ヒト、メディア、社会を考える

2015年

シンガポール国立博物館の来歴と「SINGAPURA: 700 YEARS」

■シンガポール国立博物館

シンガポール国立博物館は、1849年にラッフルズ・インスティテューションの図書館の一部として設置されたのがその起源だといわれています。ですから、元々の名称はThe Raffles Library and Museumでした。英領シンガポールの時代に図書館に併設して博物館が作られたのです。

シンガポール国立博物館に行くと、ちょうど、「SINGAPURA: 700 YEARS」(2014年10月28日から2015年8月10日)が開催されていました。この展覧会は序章の「シンガポールの考古学」ゾーンと「古代シンガポール」から現在のシンガポールに至る5つのゾーン、合計6つのゾーンで構成されていました。シンガポールの歴史を知るまたとない機会です。

そこで、今回は趣向を変えて、「SINGAPURA: 700 YEARS」に沿ってシンガポールの歴史を辿りながら、シンガポール国立博物館の来歴をみていくことにしましょう。

■SingapuraからSingaporeへ

古代のシンガポールは土着民から「海の町」を意味するTemasekと呼ばれていたようです。それが、14世紀になると、Singapuraという呼び名が定着してきたといわれています。その頃を起点とすれば、現在は「シンガポール700年」になるのでしょう。とはいえ、近代以前のシンガポールはまだ判然としないことも多いようです。

こちら →detail_img

Singapura 700 years, パンフレットで使われている画像です。

近代シンガポールの礎が築かれたのは1819年のことでした。当時、シンガポールはまだ上の写真のような小さな漁村でしかありませんでした。ところが、シンガポールをはじめ東南アジアの海域では、ヨーロッパ諸国の植民地開拓者たちが交易の拠点を求めて、熾烈な争いを展開していました。インドと中国の間にはさまれたこの海域一帯が経済的な重要性を持っていたからです。

イギリス東インド会社福総督であったラッフルズもその一人です。彼は単なる漁村にすぎなかったシンガプーラの地政学的重要性に着目しました。しかも、そのときオランダはまだシンガポールに手を付けていませんでした。これ幸いとばかりにラッフルズは、当時、この地を支配していたジョホール王国と早々と友好条約を締結しました。そして、名称もSingapuraから英語風のSingaporeに改め、次々と都市化を推進していったのです。

「Singapura: 700 years」では、「植民地シンガポール(Colonial Singapore)」と題されたコーナーでこのあたりの事情が扱われています。

ラッフルズは一度シンガポールに立ち寄っただけで、ここが交易の需要な拠点になることを見抜いたのです。すばらしい慧眼の持ち主だったとしかいいようがありません。そして、彼はさっそく商館建設の許可をもらうために、ジョホール王国と交渉しました。その後、シンガポールはラッフルズの見立て通り、交易拠点として重要な役割を果たしました。そればかりか、マレー半島で産出されるゴムなどの天然資源の積出港としても発展していきました。

そのラッフルズがシンガポールの金融街を背景に、威風堂々と腕を組んで立っています。

こちら →images

19世紀初頭に活躍した人物なのですが、背景の超高層ビル群と妙にマッチしています。

シンガポールはいまアジアの金融センターとして驚異的な発展を遂げていますが、彼が現代社会に生きていたとしたら、おそらく積極果敢に情報経済の領域を切り開いていったことでしょう。

さて、シンガポールは1824年、ジョホール王国からイギリスの植民地として正式に割譲されました。やがて、ペナン、マラッカなどとともにイギリスの海峡植民地に組み入れられていきます。そして、1832年にはその海峡植民地の首都に定められます。

イギリスはシンガポールを無関税の自由港とし、その自由港政策を積極的に展開しました。だからでしょうか、シンガポールに大勢のヒトが流入してきました。その結果、1819年1月には150人程度だった人口がわずか5年で1万人にまで急増したといわれています。労働者、貿易商、行政管理として、中国、インド、インドネシアなどから多くの移民がシンガポールに移住してきたのです。もちろん、イギリスをはじめヨーロッパ人もいました。当時からすでに多民族国家の兆しがあったのです。

こちら →SINGAPURA-700-Years-Colonial-Singapore-5-Image-courtesy-of-National-Museum-of-Singapore-1024x682

http://www.themuse.com.sg/ より

日傘をさす着飾った女性、シルクハットを被った紳士、ヨーロッパ上流社会の衣装を身につけたヒトがいる一方で、半裸でモノを運ぶ労働者、馬を引くインド人などがいます。植民地時代の生活の一シーンが模型で再現されています。服装や労働内容などから、支配の構造が一目で理解できます。

シンガポールは英領のインドやオーストラリア、中国大陸との間で取引される貿易の中継地点でした。各地から成功を夢見てやってきた商人や労働者などによってシンガポールは賑わい、急速に発展していきました。

 

■The Raffles Library and Museum

それまで仮設のようなものであった博物館は1887年、スタンフォードロード沿いの現在の位置にThe Raffles Library and Museumとして正式に開設されました。実はこの年、ラッフルズホテルが開業しています。古典的なコロニアル様式の建物は往時のまま保存されています。

こちら →ラッフルズホテル

ホテルの開業に伴い、ラッフルズ・インスティテューションの図書館に併設されていた博物館も移転せざるをえなかったのでしょう。興味深いのは、新しく建てられた図書館であり博物館でもあるこの施設に、ラッフルズの名前が冠されていることです。場所は移動しても、名称は継承されたのです。当時の為政者たちのラッフルズに対する敬意の表れと見ることができます。

ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles, 1781-1826)は、シンガポールの創設者であったばかりか、植物学、動物学、歴史学などの学者でもありました。

日本語版Wikipedia によると、1817年には『ジャワの歴史』を著し、ナイトの称号を授与されています。さらに、彼はジャングル調査隊を組織して現地を探索することもあったようです。世界最大級の花「ラフレシア」は、発見した調査隊の隊長であったラッフルズの名前と隊員の名前にちなんで付けられたのだそうです。

ジャワ島、マレー半島など、ラッフルズが関わった地域の珍しいモノや資料、遺物などが彼のもとに持ち込まれました。おそらく、膨大な量のモノや資料を整理し、収納するための施設が必要になったのでしょう、彼の死後23年目の1849年、仮設の形で設えられたのが、Raffles Instituteの図書館に併設された博物館でした。先ほどもいいましたが、これがシンガポールの元祖博物館です。

英語版Wikipediaには、ラッフルズの死後33年目の1859年、彼の甥のフリント(William Charles Raffles Flint )が、ラッフルズが収集した膨大な量のインドネシアの遺物や民族誌などを大英帝国博物館に寄贈したと記されています。ラッフルズは植民地開拓者として英国に寄与しただけではなく、東南アジアの膨大な歴史遺産を英国にもたらしました。大英帝国時代の成功者の一つのモデルといえるでしょう。

こうしてみると、大英博物館が収奪のコレクションだといわれる理由がわかります。ラッフルズのような植民地開拓者が、世界中からイギリスに持ち帰った歴史遺産が、大英博物館にコレクションとして収納されているのです。収奪された側にしてみれば、腹立たしいでしょうが、このようにしてイギリスに持ち帰られたからこそ、歴史的遺産は失われることなく、損なわれることなく、現在まで保存されてきたともいえます。

ちなみに今年、日本で大英博物館展が開催されています。

こちら →http://www.history100.jp/

さて、ラッフルズは探検隊を組織してジャングルを探索していました。ですから、彼が探究心に溢れ、開拓者精神の旺盛な人物だったことは容易に想像できます。ひょっとしたら、夢想家であり、冒険家だったのかもしれません。大英帝国の繁栄を支えてきた時代精神をラッフルズの中に見出すことができそうです。

シンガポールの博物館はラッフルズの膨大なコレクションを収納することから始まりました。その博物館の現在の姿がこれです。

こちら →800px-National_Museum_of_Singapore_3,_Aug_06

白く荘厳な建物が威容を誇っています。コロニアルスタイルの建物のそこかしこに権勢と栄華の残滓を見ることができます。まるで七つの海を支配した時代のイギリス人を見ているかのようです。この写真は2006年の改修後のものですが、改修に際しては、歴史ある外観についてはその雰囲気を維持することに努め、内部を大幅に改装して機能性を高めたようです。

 

■昭南島博物館(SYONAN-TO Museum)

1941年12月8日の真珠湾攻撃は、毎年ニュースで報道されるせいもあって、私たちはよく知っています。でも、同じ時期、日本軍がシンガポールを攻めていたことを知っている日本人はきわめて少ないのではないでしょうか。

1941年末にマレー半島に上陸した日本軍は、翌年2月7日から15日にかけて、インド軍、マラヤ軍、オーストラリア軍、イギリス軍等の連合軍と戦いました。さらに、出撃してきたイギリス戦艦をマレー沖で撃沈しました。日本軍はこのシンガポールの戦いに勝利したのです。当時の状況をBBCが要点を整理して記しています。

こちら →

http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/15/newsid_3529000/3529447.stm

その結果、イギリスの植民地だったシンガポールは1942年、日本の支配下に置かれました。為政者の変更に伴い、シンガポールは「昭南島」(SYONAN-TO)と改称され、行政組織として昭南特別市が設置されました。そこでは過酷な軍政が敷かれていたといわれています。

こちら →日本軍占領下

ここでも模型を使って当時の様子が再現されています。痛ましい出来事が多々あったようです。私たちが生まれる前の出来事だと片づけてしまうわけにはいかないでしょう。戦時下とはいえ、日本軍がシンガポールで行った非人道的行為をしっかりと記憶にとどめておく必要があると思います。

シンガポールの為政者がイギリス軍から日本軍へと変更するのに伴い、博物館の名称も「The Raffles Library and Museum」から「昭南島博物館」に変更されました。

 

■国立博物館(The National Museum)

1945年8月、第2次大戦が終結して日本軍が去り、シンガポールにイギリス軍が戻ってきました。日本軍の圧政からは解放されましたが、イギリスの統治も過酷なものだったようです。シンガポールに平和は訪れませんでした。

やがて、マレー半島全体にイギリスからの独立、自治を求める動きが活発になってきました。1957年、マラヤ連邦がイギリスから独立し、1959年、シンガポールはイギリスの自治領になりました。そして、1963年、独立したマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともにシンガポールはマレーシア連邦の一員となりました。

ところが、マレーシアとシンガポールとの間で対立が起こります。マレーシアのアブドゥル・ラーマン首相はマレーシア人優遇政策を採ろうとし、シンガポールの人民行動党党首リー・クアンユー氏はマレーシア人も華人も平等政策をと主張したからでした。

対立は激化し、1965年8月9日、マレーシアから追放される形でシンガポールは都市国家として分離独立せざるをえなくなりました。独立を国民に伝えるテレビ演説の際、リー・クアンユー氏は思わず涙したといわれます。彼が人前で涙を見せたのはこのときと母が亡くなったときの2回だけだといわれるほど、有名なエピソードです。

こちら →リークアンユー涙

これは、シンガポールに駐在経験のあるブロガーのNaoki SUGIURA氏が撮影したもので、その時のテレビ演説のワンカットです。リー・クアンユー氏の苦渋に満ちた表情がとても印象的です。天然資源に乏しく、水源さえ他国に依存しなければならない小さな都市国家を今後、どのように運営していけばいいのか、不安でいっぱいだったのでしょう。

たしかに、シンガポールが取り組まなければならない問題は山積していました。

現在、独協大学教授の森健氏はかつて、「シンガポールの国家介入と経済開発」という論文の中で、独立直後のシンガポールの課題は次の2点に大別できるとし、①種族間・種族内対立問題、②輸出志向型工業化戦略の実現化、をあげています。(滋賀大学傳田功教授退官記念論文集、1993年11月、pp.45-61)すなわち、国内の安定と経済的な自立の確立です。

リー・クアンユー氏はテレビ演説で見せた涙を振り払うかのように、独立直後から、矢継ぎ早に建国のための政策を打ち出していきます。

国防政策としてはスイスに倣い、非同盟と武装中立を宣言しました。経済政策としては外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ち立てる一方、国外からの観光客を誘致するために観光局を設置し、外貨獲得の手段の一つとしました。一連の初期政策のおかげでシンガポールの失業率は、独立直後の14%から10年後の1975年には6.5%にまで減少したといわれています。

課題であった民族間対立についても同様、リー・クアンユー氏は卓越した政策を行っていきます。1970年代から80年代にかけては、シンガポール独自のアイデンティティを創り上げる運動を展開しました。多民族から成る国内の融合を図るにはそれが一番だと考えたからでしょう。もちろん、言語政策にも気を配っています。異なる民族間では英語、同じ民族間では中国語、マレー語、タミル語(いずれも公用語)、というように融通を効かせた対応をしています。

もちろん、博物館も例外ではありません。独立を機に博物館は隣接する建物に移転され、1969年にはThe National Museumと改名されました。そのコンセプトも明確にされ、東南アジアの歴史、芸術、民族学に焦点を当てた博物館になったのです。この博物館の名称に初めて「National」の文字が付きました。国家主導で運営していくのだという政府の姿勢の表れなのかもしれません。

 

■シンガポール国立博物館(National Museum of Singapore)

21世紀に入ってもなおシンガポールの発展はとどまるところを知りません。それはおそらくシンガポール政府が時代に適合するよう、社会体制や経済体制を整備してきたからでしょう。もちろん、IT政策しかり文化政策しかり、です。

シンガポール国立博物館ではITがうまく取り入れられています。たとえば、以下のURLをクリックすると、館内の地図が表示されます。そこで、地図に付されたオレンジ色の〇印をクリックすると、そこからのアングルで館内を見ることができます。

こちら →http://www.pbase.com/bmcmorrow/singaporemuseum&page=2

シンガポール国立博物館は2003年から2006年に至る増改築の後、旧棟と新棟からなるNational Museum of Singaporeとして、現在に至っています。この博物館の名称にSingaporeが加わったのです。Singaporeという国家名をはじめて強く打ち出したことになります。

先ほども述べましたが、そもそもこの博物館は独立後、東南アジアの歴史、芸術、民族学に焦点を当てた博物館として位置づけられました。そして、今回の改名で、シンガポールという国名が加わりました。ですから、シンガポールこそが今後発展が予測される東南アジアの文化のハブだと強く示唆しているようにも見えます。

これまで見てきたように、この地にThe Raffles Library and Museumとして正式にオープンして以来、この博物館は3度も改名しています。いずれも、社会変化に対応したネーミングの変化でした。まさに近代シンガポールの歴史をこの博物館が体現しているのです。とすれば、今回の名称変更に何を読み取ればいいのでしょうか。

シンガポール国立大学のLily Kong氏は、独立後のシンガポール政府の芸術・文化政策について整理した上で、政治的観点からの政策(1960年代~70年代)、経済的観点からの政策(1980年代)を経て、最近は社会的観点からの政策に関心が払われていると指摘しています。(”Ambitions of a Global City: Arts, Culture and Creative Economy in “Post-Crisis” Singapore”, International Journal of Cultural Policy, 18, no.3: pp.279-294.)

