岡仙之助は繊維事業の復興に際し、欧米に倣って、新たな商品開発と品質の高度化、そして、徹底的な品質管理を図りました。それをただ自社の発展につなげるだけではなく、地元の繊維産業、さらには、それらの情報を共有し、日本の繊維業界全体の底上げを図っていたことがわかります。

 生来の気質なのでしょうか、それとも、復興期の事業者だからでしょうか。仙之助は、積極的に新しい知識や技術を吸収し、それを自社事業に反映させるだけではなく、同業他社ともそれらをシェアし、共に発展していこうとしていました。

 あるいは、繊維業界や地域社会に貢献してきた仙太郎の気質を受け継いでいたからでしょうか。いずれにせよ、仙之助のそのような姿勢が結果として、「平仙レース」の事業を大きく発展させていきました。

■長者番付にみる事業の栄枯盛衰

 仙之助の繊維事業に対する熱意と努力はしっかりとその業績に反映されていました。たとえば、1955年度の長者番付を見ると、「平仙レース」はなんと7位に食い込んでいます。全国上位10位に入っているのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 10位のうち上位半数は後年、日本経済を牽引していく松下電器などの家電産業で占められており、炭鉱、繊維、合板、鉱業がそれに続きます。これらの産業は1950年から1952年までは上位を占めていました。

 興味深いことに、わすか2,3年で炭鉱、鉱業、繊維といった産業が減少し、家電産業にその地位を明け渡しているのです。1955年という年はどうやら、日本の産業構造の変化を示す分岐点のようにも思えます。

 1953年に松下電器と三洋電機がトップテンに入り、1954年には三洋電機が1位、松下電器が2位、そして、1955年には松下電器が1位、三洋電機が3位といった具合です。産業別に長者番付の推移を見ると、1950年代前半から半ばにかけてのこの時期は、戦後復興から経済成長に向けた過渡期であったことが示されています。

 それにしても、「平仙レース」が他の基幹産業に伍して、堂々と1955年度長者番付トップテンに入っていることに驚きました。

 繊維産業が好調だった時期だとはいえ、「平仙レース」が繊維業界トップでランクインしているのです。仙太郎の事業を引き継いだ仙之助がいかに積極果敢に技術開発、品質管理、経営刷新に取り組んできたかが示されています。

 この年、昭和天皇が工場を視察されました。陛下に付き添って説明する仙之助に、「この産業は輸出に重要な産業であるから今後も努力するように」とお言葉を掛けられたといいます(『わが町の織物』前掲、p.58)。

皇族方も視察されたようです。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 上手に撮影できませんでしたが、当時の雰囲気は掴めると思います。さまざまな経験を積んできたせいか、仙之助は成功した事業者らしく、先ほどの写真よりもはるかに堂々とした印象です。

 当時、繊維業界の輝かしい業績を牽引したのは「平仙レース」でした。1958年時点で、レース機械44台、従業員501人、生産量350万ヤード(うち輸出量200ヤード)の規模だったといいます(※ 入間文化創造アトリエ・アミーゴHP、前掲)。

 ちなみに、『婦人公論』1964年9月号では、「平仙レース」の輸出先は、東南アジア、ヨーロッパ、中近東、中南米、ニュージーランド、スイス、西ドイツだったと記載されています。

 さらに、文化出版局が発行する『装苑』の1961年7月号では、「オシャレを作る社長」として、平岡仙之助は取材を受けています。レース事業者として注目されるばかりか、ファッション文化の担い手としても注目されていたのでしょう。

 復興期を経て、経済成長期を迎えていた女性たちにとって、「オシャレ」というキーワードは訴求力がありました。装うことに夢や希望を添えて、未来を思い描かせる力があったのです。

 おそらく、仙之助自身、デザインやファッションに興味があったのではないかという気がします。

■桑沢洋子デザインの制服

 展示写真の中に、平岡仙之助が従業員たちと一緒に撮影されたものがありました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると拡大します)

 やや緊張した面持ちの仙之助と、従業員たちの初々しい表情が印象的です。白い丸襟の制服を着た彼女たちは清楚で、しかも、とてもオシャレに見えます。まるでどこかの私立女子校の生徒のようです。

 この制服に白い帽子をかぶって、彼女たちは働いていました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると拡大します)