この観点を参考にすれば、志向されているのは、シンガポールという社会と芸術・文化の融合でしょう。ヒトが日常感覚の中で芸術・文化に親しみ、味わい、愛しむ、そのような相互作用を重視しはじめたからなのかもしれません。

そういえば、「SINGAPURA: 700 YEARS」展では多くの史実が、模型を使ったシーンで説明されていました。立体なので写真よりも見る側との相互作用性が高く、そのシーンが記憶に残りやすいことに着目されたからかもしれません。博物館で展示されているものがより親しみやすいものになっていたことは確かです。

今回、「SINGAPURA: 700 YEARS」展に沿って、国立シンガポール博物館の来歴を見てきました。そこから見えてくるのは、社会状況に応じた博物館政策であり、その実践でした。都市国家シンガポールは今後、ますますスマートになっていくような気がします。(2015/7/6 香取淳子)

シンガポール美術館で見た栗林隆氏の作品

■Singapore Art Museum at 8Q
 美術館や博物館を訪問する予定だったので、今回はMRTブラスバサー駅近くのホテルに宿泊することにしました。この地域には美術館や博物館が多く、なにかと便利だろうと思ったからです。駅を出るとすぐ目の前がシンガポール美術館です。

こちら →シンガポール美術館 (640x480)

 そこから、2分も歩かないうちに分館であるSingapore Art Museum at 8Qに着きます。ホテルに向かってクィーンズ通りを歩いていると突然、「Cool!(カッコイイ!)」という声が聞こえたので、声の方向に近づいてみると、ショーウィンドウ越しになにやらオブジェのようなものが見えます。

こちら →ショーケース木

 さらに近づくと、木の断片が入った透明のケースを組み合わせた不思議な造形物が展示されているのが見えました。おそらく木を模したものなのでしょう。道路に面したショーウィンドウが実はSingapore Art Museum at 8Qの展示スペースになっているのです。このショーウィンドウは「コ」の字型の建物の道路側部分に相当します。

こちら →
http://www.yoursingapore.com/see-do-singapore/arts/museums-galleries/8q-sam.html

 作品の脇のパネルには、「TAKASHI KURIBAYASHI, Trees, 2015, Mixed media installation」と書かれています。どうやら制作者は日本人のようです。「Trees」という作品タイトルの下には、「What is our relationship with nature?」と題された文章が続きます。ですから、これが2015年に制作されたTakashi Kuribayashi氏の作品で、問題提起型のインスタレーションだということがわかりました。

 紹介文ではさらに、「Takashi Kuribayashi is an established Japanese artist whose work focuses on the boundaries that separate human civilization from the nature world」と記されていました。「Kuribayashi氏は定評のある日本人アーティストで、人類文明と自然界を区別する境界領域に焦点を当てて制作をしている」というのです。

■栗林隆氏の「Trees」
 ホテルに着くとさっそくwifiに接続し、ネットでチェックしました。すると、Takashi Kuribayashi氏が現代美術アーティストの栗林隆氏だということがわかりました。これまでにも何度かシンガポールで作品の展示をされているようです。さらに、シンガポール特派員ブロガーの仲山今日子さんが栗林氏の展示に関する記事を書いていたのを見つけました。

 彼女は次のような説明文を寄せています。

「シンガポールの都市開発で切り倒されてしまう木を輪切りにして、ガラスのボックスに封じ込めたもの。栗林さんのテーマは、「ボーダー(境界線)」。自然とは何か?と考えると、公園の木は、「自然界に存在する」という意味では「自然」、だけれども、「人の手が加わっている」という意味では、「不自然」。

自然なのか、不自然なのか?人間の解釈によって変わる、そのあいまいな境界線を表現したそう。木にからまるシダ類も、日向と日陰に間、つまり境界線に存在している、あいまいな存在を表現しているのだとか。

初日にも関わらず、木から出た樹液が既にたまっているボックスもあり、切り離されたひとつひとつの生命体のような気が、閉じられたガラスのボックスの中に、まったく新しい小さな宇宙を創りだしているかのようです」
(http://tokuhain.arukikata.co.jp/singapore/2015/03/post_315.html より)

 おそらく展示初日に取材されたのでしょう、樹液がボックスにたまっていたといいます。それだけでこのインスタレーションの衝撃力が生々しく伝わってきます。取材を終えた時に撮られた写真なのでしょうか、作品の背後に栗林氏が写っています。

こちら →栗林 木th_IMG_6294
仲山今日子氏の撮影。図をクリックすると拡大されます。

 ショーウィンドウの外から見ていただけではよくわからなかったのですが、この写真を見ると、その素晴らしさがよくわかります。覗き込んでいたヒトが「Cool!(カッコイイ!)」と大声を出していた理由も納得できます。

 この作品に出会ったヒトは誰でもまず、視線を透明のボックスの中にあるものに投げかけるでしょう。いったい何が入っているのだろうという素朴な疑問に駆られ、思わず視線を凝らしてしまうはずです。そして、何が見えてきたかといえば、切り取られた木の断片です。たとえば、こんなふうなものです。

こちら →木の根
仲山今日子氏の撮影。図をクリックすると拡大されます。

 ボックスに入っているのは木の根です。その根に黄緑色の小さな葉が付いています。切り取られても生命力を失ったわけではなく、土に戻せばそこから再び、芽がすくすくと伸びてきそうです。さらに、切り取られた木の根が透明のボックスに入れられることによって、このモチーフがいくつもの意味をもってきます。

 つまり、木を切り取るという人為的な行為、切り取られても黄色い葉を付け、いつでも生き返ることを示唆する木の生命力、そして、切り取られた木の根が収納されているのが、自然界には存在しないヒトが作った人工のボックス・・・、といった具合に、ヒトと自然界がかかわる3つの位相が巧みに表現されているのです。それがこのインスタレーションの基本的構成要素になっています。

 木の断片が入った透明ボックスを構成単位に、まるで積み木のように組み合わされて再構成された「木」には、自然界にはない強度と洗練された美しさが感じられます。まさに現代社会が象徴されているといえるでしょう。

 文明の名の下にヒトが行ってきたことといえば、木を伐り、その断片を一つずつガラスケースに入れて強度を高め、木に見えるようにつなぎあわせているにすぎないのかもしれません。自然を処理し、加工し、ヒトに都合よく保存し、再構成してみても、それは決して元の自然ではありません。

 栗林氏は鋭い文明批判をこのように含蓄のあるインスタレーションで表現しているのです。しかも、この作品はとても美しく、ヒトを引き付ける魅力があります。白黒で撮ると、さらに洗練されたイメージになります。

こちら →
http://www.oninstagram.com/photo/trees-by-takashi-kuribayashi-945574558285475865_13379139
(http://www.oninstagram.com/takashikuribayashi より)

■境界線に想いをこめて
 シンガポールでこんなに素晴らしい日本人アーティストの作品に出会えるとは思いもしませんでした。この作品を制作した栗林隆氏に興味を覚えました。調べてみると、たしかに「境界線」は彼にとって永遠のテーマのようです。

こちら →http://www.maujin.com/2012/archive/kuribayashi_takashi/

 どうやらドイツ留学が現在の栗林氏の核を作り上げているようです。境界線を意識して生活せざるをえなかったドイツに留学し、アートとは何か、生きるとは何か、表現するとは何か・・・、さまざまに考えを巡らせたのでしょう。

 境界線について彼は以下のような考えを示しています。

「境界線は人間同士や自然の中など、さまざまなところにあり、最もエネルギーに満ちた場所だと思っています。例えば、国境もそう。ヨーロッパはEUとしてボーダレスな世界を目指していますが、境界を取り除くほどに矛盾点が際立っているように見えるのが興味深いです」(前掲HPより)

 栗林氏が「境界線は(中略)最もエネルギーに満ちた場所だと思っています」と述べているところに私はとても興味を覚えました。

 たしかに、紛争は国境周辺で発生しやすく、異なる人種が交じり合えば緊張がみなぎりやすいのが通例です。モノやヒトの交流が日常的に行われていたとしても、いざとなれば、境界線を境に双方が挑みあうからです。かつてのベルリンのように壁を作ったとしても電波は洩れてきますし、ヒトは生命の危険に晒されても、より豊かな側に移動しようとします。

 境界線がある限り、その両側に差異が生み出され、その差異が原因となって両側が緊張し、エネルギーが醸成され、蓄積されていきます。ですから、栗林氏のいうように「もっともエネルギーに満ちた場所」になるのでしょう。境界線はまた異文化との出会いの場でもあります。

 栗林氏は「節目となった展示会」として、「トーキョーワンダーサイト2003」と「シンガポールビエンナーレ2006」をあげています。展示作品は「Emperors World 2003」と「Aquarium」で、いずれも境界線に関連するモチーフです。

こちら →ootb_002
「Emperors World 2003」
(http://www.tokyo-ws.org/archive/images/ootb_002.jpg より)

こちら →aquarium
「Aquarium」(2006)
(http://www.takashikuribayashi.com/#!/zoom/c40q/imageucu より)
 
 境界線というテーマを作品化する際、彼はペンギンや水槽をモチーフにしています。境界線を象徴する生き物として、あるいは場所としてそれらを想定しているからでしょう。

「ペンギンという生き物は、アザラシと同様に水中と陸上といった境界線を行き来する生き物です。そして、ペンギンは空を飛べないのに水中では飛んでいるように勢いよく泳ぐ。そういう中途半端な生き物なのに、体の模様は白と黒でハッキリしている。だから、僕にとっては非常に不思議な存在であり、境界線を象徴する生き物のように見えるんです」
(前掲HPより)

■アートの力
 シンガポール美術館の本館では「After Utopia」(1May-18Oct 2015)などいくつかの展覧会が開催されています。

こちら →http://www.singaporeartmuseum.sg/exhibitions/current.html

 そちらも見たのですが、栗林氏の作品を見た後ではどの展示作品にも物足りなさを覚えてしまいました。作品の形態はさまざまでしたが、何を伝えたいのか、作品として引き付けるものがあるか、見て美しいか、等々の観点から見ると、どれも栗林氏の作品にははるかに及ばないのです。

 さて、栗林氏は2006年のシンガポールビエンナーレの後、シンガポールについての感想を聞かれ、こんなふうに述べています。

「規制の厳しい国だって言われてるよね。政治や歴史、民俗を背景にしたいろんなタブーが多い国に、35か国から大勢のヨソモノがやって来て、街なかでアートをやった。どんな社会にもタブーはあって、内側の人はそれを暗黙のうちに、見ないように触らないようにして暮らしている。そうして保たれている街や社会という存在そのものに対して、ズバリと提示されると、人は目を開き、考えずにはいられなくなる。それがアートの力だと思ってるんです。ある意味でメディアや権力や政治以上に危険なものかもしれないね」
http://rootculture.jp/2006/11/_interview.html より)

 国が行う規制もなんのその、アートの力に対する揺るぎない信念がこの文言の背後に垣間見えます。ドイツをはじめさまざまな国で表現活動を展開し、ヒトの反応を読み込んできたからこそ到達しえた見解なのでしょう。今回のシンガポール訪問で、日本の現代美術アーティストが国境という境界線をアートの力でやすやすと乗り越え、地元のヒトを虜にしていく力量に触れることができました。喝采を送りたい気分です。栗林氏は現在、インドネシアを拠点に活動しておられるとのこと、「境界線」というモチーフの宝庫を踏み台に、さらに素晴らしい作品を!と期待しています。(2015/6/29 香取淳子)

ピナコテーク・ド・パリ、シンガポールにオープン:La Pinacothèque de Paris ouvre une antenne à Singapour

■地元のヒトが知らない美術館
 シンガポールに新しく美術館が開設されたと聞いて、6月18日、現地を訪問しました。ネットではこの美術館はフォートカニングセンターを改装して造られたと書かれていました。たぶん、フォートカニング公園の中にあるのでしょう。ところが、ホテルのスタッフに聞いても誰も知りません。本当にオープンしたのかどうか不安になってきました。

 オーチャード通りを歩いていると、たまたま、歩道橋の傍に美術館が5月30日にオープンしたことを示す垂れ幕がかかっているのが目に入りました。

こちら →歩道橋から (480x640)

 反対側にも図案の異なる垂れ幕がかかっていました。これだけ人通りの多いところに掛けられているのですから、オープンしたことは確実でしょう。これを見て、ひとまず、安心しました。とはいえ、地図を見ても、どのようにして行けばいいのかわかりません。フォートカニングが広すぎるのです。ただ、シンガポール国立博物館やプラナカン博物館に近いことがわかりましたから、そこのスタッフに聞けば、きっと行き方を教えてもらえるでしょう。

 翌日、プラナカン博物館を見学した後、スタッフに「シンガポールに新しくできた美術館の場所を教えてほしい」というと、彼はきょとんとし、ナショナル・ギャラリーならまだオープンしていないといいます。それではなく、フォートカニングに新しい美術館が5月にオープンしたはずだというと、ようやく、「ああ、フランスの美術館ね」といい、行き方を教えてくれました。私はネットで見て、シンガポールに新しく美術館ができたという認識をしていたのですが、シンガポール人の彼にはどうやら新しくできたのはフランスの美術館であって、シンガポールの美術館ではないという認識だったようです。

 とりあえず、教えられた道を行くと、途中で道が二つに分岐し、どちらかを選ばないといけません。そこで、通りかかった地元のヒトに聞くと、そんな美術館はこの辺にないといいます。そして、国立博物館に行く道を教えようとしたので、地図を見せて、フォートカニング公園に行く道を教えてもらうことにしました。

■フォートカニングにひっそりと佇む美術館
 傾斜のある道をしばらく歩いていくと、木々の遥か向こうに建物が見えてきました。その手前に緑の空間が広く開けています。白いテントのようなボックスがいくつも設えられており、イベントの準備が始まっているようにも見えますが、人影はありません。建物に近づいていくと、オーチャード通りで見たのと同じ図案の垂れ幕がかかっているのが見えました。

こちら →裏門から (640x480)

 ようやく美術館にたどり着いたと思ったのですが、階段を上って目の前のドアを開けようとしても、いっこうに開きません。見渡してみると、周囲にヒト一人いないことに気づきました。どうやらこれは美術館の裏側のようです。表に回ってみると、案の定、美術館のエントランスらしく、人影もありました。

こちら →正門入口 (640x480)

 美術館は地下1階、地上2階の建物でした。地下1階にはショップがあり、地上1階に≪Heritage Gallery≫と≪The Collections Gallery≫、地上2階に≪The Features Gallery≫があります。性質の異なる3つのギャラリーで構成されていました。

こちら →http://www.pinacotheque.com.sg/

 平日だったからか、それともオープンしたばかりだったからか、来館者はあまりいません。探し当てるのに苦労しただけに、なんとなく拍子抜けした気分になりました。

 帰りは正面からスロープを下って行くことにしました。ここは第2次大戦時、イギリス軍の施設として使われていたといいます。そのことを思い起こさせるように、カノン砲など当時の遺物が道の脇にいくつか展示されていました。

こちら →カノン (640x480)

 美術館を出て、緑のスロープを下って行くと、長い階段に辿り着きます。そこに佇むと、遠くに特徴のあるビルが見えます。マリーナベイサンズです。この美術館がどれほど高いところに位置しているかがわかるでしょう。

こちら →フォートカンニングから (640x480)

 見晴らしがとてもよく、シンガポールの街を一望できますし、海までも見通すことができます。第2次世界大戦時にはイギリスの軍事施設であったことを改めて思い起こさせられます。地上からは攻め込まれにくく、敵の様子を監視できる天然の要塞でした。

 これだけの地形ですから、この地域を支配しようとする者は誰しも、ここを拠点にしようとしたでしょう。かつては「禁じられた丘」と呼ばれ、1300年代にはマレーの君主が暮らしていたといわれています。園内にはその痕跡を示す壁画が残されていました。

こちら →遺跡 (640x480)

 ピナコテーク・ド・パリがシンガポールへの進出先として選んだ地は、これまでシンガポールの要塞として機能してきた場所でした。

■La Pinacothèque de Parisの分館
 ピナコテーク・ド・パリは2007年6月にマドレーヌ広場に開設された美術館です。歴史が浅いにもかかわらず、分野を問わないさまざまな企画展で多くの美術鑑賞者の関心を集めているといわれています。

こちら →http://www.pinacotheque.com/

 そのピナコテーク・ド・パリがアジアにはじめて分館を開設したのがシンガポールでした。シンガポールが今後、現代美術のアジアのハブになると見込んでのことでしょう。

こちら →http://www.pinacotheque.com.sg/

 たしかにシンガポール政府は2000年以降、着々とそのための布石を打ってきました。美術・芸術関連の予算を拡大して定期的に国際イベントを開催するだけではなく、美術品取引のための優遇措置も行っています。美術、芸術に関するヒト、モノ、情報、資本が世界中から集まってくるような環境整備を行ってきているのです。

 はたして思惑通りにシンガポールは美術、芸術分野でアジアのハブになれるのでしょうか。

 今回、シンガポールの美術館や博物館をいくつか訪問した限りでは、むしろ東南アジアの美術、芸術に見るべきものがあるように思いました。東京で見る日本の美術、芸術とはまた違った文化の味わいがあり、引き付けられたのです。ですから、シンガポールはアジアの美術、芸術分野のハブというよりは、当面、東南アジアのハブとして機能していくようになるでしょう。

 そのようなスタンスこそがシンガポールにとってもっとも可能性の高い将来像なのかもしれません。はじめてだったということもあるでしょうが、私もピナコテーク・ド・パリ、シンガポールを訪問し、もっとも見たいと思ったのが、西洋のコレクションではなく、地元の歴史的遺産のコレクションである≪Heritage Gallery≫でした。

■多様性の源泉
 実際、≪Heritage Gallery≫にはこれまで見たこともないような遺物が多数、展示されていました。シンガポールが多様な文化、文明の合流点であることがわかります。当然のことながら、展示されていた歴史遺産にはその年代ごとの多様な痕跡が残されていました。新石器時代の石像、ヒンドゥ仏教時代、スーフィーイスラム教時代、そして、中国のプラナカンの時代の遺物といった具合です。

こちら →http://www.pinacotheque.com.sg/heritagegallery.html
ページの下の方にスクロールすると、展示品がいくつか紹介されています。

 どれも初めて見るものばかりで興味深かったのですが、私が引き付けられたのはプラナカンの遺物です。プラナカンとは欧米に植民地化されていた東南アジア、特にマレーシアに15世紀以降、何世紀にもわたって移住してきた中国系移民を指すようです。

 交易が盛んになってくると、港を中心に中国人コミュニティができ、彼らがもたらした中国文化がマレー文化と融合していきます。とくに注目すべきは宝飾品です。プラナカンによってマレーシアにもたらされました。

こちら →プラナカン遺物
ショーケースのガラスに「EXIT」という緑色の文字が反射して逆さまに映ってしまっていますが、これは無視してください。

 展示されていたプラナカンの宝飾品にはいずれもきわめて手の込んだ細工が施されており、美しく優雅な趣があって、驚かされました。中国の洗練された王朝文化の片鱗が富裕なプラナカンを通して、このような形で残されていたのです。

≪Heritage Gallery≫では、新石器時代からプラナカン時代に至る地元の歴史遺産が展示されていました。それぞれの遺物にはそれぞれの時代の価値観、美意識が如実に反映されています。さまざまな展示品を見ていると、改めて、シンガポールが多様な文化の堆積の下に、都市国家を作り上げてきたことを知らされた気がします。

 シンガポールは多様な文化を受け継ぎ、今日の繁栄を手にしました。しかも、現在、大きな発展が予測されている東南アジアの只中に位置しています。今後、どのような形で周辺国と調和しながら、東南アジアの美術、芸術のハブとして機能していくのか、見守っていきたいと思います。(2015/6/26 香取淳子)

シンガポールで見たTran Thi Ngoc Hueさんの個展

■ION Art galleryで開催された個展“Rhythm of The Sea”
 シンガポールのショッピングモールION Orchardの4FにION Art galleryがあります。55-56Fの展望台に行くエレベーターに隣接していますので、すぐにわかります。

こちら →ION - Art Gallery

 展望台からの帰りに立ち寄ると、Tran Thi Ngoc Hueさんの個展が開催されていました。会場に入った途端に、鮮やかで奔放な色彩が目に飛び込んできました。個展のタイトルは“Rhythm of The Sea”です。開催期間は6月18日~21日、開催時間は朝11時から夜9時まで、それまでグループ展の多かった彼女にとっては初めての個展です。

 Invitation cardに使われていたのが、“Tide”(80cm×80cm, Acrylic on canvas, 2014)です。この作品はカタログの作品紹介ページのトップにも使われていました。きっとお気に入りなのでしょう。緑を基調に構成された色彩の組み合わせと大胆なストロークが弾むような潮の流れを感じさせます。

こちら →tide

 展示されていたのは2014年から2015年にかけて制作された18点で、すべて海をテーマにした作品でした。Tran Thi Ngoc Hueさんはフーコック(Phu Quoc)島に遊びに行って海を眺め、海と戯れ、海に気持ちを和ませられているうちに、これら一連の作品の着想を得たそうです。

 フーコック島はタイランド湾に位置するベトナム最大の島で、近年、リゾート地として開発が進んでいるようです。完全に商業化されているわけではないので、おそらくまだ手つかずの要素がたくさんあるのでしょう。

こちら →フーコック島

 そこに赴いたTran Thi Ngoc Hueさんはさまざまな海の表情を見て、強く創作意欲を刺激されたのでしょう。海が日々、表情を変えながら奏でるリズムを、荒々しさや快活さ、華やかさといったトーンで抽象的に描き出しています。

 たとえば、“Dressing up for ocean night”(80cm×80cm, Acrylic on canvas, 2014)という作品があります。

こちら →dress-up-for-ocean-night

 海の律動的なうねりを見ていると、まるで夜会のためにドレスアップしているように見えたのでしょう。寄せては引き返す波の動きを単なる波動運動と捉えるのではなく、このように擬人化して捉えているところにTran Thi Ngoc Hueさんの感性の幅が感じられます。

 私が面白いと思ったのは、“Undertow1”(100cm×100cm, Acrylic on canvas, 2015)です。これまでの作品と違って、色調が暗く、モノトーンの色彩の中に白が効いています。形状はさらに複雑になり流動的で、細部がきめ細かく表現されていて引き込まれます。

こちら →undertow

 実際の海には、どこまでも広がる青い空のような輝かしさだけではなく、ヒトもモノも、時には魂さえも呑み込んでしまう暗さや深さがあるはずです。そのような海の持つネガティブな側面を含めた深淵がこの作品では丁寧に描かれているのです。描き方にもそれまでとは異なる複層性が見られ、惹きつけられました。抽象的な表現の中に海のリアリティが描写されているのが素晴らしいと思いました。

■シンガポールはアジアの現代美術のハブ?
 ベトナム人のTran Thi Ngoc Hueさんは画家なのですが、実は、コレクターでもあるようです。彼女は2013年にシンガポールでOrient Paintingという会社を設立しました。世界に向けてベトナムやアジアの現代美術を紹介していくためだといいます。

 たしかに、シンガポールはその目的にふさわしい国かもしれません。すでに2000年からシンガポールは巨額の予算を投じて文化政策を重視した政策を展開し、芸術文化のアジアのハブになろうとしてきました。

 吉本光宏氏は『ニッセイ基礎研REPORT』(2001年1月)の中で、シンガポールでは情報省から独立した国立芸術評議会(National Art Council)と国立文化財局(National Heritage Board)が中心になって、「シンガポールを情報と芸術のグローバル都市に発展させる」という目的に沿った政策を展開していると指摘しています。

こちら →http://www.nli-research.co.jp/report/report/2000/01/li0101b.pdf

 その後の展開を見ると、実際、シンガポール・ビエンナーレ、アート・ステージ・シンガポールなど国際的イベントが定期的に開催されており、美術のハブとしての存在感を高めています。さらに、2010年には最高水準の警備態勢を誇る美術品などの保管施設をチャンギ空港近くにオープンさせています。当時、イギリスのクリスティーズ・インターナショナル・アジア部門の社長フランソワ・クリエル氏は「これをきっかけにシンガポールが香港や北京に匹敵するアジアの美術拠点になる」と予想していたほどです(Bloomberg:2010/05/18)。

 シンガポールではこのような美術品取引に対する優遇措置だけではなく、独立50周年を迎えた今年、二つの美術館が誕生します。すでに5月30日、シンガポール・ピナコテーク・ド・パリが開設されておりますし、10月にはナショナル・ギャラリー・シンガポールがオープンします。芸術、美術に関するモノ、情報、ヒトがシンガポールに集まってくる仕掛けが完成しつつあるのです。

 シンガポールに拠点を持てば、当然のことながら、世界に認知される確率は高くなるでしょう。そういう点で、Tran Thi Ngoc Hueさんのシンガポール進出は時宜を得たものだといえるかもしれません。アーティストとして自ら輝き、ベトナムやアジアの画家たちを世界に売り出していこうとする彼女の目的に沿った環境がいま、急ピッチで整備されつつあるのです。一連のシンガポールの文化政策を見ていくと、彼女の後に続くヒトは今後、増えていきそうな気がします。(2015/6/22 香取淳子)

この記事については、英語版を添付します。

English version

Ms. Tran Thi Ngoc Hue’s exhibition which I saw in Singapore

■ Solo exhibition “Rhythm of The Sea” was held at ION Art gallery.

ION Art gallery is in the fourth floor of the ION MALL, Singapore. It is next to the elevator to the observatory (55-56F), so you can easily find it.

Here →ION - Art Gallery

On the way back from the observatory, I came into ION Art gallery. Tran Thi Ngoc Hue’s solo exhibition had been opened there. As soon as I entered the hall, bright and spirited colors have jumped to the eye. Solo exhibition’s title was “Rhythm of The Sea”. For her it was the first solo exhibition. It was held from 11 am to 9 pm, during June 18- 21.

The Work “Tide” (80cm × 80cm, Acrylic on canvas, 2014) was used in the invitation card and also was used at the first page of the Works catalog. I’m sure it’s her favorite work. In this work I could feel the flow of the bouncy tide, because this picture was expressed by a bold stroke and a configuration of the base color green.

Here →tide

In the hall 18 works produced from 2014 through 2015 were exhibited.
All were the sea themed works. Ms. Tran Thi Ngoc Hue said that she went to Phu Quoc and got the inspiration from the sea. All the works were produced based on that inspiration.

Phu Quoc Island is Vietnam’s largest island located in the Gulf of Thailand. In recent years, it has been developed as a resort. Since not necessarily have been completely commercialized, probably will still have a lot of elements of the untouched.

Here →フーコック島

Tran Thi Ngoc Hue went to Phu Quoc Island and saw various expressions of the sea. These might have stimulated her creative motivation strongly. The rhythms of the tides momently have changed the look of the sea. I thought she was very interested in those rhythms. Based on the rhythm of the tides, she abstractly painted 18 works. Those are painted in harsh touch, in cheerful touch, in pomp touch.

For example, “Dressing up for ocean night” (80cm × 80cm, Acrylic on canvas, 2014)

Here →dress-up-for-ocean-night

When looking at the rhythmic swell of the sea, she may have seemed it to have dressed up for the evening. Ms. Tran Thi Ngoc Hue regarded the rhythmic swell of the sea not as mere wave but as the dressed up woman. She abstractly painted this work by technique of anthropomorphic. So I felt her sensibility wonderful.

The work which I felt the most interesting is “Undertow1” (100cm × 100cm, Acrylic on canvas, 2015). Unlike another works, color is dark. But white has been effectively used in the monotone canvas. The shape of the sea in this work is more mysterious and more complicated, than others. In addition, details were drawn in fine-grained representation, so I was attracted.

Here →undertow

If we look at the actual sea, perhaps, we might find diverse aspects of the sea. For example, not only the shininess of the sea such as a blue sky spread, but also the darkness and depth of the sea which swallows humans and things, sometimes even souls.
In this painting such a negative aspects were painted carefully. As a result, multi-layer properties that are different from other works could be expressed. In that point I was attracted.

■Is Singapore a Asian contemporary art hub?

Ms. Tran Thi Ngoc Hue is Vietnamese painter and a collector. She founded a company called “Orient Painting” in Singapore in 2013. She said the purpose was to introduce the contemporary art of Vietnam and Asia to the world.

Indeed, Singapore might be suitable country for that purpose. Already Singapore developed the policy with an emphasis on cultural policy to invest a huge amount of budget from 2000, they have been trying to be the Asian hub of arts and culture.