 工場で働く労働者とは思えないほど、優雅で和やかな雰囲気が漂っています。

 実はこの帽子と制服は、桑沢洋子がデザインしたものでした。彼女は1954年、ドイツの造形学校バウハウスの影響を受けて、東京・青山に桑沢デザイン研究所を設立しました。「ふだん着のデザイナー」と名乗り、生活のためのデザインを提唱した先駆者でした。

 当時、桑沢洋子は学生服や企業のユニフォームなどを数多く手がけていました。

 仙之助は、従業員の制服のデザインをわざわざ桑沢洋子に依頼していたのです。そのことからも、仙之助のこだわり、幅広い知識、理想を追求する姿勢、美的センスなどを読み取ることができます。単なるレース事業者を超えた美的センスとみずみずしい感性の持ち主だったといえるでしょう。

 当時の女子中学生たちが、「平仙レース」に就職したいと強く願っていたのも無理はありませんでした。

■『むつみ』にみる従業員の気持ち

 平仙レース工場には『むつみ』という社内報がありました。1950年に創刊され、1968年に至るまでほぼ毎年、1冊ずつ刊行されていました。創刊時、仙之助はまだ大学生でしたから、この社内報の発刊はおそらく、平岡雅雄の発案によるものでしょう。

 そういえば、平岡雅雄は1943年、長女の婿として平岡家に来た時の様子を次のように述べています。

 「平岡の家は、明治以来の典型的な機屋の構造で、昔着尺を入れた倉は大きくて立派でしたが、仙太郎在世中から書面の類は全くなく、すべて仕事に直結した生活の匂いが残っていました」(『わが町の織物』、前掲。p.50)

 江戸時代から代々、織物業を営んできた平岡家では作業工程にしろ、何にしろ、書面で記録して残すという習慣がなかったのでしょう。ところが、そのようなやり方では、多数の従業員を雇用し、機械を使って作業を進めていく近代的な生産工程はうまく機能しません。平岡雅雄はおそらく、そのような慣行は改善しなければならないと考えたのでしょう。

 社内報『むつみ』の内容は、①会社経営側からの寄稿、②社内各組織からの連絡事項および寄稿、③従業員からの寄稿、等々で構成されていました。特に多かったのが従業員からの寄稿でした(湯澤規子、前掲。p.45.)。

 彼女たちはいったい、どのような気持ちで「平仙レース」を志望し、働いていたのでしょうか。従業員の寄稿を見てみることにしましょう。

 たとえば、1952年に刊行された『むつみ』3号を見ると、入社試験を振り返って、次のような感想が寄せられています。

 「(前略)試験場はもう大勢の受験者でいっぱいでした。(中略)あのきれいな工場で働いている自分を想像したり、その反面考えまいとしても不合格でがっかりしている自分を想像したりしては、なかなかねつかれない夜も何度もありました」

 「私はどうしても第一希望であるあこがれの“平仙”に入りたかった。不安のうちに入社試験の日になった」

 これらを見ると、どうやら、「平仙レース」は、当時の中学生たちにとって憧れの職場だったようです。いずれも、仙之助が工場の主宰者になる前年の記録です。

 当時、中学校を卒業した女性の採用倍率は5倍で、高等学校の試験よりも難しいといわれていました。従業員の年齢は15歳から27歳ぐらいまで中心で、彼女たちは主に工場でレースの生産に従事しました。1台のレース機械に3人の女性従業員が配属され、男性は主に機械類の保守点検や総務を担当していました(※ 湯澤規子、前掲。pp.47-48.)。

 近隣の農山村の女子中学生にとって、近代的な設備の「平仙レース」は憧れの職場でした。それだけでなく、そこで働いていたというキャリアは、彼女たちが将来、結婚する際の手堅い保証にもなっていました。寮生活や課外活動を通して、教養やマナーなども学べるようになっていたからでした。

 「平仙レース」は、商品の品質が高く、ブランドとして幅広く認知されていただけではなく、会社そのものも、女性にとってはブランド化していたのです。

 さらに、仙之助は従業員のために画期的なことをしていました。

■会社内に浦和高校通信部を設置

 展示資料によると、1962年、平岡仙之助は従業員のために、県立浦和高校通信部・仏子共同学習所を会社構内に設立しています。

 全国で初めての通信制高等学校でした。女子従業員たちは作業の終わりか、作業の始まる前に校舎に通う仕組みになっていました。校舎は工場から離れた静かなくぬぎ林の中に建てられていました。4年の過程を終了すると、普通高校と同じ卒業資格が授与されました。