Here →http://www.nli-research.co.jp/report/report/2000/01/li0101b.pdf

In fact, international events, such as Singapore Biennale and Art Stage Singapore, have been held on a regular basis. Singapore has increased the presence of as an art hub.
In addition, Singapore opened the storage facilities with the highest level security for arts, near Changi Airport in 2010.
At the time, President Francois Criel of Christie’s International Asia department said that in the wake of this Singapore would become to be an Asian art hub comparable to Hong Kong and Beijing. (Bloomberg: 2010/05 / 18).

In Singapore, since 2000 the Arts promotion measures have been promoted. Especially preferential policies and international competitions for the Arts have been actively done. As a result, artists, arts goods, and arts information have been gathered in Singapore. Moreover, this year of independence 50th anniversary, two museums are opened.
Already Pinakothek de Paris Singapore was opened in May 30th. The National Gallery Singapore will open in October. This has also enhanced the power of Singapore in arts area.
In the future, I think artists, art goods and art information will accumulate more and more in Singapore. In this way Singapore is preparing for the requirements to become Asia’s art hub.

If you have some arts offices in Singapore, of course, probability of being recognized by the world will be high. From a point of this view, I think Ms. Tran Thi Ngoc Hue’s Singapore foray was very timely. Her purpose is to grow as an artist and to bring Vietnamese and Asian artists on the world market. Now in Singapore, environment for the artists are being developed. So, Singapore is probably the most appropriate city to her purpose. As I look at the series of Singapore’s cultural policy, the people who followed after her, I feel likely to continue to increase. (2015/6/22 Atsuko KATORI)

中国宮廷の女性たち:北京藝術博物館所蔵名品展

■麗しき日々?
 渋谷区松濤美術館でいま、北京藝術博物館所蔵名品展(2015年6月9日~7月26日)が開催されています。チラシを見ると、8万点にも及ぶ北京藝術博物館の収蔵品は、「特に清朝宮廷で用いられた服飾品、繍画や壁掛けなど観賞用の染織作品に優品があり、さらに清朝宮廷の女性たちが用いた種々の腕輪や首飾りなどの女性用宝飾品は質量ともに充実している」と書かれています。今回の展覧会はその北京藝術博物館の協力を得て、開催されたというのですから、見に行かないわけにはいきません。

こちら →IMG_2110

 チラシに使われていたのが、清代の公主の図です。公主と書いて「gōngzhǔ」と読むのですが、皇帝の娘のことを指します。この図はチケットにも美術館の垂れ幕にも使われていました。宮廷女性を語るには欠かせない存在なのでしょう。

こちら →公主
カタログより

 イヤリングにネックレス、まるで冠のような豪華な帽子、そして、手の込んだ刺繍が施された華麗な衣装をこの公主は身につけています。皇帝の娘という身分に相応しい衣装であり、装飾品なのでしょう、それぞれが鑑賞価値のある美術品です。銀や琥珀、玉などを精密に加工して優雅な装飾品に仕立て上げる技術は目を見張るほど高いものでした。

 たとえば、銀の点翆の髪飾りはこのように細工されています。

こちら →銀髪飾り
カタログより

 銀に孔雀の羽のようにみえる模様が細工されています。しかも、その羽先の部分には真珠が組み込まれ、ほどよいバランスで水色で彩色されています。これなら着用する女性の顔廻りをぐんと引き立ててくれることでしょう、とても繊細で上品な髪飾りです。髪飾りだけでこれだけ手が込んでいるのですから、他は推して知るべしでしょう。清朝の宮廷女性たちがどれほど貴重な美術品に包まれて生活していたかがわかります。彼女たちは富と権力の集中する宮廷で日夜、身を飾りたて、皇帝の寵愛を待っていたのです。

 富と権力が一体化した生活空間の中で、彼女たちはいったいどのように暮らしていたのでしょうか。

 展覧会は、「第1章 女性の手仕事―刺繍」、「第2章 鳳凰の儀容―服装」、「第3章―簪と朝の化粧―装飾品」、「第4章―薫り高き心―書画」「第5章―奇巧を尽くす」「第6章―文雅の室―文玩書籍」等、6章で構成され、さまざまな名品が展示されていました。順に見ていくと、宮廷女性たちの生活行動、生活文化、生活信条、生活価値観などがわかってくる仕掛けです。

■刺繍
 第1章で展示されていたのは、刺繍で絵や書を表現した垂れ幕や鑑賞用の織物でした。第2章では福を呼び込む縁起模様の豪華な刺繍の施された服装や肩飾りなど布装飾品が展示されていました。刺繍が書画を表現する手段として、あるいは、日常生活を彩る手段として、重要な役割を担っていたことがわかります。

 中国の刺繍は今でも有名ですが、当時、女性の手仕事として日常生活に組み込まれていたようです。民間女性が製作した刺繍製品は、実用品としても贈答品としても使われていました。日々の生活に彩りを添え、社交を円滑にするための手段として刺繍は必要不可欠だったのです。

 一方、宮廷の刺繍製品には高価な材料が使われ、優れた技術力が反映されています。刺繍は宮廷女性たちにとっては趣味や娯楽であり、時にはストレス解消の手段でもあったようです。

 清代貴族の女性について、カタログでは以下のように書かれていました。

 「古代の中国社会が女性に求めたものは「女子無才便是徳」ということで、読書は男性の特権でした。清代貴族の家庭では、女性は子供時代は差別されることなく、家庭の中で良妻教育を受け、詩を習い画を描きました。(中略)女性は結婚後は伝統的な礼教に縛られ、彼女たちの才能は夫を助け子供を教育することに向けられ、作品や事跡が伝えられることは多くはありませんでした」(『麗しき日々への想い』p.103)

 カタログによると、清代になってようやく女性も文字を扱うことができるようになったようです。とはいえ、それは男性でもなく女性でもない子どものうちだけでした。どれほど利発で才能に満ち溢れていたとしても、彼女たちは成人して結婚すれば、「夫を助け子供を教育することに」専念しなければならなかったのです。時を経てもなお、宮廷女性たちは皇帝の寵愛を競い合い、運よく皇太子が誕生すれば今度は皇位を狙う・・・、といった状況に置かれていることに変わりはありませんでした。寵愛を巡り、皇位を巡って陰謀が渦巻く魑魅魍魎とした世界から抜け出すことはできなかったようです。

 そもそも私が中国の宮廷女性に関心をもつようになったのは、昨年秋に「宮廷女官若曦」という宮廷ドラマを見てからでした。華やかに着飾った宮廷女性たちが皇帝の寵愛を求めて競い、子どもを授かれば今度は皇位を求めて画策するといった具合に、ストーリはパターン化しているとはいえ毎回、メリハリの効いた展開が面白く、夢中になって見ていたのです。いまなお中国宮廷ドラマの魅力から逃れることはできず、いつしか、実際の宮廷女性たちの生活はどうだったのか、実状を知ることができればもっと理解が深まるだろうと関心を抱くようになっていったのです。

 カタログに以下のような興味深い文章を見つけました。

「閨房独影の繍女、千針愁いを遂い、万线怨みを疏し、昏燭の壁に神情の傷を映ず」(前掲。p.73)

 第5章の扉に書かれた文章です。この文章からは、部屋で独り刺繍に打ち込み、運針作業を通して憎悪や悲嘆、怨嗟を洗い流そうとしている宮廷女性の姿が目に浮かぶようです。宮廷女性であっても、庶民の女性であっても当時は思うままに生きられず、刺繍という手作業を通して日々、ストレスを解消しようとしていたのでしょう。豪華で華やかな刺繍の背後に宮廷女性たちの深い悲しみと絶望感が見えてきます。

 展示品を見ていくと、興味深いことに、靴にも素晴らしい刺繍が施されていました。

■漢族の靴と満州族の靴
 「第2章 鳳凰の儀容―服装」のコーナーで興味を覚えたのが、靴でした。満州族の靴を見たとき、これならいまでも洒落た室内履きとして使えそうだと思いました。ところが、漢族の靴を見たとき、すぐにはこれが靴とは思えませんでした。一体これはなんだろうと思い、横に回ってしげしげと眺めてもわかりません。ふと名札に目をやると、「湖绿绢绣花卉纹高低弓鞋(漢族の女性用靴)」と書かれています。これでようやく靴だとわかりました。

こちら →漢族の靴
カタログより

 ご覧のように、非常に小さいです。しかもヒールがあります。どれほど歩きにくいことか。想像するだけで足に痛みが走りそうです。

 比較のために、並べて展示されていた満州族の靴を紹介しましょう。

こちら →満州族の靴 (1)
カタログより

 こちらは普通です。一目で靴だと認識できるサイズです。カタログを見ると、長さが24センチ、幅は10センチとされています。だとすると、漢族の靴として展示されていたのは、いわゆる纏足用の靴なのでしょう。カタログを見ると、長さが16センチ、幅はわずか4センチです。

 纏足という言葉は聞いたことがあり、おおよそのことは把握しているつもりですが、詳しくは知りません。そこで、取りあえずWikipediaで調べてみると、以下のように説明されていました。

 「幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習をいう。 より具体的には、足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛ることで足の整形(変形)を行うことを指す。 纏足の習慣は唐の末期に始まった。 清国の時代には不健康かつ不衛生でもあることから皇帝が度々禁止令を発したが、既に浸透した文化であったために効果は無かった。辛亥革命以後、急速に行われなくなった」(Wikipedia)

 Wikipediaで説明のために掲載されている写真は会場で展示されていたのと同じ形状のものでした。それにしても中国ではなぜ長い間、纏足が行われてきたのでしょうか。それについて、Wikipediaでは以下のように説明しています。

「足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと」(Wikipedia)
 
 足はヒトの身体を支え、歩行を司る重要な人体部位です。その足を自然の成長に任せるのではなく、意図的に小さく変形させるための靴が開発されていたのです。小さな足にこそ性的魅力があるとし、女性を身体的に弱く改造し、男性に従属せざるをえないようにしていたようです。女性に対する暴行の習慣化といわざるをえませんが、不思議なことに、この纏足という風習は1000年ごろには普及し、特段、女性たちから拒否されることもなく、清代末まで続いていたそうです。

 もちろん、纏足していては働くことができません。ですから、農家など労働に携わる女性に対しては行われなかったようです。労働をする必要のなかった富裕層の女性に対し、このような残酷な身体改造が習慣化していました。もっとも、「辛亥革命後、急速に行われなくなった」そうですから、女性を劣位に固定化する纏足という風習もまた近代化を目指す社会改革によって消滅していったといえそうです。

■華やかな生活に潜む心理的拘束
 チケットに使われている清代公主の顔部分をもう一度、見てみることにしましょう。おそらくこの顔が宮廷女性の代表といえるのでしょう。色白できめ細かな肌、とても端正な顔立ちです。嫋やかで上品、しかも洗練されていて、いかにも高貴な女性という印象です。

こちら →公主顔
カタログより。顔廻り部分。

 ただ、その表情からなんらかの意志が感じ取れることはありません。人形のようにただ美しく、そして、どこか悲しげです。公主ですから、自分でその地位を勝ち取ったわけではなく、生まれついての高位です。富と権力の中枢近くにいながら、実は非力なのです。時と場合によっては追放されたり、殺されたりすることもあるでしょうし、何らかの意図をもって行動すれば即、廃位されてしまいます。

 こうして見てくると、華やかな宮廷生活を送っているはずの女性たちが、実は、自発的な意思というものを放棄せざるをえず、あたかも心の纏足を強いられているかのように見えてきます。華やかな宮廷生活の中に心的拘束が仕組まれているとすれば、彼女たちが繰り広げる陰謀術数は生きるための叫びだったのかもしれません。どうやら中国宮廷ドラマを見る見かたが変わってきそうです。とても興味深い展覧会でした。中国の宮廷女性への関心がさらに喚起されたような気がします。(2015/6/15 香取淳子)

シャガール展:初期作品にみるキュビスムの痕跡とファンタジー

■没後30年シャガール展
 改修された姫路城を見に行くつもりが、姫路駅を降りた途端に気が変わりました。姫路市立美術館に行く方が先だと思ったのです。ちょうどそのとき、シャガール展が開催されていました。姫路城はいつでも見ることができますが、シャガール展(4月4日~5月31日)は開催期間が限定されています。駅を出て、青空に映える姫路城の天守閣を見たとき、迷うことなく美術館に向かう気持ちになっていました。

 姫路市立美術館は姫路城の東隣にあります。明治時代の赤レンガ造りの建物で、元は陸軍第10師団の兵器庫・被服庫でした。道路から美術館を眺めると、その背後に姫路城が見え、江戸時代から明治時代を経て現在に至る長い歴史を感じさせられます。周辺は深い緑で覆われており、赤レンガの西洋建築と白く輝いて見える白鷺城(姫路城)が見事な調和を見せていました。

こちら →zenkei

 この展覧会はシャガール(Marc Chagall, 1887-1985年)の没後30年を記念して開催されたもので、展示作品は油彩13点と版画集4編です。いずれも宇都宮美術館など日本の美術館や文化財団から出品された作品なのだそうです。

 シャガール展のチケットには油彩の「青い恋人たち」(1948 -53年)、そして、カタログには版画の「クロエ」(版画本『ダフニスとクロエ』1957-61年)が使われていました。どちらもシャガールの絵としてなじみ深く、この展覧会のサブタイトル「愛と色彩のファンタジー」にもふさわしい作品です。

 「I and the Village」、「七本指の自画像」など、著名な作品で展示されていないものがいくつもありましたが、それはおそらくこの展覧会が日本の諸機関が所蔵している作品を中心に企画されたからでしょう。とはいえ、国内だけでこれだけの作品を展示できたのですから、日本にもシャガールファンが多いことがわかります。観客の不充足感を補うかのように、シャガールの影響を受けた日本人画家の作品も展示されていました。

 会場を一瞥し、この展覧会は初期作品の展示に面白みがあると思いました。シャガールと聞いてすぐにイメージする画風とは異なった作品が目についたのですが、それがいずれも初期の作品だったからです。とくにパリに行く前の作品は画集等でも見たことがなく、貴重だと思います。

 初期作品を辿ってみれば、シャガールの試行錯誤のプロセスを見ることができるかもしれませんし、シャガールの心に潜む原風景を見ることができるかもしれません。ここには展示されていない作品も取り上げながら、シャガールの創作の源泉を探ってみることにしましょう。

■「村の祭り」(1908年制作)
 会場で初期作品として展示されていたのが、「村の祭り」(1908年)、「村のパン屋」(1910年)、「パイプを持つ男」(1910年)、「ランプのある静物」(1910-11年)、「花束」(1911年)、「静物」(1911-12年)でした。いずれも油彩です。暗い色調だったせいか、これらの作品にはシャガール特有のファンタジックな軽やかさがなく、どちらかといえば、泥臭く稚拙な印象を受けました。

 たとえば、「村の祭り」という作品があります。1908年に制作された油彩です。

こちら →村の祭り
カタログより

 ご覧のように、「村の祭り」で描かれたモチーフは奇妙なものばかりです。絵を見てまず目を向けてしまうのが、白いスカートを穿いた中央の人物です。暗い色調の中で一人だけ明るい服を着ているので必然的に観客の目が引き付けられます。この人物はなぜか身を屈めています。よく見ると、その後ろの人物はさらに深く身体を曲げています。そして、それぞれの人物の後には子どもが従っています。これは一体、何なのだろうと思って、その前方を見やると、白い棺のようなものを担いだ人物が二人描かれています。どうやら葬列のようです。

 絵の手前にはピエロのような服を着た人物がランプを持ったまま倒れています。死者を模しているのでしょうか、不思議な姿勢です。前景に描かれたこのモチーフが中景で描かれた葬列と関係があるとすれば、ひょっとしたら、これもまた死者を弔う一種の儀式なのかもしれません。そして、このピエロというモチーフは後景のサーカス小屋とリンクします。

 後景の中央にはサーカス小屋のようなものが描かれています。なぜ、こんなところにあるのか違和感を覚えてしまうのですが、その右側に傘をさしたヒトが描かれています。サーカス小屋に向かう観客なのでしょうか。左側には鉄棒の上で逆さまになっているヒトが描かれています。サーカスの演目を練習している座員なのでしょうか。後景で描かれているのはサーカスという祝祭の空間です。

 「村の祭り」について、中景を中心に前景、後景と順に読み解いていくと、死、道化、祝祭というキーワードを思い浮かべることができます。これでようやく絵のタイトルを理解することができました。「村の祭り」というタイトルにもかかわらず、祭りの喧噪さはどこにも描かれておらず、不思議に思っていたのです。

 ところが、この絵が中景(死)を中心に前景(道化)、後景(祝祭)で構成された作品だと考えれば、とてもよく理解できます。シャガールは一枚の絵の中に死にまつわる異次元の空間を持ち込んでいたのです。その企みは成功し、観客を深い想念の世界に引き込んで離しません。ひとたび目にすると、永遠に解くことのできない死の深淵について考えさせられてしまうのです。泥臭く、稚拙に見える絵の背後にヒトの情念の集積を感じざるをえないからでしょう。

 カタログではこの作品について、以下のように記されていました。

 「身の周りの世界で起きた出来事を暮らし色調で描き出すのは初期のシャガール作品に見られる特徴である。1908年に描かれた≪村の祭り≫はサンクトペテルブルグ時代(1907-1910)を代表する作品の一つである。シャガールは故郷で死や葬儀を目の当たりにしている。祭りの頃、ユダヤ教の教会に向かい死者のために輝いているローソクとともに祈りを捧げる。このようなシャガールの思い出が物語性の強い場面となって描き出されている」(『没後30年シャガール展』、p132)

 たしかに物語性の強い絵です。描かれたモチーフを踏み越えて観客は死をめぐる弔いの慣習を推し量ってしまうのです。そういえば、シャガールは1887年にロシア・ヴィテブスクで生まれたユダヤ人でした。とすれば、この絵の舞台は故郷ヴィテブスクで、モチーフはそこで目にした一般的な情景なのでしょうか。それとも、シャガールがその鋭敏な神経で捉えた独自の風景なのでしょうか。いずれにしても、不思議な世界です。

 「村のパン屋」(1910年)、「ランプのある静物」(1910-11年)も同様、モチーフは日常的なものなのですが、これまで見たこともないような形状や色彩で描かれており、因習と伝統の中に組み込まれたヒトの生活が偲ばれます。そして、それこそが画家シャガールのアイデンティティの基盤であり、創作の源泉なのかもしれません。

■静物(1911-12年制作)
 初期の作品の中で印象深かったのが、「静物」(1911-12年)でした。モチーフの捉え方に独特の味わいがあり、心に残ったのです。しかも、この作品は「ヴィテブスク独特の雰囲気」をいささかも感じさせることはありません。ですから、ヴィテブスクを知らない部外者の私でもシャガールの心象風景を理解できるような気がしたのです。

こちら →716px-Marc_Chagall,_1912,静物,_oil_on_canvas,_private_collection
カタログより

 よく見ていくと、この絵はどこかで見たことがあるような気がしてきました。どういうわけか、既視感があるのです。だからこそ、一目で引き付けられ、その場をすぐには立ち去り難い思いにさせられたのでしょうが、これといって思い当たる作品があるわけではありません。

 モチーフはバラバラに置かれ、ランプや水差し、テーブルクロスは線や三角で分割されて描かれています。果物やビン、コップなども線や楕円、円で輪郭がはっきりと描かれそれぞれの存在を個別に主張しているように描かれています。赤や緑、青などの原色とハイライトの白がきわだっているからでしょうか、描かれているモチーフは静物なのですが、不思議な情感が漂っているのです。

 カタログでは以下のように解説されています。

 「テーブルクロス、ランプ、瓶、果物、コップやお椀は、丸、三角、四角などの幾何学的形状で構成されており、フランスで出会ったキュビスムを取り込もうとしていることが確認できる」(前掲、p132)

 この作品にはキュビスムの影響があるというのです。そこで、取りあえず、Wikipediaを見てみると、シャガールは1910年にパリに行き、5年間、滞在していたようです。ですから、ちょうどこの作品を描いていたころ、彼はパリにいたことになります。そして、この時期、パリでは印象派、キュビスム、フォービズムなど、新しい芸術運動がさかんでした。

 再び、この作品を見てみると、たしかに、この作品にはキュビスムの影響が見受けられるように思えます。ですが、ビンにしても、ランプにしても、カップにしても具象性が強く、いわゆるキュビスム技法は感じられません。辛うじてその片鱗といえるのは敷かれているテーブルクロスぐらいでしょうか。

 この絵を見て即座にキュビスムだと判断しかねるのはもう一つ、その色彩です。キュビスムではモチーフを分割して表現する一方、色彩はモノトーンのグラデーションに落とし込んで表現されます。ところが、この作品では赤、青、緑などの原色に白のハイライトが配されており、それらがモチーフの形態を鮮明にしています。ここにキュビスムに収まりきれないシャガールの世界が感じられます。

 比較のために、キュビスムの創始者といわれるピカソの作品を見てみることにしましょう。シャガールの「静物」とほぼ同時期に制作されたピカソの作品に「マンドリンを持つ少女」(ピカソ、1910年制作)があります。

こちら →
http://www.moma.org/collection_images/resized/533/w500h420/CRI_151533.jpg

 モチーフは断片化され、辛うじて顔や髪、手やマンドリンに具象性が残っています。色彩はモノトーンのグラデーションです。

 ところが、1911年に制作された「ギターを持つ男」(ピカソ)ではモチーフはさらに断片化され、わずかに手やギター、食べ物を入れたグラスのようなものに具象性が残されているぐらいです。モノトーンのグラデーションで着彩されており、いかにもキュビスムの作品です。

こちら →http://f.tqn.com/y/arthistory/1/S/l/z/picparispma_2010_10.jpg

 やはりキュビスムの創始者といわれるブラックの同時期の作品に、ピカソの作品と同名の「ギターを持つ男」(ブラック、1911年制作)があります。

こちら →
http://www.moma.org/wp/moma_learning/wp-content/uploads/2012/07/Georges-Braque.-Man-with-a-Guitar-274×395.jpg

 この作品ではモチーフは極度に断片化され、具象性の痕跡を見つけるのがむずかしいほどです。色彩はやはりモノトーンのグラデーションですが、円や楕円、三角や矩形を組み合わせて表現されたモチーフには立体感があります。

 このように、シャガールの「静物」と同時期に制作されたピカソやブラックの作品を見てみると、シャガールはキュビスムの影響を受けたといわれながらも、具象性を捨てきれなかったことがわかります。とはいえ、明らかにキュビスムの影響を受けていることがわかる作品もあります。

■キュビスムの影響?
 これまで見てきたように、「静物」(1911-12年)にキュビスムの影響が感じられなくはないのですが、それほど強いものではありませんでした。ところが、「アダムとイブ」(1912年制作、セントルイス美術館所蔵)にはその影響がきわめて強く感じられます。

こちら →http://www.wikiart.org/en/marc-chagall/adam-and-eve-1912

 これを見ると、顔らしきもの、足らしきものの痕跡はあるのですが、主要モチーフは完全に断片化されています。三角形、矩形に分割して描かれており、抽象化されています。まさにキュビスムの技法で描かれています。

 ところが、上部に描かれている木やリンゴの形状を見ると、具象的で断片化されておらず、キュビスムとはいえません。しかも、全体を見ると、使われている色彩が黄色、白、緑に所々に赤を配した強い色調なのです。アールデコといってもいいほど洒落た色合いです。

 モチーフを複数の視点で捉え、それに対応して断片化して描くという点で、シャガールはキュビスムの影響を受けているといえますが、色彩面ではこだわりを捨てきれないようです。

 キュビスムの影響をもっとも受けているといわれるのが、「詩人、3時半」(1911年制作、フィラデルフィア美術館所蔵)です。

こちら →
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/6/64/Marc_Chagall,_1911,_Trois_heures_et_demie_(Le_po%C3%A8te),_Half-Past_Three_(The_Poet),_oil_on_canvas,_195.9_x_144.8_cm,_Philadelphia_Museum_of_Art.jpg

 たしかにモチーフを断片化した形状にはその痕跡が認められます。ところが、色彩はやはり青や赤の原色に白が使われており、シャガール特有の華やかさがあります。

 同時期の作品に、「ゴルゴダのキリスト」(1912年、ニューヨーク近代美術館)があります。

こちら →Marc_Chagall,_1912,_Calvary_(Golgotha)_Christus_gewidmet,_oil_on_canvas,_174.6_x_192.4_cm,_Museum_of_Modern_Art,_New_York
ニューヨーク近代美術館所蔵

 この作品もモチーフは複数の視点で捉えられ、断片化されて描かれていますが、モチーフは比較的、具象性を残し、赤や緑の原色で描かれています。モノトーンのグラデーションにこだわったピカソやブラックとは画風が大きく異なります。

 こうしてみてくると、たしかにパリ滞在時にシャガールはキュビスムの影響を受けていた痕跡がみられます。ところが、どの作品もモノトーンではなく原色に白のハイライトを効かせた着彩を施しています。これはロシアで描いた初期作品には見られない華やかな色彩です。ですから、当時、パリで盛んだったフォーヴィスムの影響を受けていた可能性も考えられます。しかも、キュビスムの影響を受けたといわれる作品もどこかに具象性を残しながら、モチーフを画いています。シャガールはどうやらキュビスムを全面的に受け入れることはできなかったようです。

■キュビスムの痕跡とファンタジー
 ここには展示されていませんでしたが、初期作品の中で忘れがたいのが、「I and the Village」(1911年制作)です。「静物」や「詩人、3時半」などと同時期に制作された作品で、私が好きな作品です。

こちら →Chagall_IandTheVillage
ニューヨーク近代美術館所蔵

 この絵はヤギと男の顔で画面が大きく二つに分割されています。画面の左上半分にヤギの横顔が描かれ、頬のあたりにヤギの乳を搾る女性の姿が小さく描かれています。ヤギの顔の3分の1から下はその下に見える円で白く分割されています。そして、右側には緑色の男の横顔が配置され、男の顔の鼻から下はその下の円で緑色に分割されています。まるでヤギと男がこの円でつながっているように見えますが、少し引いて見てみると、むしろ両者が互いに見詰め合う構図が強調されています。ヒトと動物が共生している生活空間を描こうとしていたのでしょうか。

 顔を寄せて見つめあうヤギと男がメインモチーフなのでしょう。その下に実をつけた木を持つ男の手が描かれ、ヤギ側には大きな実が一つ描かれています。ヒトと動物が果物を分け合って暮らしていることを示しているのでしょうか。生命あるものが苦難を共にして暮らしている様子が描かれています。

 後景にはカマを肩に担いで歩く村人、逆さまになった女性ヴァイオリニストなどが描かれています。その背後には村の建物が並んでいるのが見えます。この部分を拡大すると、以下のようになります。

こちら →上部
前掲。一部を拡大。

 この絵も中景で描かれた見つめあうヤギと男の顔を中心に、前景の果物と木、そして、後景のヴィテブスクでの生活シーンで構成されており、物語性の強い作品になっています。キュビスムの影響がみられるとすれば、様々な視点で捉えたモチーフを同一画面上に描いたというところぐらいでしょうか。

 中景から前景にかけて描かれた円もひょっとしたらキュビスムの影響といえるかもしれませんが、それはキュビスムのように要素に還元して単純化するための円ではなく、むしろモチーフを有機的に繋げるための円といえるでしょう。そして、この円が前景から中景にかけて配置されたことで幻想的な雰囲気が醸し出されています。

 面白いことに、ヤギの顔の中にヤギの乳を搾る女性が描かれています。これもおそらくヴィテブスクでの生活シーンなのでしょう、ヤギの顔の中にうまく収まっています。これに対し奇異な印象を持つヒトもいるかもしれませんが、青と白を巧みに組み合わせて描かれているので、むしろ牧歌的であり幻想的に見えます。

 初期作品をいくつか見ていくと、パリ滞在以後、シャガールは色彩の使い方が大きく変化したように思えます。「村の祭り」で見られたような暗い色調ではなく、赤、緑、青、黄色といった原色に白のハイライトを置いた華やかな色調を好むようになっているのです。その結果、何をモチーフにしようと、洗練されたファンタジックな画風になっているように見えます。

 とくに私は「I and the Village」に強く惹かれるものを感じます。それはおそらくシャガールがいかにこの村に愛着を覚え、アイデンティティの基盤にしてきたのか、この絵を見ていると、彼の創作の源泉が見えたような気がするからでしょう。(2015/6/13 香取淳子)

ひとコマ漫画に凝縮された中国の世相

■「ピリリ!と面白い中国漫画展」
 日中友好会館美術館でいま、「ピリリ!と面白い中国漫画展」(5月28日~6月28日)が開催されています。

こちら →http://www.jcfc.or.jp/blog/archives/6236

 開催初日の5月28日、私はオープニングイベントの開始直前に会場に着いたのですが、すでに漫画家、政治家をはじめ関係者の方々が多数出席されていました。来賓の挨拶の後、オープニングのテープカットが行われました。

こちら →テープカット (640x480)

 展示会場に入るとまもなく、中国の著名な漫画家・徐鵬飛氏の作画実演が始まりました。徐氏は人民日報「風刺とユーモア」編集長を長年務めてこられ、現在は名誉編集長です。また、中国美術家協会漫画芸術委員会でリーダー役を果たされています。