 浦和高校から12名の教師が来て、週4日、授業が行われていました(『わが町の織物』、前掲、p.48.)。

 仙之助は欧米を視察してきただけに、従業員に対する教育の重要性を認識していたのでしょう。高度な機械を導入し、高品質の製品を生産し続けるには、従業員に新しい知識や技術を習得していくための基礎的な学力が必要でした。働きながらも学び続けられるような環境を構内に整備したのです。

 「平仙レース」が導入した学びながら働ける環境の設定は、当時、画期的な試みだったのでしょう。1967年、昭和天皇・皇后が訪問されて、彼女たちの学習風景をご覧になっています。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 昭和天皇は二度も「平仙レース」を訪問されています。戦後の日本経済を立て直し、世界に羽ばたく繊維事業のモデルとしてブランド化されていったからではないかと思います。「平仙レース」は当時、それだけ日本にとってかけがえのない存在だったことがわかります。

■ジェントルマン・平岡仙之助

 さて、1967年に再び、天皇陛下が訪問されたというのに、残念ながら、仙之助は天皇陛下に付き添って説明することはできませんでした。その前年の1966年8月19日に39歳の若さで亡くなっていたのです。交通事故でした。

 あまりにも若く、そして、不慮の死に多くの人々が嘆き悲しみました。

 一連の業績を称え、平岡仙之助は内閣府から従六位に叙せられ、勲五等瑞宝章を授与されました(『わが町の織物』、前掲、p.59)。

 展示資料によると、平岡仙之助は経営者として東奔西走しながら、西武町商工会長、消防団長を務めています。父親の仙太郎と同様、仙之助もまた地元産業、地域社会の安全にも大きく貢献していたのです。

 二人とも、先見の明があり、進取の気性に富み、そして、度量の大きな人物でした。時代の動向を見据えて、最新技術を取り込み、質のいい製品を提供することに力を注ぐ一方、地域に根付いた事業展開をし、地域社会への貢献を怠りませんでした。地元で代々、裕福な家庭に育ったからこそ、ごく自然に、利他的精神が発揮されたのかもしれません。

 ふと、「ノブリス・オブリージュ」という言葉が脳裏をよぎりました。

 そういえば、仙之助は従業員のために桑沢洋子デザインの制服を用意し、構内に通信制高校を設立していました。従業員が夢を抱いて働いて学べる環境を整備していたのです。家族の一員のように従業員を捉え、彼らの生活や人生への責任を感じていたからにほかなりません。

 一連の事業を見てくると、仙之助には事業者としての品格が感じられます。教養があり、美意識に秀でていたからこそ、彼は、従業員の教養を高める必要を感じたのでしょうし、美意識を涵養する必要を感じたのでしょう。若い頃から帝王教育を受けて、見聞を広め、学識を深めてきた仙之助ならではの取り組みでした。

 仙之助はまさに、ジェントルマンでした。

 利益追求を当然視し、平気で従業員を使い捨てにする昨今の風潮を苦々しく思っていただけに、従業員を重視した彼の経営姿勢が眩しく見えてきます。

 当時は、人と人が繋がり合い、人と土地が結びついて経済活動が展開されていました。だからこそ、真面目に努力し、他人を思いやり、節度を持って生きた人間が報いられてきました。それを古き良き時代だったと片づけてしまっていいのでしょうか。

 改めて従業員の白黒写真を見てみると、素朴で初々しい表情の中に、未来を信じ、夢を抱いて生きることの幸せが感じられます。機械に使われるのではなく、人と人が繋がり合って、機械を使い、より良い生活を目指していた時代が限りなく麗しいものに思えてきました。

 AI時代を迎えた今、技術は人の活動を補佐する以上の存在になってしまいました。収集したデータに基づき、AIが判断をし、意思決定をするようになりつつあります。技術は際限なく進歩し、まるでがん細胞が増殖して人を死に追いやるように、進歩し続ける技術が人や社会の諸機能を蝕み、やがて機能不全に陥らせてしまうのではないかと懸念されます。

 果たして、技術の進歩は人の幸せに繋がっているのでしょうか。

 一斉にAI時代に向かって走り始めている今、人間の活動を補佐する程度の技術を基盤にしたオルタナティブ社会が一部に存在してもいいような気がしています。(2022/4/28 香取淳子)

«