 徐氏は用意された紙の中央付近に絵を描き終わるとすぐに、「日本の漫画家の皆さんもどうぞ」と呼びかけました。呼びかけに応じ、日本の漫画家は次々とその周辺に絵を描いていきました。一枚の紙に日中の漫画家が絵を描いていくという行為を通して、会場は一気に和やかな雰囲気に包まれました。徐氏のすばらしい計らいです。

 ちばてつや氏も描いていました。

こちら →ちばてつや (220x306)

 出来上がった絵を囲んで日中の漫画家や関係者がカメラに収まりました。

こちら →絵を囲む (640x480)

 ご覧のように、どの顔にも笑みがこぼれています。見ているうちにふと、ユーモアを生み出せる人々が交流を担っていけば、日中関係もより和やかなものになるのではないかと思ってしまいました。ユーモラスな絵を見て、心が緩み、顔に笑みが浮かぶとき、ヒトは他者を受け入れる心境になっています。そのような機会を増やしながら、相互理解を深めていく必要があるのではないかと思ったのです。

■漫画「競争」に見る中国の現代社会
 会場では、浙江省出身の漫画家の作品61点が展示されていました。どれも力作で、一枚の絵の中にこれだけ風刺を込めることができるのかと感心させられるほどでした。もっとも惹き付けられたのが、林忠業氏の「競争」(2008年)です。

こちら →競争

 画面は右上と左下を結ぶ対角線で分けられています。その対角線上に雲が浮かび、切り立った崖の上に開けた台地の高度が強調されています。その左上の部分にはゴール地点が設けられ、右下部分にゴールを眺める無数の人々が並んでいます。その間をつなぐのが、ヒトが一人ようやく通れるような細い道があります。右下に並んで待つ人々は崖から転落する危険を冒さなければ、左上のゴールに達することができません。待つ側は膨大な数であり、ゴールにたどり着けるのはごくわずか・・・、まさに熾烈な競争社会中国の一端が見事に表現されています。

 中国では経済発展に伴い、中産階級が急増しました。その結果、大学受験や就職試験、職場での昇進など、さまざまな領域で熾烈な競争が繰り広げられるようになっています。そのような厳しい世相がこのひとコマ漫画で的確に表現されているのです。

 たしかに日本の高度成長期でもベビーブーム世代の若者たちは競争を強いられ、受験地獄という言葉が生まれたほどでした。とはいえ、経済が成長するに伴い、就職先もそれなりに受け皿が増えていきました。若者は努力しさえすれば、何事も成し遂げられるという夢を抱くことができたのです。目標を掲げ、それに向かって努力すれば、どのようなものであれ、必ず得るものはあったのです。ですから、当時、日本では受験競争がむしろ若者を鍛える場になっていたといえます。ゴールに至る道が現代中国よりもう少し多様で、広かったからでしょう。

 ところが、この漫画ではゴールに至る道は一本しかなく、しかもヒト一人がようやく通れるほどの狭さです。迂回路もなければ、脇道もありません。これではゴールを目指そうとする者のほとんどが蹴落とされ、谷底に落ちてしまいます。

 画面の右下には「スタート!」の合図を待って無数の人々が待機しています。目の前に伸びるゴールに至る細い道は、両側が絶壁で、一歩でも道を踏み外したら、すぐさま奈落の底です。彼らは平静さを装いながら、どれほど深い絶望感にさいなまれていたことでしょう。

■ほとんどの人が負ける競争社会
 帰宅して、この漫画を連想させる興味深い記事を見つけました。中国ウォッチャー田中信彦氏が書いた、「ほとんどの人が負ける競争社会~中国で広まる不満情緒の源泉とは」というタイトルのエッセイです。

 田中氏は、「中国では社会で尊重される価値観の尺度がひとつしかない」といい、「社会から「尊重される仕事」とそうでない仕事が人々の間で明らかに認識されていて、誰もがそういう立場に立とうとする」としたうえで、次のように書いています。

「中国社会では全員が単一の基準で判断されるレースに参加しているようなものだ。そんなことをしても大半の人には勝てる見込みがほとんどないと私などは思ってしまうのだが、中国の人々は「分を知」って競争を回避することを潔しとせず、誰もが果敢(無謀?)にも競争に挑んでいく。その姿は壮観ですらある」(WISDOM、2010年1月25日)

 この漫画のように細い一本道しかない状況(「単一の基準で判断されるレース」)では、ごくわずかのヒトしかゴールにたどり着くことはできません。勝者より敗者の方が圧倒的に多いのは当然で、ほとんどのヒトが負けることになります。まさに、林忠業氏の描いたひとコマ漫画「競争」で表現されている世界そのものです。

 田中氏はこのような過当競争の背後に中国の勤労観があると指摘しています。長い間、中国では「支配層になるための唯一かつ誰にでも開かれた道が科挙であり、科挙に劣る条件こそが「文」にほかならない」と記し、「この観念は非常に深く中国社会に根を張っており、現在でも基本的に変わっていない」というのです。そして、高学歴化の実態を以下のように記しています。

「中国では大卒者が過剰で、大学を卒業しても就職先がないという現象が深刻化している。その問題も根源はこの「文」志向にある。学生本人も両親も、高い費用をかけて名も知れぬ大学で手もコスト的に引き合わないことは分かっている。それよりも専門学校にでも通って実務を身につけ、現場で技能を学んだほうが今の社会にはるかに有用なのだが、「実務」や「技能」という言葉は「文」の香りが薄い。より現場に近く、体を使うニュアンスが強いからである」(前掲)

 林氏がこの漫画を描いたのが2008年です。5年も前に高学歴化競争の弊害を風刺していたのですが、その後、事態はさらに深刻化しているようです。

 2013年8月に北京大学を訪れた際、北京大学の先生が、最近は大学生がなかなか就職できなくなっていると嘆いていたことを思い出します。北京大学はまだしも、そこそこ名の通った大学の学生でさえ就職が難しくなっているというのです。実際、北京大学のレストランで働いていたのは中山大学を卒業した学生でした。卒業しても就職できなかったので、北京に出てきたというのです。そして、いわゆる頭脳労働ではなく、肉体労働に従事していたのです。彼女は将来を悲観していました。こんな状況では結婚できるのかどうか、家庭を持てるのかどうか、心配していたのです。

■不満感の増大
 田中氏は、以下のように興味深い指摘をしています。

「中国のネット掲示板などを見ていると、最近とみに「豊かにはなったが、幸福感がない」といった趣旨の議論が目立つ」と指摘したうえで、「社会の価値観を多様化し、より多くの人々が「分相応」な幸福感を持てるようにすることが差し迫った課題である」と述べています。

 貧しいとき、ヒトは一途に豊かさを追い求めますが、ある程度豊かになってくれば、今度は何を目標にして生きていけばいいのかわからなくなってしまいます。そして、人々はいたずらに他人と比較し、不満感、不充足感を募らせていくのです。かつて日本もそうでした。日本では今、その不満足感が格差感に転化され、自ら努力するより行政に要請することが増え、要求が通らなければ怒り、短絡的な犯行が増えているように思います。アメリカでも同様、過去と比較し、全般に生活レベルがあがっているのにもかかわらず、人々の生活満足感は逆に低くなっているという論文を読んだことがあります。

 林忠業氏の「競争」には、このように深い文化的社会的意味が含まれていて、大変、興味深く思いました。しかも、絵柄にはユーモアがあり、ほっとさせられるところがあります。対比を明確にした構図、曲線を多用した描き方、色彩の調和、そして、どこかユーモラスなゴール側の人々、鋭く問題点を突きながら、対象を見つめる目は実に暖かい・・・、そのことに快さを感じてしまうのです。

 今回はこの作品だけを紹介しましたが、展示されている作品はどれも中国の現代社会の諸相を鋭く切り取り、一枚の絵として表現されています。ですから、絵として鑑賞することができ、しかも、そこに込められた意味を解読する面白さもあります。大変、見応えがありました。風刺漫画には、文字に勝る表現ができるのだということを実感した次第です。(2015/6/2 香取淳子)

アンティークドールとオートマタに見る19世紀末のディレッタント文化

■神戸ドールミュージアム
 元町駅から徒歩3分のところに神戸ドールミュージアムがあります。三ノ宮駅からは、センター街を通り抜けてすぐのところに位置しています。ふと思いついて、ゴールデンウィークに行ってきました。ミュージアムといいながら、小さなお店のような佇まいで、1Fがショップで、2Fにアンティークドール、3Fにオートマタが展示されていました。

こちら →外観

 このミュージアムは館長・藤野直計氏のご両親が30年以上にもわたって収集してこられたコレクションを基に設立されました。こぢんまりとしていますが、収集家のセンスが凝縮されたコレクションは見応えがありました。

 2Fに展示されていたのが、ジュモーやアー・ティー、ブリュなど、フランスの代表的な製作工房の人形たちでした。背丈が40㎝から60㎝ぐらいのビスクドールが中心でしたが、中には90㎝にも及ぶものもあり、迫力があります。時を超えて伝えられてきただけに、どの人形にも愛らしさの中に風格が感じられました。

こちら →館内人形
神戸市案内より

 3Fにはオートマタが展示されていました。入ってすぐ目についたのが、ダンディ・ルネーでした。見覚えのある顔だったからです。調べてみると、これは1890年にフランスのVichy社が製作したオートマタ(Automata)でした。オートマタとは、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで製作された機械人形のことを指します。

 見覚えがあると思ったのは、メリエス(Marie Georges Jean Méliès)の「月世界旅行」のワンカットによく似ていたからです。この映画が公開されたのが1902年です。ですから、メリエスはVichyが製作したこのダンディ・ルネーの顔デザインからなんらかのインスピレーションを得ていたのかもしれません。

■貴重なコレクション
 このタンディ・ルネーはタバコを吸う機械人形で、ヘッドとボディはドイツのパピエ・マーシェ製で、1890年に制作されました。ところが、電気の普及に伴い、20世紀に入るとオートマタは新鮮味を失い、アンティークとして扱われるようになっていきます。ですから、ヨーロッパにいてもこれだけのものを手に入れるのは難しかったでしょう。よく入手できたものだと、コレクターの藤野氏の熱意には感心してしまいました。

こちら →ダンディ・ルネー
カタログより

 おそらく骨董市か骨董店で入手されたのでしょう、展示されていた「ダンディ・ルネー」はやや色が褪せ、少し傷ついていました。それだけに時間を越えて生き残ったモノに見られる重みと味わいがありました。

 新品同様のものもあります。

こちら →https://www.flickr.com/photos/maurice_albray/11492429406/in/photostream/

 これに比べると、展示品の方はアンティークならではの魅力がありました。ヒトであれ、モノであれ、時を経てきたものだけが持つ深みと味わいがあるのです。さらに、3Fには「ピエロの曲芸師」も展示されていました。やはり、Vichy社の製品です。これは1910年に制作されたものですが、実際に動いています。

 Vichy関連のサイトにこのオートマタと似たような動きをする映像を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →http://www.francoisjunod.com/automates/nineteenth/vichy_uk.htm

 これは1890年に制作された「Acrobat」というオートマタです。ハシゴに両手をかけ逆立ちをしたら、2回、右手をハシゴから離すというパフォーマンスをするのですが、「ピエロの曲芸師」はこれよりもう少し複雑で、音楽に合わせて逆立ちをし、バランスを取るように足を反らせてから、左手をハシゴから離すという動きをします。制作年が「Acrobat」より20年も遅いだけあって、このオートマタにはより複雑な動きが取り入れられています。

 3Fにはこのようなピエロ関連のオートマタだけで3点、それ以外にもさまざまなオートマタが展示されていました。貴重なコレクションです。

■オートマタを手掛けたGustave Vichy
 さて、ダンディ・ルネーにしても、「ピエロの曲芸師」にしても、Vichy社の製品です。Vichy社はなぜ、このようなものを製造するようになったのでしょうか。調べてみると、Vichy社を設立したVichy氏は時計を作る職人だったようです。当然、機械好きだったのでしょう。妻の協力を得て、やがて機械で動く装置を製作しはじめるようになります。そして、彼が49歳のとき、時計や機械仕掛けのおもちゃを製造、販売するVichy社を設立しました。1862年のことです。

 ところが、会社を立ち上げて間もなく彼は死に、その後、妻が代わって運営していましたが、1865年に倒産してしまいます。1866年に後を継いだのが息子のGustave Vichyでした。彼は、両親の会社の目玉商品であった機械仕掛けのおもちゃより、オートマタの製造を好んだようです。才能にも恵まれていたのでしょう。彼は次々と音楽仕掛けのオートマタやその他さまざまな仕掛けのオートマタを製造していきます。

 たとえば、「Buffalo Bill Smoker」というオートマタがあります。目や口の動き、そして、タバコの煙を吐き出す仕草、これらがすべて機械仕掛けで動いているのです。Gustave Vichyが1890年に制作しました。これについては1分02秒の映像がありますので、実際にどのような動きをしているのか、見てみることにしましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=exoul-_8oyg

 このオートマタは神戸ドールミュージアムにはありませんが、19世紀末、Gustave Vichyが精力的にオートマタを製作していたことはわかります。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパでは科学技術の発明、開発が相次ぎました。それに伴い、アンティークドールもオートマタもやがて廃れていくのですが、そのうちのいくつかが日本人の手に渡り、時を経て、このように展示されているのです。ここで展示されているオートマタを見ていると、19世紀末のディレッタント文化、そして、30年以上もの時間をかけて収集されてきたコレクションの歴史が感じられます。

■女性美の理想形を伝えるアンティークドールたち
 スタッフが「うちの看板娘」といっていたのが、ブリュ・ジュンでした。古風な顔立ちの多いアンティークドールの中でひときわ現代的な容貌をしており、目立ちます。

こちら →ブリュー・ジュン
カタログより

 これは1885年にフランスで製造されたもので、背丈は37㎝でそれほど大きくはありませんが、強い意志の感じられる顔立ちで、圧倒的な存在感がありました。衣装も帽子も他のアンティークドールとは趣が異なっています。

 ブリュ(Bru Jeune et Cie, Bru Jeune, 1866-99)は、1866年に設立されたフランスのビスクドールの製作工房です。1867年から77年まではファッションドールを製造しており、1878年から1883年まではべべドールを製造していました。この人形は1885年の製造で、ブリュ・ジュンです。

 2Fにはブリュ以外に、ジュモー(Jumeau, 1842-99)、ゴーチェ(Gaultier Freres, 1860-99)、A. T.(アー・テー)(A. Thuillier, 1875-90)、スタイナー(Jules Nichola Steiner, 1850-1910)、A. デオー(A. Dehors, )等々、当時の代表的な工房の人形たちが展示されていました。多いのはジュモーやブリュの人形たちで、これは一般的な好みとも一致します。

 ここで展示されているアンティークドールたちは工業製品とはいいながら、製作工房によって微妙に異なり、そこに豊かな個性が感じられました。優雅、上品、華麗、清楚、聡明、愛らしさ、優しさ、穏やかさといった女性美の理想形が、さまざまな容貌の中に余すところなく表現されているのです。

 人形という媒体を得て、女性美の理想形は時代を超えて伝えられていくのでしょう。長い歴史を背負った人形たちを見ていると、いつまでも見飽きることがありませんでした。これを機にアンティークドールについてさまざまに思いを巡らせてみたいと思いました。(2015/5/14 香取淳子)

洛中洛外図屏風:上杉本に反映された足利義輝の願望

■「京を描くー洛中洛外図の時代―」展
 前回、見てきたように、最初に京都を一望できる絵を構想したのが、戦国武将の朝倉貞景でした。絵心があったとはいえ、武将が発案したというのは大変興味深い事実です。彼は屏風絵に慰安や娯楽ではなく、情報を求めたのです。このような洛中洛外図誕生の経緯を知れば、美術作品が担った政治的役割を考えてみる必要があるかもしれません。

 会場では、第2章として設定されたコーナーに初期の洛中洛外図が展示されていました。戦国時代の諸相が描かれているといわれる作品です。現存しているのは4点ですが、その中でもっとも有名な洛中洛外図屏風は上杉本だといわれています。

■山形県米沢市と上杉家
 上杉本は狩野永徳によって制作され、米沢藩上杉家に伝えられてきた洛中洛外図屏風です。2485人にも及ぶ人々が描かれているだけではなく、237件もの街路名や方位の文字注記が添えられており、その情報量は他を圧倒しています。初期の洛中洛外図屏風の中でもっとも有名だといわれているのも納得できます。

 資料によると、これは1565年に制作され、1574年に織田信長から上杉謙信へ源氏絵屏風とともに贈答されたといわれています。

こちら →
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/image/img2015set/byoubu2.gif

 会場に展示されていたのは現物ではなく、複製品でした。上杉本の各隻は159.6×362.2㎝という大きなもので、初期の作品の中ではもっとも迫力がありました。代々、上杉家に保存されてきましたが、平成元年に、上杉家16代当主・上杉隆憲氏から、上杉家文書、紙本著色厩図、太刀などとともに米沢市に寄贈されました。以後、米沢市上杉博物館に所蔵されており、平成7年には国宝に指定されました。上杉家に伝わる諸文書等とともに現在、上杉文華館で展示されています。

こちら →
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/rakuchyu_rakugai.htm

 米沢藩といえば、第9代目当主の上杉鷹山が有名で、「もっとも尊敬する日本の政治家」としてケネディやクリントンなど海外の政治家から高く評価されています。上杉神社の中には銅像が建てられていて、米沢市民から親しまれています。私はそこからほど近い米沢女子短期大学(社会情報学科)に1994年から7年間、勤務していました。ですから、上杉家関連の行事には参加したことがあります。

 こちら →http://uesugi.yonezawa-matsuri.jp/about/

 当時、名君といわれた鷹山公に興味がありました。危機に瀕していた藩政を立て直した手腕に興味を覚えたからでした。

 鷹山が藩主になったとき、米沢藩に深刻な財政難に陥っていました。そこで彼は、倹約・殖産奨励策を断行して藩財政を改善させ、藩校・興譲館を設立して人材育成に励んだのです。その結果、破綻寸前だった財政を立ち直らせることができました。経済を立て直すにはなによりもまず消費を抑え、殖産を奨励する必要がありました。一方、次代を担う人材を育成しておかなければ、藩の将来は望めません。そこで、藩校を設立し、教育重視の政策を行ったのです。このように鷹山公は時代を超え、国を超えて通用する政治哲学の持ち主でした。彼が奨励したウコギ(の垣根)、鯉の養殖はいま米沢名物になっています。

 私は米沢市に滞在した経験がありながら、鷹山公以外にあまり関心がありませんでした。そして、2001年3月に米沢女子短期大学を退職し、4月に長崎の大学に着任しました。伝国の杜・上杉博物館が開館したのが2001年9月29日でしたから、この洛中洛外図屏風の現物を見ていないのです。

■謙信に贈られた洛中洛外図
 洛中洛外図屏風・上杉本は、「永禄八年(1565年)に狩野永徳によって制作され、天正二年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ源氏絵屏風とともに贈答された」とされています。各種資料からそのような結論が引き出されたのですが、屏風絵に描かれた光景から制作年代等について疑義が出されたことがあったようです。いわゆる「今谷説」です。

 『謎解き 洛中洛外図』(黒田日出男著、岩波新書、1996年)によると、「今谷説」がでるとすぐに建築史家、美術史家などから批判が出たようです。黒田氏はそれらを丁寧に検証しています。さらに、上杉年譜等について独自に再検討をした結果、『(謙信公)御書集』から天正2年3月付けの重要な記述を発見しました。

 「同年三月、尾州織田信長、為使介佐々市経兵衛遣于越府、被贈屏風一双、画工狩野四郎貞信、入道永徳斎、永禄八年九月三日画之、被及書札」という文章を発見したのです。これによって、「信長が洛中洛外図一双を謙信に贈った」というこれまでの定説が確定されることになりました。疑義が出されたことによって検証作業が進み、逆に、確信が深められたのです。

 丁寧な検証作業を踏まえ、黒田氏は以下のような興味深い推論を展開しています。

 「上杉本洛中洛外図は、将軍足利義輝が盟友上杉謙信に贈るために、永禄七年(1564年)末か同八年初めに、若き狩野源四郎(永徳)に命じて制作させていたものである。しかし、義輝は、その制作途中の同八年五月十九日に松永らに急襲されて非業の死を遂げてしまった。永徳は屏風の制作を続行し、この洛中洛外図屏風を義輝の百箇日の当日ないしその二日後の九月三日に完成させたが、注文主のいなくなった屏風をおそらくは自分のところへ置きつづけたのだと思われる。そして、新たな京都の支配者(天下人)に織田信長がなりつつあるのを見定めたところで、信長に自己の画業を売り込む一環として、金碧濃彩のこの上杉本洛中洛外図をその数奇な運命とともに信長に披露したのであろう。(中略)永徳から上杉本を見せられ、本来の受け取り手が謙信であることを聞かされた信長は、義輝に代わって屏風を贈ることにより謙信の信頼感衛を維持しようと企図したのであった」(前掲、pp.199-200)

 黒田氏は永徳についてかなり踏み込んだ解釈を展開していますが、当時の政治情勢や絵師の立場を考えると、このような解釈は妥当でしょう。

 当時、戦国大名たちは覇権を求め、抗争を繰り返していました。幕府の権力の復活を目指していた足利義輝は、戦国大名たちとの関係を改善しようとし、抗争の調停を積極的に行っていたようです。やがてその政治手腕は戦国大名たちから認められるようになり、織田信長や上杉謙信はわざわざ京に出向き拝謁していたほどだといいます。

 織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦いが永禄三年(1560年)、勝利した信長は勢力を増しました。また、今川義元が討ち取られたことによって、北条氏や武田氏と対立する上杉謙信は勢いづき、関東諸侯の多くが謙信側に付くようになりました。勢力図が変わったのです。

 以上のような当時の政治状況を考えれば、黒田氏の推測は納得できます。

■左隻に見る義輝の願望
 国立歴史民俗博物館の小島道裕氏はカタログの中で、「誰が見たかった京都か」という観点から洛中洛外図屏風を考察しています。上杉本については「足利義輝が見たかった京都」という小見出しをつけ、「室町幕府の再興をめざし、上杉謙信を頼みとした足利義輝が、謙信に贈るために狩野永徳に制作させた、と考えられている」として上で、以下のように記しています。

「上杉本に描かれていた幕府は「花の御所」で、左隻の中央左寄りの所に大きく描かれているが、義輝が現実に住んでいたのは、新たに建設した「二条御所」であり、室町幕府本来の御所として「花の御所」を描かせたと思われる。そこに向かう行列は上杉謙信のものとされ、それが細川邸から出版していることは、管領が細川から謙信に代わることを意味していると思われる」

こちら →上杉本左隻
上杉本左隻。
クリックすると図が拡大します。

 大変、興味深い解説です。ただ残念なことに、会場では屏風の細部がよく見えず、確認することができませんでした。そこで、パソコンで見ることができる陶版の洛中洛外図を見ると、たしかに、左下に描かれた建物には「公方様・室町殿」と説明されています。そして、カーソルを上に移動にすると、「細川殿」と描かれた建物があります。

こちら →http://www.rakuchu-rakugai.jp/world/world.html
赤丸印をクリックすると説明文が表示されます。

 室町殿に向かう行列が上杉家のものだとすれば、小島氏が指摘するように、この部分は管領が細川氏綱から上杉謙信に代わることを示唆していたのかもしれません。

■戦国武将のさまざまな思い
管領とは足利幕府の重要な政務に携わる役職を指します。応仁の乱以後、室町幕府の管領は細川家がほぼ独占していました。1486年から1507年まで細川政元が管領を務め、以後も細川家がこの職を継承しています。1936年から1549年まで管領を務めた細川晴元は、江口の戦い(1549年)で三好長慶に敗れ、将軍足利義輝も京を離れざるをえませんでした。その後も三好勢力との戦いに勝つことができず、細川氏綱を管領にするという条件でようやく三好長慶と和睦し、京に戻ることができたのです。最後の管領はこの細川氏綱で、1552年に着任し永禄六年(1563年)12月20日で没するまで担当しました。

 一方、上杉家は代々、関東管領の役職を担ってきました。資料によると、上杉謙信は1561年から1578年まで関東管領を務めています。川中島の戦いで勝利した上杉謙信は勢いづいており、関東諸侯もなびいていました。将軍とはいえ、三好長慶の傀儡であった足利義輝にしてみれば、上杉謙信は喉から手が出るほど欲しい人材だったでしょう。

 当時の政治情勢を調べてみると、たしかに、屏風絵のこの部分には足利義輝の強い願望が表現されているように思えます。細川氏綱から上杉謙信への管領の交代を願う義輝の願望であり、そして、将軍の権威復活への願望でもあったと思われるのです。

 小島氏はさらに、「このような内容を描くために、上杉本は、「花の御所」と細川邸が共にある左隻をいう構図になった」と記しています。「花の御所」とは足利将軍家の邸宅の総称で、室町通りに正門が設けられていたので、室町殿と呼ばれることもあったようです。この屏風絵が政治的意図を込めて描かれていたことが示されています。

こちら →花の御所

 この部分に焦点を当てて、この屏風絵を鑑賞すると、上杉本はまさに、「足利義輝が見たかった」洛中洛外図屏風といえるでしょう。三好長慶の傀儡になっていた足利義輝にしてみれば、この屏風を上杉謙信に贈ることによって、その意志を伝え、ともに天下を統治していこうとしていたのではないかと考えられるのです。当時、義輝は戦国諸侯の調停を行って友好を計り、着々とそのための手を打っていました。ところが、1965年、三好長慶の養嗣子らに御所で急襲され、亡くなってしまいます。

 この屏風絵を制作したとされる狩野永徳は、義輝の遺志をよく知っていたはずです。ですから、狩野永徳を介して、織田信長から上杉謙信に贈られたという可能性は十分、考えられます。ただ、当時の上杉謙信の勢いを考えれば、織田信長も謙信を懐柔する必要に迫られていたのではないかと思われます。

 信長がこの屏風を謙信に贈ったとされるのが1974年です。実はその前年の1973年に武田信玄が病没し、謙信の勢いはますます強くなっていました。1972年に信長は謙信と同盟を結び、信長が人質を越後に送ったとされていますが、それだけでは不十分だったのでしょう。

 なぜ描かれたのか、誰によって発注され、誰に向けて制作されたのか、誰のためのものなのかといった観点からこの屏風絵を見ると、戦国武将たちのさまざまな思いが透けて見えてくるのです。

■瀬田勝哉氏の見解
 瀬田勝哉氏は『洛中洛外の群像』(平凡社、増補版、2009年)で、上杉本を詳細に読み解いています。文献資料に基づき、モチーフに込められた意味を論理的に解き明かしていくプロセスにはまさに上質のミステリーの醍醐味があります。とくに興味深く感じたのは「公方の構想」と題された章でした。

 ここでは先ほど紹介した「今谷説」を取り上げ、それに対する諸批判を丁寧に検証したうえで、矛盾を明らかにしています。そして、写実にこだわりすぎれば、作者の構想を見失い、絵のもつイメージを矮小化してしまいかねないと指摘するのです。

 瀬田氏は文献資料と照合しながら、さまざまなモチーフに政治の痕跡を見出していきます。それらを踏まえ、義輝と上杉本との関係について、以下のような解釈を記しています。

 「上杉本『洛中洛外図』という屏風絵の中に表現された政治的な秩序は、こうした義輝の意図し構想した秩序とよく合致している。三好邸の冠木門の絵一つにしても、将軍御成によって公方の政治秩序に組み込んだことを示す具体的な表徴であった。つまり義輝こそは、このようにして上杉本の政治世界を微妙かつ大胆に構想してゆける主体として最もふさわしい公方であり、人物だということができるのである」(前掲、p.160)

 さらに、謙信とこの屏風については以下のような解釈を記しています。

 「謙信にとってこの屏風は、「戦国大名の京都憧憬を満たすもの」などという、生ぬるい包括的な説明ですまされるようなものではなかった。彼ははるかに深くこの絵の構想を読み得たにちがいない。絵のうしろに公方義輝という人物を見ていたからである。(中略)これを手にしたのが義輝死後のことだとしたら、期待をかけられ上洛を促されながらも、ついにその期待に応えることができなかった公方義輝への痛恨の思いにとらわれたことであろう」(前掲、p.176)

 当時の政治状況と重ね合わせてこの屏風絵を見ると、幕府の権力および権威の復活を目指し、あるべき政治秩序を構想していた将軍足利義輝の願望が切に表現されているといえます。

■なぜ屏風に描かれたのか
 洛中洛外図はなぜ屏風に描かれたのでしょうか。伝統のある絵巻物でもよかったはずです。むしろ絵巻物の方が制限なく自由に描けたのではないかと思うのですが、なぜ屏風だったのでしょうか。

 屏風絵という媒体に固有のフォーマットで、注文主の政治的意向を反映した作品が制作されたのは戦国期でした。興味深いことに、織田信長や豊臣秀吉など強力な戦国大名が政治の表舞台に登場してくると、政治的意向というよりは政治権力を表象する絵柄になっていきます。

 これに関し、高松良幸氏は「永禄三年の車争い図屏風」(『静岡大学情報学研究』20、pp.72-51)の中で、以下のように興味深い指摘をしています。

 「少なくとも絵を観る者に、そこに描かれている内容、注文主の様々な意図などを理解させる場合、絵巻物は、披見時、少人数にのみそれが可能であるのに対し、屏風絵は常時、多人数でそれが可能になるのである。戦国期の厳しい世相の中では、絵巻物の社寺への奉納などによる神仏の加護よりも、現実に絵を観る者に注文主が発するメッセージを看取させる方が重要だと考えられたのではなかろうか。そしてそれに相応しい画面形式として屏風絵が採用されたのではなかろうか」(p.60 )

 これを読むと、戦国期に政治的意図を反映させた屏風絵が制作されたという事実の背後に、同じコンテンツをより多くのヒトに見てもらいたいという発注者の政治的意図が潜んでいたことがうかがえます。まさに美術品の政治利用の始まりといえるでしょう。

 高松氏の指摘には、表現したい内容(コンテンツ)を、どのような媒体(メディア)に、どのような様式(フォーマット)で載せるのかという根本的な問題が含まれていて、大変興味深いものがあります。

 トロント大学でメディア論を担当していたマクルーハンは、「メディアはメッセージである」という有名なフレーズを残していますが、彼のメディア論にならっていえば、戦国期、屏風というメディアが政治的メッセージを発信できる道具として着目されたのです。

 たとえば、織田信長は狩野永徳に描かせた安土城の屏風を天正遣欧使節に託し、ローマ教皇に献納したといわれています。残念ながら、この屏風は現存していません。また、豊臣秀吉は「吉野花見図屏風」を描かせ、権勢を誇示しました。秀吉が公家衆や諸大名を引き連れて花見をする光景が華やかに描かれています。

 このように織田信長や豊臣秀吉など天下統一を目指した戦国武将はさらに積極的に、美術品でありながら政治的権威を示唆できる道具として屏風を活用しているのです。

 群雄が割拠した時代に初期の洛中洛外図屏風が制作され、戦国時代を生き抜くための羅針盤として機能していたとするなら、天下統一が間近になると、強力な大名が内外に向けてその威信を誇示し拡散する道具として活用されるようになったのです。
 
 屏風は絵巻物とは違って、一度により多くのヒトが見ることのできる媒体だったからでしょう。ヒトを操作する必要性が生じた戦国期だったからこそ、屏風の広報機能が見出されたといえます。洛中洛外図屏風からはさまざまに想像力が触発され、まだまだ興味は尽きることがありません。(2015/5/10 香取淳子)

洛中洛外図屏風:戦国武将が掘り起こした美術表現の世界

■「京を描くー洛中洛外図の時代―」展
 4月12日、久しぶりに京都に行って、「京を描くー洛中洛外図の時代―」展(2015年3月1日~4月12日)を見てきました。会場は京都文化博物館で、中京区三条高倉にあります。三条高倉といえば京都の中心市街です。そこからほど近い御池高倉に、かつて足利尊氏の邸宅がありました。

当時、武家は京内に邸宅を建てないという慣習があったようです。ところが、足利尊氏は北条氏を打ち破った功績によって後醍醐天皇から認められ、武家でありながら、京内に居を構えることができたのです。跡地には石標が残されています。日曜日だったせいか、周辺は観光客や買い物客で賑わっていました。この辺りは昔も今も京の中心、ヒトの集まる場所であることに変わりはないようです。

この展覧会では国立歴史民俗博物館所蔵のコレクションを中心に、63点の洛中洛外図屏風、関連資料として4点の参考図版が展示されていました。チラシの表面に使われていたのが歴博乙本(屏風六曲一双 紙本金地着色、国立歴史民俗博物館所蔵)の洛中洛外図屏風でした。

こちら →特別展
図をクリックすると拡大されます。

この作品は、歴博甲本(屏風六曲一双 紙本着色、国立歴史民俗博物館所蔵)、東博模本(屏風絵の写し十一幅 紙本淡彩、東京国立博物館所蔵)、上杉本(屏風六曲一双 紙本金地着色、米沢市上杉博物館所蔵)と同様、室町時代後期に描かれた洛中洛外図屏風の一つで、狩野派の画家によって描かれたといわれています。以上の4点が初期の洛中洛外図屏風で、戦国時代の諸相が捉えられているといわれています。

それでは、洛中洛外図屏風とはいったいどういう屏風なのでしょうか。

■初期の洛中洛外図屏風
 洛中洛外図屏風を見るのは今回が初めてです。よくわからないことも多いので、各種資料を参考にしながら、鑑賞することにしました。まず、洛中洛外図とはどういうものなのか、京都市の案内を見てみることにしましょう。
 
こちら →https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/pdffile/toshi17.pdf

 この案内にあるように、「洛中洛外図屏風」は京都の市街と郊外を鳥瞰し、そこから神社仏閣、内裏や公家の御殿、町屋や農家を描くことによって、人々の生活や風俗などを表したものです。

多くは六つ折れ(六曲)の屏風二つがセットになっていて、一双と呼ばれています。一双の屏風の片方を一隻と呼び、右側を右隻、左側を左隻といいます。滋賀県立美術館によると、六曲一双の屏風は以下のような作りになっています。右隻と左隻で違う画面を描き、対の関係になっているものが一般によく見られるようです。

こちら →http://f.hatena.ne.jp/shiga-kinbi/20110303164018

洛中洛外図屏風の場合、右隻に京都の東側、左隻に京都の西側が描かれました。
Wikipediaによると、初期の洛中洛外図は、「右隻に内裏を中心にした下京の町なみや、鴨川、祇園神社、東山方面の名所が描かれ、左隻には公方御所をはじめとする武家屋敷群や、船岡山、北野天満宮などの名所が描かれている。また、初期洛中洛外図屏風を向かって見ると、右隻では、上下が東西、左右が北南となる。一方左隻では、上下が西東、左右が南北となる」とされています。
どうやら、これが一つの形式となっていたようです。さらに、「右隻に春夏、左隻に秋冬の風物や行事が描かれている」とも記されています。

こうしてみると、初期の洛中洛外図屏風には一つの形式があり、その形式の中で絵師たちが京都の四季、神社仏閣、名所や御所、人々の生活や風俗、地形を描いていたことがわかります。洛外図屏風はいってみれば、当時の総合地図であり、図鑑であり、生活事典でもあったのです。

■なぜ作られたのか 
洛中洛外図はなぜ作られたのでしょうか。
洛中洛外図屏風が出現した経緯について、カタログでは以下のように説明されています。

「応仁・文明の大乱が収束し、人々が京都再建に勤しんでいた十六世紀初頭の永正三年(1506年)十二月二十二日、越前の戦国武将、朝倉貞景の所望で「一双に京中を描く」屏風が作られたとの記録が現れる(『実隆公記』)。これが洛中洛外図に関する現存最古の記録である。幕府権力が衰微し、有力者が抗争を繰り広げたこの時期、京都を総合的に把握し絵に表そうとする最初の試みが戦国武将の下でなされたことは、この主題の生まれ持った性格を考える上で大変意義深い」

たしかに、戦後の混乱期に「京都を総合的に把握し絵に表そうとする」人物がいたことには驚かされます。しかも、それが戦国武将だったのです。一般に武士は文化知識層ではないと考えられています。それが、応仁の乱以降、戦国武士が京都に滞在するようになった結果、文芸に関わり、その保存や興隆にも貢献するようになったとされています。戦国武士と文芸に関する著書の多い米原正義氏によると、越前朝倉家はそのような文芸をたしなむ戦国武将の一人に数えられるといいます。

とりあえず、Wikipediaを見てみると、「甘露寺中納言来る、越前朝倉屏風を新調す、一双に京中を画く、土佐刑部大輔(光信)新図、尤も珍重の物なり、一見興有り」と、出典(『実隆公記』)の該当箇所が示されていました。

越前朝倉家が発注して絵師(土佐光信)に描かせた屏風を、実隆は甘露寺中納言から見せられたようです。それを見た実隆はとても珍しく貴重な屏風だと思い、興味をおぼえたと書いているのです。

屏風は元来、源氏物語絵巻のような故事、人物、事物、風景などをモチーフに描かれることが多かったようです。ですから、京都の地理や都市構造をモチーフにした屏風などそれまで見たこともなかったのでしょう、三条西実隆は意表を突かれ、大きな関心を寄せています。当時、第一級の文化人とされた彼がわざわざ「尤も珍重の物なり」と日記に書いたのです。京都を総合的に把握し、それを絵画の形式で表現したこの屏風絵はそれほど新奇で画期的なものでした。

このモチーフはやがて戦国武将の間で、大きな潜在需要を掘り起こしていきます。ですから、その後、幕末までの約350年間、洛中洛外図は描かれ続けたのです。現在、百数十点の存在が確認されているそうです。

■戦国武将による発注
注目すべきは、絵師にそのようなモチーフの屏風絵を依頼した越前朝倉家でしょう。越前朝倉家は南北朝時代に但馬朝倉家から分かれて越前に移り、後に戦国大名になりました。そして、この屏風を絵師に発注したのは9代目の朝倉貞景だといわれています(Wikipedia)。

『日本人名大辞典』によると、朝倉貞景(1473-1512)は、「越前の守護。一族の内紛を抑え、さらに加賀一向一揆の侵攻を撃退して朝倉家の越前支配を確立した」と記されています。優れた戦略家で、しかも統治能力にも長けていたようです。また、『朝日日本歴史人物事典』によると、以上の内容に加え、「『宣胤卿記』は、その画才が天皇の耳にも聞こえていたと伝えている」と記されています。朝倉貞景に画才があったというのです。画才のある武将が屏風絵を発注したというのも、また大変、興味深いことです。

この『宣胤卿記』は公家の中御門宣胤が綴った日記で、執筆期間は1480年から1522年に亘っています。戦国時代の公家の生活についての情報が豊富だといわれています。この日記からは、朝倉貞景が武将でありながら画才があると周囲に認識されており、天皇をはじめ公家たちから一目置かれていたことが示唆されているといえるでしょう。

戦国武将であった朝倉貞景はおそらく、花鳥風月を愛でるよりは統治や攻略に役立つ情報を好んだのでしょう。ですから、もともと画才のあった彼は、京の都にまつわるさまざまなモチーフをどのように取り上げ、どのように配置すべきかについても絵師に指示していた可能性があります。

そう考えると、納得がいきます。京都を総合的に把握し屏風絵を描くよう依頼されても、なんの指示もなければ、絵師は戸惑うだけで、絵筆を執ることさえ叶わなかったでしょう。これまで目にしたこともないモチーフです。描くよう命じられたとしても、絵師にしてみれば、ただ困惑するだけだったでしょう。それを一双の屏風として仕上げたのですから、絵師になんらかの助言があったと考える方が自然です。つまり、モチーフや構図のアイデアは発注者の朝倉貞景が提供し、絵師はそれを聞いて屏風絵を描く、という分業が考えられるのです。

残念ながら、この屏風は現存していません。たまたまこの屏風を見た三条西実隆が日記に発注者と絵師の名前を記録していました。1506年、16世紀初頭のことです。そして、当代一流の文化人であった実隆の感想から、このモチーフの斬新さが明らかになったのです。一方、同じく公家であった中御門宣胤の日記から、武将であった朝倉貞景に絵心があったこともわかりました。

こうしてみると、発端となった洛中洛外図は、公家とも交流のあった絵心のある戦国武将・朝倉貞景のアイデアから生み出されたといえそうです。詳細な地理、建物の配置や構造、人々の暮らし、四季折々の風俗、文化など、京都の総合的な情報を凝縮して一望できるのが、洛中洛外図屏風です。断片的に京都の佇まいを捉えた屏風はあっても、総合的に捉える試みはそれまでありませんでした。まさに戦国武将ならではの発想で、新しい美術表現の地平を切り開いたのです。

■地理情報、生活情報の宝庫
 さきほど紹介した京都市の案内によると、初期の作品は室町後期の応仁・文明の乱後の復興期の諸相が描かれていたようです。この乱で京都の町は壊滅状態になり、その後の復興過程で市街地が上京と下京に分断されました。この二つの市街地は南北に通ずる中央の道路だけでつながっており、その道路が室町通りだったと考えられています。初期の洛中洛外図はこのような都の状況を反映するかのように、一隻を上京、もう一隻を下京中心に描かれていたのです。

 この時期はおそらく、京都を総合的に把握する情報が求められていたのでしょう。とくにその必要性を感じていたのが都の統治を目指していた戦国武将だったと思われます。彼らは人々の生活、建物の配置、道路状況、等々、さまざまな情報を欲したと思いますが、もっとも手に入れたかったのは、京の都の地理情報だったと考えられます。

現存する最古の洛中洛外図屏風といわれる「歴博甲本」は、1520年代から30年代にかけて制作されたと考えられていますが、京都の地理が大変、詳しく描かれています。たとえば、歴博甲本の左隻はこのように描かれていました。

こちら →34_eCf301.ai
図をクリックすると拡大されます。

 これを見ると、まさにgoogle mapも顔負けしそうなほどの立体地図です。主要な道路、神社仏閣、公家などの邸宅の位置が詳細に描かれています。統治のための戦略を練るには不可欠の情報であり、計画立案のための恰好の資料になったことでしょう。この図の文字はわかりやすく活字に置き換えられていますが、実際の文字は草体仮名で表示されています。

地理情報ばかりではありません。四季折々の景色や祭事が活写されており、総勢1426人の生活シーンがきめ細かく描かれています。たとえば、国立歴史民俗博物館は、「歴博甲本」で描かれた人物すべてをデータベース化しています。興味があれば、それぞれの人物像を一覧することもできますし、属性で検索することもできます。

こちら →
http://www.rekihaku.ac.jp/rakuchu-rakugai/DB/kohon_research/kohon_people_DB.php

 公家であれ、武士であれ、町衆であれ、当時の人々がどのように暮らしていたか、これを見ると、一目でわかります。絵ですから、人々がどこで、どのような服装で、何をしていたのかが具体的に理解できるのです。当時の社会や生活、文化を把握するには第一級の資料といえるでしょう。

初期の洛中洛外図屏風としては、この歴博甲本以外に、東博模本、上杉本、歴博乙本の4点が現存します。いずれも戦国時代の様相が丁寧に描かれており、美術作品としてはもちろん、歴史、生活文化、社会、政治を把握する資料としても大きな価値があります。屏風絵にどのような意味が込められていたのか、興味は尽きることがありません。次回は上杉本を中心に見ていくことにしましょう。(2015/4/27 香取淳子)